はてなキーワード:理系とは
M氏の文章は、一読すれば現代の学歴社会や教育の画一性に対する痛烈な批判として、ある種の共感を呼ぶかもしれない。
「現場で働く人間のリアルな声」という体裁を取り、労働の尊厳や実学の価値を訴えるその姿勢には、一見、力強ささえ感じられる。
しかし、その主張の根幹を注意深く解剖していくと、強固に見えたはずの論理は驚くほど脆弱である。
特に「工場勤務」の話から何の前触れもなく「理系的な仕事」へと飛躍する一点において、その思考の構造的欠陥と、著者を苛む根深いコンプレックスが、隠しようもなく露呈している。
自らの経験を権威付けずにはいられない「文系コンプレックス」という名の
本稿では、この致命的な論理の跳躍を起点に、彼の主張がいかに自己欺瞞と劣等感に満ちた砂上の楼閣であるかを論証していく。
健全な議論の第一歩は、用いる言葉の定義を明確にすることである。
「工場的な?理系的な?そんなお仕事」という一節は、その象徴だ。
著者自身がこの二つの概念を明確に区別、あるいは統合できていないことがわかる。
この曖昧さを放置したまま、彼は自身の主張を強引に推し進める。
まず、「工場勤務」と「理系的な仕事」は、似て非なる概念である。
著者が例に挙げる「衛生管理者」や「危険物取扱者」といった資格は、確かに化学や物理学の基礎知識を必要とするため、「理系的要素」を含むとは言えるだろう。
しかし、それを以て工場勤務全般を「理系的な仕事」と呼ぶのは、著しい拡大解釈であり、意図的なミスリードでさえある。
「工場勤務」には、製造ラインで単純作業に従事するオペレーターから、高度な専門知識を要する設備保全、品質管理、生産技術まで、極めて多岐にわたる職種が含まれる。
一方で、「理系的な仕事」という言葉が一般に想起させるのは、大学や大学院で専門分野を修めた者が従事する研究、開発、設計、データサイエンスといった、より高度な知的労働である。
著者は、この二つの全く異なるレイヤーの仕事を、「理系」という一つの都合の良い言葉で乱暴に括りつけ、両者の境界線を意図的に曖昧にしているのだ。
その動機は二つ考えられる。
「工場で働いて人生を立て直した」と語るよりも、「理系的な仕事で人生を立て直した」と語る方が、より知的で、専門性が高く、高度な響きを持つ。
彼は、自らの過去をより立派に見せるために、「理系」という社会的に権威付けされたラベルを借用したのだ。
これは、自身の経歴そのものに絶対的な自信を持てず、何らかの権威に依存しなければ自己を肯定できない、精神的な脆弱性の表れに他ならない。
世の中には、残念ながら「工場勤務」に対して「誰にでもできる仕事」といった偏見を持つ者もいる。
そうした潜在的な軽侮に対して、あらかじめ「これは“理系”の仕事だ」と宣言することで、相手の反論を封じ、議論の優位に立とうとしている。
議論の本質(=工場労働の価値)で勝負するのではなく、「理系」というレッテルを盾にして相手を威圧しようとする、極めて幼稚な防衛機制である。
彼は、ある事象(工場勤務)が持つ一部分の性質(理系的要素)を抽出し、それを事象の全体(工場勤務=理系的な仕事)であるかのように錯覚している。
世界を「すごい理系 vsダメな文系(教師)」といった単純な二元論でしか認識できていない。
その結果、自分を「すごい理系」の側に配置するために、論理を捻じ曲げることさえ厭わないのである。
この稚拙な論理の飛躍の根底には、より深刻な問題、すなわち著者の「文系コンプレックス」が横たわっている。
彼の文章全体を貫いているのは、彼が「文系的」と見なすもの――
特に「教師」と、彼らが象徴する「学歴至上主義」や「口先だけの建前論」――に対する、異常なまでの敵愾心(てきがいしん)である。
「教員風情が」
彼は、自らの人生がうまくいかなかった原因を、すべて「教師」という藁人形に押し付けている。
資格試験の合格率という一面的なデータだけを取り上げて職業の優劣を語る暴論も、
彼がかつて「勉強」や「学歴」という物差しで評価される世界で深い屈辱を味わったことの裏返しとしか考えられない。
彼は、その世界で受けた傷の復讐として、自分が優位に立てる(と信じている)「資格」 「実務」という土俵に相手を引きずり下ろし、一方的に断罪しているのだ。
「理系こそがセーフティーネット」というタイトルは、その信仰告白に他ならない。
彼にとって「理系」とは、客観的な数値や事実に基づき、嘘やごまかしの通用しない、実利に直結した「本物」の世界の象徴なのである。
曖昧で、解釈の余地があり、コミュニケーション能力といった測定不能な能力が幅を利かせる「文系」の世界で挫折した彼にとって
「理系」は、明確な答えと正当な評価を与えてくれる救済の地のように見えたのだろう。
だからこそ、彼は自らの経験を必死で「理系」の物語に組み込もうとする。
単なる「工場労働者」では、彼が憎む「文系」の世界に対するカウンターとして弱い。
それは、学歴とは別の知性の証明であり、文系的な価値観を乗り越えた「新しいエリート」としてのアイデンティティを与えてくれる。
彼は「理系」という言葉を、自らの劣等感を覆い隠し、攻撃性を正当化するための鎧として身にまとっているのだ。
「工場的な?理系的な?」という、自信のなさが滲み出る一言が、その全てを物語っている。
真に自らの能力と経験に自信を持つ人間は、このような借り物の権威にすがる必要はない。
「私は工場で働き、専門的な資格を取得することで、人生を立て直した。この経験は尊い」と、自らの言葉で堂々と語ればよいはずだ。
なぜなら、彼の自己肯定感は、「理系」という他者の権威に依存しないと成り立たないほど、脆いからである。
M氏が「工場勤務」から「理系的な仕事」へと唐突に議論を飛躍させたのは、
