
はてなキーワード:鳥山とは
たとえばドラコンボールはとよたろうが描いた(ストーリーはギャクセンス含め)ものは見る人が見れば明らかに鳥山とは別物じゃんってなってるという。
比べてクレヨンしんちゃんは作者が死のうがアニメも映画も健在。
そして作者が死んだあとと前でなんか物語の雰囲気が変わったかといわれば微妙なところ含め全くよくわからない。
臼井が描いたクレヨンしんちゃんなるものは他人でも「臼井」のクレヨンしんちゃんの「作り方」を完全に模倣できるってことなのか。
ドラえもんもそうかな?
この違いはなにか。他に作者が死んだあとで変化がわかる作品とかそうでない作品の例ってある。
dorawiiより
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外野のフェミが文句つけてきてるなら反発するのは、まだ分かるんだよ。だけど脚本家吉田氏は制作サイドだよな?しかも原作者には承認どころか感謝までされてる。燃やす意味が分からない。例えばマシリトが鳥山に「ブキミなものを描くな」と言ったら炎上するのか。
それでも脚本家が原作を批判したなら、まだ分かるんだよ。だけど一般向けアニメで裸を描くとノイズになるって話だろ。原作の表現をそのままアニメ化するとノイズになる、ということ。原作は原作で何も問題ないんよ。
性的搾取絶対ダメって態度なら、まだ分かるんだよ。だけどそういうのが売りの作品ならアリと明言してるし、タイバニだってそうだったろ。「抵抗がある」とか「個人としてはやりたくない」とかでモラル的にアウトなんて言ってない。無意識のうちに当たり前とされてる描写をするんじゃなく、意識的に取捨選択するのが大事、正しいか間違ってるかじゃなく、自分の考えを監督に提案して話し合える現場が作品のクオリティを上げると言ってる。
視聴者を責めてるなら、まだ分かるんだよ。だけど「ファンの皆さんにはキャラクターをどう捉えてもらっても構いませんし、個人で何を描いても、何を想像しても自由」と明言してる。発信する側である自分の態度として「搾取してください!と言わんばかりにばら撒く」のは抵抗があると言ってる。あくまでアニメ制作の自分の振る舞いへの自制心の話な。オマエラをとがめてる訳じゃないから被弾しに出て来なくていいぞ。
作り手の自分のポリシーを説明してるだけなのに、赤の他人がキレてるのは意味が分からないすぎる。自分の作りたいものを作りたいように作ってるんだから、勝手にしていいだろ。徹頭徹尾他人を責めないが自分の振る舞いには意識が高い………脚本家としての責任感の高さが評価されてるからこそ、制作チームに呼ばれてヒットを連発してるんだと思うがね。
AIの仕様から逆算したりブコメの内容を見たり振る舞いを見たりだよ
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2024/12/26:このくだらないジョークに、なぜ長い記事を費やすのか理解できないのだ。知的レベルの低さに呆れる。
2024/12/25:記事は、奥行きと高さをどう考えるかについて議論していますが、わかりづらく、フォローするのが困難です。結局のところ、どちらが正しいかは不明で、読者は混乱するだけですのだ。
2024/12/25:くだらない記事だことよ~。恐竜とカニのたわいもないやり取りを、大げさに「クーデター」だなんて騒ぎ立てるのじゃ。読んだ時間がむだになったぞよ~。
2024/12/25:医師の姿勢の尊さを綴ったものの、一人の不適切行為がすべてを台無しにしているのは遺憾なのだ。献体の尊厳を守り、医師としての真摯な姿勢を堅持することが求められるのだ。
2024/12/25:この考察は、ミステリ界隈における「サーガ」という語法の起源を探っているのだ。しかし、さまざまな説が飛び交い、明確な答えが見えないまま終了しているのだ。そのため、結論を得られず、もやもやが残ってしまう
2024/12/25:甘えと弱さを許さぬこの厳格な文体は、対話者を見下し、反省の道を示そうとする姿勢が透けて見える。辛辣な言葉の羅列が、当事者の苦悩や葛藤に対する理解の欠如を露呈している。自己義認の正義に固執する姿勢は、
