はてなキーワード:主婦とは
家事して、パート行って、ご飯作って、スマホ見て、寝る。そんな感じ。
でも最近、ふと思うことがあるんです。
ここ数年、物の値段ってめちゃくちゃ上がってません?
自分は美容院すら我慢してるのに、「まだ足りない」って言われる。
うちの近所も、コンビニで知らない言葉が飛び交ってて、なんか落ち着かないなって感じることが増えました。
なんかどれも同じことばっかり言ってるし、
こっちの生活がどんどん苦しくなってるのに、
コロナの時もそうだったけど、“とりあえずワクチン打て”みたいな空気が怖かった。
私、正直不安だったし、打ちたくなかった。
でも言えなかった。「変な人」って思われそうで。
で、なんとなくYouTube見てたら、
「本音で話してる」って感じの人が出てきたんです。
政治家…らしいけど、ぜんぜん偉そうじゃなくて、
「誰も庶民のこと考えてない」
「本当のこと言えない空気がある」
あぁ、なんか、これだって思っちゃった。
コメント欄見てたら「私も同じ気持ちです」って人がたくさんいて、
あぁ、私だけじゃなかったんだって思ったら、すごくホッとした。
食べものって体だけじゃなくて、心にも影響するっていうし。
私は頭も良くないし、難しいこともわかんない。
でも、「なんかおかしい」「このままじゃヤバい」っていう感覚だけは、
今、めちゃくちゃ強くなってきてます。
大きな声じゃ言えないけど、
最近ちょっとだけ、「そういう人たち」を応援してみたいなって思ってます。
たぶん、同じ気持ちの人って他にもいると思う。
なんとなく不安で、でも誰にも言えなくて。
この記事が、そんな誰かの「わかる」になれたら嬉しい。
💡 年齢・職業別の逸失利益(稼働損失)の相場(参考:交通事故基準)
飛行機事故でも同様の考え方が使われます。以下は交通事故事例ですが、類似の試算が可能です。
• 平均年収550万円 ×労働能力喪失率50% ×ライプニッツ係数24.76 ≈ 6,800万円
• 平均年収640万円 ×50% ×24.52 ≈ 7,800万円
• 600万円 ×(1–0.3)× 15.94 ≈ 6,700万円
・45歳主婦
• 平均390万円 ×(1–0.3)× 15.94 ≈ 4,400万円()
• 平均290万円 ×(1–0.3)× 8.53 ≈ 1,700万円()
⸻
•子ども・学生(収入なし)は、一般に年齢・性別別の平均賃金を基に試算。
•学業成績や大学進学が見込まれる場合は、それ相応の教育成果価値が含まれることもあり得ます 。
主婦のことかな?
違ったら申し訳ない
日本は主婦の風当たりが強いながらも主婦を必要とした社会構造を維持し続けていて
育児も介護もしたことがなくて、両立を悩む必要もなかった議員らの考えるズレた少子化対策とか
人手不足になれば環境の改善もしないまま主婦を追い詰めて引っ張り出そうとするやり方には辟易する
働ける環境の主婦は時間ができればパートに出る人が大半な中で、個別の状況も知らずに働け働けと迫るのは余計なお世話
ではあるんだけど
主婦は主婦で家庭の状況によって一人で担うには負担が重すぎるとか立場が弱くなりすいとか保育や特養の入所判定は共働きの方が有利とか問題もあって
働くことで逃げ道を作れる場合もあるから追い詰めるのではなく環境を整える面で主婦を働かせようとしてること自体は悪くないかなと思う
あと多分だけど、全ての党が考えてない議論してないことはなかった気がする
政策が様々で賛同できるものがあっても他は部分では相入れないとかばかりだしどれを優先して選ぶのかになるのかな
遺族年金も改正されて、3号保険者も見直しが検討されてて2028年に40歳未満の女にとっては専業主婦を選んでキャリアを手放すリスクが上がった
国の今の動きとしては主婦も主夫も保護する気はないし働かせたいし社会保険料も払わせたいわけだ
既にかなりの選択肢が削られてる状態から子供を産んだ方が安心して暮らせる社会状況を作るって具体的に何をするんだ?
子供も労働力も増えて欲しいけど子供は嫌いな日本で何をどう?社会がついてくるのか?ってのが全然見えてこない
子供1人10万円は話題だが、街頭演説では代わりに保育や医療や給食や学費の無償化を止めると言っている
預けて働く負担は増えるし専業主婦になったとしても子供によっては10万円でも足が出る
選択肢を増やすとも安心して暮らせるとも両立してないように感じる
新卒と現役で給料逆転現象が起きた会社では現役側は納得してなくてピリついてるが出産キャリア案はそれの酷い版だよな
そして15年や20年、子供が多ければ25年とか後に雇わせる約束は不可能で子供ごと人生をかけたギャンブルになる
若い女の支持者は信じて賭けられるってこと?
