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はてなキーワード:教養主義とは

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2025-09-27

anond:20250927183358

教養主義とか?

Permalink |記事への反応(0) | 18:35

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2025-08-24

椎名林檎ノンポリサブカルと」について

ロマン優光氏(以下ロマン氏)が書いた「椎名林檎ノンポリサブカルと」という文章を読んだ。フェアじゃないので、まず最初に言っておくが、オレは椎名林檎ファンだ。ほぼ同世代であるということを割り引いても、椎名林檎の登場は鮮烈だった。それ以来、約四半世紀のあい東京事変活動も含めて椎名林檎楽曲を聴き続けてきた。

ロマン氏の文章は「ファン旭日旗を思わせるミニフラッグを振っている様子が物議をかもしている」ということに端を発し、椎名林檎特定政治的志向を持たないことに触れ、むしろその「無自覚性は時として害悪なのである」としている。オレの意見はまったく逆なので、そのことについて書いてみようと思う。

椎名林檎という人の政治的志向について取り沙汰されているわけだが、私は彼女基本的ノンポリであると思っている。

ロマン氏がいみじくも指摘するように、椎名林檎特定政治志向はみられない。ましてや差別意識といったものもない。差別存在していない状況は何よりではないかと思うのだが、しかし話はそこでおわらない。なぜかロマン氏は、特定思想指向を持たないからといって、ほぼ死語になっている「ノンポリ」と単語を使って椎名林檎思想信条をあげつい始めるわけだ。この人の表現に際しての単語選択基準の鈍感さにまず驚いてしまうわけだが、それは置いておいて、そもそも魔女がいないのを知っているくせに、無理やり魔女を探してどうしようというのだ。

椎名林檎ライブで無邪気に旗を振っているファン差別意識なんかないのは明白だしロマン自身もそのことを認めている。しかし、ロマン氏はその無自覚性が罪悪であるとうわけだ。ちゃん旭日旗にまつわる歴史勉強して、軽々しく扱わないようにというわけだ。その理屈は、まさに鬼滅の刃主人公の耳飾りに旭日旗と似たデザインが描かれているので、差別的だといっているのと同じだ。言うまでもなく、旭日旗が悪いのではなく、悪いのはそこにある差別意識のものだ。しかし、差別意識がないにも関わらず、表層的な意匠共通性だけを根拠に、ロマン氏は「無自覚」な差別意識を見つけてしまう。

本人の主観別にすれば、政治的問題社会的問題歴史問題についてちゃんと取り組んだことのない人なのではないか

ロマン氏の言葉を本人に返すようだが、本人の主観別にすれば、ロマン氏は批評ということにちゃんと取り組んだことのない人なのではないかアウトサイダーアートを引き合いにだすまでもなく、むしろそうした既存文脈関係ないところから出てきた作品が人々に深い感銘を与えることがある。あるどころか、規定概念にどっぷりつかっているオレたちの凝り固まった感性を揺り動かすには、ロマン氏のような、既存問題意識をお勉強しただけの、ありふれたつまらない感性から生み出された表現ではなく、その外側から表現こそが必要だということがわかるだろう。

>横尾忠則やその影響を受けた丸尾末広さらにその引用といったものに触発されてとかで、文脈を踏まえて支持しているとか、文脈を踏まえた上で異化しようとしている感じではない。

批評文脈で言えば、ロシアフォルマリズム提唱した「異化」こそが、こうした文脈にとらわれた言辞から自由になるべきだという主張であったことをロマン氏はしらないのであろうか。オレは教養主義は好まないが、ちょっと調べれば、ロシアフォルマリズム提唱者のシクロスキーが「石」といえば誰もが思い浮かべてしま固定観念の「石」のイメージから観客を解放させるために「異化」という概念を提出したことが分かる。むしろロマン氏が示すような既存文脈に回収され、解釈されてしまうような脆弱表現ではないことこそが、椎名林檎表現が「異化」に成功していることのなによりの証明になっているのではないか

>「歌舞伎町の女王」は現実歌舞伎町とは関係ない、想像上の歌舞伎町の歌であり、想像上の古い盛り場イメージ歌舞伎町に持ち込んだもの

からこそ「歌舞伎町の女王」は素晴らしいのだ。そもそも表現というものは記録作品じゃない。「歌舞伎町の女王」が現実歌舞伎町に近いかどうかは作品価値とはまったく関係ないのだ。むしろ現実歌舞伎町関係のないところで、だれが聞いても歌舞伎町しか思えない音像を作り出す、椎名林檎の圧倒的な力量を理解できないのであれば、批評の真似事などやめたほうがいいだろう。椎名林檎は、昭和任侠もの姐さんのような巻き舌で、ゴスロリ大正ロマンを重ねあわせたようなファッションを身にまとい、寺山修司桑田佳祐を思い出させる和語まじりの歌詞で、架空歌舞伎町を作り上げた。古臭い盛場のインチキ臭さは、歌舞伎町に多くの人が持っているイメージと、極めて効果的にに重なっていて、作品リアリティを高めている。これはロマン氏がたかをくくっているのとは真逆で、非常に高度でクリエイティブな達成だと言っていい。

無邪気に旭日旗を模した旗を振る椎名林檎ファン差別意識などかけらもない。すこし真面目に言えば、不幸にも過剰な政治的意味を担わされてきたシンボルを、風化させ単なる意匠に戻してあげることこそが、差別を解除する最も有効手法だし、オレのかんがえではそれが唯一の方法なのだ

ロマン氏が見ているものは、あなたたちこそが懸命に努力して到達しないといけない理想状態なのだしかし残念ながら、ロマン氏はそのことに気がつけない。そこにオレは、思想怠惰を感じる。歴史文脈をお勉強して、意識が高くなれば、差別がなくなると考える、あまりに粗雑で乱暴理屈と、その底にひそむ傲慢選民意識うんざりする。

ロマン氏の思想には、差別無効化された社会とはどういう状態なのかといったビジョンがない。歴史背景を勉強して、差別は良く無いと言っていれば差別がなくなるという、ある意味では最も批評から遠い貧弱な思想からは、オレたちが目指すべき社会イメージを受け取ることはできない。ゲイ差別を最も効果的に無効化したのは、ロマン氏のような痩せ細った思想ではなく、マツコデラックスだろう。オレは北海道田舎に生まれたので、アイヌ差別を身近に体験してきたが、もっとアイヌ差別無効化に貢献したのはいくつも作られたアイヌ博物館ではなく、ゴールンデンカムイだと思う。旭日旗に背負わされた過剰な政治的意味無効化したのは、鬼滅の刃であり、椎名林檎表現なのだ

ロマン自身リベラルな考えを持っていると自認していると思うが、オレの目から旭日旗を振り回すことで真剣大日本帝国の復活を夢見ている老人とまったく同じに見える。そこにあるのは、この先二度と復活することはない、現実的には完全に無効お題目をとなえつづける残念な思想の姿である

