はてなキーワード:ピタゴラスとは
アイツが書いた作品の中で今読んで「おっ、これ面白いジャン?」ってなるのある?
もうとっくに使い古されたっていうか当たり前過ぎてどうでもよくない?
「ピタゴラスは三平方の定理を証明したんだぞ!!」とか言われても「え?小学校で習った奴?中学校?中学受験だっけ?」ぐらいにしか思わんのと同じやな。
その中でも「われはロボット」は今読むとマジで出涸らしすぎる。
まだ消費されきってないのは「イケメンアンドロイドを近所住民に見せつけてマウントを取る」ぐらいかな。
モブキャラが「へへーんウチのメイドロボは美人なんだぜ~~~」でスネ夫ムーブすることはあっても、それがちょっとした小ネタ以上で扱われること少ねえからな。
恋人をトロフィー代わりにする描写が漫画の中廃れてるのと、浮気でモテアピールがダサイってのと、奴隷と恋人ごっこがキモいって風潮が合わさって負け組ムーブ三重苦になってるからなんだけど。
まあ要するに時代の風がよっぽど逆方向に吹いてない限りはアシモフのアイディアなんて今更振り返っても「前に見た」ばっかってことだね。
そんな人は粟や稗でも食って「昔の人はこうして暮らしてたんだ!!これが由緒正しいんだ!!濡れ手に粟って口にするくせに粟食ったことない奴ってありえないよね~~~~」とか抜かしてろよ。
アホくせー
https://x.com/mori_arch_econo/status/1916305363441451325
https://x.com/colecameron/status/1915653555471737154
の転載
東京在住ニュージーランド人、コール・キャメロン氏による大阪万博への酷評。
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筋金入りの万博オタクの俺は、これまでも世界中を駆け巡って、人間の創意工夫と文化を鮮やかに表現する様を目撃してきた。
上海万博2010の都会的なスペクタクル、麗水万博2012の海辺の魅力、ミラノ万博2015の活気あふれる雰囲気コロナ禍のパンデミックのせいでドバイ2020行かなかったんだけどな。
2025年の大阪万博は、俺にとっての究極のラスボス。キッチリしてる国、おもてなしの国。日本が誇るハイテクを駆使した素晴らしい万博になってるもんだと思ってたんだ。何ヶ月も前からXでもガンガン大騒ぎし、1年前からチケットを確保。俺のオタク魂は、期待度がどんどん高まっていたよ。
ところがだ、2025年の大阪万博は、すべての可能性を全否定、無駄のお手本、マジイライラするものだわ。退屈でくっそつまんねえ、俺がいままで万博に期待してたもの、そのすべてを裏切るものだよ。
まあ、私の愚痴を聞いてくれよ。
(1)デジタル全滅万博:ダイヤルアップ時代に逆戻りしたような世界
新幹線とロボット専門家はじめ技術があるはずの日本が、なぜか2005年の頃のような(20年前のような)、時代遅れのデジタル体験をさせられたぜ。俺の話を聞いてくれ、万博会場内じゃ、4つの別々のアプリを使わなきゃならない。しかも、どれもバグだらけで使えたもんじゃねえ。
メインアプリは、見た目だけのただのウェブページで、ブラウザの「戻る」ボタンすら付いてなかった。万死にあたるとはこのことだ!なんでまた、画面をスクロールしていくのは、まるで泥沼の中を進むようだった。俺は技術者として素人じゃないけど、これは悪夢だった。ウォークマンを発明したような国が、どうしてこんなにも基本的なアプリデザインをずさんにしてしまうか?不思議でならんよ。
俺は計画を立てたい人間なんだよ。旅程を組むのは本当に楽しい。過去の万博でも、そのおかげで完璧なスケジュールを簡単に組むことができてた。それがだ、2025年の大阪万博はどうだったか?というと、まさに、わけのわからん重労働。万博の予約サイトは、あらゆる人にとって迷路。すべての情報をごちゃ混ぜにした迷宮、まるでデジタル版ピタゴラススイッチだよ。わけもなく無限に複雑だった。
先週、まるでルーブ・ゴールドバーグ・マシン(ピタゴラスイッチのことだよ)と格闘しているようだとツイートしました。完全にお手上げになった俺は、もうこれまでの万博の知識に頼って、現地で臨機応変に対応することにしました。これがまさに、俺としたことが初心者並のミスだった。
上海や麗水、ミラノでは、回る順番を決めて戦略的に列に並べば息を呑むほど美しいパビリオンに入場できたんだけど、大阪万博のシステムではオンライン予約そのものが最初の難関。
ステップ 3: そして「クールな」パビリオン、コンサート、あるいはまともな食事の抽選に応募。
