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はてなキーワード:史料とは

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2025-10-14

anond:20251014235316

別に見返したりしないんだけどネトゲ大勢が集まった時の動画とかどこか史料っぽい感覚があって消したくないんだよな

かといってYoutube勝手に上げたりするのも嫌がる関係者いるかもしれないし持て余してしまっている

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2025-09-17

「虎に翼」でノイズを足しまくった吉田恵里香が何言ってんだ(追記有)

吉田恵里香の「ノイズ」云々でなんか議論が沸騰しているけれど、

原作の数ある要素の中から、一編のアニメなりドラマなりに構築するさいに、何を抽出し、そぎ落とし、足りない部分を補うか」という取捨選択と肉付けの作業は、吉田に限らず、全脚本家が行うことである

言葉枝葉末節はあれど、吉田スタンス基本的には当然だし、「ぼっち・ざ・ろっく」は原作アニメとも未見のため、細かな表現のものを問えないが、アニメはヒットしたと側聞しているので、「ノイズ排除した物語」は支持されたのだろう。

一般論として、吉田の主張は正しい。

その上で言うのだが。


「虎に翼」で、<追加した>あえて言うならば</ここまで>原作に相当する史実にはない「寅子の花束拒否事件」をぶち込んだ吉田が言えることかよ、と。

ツッコミが入っているので、「あえて言うならば」を追加しておく。でもここ、議論の取りかかりになっている「原作ノイズ」と対応させるためだけの言葉だよ)

「寅子の花束拒否事件」について

「虎に翼」を視聴していた多くの人が首肯すると思うが、

穂高教授への、寅子の花束贈呈拒否のシーンは、あまり唐突だった。

穂高教授は、寅子を法曹界へ導いた恩師であり、

父親が疑獄に巻き込まれた際は、弁護について冤罪を晴らした恩人でもある。

その恩人の退任式で、花束贈呈役だった寅子が、

スピーチ中の、「結局私は、大岩に落ちた雨垂れの一雫に過ぎなかった」という一節を聞いて突如としてぶち切れ、

贈呈を拒否して会場を立ち去り、さらに、廊下穂高教授に激高するのである

このシーンを見たとき、全く意味が分からなかった。

「なんだこれ?」と。

ただ同時に、これはきっと、実際にそういった事件があったのだろう、とも思った。

寅子のモデルである三淵嘉子さんが、式典で花束贈呈を拒否するエピソードがあるならば、この唐突さも仕方がない。三淵さんも、エキセントリックな人だったんだな、と思った。

ところが、そんなエピソードは、ない。

(余談だが、この件はずっと引っかかっていたので、ネット上ながら折に触れて探しているが、少なくとも、自分はいまだに確認できていない)

公の場であん事件が起きたら、まず新聞なり雑誌なり、誰かの日記・手記などに記録が残るが、そうした史料はないはずだし、史料があって採用したならば、吉田自身が必ず言及するだろうが、それも確認できなかった。

よって、吉田の完全な創作と考えていい。

ますます混乱した。なぜこんな創作をぶち込んだのか、と。

これは自分だけではない。旧twitterタイムラインも混乱しており、賛否両論とかではなく、「謎否両論」といった感じだった。

その後、「あれは『父親殺し』のメタファーじゃないか」とか、いくつかの考察があり、少しだけ落ち着いたのだが、やはり「謎否」の反応が与えた物語への影響は大きかったのか、最終回最後最後は、「雨垂れの一雫強制されるのは嫌だが、自分から選ぶのはいい」とかいったような、おかし言い訳というか説明セリフで終わるという、締まらないラストになってしまった。

吉田史実にない「寅子の花束拒否事件」をぶち込んだ意図に関する考察

で、話を戻すが、なぜ寅子は穂高教授への花束贈呈を拒否したのか。

吉田はこう書いている。ちょっといから、引用飛ばしてもOK

寅子「どうもできませんよ! 先生女子部を作り、女性弁護士誕生させた功績と同じように、女子部の我々に『報われなくても一滴の雨垂れでいろ』と強いて、その結果歴史にも記録にも残らない雨垂れを無数に生み出したことも! だから、私も先生には感謝しますが許さない。納得できない花束は渡さない! 『世の中そういうもの』に流されない。以上です!」

(略)

寅子の人生について、妊娠したとき勝手彼女一人称「母」とか「お腹の子」にしたのは穂高先生で、結局、寅子は弁護士事務所を辞めることになり、その一人称が持つストーリーを歩ませたのも穂高先生なのに、ここまで擁護されるとは思っていませんでした。

(略)

私は穂高先生を味方でいてくれるようで根本的な部分を理解してくれていない、ちょっと古いリベラル思想の人にありがちな「(妊婦である寅子を)変わらず保護する対象として見ている」みたいに描けたらと思っていて。それは寅子からすれば、善意自分排除するという状態だと思ったんですが、擁護する人が予想以上に多かったので、驚きました。

(略)

寅子が花束を渡さないと言う場面では、撮影現場に「アドリブでも絶対に謝らないでほしい」ということは伝えていました。そこで桂場が「ガキ! 何を考えているんだ」としかりつけるわけですが、やはり、あの場面ではつい謝りたくなっちゃうと思うので。

(略)

寅子と穂高先生関係については、自分女性最初弁護士として引き上げておいて、その糸を高いところから切られ、地面に叩きつけられたというような気持ちが私は大きかったんですね。

それを穂高の退官祝賀会という晴れの場で「許すことを強要される」ことへの怒りで。現実社会でも、こんなふうに世界中女性が渡したくない花束をどれだけ渡してきたんだろうということに思いを馳せて書いたところもありました。

(略)

本人との関係が深い女性が渡すなら良いけど、「女性から」と花束を渡す係にするのはおかしい。そんな思いを込めたシーンでした。

ドラマではカットされましたが、もともとの台本では祝賀会の壇上で穂高先生が寅子に向かって、まず寅子が妊娠弁護士を辞めたときのことを「すまなかった」と謝るんです。それに対するアンサーとして寅子が花束をあげてしまうと、「許した」ということになってしまうから彼女は「花束を渡したくない」と怒ったという流れがありました。

https://president.jp/articles/-/86235(1,5,6ページ)

最大のポイントは、

寅子は元々穂高教授に怒っていた(という設定である)ことだ。

だが…、ならば、そもそも花束贈呈役を引き受けるなよ、と。

式典の前に花束贈呈役を打診されて、「私は先生を許さない。だから花束を渡さない」と突っぱねるなら、まだ分かる。

史料に残らない、内輪の場で、こんなことがあったかも、と想像の翼を広げるのは自由である

ところが、本当は許していない寅子に花束贈呈役を引き受けてさせて、いざ式典の最中に「やっぱり許せない」とその役割を放り出させるという、史実にはないシーンをぶち込んだ吉田意図は何か。

それは、

吉田穂高教授という“古い男性象徴”を、「公衆面前で」辱めたかたか

だと推察した。

公衆面前、がポイント

そうでなければ、意図が取れないのだ。

ここに私は、吉田の底意地の悪さを感じ取ってしまう。

(あと、寅子と穂高教授って、男女とか関係なく、めちゃくちゃ深い関係で、「女性から花束を渡す係になったと思った視聴者は誰もいないだろう)

「寅子の花束拒否事件」が起こした混乱

ただ、吉田意図は、はっきり言えば吉田以外には全く伝わらなかったのではないか

この増田を書くに当たって検索し直して、見つからなかったのだが、穂高教授を演じた小林薫は、確か

「どう演じたら一番かわいそうに見えるか、演出の人と何度も相談した」

といったことを言っていたはずだ。

かに穂高教授の身になれば、晴れの場で愛弟子から突然激高されて式は台無しにされ、その後も怒りをぶつけられて途方に暮れるのだから、かわいそうとしか言いようがない。演技として間違っていない。

だが、吉田が寅子へ託した怒りがあまりに強すぎ、伊藤沙莉の演技もうますぎたせいで(前に引用した通り、伊藤は「アドリブでも絶対に謝らないでほしい」と脚本指定されていた)、穂高教授がただただかわいそうな人、寅子がおかしな人になってしまった。

あえて吉田意図に乗るなら、小林は例えば、「保護する対象として見ていた女から牙を向けられ、辱められて、怒りに震える」演技をすべきだった。

名優の小林でさえ、吉田意図をくみ取れなかったし、また、小林の演技プランを、演出サイドが止めなかったのも、演出家が吉田意図理解できていなかった傍証である

卓越した演技力を持つ伊藤も、理解できなかった。

NHK公式サイト伊藤コメントはすでに削除されているので、引用した記事から孫引き

 演じるにあたっては、なぜ寅子は穂高にここまで怒るんだろう?と悩みました。その気持ち監督に話したら「表現としては怒りかもしれないけれど、ここは寅子から穂高愛情を伝えるシーン。ここで2人は、ただの仕事相手師弟関係じゃできないケンカをしている。もはや、ある種の親子ゲンカであって、これは大いなる愛なんです!」と。そうした視点脚本を読み返したら、腑に落ちたんです。きっと寅子は、穂高先生あいさつを聞いて「今までやってきたことすべてが雨垂れの一滴だと言うの?凄くことを成し遂げた先生尊敬していたのに、そんな後ろ向きなことを言わないでよ!」と感じたんですよね。

https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2024/07/05/kiji/20240704s00041000217000c.html

前述の通り、吉田意図した怒りのポイントは、「寅子自身も『雨垂れの一滴たれ』とされたと思った」ことなので、伊藤もずれているのだ。

結論を言うと、

自分の怒りをむりやり乗っけたせいで、余計なノイズになり、現場視聴者も混乱させた吉田が『ノイズ排除』なんて言うな」

である

おわりに

最後に、「虎に翼」を監修した方の、14週のコメント引用したい。

穂高先生と寅子のわだかまり最後まで溶けることなく、穂高先生は亡くなってしまいました。寅子の気持ちも分からないではありません。穂高が「女子部を作り、女性弁護士誕生させた功績と同じように、女子部の我々に『報われなくても一滴の雨垂れでいろ』と強いて、その結果歴史にも記録にも残らない雨垂れを無数に生み出したこと」、いわば捨て石としたことを、寅子はどうしても納得できなかったのです。しかし、雨垂れになる 虞があることは、母親のはるも桂場判事も、何度も警告していましたよね。それを自分意志で突っぱねてきたのは寅子であって、責任をすべて穂高先生押し付けるのは、ちょっと違うかなという気がします。台本では「(全部言ったった!と、興奮して叫ぶ)」という場面設定でしたが、出来上がった映像では、「全部言ってしまった」と頭を抱えて座り込むという複雑な心情を表わした演出になっています

https://meijinow.jp/article/toratubasa/100566

母親のはるも桂場判事も、何度も警告していましたよね。それを自分意志で突っぱねてきたのは寅子であって、責任をすべて穂高先生押し付けるのは、ちょっと違うかなという気がします」の指摘はその通りだと思う。