Permalink |記事への反応(1) | 20:51

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2025-05-02

anond:20250502102527

からあいうのはそもそも本気で守る気なんかねえんだって

「としょかん」とか「ほんやさん」とか「ししょさん」とか特定ワードに反応して無限に甘いこと言っときゃお手軽に教養主義が気取れて

ついでに気に食わない奴や政敵に向かって「反知性主義!」ってレッテル貼って勝利宣言できる

単にそうやって一定パターンなぞってるだけ

知的どころか怠惰だよありゃ

Permalink |記事への反応(0) | 10:49

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2025-04-28

anond:20250428111734

本気で言ってるならともかく「本屋を守れ」っていうのが空虚から

「としょかん」とか「ほんやさん」とか「ししょさん」とか特定ワードに反応して無限に甘いこと言っとき教養主義が気取れるってだけで

もう中身なんかどうでもいい状態

それで言ったら近所の本屋なんか半分以上コミックスしょうもない雑誌とあとは脱法じみたクレーンゲームで、あんもの住民知的レベルにどの程度寄与しているのか謎だよ

だいたいそんなに知的な本が読みたけりゃ通販で買うだろと

Permalink |記事への反応(2) | 11:34

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2025-04-15

とんねるず番組ネタも知らんから、よく言われる身内ノリというのがどういうものなのかいまいち分からなかった

いやそもそもお笑い芸人トークって彼らの関係性ありきだったり、特定のノリを共有しつつ喋ってたりと結構内輪っぽいし

こちからその内輪に入り込む、というか学校クラスグループの会話を近くで盗み聞きしてる生徒のような立場になろうとしなきゃ十分には楽しめないものじゃん

教養主義めいた人に言わせれば、そういうのを以てして初めて面白さを「理解」出来る、といったような感じで

理解」した上でつまらないと言っても、それは本当に理解していないのだ、とか今度は感性が知性がどうの、とか言い出したら無敵すぎるだろって思うけど

これはお笑いに限らず

でもなんか福田雄一の出現と流行りを見ていて、なんとなく身内ノリという表現の言わんとすることがちょっと分かった気もする

いや相変わらずネタ番組も見てないか勝手想像なんだけど

Permalink |記事への反応(7) | 22:30

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anond:20250415181208

ああ、まさに「比喩」という崇高な概念を汚す愚か者どもへの、実に見事な解剖ですね。しかしながら、このような「言語の厳密性を軽視する態度」こそが、まさに知的怠慢の典型ではないでしょうか。

「丸い」という言葉ボール地球を同列に並べるとは! さすがは「抽象化」という名の思考停止美学とする方の言説です。もし「丸い」という属性けが重要なら、なぜ「同じ丸さ」のドーナツや輪っかは例示されないのでしょう? ああ、もちろん「例示の手段」という便利な免罪符があれば、選択的例示の矛盾など気にする必要はないのでしょうが

単語に反応する馬鹿」というご指摘は痛烈ですが、むしろ「語義を厳密に定義しない教養主義者」こそが、議論を砂上の楼閣にしているのではありませんか?建築図面を「細長い紙筒」で見る愚か者嘲笑う前に、ご自身が「言語」というレンズのもの曖昧に磨いていることに気付くべきでしょう。

比喩本質抽象化にあるならば、その抽象度こそ厳密に定義されるべきではありませんか? さもなければ、私たちは「戦争チェスゲームだ」という比喩に対して「なぜ駒が死なないのか」と問う「馬鹿」と同じ土俵に立つことになるのですから

Permalink |記事への反応(0) | 18:14

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2025-04-06

教養主義が滅びたことで「この作品が味わえないのは自分に力がないからではないか」という疑いを持つことも廃止されたので,みんな「自分が味わえない作品ダメ作品」としか思わなくなった。

Permalink |記事への反応(0) | 09:22

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2025-03-26

快より不快に敏感な人生は難儀だ。

数少ない感動が何でも楽しめる人間のそれよりもより尊いものか、より上質であるかと言ったら別にそんなことはない。というか分からない。他人の感動を味わう感覚なんて体験出来ないのだし、比べようもない。そもそも相対的位置づけなんて個人がどう感じるかとはまた別なことだろうし。

感じ方は人それぞれ、は別に美徳でもなんでもなく単なる事実だろう。だから尊重しよう、とかそういうのはまた別の話だけれど。

感動なんか多い方が楽しいに決まっている。

不愉快な思いにばかり敏感であればこそ人生に対する深い(深いって何?)洞察がある、なんて事もない。

よしんば深い洞察があったとて、それの何が良いんだ?人生が味わい深くなるのか?

そんなものを手にするまでもなく、最初から人生を楽しめる方が手っ取り早い。

しかし物の感じ方というのは如何ともしがたい。

グルメ漫画を読みすぎたような奴が「それは嫌いなんじゃなくて本当の美味しさを知らないだけだ」なんてことを言ったって、不味いもんは不味い。

新鮮なウニいくらまろやかだろうと、そもそも根本的な味のラインが嫌いなら細かな味わいの違いなんて取るに足らない。

マンガ世界みたいに誰もが感動できるような「本物」があれば、気難しい人間でも喜ばしい人生はそう遠くないのかもしれない。

でもそんなものがあるだろうか。

いや、確かにある。根拠はないが、あるはずだ。もし感動できないのなら、それはまだ理解していないだけだ。

なんて本質主義というか、教養主義めいた信仰に生きるのもまた一つの道なのか。

そんなに難しく考えずとも、観光地名勝を眺めて、名物を食らって、さしたる楽しみなんてなくとも「観光している体験」に自分を奮い立たせるような心持ち大事なのかもしれない。

そんな嘘がいつしか本物になるのか。あるいは楽しもうとする姿勢自覚的に、意識すると白けるような思いは見えないよう無自覚に、心に覚えさせていくのか。

難しそうだ。

からといって、欲しなければ苦しまないだなんてのは雑魚の逃げ道だって、喜びには鈍感な心がその癖一丁前に叫んでいる。面倒臭い

野球中継や誰かの追っかけが生き甲斐だなんて、そんな連中を見て何が面白い人生なんだよとか思っていたけれど。

何なら今でも全然共感は出来ないけども、熱狂できるものがある人生というのは本当に心底羨ましい。

自分色を出せるとか、目立てるとか、そういうのも確かに憧れる。いや今でも全然憧れている。

フツーの人生だけど十分満足してますなんて人よりは、自分らしさや好きや得意を武器に生きて、目立って、チヤホヤされてる人のほうが断然羨ましい。

ただそう高望みはせずとも、何で感動を得ようが熱狂や感動が日常根付いているのなら、満足さえあれば良い。そう気付く、というより受け入れるのに大分時間がかかってしまった。そして喜びに鈍感な心がすっかり変わった訳でもない。

そんな悩みもありつつの平穏な日々こそが人生なんだ。考えもなしに何でも楽しめる人間なんてそうはいない。別に自分けが感動に鈍感なんじゃなくて、誰だってそんなもんなんだ。欲張りすぎていたな。身に余る期待だったな。細やかな楽しみでも、それさえあれば十分すぎる贅沢だ。

