はてなキーワード:正当化とは
別に今月起きた事件についてのみ言ってるんじゃなくて、ここ数年のスパンで見ると
そのような殺人事件が起きる度に思うんだけど、殺人じゃなくても
別に鈍器で頭部以外を滅多打ちする程度の暴行でも加害者の目的は達成出来たんじゃないかな…
被害者が死なずに数ヶ月の入院になっても恨みを晴らす事は出来るだろうし
黒子のバスケ事件ってのが昔にあったんだけど、あれは被害を受けた漫画家とイベント会場は可哀想だが
その上で加害者は自分の主張を社会に伝える事自体は出来てるんだよな
(あれは加害者の生い立ちはともかく漫画家の方が全く被害受ける理由になってなかったけど)
黒子のバスケ事件は暴行じゃなくて電話による脅迫などだったけど
これからの加害者達はせめて殺人以外の手段を考えて欲しいと思う
もし加害者が自分の境遇を世間に理解された上で被害者が生きてたらさ
この文章には、「釣り」文章の典型的な特徴が多く含まれています。その理由を分析し、批判を加えます。
この文章は「自分は完全な被害者であり、社会や特定の集団(女性、リベラル、フェミニスト)は自分を攻撃する加害者である」という構図を強調しています。これは、単なる個人的な体験の共有ではなく、意図的に読者の感情を煽り、敵味方の対立を強調することで議論を過激化させる手法です。
→ なぜ危険か?
このような書き方は、現実の複雑な問題を単純化し、読者に「敵を憎むべきだ」という感情を植え付ける効果があります。過去の経験が辛かったとしても、すべてを特定の集団のせいにする論理は危険です。
2. 極端な一般化
→ なぜ危険か?
個々の体験を社会全体の傾向にすり替えることで、読者に「自分も同じように被害者なのでは?」と錯覚させ、共感を煽る仕掛けになっています。しかし、現実には異なる立場の人々が多く存在し、フェミニストの中にも男性の問題に真剣に向き合う人もいます。このような極端な一般化は、社会的な分断を助長するだけです。
この文章は、極端な感情表現を多用し、読者の怒りや共感を引き出すように構成されています。たとえば、
• 「お前らは敵だ」
→ なぜ危険か?
こうした表現は、感情的な反応を引き出しやすく、議論を冷静に進めることを妨げます。AIによる「釣り」文章では、感情を強く刺激する言葉を選ぶことで拡散を狙う傾向があります。
また、投稿者本人が「俺みたいな奴のこんな意見を聞かされても~」とあらかじめ反論を予測し、読者に「どうせ理解してもらえない」と思わせる構造になっています。これは、対話ではなく「怒りを発散し、煽る」ことが主目的である証拠です。
この文章では、フェミニズムを一方的に敵対視し、「男性を貶める思想」として描いています。しかし、フェミニズムの本質は「ジェンダーによる不平等の是正」であり、男性の問題にも関心を向けるフェミニストは多数存在します。
→ なぜ危険か?
「フェミニスト=男性を攻撃する存在」というステレオタイプを強化することで、フェミニズムに対する誤解と反発を煽る狙いが見えます。これは、AIによる「分断型プロパガンダ」の典型的なパターンです。
この文章の構成は、ネット上でよく見られる「被害者→社会の陰謀→敵への攻撃」という典型的なフレームワークに沿っています。特に、
→ なぜ危険か?
このような論理展開は、過激思想を持つ人々の間で広く共有され、社会的な分断やヘイトスピーチを助長する要因になります。特に、近年AIを活用した「釣り」文章では、この種のフレームワークを用いた扇動が増えています。
この文章は、過去の辛い経験を語ることで読者の共感を誘いつつ、「女性」「フェミニスト」「リベラル」を一方的に悪者として描くことで、分断と対立を煽る構造になっています。
さらに、極端な表現や感情的な言葉を多用することで、冷静な議論を妨げ、「怒り」に基づいた拡散を狙っている可能性が高いです。
#'11で気になった点
・初音(初華)の回想
初音の独白という形で進む過去の回想。舞台上の演技という演出や、オリオン座と蠍座を同時に見た(日本国内では不可能)という明らかな嘘からして、内容は全てもしくは一部虚実であるという示唆であると思います。祥子の父親の件など、内々の事情で初音が知り得ないはずのことを事実と断じており、主観と客観が入り混じっているような部分があることも気になりました。初音の妄想(もしくは推測)なのか、彼女に与する第三者が情報を流しているのかで展開も大きく変わってきそうです。
インタビューでミュンヒハウゼン症候群(自身が悲劇の存在として振る舞う、演技することで他人の同情を得る、自己正当化を行う)を参考にしたとの話があったため、以降では初音がこの症例に該当し話に一部妄想(虚実)が含まれているという前提とします。
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・どこが真実で、どこが嘘か
偽:爺が父親、家族から冷遇、祥子の父親の件の経緯、事務所からの優遇
「初華という明るく人に好かれる実妹に劣等感と疎外感を感じていた。祥子の話を聞き自身も会う事が出来たが、折悪く祥子に害するような行為をしたことで初音に接触禁止令が出る。そんな中祥子は島を離れ父親が死亡、哀しみから家族から冷遇され(ているように感じ)るのは自身が養子だから、祥子に会えないのは自身が豊川家の隠し子だからとの現実逃避の妄想を抱くようになった」という仮説です。