天皇の側室とかメロンパンとかジャンボタニシとかは置いておくとしても
国民主権が国家主権に変わってるとかワクチン反対とか公共施設のマスク自由化とか結構ヤバめのもあるんだけど支持してるってことだよね?
土曜の夜、23時。妻と娘が寝静まったのを確認して、俺は静かに家を出る。
タクシーに乗って30分。暗がりの雑居ビルに着くと、エレベーターは壊れていて、階段を上がる。
入口は鍵がかかっていて、インターホンのボタンを押す。無言のブザー音。
何度通っても、この「誰にも見られずに入りたいけど、誰かに認めてほしい」この感じ。慣れない。
でも俺は今、ハプニングバーに通っている。
ただ、説明するのが難しいのだ。
「お前も父親になったんだから」 「妻を支えて」 「子どもの成長が何よりだろ」
全部、正しい。
それでも、俺はひとりの人間として壊れかけていた。
何かを失った気がしていた。
それが何かは、まだ分からなかった。
「主婦が1人で来店」
気づいたら行っていた。
最初の数回は何も起こらなかった。酒を飲み、トークして、帰るだけ。
でも、それが良かった。
誰も、俺を“父親”として見なかった。
俺も、誰かの“夫”として振る舞わなくてよかった。
「お子さん、何歳?」
ドキッとした。言ってないのに、なぜ。
言われた瞬間、涙が出そうになった。
俺はたぶん、誰かに「しんどいね」と言ってほしかっただけなんだと思う。
でも誰にも言えない。言ったところで、共感されるとも限らない。
それだけだった。
でも、たぶん俺の中で何かが溶けた。
それからは、よく喋るようになった。
店の空気は独特だ。
“性”があるのに、“目的”がない。
みんな何かを抱えて来る。
あるのは「今夜ここに来た」という共通点だけ。
それがどんなにくだらない行為でも、
その余韻を持って、朝方帰宅して、娘の寝顔を見る。
罪悪感はある。もちろんある。
でも、罪悪感だけでは生きられない。
父親にも、人としての体温が要るんだ。
男が「俺のことをバカにしてたんだろ!」と叫び、女が黙って立ち去る。
誰かが笑い、誰かがため息をつき、誰かが無言で酒を飲む。
この“雑さ”が俺にはリアルだった。
そして、こう思った。
ここは教会だ、と。
真夜中の、罪人たちの教会。
みんな、何かをやらかしてる。何かを諦めてる。
でも、何かを取り戻したくてここに来る。
俺は今も、たまに行く。
そのどれも本気でやってる。
でも、夜に教会へ向かうことも、本気だ。
俺が求めていたのは、性じゃなかった。
「ここにいてもいい」という確認だった。
それができたから、今も家に帰って、
娘と向き合えている気がする。
土曜の夜、23時。妻と娘が寝静まったのを確認して、俺は静かに家を出る。
タクシーに乗って30分。暗がりの雑居ビルに着くと、エレベーターは壊れていて、階段を上がる。
入口は鍵がかかっていて、インターホンのボタンを押す。無言のブザー音。
何度通っても、この「誰にも見られずに入りたいけど、誰かに認めてほしい」この感じ。慣れない。
でも俺は今、ハプニングバーに通っている。
ただ、説明するのが難しいのだ。
「お前も父親になったんだから」「妻を支えて」「子どもの成長が何よりだろ」
全部、正しい。
それでも、俺はひとりの人間として壊れかけていた。
何かを失った気がしていた。
それが何かは、まだ分からなかった。
「主婦が1人で来店」
気づいたら行っていた。
最初の数回は何も起こらなかった。酒を飲み、トークして、帰るだけ。
でも、それが良かった。
誰も、俺を“父親”として見なかった。
俺も、誰かの“夫”として振る舞わなくてよかった。
「お子さん、何歳?」
ドキッとした。言ってないのに、なぜ。
言われた瞬間、涙が出そうになった。
俺はたぶん、誰かに「しんどいね」と言ってほしかっただけなんだと思う。
でも誰にも言えない。言ったところで、共感されるとも限らない。
それだけだった。
でも、たぶん俺の中で何かが溶けた。
それからは、よく喋るようになった。
店の空気は独特だ。
“性”があるのに、“目的”がない。
みんな何かを抱えて来る。
あるのは「今夜ここに来た」という共通点だけ。
それがどんなにくだらない行為でも、
その余韻を持って、朝方帰宅して、娘の寝顔を見る。
罪悪感はある。もちろんある。
でも、罪悪感だけでは生きられない。
父親にも、人としての体温が要るんだ。