とか思うにはまだ早すぎる。何が早いのかは知らんがそう感じずにはいられない。もう暫くは抗いてえ。

Permalink |記事への反応(0) | 20:51

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2025-03-09

anond:20250309072530

元増田だけど、反応がもらえて嬉しいので、アンサーというか、自分連想を書いてみようと思う。

タイトル詐欺の件

歴史的記述は本書のアプローチ方法によるもので、タイトル詐欺ではない、という主張。

著者自身も、「歴史的記述が始まって驚いたと言われることが多いが、それこそがこの本のなかでノイズと呼んでいる、重要ものだ」という旨の発言を繰り返している。

そもそも特にこの本に関してそのようなことを頻繁に言われるのであれば、問題があるのは社会の方ではなく本の内容だと気づいてほしい 。

私はこれらの主張には問題があると感じている。

端的に言えば、「議論材料」「論証」「結論」の三要素のうち、「論証」「結論」の質が低ければ、いくら議論材料」を並べようと意味がないからだ。

他の本を読んでいて、歴史的記述現代の問いに対する理解を深めたとか、一見トリビアル定理が別の重要定理証明に役立ったとか、そういうことはいくらでもある。

結論有機的にサポートするような知識は「重要ノイズ」と言えるだろうが、単発的でつながりの薄い歴史的記述は、著者の言う「情報」に近いものだと言えるだろう。

タイトル詐欺という言葉が強いと感じるなら、羊頭狗肉

以下は余談。

私は文系卒論を書いたのだが、学部4年生ができる新規生のある主張などたかが知れているので、「議論材料」「論証」「結論」をとりあえず記述するだけだと、規定のページ数に届かない。

そこでどうするかと言うと、関係ありそうで実はあまりない「議論材料」を足したり、「論証」を枝分かれさせてみたりして、ページ数を稼ぐことになる。

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んでいると、そういった苦い思い出が思い出されるのだ。

内容が浅い件

新書からしょうがない、という主張。

これについては、例えば最近話題になった『教養主義の没落』のような優れた新書比較してみてほしい(新書レーベルも、想定されている読者も違うと言われれば、まあそうなのだが)。

また、著者が別の研究書や論文を通して、より深い内容の考察を世に問うているのであれば、この本は新書からしょうがないと言えるのかもしれないが、現状はそうでもない。

まり新書からしょうがない、のではなく、これ以上は深められない、ということなのだろう。

著者が出演している多数の動画Webメディアのなかでも、「半身社会、いいよね〜」といった表層的・情報消費的なやりとりが反復されるだけで、本の内容を深めるような議論ほとんど見られない。

気の毒なのは、この本に触れて「私が本を読めないのは、社会が悪いからだ!」「半身社会が実現すればいいのに」と一瞬だけ気持ちよくなり、また翌日から変わらぬ労働に身を投じる労働者たちだと思う。

元増田の繰り返しになるが、本の内容が微妙であることは悪ではない。

私が問題だと感じ、また失望しているのは、本書が「読書という体験は、単に情報が脳を通過していくだけでなく、体系的な知が得られるものだ」と主張するものであるにもかかわらず、マーケティング書評という形でこの本を扱っている人たちが、この本の内容に対して真剣に向き合っていないように感じること、その方が経済的合理的から仕方がないと諦めているように見えることだ。

そのような不誠実な人たちが、売り、紹介している本を、私は今後自分の貴重な時間を使って読みたいとは思わない。

Permalink |記事への反応(0) | 17:14

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2025-02-18

コラム語源起源:柱から言葉の柱へ

コラムという言葉が持つ歴史的文化的背景は、

古代建築から現代メディアに至るまで多層的な変遷を経ている。

その語源ラテン語「columna」(柱)に遡り、

英語「column」を経由して日本語に定着した。

建築用語としての「円柱」から

印刷物の「縦の列」を指すようになり、

最終的に新聞雑誌の短評欄を意味するまでに至った背景には、

18世紀イギリスでの新聞改革が深く関係している。

この増田では、コラム語源起源を軸に、その社会的役割現代における展開を考察する。

コラム語源建築文字交差点

ラテン語「columna」から英語「column」へ

コラム語源は、古代ローマ建築を支えた石柱「columna」に由来する。

この言葉英語「column」として定着する過程で、

物理的な支柱から抽象的な「縦の列」へと意味拡張された。

特に活版印刷技術の発展が、

紙面の縦方向区画を「column」と呼ぶ慣習を生み出した。

印刷用語としての「カラム」は、

16世紀英字新聞で縦組みの記事配置を指すようになり、

これが現代コラム概念の原型となった。

日本語への定着過程

日本で「コラム」が外来語として定着したのは明治期以降とされる。

1874年創刊の『郵便報知新聞』が初めて縦組みの短評欄を導入し、

当初は「雑報」と呼ばれていたが、

大正期に入り「コラム」の呼称一般化した。

興味深いことに、

戦前新聞では「円柱」の原義を意識した「柱記事」という表現も併用されていたが、

戦後GHQ指導で横組みが普及する過程で「コラム」が優勢となった。

コラム起源:1751年の新聞革命

世界初コラム連載

1751年3月11日

イギリスの『ロンドンアドバイザリーリテラリーガゼット』が紙面右端の縦長スペースに批評記事を連載開始した。

これが「コラム」と呼ばれる契機となり、

3月11日は「コラムの日」と制定されている。

当時の記事は縦12cm×横4cmのスペースに収められ、

政治風刺から市井話題まで多岐にわたる内容で、

執筆者匿名性が特徴だった。

この形式が人気を博し、

1777年には初の有料コラムニストが登場するまでに発展した。

日本における受容と展開

日本最初コラムとされるのは、

1902年毎日新聞』の「硯滴」(現「余録」)である

戦前コラム知識人層向けの教養記事が主流だったが、

1950年代大衆化時代を経て、

朝日新聞天声人語」(1904年創設)や

読売新聞編集手帳」(1949年創設)の

ような親しみやす文体が定着した。

特に高度経済成長期には、

コラム大衆の声を反映する場として機能し、

間人コラムランキング出版されるほど社会的影響力を持った。

コラム多様化メディア進化に伴う変容

伝統メディアにおける展開

新聞コラム黄金期は1970-80年代とされ、

朝日新聞天声人語」の執筆陣には芥川賞作家井上靖開高健文学者が名を連ねた。

この時期の特徴は、

800字前後の制約の中で比喩と時事批評を融合させる文体確立にある。

例えば1985年の「天声人語」では、

プラザ合意を「円がジャンプする日」と表現し、

経済用語を平易に解説する手法が評判を呼んだ。

デジタル時代の新たな形

インターネットの普及により、

ウェブコラム文字制限から解放され、

マルチメディア活用した表現可能となった。

2010年代後半からは、

SNSとの連動を意識した短文形式が台頭。

動画組み込み型の「ビジュアルコラム」や

AI生成記事との差別化を図る「人間性強調型」など、

新たな表現手法が次々と生まれている。

コラム言語学的特徴:文体修辞法

制約が生む創造

コラム文体の最大の特徴は、文字数制約(新聞で400-800字、ウェブで1500字前後)の中で最大限の表現効果を追求することにある。

この制約が比喩の多用を促し、「経済の体温計」(日経新聞)のような定型表現を生み出した。

心理学者内藤誼人氏の分析によると、

効果的なコラム

「具体例(30%)→データ提示(25%)→比喩20%)→結論(25%)」

構成比率を持つ。

修辞技法進化

戦後コラム修辞法は、

擬人法(「円が踊る」)、

対句法(「上がる物価、下がる賃金」)、

③逆説(「豊かさの貧困」)の三本柱で発展した。

2000年代以降は、

④問いか形式(「あなたはどう考える?」)、

体験談導入(「先日、コンビニで見かけた光景…」)