彼の論理的思考がいかに脆弱であるか、そして彼の精神が「文系コンプレックス」という呪縛にいかに深く囚われているかを示す、決定的な証拠である。
個人的な怨恨と自己正当化の欲求を駆動力として言葉を紡いでいる。
「理系」という言葉は、彼にとって自らの経験を美化し、憎むべき敵(文系、教師)を攻撃するための都合の良い武器であり、
同時に、学歴社会で傷ついた自尊心を守るための貧弱な鎧となっている。
しかし、その嘘と自己欺瞞は、「雨ニモマケズ風ニモマケズ現場に立ってる人間」という署名が、
実際には職を失ったニートによる虚勢であったという事実によって、無残にも暴かれる。
彼が称賛してやまない「キツい現場」に、彼自身が留まれなかったという現実は、
彼の語る物語がいかに自己に都合よく編集されたフィクションであるかを物語っている。
そして、教師への憎しみや学歴へのコンプレックスといった、自らの内なる負の感情に正面から向き合う必要がある。
なぜ自分は工場を辞めてしまったのか。なぜ他者を「風情」と見下さなければ自己を保てないのか。その痛みを伴う自己分析なくして、彼の成長はない。
現状のままでは、彼の言葉は、論理的思考力を欠いたコンプレックスの叫びであり、傾聴に値する社会的提言とは到底言えない。
さもなければ、彼はこれからも論理の迷宮を彷徨い、コンプレックスの鎧に閉じこもったまま、誰にも届かない言葉を発し続けることになるだろう。
俺は観てきたよ。アイアンマンとかのマーベルシリーズは女受け狙いばっかでキッツいし、バットマンも今一乗れない映画だったもんで、こいつに期待してたんだ。ウォッチメンとか言う映画のお陰でぶっちゃけDCの映画には期待できなくなってたが、今回のは面白かったな。
余計な説明とかすっ飛ばしていきなり負けたスーパーマンの回復と戦闘から始まるし
そして、複雑怪奇な情勢の中で非難を浴びるスーパーマン。プライベートでも恋人との溝が深まって孤独感が膨らむ。さらには自分を地球に送った両親の思惑が分かって世界の敵となるスーパーマン。
孤独なヒーローが世界を敵に回すストーリー展開になると思うじゃん?
でもなんねぇんだよ。
なんか、よく分からんグリーン・ランタンと名乗る三人組が出てきてスーパーマン同様に怪獣退治を行う。スーパーマンほど強い訳じゃないのになんか態度はでかい。
なんか、孤独なヒーロー的なストーリーになるのかと思ってたら急におちゃらけた変な髪型の奴が現れて、共闘してるんだぜ?
こんな奴いたかな?グリーン・ランタン?なんかクソ映画紹介YouTuberの動画で名前聞いたような…。
マーベルの真似して脇役がメインのスピンオフ作りたいんだろうけど、それにしちゃあんま魅力に乏しいよな…髪型変だし。
ていうか、スーパーマンはガザっぽい所に侵攻する、イスラエルっぽい国の軍止めただけで国際問題になってたのに、最後コイツ等が軍止めるために出張ってくるのは有りなんか?
日本社会において「理系=男子、文系=女子」という固定観念は依然として根強い。とくに大学進学時、女子学生の多くは「文系進学」を選び、国公立理系大学では女性比率が極端に低いままとなっている。文部科学省の統計によると、工学部における女子学生の割合は依然として10〜15%程度にとどまっており、ジェンダー多様性に課題を残している。
近年、いわゆる「科学大の女子枠」など、女子の理系進出を後押しする取り組みも見られるが、実態として多くの女子が進学するのは経営工学系やデザイン工学系に偏り、機械・電気・ロボティクスといった中核技術領域には十分な進出が見られない。
このままでは、表層的な“理系女子の増加”は実現できても、ものづくり現場やハード技術領域への本質的な多様性は達成されないだろう。
そうした中で注目すべきは、千葉工業大学の機電系学科(機械電子創成工学科、電気電子工学科など)における、共通テスト利用入試B日程の数学+英語2教科方式である。これは従来「数学・理科・英語」の3教科が基本だった理工系入試において、文系出身者が最もアクセスしやすい形態といえる。
というプロファイルが一定数存在する。そうした層にとって、「数学+英語のみで出願できる機電系学科」というのは極めて貴重な挑戦機会だ。
第3章:機電系という“女子の参入障壁”の高さがもたらす希少価値
千葉工業大学の機械電子創成工学科や電気電子工学科といった、いわゆる機電系学科は、日本の大学における「男子校的空気感」が色濃く残る分野である。講義・実習・研究室に至るまで、男子比率が9割を超えることも珍しくなく、女子にとっては物理的にも心理的にも参入障壁が高い環境である。
だが、その障壁の高さこそが、逆説的に“女子学生の圧倒的な価値”を生み出しているという側面も見逃してはならない。
たとえば、
•機電系に進む女子は極めて希少であり、就職市場では企業からの注目度が非常に高い
•ものづくりの現場における**多様性推進(DEI)**の文脈から、女子技術者の存在そのものが歓迎される
• チーム設計や製品開発の中で、異なる視点・感性をもたらす存在として評価されやすい
といった利点がある。
•自動車
•ロボット
•宇宙・航空
• 電力・インフラ
など、産業の根幹を支える領域であることから、キャリアの安定性・成長性・収益性すべてにおいて非常に優位性が高い。
日本社会において「理系=男子、文系=女子」という固定観念は依然として根強い。とくに大学進学時、女子学生の多くは「文系進学」を選び、国公立理系大学では女性比率が極端に低いままとなっている。文部科学省の統計によると、工学部における女子学生の割合は依然として10〜15%程度にとどまっており、ジェンダー多様性に課題を残している。