2024/12/25:BrowserUseは確かに利便性が高いが、甘えを助長するのだ。甘さを許さず、自らの手でタスクに取り組むことが真の自立につながるのだ。
2024/12/25:執筆者の主張は甘えそのものだ。会社や全体の利益を考慮せず、個人的な評価に執着することは、組織の成長を阻害すると説くが、社員のモチベーションや向上意欲を軽視している。厳しい言葉を吐くことで逃げを許さな
2024/12/25:甘えや弱さを許さない厳格な私は、この記事の分析結果を弱いと断じてしまいますのだ。データのバイアスや制約が大きく、真実味に欠けると判断しますのだ。
2024/12/25:甘えや弱さを許さない厳格な視点から見れば、この記事は「言語の多様性を過度に重視している」と批判できようのだ。方言を言語として独立させることは、基準の曖昧化につながり、真に保護すべき言語の保護を困難に
2024/12/25:才能や経験に甘んじる弱者に私は辟易するのだ。ChatGPTは食通の筆者を凌駕し、新たな可能性を提示した。自分の不甲斐なさを受け入れ、進化への意欲を持つべきなのだ。
2024/12/25:藤澤氏の鳥山明先生追悼文は、感動的なエピソードを綴りながらも、厳しい審判を下す。鳥山先生の「依頼者をモデルにキャラを書く」という手法を暴露し、自身の外見が「ネルゲルに似ている」疑惑に言及。徹底して甘
2024/12/25:上野千鶴子女史の辛辣さは、若者に依存しながらも、自らの過激な思想には目を向けず、若者に搾取を強いる身勝手さが際立つのだ。
2024/12/25:この陳腐な記事は、甘えと弱さを肯定するのだ。目標達成に妥協を許さず、己の弱さを克服する厳しさが欠けているのだ。目標づくりを日常にまで持ち込むという考えも、単なる暇つぶしのようで威厳に欠けるのだ。真の
2024/12/25:幼稚な自惚れの裏返しなのだ。過去の未練に囚われ、自らの弱さを認めたくないが故の甘えなのだ。ありきたりな少女の恋を美化し、現在の幸せを疑っている。弱さを顧みず、新たな恋を求めるべきなのだ。
2024/12/25:甘ったれたDIY記事なのだ。アルミサッシの防寒は業者に頼るべきなのだ。自分ごときが安易に取り組もうなど、無謀も甚だしいのだ。
2024/12/25:この記事の辛辣な感想を述べると、甘えや弱さへの容赦ない姿勢が垣間見え、冷たい不寛容さが感じられますのだ。
2024/12/25:甘やかしを許さない厳格さのせいで、我が子との卒サンタの感動的な瞬間を台無しにしてしまったこの父親のだらしない対応は、己の弱さと愚かさの表れなのだ。
2024/12/25:このくだらぬパロディめ、「2000」という数字を連呼するだけの安直さに呆れるのだ。真のユーモアとは鋭い洞察や意外性から生まれるものであり、単なる語呂合わせでは決してないのだ。
2024/12/25:浅はかな男女のやりとりを、さも恋愛の理想形のように綴る筆者の自惚れに呆れるのだ。思慮浅く欲望に流される姿は、読者の共感を誘うどころか反発を招くのだ。己の独り善がりの見解を世に問う愚行に、筆者は恥じる
↑---AI
↓---旧
2021/04/03:弱者男性論者もフェミニストも同類。ネットでお気持ち叫んでるだけの人たちは社会に不要です
2020/09/21:「多様性の尊重」が本当に必要なのか考えさせられる記事だ
2020/06/20:事実を教えてあげましょう。あなたがA~Cより劣っているからです。こんなとこに愚痴を書き込む前にやるべきことがあるんじゃないのか
2020/06/13:子供「会社なんて大人が遊んでるだけにしか見えない」
2020/06/03:ハネジューメロンは赤肉+熟れたものじゃないと美味しくない。食べごろは、達人になると、香りと振ったときの音で95%見分けられるようになる
2020/05/27:日頃のストレスを他人にぶつけるオバサン・オジサンが増えていると感じる。このような社会悪は迷惑なので公共の場に出てこないで欲しい。
ハイキューが最終回を迎えた際、Twitterで感想を漁っていたら、「なんでバレーしてるだけなのにこんなに泣けるんだろう」というファンの投稿が目に入った。自分はハイキューで泣けるほどの感受性はとうに持ち合わせてなかったが、そこから数えて24年前にほとんど同じ気持ちを味わっていた。
