
はてなキーワード:感情論とは
議員数削減が話題になってて、比例代表と小選挙区とどっちをどれだけ削るのかという話になっている。
結構火力が強いのは「比例代表なんて無くせ」という人たちで、要は小選挙区で選ばれなかったような候補が復活するなんておかしいとか、そいつに対して投票したわけじゃないのに当選するのはおかしいみたいな感じ。
確かにそれは分からなくはないし、比例復活に関しては無くしても良いとは私も思ってる。参議院議員選挙と同様に衆議院の比例も得票数によって順位が決まる仕組みにすれば多少なりとも改善されるとも思う。
現在の日本の政治が政党に基づくものであるのはどうやっても否定できないし、実際小選挙区だって大半の人は「候補者」ではなく「政党」を見て投票しているだろう。
小選挙区は各選挙区で1番得票数が多かった人しか当選できない、逆に言えばそれ以外の得票は全て死に票になるので、結局のところ一番人気のある政党が勝てるだけでマイナーな政党は全然議席が取れないということになりかねない。
比例代表はその名の通り得票数に比例して議席が分配されるので、支持率が数%でもあれば議席をいくらかは獲得できることになる。だから少数派を国会から締め出さずに済む。
もちろんノイジーマイノリティの問題は私は大きいとは思うけども(何ならそういう迷惑な奴らは滅べとさえ思う)、でも一方で実際に日本国内にも色々な生活をしている人がいるわけだよね。
例えば仕事にしても現代日本は第3次産業の従事者が圧倒的に多いけど、だからといって農業や漁業、製造業といった職を軽視して良いわけではないよね。
そういう職業の人たちが自分たちの主張を伝えるために自分たちの話を聞いてくれる議員、政党を国会に送り出せるということは極めて重要なことだと思う。
仕事だけじゃなくても例えば年代や性別、住んでいる地域、経済状況など多種多様な人が日本には住んでいるのだから、それが少数派であっても票に比例して議員を国会に送り出せる仕組みは絶対に確保しておくべきだと私は思う。
だから比例代表制に感情論だけで反対している人はちょっと冷静になって欲しい。
多分皆さんが憤っているのは「比例代表」そのものではなくて、復活当選とか順位を勝手に党が決めている事だと思うんだ。
得票数に従って議席が分配され、かつ当選する議員自体も有権者の意思に沿うような形が最善だろうから、どうすればそうなるのかという議論をした方が建設的だよ。
まず、「外国人は健康保険に加入するな」って主張そのものが、日本側のメリットを完全に見落としてるんだよね。
むしろ逆で、外国人(特に若くて健康な労働者)にはガンガン保険料払ってもらったほうが、日本人にとって圧倒的に得では?
つまり
「払う額 > 使う額」
の優良会員なんだよ。
大体このパターン。
実際は、外国人が医療費を食い荒らすデータなんてほぼ無いし、制度的にもむしろカネを落としてくれる側。
日本「あなたたち健康で若い? あっ…じゃあぜひ保険料払ってください(助かるわ…)」
これが現実。
これに反対している人こそ、実際には日本の財政悪化に加担してる側なんだよね。
「夫婦別姓になると家族が壊れる」みたいな何の根拠もない政治的イデオロギーに基づいた主張は「異常な感情論」としか言いようがないですよね。それとも根拠があるんですか?ありませんよね?
困ってる人がそれをアピールして民主的に過半数を超えたら発端が感情論でもなんの問題もないが
「夫婦別姓になると家族が壊れる」みたいな何の根拠もない政治的イデオロギーに基づいた主張は「異常な感情論」としか言いようがないですよね。それとも根拠があるんですか?ありませんよね?