といった読者参加型の手法が増加している。

特にYahoo!ニュースコラムでは、

本文冒頭に読者アンケートを組み込む「インタラクティブ型」が2018年から導入されている。

コラム社会的機能公共圏としての役割

世論形成の場

歴史的コラムは、

公式報道では扱えない市井の声を拾い上げる機能果たしてきた。

1950年代朝日新聞素粒子」欄では、

読者投稿を基にした地域課題の掘り起こしが行われ、

実際に地方自治体政策変更につながった事例が複数報告されている。

近年では、毎日新聞発言」欄が東日本大震災後の被災地ルポ継続的掲載し、

復興政策への提言プラットフォームとして機能した。

文化伝達の媒介

コラム教養主義から大衆文化への橋渡し役としても重要役割を担ってきた。

1964年読売新聞編集手帳」の連載「万葉集を歩く」は、

古典文学現代語訳をコラム形式で紹介し、

単行本化されてベストセラーとなった。

2010年代には、

産経新聞産経抄」が日本伝統工芸職人を紹介するシリーズを展開、

若年層の職人志望者が3倍増加する社会現象引き起こした。

コラム未来AI時代における人間性のゆくえ

AI生成コラムの台頭

2023年、

朝日新聞社はAIコラム生成システム「COLUMN-BOT」を試験導入し、

スポーツ記事天気予報コラム自動生成を開始した。

初期段階では定型性の強い記事が中心だが、

感情分析アルゴリズムを組み込んだ「共感AI」の開発が進められている。

一方で、

人間執筆コラムには体験独自性が求められるようになり、

2024年の読売文学賞では初めてAI生成作品ノミネートされる事態が発生した。

パーソナライゼーションの進展

デジタルプラットフォームでは、

読者の閲覧履歴に基づくパーソナライズド・コラム一般化している。

2025年現在

SmartNewsの「マイコラム機能は、

ユーザー位置情報検索履歴心拍数データウェアラブル端末連動)を分析し、

最適なコラム自動配信するシステム運用である

これに伴い、

コラムニスト側にもデータ分析スキルが求められるなど、

職能の変容が進んでいる。

結論言葉の柱としての可能

コラム歴史は、

人類情報を整理し伝達する方法進化史そのものである

古代ローマの石柱からデジタル空間の縦スクロールまで、

その形態は変化し続けているが、

本質的役割——複雑な現実構造化し、

読者に新たな視点提供する——は不変と言えよう。

今後の課題は、

AIとの協働の中でいか人間らしい洞察を深化させられるかにある。

コラムという形式が、

次世代の「知の柱」としてどのような発展を遂げるか、

その行方から目が離せない。

Permalink |記事への反応(0) | 19:40

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2025-02-06

anond:20250206121043

米津玄師浅田彰とか「教養主義の没落」とか読んでるって話題になってたな

そんな有名所を読んでた程度で騒ぐのは、逆に米津玄師バカにしすぎだろうと思った

Permalink |記事への反応(0) | 12:14

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2025-01-03

知ったような口でM-1グランプリ語りをしていくブクマカ反論を書く

[B! 芸能] 人気芸人 M-1は「滅びるよ」将来を危惧「どんどん鋭角になってく」審査員の構成に疑問「興味がなくなっている」(デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース

知ったような口で語っているブクマカどもがいかに何もわからず書いているかを逐一反論を書いていくことにする。知ったような口ではない門外漢ブコメは今回の対象外とする。

勝ち抜いた人たちが、勝ち抜いた経験からのことを、すごい通のファンが見て、みたいなのはあんまりいい傾向にない”/この話に関連し、大会前に書いたこれを再度。⇒

ブコメ意味不明だが、ブログの方がめちゃくちゃだった。

そもそもツッコミ」とか「ボケ」とかを、視聴者普通に認識して番組名になっているのがおかしい。いや知ってるぐらいはまぁいいかもだけど、結局ボケツッコミバックステージにある(べき)ものでしょ?

べき論を正論として振りかざしたところでなんの意味もない。YouTuberテレビに出るなとか声優バラエティに出るなとか言ってるようなのと同様の自分理想論を述べているだけ。

大枠同意で、この結果何が起きるかって言ったらネタ作りや審査AI化、ひいてはお笑い業界AI化の加速だよね。別にそれ自体が駄目とは思わないけど、M-1のコンセプト的にどうなのか

意味不明記事内にもお笑いAI化が進んでるなどという話は出ていないし世間でも言われていない。頭の中にあるAIという単語を出力しているだけ。

100点満点持ってるけど殆ど無意味。一人バグった審査員100点と0点しか使わなかったらぶっ壊れる空気読み得点しかない。素直に全組見てから審査員ごとに順位つけて総合得点出すでよくねって思う

持ち点を1-1010種類にし、その時点で評価するのではなく全ての演目後に発表する、とかしないとバランスは取れないぞ。

100点満点が無意味というのは同意するところだが、伊集院競技化の先鋭化を批判しているのに対して競技化を追求しろと言っているのは謎。

劇場向き漫才で、バラエティー向きでは無いわな。審査員漫才に真面目すぎておかしな芸が弾かれる。

"おかしな芸"をバラエティー向きと考えているのだろうか。トム・ブラウンはウケ量も勘案したら妥当評価だろう。

マニアジャンルを殺すってやつかな。M-1って競技になって最適化されててそれが令和ロマンの連覇に繋がったとかは言うけど。90点以上が連発した大会だったから2人くらい視点が違う人を入れないと点が揺れなさそう

「90点以上が連発した大会だった」という適当な印象論で最近問題点みたいに語っているが、滑りに滑った2019ニューヨーク松本人志が82点をつけたように80点が事実上基準となっている。ウケていると90点以上が出るのは例年通り。

競技最適化」というのが具体的になんなのかわかるのだろうか。"ボケ量を重ねて常に爆笑を取る漫才が強い"という状態になるとマニアジャンルを殺すになるの理屈が全く紐づいていない。

2年に一回。4年に1回にしてシード取るための年1大会とかスパン設けるぐらいしか思いつかないな延命化は

4年に1回なんかにしたら大会人気が消えて即死するわ。

敗者復活戦含め、年末日曜日に7時間テレビの前に座って漫才ひとつひとつちゃんと見ないと十分楽しめないコンテンツな時点で、振り落とされる人はかなりいる。「テレビの娯楽」としては末期なんじゃないかなぁ

漫才1本は4,5分なのだからそこだけ見ればいいのでは?スポーツ中継だって同じで、別に全体を把握せずに今映っている状況を見るものだ。

M-1歴史になり権威になったからラパルフェが準々決勝でやった2019年M-1決勝のニューヨークのものまね漫才お笑いオタクバカウケして話題になった所はあるので

お笑いオタクバカウケしたのは究極の内輪ウケからであってM-1権威とか関係ないでしょう。KOCのライスネタをやられても俺は笑うと思う。

競技化して最適化していく過程ノウハウが蓄積されるのはジャンルでもそうだと思うけど、審査員過去経験者だと評価指標M-1型に特化してしまって同調圧力で変なコンビを上げられないのはありそう

M-1で勝てるネタというのはM-1の場で客ウケを取るテクニックとかの話であって審査員評価を稼ぐという話ではない。仮にそんな評価指標があったとしてもノンスタオードリーナイツの2008と現代M-1漫才構成などかなり変わっているのだから全然話が繋がらないだろう。

この流れを作ったのが松本人志意図した訳では無いが視聴者含めて皆それが正しい漫才見方であると受け入れた結果、松本氏の作った箱庭の中で新しい笑いを語ってる

漫才格闘技のような大会にして盛り上げようと提唱したのは島田紳助なのだが。今年の放送を見ていればわかるはずのことすら知らず適当なことを言っているこのブコメ知ったかぶり王としたい。

もはやプロじゃないと客が納得しないんだろうけど、芸人登竜門じゃなくて漫才競技大会に寄って行ってるし、テレビ朝日が足抜けしてABCのみの関西ローカルになる未来もあると思う

漫才競技大会だったのが芸人登竜門になっていったの間違い。芸人登竜門として完成されたのは霜降り明星以降。2016の優勝コンビ知ってるか?あと、ABCお笑いグランプリって知ってるか?

