
はてなキーワード:ビデオテープとは
いや、意外とよくできてたし普通に怖いところもあった71点。
(おそらく)低予算ホラー映画ということで肩ひじ張らずに見られたという部分に若干の加点があるのは認める
実は「事故物件怖い間取り」「事故物件ゾク怖い間取り」と実は同じ原作であるというワンダー。
キングやディックみたいな「同じ作品いろいろ使いまわされる系作家」になれる才能ある。
それぞれ同じ家を舞台にした3部構成になっており、それぞれ別の怖さがあってよい。
第一話は古民家的な家に泊りに来た姉妹の話が妹視点のやや画像が荒いPOV(主観)方式で描かれる。
なんかじめ~っと不気味な感じが続き、姉が寝たと思ってドッキリしかけようとふすま空けて枕投げたら全然知らん女が寝てて襲い掛かってくるシーンとか嫌すぎてヒョエ~~ってなった。
心霊動画系ってこういうのでいいんだよおじさん「こういうのでいいんだよ」
その後、姉がおかしくなっちゃうシーンの演技もキモいとやりすぎの丁度いいところとってて、ディレクション偉いわぁ~ってなった。
第二話は彼女と結婚しようと思って家買ったけど不妊が発覚して別れた男がAIに元カノの名前つけたら頭おかしくなる話。
実のところAI要素は「対話型AIってなんかこわくね?」程度の解像度で物語に直接関わってくるわけではない。導入程度なのでそこはちょこっと残念だったかな。
元カノAIと話すことで現実と妄想の区別がつかなくなった男が、家族を錬成しその家で過去に起きた惨劇をなぞりつつその家庭を破壊していくさまが描かれる。たぶん、この男本当に子供が欲しかったんだろうし、たぶん別れた理由もクソほどモラハラったからなんだろうな、嫌な男だな。と思えて、これは一種のヒトコワ系としてよくできてるなと感じた。
第三話は最近のベタテンプレである「心霊系Youtuberが心霊物件に挑んだ映像が発掘された」というていで、例の家で何があったのかを明かすある種の解決編的な話になっている。
こいつキモいみなみかわみたいな顔してるなと思ったらキモいみなみかわだった!という衝撃がありつつ、マジで売れてないYoutuberみたいな顔したYoutuberが不気味な家の不気味な現象に挑むんだけど、その中でガンガン霊現象が起きるわ、どんどん人は死ぬわ、死んだと思ったら霊になって帰ってくるわ、結局怖いのは人だったよっていう話になるわ、こっくりさん、裏拍手といったホラーミームてんこもりでてんやわんやである。サービス精神が旺盛すぎるだろ。
なぜ彼はその取材のデータを廃棄せずに袋詰めして埋めたのだろうか。コレガワカラナイ。
総括すると3話とも「心霊ビデオテープものの映画化」という天井が低い作品の中では一定以上のクオリティが担保されており、演技の質も高く、「心霊ビデオテープもの」の観客が見たいと思っているものを完璧に提供できている、という点において高得点を付けざるを得ない。
吉野家に牛丼食いに行ったら吉野家の牛丼が出てきたときのような満足感があった。
元々Dオタを名乗るほどの者ではなかったけど、小さい頃からたくさんのDのビデオテープと共に成長してきた。今までも連日通うってレベルではないが、毎年数回は遊びに行っててあの世界が大好きだった。
でも、特定のキャラのグッズに押し寄せる人々や何ヶ月間もずっとハロウィンに熱狂する人たちを見てて、もう自分は顧客層じゃなくなってるのかなと思った。
幼いながらに、あの空間では従業員とキャラクターたちが「キャスト」であり「ホスト」であって、お客たちが「ゲスト」なんだと思ってた。同時に、あの場所での主人公は「子どもたちとキャラクター」であり、その他の大人たちはその世界を守るためのかっこいいモブになる場所だと思ってた。たぶん、昔にちゃんと両親から主人公をさせてもらったから、いつか自分もかっこいいモブとしてパークを楽しみたいと思ってたはずだった。
でも、コロナがあって少子化もどんどん進んで、あそこはもう「いつまでも主人公でいたい大人」にたくさんお金を落としてもらわないと、成立しない場所になってるのかもしれない。
こんなことを書いておいてなんだけど、ルールを守って楽しくインパしている方々になんの落ち度もない。なんなら経営陣を攻めたい訳でもない。ぬいぐるみを山ほど持っていようが、パレードルートに何時間座っていようが、ハロウィンにツイステの仮装をしていようが、誰に責められる所以もない。不快にさせたら本当にごめん。老害の化け物になっている自覚はあるから、匿名のここでしか吐き出せない。好きにぶっ叩いてほしい。