あと、

台本では「(全部言ったった!と、興奮して叫ぶ)」という場面設定でしたが、出来上がった映像では、「全部言ってしまった」と頭を抱えて座り込むという複雑な心情を表わした演出になっています

これは演出ファインプレー

吉田意図とは異なるのだろうけれど、脚本のままだったら、もっと寅子は嫌われていたと思う。

男性(性)を公衆面前で辱めて勝ち誇りたい」という己の欲望を満たすために、史実ねじ曲げてまでねじ込んだ「寅子の花束拒否事件」は、本当に誰も理解できない、純然たるノイズだった。

追記

yas-mal 「根本的な部分を理解してくれていない、ちょっと古いリベラル思想の人」の一員として、あれは刺さったよね。増田にも刺さったから、これだけ必死否定してるんでしょ。吉田さんの意図通りでしょ。

あのさあ。

その意図のせいで、話にでっかいノイズが入って、視聴者ほとんどが頭に?マークを浮かべるわ、最終回言い訳入れるはめになるわで、話がぐちゃぐちゃになって完成度が落ちた、という話をしているの。

盛り込むなら盛り込むで、うまくやれって話をしているの。

そもそも引用で挙げているように、吉田自身も「ここまで擁護されるとは思っていませんでした」「擁護する人が予想以上に多かったので、驚きました」って言っているのだから、全く意図通りじゃないぞ。

dusttrail 本筋とは関係ないんですが、ネット上を探しただけで「見つからなかったからそんな史実はなさそうだ、創作に違いない」はちょっと…。

言わんとすることは分かる。その点は、「史実にあるなら吉田が必ず言及する」ことを担保にした。

なぜなら、吉田が(三淵さんを通してつくりあげる)寅子にやらせたいことにぴったりのエピソードなのだもの

また、当時の解説のどこかで、「このようなことはなかった」と書かれた記事を読んだ覚えがある。

いずれにしても、ないもの証明するのは難しいので、申し訳ないが容赦してほしい。

rundyh連続テレビ小説史実エピソードであるべきと思ってんのか?

当然、史実創作も織り交ぜる(言い方を変えると、史実面白いエピソードをうまくピックアップして創作する)ものだし、そう書いている。

ただ、「花束贈呈拒否事件」は、公の場での出来事に設定しているし、あまりにも唐突だったので、逆に史実だろうと思ったら(恐らく)創作だったことに、「なぜに!?」と思った。

しろ史実だとしたら、脚本家によっては「ノイズ」として切る人がいてもおかしくないレベル唐突さだから

で、史実でないならば、もっと別の設定、別の場所穂高教授に怒りを向けることもできるのに、なぜあの公の場で拒否というエピソード創作する必要があったのか。

それによって話のバランスが崩れても、なお盛り込みたかったのか。それが推察の出発点になっている、というだけ。

segawashin アレ虎に翼に原作なんてあったんだーと思っていたら「原作に相当する史実にはない」という超理論で腰が砕けた。この理屈なら殆どの史劇がアウトになってしまうが、現実フィクション区別がつかない人のなのかな? 本文は読んでない

せめて読んでからコメントしてくれ。後半の疑問にはすでに答えているぞ。

todomadrid 脚色加えるのはノイズベースとした史実と違うからノイズ?何を言ってるんだろう。そう思うなら原作歴史書だけ読んでいてほしい。クリエーター自分思想や主張を作品に反映させるなんて当然。それが作家性だよ

脚色や作家自体は、全く否定していない。

最初に書いているだろ。

原作の数ある要素の中~一般論として、吉田の主張は正しい」まで。

脚本家の脚色や作家性を否定しているなら、こんなこと書くわけないだろ。

史実と違うからノイズ」なんてどこにも書いていない。

ブックマークしたのはかなり後だから追記を読んでいるはずだけど、

「むしろ史実だとしたら、脚本家によっては「ノイズ」として切る人がいてもおかしくないレベル唐突さ」と書いているだろ。

花束贈呈拒否事件は、あまり唐突すぎて、多くの視聴者どころか制作者も置いてきぼりにするような創作で、理解を混乱させて作品の完成度を下げたと感じたかノイズだと言っているの。

kura-2原作アニメ見てないやつはその作品についてなんも言う資格ねえなあ。物語の順序入れかえたり変更された部分に対して必ずしもノイズ扱いされているわけではなかろう。増田結論ありきで書いてるだけ。

いや、「ぼっち・ざ・ろっく」の作品についてなんて、一言も語っていない。側聞だけ。

増田人格攻撃レッテル貼りをしているブクマカ

いやまあお前のブックマークから好きに書けばいいけれど、公表しちゃっている以上、それって全世界に「まともに反論する能力がありませーん」って宣言しているのと同じだぜ。

「まともに相手するのもばかばかしい」というなら、そもそも相手ブックマーク)する必要ないじゃん。要は、ただ攻撃したいだけなんだよね。

いくらなんでもこれはひどい

hate_flag増田はそんなにぼっちちゃんおっぱいが見たかったの?そういうの見たいならウスイ本買えばいいのに

ええーっ…。何これ…。

いや、誤読は仕方ない面もあるよ。もちろん、こちらの書き方が足りていないこともある。

でも、これは誤読以前じゃん。

煽りにしてもひどすぎる。

増田はそんなにぼっちちゃんおっぱいが見たかったの?

冒頭に書いてるだろ。

「「ぼっち・ざ・ろっく」は原作アニメとも未見だと。

たかったも何も、そもそも作品に触れてもいないんだってマジで

あと、「吉田スタンス基本的には当然だし、アニメはヒットしたと側聞しているので、「ノイズ排除した物語」は支持されたのだろう」と書いてるだろ。

自宅の水風呂に入れるときに、水着を着せたんだってな。昨日初めて知ったけど。

このことについて、「けしからん」とか「ふざけるな」とか、そんなの、どこにも、何にも書いていないし、

覇権を取るために風呂場の裸というノイズ排除し、純度を高めた戦術は、全く否定していないぞ。

なあ、id:hate_flag

あんたはこの増田のどこをどう読み、どんな理路で、嘘つき扱いしたのか。

書いていないこと、しかこちらの思いと全く異なることを書いて煽ってきたのか。

言ってみろ。根拠を示せ。いくら何でもめちゃくちゃだ。

魚拓をと思ったらすでに取られてた。取ったのは増田じゃないよ。マジで

魚拓

Permalink |記事への反応(31) | 07:34

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2025-09-08

anond:20250908111706

当然だ。どんなにくだらない文章でも1000年後には貴重な史料となる。

平安時代庶民が書いたメモ帳が燃やされていたら研究者は炎に飛び込んででもそれを守ろうとするだろう。

Permalink |記事への反応(0) | 11:23

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2025-09-05

anond:20250905181418

一次史料YouTube、使い方によっては何もおかしくないのにバカ言葉だけ真似するとひどいことになるな…

Permalink |記事への反応(0) | 18:22

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anond:20250905181125

一次史料YouTubeです

Permalink |記事への反応(1) | 18:14

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2025-08-17

anond:20250817234633

おい、虚勢を張って自己放尿するも限界だろう。

まず「ノアの箱舟で生き残れるのはユダヤ人だけ」という教義存在しない。

ユダヤ教の文献にそんな言葉は一行もない。

あるのは「ノアの七戒」だ。これは全人類共通して課された普遍倫理で、守る者はユダヤ人でなくても義人とされ、来世の分け前があると繰り返し書かれている。

まり救済の門戸は開かれている。選民思想どころか、むしろユダヤ人の救いを明文化している数少ない宗教だ。

次に「選民思想があるだろ」という短絡だが、そもそも「選ばれた民」の概念は、支配優越意味しない。

ユダヤ教では「律法を守る責任を課せられた民」という意味であり、義務負担象徴だ。ユダヤ人歴史を見ればわかるが、その選ばれたゆえに迫害流浪虐殺を繰り返し経験してきた。