ところが、ここで抽選だ! 話題のパビリオンや展示の予約枠を追いかけて、何時間もアプリを延々と更新するはめになる。パビリオン予約の「空いている」はずの枠は、全部クリックした瞬間に消えてしまう。
しゃあないと、コモンズ館に行くと、予約はいらんけど二流のブースに閉じ込められることになった。それは、もう、まったく魅力のないどころか、見せかけの、見本市や展示会のただのブースだった。それなりに待てば入場できた、ミラノ万博の見事な「生命の樹」や、飛び入り参加可能だった上海万博の「中国館」と比べればわかる。
大阪万博の予約サイトの仕組みは、万博会場に到着する前に、みんなの心を折るように設計されているんだよ。まったく。
大阪湾の人工島、夢洲に足を踏み入れた俺は、「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマにした未来的なワンダーランドを想像していたんだ。ところがだ、その夢はもろくも崩れ去ったよ。実際には、ただただ過密状態、それが全てという、なんの魂もこもっていない企業展示会のようなものに遭遇してしまった。
会場レイアウトはごちゃっとしたまま、パビリオンはあちこちに散在して、案内の看板はまばらにしかない。至る所に人の動きをせき止めるボトルネックがあったぞ。コモンズ館でのぞいたほとんどのブースは、流行のキャッチフレーズや標語と、パワーポイントのスライドが映し出されるだけで、いいかげんなものだった。万博における文化の深みはどこへ行ったのか?そんなものは全く感じられなかった。
レストランは事前予約をしていないと入れないし、食事は、ぼったくりだった。道頓堀のフードホールで800円で買えるようなスモールピザセットに2000円も払ってしまったよ。
俺が一番悲しいのは、日本は本当はその期待と責任に答えるることができたはずななのに、ということだ。新幹線、スタジオジブリ、そして寿司を運ぶロボットの国、日本は世界へそのラブリーな魅力を発信するべきだった。
ところが、2025年万博はクソ官僚主義といいかげんさで、なにもかも頓挫してしまった。2010年の上海万博は世界的なビジョンで人々を魅了し、2012年の麗水万博は海洋イノベーションで人々を魅了した。2015年のミラノ万博は、食と文化を華やかに融合させた。それに対し、大阪万博は、最悪の欠点ばかりが目立ち、その魅力が消え失せてしまった。
(5)最終判定:とりあえず今持ってる円を使うな
2025年の大阪万博、俺は本当にそれに夢中になりたかったよ。でも、ひどいデジタルカオス、チケット予約地獄、そして退屈なアトラクションの数々を考えると、それは無理だな、断固拒否。
もう万博は諦めて、大阪の真のスター、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンへ行こうぜ。あんなに楽しい体験をするために(万博予約のような)兵站の博士号並の知識も準備も必要ない。
むしろ東京に来た方がいい。東京は毎日が巨大な万博みたいなもんだ。
最初に簡単に自己紹介しておくと、増田は大学エスカレーターの高校入ったおかげで高校時代は毎回数学で赤点取ってたくらいには数学ができない子で、三角関数とか聞いただけで逃げ出したくなるような子でした。
たまにブコメで三角関数は日常の色んなところで使われてるよ!っていわれてもほえーはなほじーってくらいに意味がわかってなかった子です。
最近プログラミングとかIoTみたいのに興味が出てきて、色々勉強してロボットアームの組み込みプログラミングみたいの始めたの。最初はコントローラーで動かすだけのごく簡単なやつだったんだけど、そのうち指定した座標に勝手に移動してくれたら楽なのになーと思ってちょっと調べてみたら、なんか三角関数使ったら順運動学とか逆運動学ってのでできるらしいということがわかったんだよね。
それで今まで全く手を付けてなかった三角関数にも興味が湧いて調べてみたんだよ。最初はsin、cos、tanどころか三平方の定理からぐらいな感じで。そこから単位円だったり円周角の定理や正弦定理、余弦定理、加法定理とか色々見てったんだよね。ベクトルも必要だから内積とか外積もなんだよそれって思いながら見てったんだよ。
そしたらさ。なんかすごいの。最初は円周角の定理とか見て全部同じ角度になるの意味わかんないきもいとか思ってたのに証明みたらまじで全部同じ角度になるっぽいし、円周の座標は全部sinとcosで表せるし、ロボットアームの長さ測ったらばっちり角度でるし、そっから三角関数とベクトル使うとアームの長さと角度で先端の座標出せちゃうし、アームの長さと先端の座標があったらアームの角度だせちゃうの!