自分でも何が言いたかよく分からないまま書いてる。大人になってもDを存分に楽しんで、大好きなままでいていいって幸せなことのはずなのに。今でも大好きなはずなのに、またパークに行きたいと思えなくなってしまった自分がただただ愚かで悲しい。
開幕1秒から
ナレーター「2020年10月、一本の動画がYoutubeにアップされた」
ナレーター「翌年には長編小説として書籍化。170万部を超えるベストセラーとなった」
ナレーター「今からご覧いただくのは謎に包まれた『変な家』に多くの関係者が」
ナレーター「それぞれの解釈と思いを載せて作られた全く新しい『変な家』である」
雨穴「私の描いた本は全4章構成でした映画は例えるなら第5章だと思います」
雨穴「小説と映画、二つ合わせてはじめて『変な家』が完成します」
ドゥーン(効果音)
いやこれ、これさ、映画『変な家』公開記念特別映像かなんかとして
雨穴とか配給会社の公式Youtubeチャンネルかなんかにアップする映像だろ
今からホラー映画見ますよってタイミングでその映画作る経緯の説明する?
これがモキュメンタリー系の映画で「冒頭の説明からして一つの仕掛け」とか
「とある凶悪犯罪の犯人が撮影したとされるビデオテープが発見された」みたいな
単に「変な家って動画がヒットして~書籍化もして~それを基に作ったんです~」って説明、映画のド冒頭にする?
マジでこのパート本編内のあらゆる事象に一切関連してないからね
これ本当に要る?
もしかしてアマプラオリジナル要素で劇場ではこれなかったとかなんかな?
アマプラって本編再生押すと別の映画のCMがはいることがあるじゃん
俺最初それだと思ったもん
Permalink |記事への反応(18) | 10:15
普通におもんなかった。
ホラーに関してはYoutubeにはびこる映画ギーク達とは趣味が合わんなぁと思うことが多い。
なんか絶賛されてた「あのコはだぁれ?」もクッソおもんなかったし。
おそらく「おもんない」のほうが「おもろい」よりも共通項が多いんだろうな。
「ブス」は大概一致するけど「かわいい」はあんま一致しない、みたいな。
たぶん映画ギークは映画通であらせられるからおフランス映画みたいな
「何が言いたいんかわからん割り切れない作品」がお好きであらせられるんだろうなとは思う。
あ、「あのコはだぁれ?」はそんな感じの映画じゃなくて純粋におもんないエンタメ映画でした。
ミッシング・チャイルド・ビデオテープも別にやってること自体はだいたいわかるんだけどさ。
例の山は縁切り山で、いらんなぁと思ったものをナニカに「持って行って」もらうことができる。
民宿のババアの生理だったり、うるせー弟だったり、うぜー母親だったり
協力してくれない夫だったり、真実を突き付けてくる友人だったり。
それを最後に映像の中に閉じ込められてしまった友人で表現してることもわかる。
それがわかった上でも、だったら記者にかかってきた主人公の父親からの電話は何だったの?とか
大学生グループ失踪事件はなんだったの?とか、記者についてる霊はなんだったの?とか
なんか「意味ありげ」に散らばされた要素がむしろ鼻につくというか、
皆さんお好きに考察してくださいね、そういうのお好きなんでしょう^^ みたいなのがムカつくんだよな。
エヴァアアアアアアアアアアンゲリオンくらいから始まった?ジャパニーズ考察ブームってすげー嫌いでさ。
いや、昔から考察好き、深く考えてる俺かっけーオタクっていうのは一定数いて
でもそれって「製作段階で積み上げられたけど尺や物語の都合で切り捨てられた膨大な設定」が
完成した作品から染み出してくる汁にたかってくる昆虫みたいなもんだったわけじゃん。
それ単体でちゃんと完結している作品からじわっと香ってくる匂いに品があったわけだけど
最近のってもう10ページおきに袋とじがある雑誌みたいで集中できねーんだよ。
言いすぎないのがオシャレなんですよねって思想自体はわかるんだけど、
私、言いすぎないのがオシャレなんですよねって思想なんよねっていうのはむしろオシャレじゃないだろ。
普通はそういうの野暮って言うだろ。
「私は言いすぎてませんよおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!」
頭おかしい奴だろこんなもん。