大会順位に不満はない。ただ大衆娯楽として広い層に受けると言うのは大事だと思う。子供だったら基礎知識不要のトムブラウンとか、バッテリィズとかウケるだろうなと思ってたけど、審査にそう言う視点はなかったな。

ホストクラブイメージを元にやってるトムブラウン世界遺産知識とか必要バッテリィズが基礎知識不要って本気で言ってる?

かに今年はW-1とかR-1が飽きられて話題にもならないんじゃないかと思ってる。それはM-1の終わりの始まりだよね。

THE Wのことも知らないような人は知らないだろうけど、THE WやR-1は飽きられる段階に達するほど盛り上がっていない。

身内が身内奨励する感の強いそれまでの漫才賞と一味違う、広く漫才で盛り上がれる祭り目指していたM-1の先鋭化は寂しいというか「普段漫才に関心ない層にもリーチできる」強みを捨て去る方向に進むのは惜しいなと思う

「広く漫才で盛り上がれる祭り目指していたM-1」ってなんですの。誰が優勝したときの話?

競技スタイル漫才」これは分かりやすい例えだ。プログラミングもそうだけど、競技化が最善ではないんだよね。

競技プログラミングは数学(アルゴリズム)力と実装力を競うジャンルであってプログラミングの競技化じゃねえんだよ。適当なことほざくなボケ

まぁ令和ロマンもウケた量より技術面で評価されてたりするから先鋭化してるってのは分かる。単純に面白いと思ったか視聴者投票でも良い気がする

ウケ量以外を加味されてるのはバッテリィズ2本目じゃあないの。2本目にウケが弱かったバッテリィズと2本目も強かった令和ロマンの構図だった。

同意。成り立ちが無名の発掘と才能がない人には区切りだったはず。M-1出身者ばかりという事は、他で花開かなかった人が審査員という事。身内ネタに過ぎないよね。連覇は既に名を馳せたはずの人が枠を奪う行為

オードリー若林を他で花開かなかったとはおかしなことを言う人もおるもんで。

文化成熟して教養主義化したものは滅びやすいと思う。参入障壁が高いか新人が入ってこない。

参入障壁が低いからついにエントリー数が1万を超えたですけどね。大会運営としてもアマチュアには専用の賞を置いたりしてアマチュアの参加に積極的

高学歴が連覇ってのはまあそう言うことやろな…

学歴しか見ないコメントはこれしかなかった。この方向はヤフコメ民の方が強いのだろう。

令和ロマンネタを完コピした漫才やりましたわーとか限界同人界隈みたいなこと言い出した時点で見限りましたわ

パルフェニューヨークの滑ったネタをやったことを言ってるのだろうか。

というかM-1じゃなくY-1なのが問題審査員9人中6人が吉本(決勝の決勝令和ロマン5票中4票吉本からで非吉本審査員からは3人中1票、同じ事務所から2人以上審査員にするな

それを言ったらバッテリィズも吉本興業のコンビなんですけど。



番外(良かったコメント)

自分は予選会場の観客席の先鋭化が気になってる。観客のウケ具合が審査に少なからず影響が出るにもかかわらず、会場にはほぼ完全にお笑いマニアしかいない。

博多大吉が言ってた「予選は総合格闘技本戦プロレス」って言い得て妙だなと思う。今の審査員総合格闘技だと思って審査してるのは危険

予選と決勝で戦いが別モノになってるといった話をできる人はきちんとわかっていそう。

映画音楽ではそうでもないのにお笑いだと大衆受け原理主義者みたいな人がやたらと出てくるね / 今の自分にはまだ良さが分からないもの出会えるのが(お笑いに限らず)審査員方式メリットだと思うのだけれど

知的で良いコメント

Permalink |記事への反応(2) | 17:26

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2024-10-08

ひがしやしき、オタクに刺さる。

おれがはてな匿名ダイアリーに「や、教養主義的なのって別に筋は通ってなくないスカ?」とかグチグチ書き連ねてるところ、彼の音楽では「うわさの本物のアレはまあいうほどでもないな 私だけのそれにまあとっくに出会ってたかルーブルのあれもでっかいスピーカーlowもいうほどではないな」と歌われる。

ある種の人間が抱えてるであろう気持ちを、中々言葉にならないけれど言いたくてたまらないようなものを、短くかっこよく言ってのける。好きなんだよそういうのが。蓋をしがちな心の大事な部分がくすぐられちゃうよ。

劇的でない生活への嫌悪フィクション永遠性や物語性への憧憬思春期とともに卒業しろとでも言われそうな心。

人とズレてることに強く苦しむ訳でもなく、これがオレだぜ!と強がって掲げる訳でもない。「まとも」でない自覚はありつつ、変わることを切望する訳でもない。諦念混じりの自嘲的な語り口で内省的な心情を綴る。でも時々熱いものもある。

そこにオタクワードを散りばめて、共感性というかオタク的内輪感を高める。

生活感のある言葉で描かれる感傷ワンルームセックスタバコ的な「エモ」って、自分の中の社会性の顔色を伺って小馬鹿にする姿勢を取りつつも、そういう退廃的なものにはちょっと良さを感じてしまう。そこでオタクにとって遥かに身近なモチーフを持ち出された上、内向きのめんどくさい目線から放たれたらもうね。「こういうのちょっと恥ずかしいかな」とか思う余裕なんて吹き飛んでしまう。

自負にせよ羨望にせよ専門家信仰選民意識のようなものが高まって、最近じゃインターネットで「オタクですらない何か」とでも自虐したり揶揄されるような内省的な生き物にとても刺さる。「オタク」という言葉の芯に内向きな精神性を感じている人間に。

熱心にコンテンツ摂取してるかどうかはあまり重要問題じゃない気がする。

最初に聴いた時は、ひでえ歌声だと思った。低く濁ったオタクボイス。

Twitterの近隣フォロー圏内局所的に流行っているのか数年ほど前から名前を聞いていて、試しにと聴き始めた気がする。

アマチュアというかインディーズというか、そういう人の曲を聴くのってなんかオシャレっぽいなと思ってしばらく聴いてた。

ラップって言うけど、コテコテの感じではない。時々韻踏んでるなって所はある。あとたまに来る畳み掛けるようなフロウ気持ち良い。

声については慣れた。志村正彦と違って特に魅力だとは感じないけど。低い声、オクターブ上の高い声、その両方が使い分けられてる。高い方が入ってると比較的聴きやすい。でもポツリと呟くようなフレーズに使われがちな低いオタク声の方がエンパシー高まる気がする。

