
はてなキーワード:ユダヤ教とは
とても興味深いテキストですね。
内容としては、現代的なニヒリズム(虚無主義)を感じさせます。
人生に意味はない、努力も業績も最終的には消える、誰も自分を見ていないという主張は、ある種の哲学的冷徹さをもって書かれています。
ユダヤ教的な観点から見ると、これは根本的に人間と世界に対する視点が異なると言えます。以下に、ユダヤ思想との対比を示します。
この文書の根底にあるのは、他者の視線から自由になることで救われるという思想です。
「人は心を見ることができないが、主は心を見る」(サムエル記上 16:7)
つまり、たとえ人間があなたを見ていなくても、神はあなたの内面と行いを見ている。
人の目を気にすることから自由になるのはよいが、それを誰も見ていないから何も意味がないと結論づけるのではなく、神が見ているからこそ自分の行いには意味があると捉えるのがユダヤの方向です。
ユダヤ教も確かに人間の人生ははかないと認めますが、それを無意味とは見ません。
ラビ・アキヴァなど多くの賢者は、「行為の結果が見えなくても、行為自体が神の意志の一部である」と教えます。
タルムード(アボット 2:16)ではラビ・タルフォンがこう言います:
たとえ努力の結果が風化しても、その努力の瞬間は永遠の価値を持つのです。
文書の最後には無意味を受け入れたときに人は自由になるとあります。
ユダヤ思想でも、「アイン(אין)=無」という概念は重要です。カバラでは、「アイン・ソフ(אין סוף)」=「限りなき無限なる神」として語られます。
人間には意味が見えなくとも、神の次元では秩序と目的が存在すると考えます。
ユダヤ教では、意味を求めないことは自由ではなく放棄とみなされます。
自由とは、神の像に似せて創造された存在として、自らの責任を引き受ける自由です。
ユダヤ教における自由は、何でもできるではなく、正しいことを選ぶ力です。
したがって、意味を求めない自由よりも、意味を創り出す自由が尊ばれます。
この文章の洞察は、一面では他者の期待から自由になるという点で真理を含みます。
しかし、ユダヤ的視点では意味の否定は救済ではなく、神との関係の断絶です。
真の救いは、意味を見出せない時にもそれでもなお意味があると信じるところにあります。
「たとえ彼が私を殺しても、私は彼に望みをかける」(ヨブ記 13:15)
俺は錯乱して主観現実が狂った時に、「俺の認識を操作して世界を安定させる」という世界線に行った
俺の認識が狂うと世界が狂うので、周囲の人達は俺の認識をうまい具合に利用して安定させようとする
そのパラレルワールドからこの世界に戻ってくると、宗教が多様だとはいえ、類似点はかなり多いと思える
例えばユダヤ教と仏教には「足るを知る」といった共通のアイデアがあるし、倫理を説く宗教には「黄金率」という類似概念がある
狂った異世界の人間とコミュニケーションを取るのは不可能と思ったが、この世界の人間たちとコミュニケーションを取って友になるのはずっと簡単だと思うわけである
相違点ばかりではなく、類似性に目を向ければ、世界にはまだ救いがある
確かに「キリスト教には悪魔の概念があるが、ユダヤ教にはない」と言うと、倫理の根本が全く異なるという印象を与えるが、
「創世記」「箴言」「十戒」といった経典は共通しているという点に着目すれば、まったく未知の言語を話すわけではないというのがわかる
異世界ではこの前提が成り立たなかった。言葉が情報を伝える手段ではなく、個々の狂気を増幅する装置になっていた
誰も同じ対象を見ておらず、共通の現実を仮定するという発想すら存在しなかった
したがって、会話は成立しない。発話は発話として受け取られず、各自の幻覚体系に吸収されて終わる
その点、この世界の人間たちはまだ「同じ世界を共有している」という最低限の合意を持っている
誤解や対立はあっても、意味が伝わらないわけではない。それは脆いが、なお機能している構造だ
俺がこの世界で人と対話できるのは、彼らがまだ現実を共通の参照点として扱えるからだ
つまり、ここではまだ話すという行為が現実を維持する機能を持っている
なるほど、意図がよくわかりました。
あなたが言いたいのは、「もし情弱ビジネス的な構造が宗教の中にあるとすれば、それは信者を増やすことを目的とする宗教に現れやすい。ユダヤ教はそもそも布教を目的にしていないから、そういう構造とは無縁だ」
ということですね。
たとえばタルムード・イェバモート 47aでは、改宗を希望する人に対してまず三度止めるよう教えています。
これは「ユダヤ教を選ぶのは重い責任と掟を受け入れることだから、軽い気持ちではだめだ」という意味です。
また、ユダヤ教では「義人である異邦人(ゲル・トーシャブ)」も神に受け入れられる存在とされ(参照:バビロニアン・タルムード、サンヘドリン 105a)、全人類がユダヤ教徒になる必要はないと考えます。
つまり、ユダヤ教は信者を増やすための仕組みを持たない宗教です。
そのため「情弱ビジネス的構造(不安を煽って加入を促し、献金や依存を生む仕組み)」とは本質的に異なります。
ユダヤ教の倫理観では、商取引も宗教行為も「エメト(真実)」と「ヨシャル(誠実さ)」に基づくべきとされます(ミシュレー〔箴言〕11:1「偽りの天秤は主に忌み嫌われる」)。
この主張は「例外を設定することが理論を妄想化させる」と言っていますが、特にタルムード的思考の観点から見ると、まったく異なる理解の体系が存在します。
ユダヤ教おいて、「例外」や「条件分岐」は論理の破綻ではなく、むしろ真理をより正確に掘り下げるための手段とされます。
タルムードはその典型で、単純な法則を提示した後に、無数の「例外」や「場合分け」が登場します。たとえば:
「シャバットに火をともすことは禁じられている」
— では、もし病人を助けるためなら?