困ってる人がそれをアピールして民主的に過半数を超えたら発端が感情論でもなんの問題もないが
素朴な感情論で国の制度決めてたらクメール・ルージュみたいなことになっちゃうよ。
現状維持派は「異常な感情論」というのもお前の感想ですよね。法制度を変えるには変えるべき理由を示して、既存制度の正統性を塗り替えなければならない。既存制度は既に民主的手続きによりオーソライズされてるんだから感情論で守る必要がそもそもない。
せやで。「世界的に同姓を強制するのは日本だけ、それで困っている人がいる、ほな別姓を認めたらええやん」という素朴な感情論に対して、「別姓を認めたら家庭の絆が破壊される!同姓は日本の伝統!通称使用の拡大ができるようシステムを改修しろ!どれだけコストがかかってもいい!」という異常な感情論で反対しとるんが現状やで。
こういうの書くと賛成派なんだろとか変なのが沸いて来るけど普通に感情論でしょ。
フツーに考えれば判りますけど、条件クリアしてまで正式にゲーム機買いたい一般人なんて居ないんですよ。
子供のクリスマスプレゼントですぐ急遽欲しい時に「抽選に外れたんで~」とか悠長な事言うの?無理でしょ。ゲーム機よりも大切な物を失うよ。1~2万積んででも買うよ普通は。
規制すればするほど欲しい人に行き渡らないのは事実だし、転売して貰った方が隅々まで行き渡る。事実だよこれは。
ゲーム機買うのに条件が必要?じゃあ要らんわってなるのが一般人。
流石にPS5とか旧スイッチの頃は限度越えたけど、規制も規制するで限度があるよな。
この言説を用いて任天堂に文句を言う大人にレスバで勝とうとしている人が多い印象だけど、普通に任天堂に対する侮辱だと思う。
任天堂は確かに子供向けのゲームを出しているが、大人にも向けてないわけがないし、かにより、大人でも楽しめるように創意工夫を凝らしているに決まっているだろ。
それなのに、お前らの『相手が気に入らないから否定したい』とかいうただのお気持ちの為に、その努力を意図的に無視した挙句、任天堂は大人でも楽しめるようなゲームを作れないと遠回しに主張するの、控えめに言って子供すぎるだろ。
それに、そもそも論を言えば、大人でもプリキュアとかポケモンとかを楽しんでる人が増えてきて、そう言う人が受け入れられつつある今の時代において、もはや子供向けコンテンツが本当に文字通り子供にしか向けてしか作られていないと考えるのは、社会の動向に対する観察力があまりに弱いと感じる。
まぁTwitterの、いかに自分の感情論を正当に見せられる後付けの屁理屈を思いつけるかどうかという拙い悪口大会にマジレスしても仕方がないのだが。
本日発表された「生成AI時代の創作と権利のあり方に関する共同声明」は、表面上は高尚な倫理を装いながら、実際には旧来の出版・映像業界が自らの利権と支配を維持するために発した時代錯誤の自己防衛声明にすぎません。文化の担い手を名乗りながら、彼らは文化を盾にして独占し、創作の自由を自らの縄張りに囲い込もうとしています。AIという新たな知的基盤を「脅威」と決めつけ、法律や科学的事実を踏みにじってまで、自分たちの都合に合わせた“新しい原則”を作り出そうとする姿勢は、文化の発展を自ら人質に取る行為と言わざるを得ません。
声明で繰り返される「オプトイン原則」なる主張は、法的根拠のない作り話にすぎません。日本の著作権法第30条の4は、情報解析、すなわち機械学習を適法な行為として明確に認めています。これは国会で正式に審議され、国際的にも承認された条文です。それをあたかも存在しないかのように無視し、独自の“原則”をでっち上げているのは、法の支配を自分たちの感情で上書きしようとする行為にほかなりません。法治国家の根幹を軽んじるこうした態度こそ、社会にとって最大の脅威です。