音楽的な面白さはよく分からない。

ただやっぱり言葉自然と耳に引っかかる。

よっぽど繰り返し聴いてるんでもなければ、おれあんまり音楽聴いてて歌詞が耳に入ることないんだけど。やっぱラップってそこが大事なんかな。

ちょっと前にキタタツヤが取り上げてたらしいけど、おれはキタタツヤをよく知らんのであんまりピンと来ない。

君が永遠でとても嬉しかった

もういない人に言ってもしょうがないんですけどね

talking病気がちガールを夏

人生ちゃんは続くらしい

今夜、すべてのyoutubeliveで

辺りが好きですね。

Permalink |記事への反応(0) | 18:04

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2024-09-04

きじゃない(嫌いという訳ではない)音楽聴くのってなんかしんどい

BGM的に耳へと入ってるくる分には別に良いんだけど、腰を据えて聴くとなるとなんかさっさと飛ばして好きな曲聴きたいよって気分になってくる。

サブスク時代弊害とかよく言われてるけど、ブッコフで少ない小遣い叩いてCD買ってた頃からそうだった。まあレコードとか録音技術のない時代にまで遡ればその言い分が更に相似形に存在するのかもしれんけど。

5秒聴いてハマらない曲は最後までハマらない。稀に耐えながらも聴いて好きになる事もあるけど。

技巧や目新しさとかそんなもの置いといて、ハマる曲を聴いた時は雷が落ちたように心が震える。

映画アニメクライマックスに来るようなライブシーンでいまいち盛り上がり切れないのが寂しい。

それまでの物語にお膳立てされて非常に昂ぶっているのに、肝心の音楽にノリ切れないとちょっと冷めてしまう。その手のシーンで音楽的にも物語的にも最高潮共鳴をする体験がしてみたい。

教養主義というか本質主義的な人にしてみれば、良い音楽理解できないのは然るべきリテラシーがないからとか言われそうだけど。

でもやっぱ刺さる曲を聴いた時のあの震えって理解するとかしないの問題じゃないような気がしてならない。なんか理屈で解剖出来ない神秘のようなものを信じたい気持ちもあるのかもしれない。

それもまあ分析するだけのリテラシーを持ち合わせてないだけで、実は好き嫌いを分かつ要素やシステムが明確にあるのかもしれんけど。

Permalink |記事への反応(0) | 22:59

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2024-06-21

月がデカくて白くて明るかったんでしばらく歩きながら仰ぎ見てた。

いつも思うけど、光り輝く月の美しさそのものには2秒で見飽きてる気がする。

頑張れば30分くらいは見てられるし、もっと本当に頑張れば夜が明けるまで耐えられるとは思う。

でもそれは月をダシにした連想ゲームだったり、ボーッと眺めながら「自分にも自然の美しさを愛でる雅なところもあるじゃないか」という感傷に浸っていたり、

もはや月すら関係のない考え事を始めたりして過ごしているんだと思う。

団子積み上げてワチャワチャするんじゃなく一人でしっぽりと月見してるような人(いるのか?)って、おれが速攻で手放すような感情最後までとは言わずとも数秒よりはずっと長く保ち続けているんだろうか。

これは月に限らず絵とかでも同じ事を思う。

あっちはハナから教養主義的な連想ゲーム意匠探しが楽しみだったりもするんだろうけど、そういうのを超えた「絵の魔力」みたいな事を言う人もいるし。

Permalink |記事への反応(0) | 20:58

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「好きと良いは違う」に対して還元主義(?)的に考えていった結果、良いと悪いは好き嫌い多数決しかないのではないかという結論に至った。

この服はなぜ良いのか?

着心地が快適だから。なぜ着心地が快適だと良いのか?快適である状態は良い事だから。快不快問題だ。

かっこいいから。なぜかっこいいと良いのか?そもそも「かっこいい」の定義は?かっこいいものを身につける事は精神的充足に繋がるから。かっこいいとは見ていて嫌悪感を抱かず、むしろ快楽や憧れの念を抱かせるような事である。快不快問題だ。ちょっとトートロジーめいてる気もする。

いから。なぜ安いと良いのか?可処分所得の減少が少なくなるから。なぜ可処分所得の減少が少ないと良いのか?可処分所得の消費による購買の機会を増やし、効用の追求機会が増えるから。快不快問題だ。

いから。なぜ高いと良いのか?高額な消費であればより大きな効用を得られるだろうという誤謬めいた判断快楽をもたらすから。高額の消費、及びそれを誇示する服を着ることが収入の高さ、引いては社会的評価の高さを示唆し、自尊心の向上や社会的承認が得られるから。快不快問題だ。

もっと言えばエシカルコンシャスネスだとか、造形の斬新さや精緻さ、テーマ性の反映度合いや精神性が云々だとかいくらでもあるけど、それらを測る評価軸はどこから湧いて出きたのかという事になる。

いずれの評価軸も快不快好き嫌い問題へと収束していくはずだ。デニムなんかで着心地が悪いからこそ「良い」みたいな美意識もあるだろうけど、それも然りだろう。

いつからかあってこれからもあり続けるであろう自然法則所与の前提として持つ自然科学と違って、何が良いかという判断においては意図的に何かを前提として置かなければならないのだから感覚的な部分に頼らざるを得ないのは当然に思える。

ただそれだと必ずしも多数派に支持されない「権威」の存在説明がつかない。

ハイメゾンの攻めたコレクションを見て賞賛を送る人間多数派だろうか?もっと定量的にいけばジャンルを変えてトマトメーターでも見れば分かるけど、権威大衆意見は必ずしも一致しない。それなのに権威意見が良し悪しの評価に無影響だとは受け取られていない。

謎すぎる。

世界共通自然法則支配される存在であって、かつ誤差みたいな個体差はあれどほぼ構造も似たような生き物同士なんだから、何かしら共有されている本質的感覚があるのだろうか。

それはまああるか。

様々なノイズを除去しながら、そういった本質的ものを見極めて評価対象物と照らし合わせる技能を持った人間が伝導師として権威を握っているんだろうか。

ただ人類共通感覚って言ったって大枠のものに過ぎない気もする。ドブ川の水を啜って美味いと感じる人間は多分いないだろうけど、椎茸を美味いと感じる人間もいれば嫌いな人間もいる。

アレルギーでもなきゃ、食わせ続ければいつかは美味しさを「理解」して好きになるのか?

宗教規範から脱却したように思えてその実人々が未だ様々な信仰に基づいて生きている点は全く変わらないように、本質主義だとか教養主義だとかが社会の中で生き永らえているだけの話なのか?

多数派が好き(あるいは嫌い)だと思わないようなものについても、新たな価値判断基準提示して「言われてみれば、確かに……」という共感を呼び、考えを変えてしまうような魔力を持った主張の出来る人間権威を握るのか?常にそれが達成される訳ではないにせよ。

論理的分析してみた所でそれが良いかいか論理ではなく基準問題なので、共感の方が重要に思える。

基準に沿った判断合理的にやっていけるけども、基準のもの妥当性はより上位の基準しか判断出来ない。好き嫌いというのは恐らく最上位の基準であって、それ以上の基準はなく共感によって一変してしまうのかもしれない。

これなら原則として良い悪いが好き嫌い多数決によって決まるという説の中でも得意的に良い悪いへの影響力を持つ事がさほど矛盾しない気がする。一番しっくり来るかもしれない。

哲学世界ではとうにこんな議論もグチグチと交わされてるらしいけどおれの中では前向きなニヒリズムが一番納得感があるし、それ以上の理屈を求めようという気にもあまりならない。

