はてなキーワード:社会とは
何をどう説明したらいいのかわからないけど、妹とはそれまで仲は良かった。
ただ、妹は10代前半から数年間引きこもりで家庭内暴力とかもひどくて、おまけに妹は平均より身長が10cm以上デカくて太くて力も強いのでその辺の痩せっぽっちな成人男性よりも怖かった。
そんな過去もあるので、妹とは昔からずっと順調に仲良かったわけではない。なんなら、妹はいつも死んでやるとか殺してやるとか叫びながら真夜中に刃物出してきてたので「そんなに生きるの辛いならとっととしねばいいのに」とすら思ってた。この頃の家族の写真見返すと、親も私もみんな死んだ顔してる。他にもいろいろ過酷なことはあったけど、私は常々「妹さえいなければうちはもうちょっとうちの家はマシだったのに」と思ってた。
でも、それでもいっときは本当に仲良しだった。彼女が引きこもりを脱却して学校に通い直した頃から少しずつ仲良しになっていった。私は学校を卒業して仕事に就いた妹を素直にすごいと思ってたし、「もうあんな風にはならないだろう。大丈夫だ」と安心した。いつのまにか割となんでも報告しあう仲良し姉妹になっていた。悩み事や不都合なことがあればすぐにラインで相談し、互いの好きなものを報告しあって、かなり親密だったと思う。母と3人で旅行に行った時も楽しかった。
ただ、なんだかんだ妹は不安定ではあり、社会のストレスに耐えきれなくなると定期的に暴れ、暴言を吐き、依存してる母に暴力を振るって夜な夜な鬼LINEを続けるなど手がつけられないことも多かった。高齢化と共に小さく病気がちになっていく親に対して、妹は引きこもり時代の自分をいつまでも内に持っていた。
それでも、なんだかんだ仕事頑張ってるから…引きこもってた時よりは成長したから…と親と話しながら見守ってた。が、妹が30代に入ってしまったらもうダメだった。私の中で「年下だから」が通用しない年齢になってしまったのだと思う。
あるとき、妹がまた暴れて「あ、これ一生続くのか」と心が折れてしまった瞬間があった。完全に口を聞かなくなったのはそのときからだ。
妹は何度も謝ってきたけど、そのごめんは「私はこの先もまた延々と同じことを繰り返すけど変わらず許してね」にしか聞こえず、私はどうしてもどうしても飲み込めなかった。
以降、私は妹の存在を無視している。妹は実家に住んでるので帰省時には必ずいる。親とは普通に妹の話をするけど、本人から話しかけられても基本何も返さないし、こちらからもほとんど話しかけもしない。クラスで1人だけ無視するような感じだ。
親は最初、許してやりなよと言ってきたけどどうしても聞けなかった。「私が妹に発行してたごめんなさいチケットはもう売り切れてしまった。再発行は未定で、二度と出てこないかもしれない」などと話していたら、そのうち何も言わなくなった。でも、母は今も仲直りをしてくれたらいいなと願ってるだろう。
老後は姉妹と母とでいろいろ旅行しようねと話してたけど、「それはもう叶わないんだろうね」と母にさみしそうに言われたとき、それは親不孝だからまた話せるようにならなきゃなと本当に思った。でも、どうしてもできなかった。最初はすぐにまた口をきくだろうと私も思ってたけど、いつのまにか数年が経った。
声をかけようとは何度も思った。もう一度仲良くなって親と旅行もできれば母は喜ぶ。父だってなんでもいいとは言いつつ、そりゃ子どもが仲良しな方がよいだろう。
私は母が好きなので、母の喜ぶことをしてあげたい。私と母の2人で美味しい料理を食べに行っても、旅行に行っても、母は私が妹と仲良くなることを望むだろう。妹も私と仲良くできるならしたいはずだ。でも、私だけがそれをできない。
頑張って話しかけようと考えると、妹のキレ散らかしてる声が聞こえてくる。またあれをやるのが無理すぎる。今はもう、話さない方がケンカにもならないのでむしろこっちの方が平和ではないかとすら思う。
私たち姉妹は2人とも子どもがいないので将来のことを考えると関係を良好にしておいた方が何かと利便はあると思う。仲良くできるならしたいと思う。
でも、できない。母に対しての罪悪感はずっとある。私の態度はいじめと大差ないことも理解はしている。
でも、どうしてもできない。
できないのだ。
本レポートは、日本の放送における政治的中立性という長年の課題に焦点を当て、その具体的な実態、資金源と権力の関係性、そしてデジタル時代の情報環境の変化がもたらす影響について、多角的に考察したものである。特に、電波が公共の財産であるという日本の特殊な放送構造と、それに起因する固有の課題について深く掘り下げるとともに、諸外国の事例やブロックチェーンの概念を交え、情報信頼性確保に向けた論点を提示する。
日本の放送法第4条は放送事業者に「政治的に公平であること」を義務付けている。この「公平」の解釈は長年議論の的となっており、現状では量的公平(ある候補者に報じた時間を他の候補者にも同程度割く手法)が広く採用されている。
「公平」の多様な解釈
日本の放送は、受信料で運営されるNHK(日本放送協会)と、広告料で運営される民間放送に大別され、それぞれ異なる構造的課題を抱えている。