近年、いわゆる「科学大の女子枠」など、女子の理系進出を後押しする取り組みも見られるが、実態として多くの女子が進学するのは経営工学系やデザイン工学系に偏り、機械・電気・ロボティクスといった中核技術領域には十分な進出が見られない。
このままでは、表層的な“理系女子の増加”は実現できても、ものづくり現場やハード技術領域への本質的な多様性は達成されないだろう。
そうした中で注目すべきは、千葉工業大学の機電系学科(機械電子創成工学科、電気電子工学科など)における、共通テスト利用入試B日程の数学+英語2教科方式である。これは従来「数学・理科・英語」の3教科が基本だった理工系入試において、文系出身者が最もアクセスしやすい形態といえる。
というプロファイルが一定数存在する。そうした層にとって、「数学+英語のみで出願できる機電系学科」というのは極めて貴重な挑戦機会だ。
第3章:機電系という“女子の参入障壁”の高さがもたらす希少価値
千葉工業大学の機械電子創成工学科や電気電子工学科といった、いわゆる機電系学科は、日本の大学における「男子校的空気感」が色濃く残る分野である。講義・実習・研究室に至るまで、男子比率が9割を超えることも珍しくなく、女子にとっては物理的にも心理的にも参入障壁が高い環境である。
だが、その障壁の高さこそが、逆説的に“女子学生の圧倒的な価値”を生み出しているという側面も見逃してはならない。
たとえば、
•機電系に進む女子は極めて希少であり、就職市場では企業からの注目度が非常に高い
•ものづくりの現場における**多様性推進(DEI)**の文脈から、女子技術者の存在そのものが歓迎される
• チーム設計や製品開発の中で、異なる視点・感性をもたらす存在として評価されやすい
といった利点がある。
•自動車
•ロボット
•宇宙・航空
• 電力・インフラ
など、産業の根幹を支える領域であることから、キャリアの安定性・成長性・収益性すべてにおいて非常に優位性が高い。
A:最近の日本の政治って本当にわけがわからないよね。れいわ新選組や参政党みたいな新しい政党が急に出てきて、なんだか政治全体がおかしくなってる気がするんだけど。
B:実は、これって世界的に起きている現象なんだ。「エリート過剰生産理論」っていう考え方で説明できるんだよ。
B:ロシア系アメリカ人の学者、ピーター・ターチンが提唱した理論なんだ。簡単に言うと、「高学歴者が増えすぎて、みんなが期待するような良いポジションに就けない人が溢れると、社会が不安定になる」っていう話。
A:でも、高学歴者が増えるのっていいことじゃないの?
B:確かにそう思うよね。でも問題は、大学を出た人が期待する「エリート的な地位」—政治家、官僚、大企業の幹部、大学教授みたいなポジション—は、そんなに簡単には増えないってこと。
A:ああ、なるほど。椅子取りゲームで椅子の数は同じなのに、参加者だけがどんどん増えていく感じ?
B:まさにそれ!ターチンはこれを「椅子取りゲーム」に例えてる。1950年代のアメリカなら、大学卒業者は全体の15%未満だった。でも今は30%以上。エリート的地位を狙う人は倍以上に増えたのに、そういうポジション自体はそれほど増えてない。
ターチンの予測は当たったのか?
A:でもこれって、ただの推測でしょ?実際に証明されてるの?
B:これがすごいところなんだ。ターチンは2010年に「2020年代のアメリカで政治的混乱が起きる」って予測したんだけど、実際にトランプ政権の混乱、2020年の大規模デモ、1月6日の議事堂襲撃事件が起きた。
A:え、10年も前に?
B:そう。彼は約40の社会指標を分析して、「政治ストレス指数」っていうのを計算したんだ。その結果、アメリカが100年ぶりの政治的危機に向かってるって警告してた。で、実際にそうなった。
A:他の国でも当てはまるの?
B:うん。彼の理論は歴史的にも検証されてる。フランス革命前、ロシア革命前、1960年代のアメリカの学生運動、2011年のアラブの春—どれも高等教育が普及した後に起きてる。共通してるのは、高学歴なのに期待した地位に就けない「準エリート」が運動を主導したこと。
日本でも同じことが起きている?
A:じゃあ日本でも同じことが起きてるってこと?
B:まさに。日本も1990年代以降、大学進学率がどんどん上がった。でも同時に、バブル崩壊後の長期停滞で「良い就職先」は減った。終身雇用も崩れて、高学歴者でも不安定な雇用に甘んじる人が増えた。
B:そう。で、そういう人たちの中から、既存の政治システムに挑戦する動きが出てきた。れいわ新選組や参政党の躍進は、まさにこの現象の一例だと思う。
A:どういうこと?
B:両党とも、既存の政治エリート—自民党や立憲民主党の政治家、官僚、大手メディア—を「既得権益」として激しく批判してる。そして、従来の政治に不満を持つ人たちに「わかりやすい敵」と「シンプルな解決策」を提示してる。
A:でも昔も政治への不満ってあったと思うけど、何が違うの?
B:決定的に違うのは、インターネットの存在。昔なら既存のメディアや政党を通じてしか影響力を行使できなかったけど、今はYouTubeやTwitterで直接発信できる。
B:そう。高学歴だけど既存システムで成功できなかった人たちが、オンラインで影響力を獲得して、従来の権威に挑戦してる。そして彼らは、自分たちより政治的知識の少ない層をターゲットにして、複雑な問題を「悪者 vs善者」の単純な構図で説明する。
A:なるほど。それでれいわや参政党みたいな政党が支持を集めるわけか。
B:正確に言うと、これは「下向きの動員」なんだ。準エリートが、既存エリートに挑戦できない代わりに、自分より教育水準の低い層を動員して影響力を行使しようとする。
なぜ「標準以下」の層をターゲットにするのか
A:でも、なんで政治的知識の少ない人たちをターゲットにするの?
