
はてなキーワード:生き方とは
この世界の苦しみのいくつかは、他人が自分を見ているという錯覚から始まる。
SNSでの発信も、仕事での努力も、見栄も、その幻想を前提にしている。
しかし現実は、誰もお前を気にしていない。誰もお前の投稿を熟読していないし、誰もお前の努力の経緯を覚えていない。
人間の注意は極端に狭く、自分自身の欲望と不安で常に満たされている。他人の人生を観察する余裕など、ほとんど誰にもない。
だから、お前がどれほど努力しても、それを本気で見ている者などいない。
だが、この事実は絶望ではなく、むしろ救済だ。誰もお前を気にしていないということは、恥じる必要もないし、完璧である必要もない。誰の期待にも応える必要がない。
見られることを前提にした生き方をやめたとき、人間はようやく「やりたいからやる」という純粋な動機に戻ることができる。
しかし、その純粋さすら、やがて無意味に溶けていく。なぜなら、人生で何かを成し遂げるということ自体が、根本的に無意味だからだ。
たとえお前がどれほどの功績を残しても、それは時間の流れの中で必ず風化する。発明も、理論も、企業も、栄光も、死後数百年のうちに砂粒のように崩れる。
名前が教科書に載ることすら偶然であり、文明そのものが滅びれば、すべてはゼロに戻る。
人生で成し遂げるという概念は、人間の脳が死を受け入れられないがゆえに作り出した一時的な慰めに過ぎない。
実際には何も成し遂げられない。すべては途中で途切れ、忘れられ、消える。努力は意味を持たないし、目標も幻影だ。
お前が作るもの、築くもの、愛するもの、守るもの、その全てが、やがて無音の虚空に沈む。
この真理を受け入れることは苦い。しかし、それを見ないふりをして意味のある人生を演じることは、より残酷な欺瞞だ。
意味を信じて走る者は、いつか必ずその虚しさに打ちのめされる。けれど、初めからすべては無意味と理解して生きる者は、何にも打ちのめされない。
誰もお前を気にしない。お前が何を成し遂げようと、何を失おうと、世界は一切動じない。
だが、それでいい。意味のない世界において、意味を探す必要などない。お前が息をして、飯を食い、夜に眠り、朝に目を覚ます。それだけで、充分だ。
(追記:以前に書いたエントリが知らぬ間にずいぶんバズっているので、コメントを参考に今の考えを書いてみた)
具体的なゲーム名がない。エアプじゃね→そういえば具体的なゲーム書いてなかったな。PCゲームだと初代シムシティ。結局ゴールである市民50万人には到達しなかったっけ。
ミスタードリラーなんかは2000年前後だったがずいぶん楽しんだ。パズルゲームは好きだね。特にランダム要素のあるゲーム。
覚えゲーとは違う、その場の対応能力、反射神経が求められるゲームが大好き。
あとはアーマードコアシリーズ。あれこれ組み合わせを考えるのは楽しかった。
お前が爺になっただけだろ→爺はともかく社会人になってからゲームに没頭する暇と気力が減ったのは事実だ。あとストーリーものだと土日にクリアできないと話を忘れてしまう。
あと、RPGはあまり好きではない。完全に食わず嫌いの偏見だが、戦闘システムが昔と変わり映えしない(特にJRPG)。ストーリーが大したことない。シナリオ分岐とかあるようだが所詮お使いゲームだと思ってしまう。なんかおススメない?