テレビの話をしよう。私が子どもの頃テレビを見るのは禁じられていた。だから今でも蠱惑的なイメージを持つ。ちなみに私にあったのはアニメチャンネルのケーブルテレビとビデオテープだった。つまり禁じられていたのは地上波という訳だが──わが家ではニュース番組も新聞紙もなく、例えば殺人事件の話題でさえ私の前では禁句だったのだ。それはすべて母の意向だ。「子どもの頃だけは美しいものだけを見せたい」──つまりスヌーピーやピンクパンサー、パワーパフガールズ、もしくはクラシックなディズニーアニメたちがそれだった。私はまったくの無菌室で育ったのだ。
もちろん母は私にマザー・グースを、ピーター・ラビットの手のひらに乗るような絵本を与えた。そして教会に通わせた。母は西洋趣味で、チェリーパイやスコーンを私に食べさせたがった。朝には紅茶を飲むことを義務付けられていた。その半面で私の眠っている間に両親は大喧嘩し、朝私が目覚めると台所の床に醤油が一面に広がって硝子が割れていた。
今になって分かる、母は分相応という言葉を知らず──後年明らかになるがこれは文字通りの意味だ──贅沢好みで、工場勤務する父の安月給をたびたびなじっていたのだ。
なぜ彼らが結婚したのか私は知らない。彼らは出会って恋に落ちてお互いに“音楽”の趣味が合い、私にそれに基づいた名を付けた。父はドラムとベースを趣味としていた。母はピアノとバイオリンとギターを弾いた。そういった音楽的素養は私の身に付かなかった。私自身唯一自分の取り柄と言っていいのは「金離れの良さ」だ。私は母に似て散財家だ。だから私はいつも一文無しで、夢を見ている。もっと素敵なお洋服を、もっと美しい家具調度を──。そしてVOGUEやファッション・ウィークなどと聞くとじたばたとその場でのたうち回るのだ。
もちろん私は冗談を言っている。これは真実の告白ではない──当然嘘でもない。私は己の混沌とした人生を言葉とフィクションによって整理し、美化したいのだ。それだけだ。しかしそのそれだけが恐い。自分の無能さと直面するのを何より恐れる。
結局父母の博愛精神は私に受け継がれず──私は自分を守るためにあくせくし、こうした駄文を書くに至ったのだ。
だが私はここで気付く。「自分の心を守るため」それ以外のどんな情動で人が動くというのだろう?父は笑ってこう言うだろう。お前は何もかも突き詰めて考え過ぎる、頭でっかちだと──。
結局母は我々の許を去った。早い死だった。これを書く私はまだ二十代だ。母方の女たちはつねづねこう言い合っていた、しみじみとしてからっとしてすべて諦めたような調子で──「Y家の滅亡」このタイトルで我々一族の年代記が書けるね──と。
そうだ、私の父母はそれぞれ金満家の子として生まれ育ち、しかしそれぞれ家族関係を悪化させ、孤独のうちで拙速な恋愛関係を取り結んだ、少なくとも私はそう捉えている。
そして私が生まれ──貧困と不幸の道を歩むことになったのだ。つまりこれを書く私は両親と同じ「できちゃった結婚」をしスピード離婚してひとり親家庭になり──私の場合は生活保護受給に至った。何故なら私はうつ病者で発達障害だからだ。彼らのような生活力は私になかった。私はくたびれていた、生きることに、日々同じことを繰り返し飽きもせず飲み食いし「家」と呼ばれる一処に毎日寝起きすることに──もし私が裕福であったなら、私は一切の人間関係をなげうち旅に出るだろう。賃貸の安アパートも引き払ってチープな家具類も捨て去りアンティークの革の旅行鞄一つ持って飛び立つ、目的地はない、煩わしい何もかもにさよなら、だ。そしてそれには息子も含まれる。実の母親にも望まれずこの世に生を受け幾年かを経た哀れな一人息子──老いと死に包囲された老年者に特に喜びをもたらしたわが子を離れて、遠く、遠く、遠くへ行くのだ、私一人、一人、一人だけで──。
あの時、マスコミがセンセーショナルに取り上げたのは、被害者の無念や社会の闇ではなく、彼の部屋にあった大量のアニメやビデオテープだった。
それ以降、「オタク=危険人物」「社会に馴染めない人間」というイメージが、日本中に植え付けられた。
俺はあの時代をリアルタイムでは知らないけど、ずっとその影響下で生きてきた。
クラスでアニメの話をすれば「キモい」と言われ、電車でラノベを読めば白い目で見られた。
恋愛の話になれば、女の子から「オタクはちょっと…」と笑われた。
「選ばれる側」にはなれないと、そう刷り込まれてきた。
俺たちを見下してきた人たち――特に、“普通”という幻想を信じてきた女性たちが、婚活の沼にはまっている。
「いい人がいない」「普通でいいのに」――そう言いながら、誰からも選ばれず、焦りと諦めが交差している。
その“普通”って、何?