B:実は戦略的に合理的なんだ。政治的知識の豊富な層は、既存の専門家や制度への信頼も高いし、簡単には動かせない。でも政治に詳しくない層なら、「隠された真実を教えてあげる」みたいなアプローチで影響力を行使しやすい。
A:ちょっと上から目線な感じもするけど...。でも待って、れいわ新選組の山本太郎って中卒でしょ?準エリートじゃないじゃん。
B:いい指摘だね。でも山本太郎は「フロントマン」なんだよ。彼の背後で政策を考えたり、戦略を練ったりしてるのは、大学や大学院を出た政策スタッフたち。山本太郎は「庶民的な顔」として前面に出てるけど、実際の知的作業は高学歴の準エリートがやってる。
A:なるほど、そういう役割分担があるのか。
B:そう。一方、参政党の神谷宗幣は典型的な準エリートの例だよ。彼は法科大学院を出てるけど、司法試験に合格してないし法曹になっていない。つまり、エリート的地位を目指したけど挫折した人なんだ。
A:ああ、まさに「準エリート」って感じだね。
B:そうでしょ?神谷宗幣にとっては、既存の法曹界や政治エリートは「自分を排除した敵」なわけ。だから彼らに対する攻撃は、個人的な怨恨も込められてる。そういう人が「反既得権益」を掲げて政治活動をするのは、ある意味自然な流れなんだ。
B:そうなんだ。でも彼ら準エリートにとっては、「既存エリートに認められない自分」へのプライドを回復する手段でもある。「俺たちの方が真実を知ってる」「既存の専門家は嘘つきだ」って言うことで、自分たちの正当性を主張できる。
B:まさに。「主流派メディアは嘘をついてる」「本当のことを言うのは我々だけ」っていう構図を作ることで、既存の情報源への信頼を破壊しつつ、自分たちへの信頼を獲得しようとする。
政治混迷の本当の原因
B:一言で言うと、「高学歴者の期待と現実のギャップ」だね。バブル期までは、良い大学を出れば良い会社に入れて、安定した中流生活ができた。でもその「成功の方程式」が崩れた。
B:そう、だからこそ問題なんだ。既存エリートは地位を維持してるのに、新しく高学歴になった層は同じような地位に就けない。この格差への怒りが、既存システム全体への攻撃につながってる。
A:それでれいわや参政党みたいな「反システム」政党が出てくるわけか。
B:その通り。彼らは既存の政治エリートを批判しつつ、自分たちは「庶民の味方」だと主張する。でも実際には、高学歴だけど既存システムで成功できなかった層が、自分たちの不満を政治的に表現してるっていう側面が強い。
解決策はあるのか?
A:じゃあ、この状況をどうすればいいの?
B:ターチンによると、歴史的には2つのパターンがある。一つは暴力的な解決—革命や内戦で既存エリートが一掃される。もう一つは平和的な改革—ニューディール政策みたいに、富の再分配と機会の拡大で社会を安定させる。
B:幸い、日本は比較的平和的な社会だから、暴力的な解決にはならないと思う。でも、政治の断片化と統治の困難は続くだろうね。既存政党は求心力を失い続けて、新しい政治勢力が次々に現れては消えていく。
B:正直に言うと、一番効果的なのは「文系の大学院を大幅に縮小すること」だと思う。特に、就職先の見通しが全く立たない文学研究科、社会学研究科、哲学研究科なんかはほぼ全廃でもいい。
A:えー、でもそれって研究の機会を奪うことにならない?
B:甘い考えだよ。今の状況を見てごらん。文系の大学院なんて、ほとんど就職先がないのに毎年大量の修士・博士を生み出してる。彼らは奨学金という名の借金を背負って、結局フリーターになったり、塾講師や非常勤講師を転々とする生活を強いられてる。
A:確かに、文学博士とかで就職できない人の話はよく聞くなあ。
B:そういう人たちが「社会が悪い」「既存エリートが既得権益を握ってる」って不満を募らせて、結果的に政治を不安定化させてる。だったら最初から、そういう「高学歴ワーキングプア」を大量生産するのをやめればいい。
A:じゃあ具体的にはどうするの?
B:まず、文系大学院の定員を現在の10分の1程度まで削減。特に私立大学の「学費さえ払えば誰でも入れる」みたいな文系大学院は即刻廃止。その代わり、理系や技術系、医療系の大学院を拡充する。
A:でも大学側は猛反対するでしょ?
B:当然反対するよ。文系大学院は大学にとって「金のなる木」だからね。設備投資も少なくて済むし、学生から学費だけ取って放置できる。でも、国の補助金配分を変えればいい。修了生の就職率や収入実績に応じて補助金を出す仕組みにする。
B:法科大学院は特にひどいよ。毎年約1600人の司法試験合格者に対して、法科大学院の入学定員は約2200人もある。つまり、最初から600人は司法試験に落ちることが決まってるわけ。でも大学側は「合格の可能性がある」って嘘をついて学生を集める。
B:まさに詐欺だよ。だから法科大学院の入学定員は司法試験の合格者数と完全に一致させるべき。年間1600人しか合格しないなら、法科大学院の定員も1600人にする。そうすれば、神谷宗幣みたいな「法科大学院は出たけど司法試験には落ちた」という怨恨を抱えた準エリートの大量生産を防げる。
B:もちろん価値はある。でも、年間何千人も文学修士や社会学博士を作る必要はないってこと。本当に研究者になりたい優秀な人だけが、厳選されて大学院に行けばいい。今は「学部で就職できなかったから大学院に逃げる」人が大半でしょ?
B:そうでしょ?そういう人たちを大学院に入れずに、高校や大学卒業後すぐに技術系の専門学校や職業訓練に向かわせる。修士課程で2年、博士課程で3年も無駄にするくらいなら、その間に手に職をつけてもらった方がよっぽどいい。
A:なるほど。要するに「文系大学院全入時代」をやめろってことか。
B:その通り。今の日本は大学院まで「とりあえず進学」する人が激増してる。でも社会が必要としてる修士・博士の仕事はそんなにない。だから大量の「超高学歴だけど期待した仕事に就けない人」が生まれる。
A:でも、高校生や親はどう思うかな?