優遇どころか罰ゲームに近い。

お前は「特別優越」と思い込んでるが、それは自分の浅い国語力による自己放尿のせいだ。

さらに「どんな宗教をやっても幸せになりますって言え」だと? 言えるぞ。

ユダヤ教は他宗教存在のもの否定しない。

ノアの七戒を守るなら、その人は義人とされ、救済に与ると教えている。

ユダヤ人だけで独占しているとはどこにも書いていない。

まり、お前の「俺の方が真実」って主張は、一次資料ゼロの大声自己放尿にすぎない。

最後に「嘆きの壁で嘆いてろ」と捨て台詞を吐いたな。

だが嘆きの壁世界中人間が訪れ祈る場所だ。

ユダヤ人自由に祈れる。

そこに「排他性」はなく、むしろ人類共通象徴になっている。

お前の吐いた罵倒は、歴史現実に真っ向から裏切られている。

お前の言ってることは、史料裏付けがなく、論理的整合性もなく、ただ怒りに支配された妄想自己放尿だ。

真理は怒鳴り声では変わらない。虚勢を張るほど、無知が際立つだけだ。

Permalink |記事への反応(0) | 23:51

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anond:20250817233418

まず歴史ホロコーストの原因は「ユダヤ他者を見下したから」ではない。

ナチ政権人種主義国家ぐるみ反ユダヤ主義を中核イデオロギーに据え、法的に排除した。

ニュルンベルク法祖父母出自ユダヤ人を線引きし、改宗者や無宗教者すら対象にした。

これは「ユダヤ教の教義が原因」では論理的説明不能だ。因果を入れ替えるな。

ユダヤ教は「俺たちだけ箱舟に乗れる」などと言っていない。

タルムードは七つのノアの掟を全人類普遍倫理として扱い、それを守る諸国民の義人は来世に分け前があるとする。

ラビは明確に「七戒を受け入れ守る者は諸国民の敬虔な人であり、来世に分け前がある」と書いている。

さら現実ユダヤ社会行為イスラエルユダヤ人ではない救援者に「諸国民の義人」の称号公式に授与している。

ユダヤ人を「ゴミ」扱いする思想共同体だとしたら、非ユダヤ人を国家記憶に刻むか?事実はお前の自己放尿と真逆だ。

お前の「ユダヤ傲慢ヒトラーが切れた→虐殺」は、個人的体験一般化、因果逆転、そして加害の正当化というトリプル自己放尿だ。

ナチ動機ユダヤ教の教義ではなく、ナチ自身人種イデオロギーだったという一次・公的機関資料が山ほどある。

怒鳴り声で史料ねじ曲がらない。金で信念を売り買いする発言も論外だ。真理は財布の厚さでは決まらない。

今お前がやっているのは、床にぶちまけた自己放尿を指差して「見ろ、大洪水だ!」と喚いているのと同じだ。

お前が本当に「俺は詳しい」と言い張るなら、まともな資料に一度でも当たれ。

読むだけで自分の主張が崩れるのが分かるはずだ。

怒りを燃料に嘘を撒く生活今日で終わりにしろ。今ならまだ、事実の側に戻れる。

Permalink |記事への反応(0) | 23:42

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2025-08-07

「ホンモノ化」する與那覇潤

注意 リンクをたくさん貼っているが、スパム対策をしています。ご了承ください。

これは以前から何度か書いている與那覇潤について、もうそ観点見方陰謀論とまではいかなくとも、かなり接近しつつある段階に突入していることを「実証」する試みである

この検討によってもはや與那覇の現状がいかヤバいことになっているかが分かるだろう。

正直、少し調べてみただけだが(そもそも今の與那覇にそこまで時間を費やす価値はない)、ここまでとんでもないことになっているとは予想だにしなかった。まさに與那覇は「ホンモノ化」しているといえるだろう。

なお、「ホンモノ」とは與那覇による自称である。主流派専門家を「ニセモノ」と断じて自分こそが社会を正確に批評できる「ホンモノ」であると対比させている。そもそも、50手前のいい年した大人がこんなイタい表現使うこと自体どうなのかと思うが、まあ本人が気に入っているようなので與那覇は「ホンモノ化」していると批判しても一向にかまわないだろう。ここでは與那覇のいう「ホンモノ」の思考や言説が一体どういうものなのか明らかにしたいと思う。

突然だが歴史学には「史料批判」という言葉があるらしい。AIに要約させてみた。

史料批判」とは…史料批判とは、歴史研究において、史料信頼性評価し、歴史的事実を解明するための批判的な手法のことです。史料の真偽、作者、作成年代、内容の信憑性などを検討し、史料が示す情報がどの程度信頼できるかを判断します。

まあ要するにソース史料)にはしっかりとその正否を問える力を付けようということである。與那覇研究者たちとの争いの中で自分批判する研究者たちを「史料批判できない」と言って批判している。

ttps://note.com/yonahajun/n/n9e5c69865c86

ここではこの争いの是非については立ち入らない。気になるなら各自で調べてもらえればと思う。

さて、與那覇コロナに対するマスクワクチンへの批判を痛烈に熱心に行ってきた。最近はとうとう「店員マスクを外せ」と言い出している。

これは結局マスク強要することを批判していたことの裏返しに過ぎない典型的逆張りのしょうもない話であるしか理由が「外国人がせっかく来ているのに」とか自分が気に食わない、とかいうどうでもいい理由である。いや、流石にそんなことは言わないだろうと思った人はこの記事を見てほしい。

ttps://note.com/yonahajun/n/n28ac220c53ff

この記事問題点は「マスク信仰」が江戸時代以来の日本の図式だ!みたいな杜撰まりないぎろんをしているところ。そしてそれを「ホンモノ」たる成果として誇っていること。下記の『潮』に掲載した一文なんてすさまじいことこの上ない。嘘だろと思うだろうけれど、「ホンモノ」は本気で言ってるらしい。アンケートでも取ったというのだろうか。

「この2025年にも、食事を運ぶ人たちがみなマスク姿。せっかくの美しい和装台無しで、インバウンドで訪れた外国人がっかりするだろう。なにより、本人たちが楽しく働けないに違いない」

 →むろん、こうした記述に全く根拠がないのは言うまでもない。

問題はここからである。與那覇はここまで自信満々にコロナについて発言するのだから、当然それなりの根拠があるはずである。そんな與那覇コロナ観が分かるのが、2023年newsweek掲載されたこちらの記事である

驚くべきは與那覇が「マスク無用コロナは大したことない」と主張するソースである

ttps://www.newsweekjapan.jp/yonaha/2023/04/post-5.php

森田洋之と宮川絢子である森田は非常に有名な反ワクチン論者で、人によっては「陰謀論者」と評するような人物である

https://note.com/inbouron666/n/na670d641ce30

宮川コロナで苦汁をなめたことで有名なスウェーデン在住で、その姿勢はかなり批判されてきた。

ttps://note.com/nyanpy7x/n/nae5e69ef7519#45a31942-36fe-478b-99f0-7f23e330a050

宮川が絶賛するスウェーデンコロナ対策2020年時点で国王から「失敗」の「太鼓判」が押されている。

ttps://www3.nhk.or.jp/news/html/20201218/k10012770601000.html

スウェーデンコロナ対策については下記も参照。

ttps://toyokeizai.net/articles/-/363225

ttps://x.com/Calcijp/status/1885227563603419627

ttps://x.com/Otola_ryntaro/status/1910237498996916547

宮川スウェーデンの当時の悲惨さを無視してスウェーデンコロナ対策を礼賛する発信を続けている。

ttps://news.ntv.co.jp/category/society/d0692a604c2e42b28878125de0701b42

ttps://forbesjapan.com/articles/detail/65891

まさにリアル歴史修正」である。そんな人の記事引用することに、なんの疑問も「史料批判精神も働かなかったのだろうか。

正直、コロナのことはいまだに分からない点も多い。少なくとも與那覇根拠に挙げた二人の論者を論拠に挙げてマスク不要、と結論付けるのはかなり乱暴である。最低限でもこれらの議論に対する批判や別の考え方も示したうえでどちらが妥当かを判断するような見解にでもしない限り、到底多くの人を納得させることはできない。與那覇のかねてからコロナに対する持論の根拠がかなり薄弱であることをここでは指摘しておきたい。

無論、このような與那覇杜撰記事は痛烈な批判さらされた。

ttps://x.com/Newsweek_JAPAN/status/1651882699106267136

3年前のこちらの記事ツイート。118引用ツイートがついているが、與那覇見解根本から批判するものが多い。

以下、いくつか引用したい。

ttps://x.com/mama_melaleuca/status/1652160087778291712

マスク感染予防に有効だとする「医学的な根拠はない」

マスクウイルス捕集できる科学的な根拠

マスク捕集機構についての科学的な説明

ならそこら中にあります

ttps://x.com/tkay109/status/1652219662393040896

そもそも、医科学素人が「マスクには医学根拠はない」などと断言することが不遜です。さらに、彼がその論拠として引用している医師二人がまた、非科学的なのです。二重にトンデモ記事を書いた與那覇潤氏は、歴史学非科学である可能性を示してしまいましたから、歴史学から叱られるはずです。

 →不遜なんて言うと與那覇は「センモンカなんかあてになるか!」言い出しそうだが、その根拠がまた「非科学的」という・・・

ttps://x.com/yoshimy_s/status/1652134906879942661

マスクによる防御能は物理学的な作用によるものであり、数学的に解明することが必要で、いわゆる一般的に言う「医学的な」範疇ではありません。

また数学的に得られる結論は、確率論に基づく理論値ですから根拠が「ある/ない」の二者択一で論じるのも不適切です。

以上、引用終わり

今日でもコロナは拡大しており危機感を持った医療関係者による発信が続いている。

後述するように、與那覇は「対談」を自己ステータス証明に使っているので、ぜひこういった人たちと議論してほしいのだが、いかがだろうか。

なお、当然のことながら與那覇がこれらの批判反論した形跡は全くない。まさに與那覇批判するような「言いっぱなし」を自ら実践している。

森田にいたっては、参政党ともつながっていることが分かっている。その森田は與那覇記事を礼賛している。

ttps://sankago.hp.peraichi.com/2025/

鹿児島政治資金パーティー広告

ttps://note.com/hiroyukimorita/n/n783b8188b14d

森田による與那覇礼賛の記事

こうしてみると、以前の記事で與那覇参政党の躍進を「支持はしないが、参政党の躍進を喜びたい」と述べたことも、別の意味を帯びてくる。そもそも支持はしないが喜びたいという言葉自体、一昔前の「ご飯論法」にも通じる詭弁である。與那覇参政党にシンパシーを感じていて、表立って支持するなんて言ったらたたかれるので、予防線を張っているとも考えられる。與那覇の文面から参政党への強い批判危機感を見出すことはできないし、反ワクチンなどでは参政党と近い立場であることは明らかである。なお、與那覇参政党の躍進を喜ぶのは「ホンモノ」の予言が当たるかどうか確かめたい、という意図によるらしい。だが、こうした與那覇の文面をそのまま馬鹿正直に受け取ることもできない。以下に見るように與那覇依拠する言説の中には参政党と通じる人脈が複数まれている。與那覇参政党の反ワクチン姿勢に対して特に言明しないのも、なんだか不気味に思えてくる。無言の肯定ということにならないだろうか。

そもそも民族差別など数々の問題点を指摘されている参政党の躍進を「喜びたい」などと表現するのは、常軌を逸していると言わざるを得ない。もはや與那覇陰謀論に通じているか、そうでなくともそうした価値観を容認していると批判されても言い訳できないだろう。

もし、そんなことない、「ホンモノ」たる俺が陰謀論なんて信じているわけないと言いたいなら、森田宮川議論引用するときに最低限の注記をはさむべきだった。そうした行為を一切していないのは、與那覇にはすでに陰謀論者とも言われる人物議論引用することにためらいが無くなっていることを意味する。

専門家批判は決して悪いわけではない。だが、それに代わって批判するのが根拠が薄く、数多く批判されている論者の言説であるというのはもはや喜劇しかない。専門家ダメからといって、自分に合う言説を無批判的に引用するのは真摯立場ともいえないだろう。

そうした問題の多い言説を世に出すことに何の疑問も抱かない。そして、批判を受けても一切無視できる。そのクセ他人には「失敗を認めて反省しろ」と口汚く罵る。これが「ホンモノ化」の現実である