sin、cos、tanって意味わかんなかったけど、興味持って使い出したらこれだけで世の中の空間全部表現できちゃうんじゃねって思えるくらいなんかすごいやつだった。ただの三角形の三辺の比率なのにすごすぎない?さらにすごいのはピタゴラスのおっさん。色んな定理の証明に何度も出てくるの。こすりすぎだろってくらい何度も出てくるの。2000年も前のおっさんなのに超強い。
たとえば高校物理で音波を伝達する空気の密度を導出する際に微分が出てくる。
私はここで引っかかってしまう。
微分が使えるということはここでは密度の(関係)式がどんなスケールでも保存されるという前提があるはずだ。
微分というか極限はそういうフラクタル的な(稠密性の方がいいか?)性質を要請するものだ。
しかし空気はひとつながりの、一枚岩のような物体ではなく最小単位を持った物体であり、また一定スケール以下では量子的な世界の存在になってしまう。
だとするとあらゆるスケールで密度の式が同じとは無条件に言えるものではなく、証明を要する事実なのではないか。
端的に言えば、あるスケール以下では、たとえばその空気の分子と分子の間隔の平均を圧倒的に下回るスケールでは、質量÷体積の、質量の方が0になるのが当然という状況になっているのではないか。
ようするにある地点を中心として空気を囲った体積による平均密度の、その体積を連続的に小さくしていったときの変化のグラフに、原点以外でも不連続な箇所が生じてしまっているのではないかということだ。
もし本当にそうなら微分は使えない。
この「何も説明しない(暗黙とは違う?)」という形での天下り式での解説に、学習者はどう対峙すればいいのか。
何も説明しなくても自分でその妥当性が納得できるでしょうという期待をされていると楽観的にとるべきか。
そういう高校物理レベルのことが最先端だった時代の当時の科学者なら、自力で「ここは確かに微分でも構わない」と納得していたかもしれない。
つまり現代のカリキュラムとして物理を学んでいる人と、それが最先端だったときの科学者としては、積み上げているものが違うのだ。
たとえ昔の人でも当時の科学者はそれまでも演繹的に増やしていった知見をバックボーンとして備えたうえで臨んでいるわけだから、そういう判断に関して、現代の高校生にはない、ある種のセンスがあると思う。
良い意味でも「悪い意味でも」カリキュラムとして再構築されたものを勉強している学生の知識の積み重ねというのはある意味で不自然な(時系列として変な)積み重なり方をしていて、当時の学者と同レベルの事実の真偽を判断するのは難しいことがあると思う。
天下り式はよくないと思う
こういった問題は他の事にも言えて、ピタゴラスの定理に対する習いたてで証明を追わさたが「まあ別に難しくはなかった」とか言ってるような中学生と、当時のピタゴラス本人(正確にはピタゴラス学派の誰か)とでは、その定理に対する理解の深さが全然違うだろうとか思う。
0の概念すらないものの自然な学問的研鑽の帰結として自力でその定理にたどり着いた者と、再構築されたカリキュラムで小学生のころから近道を走らされその定理を知ったものとでは、やはりバックボーンの質の高さというものが違うから。
数学者エドワード・フレンケルは、数学と心理学、特にカール・ユングの分析心理学との統合について語っている。ユングは、人間の無意識が「集合的無意識」として共通の心理的基盤を持つと考え、その中に「元型(アーキタイプ)」と呼ばれる構造が存在するとした。フレンケルは、数学的概念もまた元型の一部であり、それらは人間の無意識の中に存在すると提唱する。
彼は、数学が物理世界を研究する物理学とは異なり、人間の内的世界を研究する学問であると考える。例えば、「数」はユングが提唱した「秩序の元型」から生まれたものであり、数学的な概念はすべて集合的無意識の中に起源を持つと述べている。
また、数学的元型はすべての人間が同じように認識する点で他の心理的元型と異なり、その普遍性が数学の客観性を保証していると主張する。彼は「直線」や「平面」といった数学的概念を例に取り、それらが現実世界には存在しないにもかかわらず、人間が容易に想像できるのは、集合的無意識の中に元型として存在するからだと説明する。
さらに、数学的概念を理解することは、それらの元型を「統合」することと同義であり、例えば「地球が平らである」という誤解は「平面の元型」に囚われた結果であると述べる。ピタゴラスらがこの元型を意識的に理解し、地球の球体性を認識したことが、数学的知識の進歩の一例であると指摘している。
最後に、アインシュタイン、ポアンカレ、ラマヌジャンなどの数学者が数学的発見における無意識の役割を強調していたことを紹介し、数学的直感が無意識とのつながりから生まれる可能性を示唆している。
フレンケルは、数学を通じて人間の無意識を探求し、より深い現実の理解に到達できると考えており、今後の議論として非ユークリッド幾何学や東洋思想との関連性についても言及すると述べている。
街コンに行くと、いつも何を話すべきか迷う。
人が集まる場だし、みんな軽い話題で盛り上がってるんだろうけど、俺はいつも違う。