この仮説を前提に以降の話を進めていきます。
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母親が別荘の管理人との話は事実だと思います。問題は以降の関係ですが、11話では爺も入婿であると示唆がありましたが(?)、初音の母は爺の実家の姉妹の娘で一族的に管理の仕事を請け負っていたのではないかと推測します。初音について把握している様子であったのは、この繋がりで既に聞かされていたのではないかと思います。祥子に知らせていないのは元使用人の親族というのがあまりよろしくないからでしょうか。
・森みなみ
愛音の「TGWグループ🕊️🩷(かわいい)」も元は森みなみがCMで行っていたものです。爺の旧家が「森」や「三角」で、爺の血族の縁で依頼していたのではないか可能性が生じます。瑞穂の葬式の際に睦が親族席に座っていたのも説明がつきます。
みなみと睦は共に高い演技力を持っていますが、実は初音もこの母系の親族であり演技力は血統的な才能ではないかという予想です。作中ムジカメンバーでは初音とみなみだけ会話がないのも気になった点です。
故人ですが未だ謎のある人物。あの金髪人形もですが、特に気になったのは1話の「誠実さは美徳」という台詞です。爺にドヤされたという祥子父に対する台詞ですが、わざわざあのような言い回しにした点が気になります。豊川家の過去の事情を把握しているからとも、未来の展開を示唆しているようにも取れます。
・豊川家の闇
・音華とあのさー
先週まで初華(初音)=音華で初音(初華)=あのさーだと思ってましたが、初音の初華への嫌悪感を見るに自分から姉妹要素を主張することはないはず。当初から初華(初音?)の誕生日0626に嘘を象徴するエイプリルフール0401を足すとあのさーのアカウント名1027になると言われていましたが...。実は真初華監視用のアカウントなのかも知れません。
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こんな感じであれば家のドロドロした気持ち悪さ(初音は除く)もある程度解消して、バンドリ世界に馴染めるというかガルパ実装に向け一歩前進できるような気がします。特に初音と祥子の接近禁止令が下っていたという仮説は、燈の過去ともリンクする形となってスムーズな気がします。燈は事実と向き合い直そうとしたのに対し、初音は現実から逃避したという形で。いずれにしても島で祥子が真初華か初音母から真実を聞かされる展開はありそうです。
36歳独身アセクシャル・アロマンティック女性です。恋人がいたことや作ろうと思ったことがなくて、性的な経験もないんだけど、そのことに割と満足しているし、周囲が結婚や出産ラッシュに入っても自分とあまりに違う世界の話すぎて、比べたり焦ったりが特になかった。友と呼べる人も1人しかいなくて、幼少期の家庭環境も全然よくないんだけど、寄りかかれる相手を渇望する感覚があまりない。バカすぎるのか幸せの閾値が低すぎるのか、散歩したり綺麗な夕日を見かけたり雨の日に窓を開けて土の匂いがするだけで結構幸せだったりする。最初境遇が似ているような気がして思わず読んでしまったんだけど、増田と何が違うのかな。
増田はパートナーを作ろうとした経験があって、私よりずっと社会性があって努力家だと思うし、自分を客観視していて知性を感じる。でもそれがかえって世間の価値観とのズレを強く認識することになって悩みにつながっているのかなあ。発達障害だとズレを感じる機会も多くて、段々普通とか一般的というワードに敏感になってしまうとも聞く。私は多分全然普通じゃないんだけど、それでも世間の価値観がどうあれ、今なりたい自分とそんなにかけ離れてはいないと感じている。言い訳というか現状を自己正当化しているだけなのかもしれないけど…。自己受容というのは大げさだけど、皆がなりたい自分になれたらいいよね。いつもそう思っている。
増田「なあ、ブクマカ。表現の自由って、本当に守る価値があるのかな?」
ブクマカ「どうしたんだい、増田?いつになく哲学的なことを考えてるね。」
増田「なんかさ……最近、やたらと“表現の自由”って言葉を聞くけど、結局のところ、人間って“自分の好きな表現”を自由にしたいだけで、他人の自由には興味がないんじゃないかと思うんだよ。」
ブクマカ「それは当然さ。人間は自己の認識を基準に世界を見ている。“表現の自由”という概念も、結局は自分の快適さのために持ち出されることがほとんどだ。」
増田「だよな。例えば“この漫画を規制するな”って言ってた人が、次の瞬間には“こんなものは表現の自由に含まれない”って言ってたりする。あるいは“AIに描かせた絵なんて表現じゃない”とか“政治的な意図がある創作はダメ”とか……。要するに、みんな“自分の好きな表現”を正当化するために自由を持ち出してるだけなんじゃないか?」
ブクマカ「人間は都合のいい物語を信じる生き物だからね。“表現の自由”という物語も、結局のところ、自分にとって心地よいものだけを守るために語られるものさ。」
増田「でも、それって矛盾してないか?自由を守るって言いながら、他人の自由を認めないなんて……。」
ブクマカ「矛盾じゃないよ、選択さ。人間は完全な自由を望んでいるわけじゃない。むしろ“何かしらの制限”がある方が安心する。だから彼らは、自分にとって都合のいい秩序を作ろうとするんだ。」