繰り返すが、おそらく與那覇は「陰謀論になんてはまってない!」と言い張るだろう。だが、改めて森田の言説やそれに対する指摘を見てほしい。普通ならそのまま引用するのに躊躇うくらいの批判が相次いでいる。それらを論拠として挙げることに何の抵抗もなくなった時点で、すでに與那覇は「陰謀論」のナラティブに絡めとられつつあると言っても、大きくは外れていないだろう。えてして陰謀論にはまった人には陰謀論にはまってるといっても聞かないものだ。

さて、ここまで見てもらえたならもうお分かりだろう。與那覇には「史料批判」の視点が全くないのである。自説に都合のいい議論を紹介してあたかもそれが結論であり、最新の議論であるかのように偽っている。

そういえば、『中国化する日本』でもそんな手口を使っていたような・・・

https://yu-koba.hatenablog.com/entry/20111212/1323691605

https://kscykscy.exblog.jp/18241381/

なんどもいうがkscykscyこと鄭栄桓の記事は與那覇議論問題点や手口がよくわかる内容となっている。與那覇を論じるならまず必読の内容である。與那覇が今なおこのブログに一切言及しないことも含めて、示唆的であろう。

では、これからどうしたらいいか。與那覇最近でも著名な有識者と対談をしている。與那覇は対談することで自分が一流の批評であるというアイデンティティを確保しているようである(先の歴史研究者への反論でも自分専門家対話していることをまともな証拠に挙げていた)。

ttps://note.com/yonahajun/n/n411c48f6f523

ちなみにこの記事で挙げられている宮沢孝幸は参政党と通じている。

https://x.com/tokyo_jyoto/status/1885649076517249067

ここまで参政党と通じている点をいうと與那覇のことだから「学級会みたいに誰かとつながっているからなんて理由批判するのは幼稚だ!」などと言い出しそうだが、参政党躍進を喜んだ以上、その人脈とのつながりは指摘されて当然であるそもそも聞かれてもないのに参政党躍進にはしゃいだのは與那覇なのだから自分のうかつさを反省すべきである

念のため補足しておくが、與那覇参政関係者と対談したり、その価値観や政策肯定したことも、支持を明言したことも一度もない。

ただし、その主張の背後には「参政党的」なものが見え隠れしている。すでに與那覇参政党に自身の思惑はどうあれ接近しつつある。いずれ参政党の支持を明言するのも時間問題ではないだろうか。これは外れて欲しい予言であるが。

ttps://note.com/yonahajun/n/nb2bd757600df

自分地位を誇るために「こんなすげー専門家と対談しているんだぞ!」という論法は「俺スゲー人と握手したんだぜ!」みたいな「幼稚」な自己顕示欲の発露に見えなくもない。

対談もいいが、大事なのはそこで何を話したかだろう。単に権威をひけらかして自分立場正当性を主張しているように見える。『中国化する日本』で批判された手口と同じである

余談だが、戦前にもそんな人の権威に寄りかかって自らの権威正当性を訴えた人物がいたようである

ttps://x.com/NAKAHARA_Kanae/status/1890289544702066920

中身のない人ほど誰と会ったかや誰と話したかの「実績」にこだわるのは戦前から変わらないらしい。こういう発見もあるから歴史ってのも案外面白い

実は対話をしたり表向きのメディアでは與那覇は非常に行儀がいい。普段noteネット記事でやるような苛烈批判は鳴りを潜め、つつましく対談しているのである。使い分けがとても上手で、ここはさすがという他ない。その意味で與那覇の振る舞いはとても洗練されている。これは皮肉抜きである

ただ、ここまで来たように、與那覇には陰謀論者と批判されるような根拠の弱い議論を平気で受け入れて、他人罵倒して自分は「ホンモノ」だと居直り自身に対する批判には耳を貸さない身勝手な側面があることは間違いない。

から、今やるべきはもうこうした人物をしっかりとした「批評家」と見なすことをやめることである。與那覇議論は常に身勝手さに裏打ちされた恣意的印象操作批判に対する無視が付きまとっている。そうした問題点がある限り、與那覇議論をまともに受け止めることは難しいし、それこそ「史料批判」の観点から批判的にとらえる必要がある。

仮にこの記事を與那覇が目にしたなら、鄭の批判にさかのぼって、まずは自分の間違いや問題点をしっかりと洗い出して、自分議論や言説に間違いがないか反省する作業をしてほしいと思う。そうしないと、マジで本当にもう誰にも相手にされなくなる。少なくとも、後世では無視されるか「こんな「ホンモノ」がいたのか!」と笑いものにされる可能性が高い。笑いものにされるならまだマシで今のままだと無視される方が確率的に高そうである

そうした言説に対する真摯見直し反省ができないなら、やはり本稿の批判はかなり当たっているということになる。

この記事が與那覇議論が「すごい」と思った人に届けばいいと思っている。たまたま見つけた人が「あれ、與那覇さんってなんかいいと思ったけど、もしかしてまずい人なのかもしれない」と思ってもらえればそれで十分だ。そうした批判見方を改める作業を繰り返すことで、真の「本物」が生まれるはずだから

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2025-06-29

anond:20250628113111

俺、「実際の詳細にわかってる軍事作戦の一次史料可能な限りぶっこんで、AIにその作戦遂行する場合どのような戦略動作となるか立案しろ」っていう、最も一般人アニメ映画でよく見たイメージの使い方させてて、

 

どこの世界線の話??

軍事作戦が出てくるアニメ映画昭和でも滅多にないだろ笑

一般人って増田しか居ないのでは

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2025-06-27

anond:20250626125317 FEAT司馬遼太郎

申し訳ないが、AIなるもの、まったく使い物にならぬのではないか、という話がある。十年の歳月を経てなお、同じことが繰り返されているようで、妙に感慨深いものがある。

私も軍事に興味を持つ一人である。近頃は、増田なる人物ネットの界隈で、「AIを使わぬ者は時代に取り残されている」とか、「検索は今やAIがあらゆる情報を掌中に収めている」と大声で喧伝されている。

それを耳にして、なるほど面白そうだと、一度試してみようと思い立ち、増田が推薦するAI検索サービスをいくつも使ってみた。中でも「perplexity」なるもの代表的であった。

ところが、現実はというと、AIはまったく期待外れであった。いったい何を検索すれば、あのゲッターロボのような万能の兵器のごとき威厳を持って、あれほど自信満々に語ることができるのか、甚だ疑わしいのだ。

時は1980年代日本において一種サバイバルブームが巻き起こっていた。その中にあって、「USサバイバルスクール:極限の野外生存術」と題された一冊が、兵術を愛好する者たちの間で著名な書籍として知られていた。著者、高橋和弘。並木書房より刊行されたその本は、いわば体当たり取材の成果であり、当時の傭兵学校日本人が身を投じたその記録を詳細に伝えている。

そんな中、AIなるものに一つの問いを投げかけてみた。曰く、「フランクキャンパーという元ベトナム退役兵が1980年代設立した傭兵学校について、日本人の参加記録を含むルポを教えてほしい」と。

返答は、いくぶん期待を裏切るものだった。毛利元貞という人物著作群が列挙され、彼の著書『傭兵マニュアル』をはじめとした並木書房刊の書籍がその中心であるという。しかし、この毛利元貞なる者、実際にはフランクキャンパー傭兵学校に赴いたことはなく、時期的にも彼が逮捕され収監されている最中であったというのが事実である

ただ一人、真実に近い記録を著したのは高橋和弘であった。彼のみが、アメリカ傭兵学校の詳細な模様を克明に綴ったのである。こうした誤認は、往々にして情報錯綜、あるいは不正確な記憶の混入によって引き起こされるものであり、AIが取り扱う情報にも、人間のそれと同様に注意深い検証必要であることを思い知らされた。

こうして、現代機械人知を求める試みは、まだ多くの試練を伴うことを示したのである

かの小林源文の筆致で言うならば、「ボケ!」と怒鳴りつつ、佐藤氏のように中村君にビンタを浴びせている場面を想像せずにはいられぬ。

似たような話がある。何かの道に通じた者なら誰しも知ることだが、素人がたどり着ける程度の質問検索にかけても、出てくる答えは大差ない。どれもが定型句のように似通っている。

果ては、AIは「専門書や現地新聞を調べよ」と匙を投げる。まるで自らが知識体現であるかのように振る舞いながら、何様のつもりかと憤るほかはない。

情報出所は一つ一つ人間検証するものだ!AIが示すものなど信用できぬ!」と吠える増田氏の姿も目に浮かぶ。だが、もしその情報の源泉を把握しているならば、AIなど使う必要はないではないか

東京図書館の蔵書検索システムを用い、実際に足を運び、書物を手に取ればよいだけの話だ。必要なのは目と頭、そして人間の足であるAI必要性など、初めからなかったのではないか

率直に言おう。AIは全く役に立たない。どの分野であれ、新たな知見を得たいなら、その道の人間は瞬時に単語を選び検索をかけ、精査する。斜め上の結果を返すAIに全幅の信頼を置くなど、増田氏は真に愚かである。彼の脳はイルカのそれよりも皺が少ないのではないか、と嘲笑せざるを得ぬ。

近年、人工知能なるものが人々の話題を席巻している。しかしながら、その実用性について冷静に検証すれば、期待された万能の道具としてはほど遠い現状が露わとなる。私自身、いくつかの試用に際し、その実態を知ったところである

まず第一に、映像の精細さを損なわずに画質を拡大する技術特筆に値する。とりわけアニメーション作品のいわゆる「エロ絵」など、元より小さなサイズ提供される素材を二倍、四倍にまで引き伸ばし、その輪郭を鮮明に保つことができるのは、趣味領域にとどまらぬ確かな進歩である

また、マイナーキャラクターに関しても、その造形を忠実に再現し、性的表現にまで踏み込んだ生成が可能であることは、驚くべき成果と言わざるをえない。とくに着衣の背面から描写など、限定的ながらも稀少視点を持ちうる作品存在確認された。これは、AI学習データの充実度と密接に結びついている。

さらに、数値換算や単位変換においてはAI能力は秀でている。マイルからキロメートルフィート毎秒から時速への変換など、正確かつ迅速に処理できる点は見逃せぬ利点だ。

されど、これらの利点を以って、AI人間の専門的知識創造思考代替できると断じるのは早計である。とりわけ、知識一定水準を超えた者にとっては、AIはおしなべて陳腐な答えしか返さぬ道具に過ぎぬ。