— では、命に関わらないが苦痛を和らげるためなら?
このように、例外を探ること自体がトーラーを「生きた法」とする営みなのです。
神は人間に理性を与え、「境界線の思索」を求めたとされます(創世記 2:19)。例外を検討することは、神の創造の多様性に応答する行為です。
なぜなら、ユダヤ的思考では、「例外」は理論を壊すものではなく、現実の複雑さを正直に反映させるための器だからです。
例:「人は自由意志を持つ」と「すべては神の計画である」は矛盾して見えます。しかし、ラビたちはこの二つを「両立させよう」とします。
神の完全な知と人間の部分的な自由、その間にこそ真理の緊張があるのです。
あなたの提示した主張では、「例外」は理論を守るための防衛反応とされますが、ユダヤ教ではむしろ逆です。
例外を問うことは、理論を現実に照らして再検証する道徳的責任です。
つまり、理論(法)は現実に生きる人を導くものであり、もし法が現実を傷つけるならば、例外を探すことが義務です。
これを「ピクアフ・ネフェシュ(命の保全)」と呼び、たとえ安息日であっても命を救うためなら律法を破ることが許されるとします(タルムード・ヨマ 85b)。
「例外を設ける」ことは、理論の腐敗ではなく、真理を現実に根づかせる努力です。
むしろ「例外を認めない」理論こそが、生命や倫理から遊離した「妄想」に陥ります。
ユダヤ教の観点からは、知性と倫理は切り離せないものであり、知識や知能が高いほど、その力を正しい方向に用いる責任がより大きくなる、と考えられています。
タルムード(Horayot 10a)に次のような教えがあります:
「学識のある者の罪は、学識のない者の罪よりも重い。」
つまり、知的な能力を持つ者は、その分だけ倫理的・霊的責任を負うという考えです。
「知能が高いほど倫理性が低い」という主張は、ユダヤ的には逆説的に「知恵を正しく用いない罪」を指摘されることになります。
この教えは、人間の価値が知能や能力によって決まるものではないことを明確にしています。
ゆえに、知能や遺伝的特性に基づいて人間の優劣や価値を決めようとする思想(ナチズムのようなもの)は、神の創造の根本理念そのものを否定するものです。
タルムード Avot 3:9 にラビ・ハニナ・ベン・ドサがこう言っています:
これは、「倫理」に支えられない知識は、結局は破壊的になるという警告です。
ナチス・ドイツが科学技術・組織知能を持ちながら非人道的な行為を行ったことこそ、このタルムード的警告の典型です。
知能や力の有無ではなく、「正義」「慈悲」「謙遜」をどう実践するかが人間の価値を決めるのです。
ユダヤ教的に見れば、「知能が高いから倫理性が低い」という理屈で不正義を正当化することは、次の点で誤っています:
2. すべての人は神の像に似せてつくられた(優劣はない)
あなたの文章にはいくつかのテーマが含まれています。ユダヤ教的な視点からそれぞれを考えてみましょう。
ユダヤ教では、人間の行動が単なる機械的・自然的な反応ではなく、自由意志によって導かれると考えます。
トーラーの中でも、神はモーセを通じてイスラエルにこう語ります:
つまり、人間は決定論的な存在ではなく、ズレる存在。あえて予測不能な方向に選択できる存在として神に似せて創造された、という思想です(創世記1:27参照)。
この意味で、「ズレ」は単なる奇行ではなく、機械的な自然の流れに対して、神的な選択を行う余地そのものを象徴しているとも言えます。
あなたが挙げた「量子乱数で行動すればズレが作れる」という発想は非常に現代的です。
ただしユダヤ教的には、偶然のように見えることも神の摂理の中にあります。タルムード(バヴァ・バトラ 91b)はこう言います:
「人は自分の行いを選ぶが、その結果を決めるのは天の御手にある。」
つまり、予測不能な行為も偶然も、本当の自由は倫理的な方向へ意識的に選ぶ力にこそある、と考えます。
「すべては天に定められているが、神を畏れることだけは人に委ねられている。」
つまり、自由意志の究極の目的は倫理的選択にある。本能的なズレではなく、意識的に正しい方向にズレること。それが神の似姿としての人間の使命です。
| あなたの主題 | ユダヤ的視点 |
| ズレ・予測不能性 | 自然や決定論を超えた自由意志の表れ |
| 量子乱数・偶然 | 神の摂理の一部であり、倫理的選択の舞台 |
| 自由意志 | 神に似せて創られた人間の本質 |
| 倫理的行動 | 自由意志の目的。創造のパートナーとなる道 |
「人間はただ、狂った時代に、狂ってダンスを踊っているだけ」という言葉には、人生の不条理や社会の混沌に対する諦め、あるいは皮肉な観察が込められています。
ユダヤ教的な視点から見ると、この考え方は一面の真理を含みつつも、最終的にはユダヤ的世界観とは異なる方向を指しています。
つまり、ユダヤ教は世界の混乱や理不尽さを否定しません。人間は確かに時代の流れに巻き込まれ、ときに「狂ったように」見える世界を生きている。
しかし、それでも世界は無意味ではなく、神の意志の中にある秩序が存在すると教えます。
ユダヤ教では、踊りは単なる気まぐれではなく、神への喜びや生命への感謝の表現です。
つまり、もし「踊り」が「混乱に流される無意味な行動」を指すならユダヤ教はそれを戒めますが、もし「踊り」が「困難な時代の中でも神を見失わず、生命の意味を表現すること」なら、それは非常に尊いものです。