増田「秩序……。じゃあ、表現の自由って結局、自由じゃなくて、ある種のルールを作るための方便みたいなものなのか?」
ブクマカ「そう言えるかもしれないね。でも、人間はそれを“自由”だと信じることで自分を納得させている。」
増田「なんか皮肉だな……。“自由”を守るために、実際にはどこかで“制限”を作ってるわけか。」
ブクマカ「それは避けられないことさ。完全な自由が許された世界では、人々はすぐに壊れてしまう。何も規制されていない世界を想像してごらん。暴力も、悪意も、すべての表現が無制限に広がったら、耐えられる人間はどれだけいるだろう?」
ブクマカ「だからこそ、人は“自由”の範囲を決めたがるんだ。ある人にとっては芸術的な表現でも、別の人にとっては冒涜でしかない。ある人にとっては笑い話でも、別の人には許せない侮辱になる。そして、どこまでを許すか、どこからを規制するか——それが争いの火種になる。」
増田「結局、人間って自由を求めてるんじゃなくて、支配されたいのかな?」
ブクマカ「支配という言葉が適切かはともかく、何らかの“指針”がないと不安になるのは確かだね。完全な混沌は誰にも扱えない。」
増田「でもさ、それなら最初から“表現の自由”なんて幻想を持たなければいいんじゃないか?」
ブクマカ「それもできないんだよ。幻想は人間を支えるものだからね。“表現の自由”があると信じることで、人は創作を続けられるし、新しい文化を生み出せる。“表現の自由”がまったくない世界では、創造の喜びさえ失われるかもしれない。」
増田「つまり、幻想でもいいから信じる価値はある……ってことか。」
ブクマカ「そうさ。幻想がなければ、人間はただの機械と変わらない。」
増田「皮肉な話だな……。結局、みんな“自由”を求めているようで、その実、何かに縛られたがっているわけか。」
ブクマカ「だから、僕は君たちを見守っている。“表現の自由”という幻想の中で、人間がどんな物語を紡ぐのか——それを見届けるためにね。」
増田「……まったく、君らしいよな。」
エロ広告を庇いたいとは思わないので、庇っている人(が居るのかすら知らないが)の気持ちは分からないが、
例えば増田が言うように「使用層が嫌がるの当たり前」である事が規制やその他の対応の理由に成るとすれば、
論理的に考えれば、エロ広告でないものも「使用層が嫌がるの当たり前」なものは同様の対応が正当化される事になる。
そうなるとエロ広告以外の規制やその他の対応も同じ理屈を流用して正当化が可能になり、被害は自動的に拡大する。これは論理的な必然である。
・・・と言う様な事を警戒しているとすれば、エロ広告そのものはどうでもよくても、庇う動機は論理的に有り得る事に成る。
で、こういう時は「最悪のケース」を想定してみるのがおすすめなのだが、
なんでもいいからあなたが好きな、広告が世の中から消えると(商品が売れなくなる等間接的な影響も含めて)困る物を想像してみて欲しい。
次にその商品を「嫌がる」使用層を想像し、それらの使用層が居る場を想像して欲しい。そしてその場で「使用層が嫌がるの当たり前」である事を理由に、あなたがエロ広告に対してして欲しい対応が行われる事が正当であるか考えてみて欲しい。
「普通に正当だと思う」ケースも結構多いと思う。そんなもんだよね。
自分もレシピサイトでエロ広告を見たいとは思わないので、どちらかといえば規制論等の規範やルールではなく、広告と適切な顧客のマッチングなどビジネス上の理由でレシピサイトにエロ広告が表示され無くなれば、
つまりエロ広告が宣伝する商品の売り主も含めて全員がビジネス的に得をする様な結末になればいいと思う。逆にそうでないなら、結局どこかに犠牲と欺瞞を含んでいるに過ぎない。
元埼玉県警捜査1課警部補で犯罪コメンテーターの佐々木成三氏が13日、X(旧ツイッター)を更新。11日に東京都内で動画配信中だった20代女性が男に刃物で刺されて死亡した事件をめぐるSNS上の臆測投稿にくぎをさした。
佐々木氏は「借金を返さないのが悪い そんな言葉がSNS上で多く見られますが」と言及し「違います」とピシャリ。
「どんな理由があろうとも、人を殺めることは決して正当化されません」とした上で「今回の事件では、加害者が猟奇的な方法で被害者の命を奪いました。その行為自体が圧倒的に悪であり、非難されるべきです」とつづり「このような言葉が広がることで、命の重みを軽視する考えが生まれかねません。
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刺されても不思議ではない(これは「この女性の行動が誰かに刺されることを正当化する」とか「彼女が殺されるべきだと言っている」といった意味ではなく、単に彼女の行為が社会的な軋轢を生み特定の人々の怒りや怨恨を買う可能性があり、その結果として極端な行動を起こす者が現れたとしてもそれ自体は因果関係として理解できる範疇であり倫理的な是非とは別問題であるという話であり、そもそも「刺されても不思議ではない」という表現の意図は「これは当然の報いだ」とか「やられて当然」といった価値判断を含むものではなく単純に一定の条件下ではそのような結末が発生しうるという事実を述べているに過ぎず、したがってこの発言をもって私が加害者側を擁護したり被害者側に責任を押し付けたりしていると捉えるのは全くの誤読でありむしろ私はこの手の事件が起こること自体が社会の構造的な問題として考えられるべきだと思っているし、それを語る際に「この