民間放送は広告収入に依存するため、以下のような形で政治的中立性が脅かされる懸念がある。
NHKは受信料で運営されるため広告主からの直接の影響を受けない一方で、政治との根深い関係性が指摘される。
ガバナンスの強化や透明性の確保は、国民の監視が伴って初めて実効性を発揮する。日本の政治資金問題が示すように、監視の目がなければ問題は放置されうる。
諸外国における取り組み
他国では、政治資金の透明性確保やメディアの独立性確保のために様々な制度的アプローチが試みられている。
ブロックチェーンの概念は、情報の透明性と改ざん困難性という点で、政治資金やメディア報道における情報信頼性確保の可能性を秘めている。
最大の課題は、「フェイクを流すことで利益を得ようとするモチベーション」が、「正しい情報環境を守ろうとするモチベーション」よりも往々にして高いという点である。センセーショナルなフェイクニュースは速く拡散する(ベロシティが高い)のに対し、事実確認や訂正は時間と労力がかかる(ベロシティが低い)。このモチベーションの非対称性が、健全な情報環境の維持を困難にしている。
日本の放送における政治的中立性確保は、放送法の解釈、資金源、そして政治との構造的な関係性という複数のレイヤーに課題を抱えている。諸外国の取り組みやブロックチェーンのような技術的解決策は参考になるものの、それらはあくまでツールに過ぎない。
最終的に、健全な情報環境と民主主義を維持するためには、国民一人ひとりのメディアリテラシーの向上、そして政治やメディアに対して不透明な部分を批判的に検証し、声を上げていく「不断の努力による監視」が不可欠である。技術と人間の努力が組み合わさって初めて、情報の信頼性が担保される社会が実現されるだろう。
「リベラル」「リベラリズム」という言葉は、時代や場所、政治文脈によって意味が微妙に変化しており、一言で定義するのが難しい用語のひとつです。
以下では、歴史的・思想的な流れに沿って、わかりやすく整理して説明します。
「リベラル(liberal)」の語源は、ラテン語の"liber"=自由。
よって、「リベラリズム(liberalism)」は本来、「自由を重んじる思想」という意味を持ちます。
「自由」とは、国家権力や他人から干渉されないこと(消極的自由)。
📝この時代のリベラルは、**「政府の干渉から自由に」**という意味合いが強く、
現代の「リベラル=福祉国家・左派」的イメージとは異なります。
自由市場の格差や貧困の放置が、かえって自由を奪うことを認識。
「真の自由」のためには、教育、最低限の生活保障、労働の保護など国家による積極的支援が必要。
公平な社会制度の構築、平等な機会の確保、多様性の尊重などが重視される。
市場の自由も大切だが、それが基本的な正義や平等を壊すなら調整が必要。
特にロールズは「公正としての正義(justiceas fairness)」を掲げ、弱者にも配慮した自由を設計。
📝この現代的リベラルが、アメリカで「リベラル派=民主党系」とされる思想的背景です。
地域・文脈 | 「リベラル」の意味 |
🇺🇸アメリカ | 左派的・社会民主主義寄り(福祉、平等、多様性、人権) |
🇪🇺ヨーロッパ | 経済自由主義者(自由市場・規制緩和)を指す場合も多い(例:独自の「自由主義党」) |
🇯🇵日本 | 漠然と「リベラル=反権力・人権重視・進歩的」なニュアンスが多い |
📖思想史的用語 | 自由主義全般を指す(古典的自由主義から現代リベラリズムまでを含む) |
価値観 | 内容 |
自由 | 言論・表現・信教・身体・経済活動など、国家や他人からの不当な干渉を排す |
個人の尊重 | 集団ではなく、あくまで個人を基本単位とし、個人の権利と選択を重視 |
平等 | 法の下の平等、機会の平等を重視(結果の平等は立場によって賛否あり) |
多様性 | 異なる価値観や生き方の共存を肯定、マイノリティの権利を擁護 |
寛容 | 他者の意見・思想・信仰への寛容な態度を尊重 |
合理主義 | 啓蒙主義の流れをくむ。伝統や宗教よりも理性・対話・説明可能性を重視 |
法の支配 | 国家も市民も法の下に平等であること、恣意的な権力を抑制 |
思想 | 中心価値 | 経済政策 | 社会観 |
リベラリズム | 個人の自由、寛容、法の支配 | 市場+一定の調整 | 多様性の共存 |
保守主義 | 秩序、伝統、家族、道徳 | 慎重な改革、自己責任 | 伝統的価値の維持 |
社会主義 | 平等、労働者の権利、連帯 | 公共部門拡大、再分配 | 階級的な構造への疑念、連帯感 |
歴史的に意味が変化している(古典的自由主義⇔現代リベラリズム)。
地域によって用語の意味が逆転している(特にアメリカとヨーロッパ)。
日本では、「リベラル=なんとなく人権派・反権力・優しそうな人」というぼんやりしたイメージだけが流通し、思想的理解が浅いまま政治用語として消費されている。