他にやりたいこと、やるべきことが増えたのもあるかもしれない。プログラミングとか奥が深くて楽しいし、資格試験もゲーム攻略のつもりで取り組んだり。ゲームに時間を費やすのがもったいなく感じたりするようになった。人生をゲームのように生きるとか。
ゲームはたくさんある趣味のone of themでいいやと考えを変えればいいのかも知れない。そう考えると、それはそれで一つの生き方かも。
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ゲームは昔から好きだった。インベーダーブームを体験し、近所の駄菓子屋の筐体で遊び呆けたりした。
そのうち、コンピュータ(パソコン)でどうやらゲームができるらしいと知った。ちょうどマイコンBASICマガジンが創刊されたころだ。
アーケードゲームは少しづつ内容がレベルアップし始めた。ゼビウスが発売され、その神秘的な内容に痺れた。
そして、ゲームは百花繚乱の時代を迎えた。毎月のように新しいゲームが発売されて、俺は嬉々として紹介記事や攻略法を読み漁った。
この頃はまだその新しいゲームたちの名前をほとんどそらんじることができた。ゲームの内容が高度になっても、まだ俺の手の内にあった。
ゲームの出来を測るのに「攻略時間」が入り始めた。長くプレイできるほど良いというやつだ。それを競うようにゲームの必要時間が長くなり始めた。
ゲームだけに時間を割くのが難しくなった。その上、発売されるゲームの数は増える一方だ。
だんだんゲームは俺の手に収まらなくなってきた。一つのゲームを隅々まで遊び尽くすなんて真似は不可能になった。
最近のゲームはクリアするのに最低100時間かかるのが当たり前になったらしい。
もうゲームは俺の掌からこぼれ落ちて、たまに残ったものだけをプレイするだけになった。
あぁ、典型的だな。つまり考えること自体が疲れるって白旗宣言だぞ。
思考放棄を自然体と誤認してる、それが怠惰と無知のダブル放尿だ。
お前の「そんなことしてる人いないだろ」は、群れの中で安心したいだけの猿の論理だ。
いないだろじゃなくて、お前の能力じゃできないだけだろ?
違う生き方を見ると、自分の浅さが露呈するから、即座に「そんなことやる人いない」で処理してる。
お前が疲れるって感じるのは、知能を使ってない筋肉が久々に動いたからだ。
思考という筋トレを避け続けた脳が、ちょっと動かしただけで酸欠を起こしてるだけ。
疲れるなら寝てろ。
ケツ叩かれないと動かないやつが死ぬだけではw
AIが出してきたものからこうやるのかとか改善点とか学べる余地なんていくらでもあるしそういう生き方してきたやつは逆に楽な時代になってそう
AIが奪うのは「仕事」じゃなく「下積みの機会」。
ほんそれ。
僕たちは先輩の背中を見て、失敗して、恥をかいて、叩かれて育ってきた世代だ。
時は移り、今はAIが“修行の場”をかっさらってる。効率は上がった、生産性が上がったと喜ぶけど、ヤバさにきづいてない。…https://t.co/Z9ZwRYIfeM—木村公洋|作家・編集者・PRコンサルタント (@uraihiro)October 31, 2025
https://togetter.com/li/2360104
フリーターという「会社にとらわれない自由な生き方」が喧伝されてそのすぐ後にバブル崩壊でみんなクビになった。
働き口が見つかっても足下見られて安くて劣悪な労働環境。
最近、「葬送のフリーレン」がなぜここまで刺さっているのかを考えていた。魔王を倒した後の”その後”を描くファンタジー、という表向きの説明はある。でも私が見ているのは別の作品だ。これは、他人との距離感をうまく取れず、気づけば孤独になっていた大人の物語だ。
フリーレンは長命種で時間感覚が人間と違う。別に悪気はない。ただ「気にしてない」。だから勇者ヒンメルがどれだけ彼女に話しかけても、彼女は興味の対象を優先し続ける。魔法、研究、収集。ヒンメルが死んでから、ようやく彼の言葉の意味を理解する——この構図に、私は既視感を覚えた。