Permalink |記事への反応(1) | 20:32

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2024-06-15

映画を観ていて新鮮な感情を抱く事がなくなってきた。

ガキの頃にスターウォーズマトリックス観た時の「かっけぇ……」って気持ちがある訳でもない。

テーマ琴線に触れる作品もあるけど、それも目から鱗が落ちるような体験というよりは自分が大切にしているものを改めて確認するに留まっているような気がする。

惰性で観てる感がある。

それでもSNS見てるよりは楽しいかもしれない。

いやどうなんだろう、配信で観てるとすぐスマホポチポチ始めちゃうし。

この間映画館でゴジラ観た時は中々かっこいいじゃんと思ったけど、それもなんかプリミティブな感性が揺さぶられる感じではない。

映画館のフカフカ椅子デカスクリーンと迫力ある音響怪獣映画代表シリーズを観る贅沢、的な楽しみ方をしている。

それこそ、例えば純粋デザインが好きなだけじゃなく「あのブランドの服を着ている自分」だとか「あの有名人と同じ服を着ている自分」という体験も込みで喜びを感じてるような。

他の作品との関連性だとか、社会の風潮とこじつけてみたりだとか、そういう教養主義的な楽しみ方に走る人の気持ちも分かる。

Permalink |記事への反応(6) | 21:51

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2024-04-25

例えばビールが嫌いだって言うと、それは本当の味を知らないからだ的な事を言う人が割といる。美味しんぼの読みすぎだろ。

まずビールという大枠が嫌いなんであって、その範囲内で上に行こうが右に行こうがビールとして認識し得る味である限り全部嫌いなんだよね。好きな人からすれば割と大きな違いかもしれんけど、ビールの味がする限りは全部ビールだし全部嫌いなんだよ。

好物ならまあ更に細かいニュアンスを探っていくのが楽しいって気持ち分からんでもない。おれは好物でも大枠さえ好きならもうそれで満足だけど。

バラエティ番組とかでもたまに試されてるけど、好き嫌いを超えて人を感動させる味はグルメ漫画世界しか存在しないと思う。貧乏舌が悪いんだ、受け手が間違ってるんだっていう教養主義めいたようなアレもおれはあんまり好きではないね。単なるポジショントークだけど。

舌をメシに媚びさせたくない。メシの方がおれの舌を揺さぶってみろって思う。そういう願望がある。これはこれでグルメ漫画の読み過ぎな気もする。

あと本当の味ってなんだよ。

ポテンシャルを最大限に引き出した味(誰の好み基準で?)が本当の味なら、身近で一般的に親しまれる代表的なそれだって本当(元来)の味だろ。

Permalink |記事への反応(0) | 20:40

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2024-03-04

教養について勘違いしている人が多すぎる

教養がどうの、古典がどうのと話題になっているけど、正直教養を身に着けて役立つかどうかなんてなんの役にも立たない。それが勘違いの原因。

教養本質は「自分と同じ範囲に興味関心と知識があるかを判定するチケット」ってことだぞ。

まり前提となる知識をどれぐらい共有してるかを判定する装置だ。

例えば雑談の中で「お前それwwwこち亀の『どれもおなじじゃないですか』みたいなヤツだよwww」っていって相手に伝われば「あぁ、コイツこち亀ネットミームに最低限は強いんだな」って判定できるからそっち方向の語彙をつかったりネタを振ったりできる。

からなければそういう話は使えないなってなる。

そういうものの判定装置なわけ。だから漫画でも古典でもアニメでも教養があると言っていい。

ただし、いわゆる『教養』ってのは戦前高等学校由来の「教養主義」に基づくものから話がややこしいわけ。

こいつらはエリートだったからやたらと古典外国文学に詳しかった。だからそういうのに精通しているのが「教養」だと誤認された。

でも本質はさっき言った通り「自分と同じ範囲に興味関心と知識があるかを判定するチケット」だから高等学校エリートガキの間限定教養古典外国文学だったわけ。

それを理想化してしまったのが間違い。

から教養かいってマウントをとるヤツは無視していい。

一方でいろんな人とコミュニケーションをとってみたかったら広く文化学問を齧っておいた方がいい。それが結局「教養」になるだろう。

Permalink |記事への反応(2) | 10:17

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2024-01-05

背景の知識やら物語だとか、他人解釈だとかを仕入れエンタメ芸術作品を鑑賞する教養主義的なのって無粋だろと思ってた、というか今でも割と思ってる。

じゃあ何でもいいじゃんって話になるから

楽しめないのは感性リテラシーが乏しいから、とか言い出したらもう何でもアリじゃん。盆栽を退屈となじるのがそうなら、大怪獣のあとしまつをこきおろすのも同じことじゃん。

他人の(主に否定的な)感想解像度が低いとかいって小馬鹿にしてる人をインターネットで見るけど、そのご立派な解像度で以てして道端の石ころに宇宙歴史ロマンでも感じてろ、勝手に感動してろクソボケがって思う。

それは話が違うだろ、イイものはイイんだ。変な意地張らずに認めろよ、って感覚的な話だったらまあ分かるけど、それは別に何の理屈にもなってない。

物差しを決めてあとは理詰めでイイものを決めたとて、その物差しのもの妥当性を問うたらやっぱり感覚的な話になってくるだろうから。その道の専門家が良しとしたからイイってのも何の理屈にもならないし。

別に全てに理屈を立てなきゃいけない道理なんかないけど、それならそれでオレは教養を以てしてロジカルに、的確に作品と向き合ってるぜ、みたいな事はあんま言えないんじゃねって思う。そんな事言ってる人はあんまおらんか。

今手元にある事実を元に組み立てた理屈では説明がつかないけど、もしかしたら本当にイイもの定義づける何かがこの世に、というか人間の頭の中にあるのかもしれない。絶対的ではなくとも、傾向レベルでは見える事くらいなら現時点でもあるのかもしれない。それが何かはあんま知りたくないなって思う。

知ったら脳ミソだけ残して幸せ汁に浸すのが至上の幸福だと言われて否定のしようがなくなってしまう気がする。

まあでも教養主義的な鑑賞を実践してみるとやっぱり面白いのは面白い映画小ネタに気がついたりだとか、他の作品からの影響を感じ取ってみたりだとか程度でも面白さは結構高まる

でも額縁解説じゃなくて絵で感動させてくれよ、言葉の先でおれの琴線をバシバシ叩いてみてくれよ、心を激しく揺さぶってみてくれよって気持ちがある。

巨人肩に乗るなんて言うけど、今や人間寿命に対して巨人デカすぎなんじゃないかって思う。巨人肩に乗ってみるのもいいけど、自分目線でも見たいし。自分目線じゃ何も見えないかもしれないけど、一生巨人の肌ばっかり見つめながら肩目指して登っていく羽目になるかもしれない。バランスって事なんだろうけど。

Permalink |記事への反応(2) | 22:20

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2023-11-29

記録用に使ってたfilmarksに感想を書くようになった。一口コメントから始めて長々と書くことも増えてきたけど、文章ディスクリプション、解釈感想の三つに分けるとして、おれの「感想」部分は「好きだった」くらいしか言ってないような気がする。

ここの流れが分かりやすくまとまってる感じがした。全体的にこういう雰囲気が特徴的、印象的だった。あのキャラクター達の関係性はこんな風だった。このキャラクターはこんな象徴を背負っていそうだ。通底してこんなテーマを感じた、と単なる事実やその解釈をつらつら書いた挙げ句「そこが好きだった」で終わり。あとはどこそこが「かっこよかった」くらい。