しかも、その理想を支えていたのは、「自分は選ばれる側」という自信、あるいは虚構だった。
現実に目を向けよう。
アニメが好きでも、ゲームが好きでも、ちゃんと働いて、身なりを整え、人を思いやる心があれば、それはもう“まともな男”だ。
いま、自分が切り捨てられている。
婚活アプリの裏で、“選ばれるための自分”を必死に演出してるその姿、
それこそが、かつて「オタクは現実逃避」と笑っていた人たちの現実逃避に見える。
あの時、社会が貼ったレッテルは、いま婚活市場で逆転し始めている。
虚構に生きていたのは、俺たちじゃない。
Permalink |記事への反応(11) | 23:46
1989年に発覚した東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件において、犯人が収集していたアニメや特撮等の多数のビデオテープや漫画雑誌を、マスコミが事件と関連付けて盛んに報道したことで、世の中でオタクバッシングが起こり、皮肉にもその「おたく」の存在が世間一般に広く知られるようになった。そのため、当初は漫画やアニメ、コンピュータゲーム、アイドルなどの趣味を持つ人たちと、社会性が欠如している人間や対人コミュニケーションが不得意な人等を、十把一絡げにして指し示す否定的な意味合いを持つ言葉として使用されることが多かった。
その後、1990年代後半からのインターネットの普及やアニメや漫画、コンピュータゲーム、アイドルの社会的地位の向上によりおたくへの悪い印象は薄れ、現在では単なる「ファン」や「マニア」と同義で使われることも多い。
昔なんだけど
まあ少なくとも60年以上前の話、横増田が生まれるより前の話。
8ミリフィルムって知ってるかな。ビデオテープじゃない、アナログのフィルム。
8ミリカメラで自分で撮影し、写真屋に現像を依頼し、返ってきたフィルムをアナログで切り貼りして、一本の作品にする。
それをリールにまとめて映写機で映す。白い壁や襖なんかにね。ちょっとした映画監督だね……。そういうアマチュアのブームがあったんだよ。
ある人が、お正月休みを利用して、3泊4日の新婚旅行で訪れた観光地、名所の高台に登った様子を撮影。
編集には手間もかかるし、仕事も忙しいのでその合間をぬってということで、公開したのはもう初夏になっていた。
鑑賞していた一人が違和感に気づき、それを皮切りに口々に出た言葉。
実は、新婚旅行で撮影した時、カメラの露出設定が間違っていた。現像された映像は真っ白。アナログ時代あるあるの失敗なんだけど。
だから…こっそりもう一度お金を積み立てて、1泊2日で、同じ所に行って撮影したんだ。
実行までの間は友達には「仕事が忙しくて、まだ全然編集できなくって……」と言い訳して。
奥さんに怒られながら、上着を着たまま3泊4日分の観光地を駆け足で巡ったんだが、高台へ昇る道では我慢できずに開襟シャツで臨んだのでバレた。
まあ結局笑い話になったらしいし、仲の良い夫婦だったけど、奥さんはかなり詳細に語ってくれたので、なかなか強烈な思い出でもあったようだ。
そんなわけでまあ、綺麗で、よく出来た結婚エピソードなんて、フィクションの世界だと思っておいた方がいいんじゃないかな。
そして問題は、一つ一つ切り分けていった方がいいんじゃないかな。
Take2については、例えばもし、お金の件で双方納得して別れて将来他の人を選んでも、やっぱり同じ事を思わない? どうなんだろ?