リベラリズムとは、「個人の自由と尊厳を最大限に尊重し、そのために社会制度や国家の介入をどう調整するかを考える思想体系」である。
現代においては、自由だけでなく平等・多様性・寛容・人権を含んだ、より総合的な価値観となっています。
ただし、すべてのリベラリズムが同じではなく、「どの自由を重視するか」によって保守自由主義・リベラル自由主義・社会自由主義などに分岐しています。
必要であれば、例えば「ロールズ的リベラル」と「ハイエク的自由主義」の対比など、より深掘りもできます。
ChatGPT に質問する
今日はですね、「モンテスキュー」と「メロリンQ」っていう、まったく違う2人を比較してくれって話なんですけど──
…やるしかないですよね、もうこれは。
🧠モンテスキューとは?
もうね、「三権分立」ってやつを唱えた、いわば政治のルールブック作ったレジェンドですよ。
一つに集中させると腐る!暴走する!
だから**分けろ!監視し合え!それが民主主義だ!**って言った人。
簡単に言えば、
🤡一方で、メロリンQとは?
これはですね、
かつて山本太郎が「バラエティ番組」でやってたギャグキャラです!
──何をしてたのか自分でも覚えてないくらい、黒歴史です(笑)
今は「誰も切り捨てない社会」を目指してるわけです。
📣つまり!
それは──
メロリンQ改め山本太郎は「既得権益」や「自己責任論」に対して。
この国の空気を変えるために声を上げてるんです。
――そんな違いと共通点、覚えておいてください!
ありがとうございました!
ジャン=ジャック・ルソーとハンナ・アーレントは、どちらも政治的自由や公共性を重視した思想家ですが、そのアプローチ・人間観・政治観は根本的に異なります。
観点 | ルソー(Rousseau) | アーレント(Arendt) |
時代 | 18世紀フランス啓蒙時代 | 20世紀ドイツ出身(ナチス亡命→アメリカ) |
主著 | 『社会契約論』『エミール』など | 『全体主義の起源』『人間の条件』『革命について』など |
中心概念 | 一般意志、道徳的自由、人民主権 | 公共性、活動(アクション)、多様性、始まり(natality) |
政治の理想 | 人々が一般意志に従って自己を律する共和的社会 | 多様な人間が対話と行為を通じて共に生きる開かれた空間 |
自由の定義 | 一般意志に服従することで得られる**道徳的な自由** | 他者と共に公共空間で行動し発言すること=**現実的・経験的自由** |
国家と政治 | 道徳と共同体の統一=共同体の意思に従うべき | 国家や制度よりも**人間の行為・発言の力**を重視 |
全体主義との関係 | 一般意志の名による統一が独裁を正当化しうる(批判される) | 全体主義を徹底批判。「人間の多様性の破壊」として定義 |
→ 「真の自由とは、自己の理性や一般意志に従うこと」という内面的・道徳的自由を重視。
→ 「自由になるために強制されることもあり得る」という逆説(社会契約論)。
→ 「自由とは、他者との間で言葉を交わし、行為することによって現れる現象」。
→抽象的理念よりも**経験的・具体的な自由(publicfreedom)**を大事にする。
📝補足:「ルソーの自由」は自己律的であるがゆえに統一・均質を志向しがちなのに対し、アーレントの自由は多様性と差異を前提にしている。
→政治は契約ではなく、「共に現れること(appearance)」から自然発生的に生まれる。
→ 多様な人間が共に語り、共に生きることで政治は「現れる」のであって、人工的に設計できるものではない。
📝補足:アーレントにとって政治は生きた経験空間であり、ルソーにとってはある意味で理念に基づく制度空間です。
ルソー:公共性とは、個人の利己心を超えて「一般意志」に参加すること。
アーレント:公共性とは、異なる人々が意見をぶつけ合い、差異を現す場。
→ **多様性、対話、始まり(natality)**が重要。
「一般意志」は公共善の追求だが、それが国家によって強制的に代弁されたとき、反対者は『人民の敵』とされうる。
→フランス革命の恐怖政治(ロベスピエール)でルソー思想が引用されたのは象徴的。
アーレント:『全体主義の起源』でナチス・スターリニズムを徹底批判。
「人間の多様性」「行為の自由」が破壊されたとき、全体主義が生まれると喝破。
アーレントはルソーを名指しで批判してはいませんが、「近代政治思想が人間の行為の可能性を無視してきた」と繰り返し述べており、
その代表的対象にはルソーやマルクス、プラトンなどが含まれていると考えられます。
観点 | ルソー | アーレント |
理念の方向性 | 統合・公共善・一般意志・規範 | 差異・行為・語り・多様性 |
自由の源泉 | 自己律(morality)と一般意志への服従 | 公共的言論空間における出現・行為(appearance) |
政治の目的 | 社会の道徳的改善と統一 | 人間の多様性の維持と創造的な共生 |
危険性 | 一般意志の名のもとに個人の異議が抑圧されうる | 対話と多様性の欠如が全体主義をもたらす |
ルソーって誰よ?