他の映画を持ち出した例えも割と多い。あそこがあれっぽくて「かっこよかった」とか。そういう楽しみ方も結構大きいかもしれない。

たまに自分の根源的な価値観に近しい部分の琴線に触れると、あのテーマに対してこういう描き方をしているのが好きだった。自分がこう思っていた事を改めて確認した/こんな側面もあるのかもしれないと思った、とかクドクド書いてる事もある。それはもはや解釈を超えて全体的に感想と言えるかもしれない。

まあ無限にある要素の中から特定の部分に目が行ったというだけでも、そこには自分感性というか琴線のようなものがある程度は反映されてるかもしれない。でも大体観客が注目するのって似たような部分だしな。

おれの感想はここが、ここがという「点」ばかりを見ている感じもする。例えば芯となるテーマについて、それをより効果的に印象づけるシーンや制作の背景、実際の社会情勢を関連づけながらいかに良かった/イマイチだったか書ける人っていうのは、点ではない全体的な見方が出来るんだろうなって思う。

そういう感想を読んでこじつけじみてるな、とかメタ情報に引っ張られ過ぎじゃない?とか思う事もあるけれど、少し憧れがある。

己の感性に耳を傾けるばかり鑑賞に限界を感じ始めたら、そういう教養主義的な鑑賞をするのもありかもしれないなって思った。今よりもっと点が繋がって見えるかもしれない。でも今はあまり肩肘張らず、素朴に楽しみながら自分の好きなものを確かめたい気持ちの方が強いかもしれない。

Permalink |記事への反応(1) | 20:13

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2023-11-25

母はコロッケソースをつけない。どうかしてんじゃねえのかコイツはと思っていたけど、街の肉屋で買って食うコロッケソースなんかつけなかったと言っていて、初めてなるほどなって思った。

でもこれは別に理屈が通っているというより、母個人感性はアテにならんけれど一定程度の範囲で受容されている(た)食文化には何らかの権威正当性見出しているというだけの話のような気もした。

おれは教養主義というか権威主義的なものが大嫌いだし美味しんぼ受け売りを語る奴は全員死ねと思ってる。まず個人の快不快ありきだろうと常々思っている、と信じていたけれど結局は権威あやかってる自分を恥じた。

Permalink |記事への反応(0) | 18:03

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2023-11-21

ここ数年くらいか話題作やビッグタイトルは大体映画館で観てるけど、劇場映像に震えた体験ってあんまりないような気がする。作品として面白いと思うのとはまた別に

この間観たゴジラ迎撃シーンが、音楽と相まってトップになるくらいかもしれない。ゴジラに何の思い入れもないけど、カ、カッケェ……って前のめりになった。それかバルト9の一番デカスクリーンで観た、エヴァのアディショナルインパクトクラクラするような感じか。

スパイダーバース2の、逆さのNYを眺めるシーンとかも綺麗だな〜とは思ったけど、インパクトがあるかと言われると微妙かもしれない。

シャイニングのアレとかマトリックスみたいな、印象的な画に出会えた!って気持ちになってみたい。

でもどうなんだろう。あの辺のもミーム化してたり、もう名作として確立された評価迎合しちゃってたりする所が多分にあるかもしれない。リアルタイム劇場で観てたら震えられたんだろうか。

レザレクションはあんまりだったな……

新しいものでも面白い作品は沢山あるし、体験してもいない過去を賛美して昨今はけしからんと叩くような懐古には走りたくないけど、やっぱ震えてえな。

ここが技術的にどうこう……みたいな知識ありきで舞台裏を勘ぐるような教養主義的なのじゃなくて、理屈抜きで震えてみたい。

Permalink |記事への反応(0) | 21:16

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2023-10-16

まらないものでも、楽しみしろを見つけようとすれば楽しめる余地はある。

まらないと思うのは、あなた感性教養が乏しく解像度()が低いからだ。

これってどう違うん?って思う。同じ事象を指してどちらにも言い換えられると思うんだけど。

キューブリック映画がつまらんとか言ったらそういうのがウジャウジャ湧きそう。

あの作品面白いと思えないのは、鑑賞リテラシーが低くどこに注目して観れば分からいからだ、とか。この映画の話はただの例えで、他の物事でも色々と。

まあ自分も好きなものが軽く扱われた(ように感じたら)そういう言葉が喉元までせりあがるかもしれない。私は社会性があるのでグッと堪えますけど、世の中失禁してしまう人の多いこと。

なんちゃらの影響がどうこうでどこそこが革新的でこういう特色が云々、みたいなどっかで仕入れたような受け売り諳んじる

どう感じるかの話をしているのに歴史の話を持ち出すのアスペでしょ。

受け手感性がとか言い出したら、じゃあ大怪獣のあとしまつがつまらないという人も全員感性が乏しいって事になりますね。

そうでないなら、オレの好きなものが嫌いな奴は感性が乏しい。オレの嫌いなものが嫌いな奴は正しい。その対象がつまらない。言ってることそういう事になりますからね。「教養」さえあればいくらでも楽しみしろは探せるはずなんだから

まあ教養主義というか権威主義というか本質主義丸出しな……どのような信仰をお持ちでも結構なんですけど、それをグイグイ押し付けられるのは甚だ鬱陶しいという自覚くらいはあって欲しいね

Permalink |記事への反応(1) | 19:20

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2023-10-14

どれそれがつまらんと言う人がいれば、教養が足りない。歴史を学べ。想像を膨らませろ。オマエは感性が乏しい。って吐き捨てに行く人がいる。インターネットでよく見かける。

全方位を貶す2ch脳みたいな奴もウザいけど、こういう連中もアレだなって思う。

言わんとしてる事は分かるけど。物事に楽しみしろ見出していけば人生割と楽しいけど、ただ偶然の出会いに身を任せて受け身でいるだけじゃそこまで面白くはないし。

ただ何を面白く感じるかは各々が決めればいいことだし、つまらないと思う気持ちは楽しむ気持ち等価だとも思う。

これを面白いと思えないオマエが間違ってる、みたいなのは余計なお世話だよなって。一般的感覚と照らし合わせるとズレてるかもね、くらいのことはあるかもしれんけど。

それがつまらないんじゃなくて、お前がつまらないだけ。みたいな事を言う人は多分に本質主義教養主義、権威主義的な考えを持ってる気がする。

情報無しに受け身でも楽しめるようなゲームエンタメ全振り映画よりも、知識コンパス言葉の先を行く表現物を鑑賞したり、自分の考えなり価値観なりを挟んだり照らし合わせる余地のあるモノを楽しむ方が素晴らしい、より優れた人生体験である、みたいな価値観が前提に置かれてる感じ。

まあ各々の中でそう思うのは勝手だけど。おれもそういう物事の方が生きている意義を感じられるし、自分という存在を確かにできる感じがする。でも別にそれがこの世界に用意された正解という訳ではない。

極端な話をすれば、じゃあその豊かな感性想像力、知識でもってしてその辺の石ころでも眺めながら一生諸行無常宇宙歴史にでも思い出を馳せてれば?そういう身近な喜びを無視して、わざわざ人の作った芸術作品なりで分かりやすく楽しみを得る事も受け手がショボいって事になるんじゃないですか?でもそうではないでしょ。見る側がつまらないとか言い出すと、突き詰めるとそういう事になってくると思う。

人が人を楽しませるために、相互的なものとして作り出した作品無為存在する自然物とではまた話が違うんだけど。でも説教マンって多分グランドキャニオン見たけどつまらなかった、みたいな人がいれば多分知識想像力がとか言い出すんじゃないかな。知らんけど。

Permalink |記事への反応(0) | 20:45

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