若い頃は「空気を読めない」と言われた。飲み会で話題が変わっているのに、自分の語りたい話を続けてしまう。連絡が来ても返信し忘れる。「悪気はないんだよ」と言い訳していた。でも、ある日ふと気づく。”悪気がないことと、他人を傷つけなかったことはイコールじゃなかった” と。
フリーレンは、ヒンメルの死という決定的な喪失を通じてそれに気づく。彼女は泣かない。涙より「理解」が遅れてくる。その遅れこそが痛い。視聴者は彼女の感情の遅延に、どこか自分を見出す。
SNS では「フリーレンは発達っぽい」と語られることがある。もちろん診断ではない。ただ、「他者の感情に気づかないまま年齢だけ重ねた人」のメタファーとして読めてしまうだけだ。気づいた時には遅い、という残酷さ。
現代は「コミュ力」が神格化されている社会だ。人の気持ちに寄り添うことが当然とされ、それができない人は淘汰される。けれどフリーレンはそれを否定しないまま、「でも、遅れて気づいたって、生き方を変えることはできる」と静かに示す。
この作品がヒットした理由は、ファンタジーを使って、私たちの後悔を代わりに物語ってくれたからだ。
「もっと話しておけばよかった」
「ちゃんと向き合えばよかった」
「ありがとうって言っておけばよかった」
フリーレンが気づいた”後悔”は、私たちの人生に積み重なっている後悔と地続きだ。
その痛みを思い出すたび、「次こそ誰かにちゃんと向き合いたい」と少しだけ前向きになれる。
葬送のフリーレンは、
なのかもしれない。
昨日、久しぶりに見直した。
最初に見たのは、映画館。中学1年生。当時、宮崎駿って確実に天才だと思ってた。ラピュタもナウシカも風の谷も好きだった。だから、もののけ姫も期待して見に行った。
でも。
後味がよくないんだ。面白いのに、後味がよくない。
スクリーンから出ても、世界がそのままで続いてる感じ。アシタカとサンの話が終わった後も、その世界の中では何かが続いてる。
妙な違和感だった。
その後、高校生の時に、友達と「ナウシカと比べてどう?」って話になったことがある。
私は「もののけ姫の方が好き」と言った。友達は「ナウシカの方が綺麗でスッキリしてない?」と言った。
でも、大人になって思うようになった。
「綺麗でスッキリ」してるのが、むしろ問題なんじゃないかって。
ナウシカ、ラピュタ、風の谷、千と千尋。これらは全部、構造としては「主人公が正しいことをして、世界が救われる」という話なんだ。
ナウシカは毒の森に立ち向かう。ラピュタのパズーはシータを救う。千尋は親を人間に戻す。
そういう「正解」がある。だから、映画を見終わった時に、心が満たされる。すっきりする。
でも、もののけ姫は違う。
アシタカは両方を愛してる。サンも人間も動物も愛してる。だから、どちらかが完全に勝つことはない。和解もしない。ただ、妥協する。
環境問題だって、そうでしょ。企業が環境破壊してるのは確かに悪い。でも、その企業が作る製品で生活してるのも私たち。
誰も完全に正しくない。誰も完全に悪くない。
だから、映画を見終わった時に、心が落ち着かない。それが正解だからこそ、落ち着かない。
これ、悪役のセリフなのに、完全に正しい。実際、タタラ場の住民たちは、エボシのおかげで生きてる。
でも、誰も責めきれない。
この「構造」をちゃんと描いた宮崎作品は、もののけ姫が初めてじゃないか。
ナウシカだって、腐海を焼こうとする人間たちは、確かに間違ってるんだけど、その間違った行動の「もっともらしさ」は描かれてない。
でも、もののけ姫は違う。
エボシも、アシタカの親の村の人間も、サンたちも、全員が「自分たちなりに正しい」と思ってる。
その「正しさ」が衝突する。
映画をもう一度見直して思ったのは、そういう「曖昧さ」をちゃんと表現した映画って、実は結構珍しいんだってこと。
ハリウッド映画だって、日本映画だって、大抵は「良い奴と悪い奴」が明確に分かれてる。
でも、もののけ姫は違う。
20代の時に見直した時も、30代の今見直した時も、感覚が変わる。
20代の時は「エボシダメだ」って思ってた。でも、30代の今は「タタラ場の労働者の気持ちもわかるな」って思ってる。