主著『社会契約論』『人間不平等起源論』『エミール』などを通じて、政治哲学・教育論・近代個人主義に多大な影響を与えた人物です。
ルソーは、ホッブズやロックと同様に「自然状態(State ofNature)」を仮定して政治の正当性を論じました。
ただし彼は、「自然状態の人間」は善良かつ自由であるとし、文明によって人間は腐敗し、不平等に陥ったと批判。
個人の利己的な意思(特殊意志)ではなく、社会全体としての共通善・公益を目指す「一般意志」が政治の正統性の源泉とされる。
人々は自らの意思で一般意志に服することで、真の自由(moralfreedom)を得る。
ルソーの「自由」とは、単なる好き勝手ではなく、**公共的な意志に基づいて自己を律すること(自己支配)**を意味する。
よって、「法に服すことは自由である」という逆説的なロジックが登場する。
革命指導者(特にジャコバン派やロベスピエール)は、「一般意志」「人民主権」を掲げて王政を打倒し、共和政を樹立。
ただし、「一般意志」の名のもとに反対者を粛清するなど、ルソー的理想が暴力的に運用されたという批判も多い(→恐怖政治)。
ルソーの「所有権の起源への懐疑」や「格差批判」は、後のマルクス主義や社会主義思想の先駆けと見なされることがある。
『人間不平等起源論』では「最初に土地を囲って『これは私のものだ』と言った者こそ、人類に不幸をもたらした」と批判。
20世紀に入って、一部の思想家(ハイエク、バーリン、アーレントなど)が、「一般意志」が個人の自由を抑圧する口実になりうると批判。
特にアイザイア・バーリンは「積極的自由(ルソー型)」が全体主義を正当化する危険があると警告した。
「人々の“真の自由”のために強制する」という論理が、独裁的な国家権力に転化しやすいという問題。
一方で『エミール』は近代教育論の古典。子どもの内発的な成長を尊重する考え方は、今日のリベラル教育思想に大きな影響。
「自由」「自律性」「良心に基づく判断」を重視した近代的個人主義の土台を築いた人物でもある。
観点 | 肯定的評価 | 批判的評価 |
政治思想 | 近代民主主義の原型、人民主権、法の支配 | 一般意志による個人抑圧、全体主義への傾斜 |
社会理論 | 平等・連帯・公共性の重視 | 現実社会への適用が困難、理想主義的 |
教育・倫理 | 自然主義的教育、良心の発達の重視 | 極端な理想化(『エミール』のような教育は現実離れ) |
歴史的影響 | フランス革命・市民革命・社会契約論の発展 | 恐怖政治・独裁への理論的温床(ジャコバン派など) |
ルソーは、「自由」「平等」「人民主権」といった近代の中核的価値観を支える思想家であると同時に、
それらが暴走した場合の危険性を内包する、二面性を持つ思想の源流でもあります。
したがって、「ルソー=全体主義の祖」という単純な決めつけは不正確であり、
極めつけは「ルソーはナチス・ソ連・北朝鮮のご先祖様」という陰謀論系・文化大革命モード。
こういう話を真顔で始めたら、だいたい後ろに『月刊Will』が控えてます。
「ルソー=全体主義の起源」と言い切ってしまう荒技は、もはや“思想界のテコンV”。
これってどういう人、どういう界隈が主張してるの?