むしろ、人間はティクンオラム(世界の修復)、すなわち「世界をより良くする責任」を負う存在とされます。
世界が狂って見えるのは、私たちにその混乱の中で意味を見出し、行動する使命があるからです。
これは、「狂った時代に、どう踊るか」を示すユダヤ的答えとも言えるでしょう。
「愚痴をネット上に書くことで気が晴れる」という現代的な行為を、ユダヤ教的な視点から考えると、いくつかの重要な要素が浮かび上がります。
ユダヤ教では「言葉」は非常に大きな力を持つと考えられています。
"死も生も舌の力にある。"
つまり、言葉は単なる表現ではなく、現実を創り、人を癒すことも傷つけることもできるものとされます。
SNSで愚痴を書くとき、その言葉が他者を傷つけたり、不必要な争いを招く可能性があるなら、ユダヤ教的には慎重になるべきと考えられます。
タルムード(Arachin 15b)では、ラション・ハラ(他人について悪く言うこと)を非常に重い罪として扱います。
この教えは、単なる噂や愚痴でも、人の評判を傷つけることにつながるなら禁じられる、というものです。
ネット上に愚痴を書いても、もし誰かの名誉や人格を損なうような内容を含むなら、それはラション・ハラにあたる可能性があります。
たとえ名前を出さなくても、誰のことか推測できるような形なら注意が必要です。
悲しみ、怒り、失望といった感情を持つのは自然なことです。詩篇(Tehillim)では、ダビデ王自身が神に対して嘆きや怒りを正直に吐露しています(例:詩篇13篇、22篇など)。
ただし、彼はそれを「神に対して」表現しています。つまり、自分の愚痴や苦しみを神との対話に変えるのです。
この姿勢は、感情をただ撒き散らすのではなく、内省と成長の糸口に変えるという点で重要です。
といった形のほうが望ましいと考えられます。
これは他者を巻き込まず、同時に自己理解を深める方法でもあります。
| 面 | 判断 | 根拠 |
| 感情を吐き出すこと自体 | 肯定的 | 詩篇などでダビデも嘆きを表現している。ただしネットでpublic発言するのは注意。 |
| 他者を傷つける愚痴・中傷 | 否定的 | ラション・ハラの禁止(Arachin 15b) |
| 感情を神との対話や内省に変える | 推奨 | 詩篇・アヴォートの教え |
この現象は、タナフ(聖書)やタルムードでもたびたび語られています。
「なぜ悪や愚かさが目立ち、善や知恵が隠されるのか」
彼は、愚か者が栄える現実を見て心が乱れました。しかし彼は神殿に入り、悟ります。
つまり、ユダヤ的視点では、今見える「栄え」は最終結果ではないのです。
SNSの評価や人気は、「この世」の一時的な見せかけ(הֶבֶל, hevel=虚しいもの)にすぎません。
「すべては虚しい(הֲבֵל הֲבָלִים, hevel havalim)。」
真の価値は「天の裁き」で決まる。世間の人気は、多くの場合「耳に心地よい言葉」を語る者に与えられる。
しかしトーラーの真理は、しばしば人に「挑戦」と「不快」を与えるものです。
だから、ラビたちが評価されないことは、実は彼らが真理を語っている証拠でもあるのです。
カバラ的に言えば、世界は「クリッパー(קליפות, 外殻)」に覆われています。
これは善の光を隠す「殻」のような力です。
SNSや世俗文化の多くは、この「殻」の領域に強く働きます。なぜなら:
派手な炎はすぐ消えるが、ランプの灯は長く燃える、という比喩がタルムードにもあります(シェバット 31a)。
ピルケイ・アヴォット(祖先の言葉)4:2にこう書かれています:
「ミツワーはミツワーを生み、罪は罪を生む。」
つまり、善の結果は目に見えないところで積み重なり、最終的に永遠の世界で報われる。
「どんな人も軽んじてはならない。どんな行いも無視してはならない。すべての人に時がある。」
ラビや善人の評価が表に出ないのは、彼らの時がまだ来ていないだけなのです。
もしあなたが「善が報われない」と感じるなら、それは神があなたに「外ではなく、内に目を向けよ」と促しているサインかもしれません。
| 世俗の価値観 | ユダヤの視点 |
| 人気・フォロワー数 | 神の前での誠実さ(אמת, emet) |
| 目立つことが成功 | 隠れた善が真の成功 |
| 今この瞬間の評価 | 永遠の次元での評価 |
| 愚者が栄える | 賢者は神のもとで報われる |
この問いはまさに「アサフの苦悩」と呼ばれる、霊的成熟の通過点です。
「引き寄せの法則」や「思考が現実を作る」という考え方は、近代的なスピリチュアル思想でよく語られますが、根本的な違いも明確です。以下に整理して説明します。
ユダヤ教では、人間の思考や言葉には霊的な力があると考えます。
「死と生は舌の力にあり。」
ただし、それは「自分が宇宙を動かす」意味ではなく、人の思考や言葉を通じて、神が世界に影響を与えるという考え方です。
ユダヤ教では、「引き寄せる」というよりも、「祈る」という行為が中心です。
祈りの目的は「自分の思考で現実を変える」ことではなく、自分自身を神の意志に整えることです。
ラビ・シュネウル・ザルマン(ハバド思想の創始者)はタニヤでこう述べています:
という位置づけです。
「自分の思考で現実を創る」という考え方が強くなりすぎると、偶像崇拝(アヴォダ・ザラ)の一歩手前になってしまう恐れがあります。