多分、40代でもう一度見たら、また違う感覚になるんだと思う。
それなのに、映画自体は変わらない。描写も、ストーリーも、セリフも、全部同じ。
でも、観客が変われば、見え方が変わる。
こういう映画って、稀だと思う。
昨日、妹にこの話をしたら「もののけ姫は、見終わった後、世界が続いてるように感じるって言ってた人いた」と言ってくれた。
宮崎駿は、「映画を見たら、心がすっきりする」みたいなエンタメの形式から、敢えて外れようとしたんじゃないか。
その時に、何を選んだかって言ったら「現実」だったんだ。
現実は、すっきりしない。
でも、もののけ姫は、不完全だ。不安定だ。見終わった後も悩ませる。
その「悩ませる力」が、他の作品にはない。
綺麗な映画は、一度見たらそれでいい。
前までは毎日のようにはてなをチェックして、意見を書いたりもしていた。
特に夫婦別姓とかのジェンダーの問題には強い関心があって、「これは女性の生き方の問題だ」と思っていた。
けれど、高市早苗さんが首相になってから、なぜかその熱がすっと冷めてしまった。
だって、女性が首相になるなんて、それ自体は喜ばしいことのはずなのに。
けれど彼女は夫婦別姓に反対しているし、私が「戦ってきた相手」の側にいる人でもある。
今までずっと、
そしてその男性社会に女性たちが抵抗しているのだと、どこかで信じていた。
敵も味方も、白か黒かも、わからなくなった。
ただ、政治に興味を失ったわけじゃなくて、
https://x.com/APtZd5oyHB59890/status/1937530093443981777
自己愛は、被害者の思いを自分に対する嫉妬と捉えたりアンチと表現する
いやいや、嫉妬なんかする訳がない
https://x.com/Vishnu759846633/status/1984393598914482440
石丸信者の決め台詞は「石丸に嫉妬してる」。この感覚がわからない。石丸はエリートだから???って本当の一部上場(メガバンク、大手商事会社、大手ゼネコン)のエリート層を全く知らないのでは?
仕事などできて当たり前なので、ひけらかすこともしない、人間的にも優れている方が多い。
https://x.com/gaksha07/status/1984493539871637682
“石丸伸二に嫉妬”これが本当に理解出来なくて1度考察したけど
・実は嫉妬してるのは支持者説
石丸伸二さんの注目度と肩書きに嫉妬しているが無意識に本人が“嫉妬”する事を禁止(抑圧)してると、逆に支持することで負の感情を解消しようとする(認知的不協和の解消や反動形成)
抑圧した嫉妬心は消えてなくなる訳では無いので、“石丸伸二に嫉妬して怒っている自分“を普通に批判するアンチに投影し、
あとはなんも考えないで石丸系YouTuberの言葉を鵜呑みにしちゃってる等も考えられる
https://x.com/okasimachi0805/status/1984395834184892900
「働くことがイヤな人のための本」が答えかなと
「社会を軽蔑しながらその社会から尊敬されるという生き方」「社会に対する特権的な復讐が許されている」という立場に憧れる人が多いからです。
その保険屋がどうかは知らんけども
ニートの肉親に手を焼いてるせいで、「働かない」に対して過剰反応するようになっちゃった奴とかいるよ
工場→ビルメン→電気土方と渡り歩いてる間に講習会とかで数日話し合っただけなのも含めれば10人は元自衛官を見てきてる。
N=10でしかないけど、傾向的に「元の階級が高い(≒自衛隊にいた年数が長い)ほど予後が悪い」と感じる。
年齢による適応力の低下もあるんだろうけど、ズレた価値観の中で過ごした時間が長すぎるとそこから抜け出せないように見える。
私が知っているのはN=1でしかないけど「先輩がシバいてるから俺も真似したら自分だけ怒られたので相談窓口にチクったら居づらくなった」みたいなことを平然と人前で言ってしまうような子で、どこでも長く続かないタイプなんだなと感じた。