女性たちは不思議そうな顔をしていたけど、そんなのはお構いなしだ。
だって、これは美の根本に関わる話なんだから。誰でも分かるだろう。いや、分からなきゃおかしい。
「たとえば、ピタゴラスの定理。a² + b² = c² なんて、中学生でも知ってるでしょ?でも、あの定理が持つ幾何学的な美しさ、理解してます?ただの数式じゃないんですよ、これは宇宙の秩序そのものを象徴してるんです。直角三角形の辺の比が、どうしてあんなに完璧に収まるのか、その背後にあるシンメトリーとバランス、これはただの計算じゃ説明できないんです。幾何学は、自然界に隠された美を可視化する手段なんです」
女性たちは相変わらずポカンとしていたが、そんなことは全く気にしない。
「それに、円と黄金比ですよ。黄金比の美しさって聞いたことありますよね? φ(ファイ)という無理数、1:1.618...っていうあの比率は、自然界でも至るところに現れるんです。貝殻の螺旋や、ヒマワリの種の配置、果てはギリシャのパルテノン神殿まで。これらすべてが、幾何学的な美しさの証明なんですよ。建築家や芸術家たちは、何千年も前からこの黄金比に魅せられてきたんです。それが美の基準なんです。たとえば、あなたが好きな絵画も、おそらく黄金比に従って構図が決まっているはずですよ」
ここまで来ると、女性の一人が「へぇ〜、すごいですね…」と、曖昧な笑みを浮かべているのが目に入る。
だが、その目に理解の色はない。いや、むしろ遠ざかっているかもしれない。
それでも俺は一歩も引かない。だって、幾何学は俺の人生そのものなのだから。
「次はもっと複雑な話をしましょうか?ユークリッドの『原論』はご存知ですか?あれは古代ギリシャで書かれた数学書で、数千年の間、数学の基礎として使われてきたんです。『原論』の最初の定義は、点は幅を持たないもの、線は幅を持たず長さを持つもの。これをもとに、無限に広がる空間の中で幾何学的な図形を描くんです。そして、その空間の中に、あらゆる美が存在するんです。アポロニウスの円錐曲線における楕円の美しさなんか、誰でも感動するはずです」
彼女たちは完全に引いていたが、そんなことはもう気にしない。
「俺にとって幾何学は、ただの学問じゃないんです。これは美を追求する哲学であり、生き方なんです。人々がモナ・リザやアフロディーテ像に美を見出すように、俺はピタゴラスやユークリッドにその美を見出しているんです」
幾何学の美しさを語り終えた頃、ようやくふと我に返り、周囲の反応を確認してみた。
皆、頬に作り笑いを浮かべているが、目は明らかに遠く、何か別の世界に意識を飛ばしているかのようだった。
ひとりはスマホをチラッと確認し、もうひとりは、手元のグラスに注がれた水をいじっている。
こちらを見ている女性もいたが、彼女の表情はどう見ても「本当にこの人何を言っているの?」という困惑そのものだった。
「ええ、そうですね……幾何学って、すごいですね……」と、一人がようやく口を開いたが、その声には熱意も、理解も、ましてや感銘など微塵も感じられない。
表面的に場を繋ごうとするその言葉は、俺が夢中で語っていた美の真髄が、まるで真空の中に吸い込まれたかのように、何も響いていないのをはっきりと感じさせた。
もう一人が、さらに微妙な笑みを浮かべ、「あ、そうなんですか……それで、その定理って、なんでしたっけ……?」と、曖昧に質問してくる。
しかし、それは好奇心ではなく、ただ適当に話を引き延ばすための、無理やりな興味に過ぎないことは明白だった。
俺はその瞬間、すべてを理解した。
ああ、やっぱりこうなるのか、と。幾何学的美しさを解くことで、彼女たちの心を動かすことはできないんだと。
俺の語るピタゴラスの定理も、黄金比の神秘も、彼女たちにとってはただの退屈な講義に過ぎない。
彼女たちは、たぶん映画の話や、食べ物、旅行の話を楽しみにしていたのだろう。それが街コンで求められる「会話」なのだ。
「まあ、こういう話、ちょっと難しいですかね……」と自分から話を切り上げるが、内心、虚しさと諦念がこみ上げてくる。
俺は分かっているんだ。結局、幾何学の美を理解できる人間は、ここにはいない。
諦めが胸に染み渡り、俺はふと目の前のグラスを手に取る。
冷たい水が喉を通り、ほんの一瞬だけ現実感を取り戻すが、同時に心の中でつぶやいた。
俺は幾何学を愛している。それだけで十分だ。理解されなくてもいい。これが俺の誇りなのだから。
女性たちがどれだけ俺に興味を持ったかなんて、もうどうでもよかった。
最終的に、女性たちがどれだけ幾何学に興味を持ったかは知らない。
だが、俺の中では確信がある。
幾何学こそが、真の美であり、それを理解しない者は本当の美を知らないのだと。
彼女たちには理解できない美が、俺の中にある。それだけで、俺は満たされているんだ。
Permalink |記事への反応(16) | 13:10
著書を残さなかったが、弟子や信者がその思想を書き留めて後世に伝えた思想家の例として、以下のような人物が挙げられます。
ソクラテスは著作を残さず、対話を通じて思想を伝えました。彼の教えは弟子のプラトンによって書き留められ、プラトンの対話篇を通じて後世に伝えられています。