まあ、どっちの道にしたとしてもだ、Take2が発生したときに、「おっ今回はうまくやれたな」と自分をほめればOKだと思うよ。
今はITエンジニアで生成AIを使ったり使わなかったりするだけの私が思ったことを書きます。
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「あなたたちのスキルはAIロボットが学習したので明日から仕事はないよ」
そんな風に言われて納得がいくだろうか?
少なくとも私は納得がいかないし、勝手に私を学習してどういうつもりだと不服を申し上げるだろう。
努力して積み上げた技術を持っていれば持っていただけ納得がいかないように思う。
でも「AIロボットはあなたのコピーではない、あなたたちの特徴を抽出しただけだ」と反論されるのである。
いかに合法で正当性があったとしても、不快感を覚え、盗人猛々しいとさえ思えてしまうのではないだろうか。
自身の仕事がなくなったのにそんなことを微塵も思わないという人がいたら、とてつもなく心が広いなと私は思う。
実際、一部のAI絵師?が主張していることは合法で正当性があるのだと私は思う。
その一方で、イラストレータが持つ万人に認められるようなイラストを描くための技術は
一朝一夕で身につくものではなく、たゆまぬ努力の結果であると思う。
どれだけ頑張っても到底届かないような技術があり尊敬しかない。
一部のAI絵師?の主張は正当性を縦にした攻撃という印象を受けたし、
イラストレータの反感をかうのも無理はないと思う。
逆に、合法で正当性があるのに自分を盗人のように言われたらどうだろう。
私は反論するだろうし、一部のAI絵師?が自身の正当性を強く主張するのも当然だと思う。
でも、人間だって学習するでしょ、という主張は屁理屈じゃないかな。
CDやDVDやBDやHDDへのデジタルコピーが厳しく制限されてしまったこととどこか似ているような気がするし、
それ以上の何か(努力とか、人間の限界みたいなもの)に大きな違いがあるように感じる。
ではどうすればいいかという話は私には何もなくて、
例えばイラストレータが保護されるべきという話でもないと思う。
これまでだって様々な職人が、例えば工場の機械化等によって職を失ってきたのではないだろうか。
残念ながらイラストレータにもその順番が回ってきてしまったのを、
一部のイラストレータは屁理屈をこねて受け入れがたいものとして扱っているように思う。
私自身、いつかは自分の職業に順番が回ってくるかもしれないし、
自分の仕事にプライドがあるからこそ、そうなったら同じように振る舞うかもしれない。
結論は特にないけれども、攻撃的になってしまう気持ちを自分勝手に解釈しつつ、
意図的に攻撃に利用している人がいたらやめてほしいなと思いつつ、
時代の流れなのだとイラストレーターの方々は受け入れていくしかないんだろうなと私は思いました。
読んでくれてありがとう。
現在劇場公開中のガンダムSEEDFREEDOMを当時土6にテレビに張り付いていた人達にこそ見て欲しい。
何故なら心が若返るからだ。
不満な点はいっぱいあるし、ストーリーも他の人が言うほど最高!とは思っていない。
カガリの声優交代やキャラデザに対する不満の声を聞き「見終わった後、こんなのだったら映画なんて作ってくれない方が良かったと思ったらどうしよう……」と楽しみよりも不安を抱え劇場に行った。
そして上映中はただただひたすらに懐かしかった。
そして思い出した。
制服を着ていたあの頃を……
学校の廊下でキラ派の私とシン派の友人でケンカしてたあの頃を……
リアタイ視聴後に二つ折り携帯でメールの文字数が足りず二通三通と分割して長文メールを送りあっていたあの頃を……
ガンダムシリーズは再放送も多いし、DVDもある。今時サブスク配信でいくらでも見れる。
だけどそれらの方法で過去作を視聴した時には得られなかった何かが劇場にはあった。
消えこそしていないが、酷く弱々しく、今にも儚く消えてしまいそうだった「ガンダムSEEDが好き」という心の火に薪をくべられた。
もちろん人の感想は千差万別だから「こんなのだったら見たくなかった」と思う人もいるだろう。