代表的な論者:ハンナ・アーレント(学術的)、斎藤孝(一般向け)、中西輝政、渡部昇一、藤井厳喜あたりの保守言論界
彼らはしばしばルソーやヘーゲル、マルクスといった「大陸哲学」出身の思想家を、「個人より国家・社会を重視する危険思想の源泉」として糾弾します。
特にルソーの「一般意志」が「全体主義国家の思想的温床だ」と解釈されるのが定番パターン。
👉 ただし、アーレントなど学術的立場からの批判と、日本の論壇保守が言う「ナチスもルソーの弟子」みたいな因果直結説は全くレベルが違います。
この界隈では、リベラル思想や福祉国家思想、ジェンダー平等、ポリコレなどを「全体主義的洗脳」とレッテル貼りし、「元祖はルソー」と話を持っていくパターンが散見されます。
ルソー「個人の自由のためには一般意志に服せよ」→全体の意志>個人の自由=社会主義的発想→ソ連・ナチス・北朝鮮もそう考えてる→つまりリベラルは全体主義!
哲学や政治思想を「自分の敵を殴る道具」として使う人たちが、この論法を愛好します。
「リベラルは実は危険」「ルソーは偽善者」「近代思想の闇」みたいな語り口で、学生や読者にスリルを与える手法。
TwitterやYouTubeのコメント欄で「ルソーって国家に従えって言ったヤバいやつだろ?」「ナチスと同じ思想だぞ」などと語る人々。
「自由」を「個人が勝手にできること」とだけ思ってる人たちは、ルソーの「一般意志」などが気に食わず、すぐ「全体主義!」と叫びます。
学術的にもルソー思想が全体主義に与えた影響を論じることは全くのトンデモではありません。
しかし問題は、「だからルソーはナチス」「リベラルは北朝鮮の親戚」といった感情的で単線的な論理飛躍です。
それはちょうど「マルクス=共産主義=ポル・ポト=大虐殺=だから生活保護も悪」くらいの暴論。
知的なようでいて、雑に煮込んだ「思想エンタメの出汁」なんですよね。
へー、そーなのかー
女の社会進出を許したせいで人類もろとも滅ぶとかバカすぎでしょ
女をまたイエに閉じ込めるだけで持続できるなら別にそれでいいじゃん
それが嫌なら女さんらで代替案を示してもろて
多分彼ら彼女らは、最貧ではないにしても結構困窮したり、人生に閉塞感を感じてるんだよ
決して不真面目なわけでもなく、ちゃんと真面目に働いてても年収はそこまで上がらなかったりして
残された道は地道にスキルアップして生活をよくしていくことだけど、近年の労働に求められる質量はどんどん上がっていってて
ついていくだけで精一杯って人がほとんどなんだよ、だから打ちのめされてて気力もあまり湧いてこない
閉じていく人生を誰か変えてくれないか っていう悲鳴なんだって
強い言葉で断定的に話す人にカリスマを感じてしまって、この人なら何とかしてくれるんじゃないかって
社会は少しずつ地道にしか変わっていかない なんてのが苦しくて耐えられないんだよ
それをお前らは知性が低いだの、カルトだの、まともじゃない だのひたすら強い言葉で侮辱するだろう
彼らを馬鹿にする既得権益側の人や、リベラル左派の人に言いたいのはさ、彼ら彼女らはおそらくお前らより裕福じゃないのよ
恵まれた家庭に生まれたわけでもない、特に秀でた才能があるわけでもない
彼ら彼女らは悪人じゃないのよ、疲れ切ってて希望が持てないだけで
例えば年収300~400万あたりの人って真面目に働いてるのに生活は全然よくならなくて、でも社会から救済される対象でもなくて苦しいんだよ
お前ら自分は頭がいいと思ってるだろう?自分には高い教養と知性があって、彼ら彼女らはそれが劣っているって
そう思うなら、見下すなら、せめて導いてやれ って思うわけ
ただ侮辱して気持ち良くなって終わりなんて通るかよ、馬鹿にするならせめて導いて、引き上げてやって救ってやれよ
それが難しいならせめて強すぎる言葉で馬鹿にするのはやめてやれよ
全員で努力して、裕福な奴は周りを少しだけカバーしてやって自分の持ってる知識をアウトプットして
それでこの国を少しずつよくしていこう っていうメッセージで伝えてほしいんだよ
最も日本が輝いていたのは大学で学生運動に精を出してた世代が社会に出た時だったよな
リクルートの社長を初めてとして、今の日本の企業を育てたのはそこらへんの世代
インターネットのネトウヨの軍勢に溺れ、日本全体が右傾化している。
これは失われた40年と一致している。
ネトウヨどーすんの?wwwwwwwwwwwwwww
みんな 「スケープゴート」って、知ってるかな?
「スケープゴート」というのはね たとえば 財務省を 解体すると 気持ちがいいとか
あるいは 農協を 解体すると 気持ちがいい といったことを 「スケープゴート」というんだ。
そして 現実と おしっこするところ(SNS)は どちらが 上かな?