ギリシアの数学者であり哲学者であるピタゴラスも自身で著書を残さず、彼の教えは弟子たちによって伝えられました。彼の思想はピタゴラス教団によって広められました。
仏教の開祖である釈迦は自身で著書を残さず、彼の教えは弟子たちによってまとめられ、仏典(経典)として伝えられました。
孔子自身は書物を残していませんが、彼の言行録である『論語』は弟子たちによってまとめられました。
老子は道家の思想家で、彼の教えは弟子たちによってまとめられ、『道徳経』として伝えられました。ただし、老子自身が書いた可能性も否定されていません。
イエス自身は何も書き残していませんが、彼の教えや生涯については弟子たちによって書かれた新約聖書に記録されています。
イスラム教の創始者であるムハンマドは自ら書を残さず、彼の教えは弟子たちによってまとめられ、『クルアーン』として伝えられました。
これらの人物は直接著作を残さず、弟子や信者が彼らの教えをまとめ、後世に伝えました。そのため、彼らの思想は間接的に伝えられています。
量子力学における観測者問題についてはよく知られるように、人間の主観性が量子実験の結果に重要な役割を果たしている。
ドイツの物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクによる有名な引用がある。
「私たちが観察するのは現実そのものではなく、私たちの質問の方法にさらされた現実です。」
例えば有名なダブルスリット実験では、スリットの後ろに検出器を置かなければ電子は波として現れるが、検出器を置くと粒子として表示される。
したがって実験プロトコルの選択は、観察する行動パターンに影響する。これにより、一人称視点が物理学の不可欠な部分になる。
さて、数学にも一人称視点の余地はあるか。一見すると、答えは「いいえ」のように見える。
ヒルベルトが言ったように、数学は「信頼性と真実の模範」のようである。
それはすべての科学の中で最も客観的であり、数学者は数学的真理の確実性と時代を超越した性質に誇りを持っている。
ピタゴラスが生きていなかったら、他の誰かが同じ定理を発見しただろう。
さらに定理は、発見時と同じように、今日の誰にとっても同じことを意味し、文化、育成、宗教、性別、肌の色に関係なく、今から2,500年後にすべての人に同じ意味があると言える。
さて、ピタゴラスの定理は、平面上のユークリッド幾何学の枠組みに保持される直角三角形に関する数学的声明である。しかし、ピタゴラスの定理は、非ユークリッド幾何学の枠組みでは真実ではない。
何が起こっているのか?
この質問に答えるには、数学的定理を証明することの意味をより詳しく調べる必要がある。
定理は真空中には存在しない。数学者が正式なシステムと呼ぶものに存在する。正式なシステムには、独自の正式な言語が付属している。
つまり、アルファベットと単語、文法は、意味があると考えられる文章を構築することを可能にする。
その言語には、「点」や「線」などの単語と、「点pは線Lに属する」などの文章が含まれる。
次に正式なシステムのすべての文のうち、有効または真実であると規定した文を区別する。これらは定理である。
それらは2つのステップで構築されれる。まず、最初の定理、証明なしで有効であると宣言する定理を選択する必要がある。これらは公理と呼ばれる。
公理からの演繹は、すべての数学がコンピュータで実行可能な印象を生む。しかし、その印象は間違っている。
公理が選択されると、正式なシステムで定理を構成するものに曖昧さがないのは事実である。
これは実際にコンピュータでプログラムできる客観的な部分である。
例えば平面のユークリッド幾何学と球の非ユークリッド幾何学は、5つの公理のうちの1つだけで異なる。他の4つは同じである。
しかしこの1つの公理(有名な「ユークリッドの5番目の仮定」)はすべてを変える。
ユークリッド幾何学の定理は、非ユークリッド幾何学の定理ではなく、その逆も同様。
ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の場合、答えは明確である。これは、単に説明したいものに対応している。
数学は広大であり、どのように公理を選択するかという問題は、数学の基礎に深く行くと、はるかに感動的になる。
すべての数学的オブジェクトは、いくつかの追加構造を備えたセットと呼ばれるものであるということだ。
たとえば自然数のセット1,2,3,4,...は加算と乗算の演算を備えている。
集合論は特定の正式なシステムによって記述される。Ernst ZermeloとAbraham Fraenkelと、選択の公理と呼ばれる公理の1つに敬意を表して、ZFCと呼ばれる。
今日の数学者は、すべての数学を支える集合論の正式なシステムとしてZFCを受け入れている。
彼らは、無限の公理と呼ばれるZFCの公理の1つを含めることを拒否する。
言い換えれば、有限主義者の正式なシステムは、無限の公理のないZFCである。
無限大の公理は、自然数の集合1,2,3,4,...が存在すると述べている。すべての自然数に対してより大きな数があるという声明(「ポテンシャル無限大」と呼ばれる)よりもはるかに強い声明である。