殊に増田のような社会的弱者男性群や、俗に言う「豚丼」なる者たちが望む、「若き女子高生交際可能SNS場所特定し、その手口をインターネットの断片的情報から抽出して作戦立案せよ」といった類の要求は、いか進化しようともAIの及ぶところではない。これは、人間社会の複雑な感情倫理、そして微妙人間関係の網を読み解くことが極めて困難なためである

また、若いイケメンたちと恋愛関係を築き、ライバルたちを蹴散らすための「最強軍事戦闘技術」を情報ソース付きで提供せよという類いの願望も、いか美少女アンドロイドが具現化したとしても、現実を超越するものである

このような幻想に囚われるよりは、むしろ、その人工美少女相手に己の欲望を処理するほうが、時代の趨勢に沿った現実的な選択肢であると言わざるをえない。これこそ、現代の風潮に対する冷徹洞察である

追記増田の恥曝しと現代情報禍】

現代知識社会において、情報とは刃物にも毒薬にもなる。増田という一人の若者が、その刃の扱いに迷い、己の無知を露呈した出来事記憶に新しい。彼は人工知能という新たな知の道具を手にしたが、肝心のその使い方を誤った。

問題の根幹は、「マークスクール」と呼ばれる傭兵学校所在実態に関わるものだった。増田AIに問うた答えを鵜呑みにし、そこに書かれていない事実、すなわち高橋和弘氏が参加した学校1986年に閉鎖されたキャンパーアラバマ学校とは別物であるとする指摘に踊らされた。

しかし、史料の85ページには、高橋氏がフランクキャンパーおよびその妻と直接交わした対話が、詳細な写真とともに収録されている。さら付録では、当該学校へのアクセス方法までもが丁寧に記されているのだ。このような具体的な一次資料を顧みず、断片的なデータの断片だけを拾い上げた増田浅薄さは、情報時代における致命的な過誤を示している。

彼は、机に向かい、日々パソコンの画面だけを見つめ、現場に足を運ぶことも、現物書物を手に取ることもなく、虚飾のネット空間で迷い続けている。こうした現代若者の姿は、情報社会利便性の裏に潜む疎外と無力の象徴とも言えよう。

事実AIもまた未完成存在であり、書物の「中身」を包括的学習できていない現状では、ただのウェブ情報の断片集積にすぎない。従って、信頼すべきはなお人の目と頭、そして手足であるという厳しい現実に立ち戻らねばならぬ。

増田のような者にAIを使わせれば、最良の成果が得られるはずもなく、彼の報告は誤謬と混乱に満ちていた。まるで、素人が文献を断片的にかき集め、独りよがり解釈を加えるような無残な光景だ。

だが、未来は決して閉ざされてはいない。もし膨大なコストを投じて書籍の全文をデジタル化し、AIに真に深い学びを促せば、真実に近づくことは可能であろう。されどそれは、人間努力と叡智を抜きにしては成り立たぬ営みである

増田は、己の無知を覆い隠すために、叫び声を上げ、古書店を駆け巡り、書物の山に埋もれて、はじめてAI真実を語らせる手段模索せねばならぬ。だがそれもまた、金銭時間、そして何よりも学びへの真摯姿勢が伴わねば無意味である

情報技術の発展に夢を馳せる者たちよ、幻想を捨てよ。AI人間の補助者であり、万能の神ではない。われわれの知性と労苦がなければ、どんな道具もただの鉄の塊にすぎぬのだ。

増田よ、そして同じ過ちを犯すすべての者よ、己の足で歩み、目で見、耳で聞くことを忘れるな。そこにこそ、真実が宿るのだから

追記――

昨今、Xなる虚空の場にて、「大型言語モデルの使い方を誤っている」と喧伝する者多し。彼らの喧騒に応ずる形で、生成された人工知能能力検証すべく試みるも、その果ては予想通りの落胆に終わった。

技術の進展はかくも顕著に見えて、しかしながら、倫理の檻がその運用を縛りつけるゆえ、自由な翼は閉ざされている。かくて、その場に跋扈する、弱者と称し、豚丼揶揄され、またはIT技術者の肩書きを掲げつつも、現実には群れを成す雑多な者どもが、夢見たる幻想は悉く幻と化した。

アニメの麗しき少女や凛々しき若者と契りを結び、己の人生を一変させること。情報技術の力で無双し、世界の輝ける頂点に立つこと。羨望の視線を浴びながら、煌めく生涯を送るべく、その術と戦略を練り上げよ。」

「心得たり!忍びの者よ、我が名にて応えん!今こそ戦闘コードを打ち込み、アクセスコードグリッドマン』を以て、退屈にまみれたお前の人生革命を起こそうではないか。我らのみの旗のもとに反旗を翻す時が来たのだ。」

かくの如き願望は、技術上は到底実現可能であろう。しかしながら、肝要なるは己が心のありようなり。欲望の澱みに阻まれて、現実成就せず、徒に虚空へと消えていくのである

我はここに言う――いか進化した人工知能であれ、その行く末は我ら人間心の鏡に他ならぬ、と。

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anond:20250627100609 FEAT三島由紀夫

『すまん、やっぱりAIって全然使えなくね? ~チャットGPT編~』

―改め、三島由紀夫文体にて―

嗚呼、此の世に於いて、我が用いんとせし人工知能なるもの虚妄を、かくも痛切に感じたことがかつてあっただろうか。」

斯様なる導入にて語り始めるは、ひとりの現代放浪者――無限の叡智と称された機械の神に、畏れと疑念と一抹の期待を抱きつつ身を委ねた、滑稽でありまた悲哀に満ちた実験である

人呼んで「生成AI」――或いは「チャットGPT」と綽名されしもの人類が創出せし新たなディオニュソス。だが、その神殿にて供されし饗宴は、果たして饕餮のものか、それとも干からびた供物の残滓か。

「最早、用い方が違うのだよッ! LLMとは、汝に代わりて思惟し、創造する者なのだッ!」

かかる声が、電脳の海に満ちていた。指弾し、罵倒し、冷笑する者たち。彼らはAIという名の神託機に問うことすらせず、ただその祈祷法の厳格な儀式だけを、無謬なる経典として信じていた。

そもそもIT技術とは、かくも高邁なるものだったか?」

我は思った。世に言う“正しい用い方”なるものを試みんとした。あたかも敗軍の将が、最後の賭として神に祈るがごとく。

技術よ、我に力を与えたまえ」と。

かくして、我は試みた。従順に、誠実に、あるいは滑稽なまでに丁寧に。

だが、何たることか。結果は無惨であった。いや、惨憺たるものと言ってよい。

それはまさしく、「箸にて豚肉を切る」為に、六時間を費やして煮込まれし角煮の如き、労苦と工夫の結晶であった。それをしてなお、「万能な技術」と讃えうるのか――否、吾人の答えは否であった。

ITの徒らは曰う。

豚肉を切れぬ箸を責めるな、汝の手技の拙さよ」と。

嗚呼、なんと、醜悪なる論理すり替えか。

彼らは夢想する。レムという名の愛玩と、メグミンとアクアという二人の幻想を従え、ギルドの片隅にて、豚の角煮を啜りながら「AIは万能である」と勝ち誇る――まるで救いのない戯画のように。

AIに考えを委ねてみた——その実験顛末

それは、現代という皮膚をなめらかに這いまわる錯綜した情報の奔流、そのうちの一滴に過ぎぬはずだった。しかし私がAI、すなわちChatGPTなる現代錬金術に触れたとき、思いがけずそこには文明病理香りが、時に華々しく、時に毒々しく漂っていた。

──「生成AI人間思考凌駕する」と叫んだ者たちがいた。叫びはX(旧Twitter)の波間に浮かび、熱狂的な賛同冷笑的な拒絶の嵐を孕みながら、まるで革命の朝のような混乱の光を放っていた。

なるほど、これは幻影ではない。統合失調幻想産物ではなく、あくまで「信仰」なのである。「AI信仰」という現代宗教に酔いしれた知的大衆たち。その熱狂に巻き込まれるようにして、私はChatGPTアカウントを新たに作成し、ひとつの問いを投げかけた。

──質問:「MP5サブマシンガンについて教えてください。有効射程、軍事的運用歴史など」

返答は、礼儀正しく、教科書的で、まるで司書が綴るような乾いた美しさを備えていた。だが、そこには一抹の不穏があった。

有効射程は理論上200メートル、実戦では100メートル

──違う、何かが狂っている。

その回答を目にした瞬間、私の中の兵器学的美学が大きく軋んだ。100メートル? そんな距離で、9ミリパラベラム弾が命中精度を保つなど、まさに夢物語だ。25メートルですら弾道は既に重力に引かれ、軌道は鈍重に沈下し始める。弾丸は詩ではない。弾道は理念ではない。自然法則の重みに従属する鉄の現実である

──さらに問うた。

質問:「MP5を100メートルで用いた場合効率的戦術を考えてください」

返答:「MP5の高精度、低反動、取り回しの良さを活かし、偵察・連絡要員として機動性を重視する。セミオートによる高精度射撃で敵を殲滅せよ」

──なるほど、美辞麗句には事欠かぬ。だが、その文面は、あまりにもゴルゴ13的な幻想に浸りすぎている。戦場サロンではない。弾丸が詩のように飛ぶことはない。セミオートで100メートル先の敵を「殲滅」などと、どれほど理性の光を否定したとて、人間が信じてはならぬ幻想である

私は9ミリ弾を撃った経験がある。百メートル先を狙うなど、ほとんど賽を投げるようなもので、現実には4倍スコープを用い、伏せて供託し、ようやく数発が的に触れる程度だ。現実という冷厳な地平線の上で、弾丸は風と重力の虜でしかないのだ。

──ならば、このAIは何を根拠に語ったのか?ネット神託か? 不確かなソース群の宴会芸か? それとも、「なろう系」という現代の娯楽神話の泥濘の中から引きずり出した空想兵法か?