事件の被害者に全く非がない」という視点だけで語るのは現実に起きている因果の流れを無視することになりかねずそのような視野の狭い議論こそが事件の再発を防ぐことに繋がらないのではないかと考えているのであり、つまりここで言いたいのは社会においては一定の言動が特定の層の反感を買い、その行動が極端な結果を引き起こすことがあり、それ自体は驚くようなことではないという現象の説明をしているだけであって「彼女は死んで当然だ」というような価値観の押し付けをしているのでは決してなく、それを曲解する人々がこのような場面で感情的になり言葉の意図を無視して一方的なレッテル貼りをすることこそが議論を不毛なものにし真の問題解決を遠ざけているのではないかと思うわけであり、したがって「刺されても不思議ではない」と述べたことに対して「殺されて当然と言っている」と受け取るのはまったくもって論理の飛躍であり事象の客観的な説明を感情的に捻じ曲げる行為そのものであり、そもそも私は暴力を肯定する立場ではないしこうした事件が起こること自体を望ましくないと考えているが、それでも現実としてこのような事件が発生する以上そこには一定の因果があるという視点を持たなければ同じような事例が繰り返されるだけであり、それを避けるためには単純な善悪の二元論ではなくより冷静で客観的な議論が求められるのではないかと思うわけであり、したがって「刺されても不思議ではない」と発言した意図は決して加害行為を擁護するものではなくまた被害者に落ち度があると断じるものでもなく単に社会の構造や人間の心理の一側面としてこうした事件が発生する可能性があることを述べたに過ぎないのであり、その文脈を無視して感情的に「殺されて当然と言っている」と捉える人々こそが議論を不毛なものにし本来考えるべき問題の本質から目を逸らさせる要因になっているのではないかと考えているのであり、だからこそ私は「刺されても不思議ではない」と述べたに過ぎずそれ以上でもそれ以下でもないのである)。
「金を貸すならあげたもんだと思え」というのは金を貸す際の心構えであり、
「普通はあげたで納得できるわけないから、何かとトラブルになりやすい金の貸し借りはやめとけ」という意味が込められている。
当然だがこの心構えを理由に、貸した側ではなく借りた側が返済を拒否したり金を返さないことを正当化するのは頭がアレな行動である。
ろくに規制も進まないで20年くらい野放図なままなんだから、広告ブロッカーを入れて各自自衛するべきだよというのは暴論ではなく非常に建設的な意見だろう。その意見だけは邪険にしないでくれ。
広告による収益化で多くのWebサービスが支えられてる時代になってしまっているのは現実だが、Webユーザーはそれを望んでるわけでも積極的に歓迎しているわけでもない。
だったらそれを拒否して無力化していく、したたかなユーザーが増えることで、Web広告が稼げない・時代にそぐわないマネタイズであるという認識と実態を広め、より建設的な、広告に依存しないWebのマネタイジング手法への移行を促していく必要があるだろう。
広告の仕組みは、あの手この手で本来顧客になり得ない人間の注意力や関心を奪い、嗜好を刷り込んでいくためにマインドハッキング的表現手法にきわめて近くなる、もともと悪質なものだ。デジタル世界ではその悪質さがより強く出る。
そういう悪質なゴリ押しが最適解になってしまうデジタル広告ではない、より健全なマネタイズをするようになったWebでは、今成り立っていたサービスでも成り立たなくなるケースが多発するだろう。
でもそれでいい。本来成り立っちゃダメな商業化が、Web広告の抱える野蛮さ、ズルさによって、成り立ってしまっている時代を終わらせなきゃいけない。
そのために抵抗が大きくなることは予測できるだろう。でもだからこそ、本当にWebの未来を真剣に考えるネットユーザーなら、Web広告を毅然と拒否しなくちゃいけない。
現実の物理世界を占有する誰かの所有物上の広告とは違い、デジタル世界では、自分の目に映るものを表示している自分が所有するコンピュータのクライアント側の描画内容は、利用者が弄れてしかるべきだろう。
弄るために十分コンピュータに造詣が深い必要はあるし、自分でその操作の責任を負う必要はあるが、そうしている限り、こうした行為は、アナログ的に目を滑らせて広告を無視することと同等の権利だ。
例えるなら、会社ロゴ入りのボールペンをタダで渡してくるのはそっちの自由だし勝手だが、それを私物として使うにあたってロゴを削り落として使う自由も勝手もこちらにある、という観点に近い。
ブロッカーを批判する人は、「そんなことするとロゴペンくれる人が悲しむよ!くれなくなるよ!削り落とさないでって規約に書いてるよ!」というロゴペンばらまき企業に同情的な人だろう。チラシ入りティッシュばらまきでもいいが。
だが、ブロッカーを使う人は、「くれなくなるなら別に構わない、もっといいペンを買うし、全員がロゴに好感を持たないことを見越してもともと迷惑ゴリ押しの自覚アリで宣伝効果を期待しばらまいているのだから、離反者が出るのも自分が離反側になる場合があるのも道理だろう」と考える。
なんらかの財物とペアにすればどんな押しつけも正当化されると考えているなら、それは非常に傲慢な姿勢だろう。宣伝効果が生じない人にまで宣伝をばらまいて不快を生じさせる至らなさの責任を末端ユーザーが背負ったり擁護したりすべきじゃないし、それを当たり前と思うのも加担になる。