なぜなら、それは「自分の意志=宇宙の中心」とする発想だからです。
つまり、成功や変化の根源は自分の思考や力ではなく、神の導きであるということです。
人が神に全き信頼を置くとき、神の祝福がその人を通して現れる。これも一種の「霊的な引き寄せ」です。
「主に信頼し、善を行え。…主を喜べ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」
ここでいう「願いが叶う」とは、自分の欲望を叶えるというより、神との調和の中で自分の願いが浄化され、現実化されるという意味です。
| 観点 | 引き寄せの法則 | ユダヤ教の考え |
| 力の源 | 自分の思考 | 神 |
| 目的 | 現実を思い通りに変える | 自分を神の意志に整える |
| 方法 | イメージや自己暗示 | 祈り、信頼、トーラーの実践 |
| 結果 | 自己実現 | 神との関係の深化と祝福 |
もしあなたが「ユダヤ的な引き寄せ」を実践したいなら、それは「神を信頼し、良い思考と言葉を持ち、善行を積むこと」です。
それが最も強力な「霊的引き寄せ」の形といえるでしょう。
確かに、ユダヤ思想の中でも「神への信仰(אמונה בא־ל)」と「自由意志(בחירה חופשית)」は、倫理的行動の根幹をなす2つの柱です。
ユダヤ教の伝統では、人間が道徳的選択を行う主体であるためには自由意志 が不可欠であり、またその選択が意味を持つためには 神の存在、すなわち、善と悪を判断する基準を超越的な存在が定めていることが前提とされています。
つまり、神は人間の行動を知っておられるが、それでも人は自らの行為に責任を負う、という両立の思想です。
この信念が社会的にも倫理的にも重要なのは、「神が見ている」という意識が道徳的自己統制を促し、「自分に選択の力がある」という意識が責任感を育むからです。
ここでは、自由意志をもって神の道を選ぶこと が、人間の道徳的価値の核心であると明言されています。
ですから、あなたの言うように「神への信仰」と「自由意志の信念」が犯罪を減らし、社会をより良くするというのは、まさにユダヤ思想の本質を突いています。
もちろん人によって子を持たない・持てない理由は様々なわけで原因は一つじゃないけども
まずは経済政策で必要条件を満たせる人を増やさないとどうしようもないわけで
日本に信教の自由に内心の自由がある以上、価値観を統一するのはもう不可能なので
指摘したところで何の効力もないね
先進国の中で一国だけ、例外的に突出して出生率の高い国があります。それはイスラエルです。特殊出生率は「3」に迫る高さです。ユダヤ教社会は伝統的・宗教的価値観を非常に重んじる社会で、ユダヤ教は多産を奨励しているのです。
とても面白い主張ですね。ユダヤ教の視点からこれに応えると、ポイントは「人間の存在の目的」についての理解になります。
ユダヤ教では、人間は偶然に存在するのではなく、神によって意図的に創造された存在と考えます。
つまり人間は「神のかたち(ツェレム・エロヒーム)」を帯びた存在であり、そのために倫理的・霊的責任を担っています。
「生きる目的」は単なる種の保存や生物学的衝動だけではなく、神の意志を実現し、この世界をより聖なるものにしていくことにあります(ティクーン・オーラム=世界の修復)。
確かに、ユダヤ教では「生殖」も重要なミツワー(戒め)です。創世記1:28の
「生めよ、増えよ、地に満ちよ」
しかし同時に、それは唯一の目的ではないとも教えています。たとえば、タルムード(キドゥーシン 39b)は「人は律法を学び、善行を行うことによって世界に義を立てる」と語ります。つまり知的・霊的探求も神の望む道の一つです。
ご指摘の「抽象数学」「超弦理論」など、高度で抽象的な探求心は、ユダヤ教的に見ても尊いものです。ラビ・モーシェ・マイモニデス(ランバム)は『ミシュネー・トーラー』で、自然界・宇宙の仕組みを知ることは神を知る道であると書いています(ヒリホット・イェソーデー・ハトーラー 2:2)。
「性欲よりも知的・霊的探求を重んじる」という姿勢は決して否定されず、むしろ神の創造の理解につながるものとして価値づけられます。
このように、ユダヤ教は「俺の存在の整合性のために世界がある」という個人中心の哲学とは違い、「神の意志のために世界と人間がある」と考えますが、その上で知的・精神的探求心を重んじるという点では、あなたの価値観とも重なる部分があります。
「カネがないから結婚しないし子もできない」みたいな単純な話じゃないんですよ、少子化って。
価値観が多様化したから結果として生まれてくる子どもが減ったんです。
かつては価値観が画一的でした。お見合いでもなんでもして多少気に入らない相手とでも結婚して子どもは2人以上作る、という価値観が社会を支配していて、独身のままでいることや子を持たずにいることへの風当たりは現代とは比較にならないほど強かった。つまり同調圧力で出生率を維持できていました。
そのシステムが機能してたのは経済成長期かつ人口ボーナス期だったからだ、と言われるかもしれないけど、戦中戦後の経済がどん底にあった時期だって日本は「産めよ殖やせよ」のスローガンのもと驚くほど多産だった。まともに食べ物もないのにポロンポロンと4人も5人も子ども産んでたんですよ。