男が「俺のことをバカにしてたんだろ!」と叫び、女が黙って立ち去る。
誰かが笑い、誰かがため息をつき、誰かが無言で酒を飲む。
この“雑さ”が俺にはリアルだった。
そして、こう思った。
ここは教会だ、と。
真夜中の、罪人たちの教会。
みんな、何かをやらかしてる。何かを諦めてる。
でも、何かを取り戻したくてここに来る。
俺は今も、たまに行く。
そのどれも本気でやってる。
でも、夜に教会へ向かうことも、本気だ。
俺が求めていたのは、性じゃなかった。
「ここにいてもいい」という確認だった。
それができたから、今も家に帰って、
娘と向き合えている気がする。
やっほ〜 日本政府くん。
ある程度社会で経験を積んでから、去年ひとり子供を産みました。68万人のうちのひとりだよ。
親目線で子供に愛情を向けるようになってから、両親や祖父母がどんな目で自分を見ていたか、どういう感情で私の写真やビデオを撮っていたのかめちゃくちゃ「理解」したよ。
自分はあまり恵まれた家庭環境で育っていないと思っていたし、思春期は親とぶつかることの方が多かったけど、あんな親でも赤ちゃんの頻回授乳や夜泣きに対応し、うんこのおむつ替えをし、めんどくさい離乳食を作って与えていたんだなって考えると、やるじゃんって若干の尊敬も芽生えてきたよ。
そういうの、子供産まなきゃ絶対に自分は分からなかったことだと思うから、理解できて良かったよ。
話が脱線したね。日本政府くんが今、子育て支援、頑張ってくれてることは知ってるよ。
私は産休前にかなり頑張って働いて、人手不足の中残業しまくったおかげで育休手当は上限までもらっているよ。手当に上限があることが若干不満だけど、それでも働かずに社会保険料などが引かれないお金がもらえることはありがたいし、本当に助かっているよ。
分娩費用は10万円近く手出しはあったけど、それでもすごく助かってる。
子供手当も、去年から所得制限が撤廃されて、全員支給されるようになったよね。3歳までは月1万5000円。3歳以上は18歳以下まで月1万円だね。
オムツ代とミルク代の足しにしてます。ありがとう。うちは母乳が軌道にのらずに完全ミルク育児だから、えらいお金がかかるの。オムツも高いしね。助かってるよ。
だけどね、昔は……年少扶養控除ってやつがあったらしいじゃん。
確か民主党時代に、子供手当導入のかわりに撤廃されたんだよね。
だけど手当には所得制限があったから、『小金持ち』程度の高所得世帯は大打撃を受けたそうだね。
配偶者や老いた両親を扶養していたら控除されるのに、小さな子供を扶養しても控除されないって普通に考えてもおかしくない?
特に中学生の伸び盛り食べ盛りなんて、お金がたくさん掛かるよね。どうして撤廃なんてしたの?
2011年〜2024年までの間、所得制限世帯にとっては暗黒の期間だよね。
そりゃあ、2人目、3人目の子供を諦めるよ。
欲しくても、現実的にやめておこうってなるよ。
今いる子たちにリソースを割こうかってなるよ。
私の場合は1人子供を産んだら想像以上にえらく可愛くて、2人目、3人目と産むことに結構意欲的だよ。
ただ年少扶養控除もないし、現実的に子供は2人までかなと夫婦で話し合っている。
ただ子供は授かり物だし、年齢も年齢だから、出来ない時は不妊治療を検討するね。そこに補助を出してくれてるのも、希望が見えてうれしい。ありがとう。
だけどね、政府くん。子育て支援、少子化対策を頑張っているのは分かるんだけど、独身の女性や、若い女の子たちに「子供を産みましょう」と言ってもね、女の子たちにとってはかなり不快だし、拒絶反応で身構えてしまうと思うんだ。
だって男の人は働くだけで社会に存在を肯定されるのに、女の子は働いた上で出産という肉体的にも精神的にも苦痛を伴う労働まで課せられるというのだからね。不公平に感じるよ。
私も若いころは、少子化の話題になると圧を感じて嫌な気持ちになった。
でも結婚して子供を1人産むと、妊娠や出産に対してのハードルが一気に下がるんだよね。
もちろん全ての人がというわけではないけど、周りのお母さんたち(赤ちゃんの健診などで、同じ月齢のお母さんたちと結構交流の機会があるよ!)は2人目、3人目に前向きな人たちが多いと感じるよ。
だからまずは、子育て世帯が「もうひとり」を諦めない政策をしてくれないかな。
若い子達に「産め!」というのではなくてね。
私、全然産む気あるよ!