有限主義者は、自然数のリストは決して終わらないことに同意するが、いつでも自然数の集合の有限の部分集合のみを考慮することに限定する。
彼らは一度にまとめたすべての自然数の合計が実在することを受け入れることを拒否する。
この公理を取り除くと、有限主義者が証明できる定理はかなり少なくなる。
正式なシステムを判断し、どちらを選択するかを決定することができるいくつかの客観的な基準...なんてものはない。
「時間と空間を超越した何かを象徴しているので無限大が大好きだ」と言えば無限大の公理を受け入れることができる。
ゲーデルの第二不完全性定理は、十分に洗練された正式なシステム(ZFC等)は、自身の一貫性を証明することができないと述べている。
数学者は、今日のすべての数学の基礎であるZFCが確固たる基盤にあるかどうかを実際に知らない。
そしておそらく、決して知ることはない。
なぜなら、ゲーデルの第二の不完全性定理によって、より多くの公理を追加することによってZFCから得られた「より大きな」正式なシステムにおけるZFCの一貫性を証明することしかできなかったから。
一貫性を証明する唯一の方法は、さらに大きな正式なシステムを作成することだけだ。
数学を行うためにどの公理を選択すべきかについて、実際には客観的な基準がないことを示唆している。
要するに、数学者が主観的に選んでいるというわけである。自由意志に任せて。
公理のための主観的な基準というのは、より豊かで、より多様で、より実りある数学に導くものを選ぶという人は多い。
これは自然主義と呼ぶ哲学者ペネロペ・マディが提唱する立場に近い。
特定の公理のセットを選択する行為は、量子物理学の特定の実験を設定する行為に似ている。
それには固有の選択肢があり、観察者を絵に導く。
数の概念は文化や歴史によって変化してきた。古代ギリシアでは、1は数ではなく単位とされていたが、現代では自然数の集合 N の最小の要素とされている。
数の概念は哲学的な問題を引き起こすことがある。無限や超準数といった数は直観に反する性質を持つ。例えば、無限は自分自身に加えても変わらないという性質を持つ(∞+∞=∞)。超準数もまた通常の数の演算法則が成り立たない(ω+1≠1+ω)。
数は実在するのか、それとも人間の心の産物なのかという存在論的な問いもある。数の実在主義は、数は客観的な実在であり、人間の心とは独立して存在すると考える。数の構成主義は、数は人間の心の産物であり、人間の言語や思考に依存して存在すると考える。プラトニズムは、数はイデア界に存在する普遍的な実在であると考える。ピタゴラス主義は、数は万物の根源であると考える。論理主義は、数は論理的な体系から導き出されるものであると考える。
数の概念は数学の基礎付けにも関わる。数学の公理や定理は、数の概念に基づいて構築されているが、その正当性や完全性には限界がある。ゲーデルの不完全性定理は、数の概念を用いた形式体系には矛盾しないが証明できない命題が存在することを示した。
数の概念は、かつて客観的な現実を表すものと考えられていたが、量子論の発展により、数はより複雑で主観的なものである可能性が高まった。古典物理学では、数は物理量と一致していたが、量子論では、数は物理量とは別の抽象的な概念として使われている。
自我や自由意識と同様に、数の本質はまだ解明されていない。しかし、量子コンピューターは数の概念を利用して作られており、数は物理システムを表現する有効なツールであることは、どのレイヤー、スケールにおいても明らかである。
数の概念は私たちの知識や理解を拡張するものであり、同時に私たちの疑問や不確実性を増やすものでもある。
数の概念は、私たちの世界に対する見方を変える力を持っている。(どやああああ)
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人生、宇宙、そしてすべての意味とは何か?「銀河ヒッチハイクガイド」では、答えは 42となっている。
科学の質問の範囲は、一部の分野では縮小し、他の分野では急増した。
宇宙がある意味数学的であるという考えは、少なくとも古代ギリシャのピタゴラス派にまで遡り、物理学者や哲学者の間で何世紀にもわたる議論を生み出してきた。
マックス・テグマークはこの考えを極限まで推し進め、宇宙は単に数学によって記述されるのではなく、数学自体であると主張している。
この議論の基礎は、人間とは独立した外部の物理的現実が存在するという仮定である。
これはそれほど物議を醸すものではない。物理学者の大多数はこの長年の考えを支持していると思うが、まだ議論されている。
形而上学的独我論者はそれをきっぱり拒否し、量子力学のいわゆるコペンハーゲン解釈の支持者は、観察のない現実は存在しないという理由でそれを拒否するかもしれない。
外部現実が存在すると仮定すると、物理理論はそれがどのように機能するかを説明することを目的としている。
一般相対性理論や量子力学など、最も成功した理論は、この現実の一部、たとえば重力や素粒子の挙動のみを説明している。
対照的に、理論物理学の聖杯はすべての理論、つまり現実の完全な記述である。