B:最初は抵抗があるだろうね。でも現実を見せつければわかる。「社会学修士を出てコンビニでバイト」と「高校卒業後に電気工事士の資格を取って年収500万」、どっちがいい?
A:確かに後者の方が良さそう。大学院に行くと借金も増えるしね。
B:でしょ?特に文系大学院は最悪だよ。2年間で300万円の学費を払って修士号を取っても、就職では学部卒と同等かむしろ「年齢が高くて使いにくい」と敬遠される。完全に金と時間の無駄。
A:つまり、文系大学院の大量生産をやめれば、政治も安定するってこと?
B:少なくとも、「超高学歴なのに期待した地位に就けない」っていう最も怨恨の強い層は減る。法科大学院まで出たのに司法試験に落ちた人って、普通の大卒より遥かに怒りが深いでしょ?
A:なるほど。でも政治家や文部科学省がそんな改革をやるかな?
B:難しいだろうね。大学関係者は強力な利益団体だし、「教育の機会均等」みたいな綺麗事を言って抵抗するだろう。でも、このまま行ったら社会全体がもっと不安定になる。
A:じゃあ結局、変わらないってこと?
B:残念ながら、たぶんそうだろうね。政治家は票を失うのが怖いから、根本的な改革には手を出さない。だから、しばらくは高学歴ワーキングプアが政治を混乱させ続ける状況が続くと思う。
まとめ:政治混迷の正体
B:「高学歴者の不満の政治化」だね。バブル崩壊後に高等教育を受けた世代が、期待した社会的地位を得られずに既存システムに不満を抱き、インターネットを使って政治的影響力を行使しようとしてる。その結果、政治全体が不安定化してる。
B:そう。彼らは高学歴だけど既存エリートになれなかった「準エリート」が、政治的知識の少ない層を動員して既存システムに挑戦してる例だと思う。これは日本だけじゃなくて、世界中で起きてる現象なんだ。
A:じゃあ、しばらくはこの混乱が続くってこと?
B:残念ながらそうかもしれない。ターチンの理論によると、こういう不安定期は通常10-20年続く。でも歴史を見ると、最終的には新しい均衡点に落ち着くことが多い。重要なのは、この変化を理解して、建設的な方向に導くことだね。
B:どういたしまして。複雑に見える政治現象も、こういう理論的枠組みで見ると、意外とシンプルな構造が見えてくるものなんだ。
喫煙者はある種の特権階級として仕事中に薬物休憩を自己判断で自由に取れるし、そのタイミングで様々な情報を収集できるし、喫煙者同士の連帯感で上役からの評価が不当に高まったりする。
同時に喫煙者はある種の被差別階級として無能のレッテルを貼られがちで、仕事をいくらやっても喫煙してるから仕事が遅いって言われるし、評価を不当に下げられることも多い。
つまり、「喫煙者優遇」と「喫煙者迫害」は同時に成立してるんだよね。
これは社会やコミュニティにおける喫煙者の割合がどんなバランスであっても常に起きていた現象なんだよね。
んでもってこれは「外国人は優遇されている」とか「理系は迫害されている」とか「ガリ勉は優遇されている」とか「女性は迫害されている」とかのあらゆる事象において同じことが言えるわけ。
こういった事柄に対して「優遇されている事実があるじゃないか!つまり迫害なんてされていないんだ!」みたいなことを言うのはあまりにもバカなんだよね。
一つ一つの事例を掲げていって是々非々でそれぞれについて論じるべきであって、クソデカイ主語でくくって丸ごと一気に終わらせようとするのは脳みその解像度の低いバカがやることだよ。
子の付き添い入院を経験してそれを何かの形にしたいと思っているのだけれど、その「形」とエスノグラフィは8割くらい被ってる気がする。「当事者研究」とも近い。
この本は、私が付き添い入院と付き添い入院の間、数ヶ月の在宅治療中に、「なんかメンタルが整うような本ないかな」と思って立ち寄ったスーパーの中にある本屋で、めぼしいものが見つからず、「じゃあ新しい学びでも得るか」と立ち寄った新書コーナーで見つけた本だ。「エスノグラフィってなんだっけ?」と思って手に取ったが、初めて知った言葉だった。
買って一日で読み切ってしまった。
この本では「エスノグラフィとは何か?」という問いに対し、冒頭に結論となる文章が書かれている。初見では分かりにくい文章だが、その中で登場するキーワードを、各章で細かく説明する形で理解を深めていくようになっている。
私の感想もその文章の各キーワードについて、「付き添い入院中に私がやってたのってエスノグラフィなのかな〜違うかな〜」など、思ったことを書いていく。
その文章の説明をするところの前に「はじめに」と第一章の「エスノグラフィを体感する」があるので、そこの感想。
エスノグラフィは社会学の一部らしい。私は社会学部卒だったのでこの本を手に取ったのも必然だったか、という気持ち。あとこの「はじめに」の中に「在宅酸素療法」という言葉が出てくるのにも驚き。子がまさに酸素療法中だったので、「空気って大事なんだな」って話に非常に縁を感じた。
賭けトランプと棺の話面白い。ざっくりこの辺まで立ち読みして買うのを決めた。
『エスノグラフィは何も隠されてはいない、ありふれた日々の「生活を書く」ことを基本にします』。付き添い入院が行われている小児病棟は、隠されているわけではないけど、限られた条件の人しか参加できない。ただ、そこでは少し変わってはいるものの確実に生活が営まれている。
フィールドで見た場面と研究主題の接続:これが私の書きたいこととエスノグラフィの違い。私特に主題っぽいものを持ってない。「貧困」とか「差別」みたいな。多分。問題意識はあるんだけどそれをいま書いて訴えたいかと言われると、ちょっとピントがズレる。
フィールドと自分の普段の生活を二重写しにみる:これはそう。付き添い入院を知らなかった私には戻れない。