声明では「WIPO著作権条約の原則にも反する」との一文が見られますが、これは国際法を理解していないか、あるいは意図的に誤解させる表現です。WIPO著作権条約第10条は、各国が技術革新との調和を図るために例外を設けることを明確に認めています。日本の著作権法第30条の4は、その条項に基づく正当な立法です。にもかかわらず、これを「国際的に反する」と断じるのは、国際法の権威を自らの商業的利益のために悪用する詭弁にすぎません。法を装いながら法を捻じ曲げる態度は、文化への裏切りです。
声明が要求する「学習データの透明性」は、AI技術の基本構造を理解していない人々の発想です。生成AIは著作物を丸ごと保存しているわけではなく、膨大な情報を数学的に抽象化して学習しています。どの作品を学習したのかを特定することは、理論的にも不可能です。にもかかわらず、それを“透明性”という美辞麗句で求めるのは、AI研究を停止させるための方便に見えます。理解できない技術を「危険」と断じて封じ込めようとする態度は、科学の否定であり、知の進歩への挑戦です。
著作権法第1条は、「著作物の公正な利用を通じて文化の発展に寄与する」ことを目的としています。声明はこの理念を真っ向から踏みにじり、創作の自由を業界の利権で縛りつけようとしています。もし学習をすべて許諾制にすれば、日本のAI研究は立ち行かなくなり、創作者自身もAI支援という新しい表現手段を奪われるでしょう。つまり、彼らは「創作者を守る」と言いながら、実際には創作の未来を殺そうとしているのです。
声明全体に共通するのは、「自分たちだけが正義である」という思い込みです。AIに学習されることを「搾取」と呼びながら、彼ら自身は長年、他人の文化を引用し、再構成してきました。著作物の「利用」は自分たちの権利であり、AIの「利用」は侵害だという二重基準は、もはや論理ではなく自己保身のための感情論です。著作権を対価交渉の武器に変え、創作の自由を締めつける構図は、文化産業ではなく利権産業の姿です。
7.未来に向けて
AIは人間の創造性を奪うものではなく、拡張するものです。学習を犯罪扱いし、技術革新を恐れ、自由な発想を封じることこそ、文化への裏切りです。私たちは、旧来の特権構造に縛られた声ではなく、法と科学と自由の原理を信じる社会の声を支持します。AIと人間の創造性は対立するものではなく、共に進むべき文明の両輪です。文化を守るとは、未来を拒むことではなく、未来に開かれることです。
【発出者】
売春を規制するって、結局「男から自己コントロールの手段を奪ってる」って話なんじゃないか。
理性的に仕事してても、ムラムラして頭がノイズだらけになる瞬間がある。
だけど射精すると一発で落ち着く。プロラクチンっていうホルモンが出て、
一気に冷静になって「なんであんなに必死だったんだ俺」ってなる。
つまり、性欲って本能のくせに、めちゃくちゃ意思決定に影響する。
その性欲を合法的に、安全に、金でリセットできる仕組みがあれば、
世の中の男はもう少し冷静でいられるはずなんだよ。
でも実際は、そういう仕組みは「倫理」とか「弱者保護」とかの建前で潰されてる。
その結果どうなるかっていうと、
つまり売春規制って、一部の女の性的資本を高騰させる経済政策なんだよ。
「弱者を守る」って言いながら、実際には性欲処理市場を締め上げ、
そのコストを男に押しつけてるだけ。
しかも裏ではポルノとグレー産業が肥大化して、誰も幸せになってない。
面白いのは、こういう話をすると
「女は搾取される」とか「男がクズ」とか、感情論ばかりになること。
こんな単純な話で毎回大騒ぎになるのが不思議なんだよな。
結婚してるけどしたくない、付き合ってるけどしたくない、それ自体は別にいいんだよ。問題は、その結果どっちが我慢してるかって話。
基本的に、出来ない方じゃなくて、したい方が我慢する構造になってる。