3年任期や5年任期で満了して辞めた人(トヨタの短期工みたいなシステム)はちゃんと社会に馴染めてた。
自衛隊の中の価値観に元々疑問があった人だったり、コスパ重視の価値観が今どきにあっていたり、手に職をつける意欲があったりと全体として1人の社会人として自立した考えを持っている。
分からなくても勢いで「はい」と答えてしまう人が多い気がするけど、いきなり否定から入る人よりはまだ良いのかなと感じないでもない。
体力と理不尽耐性と命令服従意識が鍛えられている使いやすい下っ端として会社に入り、そこから周囲の顔色を伺って自分なりのスタイルを身に着けていくという生き方はどこでも通用すると言えばまあそのとおり。
一方で自主退職を行った軍曹以上の人達の馴染めなさはなかなか酷いものがある。
この人達にはおおむね似たような傾向がある自己評価の高さと実際に出力できている結果が噛み合っておらず自分の待遇に不満を持ちやすいのだ。
たとえば自衛隊の中でどれだけ自分が偉くなったのかの自慢を仕事中に手を止めながら話だしたりするような所がある。
「俺は35で1曹になったんだよ。これ本当に凄いんだよ。同期にまだ3曹とかもいる中ででさ~~~」みたいなことをグダグダ言われても外の人間にはなんのこっちゃとしかならない。
「俺はこんなに頑張ったのに扱い悪くてさ。馬鹿馬鹿しくなって辞めてやったよ」が彼らの口癖だ。
正直、いろんな人達を見てきても、体力や根性はあるんだろうけど、それが仕事の結果に繋がってるかと言われると、要領の悪さで相殺されてる人ばかりに思える。
それとそこそこいるのが思想が強くてそれを表明してしまう人だ。
「共産党に投票するようなバカがいるから日本はおかしくなるんだよね。参政党の議席が伸びないのもソイツらのせいだよ」
「安倍さん本当に立派だったのになあ。あのアホが殺してなかったらまた総理やってもらえたのかなあ。高市とかありえないよ。だってまず女でしょ?枕営業だろどうせ」
みたいなことを平気で言う。
本当に言う。
これが自衛隊の中では常識だったから自分でおかしいと思ってないのか、そもそもそういう人間だから自衛隊で居場所をなくしたのかは分からない。
自衛隊を辞めた人の多くに共通するのが「任期満了以外の場合は辞めた場合を濁す」ということだ。
刑務所から出てきた人が自分の罪状をベラベラ話さずにはぐらかすかのように、自分がなぜ自衛隊を辞めたのかの決定的な部分は語らない。
「周りが無能だったから」といった愚痴はするが、それに対して「だから辞めたんですか?」のような返しが来ると「う、うん、ま、まあ」みたいに口ごもってしまう。
実際には「自分がやりたい仕事を見つけるのに時間をかけすぎるような鈍臭いやつはどこに行っても駄目」というのが隠れているだけなのかも知れないが、似たような境遇の元IT企業戦士だったりニートだったりする人と比べて「この人やってけるのかな?」と不安になる部分が強い。
自衛隊かに居たのを刑務所にいたようなだと喩える人がいるが、アレを語る気持ちは「ショーシャンクの空に」のような話なんだと思う。
劇中に登場する長期服役囚が外の社会に出て「何もかもが変わってしまった。俺はここではやっていけない」と絶望するシーンのことなんだろう。
自衛隊出身者の中で長く軍曹や尉官をやってしまった人達が次の職場に馴染もうと必死にもがいている姿を見ると、そういった気持ちになるようなズレは確かにあるんだろうなと。
まあ、皆が商売してる時に生産度外視でとにかく走り回ってりゃ良かった人間なんだからそりゃズレるわなと思う。
スポーツ選手だって生き残るためにスポンサー契約とかで頭を捻る中で、自衛隊の人間はなんでも支給される世界の中で暮らしてきたんだから。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2622637
普段からなんでも否定しまくりのブクマカ達が自分を棚に上げて、生き方などまで広げて語るの流石に恥ずかしぃ
>別に食欲はなくならないが、半分に切ったら良くね派