フィールド調査の十戒:これは基本的に「部外者」としての考え方だ。「当事者」として病棟にいた私が、より理性的に振る舞うために何が必要だったか考えさせられた。寛大であることと関わる人を中傷しないことは難しかった。私は「奪われた」寄りの人間だったから、無駄に奪われないために戦う必要があったし、中傷もした。「そういう考え方もあるね」と俯瞰することもないではなかったけど。フィールドの文化と歴史を知るために調べて歩き回ることは意識した。付き添い入院がどういった背景で行われているのか調べ、実際に入院する前に病棟の見学もさせてもらった。情報があまりにも少ないことが不安を生んでたからだ。偉そうにしないこととただの見学にならないように記録することも「部外者」の発想だと思う。
書くことについては、私は完璧に考えがまとまってから書くのでも、書きながら考えが立ち上がってくるのでもなく、考えた端から書きつけていかないと気が済まないタチ。不安や怒りといった感情とこれからすべきことは何かといった思考が絡まった状態で脳内にあるので、言語化して要らない感情は捨てて、必要な思考を拾い上げていく。整理してまとめ上げるというよりは断捨離。
章間にあるコラム全部面白い。ストリートコーナーソサエティの付則が面白いって書いてあるのと似てるかもしれない。
エスノグラフィは、経験科学の中でもフィールド科学に収まるものであり、なかでも①不可量のものに注目し記述するアプローチである。不可量のものの記述とは、具体的には②生活を書くことによって進められる。そして生活を書くために調査者は、フィールドで流れている③時間に参与することが必要になる。こうしておこなわれたフィールド調査は、関連文献を④対比的に読むことで着眼点が定まっていく。そうして出来上がった⑤事例の記述を通して、特定の主題(「貧困」「身体」など)についての洗練された説明へと結実させる。
妊娠中に子が先天性心疾患を持っていることがわかった。付き添い入院の必要があることが分かったのは生まれて1か月が経ったころ。2か月で手術をし、付き添い入院が始まり、4か月で退院した。現在子は7か月で、この先もう一度、手術と付き添い入院の予定がある。そしてその母親である私は、大変な記録魔である。それも、数字の記録はあまり続かず、起きたことを起きた時に感情と共に記録することを、携帯が普及し始めた学生時代からずっと続けてきた。そのため、子の病気に関することや私の生活についての数千件にも及ぶメモが分単位で記録されている。これは、不可量のものが記録されたフィールドノートになるのか?
客観化の客観化:エスノグラファーが研究対象に参加しようと努力するのに似て、私は自身や自身の置かれている環境を観察できるよう、自分の心から離れた位置から事象を捉えようと心がけてたように思う。発生時点では一人称的な見方になるし、ショックも受けるが、落ち着いたら、相手の立場に立ったり、制度面での欠陥がどこにあるのかを考えたりもした。冷静になりたかったし、付き添い入院で経験したことを有益にしたかった。
この章に出てくる市について『2024年の能登半島地震で被害に遭った地域にある』との記述を見て驚く。待ってこの本いつ出たの?2024年9月!!??出版されて一年経ってない本を私はいま手に取って「やべ〜めっちゃ今私が知りたかった視点だ〜」とか思ってるの!?「いまーここ」すぎる。
私が付き添い入院中記録していたことは100%これだ。事件もあったが、日常をひたすら記録していた。というか、育児日記を書いているママは大勢いるから、生活を書いている人はたくさんいるんだろう。参与ではなく当事者研究に近い行い。
アフリカの毒については、退院後の外来で、他のママが「あの環境って独特ですよね。なんか連帯感というか」となんだか楽しげに言っていたのが印象深い。子の命が懸かっているので、アフリカのように無限に往復したい場所ではないのだが、そこを無視すれば、一種の寮のような共同生活は他にはない体験ができる場所だ。具体的にどこがとは言いづらいが、非常に「日本的」だとも感じた。
フィールドを『問題地域としてのみみなすような態度を取らない』ことは、付き添いが始まる前はどうしてもできなかったことで、始まってみて「どこにいようが日常は続くな」と思うようになったことを思い出した。ちょっと石岡先生の言いたいこととズレてる気もする。
ここで『かわいそうでもたくましいでもない』という記述がある。かわいそう、たくましい。この二つは患者家族がめちゃくちゃ言われる言葉トップ2だ。そうね。かわいそうだし、たくましくもある。そのあっさい感想で、あっさい関係性の人たちについてはもういい。だがもうちょっと地に着いた、実際どうなの?というところを知りたい人に対して、私はものを書きたい。この記述太字で書いてあって、後半にも出てくるから、先生の中で通底してる考えなんだろうと思うととても嬉しい。
部落の話を通じて「いまーここ」を見つめようという話は、目を逸らしたい気持ちだった。自身の中にもいろんな偏見があって、正すべきだとわかっているけれど、今ちょっとそんな余裕がない。ごめん。の気持ち。
エスノグラフィで記述されるのはすでにあるものって話も、私を勇気づけるものだった。こんな当たり前のこと書いてなんになるんだろうと思うような話ばかりだが、丁寧に調べて書けば、論文にすらなるんだと思うと心が晴れた。
買ってから気づいたのだけど、この本には挿絵が入っている。印象的な場面やキーワードをページ一枚のイラストという形でも表している。図表は一個もない。大学教授が自身の研究と参考文献を大量に提示した、論文に近い新書でこの形式はとても珍しいと思うが、文章だけでなく絵で切り取ってみるのも、エスノグラフィが一つの事例を深掘りし、「何が」を調べるものではなく、「いかに」を調べる学問であるという説明を強化しているなあと思った。
その場に見学者としているだけではなく役割を持って参加することを持って「時間に参与する」と表現しているようだ。私は当事者なので参与も何も、強制参加させられて日常に帰ってきたのちに、「あの経験をエスノグラフィにできないか?」と、入り口ではなく出口としてエスノグラフィを使おうとしている立場である。