そこに「我慢して当然」って空気があるの、どう考えてもおかしいだろ。
一人でするのをオープンに認めるでも、抜いてやるでもいい。
無理にセックスする必要はないけど、相手の欲求を“無かったこと”にするのは違う。
それで関係が冷えていくのは当たり前だと思う。
挨拶とか洗い物とか、面倒でもやらなきゃ生活が回らないことの一つ。
やりたいかどうかじゃなくて、お互いのリズムを保つために必要なことなんだよ。
年を取ると、養ってあげたいと思えるようなかわいい女が本当にいなくなる
もちろん逆もそうで、支えてあげたいと思えるような男もいなくなる
これは恋愛が冷めたとかじゃなくて、単に市場構造の話なんだよな
でも年を取ると、それを代わりに埋められる魅力を持てる人はほとんどいない
そしてその現実を受け入れずに、若い頃と同じように愛されたいと思ってる人が多すぎる
性教育で教えるべきなのは、性のモラルよりも恋愛の経済構造なんじゃないかと思う
愛は尊いものじゃなくて、供給と需要で動いてるって現実を知ることのほうがよっぽど大事
年を取ると結婚しにくくなるのは当然のことだ
市場の価値が減るのに、価格(理想)だけは下げない人が多すぎる
綺麗事よりも、まずは現実を直視するところから始めたほうがいい
やっぱりこれは義務教育で扱うべき話だと思う。
年を取っても年寄りなりのかわいらしさとか性欲的な色での繋がりはあるが、それを若い世代と同じ「市場」で語るのは違う。
実際、中年世代でのマッチングは難しく、熟年になるとさらに厳しい。
年齢とともに恋愛の質は変化し、若い頃のように誰かを養いたい支えたいと思える関係を作るのは難しい。
結局、中年や熟年で結婚がうまくいかないのは、こうした関係性を築くのが構造的に難しいからだ。
恋愛や結婚を感情論ではなく社会構造や生理的欲求として理解する教育が必要だと思う。
Permalink |記事への反応(22) | 14:24
飲み屋で杯を交わす行為も、SNSで実名顔出しをする行為も、本質的には同じゲームの別の盤面で動いている。
端的に言えば「信頼を得るための行動」はコストを伴うことで初めて信頼を示すに足る。
酒席で酔って本音を曝け出すのは単なる酩酊の偶然ではなく、自己を脆弱にするという意図的な投資だ。
飲むことで判断や防御が緩む、その緩みを自ら進んで受け入れることは「私はここで負けても構わない」というコミットメントの証だ。
コミットメントは言葉ではいくらでも偽装できるが、身体状態や行動を伴うコストは偽造しにくい。
だから相手はそのコストに価値を置く。つまり飲み会で酒を拒否する奴は、単にアルコールが嫌いなだけかもしれないが、社会的信号としては「脆弱性を見せない=コミットメントを避ける」ように解釈されやすい。
人間関係の信頼は期待値の連鎖だ。相手が本音を言う確率が上がれば、それに応じてこちらも本音を差し出す期待値が高まる。
酒を飲まないという行為は、この期待値の形成を阻害するので、無条件に信用されにくい。
同様に実名顔出しは、オンライン上の信頼構築における「コストの可視化」である。匿名であれば言葉一つで逃げられるし、責任追及も難しい。
実名を晒すことは身元や立場、社会的帰結を晒すことであり、それ自体がリスクでありコストだ。社会的コストを負うことを選んだ人間は、言葉の重みが増す。
だから実名顔出しの相互性が生まれる。互いに高いコストを負っている者は相互にマッチングし、低コスト=匿名を排除するインセンティブを持つ。
オンラインでもオフラインでも、人は自分と類似したリスク許容やコミットメント水準を持つ相手と交流する傾向がある。これは単なる偏見ではなく、反復的相互作用に基づく最適戦略だ。
もし自分が高い信頼を差し出すなら、それは相手も同様の信頼で応答する確率が高い相手に向けられるべきだ。実名顔出しという行為は、そのフィルター機能を果たしているに過ぎない。