現実が人間とは独立して存在すると仮定する場合、記述が完全であるためには、人間の概念をまったく理解していない、人間以外の存在、つまりエイリアンやスーパーコンピューターなどに従って、現実が明確に定義されていなければならない。
言い換えれば、そのような記述は、「粒子」、「観察」、またはその他の英語の単語のような人間の負担を排除した形で表現可能でなければならない。
対照的に、教えられてきたすべての物理理論には 2つの要素がある。
それは数式と、その方程式が私たちが観察し直観的に理解しているものとどのように関連しているかを説明する言葉である。
理論の結果を導き出すとき、陽子、分子、星などの新しい概念を導入するが、それは便利だからである。
原理的には、このようなバゲッジがなくてもすべてを計算できる。
たとえば、十分に強力なスーパーコンピューターは、何が起こっているかを人間の言葉で解釈することなく、宇宙の状態が時間の経過とともにどのように進化するかを計算できる。
もしそうなら、外部現実における物体とそれらの間の関係のそのような記述は完全に抽象的でなければならず、あらゆる言葉や記号は何の事前の意味も持たない単なるラベルにならざるを得ない。
代わりに、これらのエンティティの唯一のプロパティは、エンティティ間の関係によって具体化されるものになる。
ここで数学が登場する。
現代数学は、純粋に抽象的な方法で定義できる構造の正式な研究である。つまり、数学的構造を発明するのではなく、それらを発見し、それらを記述するための表記法を発明するだけである。
人間から独立した外部の現実を信じるなら、テグマークが数学的宇宙仮説と呼ぶもの、つまり物理的現実は数学的構造であるということも信じなければならない。
そのオブジェクトは、十二面体よりも精巧で、おそらくカラビ・ヤウ多様体、テンソル束、ヒルベルト空間などの恐ろしい名前のオブジェクトよりも複雑である。
世界のすべてのものは、あなたも含めて純粋に数学的であるはずだ。
それが本当であれば、万物の理論は純粋に抽象的で数学的でなければならない。
理論がどのようなものになるかはまだわからないが、素粒子物理学と宇宙論は、これまでに行われたすべての測定が、少なくとも原理的には、数ページに収まり、わずか 32 個の未説明の数値定数を含む方程式で説明できる段階に達している。
したがって、すべての正しい理論は、Tシャツに書ける程度の方程式で説明できるほど単純であることが判明する可能性さえある。
しかし、数学的宇宙仮説が正しいかどうかを議論する前に、外部の物理的現実を見る 2つの方法を区別することができる。
1 つは、上空から風景を観察する鳥のような、数学的構造を研究する物理学者の外側の概要。
もう一つは、鳥によって見渡される風景の中に住むカエルのように、構造によって記述される世界に住む観察者の内面の視点。
これら 2つの視点を関連付ける際の 1つの問題は時間に関係する。
数学的構造は、定義上、空間と時間の外側に存在する抽象的で不変の存在である。
宇宙の歴史を映画に例えると、その構造は 1コマではなくDVD 全体に相当する。
したがって、鳥の視点から見ると、4次元時空内を移動する物体の軌跡は、スパゲッティのもつれに似ている。
カエルには一定の速度で動く何かが見えますが、鳥には調理されていないスパゲッティのまっすぐな束が見える。
カエルが地球の周りを回る月を見ると、鳥は絡み合った2本のスパゲッティが見える。
カエルにとって、世界はニュートンの運動と重力の法則によって記述される。
2つの視点を関連付ける際のさらなる微妙な点には、観察者がどのようにして純粋に数学的になることができるかを説明することが含まれる。
この例では、カエル自体は厚いパスタの束で構成されている必要がある。
その非常に複雑な構造は、おなじみの自己認識の感覚を引き起こす方法で情報を保存および処理する粒子に対応している。
まず、自然界ではさらなる数学的規則性がまだ発見されていないことが予測される。
ガリレオが数学的宇宙の考えを広めて以来、素粒子の小宇宙と初期宇宙の大宇宙における驚くべき数学的秩序を捉える素粒子物理学の標準モデルなど、その系譜に沿った発見が着実に進歩してきた。
長年にわたって多くのタイプの「多元世界」が提案されてきましたが、それらを 4つのレベルの階層に分類することが役立つ。
最初の 3つのレベルは、同じ数学的構造内の非通信の並行世界に対応します。レベル I は単に、光がまだ到達していない遠い領域を意味する。
レベル II は、介在する宇宙の宇宙論的膨張により永遠に到達できない領域をカバーする。
レベル III は「多世界」と呼ばれることが多く、特定の量子事象中に宇宙が「分裂」する可能性がある、量子力学のいわゆるヒルベルト空間の非通信部分が含まれる。
レベルIV は、根本的に異なる物理法則を持つ可能性がある、異なる数学的構造の並行世界を指す。
現在の最良の推定では、膨大な量の情報、おそらくGoogolビットを使用して、観測可能な宇宙に対するカエルの視点を、すべての星や砂粒の位置に至るまで完全に記述する。