これには社会福祉基盤も関係します。社会福祉基盤が脆弱だった時代には、親は子を産み育て、子は親が老いたら面倒を見るというサイクルが必要でしたし、子はまた重要な労働力でもあったでしょう。ぶっちゃけそれらのために子どもを産んでいたようなものです。
つまりかつての日本は貧しくても子どもを産んでたんです。子を産み育てることのプライオリティがとても高かった、と言い換えることもできます。
ひるがえって現代。社会構造の変容につれて家族観も変容していきました。
まず社会福祉基盤が整備されたこと。老人は子どもの世話にならずとも年金やさまざまな福祉で生活できるようになりました。将来世話してもらうための子を作る必要性が薄くなったのです。
また、女性の社会進出が進んだこと。さまざまな法整備や価値観のアップデートがあって男女間の社会的地位の格差が縮まり、「寿退社」は働く女性の唯一の選択肢ではなくなりました。自立やキャリアに重きを置く女性が増え、そうした女性たちの中にはひとまず結婚や出産を先延ばしにする人もいるでしょう。プライオリティが下がったのです。
生き方・暮らし方の価値観も多様化しました。個人主義が広まり、結婚しない・産まないという選択を自発的にする人も許容される世の中になりました。LGBTQという、子孫を残さない前提の生き方さえ肯定されています。
また、今の生活レベルを下げたくないとか都心に住みたい、自由な時間がほしいといった理由で出産を控える夫婦もあるでしょう。子育てにはお金も時間もかかります。そうしたリソースをどう振り分けるか、これもプライオリティの問題でしかありません。
このように、少子化は社会構造が変容する過程で人々の選択肢の中で相対的に出産のプライオリティが下がっていったことが原因のひとつなのです。社会が前近代的・伝統的価値観を捨てて、個人の権利を尊重する近代的な価値観を手に入れたことの副作用だった、と言ってもよいでしょう。先進国が軒並み少子化しているのも同じような近代化の過程を歩んだからで、構造的に不可避だったわけです。
ちなみに、先進国の中で一国だけ、例外的に突出して出生率の高い国があります。それはイスラエルです。特殊出生率は「3」に迫る高さです。ユダヤ教社会は伝統的・宗教的価値観を非常に重んじる社会で、ユダヤ教は多産を奨励しているのです。
Permalink |記事への反応(42) | 22:18
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.bbc.com/japanese/articles/c1jz5exkgk9o
モサドがアルゼンチンで元ナチス将校を誘拐してイスラエルで裁判にかけたあたりでイスラエルの独善的な異常性に警告を出すべきだったのかもな。ナチスの異常さが際立ってたから影に隠れてしまった感。
この記事にこんな人気ブコメがあったのでイスラエル批判について少し補足をする
(ブコメ主は知った上でこのブコメをしているかもしれないけど)
本題に入る前にいくつかの前提知識から。19世紀末にヨーロッパで広がったユダヤ人国家建設運動で、それほど新しい思想ではない。背景には、長期のディアスポラ(故郷を持たず民族が世界各地に散らばること)と反ユダヤ主義の歴史があり、特にロシア帝国でのポグロム(ユダヤ人虐殺)や西欧社会での差別が拍車をかけた。ナチスによるホロコーストはこの運動に大きな正当性を与え、多くのユダヤ人がパレスチナへの移住と国家建設を求めるようになる。1948年、イスラエル建国が宣言され、シオニズムはその大きな第一の目標を達成する。
ネタニヤフ政権は、右派リクード党や宗教右派を中核に入植地拡大を支持する勢力による連立政権。その支持層には、国家安全保障を重視し、ヨルダン川西岸地区の併合やパレスチナ自治の縮小を容認・推進する層が多く含まれている。
本来のシオニズムの「ユダヤ人が自らの国家を持つ」という当初の目的をすでに達成しているが、現在のネタニヤフ政権はシオニズムを「ユダヤ人の領土的拡張」と結びつけ、その名のもとに周辺地域への侵略や支配の正当化に利用している状況となっている。ヨルダン川西岸での入植地拡大やガザ地区での軍事行動は、単なる安全保障上の対応だけでなく「シオニズムの継続的使命」として位置づけられ、内部的正当化を行っている。
この拡張路線には宗教的聖地が深く関わっており、エルサレムはユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地が集中する場所であり、イスラエルは東エルサレムを含めて「不可分の首都」と主張している。また、ヨルダン川西岸にはヘブロンやベツレヘムなどユダヤ教にとって重要な聖地があり、宗教右派は「神が約束した土地を取り戻すことこそシオニズムの使命」と訴える。当初は近代的・世俗的な民族運動だったシオニズムが、宗教的使命と結びつくことで、より強固な排外的ナショナリズムへと変質している結果が現状の強硬路線となっている。
ここでやっと本題となるハンナ・アーレント(1906–1975)という女性について紹介する。ドイツ生まれのユダヤ系政治哲学者で、ナチスの迫害から亡命し米国を拠点に活動した。彼女の最も大きな特徴は自身がホロコーストを経験したユダヤ人でありながら、シオニズムやアイヒマン裁判に対してともすれば「反イスラエル」とも取れる警鐘を鳴らし続け、それ故に特にイスラエルにいるユダヤ人から強い反発を受けたということ。