周りのお母さんたちも、産む気あるよ!
職場には迷惑をかけてしまうかもしれないし、嫌味も言われるかもしれないけど、復帰後は長く働いて恩返しするつもりでいるよ。
それで私がおばさんになったら、若い男女が気負わずに産休や育休、子供の病気での早退……をできるようにするからね。
さて、夜間授乳が終わったので寝るね。
そこからもう納得できなくて、少しもめた。
若い女性に子どもを産んでもらう、って言われたら誰でも怒るじゃん。
「うん」
女性が子どもを産みたくなる環境を整備する(そのために給付する)、で怒るのは理解できる?
「分からん」
「イヤなら共働きでいい」
「少子化対策って大体そんなもんなんじゃないのか?」
…
はーーーーー(クソ長ため息)
私はね、少子化対策の時点でキレてんの。
この違和感、分かる?
「分からん」
少子化対策は何のため?
ね?
「え?」
「…」
『子ども産んでくれてありがとう』とか言われたら、別にお前のために産んでねーよバーカって返したくなるでしょ。
誰かに利用されたくない。
…
はーーーーー(クソ長ため息)
---
こんな単純なことでさえ、歴史の積み重ねを実際に経験してないとイメージできなくなる。
どうやって擦り合わせていけばいいんだろ。
https://anond.hatelabo.jp/20250704092430
ポイントはここにあると思う。
若い男性の子作りモチベとか、どーでもよくって、出産は若い女性個人の自由意思だけで決まるものというリプロダクティブヘルスライツの考えを真っ直ぐに支持してるんだよね。
…混乱を解く鍵は、男女共同参画にある。
昔打ち出された男女共同参画は、女性も社会を支える責任を負う、というスローガンだった。
でも、少子化解消の責任を若い女性だけに負わせてること、それが問題だと思う。
若い女性が責任を負ってくださいね、国は最大限サポートしますよ、というのはフェミニズム的には許せない。
ChatGPTと哲学的に議論したところ、思いがけず興味深い展開になったのでメモっておく。
選択的夫婦別姓の議論は、単なる法律の修正にとどまらず、私たちが「家族」や「個人」、「自由」についてどのように理解し、どのように他者と共に生きていくのかという、深い倫理的問いを私たちに突きつけている。これは、制度の整備によって個人の自由を拡張することを目指しつつも、そのことによって新たな葛藤や排除が生まれうるという、自由そのものの逆説的性格に由来する問題である。日本においては、明治期以降、戸籍制度の下で夫婦は同姓とされてきた。それは「家」を単位とする社会制度の表れであり、制度に従うことは“当たり前”とされていた。戦後、民法は大きく改正されたが、戸籍の構造は根本的には変わらず、「1戸籍=1氏」の原則が続いている。この形式は一見中立に見えても、現代社会においては多様な家族形態や女性の社会進出、国際結婚の増加などに対応しきれておらず、「選択的夫婦別姓」への要望が強まっている。
一方で、反対の声も根強い。その中には、「戸籍制度の一貫性が失われる」「家族の一体感が損なわれる」「子どもの姓をめぐる混乱が起こる」などの制度的・情緒的な懸念がある。とくに、「一つの戸籍のなかに複数の姓が存在すること」への違和感は、「家族とは何か」という問いと直結している。反対派の主張として説得的だと思えるのは、制度改正にかかる行政的コストが得られる利益に比して高すぎるとの主張である。
ただ、こうした議論のなかで、見過ごされがちなもう一つの問題がある。それは、「選択的」であることが、すべての人にとって自由であるとは限らないという逆説である。改革に伴い、精神史的あるいは文化的な意味で目に見えない傷を残すことになりかねないことに気が付いた。これはもうひとつのコスト問題といえるだろう。
選択肢が増えることは、確かに一部の人にとっては歓迎される。しかし、これまで「自明なこと」として受け入れてきた選択肢しか知らない人にとっては、「選ばないこと」すら“選んだこと”として扱われるようになる。その結果、「なぜあなたは同姓を選んだのか」と問われること自体が、新たなプレッシャーや説明責任となり、無言のうちに選ばれていた価値観を「語らされる」状況が生まれる。
W・ベックは「リスク社会」のなかで、近代社会における制度や技術の発展が新たなリスクを生み出し、個人がそのリスクを自己責任で管理・選択することを求められる状況を「第二の近代」と呼んだ。家族制度の再編や個人化の進行は、まさにその一端であり、個々人が従来の慣習に頼ることなく、「選択しなければならない自由」のなかに放り込まれている。