参与観察はもう少ししたかった。他の家族がどうやって子を看病しているか、一日のスケジュールがどうなっているか、経済状況、家族構成、抱えている困難。知り合いになった結果面倒ごとを押し付けられそうで、退院が確定するまで(いざとなったら逃げられる状況になるまで)他者を詮索するリスクを取れなかった。逆に言えば退院が決まってからはめっちゃ人と話した。
この本を読む以前に私がやってきたことがエスノグラフィ(というか研究)じゃないのはここだなあと。大学時代にやったことだが、研究には先行論文を読むステップが欠かせない。ただ単に「これってこうだと思うんですよ!」だけじゃダメで、「この論文ではこう言ってて、この研究ではこういう結果で、でも自分はここの部分はこう思ってて。で実際調査してみた結果がこれ。ね?あってるでしょ?」みたいな。
そして今日この本を読み終わって思ったのが、「この本を読んだことで、私のエスノグラフィ始まったんじゃない?」ということ。まあ当事者なので完全にエスノグラフィにはならないし、仮説を立てるとか主題を持つとかする気はないのだけど、この部分はエスノグラフィっぽい、ここは違うな、と「対比的に読んだ」ことで、ただの雑記が、研究や分析みたいな深みを得そうな気配がした。
それ以外にも「対比的に読む」ことはしていて、いま書こうとしているのと同じ媒体の、似たタイプの作者の書いたものを大量に読んで勉強している。書きながらやっているので、自分がぶち当たっている壁をどう解決しているのか教えてくれる最良の教科書として機能しているし、自分が書くもののどこがユニークなのかを都度確認もしている。
あとここで先生は『容赦なく書き込む』ことを推奨しているので、ここで初めてマーカーを手に取った。私は本を汚している感じがして書き込みをしない。けど、書いた人がそうしてというなら遠慮なくそうする。「はじめに」に書いていてほしかったな。なんでこんなど真ん中で…。先生の言うように初読の読むペースの時間的経験の中で重要と思われる部分にマークしていくべきだった。珍しく凄まじいスピードで読んだから、この文章を書きながら再読している時の咀嚼感と全然違う。
対比的に読むことがデータをつくることに関連している:一回目の付き添い入院は初体験だったので新鮮な驚きや緊張感で乗り越えられた気がするが、待ち受けている二回目に向けてのモチベがなくて困っていた。どういった姿勢で臨むべきか決めかねていて。そんな悩みに光を差す記述として、『フィールドで得た漠然とした問題意識を明確にするために文献を読み、着眼点を得て、その着眼点、気づきを持ってフィールドに戻って、「データをつくる」ためにインタビューやフィールドノートの記述をするのだ』(要約)と書いてありました。なるほどな〜と。二回目もやはり逃げられる状況になるまで他者のインタビューはリスキーではあるけれど、とりあえず一回目の振り返りをして、二回目はどんな記録をしていきたいか見定め、関連資料を探すことをしようと思う。
私は日常を書きたいだけで主題がないので、この章は自分のやってることとはちょっと違うかなということが多かったのだけど、主題があるとすればできることはあるなあと思った。前章の対比的に読むことや、社会学の文脈で書くこともそうだし、比較するのではなく、対比することもそう。
子の闘病において、病棟で暮らすことと、家で暮らすことのほかに、「外来」という場所がある。退院後も月に一回程度はその病院の外来に足を運んで検査をするし、外来を重ねてまた入院することもある。病棟にいるとよく聞く会話に「外来来るよね?」というものがある。最初耳にした時はそんなこと確認してなんになるのかと思ったが、別の日、外来に来た母親が病棟にも顔を出すというので、病棟の外に大量の母親たちに、なんと医師と看護師と病棟保育士まで集合しているのを見た。主題を「人間関係」とかに置いた場合、「病棟」と「家」だけで見たら抜け落ちてしまうものがこの「外来」という場所にありそう、対比して調査する場所として必須なのではと感じた。外来もまた病棟とは違った、独特な空気感を感じる場所である。
時間的予見を奪う:これは私に取って大きな学びだった。本書ではフィリピンの立ち退きに遭ったスラム住人の例が挙げられていたが、付き添い入院もこの困難を抱えていることを自覚したからだ。付き添い入院は始まる時も終わる時も未定で、予告されるのが数日前だったりする。病気を抱えているから当然だと思うだろうか?では、その入院する病棟が、盆正月やGWといった長期休暇にはガラガラになることを知っても同じ感想を持つだろうか?病気の子を人質に医療者の都合が押し付けられているのだ。あーあ書いちゃった。まだ治療が続くので今は敵に回したくないんだけど、気づいたら書かずにはいられない性分で。先の見通しが立たないことは病児看護において日常になる。生まれてから、治療が終わるまで、年単位でスケジュールが未定になる。純粋に病気のせいの部分もあるが、先に書いたように医療者の都合による部分が確実にあるにも関わらず、それは私たちには容易には分からない上、付き添い入院は「家族がどうしてもやりたいっていうからやらせてあげている」ていになっているので、余計にストレスが溜まる。この気づきを得たのは大きかったな。
病棟が長期休暇になると患者が減ることは他の家族のインスタで知った。付き添い入院において背景や論理を知ることは難しい。先にも書いたように詮索することで子の手術や看護といった医療サービスが適切なタイミングや質で受けられなくなるかもしれない不安が付きまとうからだ。医療者の側から観察できればいいのだけど。もしくは保育士や清掃員とかで入るのもいい。