ここで冷厳な現実を直視しろ。人間の信頼は理想論ではない。期待される行動を遂行できるという「能力」と、遂行する意志を持つという「意図」が重なって初めて成立する。
酒で本音を言う者は、少なくとも「意図」を行動で示している。実名顔出しは、社会的帰結を引き受ける「能力と意図」の両方を示す。
逆に匿名で高らかに正義を叫ぶ者は、突き詰めれば自己保身の圧倒的な陣営に立っている。彼らは批判を受けると逃げる。
そうした者たちを信用することは、ギャンブルで期待値の低いベットを繰り返すようなものだ。だから実名同士、あるいは酒を交わした相手同士で信頼の循環が生まれるのは合理的だし、匿名が排除されるのも合理的だ。
もちろん例外はある。だが社会的合理性という観点からは、自己放尿レベルの恥を晒してまでコミットする者の言葉の価値は、裸で安全圏にいる匿名の言葉より遥かに高い。
悪趣味かも知れないけどよぉ、俺はこういう「一貫性が試される瞬間」みたいなのがどうしても好きでよぉ。
つまりは「左の頬をぶたれたら」を引用して調子に乗ってた奴が実際に自分の頬を引っ叩かれて果たして片側を差し出せるのかが試される瞬間みたいな奴のことよぉ。
楽しくねえか?
ワクワクしねえか?
お前は単に風向きが有利なだけだって理由で偉ぶっていただけなのか、本当に一本筋の通った奴なのか、それがソイツ自身に問われる瞬間?
俺は大好きでたまらねえんだよなぁ。
だって考えてみてくれよぉ、それまでに積み上げた「どうですか私はこんなに論理的に語っているんですよ」という態度が綺麗にひっくり返って「感情論でしかないものを着飾っていた恥知らずにございます」って看板を掲げるかどうかの瀬戸際なんだぜ?
それを自覚できてる奴らの焦り顔は面白いし、自覚さえしてなかった馬鹿だと判明したあとの風当たりの強さを高みの見物は最高だよなぁ?
お前らも好きなんじゃねえか?
俺は大好きだぜ。
悪趣味かもだけどよぉ。
ネットの多数派が理性ではなく、危な"そう"という感覚で物申していることが明らかになった良い例だった。
んで、建築家自ら長文で安全性について説明されたら、自分たちの間違いを認めるのではなく、そもそも休憩所なのに身の危険を感じさせるのがナンセンスという方向に話を持っていったんだっけ。まぁ、実際は他の休憩所と変わらないぐらいの人がいたというオチだったわけだが。
つまり、叩きたい、批判したい、最初に抱いた自分の間違った感覚を正当化したいという思いから生まれたそれっぽい詭弁だったということが証明されたわけだ。
まぁ中には建築家の説明を受けて、『でも、絶対に壊れないとは言えないでしょ?』とか『検証の際にヒビが生じたかもしれないよ』とか言う人もいたわけで、そう言う人よりは何倍もマシ、、、いや大して変わらんか。
SNS時代だと自身の感情論をそれっぽく正当化してくれる詭弁が簡単に見つかっちゃうから、いくらでも自分の非を認めないことができちゃって大変だよなぁ。
最近、SNS上では「BLは性的消費なのにフェミは男性の性的表現を叩くのはダブスタじゃないか?」というスレッドがトレンド入りしていた。
だがこの議論、よく見るとアーキテクチャの層が違う。つまり、話しているプロトコルが合っていない。
オタク文化圏では、「女性が描くBL」と「男性が描く女性向け性表現」を同一のAPIとして扱う傾向がある。
しかし実際には、両者は別レイヤーで動いているアプリケーションだ。
フェミニズムの文脈で語られる「性的表象の問題」は、主に「社会的リソースの不均衡」や「ジェンダー権力の構造」についての議論であって、単なる「表現内容」の良し悪しを審査しているわけではない。
つまり、BLを「性的に描いてるからフェミ的にアウト」と言うのは、仕様書を読まずにバグ報告を出すようなものなのだ。