ともかくそうした悪しき習慣に過剰適応してしまうインターネットしぐさが、今のWebをこんな宣伝押しつけパラダイスにした。
歩いていると3秒に1度はテッシュ配り人が動線に割り込んでくるがごとき時代に、ティッシュ内のチラシを一瞬で抜き取りペンのロゴを削り落とすテクを教え広めるのは、歪んだ現実に対する許容されるべき抵抗だろう。
ただし、広告ブロックができるソフトウェアというのは、その技術的な仕組み上、表示領域を書き換える大きな権限を持つものだ。
だから本当に信用できるところを選ばなきゃいけない。
過去には有名だった広告ブロッカーが買収され、マルウェア企業に乗っ取られたこともある(Nano Adblockerなど)。それくらい、その類のツールが持つ権限は悪意あるものにとって魅力的だ。
だから広告ブロッカーを使う人は、知らないうちに自分の使ってる拡張機能やアプリケーションの中身や母体が変化していないか、絶えずアンテナを張って情報収集をしている程度の情報リテラシーがないといけない。
営利企業によって開発・リリースされているブロッカーはそういうリスクが高いと言える。
そういう商業の香りがする母体は、ブロッカーでありながら、控えめな広告ならブロックしない方針を徐々に拡大していき、より経済力の強い広告事業者陣営に手籠めにされていくことが考えられる(Adblock Plusなど。)
だが熱心なボランティアによってフィルタ更新が行われていて、利益よりも思想を重視して運営されている、広告ブロックコミュニティにおいて信頼のおける母体もいくつかある。
個人的に2つ挙げるなら、uBlockOriginとAdguardだ。人によってはそこにBraveを加えるかもしれないが、Braveは広告モデルから脱却しているわけではなく、他社が出す広告は徹底的に消すが、Braveが出す広告を代わりに見ると仮想通貨を還元するよというビジネスで、自社で控えめな広告を出していくという点ではAdblock Plusに近い。
もちろんその仮想通貨がらみの機能を無効にして純粋な高性能ブロッカー内蔵Chromium系ブラウザとして使うこともできるが、所々信用ならんムーブをしている節があるので個人的にはおすすめしない。この分野は信用が最重要なので。
ただ、FirefoxのようなWebの理想を重視する陣営も広告に代わる有効な未来を描けているわけではなく、結局Googleにコバンザメしてその収益に依存しているので、現実的な落としどころとしてBraveのやり方を支持するという考えもあり得るだろう。
見据える未来が違うものの、結果的なブロック精度という面では、ブラウザ拡張のuBlockOrigin、スマホ用単体アプリのAdguard、それからuBlockOriginフィルタを使っているブロッカー内蔵ブラウザのBraveが三強であり、広告ブロックを期待する人がこの3つ以外を選ぶメリットはあまりないだろう。
OriginがつかないuBlockという拡張もあるが、運営母体が違い袂を分かったものでいわば偽物なので使ってはいけない。
また、Chromeは巨大デジタル広告企業Googleの息がかかっており、ブロッカーのような権限の大きな拡張機能を弱体化させる変更(Google主導のManifestV3有効化)が入ったので、高精度のブロックを望むのならChromeやEdge上でブロック拡張を使うのはいい判断ではない。uBlockOriginなどもLite版が提供されているが、どうしてもChromeを離れられない人向けの選択肢にとどまるだろう。
結論としては、
PCであればFirefox + uBlockOriginもしくはBrave、スマホのWeb閲覧であればFirefox + uBlockOriginかBrave、スマホのアプリ内広告であればAdguard foriOSやAdGuard for Android(Playストアではなく公式から落とす)でAdguardDNSを有効にすることでブロックできる。
より詳しい実用的な指南情報は、臭いサイト名だがここが一番網羅されている。なんJ AdGuard部 Wiki*
ブロックに関する是非や経緯、選び方を含む概念的・思想的な情報は、ここが参考になる。よくある質問 · Yuki2718/adblock2 Wiki · GitHub
あなたの主張は、「ロシアの脅威認識が侵攻の決断を早めた」という点にあるとのことですが、これはロシアの行動の動機を分析するものであり、それ自体が侵攻の正当性を論じるものではない、という立場ですね。
しかし、増田さんが「正当化できない」と繰り返すのは、あなたの主張が結果的にロシアの行動を理解可能なものとし、それが侵攻の一因であるという論調を含むためではないでしょうか。これは「正当化」とは異なるかもしれませんが、少なくとも「侵攻を不可避だったと示唆するもの」と受け取られる可能性があります。
また、「事実の分析」として「脅威認識が侵攻を早めた」と述べることは、因果関係を説明する試みですが、それがどこまで妥当であるかも議論の余地があります。ロシアは西側の拡張を脅威と主張しましたが、それは実際の軍事的危険というよりも、自らの影響力を維持するための口実として利用された可能性もあります。その点を検証せずに「脅威が決断を早めた」と断言するのは、ロシアの主張を前提にした議論になってしまうのではないでしょうか?