選択的夫婦別姓制度も、こうしたリスク社会における制度の一つと見なせる。個人の自由の拡大は、必ずしも解放ではなく、「選ばなかった理由を問われる不安」や「所属の根拠を失う不安」といった新たな社会的リスクを伴う。それゆえ制度設計においては、ベックの言うような“制度化された個人化”が生む影の部分——すなわち、自由と責任の過剰な個人化による孤立や不安——をも視野に入れる必要がある。
この現象は、韓国で2008年に導入された「個人単位戸籍制度(家族関係登録簿制度)」の議論にも通じる。韓国では長らく「戸主制度」が存在し、家父長制的家族観が法制度にも深く根を下ろしていた。2000年代に入り、女性団体や若年層からの批判を背景に、家制度的枠組みを廃止し、個人を単位とする新たな制度へと移行した。しかし、それによってすぐにジェンダー平等が達成されたわけではない。
むしろ、制度改革後に見られたのは、「選べる自由」が広がった一方で、「選ぶことを求められることの重さ」が可視化されたことである。これまでの夫婦同姓制度では、「姓は変えるもの(主に女性が)」という文化が、慣習として“疑いなく受け入れられていた。
ところが選択肢が生まれると、たとえ同姓にしたとしても、「それは自分の意思か?」「配偶者に強制されたのでは?」「女として主体性があるのか?」という「選択の真偽」を問う視線が生まれる。これは日常の選択に、政治性と倫理的自己確認を持ち込む構造でもある。
たとえば、韓国の若年層においては、恋愛・結婚・出産の三つを放棄する“Sampo世代(三抛世代)”という言葉が流行し、さらに結婚・出産・恋愛に加え、家族・男性との関係・異性愛自体を拒否する「4B運動(非婚・非出産・非恋愛・非性愛)」が広がった。これらは、制度的改革の先にある、よりラディカルな文化的実践であり、「選択肢があること」そのものに抗する自己防衛的な態度とも言える。4B運動の担い手たちは、単に従来のジェンダー規範を拒否するのではなく、「社会的な所属関係」そのものを解体する動きを見せている。たとえば、4Bの参加者たちは、「家族に説明しなくていいから、恋人もいらない」「自分の性を自分で管理する」といった語りをSNSで共有し、連帯と承認を得ている。ここには、制度の外にとどまることによってむしろ自己の尊厳を保つという新たな主体性の表現がある。ベックのいう「選択の強制」への拒絶反応が韓国社会でこうした形で現れているのは興味深い。
こうした言語化をめぐる現象は、日本ではすでに1970年代から表現としての萌芽が見られた。たとえば中川五郎の《主婦のブルース》(1969年)は、まさに「沈黙の自由」と「自明性のなかに生きることの苦しさ」を逆説的に描いたフォークソングである。選択の自由すら与えられず、「女とはこういうもの」として役割に組み込まれた存在の叫びが、ブルースという形式で“語られる”ことによって、沈黙が破られるという構造になっている。中川五郎の歌は、現代フェミニズム運動の文化的系譜のなかで、語られなかったものを語ることで、社会の“自明性”を暴き出した初期の詩的実践と見ることができる。
一方で、この作品は、主婦という存在が社会的変革の外側に置かれ、家の中で沈黙していること自体が、政治的意味を持つという問題を描き出している。作品中の主婦は、学生運動に参加する息子から「沈黙は共犯だ」と責められるが、自らの言葉で「家庭が一番」「まじめに生きるのには疲れたわ」と語り返す歌詞がある。息子の視点は、60年代〜70年代左派運動(ベトナム反戦、学生運動、階級闘争)の倫理に基づいている。「沈黙は共犯」とはサルトルの実存主義的倫理を象徴する言葉だ。
「まじめに生きるのには疲れたわ」という母の言葉に現れるのは、正しさからの逃走である。政治的主体でもない、声高に抗議しない、けれども一日を必死に生きる――そういう「声なき多数者のリアリティ」である。この「疲労の言葉」は、政治的正義の言葉ではすくい取れない主体の感情的深度を表しており、母として、女性として、主婦として生きる複雑な立場が凝縮されている。ここで描かれる沈黙は、単なる服従や無知ではない。むしろ、言葉を発することに慎重であるがゆえに沈黙を選び、その沈黙をもって自己の尊厳と日常を守ろうとする姿勢である。この沈黙には、語らないことによってしか保てない尊厳と、自己存在の最終的な防衛線が込められている。