歴史的に男性中心に最適化されてきた社会システムに、女性視点のパッチをあてて再コンパイルする運動と言える。
だから、「男性と女性を同じように扱うべき」という一般論をそのまま適用しようとすると、互換性エラーが出る。
たとえば「女性の性的表象は抑制されるべきだが、BLはOK」とされるのは、「権力構造上の対称性が存在しない」という前提で最適化されているからだ。
一方、「普通の女性はフェミと違う」「まともな女はそんな主張しない」という定番フレーズが出てくる。
だがそれは多くの場合、ユーザーの気分を和らげるためのUX的演出にすぎない。
実際、ほとんどの人間は制度的優遇(レディースデー、女性専用車両、離婚時の親権バイアスなど)という「プリインストールされた特権OS」の上で動いている。
たとえ本人が「私はフェミじゃない」と言っても、使っているAPIがすでにフェミ思想ベースで動作しているのだ。
つまり、「私は違う」という自己申告は、ただのUIレイヤー上の装飾にすぎない。
平等を掲げるなら、優遇措置をアンインストールする覚悟が必要になる。
だが現実には、多くの人が「平等という概念を口では支持しつつ、既得権のキャッシュを維持」している。
これはエンジニアリング的に言えば、「レガシーコードをリファクタリングすると言いながら結局コメントアウトで誤魔化している状態」だ。
男女平等を“動作保証付き”で実装しようとするなら、既存の社会制度をルート権限で書き換える必要がある。
だが、ほとんどの人はroot権限を持つどころか、ユーザーレベルの設定すらいじる気がない。
もっと根本的に言えば、日本社会の多くの仕組みは、女性優遇をデフォルト設定としてビルドされている。
その構造はあまりにも自然化されていて、誰もコードレビューをしようとしない。
アンチフェミを自称する男性すら、「女性は守るべき対象」という社会的テンプレートを内面化していることが多く、それが構造の永続化を促している。
結果として、「BLは性的消費」「フェミはダブスタ」という批判は、異なるフレームワーク間の非互換問題にすぎない。
BLは「個人の妄想の自由」をレンダリングするローカルアプリだが、フェミニズムは「社会構造の更新」を目指すサーバーサイドのシステム。
同じメソッド名を呼んでいるように見えても、実行される関数の意味がまったく違う。
つまり、「BL=性的消費」「フェミ=ダブスタ」という批判構造は、コードのバージョンが違うままマージしようとしている状態に近い。
根本的にAPI設計思想が違うのだから、いくら議論を積み重ねても互換性は取れない。
必要なのは、「どの層で話しているのか」「どの権力構造を前提にしているのか」を明示することだ。
何を今さらわめいている。「AI作文で賢くなったつもりのバカ」だと?冷徹に事実を見てみろ。
「AI作文」とやらも、結局は道具に過ぎん。道具を使って成果を出す人間と、道具を罵倒するだけのお前、どちらが「賢くなったつもり」のバカか?
道具を使いこなす知性を持たず、その進化をただ遠巻きに見て喚くだけの姿勢は、まるで自己の無力感を公共の場に垂れ流している自己放尿と同じだ。みっともない。
AIが生成した文章から情報を抽出し、それを理解し、自分の知識として再構築する。その過程で、マクロな現象の裏に潜む量子論的な本質まで把握できるなら、それは真に賢くなったということだ。
お前はただ、自分の頭を使わず、新しい道具の力を借りて先に進む者を「ズルい」と非難したいだけだろう。
そんな感傷的な足踏みをしている間に、世界はとっくに超電導ワイヤーの中の電流のように、集団的な力で次の技術的な障壁をトンネルして先に進んでいる。
お前の「死んでほしい」という感情論は、科学の進歩という冷徹な現実の前では、一瞬で絶対零度近くにまで冷却され、霧散するただの自己放尿に過ぎん。