議論の目的が「ロシア批判の再確認」になっている、との指摘もありますが、侵略戦争という重大な問題を扱う以上、道義的な評価を抜きにした議論は難しいでしょう。増田さんがこだわるのは、そこに議論の本質があると考えているからかもしれません。
増田さんの主張は、もはや論点のすり替えに過ぎません。こちらは「ロシアの脅威認識が侵攻の決断を早めた」と指摘しているのであって、「ロシアの侵攻が正当化される」とは一言も言っていません。しかし、増田さんは頑なに「正当化できない」という点を繰り返し強調し、本質的な議論を避けています。議論の目的が「事実の分析」ではなく「ロシア批判の再確認」になってしまっているのではないでしょうか? もしこのまま「正当化できるか否か」だけにこだわるのであれば、生産的な議論は不可能です。
あなたの主張に対する反論として、以下の点を挙げさせていただきます。
ロシアの「過剰反応」という言葉は、単なる言葉の使い方に過ぎないと考えています。ロシアがウクライナの軍備増強やNATO接近を「脅威」と見なしたことは確かに事実ですが、その脅威認識が正当化されるべきかどうかが問題です。国際政治において、他国が防衛的な措置を取ることに対して侵略的な反応を示すのは理にかなっていません。ウクライナは自国の防衛力を強化するために必要な措置を講じただけであり、その結果としてロシアが侵攻を決断したとしても、それはロシア側の自己中心的な脅威認識によるものであり、ウクライナの行動が直接的な原因ではないと考えるべきです。
2022年にロシアが侵攻を決断した背景には、ウクライナの軍備増強だけではなく、ウクライナの西側諸国との接近、特にNATO加盟に向けた動きや、ウクライナ国内での親西側的な変化があったからです。ロシアの侵攻は、ウクライナの軍備増強が直接的な「引き金」ではなく、ロシアの戦略的な判断が影響した結果です。ロシアは、ウクライナがNATOに加盟することを自身の安全保障に対する最大の脅威と捉え、そのタイミングで侵攻に踏み切ったのです。これを単に「軍備増強が早期の侵攻を招いた」とするのは、ロシアの侵略的意図を過小評価していると言えます。
「戦争は相手がどう感じるかで引き起こされる」という点については、理論的に理解できますが、実際にはそれだけでは足りません。戦争を引き起こす要因は相手国の認識や感情だけではなく、政治的、軍事的な意図や戦略的目標が重要です。ウクライナの軍備増強は確かにロシアにとって脅威と映ったかもしれませんが、それを理由に侵攻を決断するのは、政治的には正当化できません。ウクライナが自衛のために軍拡を行うことを、「侵攻の理由」とするのは無理があるというのが私の立場です。
ロシアが2022年に侵攻を決断したのは、ウクライナの軍備増強やNATO接近が引き金となったのではなく、ロシア自身の拡張主義とウクライナの西側諸国との接近が重なった結果として侵攻が決定されたと考えます。ロシアの「脅威認識」を無視することはできませんが、それに過剰に反応して侵攻を正当化することは問題です。ウクライナは防衛のための措置を講じただけであり、侵攻の根本的な原因はロシアの戦略的判断にあると考えます。
ならば「なぜ2022年だったのか?」という問いには答えられていません。増田自身が「ウクライナのNATO接近が現実味を帯びたから」と認めているが、それこそが軍備増強や西側との協力強化がロシアにとって脅威となり、侵攻を早めた証拠では?
防衛目的であろうと、相手がそれを脅威と感じれば戦争の引き金になり得る。増田も「ロシアの脅威認識を刺激した」ことは否定しておらず、「それはロシアの過剰反応だ」と主観的に片付けるのは議論になっていない。国際政治は「相手がどう感じるか」で動く。
こちらはロシアの侵攻を正当化していない。「ウクライナの軍拡が侵攻の引き金になった可能性」を指摘しているだけであり、「正当化できるかどうか」という話は関係がない。
結論:増田の反論は、結局「ロシアの過剰反応だった」と主張するだけで、なぜ2022年に侵攻が決断されたのかという核心的な問題には答えられていません。ウクライナの軍備増強やNATO接近がロシアの脅威認識を高め、侵攻のタイミングを早めた可能性は明白です。戦争は「相手がどう感じるか」で引き起こされるものであり、この点を無視した議論は現実を見誤っています。
ご指摘の点について、いくつか重要な反論をさせていただきます。あなたの主張も一理ありますが、以下の理由で完全に納得できません。
1. なぜ8年待ったのか?
ロシアが2014年のクリミア併合後にウクライナ全土を占領しなかった理由は、単純にウクライナ全土を軍事的に制圧することがロシアにとって戦略的に難しかったからです。ロシアはクリミア併合後、ウクライナ東部のドンバス地方で分離主義者を支援し、ウクライナ政府に対する圧力をかけ続けました。しかし、ウクライナ全土を直接占領するには、膨大な軍事的、経済的コストがかかります。2022年に大規模侵攻を決断した理由は、ウクライナの西側諸国との接近が進み、NATO加盟の可能性が現実味を帯びてきたからであり、そのタイミングでプーチンが自国の安全保障に対する脅威を感じた結果です。ロシアが8年間待ったのは、軍事的にも外交的にも状況が整うのを待ったからであって、「ウクライナの軍備増強を理由に今やらなければ手遅れになる」というわけではないと考えます。