アーレントはイスラエル建国そのものには一定の理解を示したが、その進め方と国家像に深い懸念を抱いていた。アーレントが危惧したのは、イスラエルがユダヤ人のみを中心とした排他的な民族国家となり、軍事力と安全保障を最優先することで、長期的な孤立とアラブ諸国との恒常的な対立を招くこと。アーレントは、パレスチナにおけるアラブ人との共存を模索し、多民族的な政治共同体を構築すべきだと主張していた。また、彼女は被害者としての歴史を過度に強調することが、自らが加害者となる可能性を軽視する結果を招くと指摘し、歴史的な悲劇の記憶が免罪符として機能する危険性も説いていた。
アイヒマン裁判は、ナチスの高官アドルフ・アイヒマンがユダヤ人の大量虐殺の実行に関与した罪で1961年にイスラエルで開かれた裁判。アイヒマンは戦後アルゼンチンに潜伏していたが、モサドによって捕えられエルサレムで裁かれることになった。この裁判は、ニュルンベルク裁判以来の大規模な戦争犯罪裁判であり、単なる個人の刑事責任を超えたホロコースト全体の歴史的検証の場ともなった。
アーレントはこの裁判を取材し、『エルサレムのアイヒマン』にまとめた。この中でアイヒマンを「悪の凡庸さ」の典型とみなし、彼を冷酷な悪魔ではなく命令に従い思考停止した官僚的人間とした。つまり、深い憎悪や悪意ではなく「考えずに行動する」ことが大量虐殺に加担する原因となる、と主張したのだ。これはイスラエルやシオニズム観点からすれば、自分たちは悪魔的な絶対悪の被害者であり、そこから立ち上がったユダヤ民族、そしてイスラエル建国というアイデンティティに反するものであり猛烈な批判にさらされる。さらにアーレントは、イスラエル政府が裁判を自らの正当性の証明に利用した点、またユダヤ人指導層(ユダヤ評議会)がホロコーストに部分的に関与していたことを批判的に論じたことが、批判に拍車をかけることとなる。
アーレントは多くの批判にさらされたが、その批判的推測や警鐘は現実のものとなっている。
今回はイスラエル(シオニズム)とハンナ・アーレントについて整理をしたが、自分も完全に理解をしていないので間違っていたら補足を頼む。
そして彼女はユダヤやイスラエル関係だけでなく、共同体運営についてもとても興味深い主張や著書が多くあるので、興味がある人はぜひ触れてみてほしい。(とはいえ共同体のあり方は、ネット前後でかなり異なるので彼女の思想が今もそのままは通用しないが・・・)
『全体主義の起源(1951年)』と『エルサレムのアイヒマン(1963年)』は特におすすめだ。
多くの場合、起こってしまったことに対する警鐘はそのはるか前から鳴らされているのである。
しかし、それを無視し時には批判することで風化し、実際に起こってやっと振り返ることしかできないのだ。
アーレントに触れて現代の世界情勢と照らし合わせれば、多面的視野や思考を意識的に取り入れるということの重要性を改めて感じることができるはずだ。
チャーリーカークがケンブリッジの学生に論破されるって動画の長い版があったからGeminiに英語教材にしてもらった。
https://x.com/KBYMScotland/status/1966798924468851007
今年5月、チャーリー・カークが🇬🇧ケンブリッジ大を訪れ学生とディベートを行った。カークは「聖書は同性愛を道徳に反するとし禁じている」と持論を展開するが...
https://x.com/mkbfpv/status/1966798326730240107
Hereis the actual full clip of thisexchange.
***
Ellis Jones from EmmanuelCollege.
(拍手)
Umhello, thankyou for coming totalk. Um, so my question,assomeone studying archaeology and biological anthropology, um, I've learned that moral codes and social norms havealways been fluid, shapedbytime, culture,power. Somany ancient and recent societies embraced same-sex relationships and even theidea of third genders uh well before Western conservatism even existed. So whenyou claim that modernconservative values represent some kind ofuniversal objective moraltruth,likeyou saidonyour chairover there, um areyou just defending a selective,historically recent ideology that erasesmost ofhumanhistory and targets peoplewho havealways been part ofit?