社会の 下の部分に 心が 集中するとね その社会は 下の世界に 生まれ変わるんだって。イヤだねえ。
(そして、おしっこするところは、陰謀論の世界とつながってるんだって!)
今 スケープゴートを 作っていない子は これから先 スケープゴートを 作らないようにしようね。
今 スケープゴートを作っている 良い子は やめようね!
そして お父さん お母さんを含めた みんなを 大好きになって(大事にして) みんなのために 生きようね!
年齢層:30代後半〜50代前半(ネット論壇に長く触れてきた層)
政治的傾向:自己認識は「中道保守」〜「是々非々主義」を名乗るが、実質的には右派・排外主義寄り。参政党や維新に共感しやすい。
情報源:X(旧Twitter)、まとめサイト、YouTubeの解説系チャンネルなど、エコーチェンバー環境にあるメディアを主に参照。
精神構造:社会の不条理を「特定のマイノリティが優遇されているせい」と捉える傾向が強い。被害者意識が肥大しており、「自分たちは言いたいことも言えない」と感じている。
語り口:「事実ベースで冷静に語っているつもり」だが、言葉選びや論理展開には強い感情と選民意識が滲む。
対リベラル像:「マジョリティへの逆差別を正当化する狂信集団」として一括りにし、個別の主張や事例の背景を検討しない傾向。
あー、また出た「俺だけは真実を見てる」系自称リアリストおじさん。
マイノリティ優遇を叫ぶリベラルを叩きながら、自分は「外国人は例外なく厳罰、トランスは一律排除」っていう、ものすごく雑なマジョリティ優遇を「フェア」と思い込んでるの、なんか…こう…逆に愛おしいですね。
あなたの論理でいくと、たった一例の悪質な外国人やトランス女性を引っ張り出せば、「全外国人」「全トランス」が危険であると正当化できるってことでしょう?つまり「A型の人が万引きしたら、A型は全員監視対象」ってレベルの話ですよ。マジで。
最後の「熊を殺すなと言ってるリベラルが気味悪い」ってとこ、もう本音ダダ漏れすぎて草。あなたが本当に怒ってるのは熊じゃなくて「自分の考えを誰も黙って聞いてくれない世界」なんじゃない?
たぶんあなたが一番恐れてるのは、「世界が理性的にバランスを取ろうとした結果、自分の感情に居場所がなくなること」なんだよね。でもそれ、リベラル関係なくて、あなたの中の課題だと思うよ。元気出して、また明日も頑張ろう。
たぶん、長いと言われるだろうから先にChatGPTによる要約を書く。
「チームみらい」はよく「目指す社会像が見えない」と批判されるが、それは誤解だ。彼らが重視しているのは、理想像ではなく「正しく未来を選べる仕組み」の構築。
情報アクセスや議論の平等性、声を上げられない人の支援など、「プロセス」を整えることに焦点を当てている。
即効性よりも制度の土台を整えることが、未来への希望につながるという立場だ。
……というわけで、もう少し詳しく読む気が起きたら続きをどうぞ。
最近、「チームみらい」についての批判的な声を耳にすることが増えてきた。その多くは、「目指す社会のグランドデザインが見えない」「どこに向かおうとしているのか分からない」といった内容だ。
そういった指摘はある意味で正しいのだが、私はそれは「チームみらい」の本質ではないと思っている。
多くの政治的ビジョンが「こういう社会を実現します」という“ゴール像”を提示するのに対し、「チームみらい」が示しているのは“どこをスタート地点とするか”、そして“正しいゴールに向かうための歩み方はどうあるべきか”という問いへのアプローチだ。
・これらは「ゴール」ではない。「スタートライン」であり、「歩き方」そのものだ。
彼らが掲げているのは、「正しさ」を押し付ける政治ではなく、「正しさ」に向かう方法を整える政治。
言い換えれば、誰かが上からビジョンを決めて引っ張るのではなく、対話や情報へのアクセスの平等性を担保することで、社会全体がより良い未来を自律的に選び取れるようにする──そんな土壌づくりを目指している。
一方で、「チームみらいはエリートすぎて、本当に声を上げられない人の存在に気づいていないのでは?」という批判もある。この点については、私も同じく懸念するところではあるし、実際にそのようなギャップはあるだろう。
ただし、彼らが取り組んでいるのは「声を代弁する」ことではなく、「声を上げられるように仕組みを整えること」だ。
声を上げられない人を可視化するための方法を考えること、誰もが適切に参加できる制度を作ること。
これは、誰かがやらなければいけないことであることには皆賛同しつつも、実際にはこれを正面に掲げている政治家はいない。なぜなら、地味で票につながらないから。そして多くの政治家が、それを「政治の仕事」だとは思っていないから。
だからこそ、彼らのような存在が官僚機構ではなく「立法府」の中にいることには、とても大きな意味がある。