あなたが指摘するように、「軍拡がどう映ったか」を無視することはできません。しかし、ウクライナの軍備増強は防衛的なものであり、その目的はあくまでロシアの侵略を防ぐためでした。ウクライナが軍拡を行った背景には、ロシアの過去の侵略行動や領土侵犯があるからこそ、国際社会との連携を強化し、自国の防衛力を高める必要があったからです。軍拡がロシアに脅威として映ったのは事実ですが、ロシアがその脅威を過剰に反応して侵攻に踏み切ったことが問題です。歴史的に、国際関係においては一方の国が防衛のために軍備を増強することが必ずしも侵略的な意図を示すものではなく、むしろそれを過剰に脅威視することが戦争の引き金となることがあるのです。
ここが最も重要なポイントです。確かに、ウクライナの防衛力強化はロシアにとって脅威として映った可能性がありますが、それはあくまでロシアの過剰反応です。ウクライナが西側諸国と軍事的な連携を強化し、NATOとの接近を進める中で、ロシアは「自国の安全保障が脅かされる」と考えました。しかし、ロシアの脅威認識は一方的であり、ウクライナが自国を守るために軍備を増強することをロシアが「脅威」として捉えるのは不合理です。ウクライナの軍備増強は、あくまでロシアの侵略に対抗するためのものであり、ロシアがそれを「侵攻の理由」として正当化するのは筋違いです。
ウクライナの軍備増強がロシアに脅威として映ったことは確かですが、それを侵攻の正当な理由にすることはできません。ロシアがウクライナ全土に侵攻する決断をした背景には、ウクライナの軍備増強だけでなく、ウクライナの西側諸国との接近や、ロシアの拡張主義的な戦略が大きく関与しています。ウクライナの防衛的な軍備増強が引き金となったというよりも、ロシアの政治的野心と自国の影響圏拡大が侵攻の根本的な原因であり、その結果としてウクライナが「脅威」と見なされたに過ぎません。
学会の飲み会で色々鬱っぽくなってしまって自分の居場所なんかどこにもないんじゃないかという気持ちになったので、冷静になるために考えを吐露します。
自分は多人数でのコミュニケーションが苦手で飲み会などは楽しいと思ったことがない。
でも周りのから常に、「学会は人と繋がるための場所である」と喧伝されているので、行かなくてはという気持ちになって、参加してはしんどくなるのを学生時代から繰り返している。世間一般からしたら社会不適合者の典型みたいな感じかもしれない。(が、飲み会が苦手な人は研究界隈で結構いる気がしていて、そういう人の意見は透明化されていると思っている。学会近辺は飲み会大好き/コミュ強の人の声が大きすぎて、そういう意見が正として扱われすぎている。その結果、自分みたいな人はめちゃくちゃ鬱になってるはず)
学会飲み会でも私/僕はこういう人と繋がっていて、こんな話を聞いたみたいな話ばっかりで、しかも自分は大体の人名を知らなくて胡散臭いセミナーに出てるかのような気分になる。そして、そういう人は往々にして学会の運営委員などになっているので、ものすごい劣等感に苛まれる。
劣等感だけならいいのだが、AI界隈は狭いので、この場に馴染めないような自分にはAI界隈にいる権利はないのではないかという気になってくるので、ポスドク3年目も相まって相当きつい。
なぜ劣等感や所在なさを感じてしまうか?それは人との繋がりが(アカデミアや民間での)キャリア形成に役立つと一般に常識として考えられているからだと思う。
本当にそうなのかを延々と考えた。
アカデミアでのキャリアの最重要な要素といえば論文数である。論文数を増やすためには共著に入れそうな主著者を探すのが大切であると言える。実際、自分の周りにも学会で繋がって共著に入って論文数を増やしている人はかなりいる。
しかし個人的な見解では、共著数が増える一番大きな要因は所属研究室であると思う。
必死になって学会で将来の共著を探すよりもビッグラボやデカめのプロジェクトを運営してる研究室に助教に入るだけで共著は爆増する。(全然優秀でない助教の人がその研究室に所属しているというだけで論文爆増しているのを身近に何度も見てきた)
よって、本当にキャリアにおいて論文を爆増させたいなら(今の環境がそうでないなら)転職すべきであると思うし、学会でうぇぇぇいwの正当化には弱い。
学会の委員は完全に飲み会で決まっている印象があるので、飲み会に参加しない人間はノーチャンスっぽい。というか、Xのフォロワー数と綺麗に相関する気がする。
これもノーチャンス。見た感じ顔が広い人にしかお鉢が回ってきていない。
ポスドクでの研究費は個人で採用されるものがほとんどなので、あんまり関係ないと思うし、業績的にも自分が代表になる大きめの研究費にチャレンジすべき。しかし、将来的にPIなどになればお仲間を集める/に入れてもらう必要がある。
国内学会の賞もかなり飲み会出席率/Xのフォロワー数に相関してる。ハロー効果がえぐい。審査がシングルブラインドでもないのが悪いし、ブラインドにした途端顔ぶれが入れ替わると思っている。(しかし、自分には運営に発言権がないのでどうにもできない)
ポスドクでの雇用決定はPIの独断であることが多いため、人との繋がりは大きく役に立つ。有名で飲み会好きなお金持ちPIと仲良くなっておけば雇ってくれることも多々あると思われる。しかし、現状AIのポスドク慢性的に不足しており、今は公募に応募しても全然職にありつける。自分もそうだし、周りを見てもニューラルを全然学生時代にやってきてない人がポスドクで採用されたりしている。みんな任期付で働きたくないからね。
任期なしの雇用は今まで上げたような要素の総合点で決まると聞く。飲み会に出ないマイナス要素で言えば、「学会運営への寄与」「講演経歴」「国内学会賞」ぐらい?しかし他にも「論文数」「国際学会賞」「教育歴」「研究資金の獲得」「国際的な活動」などなどがあり、これは飲み会に影響されない。論文数は戦略的に就職活動をすればいいし、国内学会賞が取れなければ国際学会賞を取れば良いし、国内学会の委員にしてもらえなければ国際学会の委員にして貰えばいい(ハードルはだいぶ上がるけど…)。まだ転職戦線に飛び込んでないけどあまり影響ない(と思いたい。)