ほとんどの物理学者は、これよりもはるかに単純で、Tシャツには収まらないとしても、本に収まる程度のビット数で特定できるすべての理論を望んでいる。
数学的宇宙仮説は、そのような単純な理論が多元宇宙を予測するに違いないことを示唆している。
なぜなら、この理論は定義上、現実の完全な記述であるからである。
宇宙を完全に特定するのに十分なビットが不足している場合、星や砂粒などの考えられるすべての組み合わせを記述しなければならない。
そのため、宇宙を記述する追加のビットは単にエンコードするだけである。
多世界の電話番号のように、私たちがどの宇宙にいるのか。このように、複数の宇宙を記述することは、単一の宇宙を記述するよりも簡単になる可能性がある。
極限まで突き詰めると、数学的宇宙仮説はレベルIV の多元宇宙を意味し、その中に他のすべてのレベルが含まれる。
宇宙である特定の数学的構造があり、その特性が物理法則に対応している場合、異なる特性を持つそれぞれの数学的構造は、異なる法則を持つ独自の宇宙である。
実際、数学的構造は「作成」されるものではなく、「どこか」に存在するものではなく、ただ存在するだけであるため、レベルIV の多元宇宙は必須である。
スティーヴン・ホーキング博士はかつてこう尋ねた。
「方程式に火を吹き込み、それらが記述できる宇宙を作り出すものは何でしょうか?」
数学的宇宙の場合、重要なのは数学的構造が宇宙を記述することではなく、それが宇宙であるということであるため、火を噴く必要はない。
レベルIV の多元宇宙の存在は、物理学者のジョン・ウィーラーが強調した混乱する疑問にも答える。
たとえ宇宙を完全に記述する方程式が見つかったとしても、なぜ他の方程式ではなく、これらの特定の方程式が使われるのか?
他の方程式が並行宇宙を支配しており、観察者をサポートできる数学的構造の分布を考慮すると、統計的に可能性が高いため、宇宙にはこれらの特定の方程式があるということだ。
並行世界が科学の範囲内なのか、それとも単なる推測に過ぎないのかを問うことは重要である。
並行宇宙はそれ自体が理論ではなく、特定の理論によってなされた予測である。
理論が反証可能であるためには、そのすべての予測を観察および検証できる必要はなく、少なくともそのうちの 1 つだけを検証できれば十分である。
たとえば、一般相対性理論は、重力レンズなど、私たちが観察できる多くのことを予測することに成功しているため、ブラックホールの内部構造など、私たちが観察できないことについての予測も真剣に受け止めている。
多くの並行宇宙に存在するのであれば、我々は典型的な宇宙にいると予想されるはずです。
ある量、たとえば、この量が定義されている多元宇宙の一部の典型的な観測者によって測定された暗黒エネルギー密度や空間の次元の確率分布を計算することに成功したと仮定する。
この分布により、我々自身の宇宙で測定された値が非常に非典型的なものになることが判明した場合、多宇宙、したがって数学的宇宙仮説が除外されることになる。
生命の要件を理解するまでにはまだ程遠いが、暗黒物質、暗黒エネルギー、ニュートリノに関して私たちの宇宙がどの程度典型的であるかを評価することで、多元宇宙の予測のテストを始めることができる。
なぜなら、これらの物質は銀河形成など、よりよく理解されているプロセスにのみ影響を与えるからである。
これらの物質の存在量は、多元宇宙のランダムな銀河から測定されるものとかなり典型的なものであると測定されている。
しかし、より正確な計算と測定では、そのような多元宇宙は依然として除外される可能性がある。
おそらく最も説得力のある反対意見は、直感に反して不安を感じるということである。
数学的宇宙仮説が真実であれば、科学にとって素晴らしいニュースであり、物理学と数学の洗練された統合により、深い現実を理解できるようになる可能性がある。
実際、多元宇宙をもつ数学的宇宙は、期待できるすべての理論の中で最良のものであるかもしれない。
なぜなら、規則性を明らかにし、定量的な予測を行うという科学的探求から現実のいかなる側面も立ち入れないことを意味するからである。
どの特定の数式が現実のすべてを記述するのかという問題は見当違いであるとして放棄し、その代わりに、鳥の視点からカエルの宇宙観、つまり観察をどのように計算するかを問うことになる。
それは、宇宙の真の構造を明らかにしたかどうかを決定し、数学的宇宙のどの隅が私たちの故郷であるかを理解するのに役立つ。
ケーブルテレビSTBでは見られない場合が多いようなのでBSパススルーとか
地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報要確認
・03 じゃのめ(でお迎えうれしいな
・04ハナコ
・05 15(秒以内
・07長屋晴子 ながやはるこ
・08 牛
・09 [近似値]23645
・13呂布カルマ りょふかるま
・14ドップラー効果
・15 午後8時40分
・16 [3択]サックス
・18 ポン・ヌフ
・21バレーボール
・28 Vaundy
・29 『文藝春秋』
・30テントウムシ
・31 [3択]46
・33e [2択]ピタゴラス