仕組みそのものを変えることができる立場にいる──これは、政策の中身を議論する以前の、前提条件を整えるという視点で見れば非常に重要なことだ。
私たちはつい、「ゴール」を求めてしまう。「結局、この人たちは何をしてくれるのか」と。
だからこそ、政治そのものが信頼を取り戻すために、その土台を設計し直してアップデートする。
そのことが、ひいては「未来に希望が持てる」という状態を作るのだと思う。
⇒マニフェストではAIなどを活用しつつも、最終的な判断は責任を負える人間が行うことを強調している。これは、声の大きさだけで政策が決まることを防ぐための重要な原則でもある。
同時に、判断に関わる人の意向ばかりが強く反映されることのないよう、意思決定のプロセスが透明であり誰もが確認できるようにすることを重視している。
⇒ 今まさに困っている方々への迅速な対応と、中長期的な仕組みづくりは、対立するものではなく、両方不可欠な「車の両輪」だ。
なお、国政政党になったらまず何をしたいのか、については明確なプランをだしている。
だからこそ「アップデートできる」という事、またそのための議論をオープンにしていくことが重要だ。
⇒ これもその通りだが、一方で1議席取って国政政党になるだけでも相当変わる。
隠さないこと、デュープロセスが遵守されることを当たり前にしよう、というのは十分議席を持つに足る共感を得られる内容ではないかと思う。
何をしてくれるのかを一言で表すなら、政治そのものをアップデートしようとしている、というのが近いかもしれない。
⇒ 先日の喘息薬での発言への批判にもあったように、社会的強者ゆえの誤りというのは実際にあると思われる。
ただ彼らがそれを良しとしていないのは確かで、それをどのようにして仕組みで防ぐかというのはずっと試行錯誤されている。
仕組みを作ることでコストを抑えながら網羅的に支援の必要な人を洗い出す、という視点もあっていい。
岸田奈美さんとの先日のYouTube対談でもそのあたりの話がでていた。
https://www.youtube.com/watch?v=gh9vd0vho5s
別に何でもない。マニフェストの足りなそうな部分に提言を送ってみたりはしたが、サポーターですらない。
何故かと言えば、議席を取って(もしくは取れなくても)なおこの立場を堅持し続けていくことをまだ示せていないからだ。
ただ、メンバーが非常に若くしがらみの殆ど無い政党であり、真っ当であろうとする流れには大変好感が持てるので、応援はしている。
故に誤解されがちであるのが歯がゆくてこれを書いた。
どの政党、どの候補者も見方や立場によってウンコなんだ。碌でもないよな。
選挙区によってはこの候補者から投票するの?ってウンザリする地区もある。
でも、政治なんていう人間社会のウンコの投げ合い・付け合いや掃除をしてくれる役割を担おうとしてくれることに敬意はある。
給料を2,000万、3,000万貰っても思ってもいないことを演ったり、言ったりしなければならないと考えるだけでゲロゲロだけど、本人たちは慣れたり、心から自分は正しいと思い込めてて平気なのかな?
最近は小政党も増えてきて、多少ニーズの掘り起こしをしてくれる投票先も増えてきたので投票の気が軽くなってきたのも嬉しい。
細かいことを突っつくとウンザリするけど、大枠の方向性はココだなという所に投票したいと思う。
20代の頃は選挙なんて行っても変わらないと思っていたけど、実際に投票してみると心の隅っこにあったモヤモヤがスッキリするんだよね。まさにウンコを出した感じ。
投票先の結果が芳しくなくても、世の中そんなに上手くいかないよねと受け入れれる年齢にもなったし、トイレ掃除はしないとね。
上司や客がAIの出すような意見を好むなら、こちらも先回りしてAIが出しそうな意見を提示してあげればいいだけでは。
AIが出す意見よりも価値の高い意見を出せるのであれば、その意見はその価値がわかる上司なり客なりに売ればいい。
そんな状況で怖いのが、AIを一人の人間として扱うようになってしまう事
最近、AIで出力したものに手を加えるの頑なに拒否する人を見た
そんな人が上司や客先になったら意見も通りづらくなって、風通しが悪くなるんだろうな
AIに従っていれば間違いはないのはそうだろうし、何もできない人より仕事はするから現場の管理は楽かもしれない
ただ、このままいくと検討することすら億劫で、AIに決定権を持たせる環境が作られるんじゃないかと想像してしまう
強者にとっては都合は良いが、
まさにこの方が指摘しているようなことを佐藤優がYouTubeで触れていたけど、そういう点を乗り越えることも含めてチームみらいを応援している。
それと、チームみらいのコミュニティーがそのまま東大でもあったような書き方に見えてしまうけど、そこでテニサーやらなんやらの話に登場するのは立候補してる2名でしょ?