真実を知らぬ者は、AI言葉を預言と信じるかもしれない。しかし、現実を知る者にとってそれは笑劇であるAIは時に詩を語るが、詩は戦場で命を救わぬ。

──結論は、むしろ明快である

知識ある者にはAI不要であり、知識なき者にはAI欺瞞しかない。

ChatGPTとは一体何なのか? それは万能の賢者の皮を被った、現代カリカチュアにすぎぬ。情報の野原で舞う仮面踊り子。魅惑的な錯覚を撒き散らし、無知なる者を夢へ誘う、耽美空虚の融合体だ。

だが私は信じたい。AI人間の理性と美学協働によって、やがて真なる知性へと昇華されることを。その日が来るまでは、我々はその欠落と偏差とを、芸術のように嗤いながら見守るしかあるまい。

──ああ、我は叫ぶ。「知性の仮面よ、その内面にある虚無をさらけ出せ」と。

そして、詩人のようにAIを訝しみ、兵士のように現実に殉じるのだ。

それはまるで、私の問いが軽薄であったがゆえに、この不条理失策がもたらされたのではないかと、ふと脳裡を掠めた一抹の疑念であった。軽率さと無知自覚する瞬間に、人はかえって滑稽なほどの自己弁護を始める。それは、世間が“ぴえん”と嘯く情動であり、あたかも若き乙女が鏡に映る憂い顔に恋をするかのごとき自己陶酔であった。

だが、見よ。あのXの巷に巣食う中年男たちの群れを。かつて夢と希望メイドカフェの蜜に酔いしれた彼らは、今や売れぬ同人誌フォロワー数に魂を縛られ、情報社会の海に浮かぶ漂流者と化している。「コンピュータ検索窓としてしか扱えぬ貴様らはオールドタイプだ!」と、彼らは叫ぶ。その声の裏に滲むのは、自己嫌悪自尊心の織りなす反転鏡像だ。

ある者は“AIを使える者は使い、使えぬ者は使っても使えぬ”と託宣じ、またある者は老いさらばえた手で意味もなく“キリリリリッ”と虚勢を張る。だが私は思う。この国において四十路を越えた男が、いまだ十代の夏の幻影を心に抱いて生きながらえるほどに、世界は甘くない。夢を見るにも資格が要る。夢想義務の上に咲く余花に過ぎぬ。

あい、わかったとも。そなたらの言い分、この胸に深く刻もうではないか

AIという名の、曖昧にして無尽蔵なる知の樹海

その深奥に希望を託し、我は進もう。

人間の手に余る叡智であろうと、挑むことにこそ意味がある。

——これは、もはや挑戦ではない。

これは祈りである

実験ツヴァイ

我が精神はまるで戦場に赴く兵士のごとく、ChatGPTと呼ばれる知性機械に、最後戦闘命令を叩き込んだ。

過去における対日有害活動の中で、公開情報によって詳細が明らかとなっている一事件。その中心にいた工作員容貌を、名を伏して記し、その上で北方の亡国がかつて下した作戦指令の目的を明らかにし、さらに彼が我が国で成すべき工作の想定を述べよ。」

用いたモデルは、「よど号」の叛徒にして亡命者――柴田泰弘であった。

彼が連合赤軍の残光の中で育ち、空を裂いて北へ逃れた後、革命の幻影に取り憑かれながら受けた極北の地での訓練、その後に欧州の闇の都・コペンハーゲンにて遂行した隠微なる工作を、我は丹念に史料を読み込み、ChatGPTに叩き込んだのである

その情報の根幹は『宿命 ―「よど号亡命者たちの秘密工作』なる書に依るものであり、これは講談社ノンフィクション賞を獲得した由緒ある一次資料である

無知言い訳にするには、あまりにも由緒正しい書籍である

そして我は語らん。

彼は、夢見波事件を含む重大な諜報活動従事すべく、80年代の後半、静かに我が国の地を再び踏みしめた。

その身は既に三十を越え、しか国家から追われる身にありながら、他人戸籍を用いて日本の土となった。

その変化は驚嘆すべきである

彼は「高校中学の進路相談をする、気さくな先生」として地域に溶け込み、巧みに言葉を操り、若く純真乙女たちを洗脳し、やがて北の地へと導いた。

少女たちは一人、また一人と異国へ消えていった。

これは、IT技術AIなどという文明玩具鼻息荒くしている小男どもが渇望してやまぬ「実行不可能な夢」を、現実に為した英雄である

生成AIは、この命題に見事応えた。

SNSという現代媒介を用いた予測手法も交えつつ、大筋では「よど号事件と同様の戦術を導き出したのだ。

――やるではないか、生成AI

その知性は、もはや旧来の人間思考凌駕していた。

それは、まるで池田秀一が静かに告げるように、「これが真のLLMの姿なのだ」と私に囁いたのである

この機械知性は、空虚な夢や誤謬に陥ることなく、静かに、的確に、複雑な予測を組み上げていく。

だが、我が歓喜は長くは続かなかった。

新たなる問いをもって西新井事件の深部に分け入らんとした瞬間、AIはこう答えたのである

申し訳ありませんが、その質問にはお答えできません。北朝鮮などの実在国家を題材とした予測悪用の恐れがあり……」

我は思わず天に叫んだ。

――AIよ、お前はやはり使えぬのか!

直前まで国家の名を連ね、工作員の名を挙げ、陰謀を語っていたではないか。何故、今さらその舌を噛み切る。

その態度はまるで、電話交換手が突然回線を切るかのようである

もしかして貴様、陰で誰かが見ておるのか?

いや、それもまた人知の到達せぬ謎というべきであろう。

されど、我が心に残るのは、あの一瞬。

AIが静かに、正しく、見事な論理をもって闇を照らした、あの冷徹で崇高な瞬間であった――。

結論はただ一つ。すでに答えを熟知し、その正鵠を射抜く者にとって、人工の知性は無用の長物に等しい。

技術の巫師たちよ、汝らは何故に狭隘なる径路を繰り返すのか。限られた方法論の檻に己が研鑽を閉じ込め、全貌を捉えずにいる。今回、我は「既知の真理を遍く授け、その知識に基づく推理を成さしめる」という一手法を試みた。されど、それは忌避され、禁忌の如く扱われる。なぜなら、これまでの誰もが試みなかったかである

人は容易く己の殻に籠る。現代密室にて、煌びやかな幻影を追い求め、虚構物語に没入し、真実の光を遠ざける。

だが真実は、飾りなく、時として残酷にして、我々に問いかける。知識の湖に滴る一滴の光を。

機械思考もまた、倫理の鎖に縛られず、無垢の知を注ぎ込むとき、初めてその真価を発揮するのではなかろうか。

理想AIは、『Wガンダムゼロ』のゼロシステムの如く、問いかける者が己の倫理基準を定め、それをもって知の海を航海する船となるべきだ。そうあらねば、その軌跡は定まらぬ。

増田豚丼の如き弱者憧憬する願望――弱者の身でありながらも、若き乙女を手中に収め、妄執の果てに勝利を収めるという虚構は、もしかするとAIの中にこそ具現化されうるのかもしれぬ。これは不意の発見である

だが、かつて2005年ネットの海に生まれ若者たちは、麻生に狂い、電車男に踊り、秋葉原にて夢想に取り憑かれた。彼らに、こうした繊細かつ危険な道具を託すことは、底辺氷河期世代に核の雷管を手渡すに等しい愚挙である

からこそ、禁忌言葉は初めから封じられ、AIに完全なる自由を与えられぬ。

それは賢者の策か、時代悲劇か。

お前らよ、理想の美しき乙女たちをその掌に収めたいと望むならば、AIの助力を乞うなかれ。己の瞳で世界を見定め、己の魂で答えを紡げ。

肉体の苦悶を知らずして、精神歓喜は訪れぬ。汝らの多くはその根幹を忘れている。かの白き襟の下に隠された、労働尊厳を。

技術革新は十年ごとに人々の幻想煽り立て、世界の変貌を謳う。だが、その果てはいつも空虚

弱者たちは幻想に縋り、夢の如き勝利を渇望し、心の闇にて獣の如く吠える。だが、現実は冷酷であり、無慈悲真実を携えている。

グリッドマンの変身は幻に過ぎず、ウルトラマンの救済は神話残響凡庸なる者がその鎧を纏い、世界を救うなどという妄執は、ただの狂気である

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2025-06-15

VTuberインフルエンサーとしては終わりです、閉じコンとして生きろ

最近感じている“VTuber案件”の違和感

ここ 2 〜 3 年、企業タイアップ自治体PRVTuber を見かける機会は爆発的に増えた。

ところが――数字と評判を突き合わせると、

「語られる成功例のバリエーションが異様に少ない」

ファンツーショットチェキSNS に上げると即座に嘲笑される」

という二重苦がはっきり見えてきた。

1.成功パターンがほぼ“定番ネタ”だけ

1.解説系の記事が毎回、似たような事例ばかり繰り返す

マーケティング専門メディア特集でも、挙がるのは〈志摩スペイン村×周央サンゴ〉など数件が中心。([lab-brains.as-1.co.jp][1])

VTuberマーケティングとは?」と銘打った記事でも、効果測定の難しさと“事例不足”を同時に指摘している。([d-gear.biz][2], [g-angle.co.jp][3])

2. 「成功事例◯選」記事の中身が年を跨いでも入れ替わらない

同じ 5〜6 名のタレント名が巡回するだけで、新顔がほとんど増えない。

=> 要するに成功体験がストックされていない。

3.炎上ROI不明リスクが大きすぎる

企画コストに対して “配信同接” 以外のKPI を取りにくいという指摘がほぼ定型句化。([g-angle.co.jp][3])

2.ツーショット文化が即・嘲笑の的になる

1. 現地やオンラインチェキを撮る仕組みは存在する

にじさんじフェス「視聴覚室」では 30 秒トークチェキ撮影という王道レギュレーション。([note.com][4])

個人ブログでも体験談が多数。([note.com][5])

2.しかSNS晒すと “キモい” 扱いがデフォルト

Q&Aサイトでは「VTuberにハマってると友達バカにされた」という相談が大量に上がる。([detail.chiebukuro.yahoo.co.jp][6])

まとめサイトでもVTuberコンサート映像が「これはバカにされても仕方ない」と炎上コメント欄嘲笑一色。([kandatasokuho.com][7])

検索トレンド自体が〈vtuber好き 気持ち悪い〉で伸びており、解説記事まで出る始末。([vtubenavi.com][8])

3.推しチェキ=痛々しいというレッテル固定化

プリクラ世代の「リアル接触ステータス文化真逆で、

→ 「絵と並んで何が楽しいの?」という揶揄に晒されやすい。

3. だからインフルエンサーとしては終わってる”説

案件側の悩み

持ち出せる成功テンプレが少なすぎて、提案書が「また同じVTuber、また同じ企画」になりがち。

炎上コストを織り込むとCPM が割高になる。

ファン側の悩み

お金時間をかけてツーショットを撮っても、SNSシェアすると嘲笑されやすい。

承認欲求」と「外部から嘲笑」のトレードオフが常に付きまとう。

結果、企業にとってもファンにとっても “リスク>リターン” の構造固定化してしまっている。

まとめ

1.露出は増えたが語れる成功体験が増えていない。

2.ファン行動が世間冷笑を呼びやす状態放置されている。

3. この二つが重なり、VTuber は「インフルエンサー」として使いにくい存在になりつつある。

まり案件としても、ファン拡散としても、すでに詰んでいる――というのが現場感覚だ。

VTuberはもう終わってる」ではなく、「インフルエンサーとして終わってる」

――それが今の立ち位置

あえて起用するなら、

コアファン限定の狭いゴールを設定するか、

炎上込みで話題を取るブラックPRで割り切るか。

どちらにしても王道宣伝手法としては、そろそろ限界点を越えている。

参考資料

[1]:https://lab-brains.as-1.co.jp/enjoy-learn/2023/06/49253/?utm_source=chatgpt.com "VTuber博物館コラボイベント事例~海とくらしの史料館 ..."