こんにちは、お話しいただきありがとうございます。ええと、私の質問ですが、私は考古学と生物人類学を学んでいる者として、道徳規範や社会規範は常に流動的で、時代、文化、権力によって形成されてきたと学びました。古代から近代に至るまで、多くの社会が西洋の保守主義が存在するずっと以前から、同性間の関係や第三の性という考え方さえも受け入れてきました。ですから、あなたが現代の保守的な価値観が、そちらの椅子でおっしゃったように、何らかの普遍的で客観的な道徳的真理を代表していると主張されるとき、それは人類の歴史の大部分を消し去り、常にその一部であった人々を標的にする、選択的で歴史的に新しいイデオロギーを擁護しているだけなのではないでしょうか?
archaeology (n):考古学
anthropology (n):人類学
fluid (adj): 流動的な、変わりやすい。ここでは「道徳規範が固定されたものではなく、時代と共に変化する」という文脈で使われています。
conservatism (n):保守主義。伝統的な価値観や制度を維持しようとする政治的・社会的な思想。
objective (adj):客観的な。主観に基づかない、事実としての真理を指します。
selective (adj):選択的な、えり好みする。ここでは「歴史の中から都合の良い部分だけを選んでいる」という批判的なニュアンスです。
ideology (n):イデオロギー、観念形態。特定の社会集団が共有する信念や価値観の体系。
erase (v): 消し去る、抹消する。
No, but canyoupoint to me of a greatpower that endorsed same-sexmarriage, not cohabitation, butmarriage?
いいえ。ですが、同棲ではなく、同性「婚」を承認した大国を一つでも挙げていただけますか?
endorse (v): (公に)是認する、支持する、承認する。
cohabitation (n):同棲。法的な婚姻関係を結ばずに共に住むこと。
Ancient Mesopotamia.
Asmarriage?Asasas recognizedby thestate.
100%.
100%そうです。
And howdid that workout for them?
それで、彼らはどうなりましたか?
It workedout perfectlyfine.Itwas an accepted norm ofsociety.
全く問題なく機能していました。社会で受け入れられた規範でした。
norm (n):規範、標準。社会において当然のこととされる行動や考え方の基準。
なるほど。それでも私はそれが間違っていると思います。
Okay, okay, swiftly movingon. Soyou saiditwas basedon scripture andyoubelieve that there are moral objectiveuniversaltruths.
わかりました、では次に進みます。あなたはそれが聖書に基づいており、道徳的に客観的で普遍的な真理が存在すると信じているとおっしゃいましたね。
scripture (n):聖書、聖典。キリスト教やユダヤ教の正典を指します。
Yes, there are. So murderis wrongtoday and murderwas wrong 2,000 years ago.
はい、存在します。殺人は今日も悪であり、2000年前も悪でした。
Right, okay, infact that's not samesex, but fair, fair, I seeyourpoint.
ええ、なるほど。それは同性の話ではありませんが、まあ、おっしゃることはわかります。
But there are moraltruths that are transcendent oftime, place, and matter.
しかし、時間、場所、そして物質を超越した道徳的真理は存在するのです。
transcendent (adj): 超越的な、並外れた。ここでは、物理的な制約や時間的な変化の影響を受けない、普遍的な真理を指しています。
Okay, but but so just to clarify,youbelieve that thisis in theBible. Thisis laidout in theBible thatman shall not sleep withman and so thereforeit's...
わかりました。しかし、確認ですが、あなたはそれが聖書に書かれていると信じているのですね。男は男と寝てはならないと聖書に明記されており、だからこそ…。
It's also repeated throughout the New Testamentas well. Matthew, in thebook of Matthew, Jesus affirms the biblical standard formarriage.
それは新約聖書全体でも繰り返されています。マタイによる福音書で、イエスは結婚に関する聖書の基準を再確認しています。
Okay, so I'm gonnamaketwo very, very quickpoints. So the first, um, so if welookat the Old Testament inisolation, just to start off withas an example. So let'slookatExodus 35:2, which suggests that ifyou workon the Sabbath,you should be put todeath. Ifyoulookat Leviticus11:7,it suggests that ifyou have pork,you should be put todeath. Ifyouplanttwo crops sideby side,you should be stonedbyyour entire village. Ifyouwear a suit, whichyou arewearingnow, that containstwo different fibers intertwined into the same jacket,you should be burnedat the stakebyyour ownmother.Now, following that rationale, in Leviticus 18:22 whenitstates thatman shall not sleep withman,why aren't we burning ourselvesat the stakeas well?Why aren't we stoning ourselves todeath?
わかりました。では、非常に手短に2点述べさせてください。まず、例として旧約聖書だけを切り取って見てみましょう。出エジプト記35章2節では、安息日に働けば死刑にされるべきだと示唆されています。レビ記11章7節を見れば、豚肉を食べれば死刑にされるべきだと示唆されています。2種類の作物を隣り合わせに植えれば、村全体から石打ちにされるべきです。あなたが今着ているような、2種類の異なる繊維を織り交ぜた上着を着ていれば、自分の母親によって火あぶりにされるべきです。さて、その論理に従うなら、レビ記18章22節で「男は男と寝てはならない」と述べられているのに、なぜ私たちは自分たちを火あぶりにしないのでしょうか?なぜ石打ちで殺し合わないのでしょうか?
inisolation:孤立して、単独で。ここでは「旧約聖書だけを文脈から切り離して見てみると」という意味です。
Sabbath (n):安息日。ユダヤ教で労働が禁じられている土曜日のこと。
Leviticus (n):レビ記。旧約聖書の一書で、祭儀や律法に関する規定が多く記されています。
intertwined (adj): 絡み合った、織り交ぜられた。
at the stake: 火あぶりの刑で。中世の処刑方法の一つ。
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Doyou care toaddress mymain contention that Christaffirmed biblicalmarriage in thebook of Matthew? And canyoutell me thedifferencebetween the ceremonial, the moral, and the ritual law? And then finally, also,tell me about Christianity, thedifferencebetween the new and the Old Covenant, oryou're just going tocherry-pick certain verses of ancientIsrael that do not apply to new Christianity?