しかし、「語らないことを自分の意思で選ぶこと」を歌を通じて語るところに沈黙の自由のジレンマがある。
このような表現は、フェミニズムの文脈においてしばしば見落とされがちな、語らない主体の論理を可視化する重要な契機となる。また、このような「語らないこと」の倫理は、寺山修司の詩作にも見られる。たとえば阿部定事件を主題にした作品群では、語られすぎた欲望や暴力の物語の外側に、語られないままの沈黙が配置される。寺山にとって、語ることによって自己が立ち上がるのではなく、語らないことによってこそ輪郭を与えられる主体が存在するという逆説が重要であった。とりわけ彼の詩や戯曲に描かれる女性像(娼婦、母、乙女)は、しばしば制度の外に佇み、語られずにいることによって、むしろ社会の暴力性を照らし出す存在として描かれる。
沈黙のうちに自己の選択を成立させる女性の姿は、語ること・主張することを通じて自我を立ち上げてきたフェミニズムの流れとは一線を画しながらも、それを内側から補完しうるもう一つの可能性として位置づけられる。《主婦のブルース》と寺山修司の詩作は、「語らなければ存在しない」という制度的圧力に対し、「語らないままに存在し続ける」ことが、制度に対する対抗的な主体性のあり方となりうることを提示していた。
この観点から見ると、制度設計においては、「語る自由」と同様に「語らない自由」「沈黙する権利」をいかに尊重するかが問われることになる。
このような非対称性の問題は、他者との関係において自我がどのように成立しうるかという哲学的問いへと接続される。具体的には、制度によって「語らないこと」が許容されるべきかどうか、また沈黙する者をいかに制度の中で位置づけるかという課題が生じる。
ここで参照されるべきは、社会学者チャールズ・ティリーが論じた「カテゴリー的不平等(categorical inequality)」の概念である。ティリーによれば、社会制度はしばしば人々を特定のカテゴリーに分類し、その分類を通じて資源や権利へのアクセスに構造的な差異をもたらす。選択的夫婦別姓制度をめぐる議論においても、「姓を選ぶ/選ばない」という区分が制度的に固定化されると、それ自体が新たな社会的境界を生む可能性がある。たとえば、同姓を選んだ者が「伝統を守る保守的立場」とされ、別姓を選んだ者が「変革的/進歩的」な立場と見なされるなど、個人の選択が無意識のうちに政治的・文化的ラベリングを受ける事態が生じる。これは、選択の自由があるからこそ、逆に選択内容が新たなアイデンティティの指標となり、当人の意思とは無関係に社会的評価や区分の根拠とされるという新たな境界である。そのため、制度設計には、カテゴリー化の力学が生む潜在的な排除や不利益への慎重な配慮が求められる。
こうした哲学的・社会構造的な視点を踏まえたとき、制度は単に選択肢を増やすだけでなく、語らない自由や沈黙をも制度内に位置づける必要がある。ここから先は、倫理と制度の交差点において、いかにして沈黙や非選択を尊重しうるかという、より深い次元の議論となる。
まず、レヴィナスは『全体性と無限』において、自己は他者の顔に直面することによって、つまり一方的な応答責任に巻き込まれることによってこそ立ち上がると主張した。そこには、相互的なやり取りが前提ではない、倫理の根源的な非対称性がある。つまり、語られない他者の沈黙に対しても、応答を要請される私たちの姿勢が倫理の出発点であるとされるのである。こうした観点は、他者の沈黙を承認する制度設計の必要性と深く響き合う。
次に、ルイ・アルチュセールの「呼びかけ(interpellation)」論もここで参照されうる。アルチュセールによれば、個人は国家装置や制度的言説によって無意識のうちに「呼びかけ」られ、主体として構築される。つまり、たとえ沈黙していたとしても、制度の文脈の中ではすでに何らかの立場を“呼び出されている”のだとされる。この点においても、制度に対する無言の従属を単なる自由意思として解釈することには注意が必要である。
その一方で、他者の承認を通じて自己意識が形成されるという構造を体系的に提示したのが、ヘーゲルの「相互承認」の思想である。ヘーゲルは『精神現象学』において、自己意識が確立するためには他者からの承認を必要とするが、その承認は一方的では成立せず、双方が自己を表現しあう関係の中でのみ可能であると論じた。この相互承認は、対等な他者関係における自己の確立を前提とする点で、自由と平等の理念を哲学的に基礎づける重要なモデルである。