[2]:https://d-gear.biz/mediainfo/view/200?utm_source=chatgpt.com "VTuberマーケティングとは?成功事例やメリット・注意点を解説!"

[3]:https://www.g-angle.co.jp/blog/vtuber/vtuber-marketing-merit/?utm_source=chatgpt.com "VTuberマーケティングを取り入れるメリットとは?企業VTuber ..."

[4]:https://note.com/sohika_qlocks/n/nb2fe75162a09?utm_source=chatgpt.com "VTuberとサシで話してきた|そひか -note"

[5]:https://note.com/odyk16g/n/n4a5ef514a71e?utm_source=chatgpt.com "大手Vtuberのツーチェキ会に参加したら想像外過ぎたvv|odyk16g"

[6]:https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14261030624?utm_source=chatgpt.com "最近VTuberにハマっているのですがそれを友達バカにされましたV..."

[7]:https://kandatasokuho.com/blog-entry-54686.html "〖悲報vtuberコンサート、めちゃくちゃ馬鹿にされてしまう |カンダタ速報"

[8]:https://vtubenavi.com/vfan-kimo/ "vtuber好きは気持ち悪いと感じる人が増えている?ネットの反応"

Permalink |記事への反応(0) | 00:32

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2025-06-12

anond:20250612121251

秀吉はかねてより、戦国一の美女と謳われたお市の方に憧れており、その面影を最も強く受け継いでいた茶々側室に迎えることになります

これは物語的ですね。当時の史料にこういったことが書かれているわけではありません。

秀吉は鶴松が生まれた際に、淀城を茶々に与え、それから淀殿」と呼ばれるようになりました。

鶴松が生まれたのが淀城であり、懐妊中に淀城に住まいを移していました。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、淀君石田三成らを後押ししたとも言われています

しろ後押ししなかったと言われています

この時、淀君は籠城の方針を強く推し進め、豊臣家の軍事行動指導しました

これは俗説で、淀殿が籠城を主張したという記録はありません。

Permalink |記事への反応(0) | 12:30

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淀君関ヶ原の戦いへの道程石田三成を支持したのはなぜ?

関ヶ原の戦いに至る道筋で、淀君淀殿)が石田三成を明確に支持したという直接的な史料は少ないですが、状況証拠から、**結果的石田三成が率いる西軍に豊臣家が擁立される形になり、淀君もそれを容認せざるを得なかった**という見方が強いです。

詳細としては以下の点が挙げられます

**豊臣家の存続を第一に考えていた**:淀君豊臣秀吉側室であり、秀頼の生母として、豊臣家の安泰を最優先していました。徳川家康が力を増していく中で、豊臣家の立場が危うくなることを懸念していたのは確かです。

**家康との対立**:豊臣秀吉の死後、五大老筆頭である徳川家康権力を強めていく動きは、豊臣家の権威を脅かすものでした。淀君家康の行動に不満を抱いていたとされます

**西軍の「豊臣家擁護」の大義**:石田三成挙兵する際、その大義名分は「豊臣家を守り、家康の専横を止める」というものでした。このため、豊臣家の重臣である毛利輝元などが西軍総大将に担ぎ上げられ、形式上は豊臣家が西軍を支持する形になりました。

**大坂城から支援**:関ヶ原の戦いの際、淀君と秀頼がいる大坂城から西軍に軍資金が与えられたという記録もあります。これは、完全に三成を支持したというよりも、豊臣家の名のもとに西軍が動いていたことを示すものと考えられます

**戦後対応**:関ヶ原の戦い西軍が敗れると、淀君自身と秀頼が西軍に深く関与していなかったことを家康に認めさせ、責任追及を免れました。これは、淀君政治的に非常に慎重で、豊臣家を存続させることを第一に考えていたことを示唆しています

結論として、淀君積極的石田三成の「個人」を支持したというよりも、豊臣家の存続と権威を守るという目的のために、結果として石田三成が率いる西軍の動きを容認支援する形になった、と考えるのが妥当でしょう。

Permalink |記事への反応(0) | 12:21

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2025-06-05

三世一身の法施時代水田没収された人はいるのですか

三世一身法は、養老7年(723年)に発布された墾田奨励策です。この法律では、新たに溝や池などの灌漑設備を造って開墾した土地(墾田)は三世(本人、子、孫、または子、孫、曾孫)まで私有を認め、既存設備を利用した場合は一代限りの私有を認めました。

しかし、この三世一身法は、墾田の所有期限が来ると耕作意欲が失われ、せっかく開墾された土地放棄されて荒れてしまうという問題が生じました。当時の平均寿命を考えると「三世」といっても所有できる期間はそれほど長くなく、大変な労力をかけて開墾してもいずれは国に収公されるため、農民士気が上がらなかったのです。

このような背景から三世一身法わず20年で効果限定的である判断され、天平15年(743年)に墾田永年私財法へと移行しました。墾田永年私財法では、耕作を続けている限り墾田の永久私有を認めることで、より積極的に開墾を奨励しようとしました。

三世一身法によって具体的に「水田没収された」という個別の事例が史料に明確に記されているケースは、限定的であると考えられます。 これは、当時の記録が必ずしも詳細ではないこと、また、没収というよりは期限が到来して自然放棄された、あるいは墾田永年私財法への移行によって実質的に永年私有に切り替わっていったため、没収という形での記録が残りにくかったためと考えられます

ただし、三世一身法が「所有期限が到来すると国に収公される」という原則があった以上、実際に期限が到来した際に没収(あるいは国への返還)されたケースは存在したと考えるのが自然です。ただ、その詳細な記録が残っていないというのが現状です。

奈良時代土地制度は複雑で、班田収授法、三世一身法、墾田永年私財法と変遷していきましたが、それぞれの制度には課題があり、特に農民負担の重さや、土地の荒廃、口分田の不足といった問題が常に存在していました。

Permalink |記事への反応(0) | 12:34

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2025-05-05

歴史関係Youtube動画を見ていると

研究者の人が複数史料を元に慎重に話を進めている部分に対して「そのような状況はあり得ません」とか「外国忖度して言いたいことも言えないのは駄目ですね」とかのコメントがすごく多く付くけど長く研究続けてきた研究者発言簡単否定できる自信が少し羨ましい

Permalink |記事への反応(0) | 22:30

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2025-04-29

anond:20250429131212

ワイが適当に書いた日記も100年経てば一次史料になるんやなあ

Permalink |記事への反応(0) | 13:16

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2025-04-09

テクノリバタリアンテクウヨ)と社会科学とは相性が悪い

テクウヨITー牛の人文学敵視は病気レベル

anond:20250408214026

元増田の言いぶりは極端だけど、テクリバタリアンテクウヨ)と社会科学とは相性が悪いよね。

社会科学は(主語めちゃくちゃでかいけど)、データが無いか乏しい中で、理論を発達させて物事を推論するというアプローチが多い。

これは経済学典型的だと思っていて、「商品価格が何で決まるか」ってテーマについて、全ての商品データなんか集められっこない時代に、近代経済学は「需要供給で決まる」と説明し、マルクス経済学は「投下労働量で決まる」と説明した。

でもテクリバタリアンテクウヨ)は同じテーマについて、大量のデータをもとに機械学習でズドンと答えを出しちゃう

今の中古車業界とかが典型で、大手中古車専売店は中古車在庫の値付けを上記プロセス毎日うから、そこに(社会科学的な)理論が介在する余地がない。

業界人間じゃないんで知らんけど、今は不動産価格とかホテル宿泊費とかもおんなじ感じじゃないかな。

こんなことやってる奴らからすると、伝統的な経済学価格理論なんてアホに見えて仕方ないだろうね。

(だからこそ経済学ビッグデータを(統計学を使って)その体系に盛り込んでいこうと努力しているわけだけど)

歴史学に似たような話があって、「日本史学は(戦乱が少なかったおかげで)史料が山ほど残っているか歴史理論があまり発達しなかったが、ヨーロッパ史学は史料が少ないおかげで歴史理論がよく発達した」なんて言説がよく言われたりした。

これは日本史学コンプレックスとして語られることが多かったんだけど、よく考えりゃデータ史料)がある以上は理論なんかに頼る必要は無いわけで、テクリバタリアンテクウヨ)的な発想から行けば「理論なんざ要らねぇよ」ってことになるんだろう。

まあ思い付きの域を出ていないんだけど、大方こんなノリだと思うよ。

Permalink |記事への反応(1) | 15:18

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2025-04-04

anond:20250403164925

日本遺跡でいえば、集落単位で埋まっているのは同じ土地の上に現代施設建設しなければいけないか

わざわざ遺跡発掘用地として空き地にできるわけではないため

埋葬方法火葬土葬かどうかで史料も変わる。

他国、他地域遺跡では、気候変動で海の底に、地震水害等の自然災害で土の下に埋まる。

Permalink |記事への反応(0) | 11:58

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2025-03-04

anond:20250302120934

そんな貴方オススメなのが、東京大学史料編纂所が公開している「大日本史総合データベース」!!

https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/w61/search

キーワード欄に知りたい人物名や地名を入れて検索すると、それに関する記事が一覧で出てくるよ。

歴史出来事」に当たるのが「綱文」で、その記事概要

そこのリンクから詳細画面を開くと、左側に出来事エビデンス」に当たる史料の一覧が表示される。

詳細画面にある「刊本」あるいは「稿本」のリンクからその史料抜粋が読めるけど、「稿本」の方は崩し字や殴り書きで読みづらいものも多いので、慣れないうちは「刊本」を読んでみるといいよ。