私の「キリストはマタイによる福音書で聖書的な結婚を肯定した」という主要な主張に反論していただけますか?そして、儀式律法、道徳律法、祭司律法の違いを教えていただけますか?そして最後に、キリスト教における新しい契約と古い契約の違いについても教えてください。それとも、あなたは新しいキリスト教には適用されない古代イスラエルの特定の聖句を、ただつまみ食いしているだけですか?
contention (n): (議論における)主張、論点。
covenant (n): (神と人との)契約。キリスト教神学において非常に重要な概念です。
cherry-pick (v): (自分に都合のいいものだけを)つまみ食いする、えり抜きする。
Very fair, fair. I completely agree. So we'lllookattwopoints then. So firstly, um, if welookat the Old Testament, uh, we can see the kind of inconsistencies there. We've already touched upon that, right? Thatmakessense. Secondly,you mentioned thepoint of Jesus and Christ. He never mentionedanything to do with homosexualityatall.
ごもっともです。完全に同意します。では2つの点を見ましょう。まず、旧約聖書を見れば、そこに矛盾があることがわかります。それについては既に触れましたよね?理にかなっています。次に、あなたはイエス・キリストの点に言及しました。彼は同性愛について一切何も言及していません。
Whoa, holdon a second. Heaffirmed, heaffirmed biblicalmarriageasoneman andonewoman. He said aman shall leavehis...
おっと、待ってください。彼は聖書的な結婚を「一人の男と一人の女」として肯定しました。彼は「男はその…」と言いました。
in the New Testament?
新約聖書でですか?
In Matthew, thatis not correct.I believe in the New Testament, in the New Testament. Well,Romansis also in the New Testament. Secondly, inRomans 1, the ApostlePaultalks negatively about homosexuality explicitly. Also, homosexualityis repeated in thebook of Titus and in thebook ofJudeas notbeing favorableas the destruction of Sodom and Gomorrah. Not eventalking about the Old Testament verses.
マタイ伝です。それは違います。新約聖書で、と信じています。ローマ人への手紙も新約聖書です。第二に、ローマ人への手紙1章で、使徒パウロは明確に同性愛について否定的に語っています。また、テトスへの手紙やユダの手紙でも、ソドムとゴモラの滅亡と同様に、同性愛は好ましくないものとして繰り返されています。旧約聖書の聖句は抜きにしてもです。
There are three types of the 613 Leviticallaws. Andyou,you know, of course, inyour own way,cherry-picked some of them. We do notlive under the ceremonial, we do notlive under the ritual, and but we dolive under the moral. There'sonly10 of the moral that weas Christiansbelieve we're bound to, somebelievenine, which of courseis the Decalogue. And so none of those thatyou mentioned weas Christiansbelieve that welive under. However, we dolookat what Christ articulatedas the biblical standard ofmarriage. And we can alsolook to church tradition for thisas well. And the churchhas had a tradition for wellover 2,000 years, even myselfas a Protestant acknowledges, that traditionismarriagebetweenoneman andonewoman.
レビ記には613の律法に3つの種類があります。そして、あなたはもちろんご自身のやり方で、その一部をつまみ食いしました。私たちは儀式律法の下には生きていません。祭司律法の下にも生きていません。しかし、道徳律法の下には生きています。キリスト教徒として私たちが従うべき道徳律法は10個だけです。9個だと信じる人もいますが、それがもちろん十戒です。ですから、あなたが挙げたもののどれ一つとして、私たちキリスト教徒が従うべきものはありません。しかし、私たちはキリストが結婚の聖書的基準として明確に述べたことには注目します。そして、これについては教会の伝統にも目を向けることができます。プロテスタントである私自身でさえ認めますが、教会には2000年以上にわたる伝統があり、その伝統とは、結婚は一人の男と一人の女の間のものであるということです。
articulate (v): (考えなどを)はっきりと述べる、明確に表現する。
tradition (n):伝統、しきたり。ここでは特に教会の教義や慣習の継承を指します。
Okay, but I work, okay. Say we putaside the Old Testament fornow. We'll put thataside and the inconsistencies there andlook purelyat the New Testament followingyour rationale, okay?Now, whenyou say that Christ lays specifically and the New Testamentstates specifically thatman shall not sleep withman, I'dlike topointout a linguisticerroron thatpoint.
なるほど。では、一旦旧約聖書は脇に置きましょう。それとそこにある矛盾は置いておいて、あなたの論理に従って純粋に新約聖書だけを見ましょう。いいですか?さて、あなたがキリストが具体的に、そして新約聖書が具体的に「男は男と寝てはならない」と述べていると言うとき、その点における言語的な誤りを指摘したいと思います。
Idid not say that. I said the biblicalmarriagewasaffirmed and thenRomans 1didtalk negatively about theaction of homosexuality.
私はそうは言っていません。聖書的な結婚が肯定されたと言ったのです。そしてローマ人への手紙1章が同性愛という行為について否定的に語っていると。