ある人々にとっての現実の把握:この、たった一つの真相を知るでもなく、多元的な見方をするのでもなく、バイアスがかかっていることを自覚しながら観察するのは、当事者としてもいい見方だなと思った。私は当然患者家族であるので、その立場からものを見て言いますよと、自省的なのか開き直りなのか分からない姿勢にも自信が持てるというもの。
ミクロな視点からマクロを見る:付き添い入院がマクロにまで射程が届く研究対象なのは明らかだろう。付き添い家族をターゲットにしたNPOあるくらいだし。一方でその実態は泣く子と眠れない夜を明かし洗濯をし食器を洗いシャワーを浴びて食事をする、とても地味でありふれたミクロな場面の連続だ。
ルポルタージュとの違い:エスノグラフィは時間の縛りがない事がルポとの違いらしい。なるほど。昨日『ダーウィンが来た』で、動物写真家がシロイワヤギを40年追っかけてるっての見たけど、そっちと近いんだろうか。文学とも重なる感じ。先生も書いてるけどエスノグラフィは「読み物として面白い」ものが多そう。まだ私一冊も読んでないけど、本書で引用されたものだけでも十分面白かった。けど、「研究」でもあるので、主題と紐付けて研究結果が出てくるところが、エッセイやルポとの違いだろうか。エッセイでも面白いものはそうした「発見」みたいなのはちょいちょい見る気がするけど。社会学の文脈にびたびたに浸って先人たちのあれやこれやを紐づけまくってその上に自分の見た事象からの発見を記載できればエスノグラフィなのかな。知らんけど。ここは明確な区切りがわからなかった。
長文の研究計画書を書くって書いてあったけど、そこに何書くんだろう?私は主題はなくてフィールドが強制的に決められて問題意識(不平不満)と記録は大量にあるわけだけど、大学生とかは、①エスノグラフィというものがあるのを知り、②「子供の貧困について研究したい!」とかって主題を決め、③エスノグラフィで調査しようと決めて、④主題と関係が深そうなフィールドを探して(こども食堂とか?)、⑤主題に繋がりそうな場面に遭遇しないかな〜と思いながら参与観察するみたいな感じだろうか。やりてえ〜大学生に戻って。
研究とお金の話は文系も理系も似たような感じだな〜と思った。応用研究は金出るけど基礎研究にはなかなか出ないし長期での研究も難しいみたいなの話。
私が今付き添い入院をフィールドにエスノグラフィができない理由はここまで書いた通りで、問題意識を表出すると角が立つからだなあ。当事者は奪われる側なので。できない分ここで社会学の視点からみれそうな表現で問題意識については書いたつもりなので、誰かやってください。ほんとはやりたいよ。今すぐ石油王になって付き添い入院病棟を全て個人産院並の、シャワートイレ冷凍冷蔵庫付きで親と子それぞれのベッドがある広めの個室にして、食事もついて、付き添い保育士を外注できるようにして、その病棟の看護師と患者家族全員が参加Permalink |記事への反応(2) | 17:51
でも実際のところ、無理やり「多様性」として女性を理系学部に増やす試みには、いびつさも感じていた。
もう20年も前だ。
僕「それって逆に男差別じゃないですか?」
先生「むさ苦しい男ばかりの4年間と、多少の不平等。どっちがいい?」
僕「……」
あのときは返事に詰まった。
女子枠で入ってきた人が、仮に基礎数学あたりでつまずいたとして、
成績が伸びず、学内で“できないやつ”扱いされる構図は確かにあった。
頭のいい男子、そうでない女子——そんな分類が無意識に生まれてた。
そして不思議と、そういう“格差”があるからこそ、カップルが成立しやすかった。
一部の男子にとっては、恋愛や結婚への「近道」だったようにも見えた。
皮肉な話だけど、あれは“女をあてがう”制度だったのかもしれない。
もちろん、制度の目的は男女比の是正だし、真面目に努力してた女子学生も多い。
「女子枠なんて男に不利」って思ってたけど、
まずはプール消せよ
専門職以外の一般の人たちにとって、理系の勉強って社会に出て何か役に立つ?
無いと困ることある?
津波で泳げるわけねーだろ、浮く浮かない以前に潰されるだけ
ワイも文理どっちでも行ける成績やったけど理系の方が就職いいって言われて理系進んだけどゴミカス中小しか就職できなかったやで(文系進んでもダメやったやろうけどな)…😟
「理系が昭和の価値観」と決めつけてますけど、何を根拠におっしゃっているんでしょうか?
徹夜している一部の人を見て「誇らしげにしてる奴ら多い」とおっしゃいますが、データはありますか? “多い”って、何人中何人の話ですか?
それに、「指導という名のパワハラが蔓延している」とまで言い切ってしまう。
では逆に文系の世界にはパワハラが一切存在しないということでしょうか? そちらの業界はアップデート済みという証拠でもお持ちなんでしょうか?
私はですね、現場を知らずに上から目線で語ることこそ“昭和の価値観”だと思うんですよ。
高校時代は全科目においてわりと優秀な成績を収めており文理両方の道を選ぶことができたのだけど、2chとかで理系が文系を見下したり論破したりするのをよく見かけて理系こそ社会から求められている人間なんだと思い込んで理系進学をしたのが人生において大きなミスだったなあと後悔してしまう
大学時代も無難にそれなりの成績を収めたのだけど、単に理系こそ優秀安定というイメージのみで進学したため研究なんて大して興味持てなかったし、文系より単位取るのしんどかったり研究室の激務のせいで一般的なキラキラキャンパスライフなんて全然縁がなかったりとろくな目に合わなかった
就職もそれなりにうまく行きはしたが、理系研究だと本社なんてまるで縁のない田舎前提だし、結局社内政治を回すのは本社文系で理系なんて奴隷みたいなもんだし、プライベートでも多少収入があろうとカッペというだけでバカにされるわ推しコンテンツのイベントへの参加数もどうしても都内文系オタクに引けをとってしまうわ理屈くさいイメージ持たれてモテないわでロクなことないし