この方が社会の色々な事象を知り、救わなければいけない存在を知ったように、みんながそれぞれのタイミングで新しいことに気づいていくわけで、チームみらいはこの選挙戦の中でも、世論を二分しそうなテーマにもしっかり切り込むようになっていってる。逆に、この方は二分しそうなテーマに触れないことが、選挙において賛成派、反対派ともに信頼を失う行為であることには政治にコミットしていないから想像が及んでいないし、みんな何かを知った気になってしまうのはしょうがないことなんだと思う。
底辺から這い上がってきてぶつかる壁、エリートだからこそある庶民とそのさらに向こうにある底辺の壁、庶民だからこそあるエリートへの壁と底辺への壁、クラスの中での中心メンバーと周辺メンバーの間にある壁。こういう壁の先に友達を作る努力をしないとっていうのがまさに佐藤優が安野貴博に言っていたことだよな。
最後に、自分は周辺環境に結構多様性があったけど、この方のような左派エリートの「救うべき」この考え方自体が前時代的なエリート思想なのではないかと感じざるを得ない。物事を解決するなら、子どもを監禁する親や、DVをする夫、こんな人たちとすらも友達にならないといけないかもしれないし、自分と思想が違うから距離を置く。この発想が間違っているのではないのかな。
まさにこの方が指摘しているようなことを佐藤優がYouTubeで触れていたけど、そういう点を乗り越えることも含めてチームみらいを応援している。
それと、チームみらいのコミュニティーがそのまま東大でもあったような書き方に見えてしまうけど、そこでテニサーやらなんやらの話に登場するのは立候補してる2名でしょ?
この方が社会の色々な事象を知り、救わなければいけない存在を知ったように、みんながそれぞれのタイミングで新しいことに気づいていくわけで、チームみらいはこの選挙戦の中でも、世論を二分しそうなテーマにもしっかり切り込むようになっていってる。逆に、この方は二分しそうなテーマに触れないことが、選挙において賛成派、反対派ともに信頼を失う行為であることには政治にコミットしていないから想像が及んでいないし、みんな何かを知った気になってしまうのはしょうがないことなんだと思う。
底辺から這い上がってきてぶつかる壁、エリートだからこそある庶民とそのさらに向こうにある底辺の壁、庶民だからこそあるエリートへの壁と底辺への壁、クラスの中での中心メンバーと周辺メンバーの間にある壁。こういう壁の先に友達を作る努力をしないとっていうのがまさに佐藤優が安野貴博に言っていたことだよな。
最後に、自分は周辺環境に結構多様性があったけど、この方のような左派エリートの「救うべき」この考え方自体が前時代的なエリート思想なのではないかと感じざるを得ない。物事を解決するなら、子どもを監禁する親や、DVをする夫、こんな人たちとすらも友達にならないといけないかもしれないし、自分と思想が違うから距離を置く。この発想が間違っているのではないのかな。
まさにこの方が指摘しているようなことを佐藤優がYouTubeで触れていたけど、そういう点を乗り越えることも含めてチームみらいを応援している。
それと、チームみらいのコミュニティーがそのまま東大でもあったような書き方に見えてしまうけど、そこでテニサーやらなんやらの話に登場するのは立候補してる2名でしょ?
この方が社会の色々な事象を知り、救わなければいけない存在を知ったように、みんながそれぞれのタイミングで新しいことに気づいていくわけで、チームみらいはこの選挙戦の中でも、世論を二分しそうなテーマにもしっかり切り込むようになっていってる。逆に、この方は二分しそうなテーマに触れないことが、選挙において賛成派、反対派ともに信頼を失う行為であることには政治にコミットしていないから想像が及んでいないし、みんな何かを知った気になってしまうのはしょうがないことなんだと思う。
底辺から這い上がってきてぶつかる壁、エリートだからこそある庶民とそのさらに向こうにある底辺の壁、庶民だからこそあるエリートへの壁と底辺への壁、クラスの中での中心メンバーと周辺メンバーの間にある壁。こういう壁の先に友達を作る努力をしないとっていうのがまさに佐藤優が安野貴博に言っていたことだよな。
最後に、自分は周辺環境に結構多様性があったけど、この方のような左派エリートの「救うべき」この考え方自体が前時代的なエリート思想なのではないかと感じざるを得ない。物事を解決するなら、子どもを監禁する親や、DVをする夫、こんな人たちとすらも友達にならないといけないかもしれないし、自分と思想が違うから距離を置く。この発想が間違っているのではないのかな。