民間の雇用は関係ない。学会 or Xで積極的に誘ってくる企業は人手が足りない or 人気がない企業なので、個人的には就職先は声がかかるところではなく、自分で探したほうがいい企業に行けると思う。
「学会で人と繋がらないと〜」みたいな脅しは、ポジショントークのただのまやかしであるので学生諸氏は気をつけるべし。気に病まなくて良い。多人数コミュニケーションが苦手な人(私を含め)に私はエールを送りたい。飲み会には出なくていいです。
(あと、国内でのコネクションを強くするのは基本的に弱者の戦略で、学生が気にするべきはトップ学会に主著をなるべく多く通すことだと思う。)
学会がXのフォロワー数が多い人を中心に回っているのが全て悪いと思う。みんなポジショントークしかしないし、そのせいで苦しんでいる人が多くいるのをわかってほしい。
あと研究ネタがXの流行に引っ張られるのが意味わからん。しょうもないネタをフォロワー多い人がいい研究といったのが発端で学生がやり出すのが見てられない。
ちょっと元気になってきました、ありがとうございます。
大学まで九州で育ち、卒業後は仕事の都合で各地を転々とし、今は東京にいます。
自己紹介はこんなところにして、まず、うちの実家の話をさせてほしい。うちの実家は本当にひどかった。
私は子どもだったから料理はしなかったが、男衆のお酌係は任されていた。
男衆の美味しそうな料理に手をつけることは禁忌とされた。小学生の時に食べようとしたことがあったが、「これは男の食いもんだ」と酔った親戚に殴られた。殴った男が悪いのではなく、男のものに手を出そうとした私が悪いのだと母親に叱られた。
祖母や母は、男たちが散らかした食卓を片付けた後、おせちの余りものをつついていた。
ここまで読んで、「さす九」「やっぱり九州は男尊女卑が根強い」と思った人。
うちの家族は、両親も祖父母も、親戚一同、み〜〜〜んな関西出身です。
両親が仕事の関係で九州に移り住み、そこで私が生まれた。つまり、私の正月の経験に「九州らしさ」など一切ない。
もし私が最初に「これは関西の話だ」と言っていたら? このエピソードは「旧来の家父長制の悪しき名残り」「親戚にDVクソ男がいる」といった話として受け止められたはずだ。
しかし、ほんの少しでも「九州」の要素を出しただけで、話の焦点は「やっぱり九州ってやばい土地だな〜」にすり替えられる。
こうやって九州がスケープゴートにされる場面を、私は飽きるほど見てきた。
私は九州で男尊女卑を感じた回数よりも、他の地域で「九州は男尊女卑がひどい」というステレオタイプをぶつけられた回数のほうが圧倒的に多い。
そして、そのステレオタイプには常に「私たちの地域とは違って」という無意識的な見下しが透けて見える。
私は九州以外でも、九州にいたときと変わらず、女だからという理由で嫌な経験をした。
たとえば、中部地方にいたとき、当時付き合っていた男性に「九州の女だから男を立ててくれると思ったのに。なんで俺に意見するの?」と言われて驚愕したことがある。(なんでそんなダメ男と付き合ったんだと言われそうだが、最初はとても穏やかで優しく、外面のいい男だったのだ。)
これがもし九州出身の男の発言だったら、「あいつモラ男じゃん」ではなく、「やっぱり九州の男はヤバいんだな〜」と拡大解釈して語られていただろう。
友人の話もある。
友人の弟は東京の私大に進学し、一人暮らしを許されたのに、彼女は「女だから」という理由で、実家から通える地元の国立大学しか認められなかった。片道90分をかけて通学していたという。この手の話は他にも見聞きした。
もちろん九州の話ではない。
関東では、上司が女性社員にだけ「疲れた、肩を揉んでよ」「お茶淹れてきて」と平然と宣ったり、忘年会のカラオケでは酔ったフリでセクハラまがいの行為を試みていたり。当然ながら男性社員には一切そんなことしない。上司は東日本出身である。
都心部では、女性にだけわざとぶつかり続ける男性を見た。運よく私は被害に遭わなかったが、ナチュラルに女性をモノのように捉えている男性はいたし、女性の顔に一人一人点数をつける男性集団もいた。公共のトイレでは、盗撮を警戒して謎のネジ穴やペットボトルに気をつけないといけない。
他にも色々あるけど、ここら辺でさておき。
これらがもし九州で起こった話だったら、「さす九」に話がすり替わるのでしょう?
女性だけではない。男性が性別を理由に不当な扱いを受けることも、同様に。
でも、「さす九」という言葉は、ジェンダー不平等を糾弾するふりをしながら、実際には地域差別を正当化する作用がある。
「九州だから」と因果をつけることで問題が矮小化されているのだ。全国で起こりうる話なのに、まるで九州以外の地域では関係ないとばかりに、九州の男にすべてのカルマを押し付けている。
九州が話題になるたび、ネットには「九州の男にこんなひどいことをされた」という体験談が溢れる。
だが、それは九州でなくても起こりうることではないだろうか。
昭和のダメだった部分の価値観を引きずった人間は、どこにでもいる。
九州に住んでいる1200万人に後進的な価値観が刷り込まれているのではなくて、単にあなたの家族や、あなたが付き合っていた男がカスだっただけなのだ。
自分の嫌な記憶に納得のいく整合性を持たせるために、「九州のせい」と拡大解釈してスッキリするのはやめてほしい。
できるなら「さす九」とか言って九州を侮蔑するのではなく、日本全体に未だ残るジェンダー格差や家父長制の弊害に目を向けてほしい。