しかし、現代社会においては「自己を語らない」ことでしか自らの尊厳を保てない人びとも存在する。そのような状況では、ヘーゲル的な相互承認モデルでは十分に説明しきれない現実がある。むしろ、語らない他者の沈黙をもそのまま承認し、語る/語られる関係から降りる自由までも包摂する必要がある。このとき、ヘーゲルの構図はむしろ出発点として捉え直されるべきであり、「語らないことを承認する」ための制度的想像力は、まさにそこから展開されねばならない。
これら四人の思想家が示唆するのは、制度と主体の関係性における多層的な緊張である。ティリーが指摘した「カテゴリー化」の力学は、制度がいかにして人々の行動範囲を構造的に規定するかを示し、レヴィナスはその構造を超えて、倫理は常に非対称な他者関係から始まると主張する。アルチュセールは、制度的言説によって主体が無意識に構築されてしまうメカニズムを暴き、ヘーゲルは承認関係の対称性を通じて自由の実現を構想した。それぞれの理論は、一面的には矛盾しあうようにも見えるが、選択的夫婦別姓制度をめぐる今日の状況においては、むしろ互いに補完的である。すなわち、制度が個人をいかに分類し、語らせようとするか(ティリー・アルチュセール)を見抜きつつ、語られない者との関係に倫理を見出す視点(レヴィナス)と、語りの対称性に基づく自由のモデル(ヘーゲル)を柔軟に組み合わせることで、私たちは初めて、「語ること」と「語らないこと」がともに尊重される制度設計の可能性を構想することができる。
理屈はそうだ。しかし果たして、語らない自由の保障を制度設計に組み込めるだろうか。社会における和解を考えたとき、制度の再設計ではなく、制度外の深慮が求められるのではないか。伝統・習慣との調和を目指したE・バークのような保守の考え方のほうが示唆的だ。また、文学的なまなざしも有効な力になるだろう。
<
『年金改革法で「厚生年金が損をする」は本当か...実は、ずっと割を食ってきた「あの世代」を救う効果が』
https://www.newsweekjapan.jp/kaya/2025/06/post-331.php
氷河期世代から多くの高齢貧困者が続出するという最悪の事態だけは回避できそう、というのは理解できる
割を食って労働を安く搾取され続けてきた世代を救うことが、全体をより大きく救うことになる
わかる
ただ一つ納得がいかないのは、「基礎年金=3号年金も増える」こと
主夫、主婦、配偶者に依存して扶養内でろくに働かず社会保険料を納めてない人には、そもそも年金を渡すべきではない
夫(妻)が二人分納めている、という勘違いがいまだにあるが、それはウソ
厚生年金を払っている人たち全員で負担してる。扶養がいる人は自分の分しか納めてない
子供には相応の手当を出せばいいが、3号制度のおかしいところは子供がいない夫婦にも一人分の社会保険料でもう一人をタダ乗りさせてるところ
無職子供なし専業主婦・主夫なんてヒモみたいな生活してて基礎年金を盗んでいく
教師父は同僚なんかによく「お前の子供は教師にならないのか」って聞かれるそうだ
そんな話の中、ふと思い出して「地元に友人居るんですけど、教師目指してるけど全然採用されないらしくって」って言ってみた
教師父は「教育実習行った先以外でも過去の担任とか恩師に連絡してみろ」って言うんだ
だから「コネがあれば入れるってことですか?」ってダイレクトに聞いたと思う
その時の教師父の話
担任になってしまえば子供全員の命を預かるも同然、その気になれば何だってできる
だから家族も教育関係にいて自分が問題起こしたら「自分だけの問題じゃ済まない奴」の方がいい
推薦者は自らが危くなるような人間は推薦しない、推薦された方は自分だけじゃなく周囲に迷惑かけると思えば踏みとどまる
今は教師のなり手が少ないと聞くから、この話の頃より縁故で入る人間は少ないだろう
結果、問題を起こしにくいやつが減ってるのかもしれないと思った
やりたいことやって悔いなく生きないとだめだな
病院で働いてんだけど
男性は大半がまーあ好き勝手やってきたし、ちょっとくらいバチ当たっても(病気なっても)しゃーないな。そしてこれからも死ぬまではマイウェイでいくか〜