ちなみに俺はこちら派
映え狙いの商品は気に入る人だけでなく引く人もいることが忘れられがちよな
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/posfie.com/@OOEDO4/p/4Uca6Jd
高市早苗がトランプにあった時の態度が問題になっている訳だが、媚びているのは明らかではしゃいでキャピキャピしてるのは映像を見れば否定できないだろう。
いずれにしてもあの態度は一昔前の会社組織、男性組織の中で女性が波風立てず男性を立て愛想良く振る舞うという典型的な仕草である。昔ああいう女性は沢山いた。
それを高市が無意識にやっているのか敢えてやっているのかは分からない。ただ男社会でのし上がってきた高市にしてみればあんなのは権力を持つ男の前で当たり前にやってきた事なんだろう。
ただ気になるのは周りの反応だ。
女性から反発があった事に対して多くの支持者男性達が絶賛している。
その理由として典型的なのはトップコメを代表する多数の「外交で結果が出れば良い」という意見。
結果を出すためなら媚びを売ろうが何をしようがオヤジにボディタッチさしようがれようが構うなという事。
それを男が上から目線で言っている構図。
これは何かに似ていると思わないだろうか。
上客に女性アナウンサーを接待要因として差し出し仕事のためだから我慢しろそれが当たり前という構図。
それを上手くかわす女性や仕事の為だと受け入れる女性耐えられず訴える女性。
そのような役回りを高市もやっている/やらされているのではと感じてしまった。
唯、国の為だか自民党の為だか後ろにいる麻生の為だかそれを喜ぶ支持者の為だか知らないが
結果として一昔前の男性に媚びる女性の典型的仕草をしてしまう高市早苗に対して憐れみというか可哀想だなという感想を持ってしまった。
男が高市総理を歓迎するのはそのような振る舞いをする男を脅かさない「女性」だからではないのか。
高市早苗は苦労人である。男社会で色々酷い目にも遭ってきただろう。
うつ病の診断基準には抑うつ気分が「ほとんど一日中続く」ことが条件になってるので
朝に泣きそうになるってだけのこの人は当てはまるのかなあ?
という人生や生き方についての問題で、こういう哲学的な悩みは精神科の担当じゃないのよ
この人ふつうに職場に行けて働けていて、一人暮らしの家事についても問題なくできていて日常生活に支障をきたしていないし
ただ、同じことの繰り返しが嫌だってんなら、なんで毎日同じおにぎりを買うんだろうね?
今日はセブンのタンパク質が取れるサンドイッチ、明日はブリトーの新商品のあんバターブリトー、明後日は蜜芋おさつバターブリトーみたいに変化をつけりゃあいいのに
電車で泣きそうになるのなら超早起きして徒歩か自転車で周りの景色をゆったり眺めながら職場に行くとかさあ
なんで同じ繰り返しを嫌がりながら、好き好んで同じことを繰り返すんだろうねえ
働いてると疲れるが、まぁ普通に生き物としての渋さを感じる。
一人で生きていけるなら一人で生きていきたいものだ。
「張り合うために努力するバカ者(若者)」という概念が俺の観察固有のものかと思ったが、さすがコヘレト、似たような観察をしていた。
「また私は見た。人のあらゆる労苦と巧みなわざは、互いにねたみ(妬み)によって起こるものである。これもまた空(ヘベル)であり、風を追うようなものだ。」(コヘレト 4:4)
つまり、コヘレト(伝道者)は、人が努力したり、働いたり、技術を磨いたりする背後には、他人との競争心や嫉妬があるのだ、と観察している。
それを称賛しているわけではなく、「これもまたヘベル(空虚、むなしい)」と言っている点が重要。
つまり、そうした「張り合いによる努力」は、結局は空しいものであり、本質的な満足にはつながらないという洞察。
この後の節(4:6)ではこう続く。
「手のひらいっぱいの安らぎの方が、両手いっぱいの労苦と風を追うことよりましである。」
つまり、コヘレトは「張り合い」よりも静かな満足・平穏な生き方を価値あるものとして提示している。