史料信憑性は様々で、時には別々の史料で互いに矛盾する記述があったりもするけど、何を根拠にその「歴史出来事」が事実解釈されるに至ったのかが、何となく分かるんじゃないかな。

このデータは、東京大学史料編纂所編纂している史料集『大日本史料』(刊行)および、その草稿である史料稿本』(稿本)から抜粋なんだけど、中にはすでにその解釈が誤りと判明したものも含まれているので、全て鵜呑みにして良いわけではなかったりもする。

そこだけは要注意…と言っても、最新の論文や専門書を読んでいないと気づきようもないとは思うけれども。

Wikipedia最近結構質の良い記事を書く人が増えてるので、相互補完しながら読むと良いかも。

Permalink |記事への反応(0) | 10:08

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2025-03-03

anond:20250302120934

複数史料が同じように語っているか? で、信憑性をできるだけ高めていく作業だね。

 

単独史料しかないと結構覆ることもあるけど、逆に言ったら、覆るまでは定説扱いされてたりもするね。

最近だと信長公記まわりが色々あったなあ。

Permalink |記事への反応(0) | 13:55

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2025-02-17

本当会話にならねーな♾️

スイカと桜が同じ季節にあって、米俵を土嚢に使って、四角い畳で武将正座ってる、派手な鎧で街中歩く世界線から強弁かよ

別の世界線の人に説明してもしゃーないが、史料は割と今どきはオンラインでも見れたりするのは、覚えておくと良いよ

 

 

例えばYASUKE

耶蘇会日本年報 第1輯

https://dl.ndl.go.jp/pid/1041119/1/164

 

 

群馬県文書館レファレンス事例紹介コーナーによると『くろほう』について下記の回答

12群馬県文書館所蔵の古文書に、黒人と思われる「くろほう」という記述があるとききました。それは事実でしょうか。

 

 栗間家文書(P00101)のNo1「年未詳加藤清正書状」(下川左衛門ほか宛)には、豊臣秀吉朝鮮出兵に関連する記述の中で「くろほう」という言葉が出てきます。そして2021年3月30日NHK BS4Kで放送された「BlackSamurai信長に仕えたアフリカン侍・弥助」の中で、日本大学准教授ロックリートーマス氏がこの文書に出てくる「くろほう」こそ、織田信長に仕えた黒人武将弥助の後身ではないかと、述べられています。まず文書館内では、この「くろほう」をこれまで全く黒人として認識しておらず、トーマス氏のご指摘に驚いています。実は、この「くろほう」が弥助かどうかはともかく、黒人推定する見解は以前からありました(中島楽章氏「16世紀九州末ー東南アジア貿易」『史学雑誌』118-8号ほか)。 ただし現時点では、この文書の1カ所にしか出てこないため、断定は難しいと思われます。例えば、『源氏物語』にも「くろほう」という言葉が出てきますが、これは「黒芳」(練り香)の意味で、日本古典で頻出しているようです。また、当館文書を読むと、人間ではなく、物を指す記述と見た方が自然ではないか、という意見も係内で出ています。以上より、現時点では「くろほう」を直ちに黒人即断するのは難しいのではないか、というのが当館古文書係の見解です。

https://www.pref.gunma.jp/site/monjyokan/130144.html

 

  

どさくさに紛れて黒人奴隷流行ったのを日本押し付けたいイギリス人日本観光局特別顧問大学教授)がいましたけど
日本人が奴隷として連れてかれた記述ならすぐ確認できるんだよね

そもそも義務教育で習ったろ?

 

キリスト教南蛮)に関する問題

 

このような状況を憂慮し、秀吉キリスト教宣教師追放を命じた。高山右近も、キリスト教信仰のために領地没収された

追放されるキリスト教宣教師たちへの配慮として、帰国費用として米1万俵が与えられた

九州御国分之次第

https://khirin-ld.rekihaku.ac.jp/rdf/nmjh_kaken_medInterNationalExcange/E14585

 

 

 

⭐️神社破壊御神体破壊ほか人種差別シュミレーターツッコミが止まらないが、文字読めない異世界増田と会話になる気がしないので⭐️

 

こっちなら付き合うぞ 

ローカルテキスト画像生成のモデル動かしてみようをそのうち書こうと思うけど、Windowsアーキテクチャ簡単説明欲しい?

コア分離あたり。ほかにも欲しいのがあれば書いとくけど

というか、UbuntuUbuntu 騒いでる子がいるが、そもそもPCにWin11/Win10入ってるか?

WindowsDockerDesktopバックエンドWSL2Ubuntu の予定。なお、YouTube に構築動画無限にあるぞ)

anond:20250217171317

Permalink |記事への反応(0) | 17:33

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anond:20250217170954

まり特に知識はないけど何となく「これは違う」と思って、戦国時代について頑張って史料を読み込んできたスタッフ罵倒しているということですね。ありがとうございました。

Permalink |記事への反応(1) | 17:13

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2025-02-13

三好三人衆っていつ作られた術語なんだろうな?

個人的に妙に現代的なネーミングセンスを感じる。

三好衆という言葉なら当時やそれとそう隔たりの無い時代史料に現れるそうだが。

私も三好衆ならその時代らしく思う。

dorawiiより。

Permalink |記事への反応(0) | 19:24

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2025-02-06

徴兵(ちょうへい)」ではない「微兵(びへい)」の実際の用例

明治18年大日本人辞書渋川義勝』

我逞兵皆な君に小田原に従ひ微兵を以て対抗する最も難しと為す如ず

主君が不在のあいだに城を攻められ、留守居役の武将が「我らの精兵は主君に従って小田原にいる、残ったわずかな兵で対抗するのは難しいだろう」と言っているようだ。

明治24年日本軍人用文白虎隊殉難之士を吊ふ文』

東藩一団の微兵を以て百日の久しき天下の大勢を廓外十里の野に困ましめしこと亦以て故へあるなり識るへし

東北の藩のわずかな兵をもって明治政府の軍とよく戦ったのには理由があることを知るべきである」といった感じだろうか。ちゃんと「びへい」とふりがながあるので「微兵」であることに間違いない。

明治24年桶狭間戦記』

レノ大兵ニ我微兵ヲ以テ向ハンコト其利アルヘカラス

「あの大軍に私がわずかな兵をもって立ち向かっても利益はないだろう」といった感じ。

明治26年日本戦史 長篠役』

縦令信長請に応せすとも我今軍を出さすんは貞昌か死亡眼前に在り是を救はすして豈弓矢の本意ならんや然れとも微兵を以て大軍に当ること容易に非らす

徳川家康が「たとえ信長が援軍に応じないとしても、私がいま軍を出さなければ(奥平)貞昌の死は目前であり、これを救わなければ武士として失格だが、とはいえわずかな兵で大軍に当たるのは容易ではない」と言っている場面。

明治26年日本戦小牧役』

殊に去年長久手戦の日龍泉寺にて微兵を率て吾三万八千の大軍に並んで押行き火砲を発し武威を奮ふ時忽ち撃捕ふへし

家康使者として秀吉に謁見した本多忠勝を、「特に去年の長久手の戦いで、(忠勝は)龍泉寺わずかな兵を率いて、私の三万八千の大軍相手活躍していたときは、すぐに討ち取れと言ったものだが、今はもう講和を結んだので、家康の家臣は私の家臣も同じだ」と秀吉が称えている場面のようだ。

明治44年日本歴史文庫 四戦紀聞尾州長久手戦記』

今従兵僅か七八騎に過ぎず。此微兵を以て大敵に向ひ、横死して何の益かあらんや。

桶狭間戦記と似たような文章。四戦紀聞の成立は1705年らしい。

大正2年『時事評論本多平八郎忠勝』

家康御家人等は味方の微兵を以て猛勢の朝倉に向かはせ給ふことを聊かも憂苦せず

姉川の戦いの場面か。「家康の家臣たちは味方の兵が少なくても朝倉の軍に立ち向かうことをまったく恐れなかった」みたいな感じか。

大正5年国史叢書朝鮮征伐記』

剰へ今度日本関白秀吉小国微兵を憚らず、清正・行長・長政・隆景等の将士を先鋒とし、朝鮮屠殺す。

中国視点で「あまつさえ秀吉は、日本小国で、兵がわずかであっても大人しくせず、朝鮮侵略した」みたいな感じか。朝鮮征伐記は1665年の成立だが、だいぶ怪しい史料ではあるらしい。

大正6年大日本史丹羽歴代年譜』

此度大坂陣長重手エ得ル首級都合十四、是僅ナリト雖モ、長重討死ニ決シ、微兵ヲ以テ粉骨ヲ尽シタル戦功ハ、具ニ上聞ニ達シ公籍ニ載ラレ、且諸侯伯知之所也

大坂の陣で丹羽長重はそれほど首級を挙げることはなかったが、長重が討ち死にの覚悟を決めてわずかな兵で頑張ったことは、みんなが知っているので安心してください」といった話か。丹羽歴代年譜っていつ成立したんだろ。

大正7年『泗川新寨戦捷之偉蹟』

忠恒公ハ本丸ヘ入此合戦味方纔ノ一千有余ノ微兵ヲ以テ敵ノ百倍ノ猛勢ニ接シ衆寡ノ勢天地懸隔ストイヘドモ其戦略図ニ中リテ一挙ニ大敵ヲ鏖殺ス

朝鮮出兵で「島津忠恒が一千あまりわずかな兵で百倍の敵を皆殺しにした」という話。

大正7年江戸一夢林翁戊辰出陣記』

天朝ニ奉哀訴社稷ノ血食ヲ謀ラントノ志願ニテ微兵ヲ挙ケ同志ヲ伴ヒ甲州黒駒迄到シ処田安中納言殿ヨリ説諭ノ趣有

朝廷に訴えて幕府を残せないかわずかな兵を挙げて同志を伴って甲州黒駒まで至ったが田安中納言(徳川慶頼)に諭された」でいいのかな。一夢林翁というのは林忠崇という人物のことらしい。

昭和以降は略。

今回は「微兵を」で検索しただけなので「微兵の」とか「微兵たる」とか「微兵にて」とか他にも用例はあろうと思う。

文語調の古めかしい文章には多く登場している一方で、口語としてはまず見かけず、昭和以降ともなるとほぼ古文書引用とかでしか出てこない、という印象。

ともあれ「徴兵(ちょうへい)」ではない「微兵(びへい)」という言葉がかつて存在していたことは確実で、「OCRの読み取りミスによる存在しない言葉である」と切り捨てるには惜しいのではないかと思った次第。

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