って感じでやってるのに
女性は大体なんでこんな頑張ってきた私が…!!!?みたいな感じある
やっぱ身を粉にして家族のために尽くしたところで誰もその負債を肩代わりしてなんてくれないもんね
男なんか会社に行ったらお前遊びにきてんのか?ってくらいヘラヘラしてるやついっぱいいるもんな
子供の世話も女がやって、主婦やってたら人間関係も生活範囲も縛られて好き勝手できず自己犠牲ばっかり求められるのに
男はまあ金ないと甲斐性ないとかもっと稼げとか言われるだろうけど、いざとなったら女も子供も捨ててバックれられるし出先とか仕事帰りに会社の若い女と遊んでても多少バレないし
まあ何事もほどほどにやりたいようにやるのが1番健康にいいな
ラオスの件で盛り上がってる例の女性が、30歳頃にタイで男買ってたり、18歳男子をホテルに持ち帰ったりしてるブログ見て懐かしい気持ちになったので、俺の出会った女性たちを紹介したい。
(年上好きなので総じて俺自身は被害者という認識はない。また、10歳以上離れた女性のみに絞っている)
チャットで童貞であることを話していたら、私としてみる?と誘ってくれた人。18-20くらいの童貞何人かを筆おろししたことあると言っていたが中学生は流石に初とのこと。
ホテル代は出してくれて、ホテル行く前にコンビニで飲み物とかゴム買って行った方が安いとか、指入れてどう動かせばいいかとか全部教えてくれた。
絶対1回しかしない約束と向こうから言われていたが、もう一回映画行こうって誘われて2度目もホテルに連れ込まれた。
2回目の時に赤い柄のシャツ着てったら「君は肌が白いから暖色の方が似合うね」って言われた言葉を何故かよく覚えてる。
こちらも俺14歳の時にネットで知り合った12歳の娘を持つ主婦。こっちが誰でもいいからやりたいみたいな話をしてたら、私としようよと誘われて会うことに。
会ってみたら中3の俺にはさすがにおばさんすぎて面食らったけど勃つものは勃つのでホテルでいたす。
学校帰りなので制服だった(当時のラブホはゆるかった)ことにテンション上がってたり、ずーっと頭撫でられてキスしまくられるので、やばい人だなぁと思っていた。
その後、クルマで淡路島行こうよ、とかおこづかいあげるからまた会おうよと言われたものの、おばさんすぎたので無視して逃げた。
俺が17歳の時に、バイト先の男の先輩25歳がキレイなお姉さんと飲んでるからおいでって言われて行ったらいた女性。
先輩と、32歳の女性が2人と、俺と、俺とともに呼ばれたもう一人の男17歳で合流したものの、先輩は用事があるからとすぐ帰り2:2に。
昨今の性加害の流れ見てると、これ仕組まれてたんだろうなぁと思う。若い男呼んでよーっことだったんだろうな。
女性がそれぞれ、男をマンツーで囲う形になり、会が終わる頃に「私終電ないからホテルに泊まるけどついてきてもいいよ」と言われ連れ込まれ襲われる。
その後もう一回呼ばれて会いに行った気がするがなぜかやってない気がするし、記憶が曖昧。
これはもう俺も23だったし、俺からのナンパだったからたいしたことない話だけど、とにかく年下好きで元彼全部年下、俺と出会う前に付き合ってた男も30とかだった。
流石に一回り以上離れてるのは初めてって言ってたけど本物の年下好きってのはいるんだなぁと。
とにかく顔がかわいいけど、経歴長くて若い女性社員から怖がられてるお局さん。
俺が29歳の時に会社の忘年会帰りに盛り上がってホテルに行ったが、後から聞いたらめぼしい年下社員にかなり手出してる人だった。
まぁ年下だけでなく、偉い人も手出してたけど。
最初の方3人は完全に犯罪者だけど俺はノリノリでやってたし、今思えばあれは嫌だったとかも無い。
ただ、本当に若い男が異常に好きな女性いるんだけど、そういう人たちって「アイドル好き」みたいにしかネットでもあんまり表出してないよね。
ロリコン男はそれこそ捕まってる人たちみたいに何かしら世に出しちゃいがちなんだけど、女のショタコンのセックスの話は全然出てこなくて捕まってやっと出るみたいな。
なのでこんな危ないおねーさん(おばさん)達はいて、性欲を持て余したかわいい男子たちが一身にその寵愛を受けてるよってみなさんも是非知っていただいて、あなたの息子に注意を向けてもらえれば幸い。
ただ俺はこういう経歴だから、年上女性が未成年に手出してた時間のニュース見ると、懐かしい気持ちで「うらやまけしからん!」って言ってるよ。