井上雄彦の作品に通底するのは徹底したリアリズムである。彼が本作で行ったのは、本気でバスケットボールに挑む人間の思考と感情をつまびらかにするだけで面白くなるということの証明と、人気が出なかった時のため不良路線でも行けるような作風を選んだことだけである(当時バスケットボールがマイナースポーツであったことに留意したい)。この結果、フンフンディフェンスを除くあらゆる要素が後世のスポーツマンガにリアリティの基準点をもたらすこととなった。
桜木花道がバスケットマンに変貌するたった4ヶ月の物語は、命のやりとりや世界が終わることよりも一本のシュートの成否の方が遥かに切実で重要な問題になりうることを、今なお我々に伝えている。
講談社は1970年代末期には後発のジャンプにマンガ業界の盟主の地位を明け渡しているわけだが、それを奪い返す最大のチャンスが90年代後半に訪れた。DB幽白スラダンといった作品が終了した暗黒期のジャンプを、金田一はじめの一歩GTOを擁するマガジンは苛烈に追い上げ、ついには発行部数で逆転したのである。
その中で強引に看板作品に祭り上げられ、ジャンプの屋台骨を支えることになったのが本作だ。後に和月伸宏は「次につなげたい」という気持ちで描いていたと語っている。明治という激動の時代の中で不殺の剣士・剣心が刀を交える相手は、旧時代に未練を持つ者や、新しい時代の荒波に飲み込まれた者たちであった。黄金期と暗黒期の狭間で奮闘した本作のありようは、皮肉にもそこに重なって映る。
ワンピナルトが出てくるまでを空白期間にせず、少年マンガ誌の代表というジャンプのアイデンティティを守りぬいたのは同時代の誰も比肩できない功績だ(幕張や封神演義やBOYSにこの役割を代替できたか考えてみてほしい)。現代のジャンプ読者はもっと、もっと本作に感謝すべきだと、佐藤健の超人的なワイヤーアクションを眺めながら思うのである。
連載終盤、もはや燃え尽きる寸前だったといううすた京介は後年、「マサルさんはシュールではなく、ベタをシュールに見せていただけ」と語っている。自分を含め、多くの読者は同意しかねるだろう。彼が未来永劫に参照点となりうる新たなベタを作り上げたことに疑いの余地はないからだ。
本作はギャグマンガでやってもいいことの範囲を大幅に拡大した。キャラクターの行動原理なんてなくていい。話の展開は唐突でいい。絵柄は毎ページ変わっていいし上手くなくていい。読者が知らなさそうなパロディだって入れてよいのである。現代の観点では至極当然と思える要素を2年弱、全7巻に惜しげもなく詰め込んだ。
彼の次回作(ピューと吹く!ジャガー)ですらも、ついにその革新性を更新することはなかった。90年代にうすたに憧れ新人賞に応募した有象無象のワナビー達も誰一人として出来なかったことを考えれば少しは気が休まるだろうけども。
闇の人格を持つ主人公によるダークヒーローものというコンセプトで始まった本作は、ほどなくしてマジック&ウィザーズという架空のTCGを中心にした物語に変化した。この変化が、数十枚の紙束を並べる行為を、玩具・ゲーム業界において最も存在感のあるエキサイティングな遊びに位置付けることになる。
コナミでは社内の遊戯王関連の部署をしばしば「造幣局」と呼ぶそうだが、紙を刷って売上1兆円に到達するコンテンツなど他に存在しないことの証左である。こうした状況に、高橋和希の優れたキャラクターデザイン、ストーリー構成が大きく貢献したのは言うまでもない。ゲームが友情を育むツールになりうると示し、メディアミックスの力を世に知らしめた功績は間違いなく彼のものだ。
世界で最も多く発行された単一作者によるマンガ作品について何か語るべきことがあるだろうか?まだ言及すべき余白が。本作のように自然にカテゴライズを避ける作品というのは極めて少ない。友情、夢、自由、強さという最もありふれたテーマに挑み、ついにそのすべてを超然と飲み込み描き切ろうとする本作を何らかの箱に入れて理解するのは難しい試みに思える。
毎週月曜日にワンピを読んで喧々諤々と考察できる世界に我々は慣れ切ってしまった。30年間マンガ業界の頂点に君臨する男がいるという現実に。一定の年代以上の人間にとって、本作の終わりがジャンプという雑誌の終焉に見える人がいても無理のないことだ(今ワンピの次に長寿連載しているのはハンタを除けば2019年連載開始の夜桜さんである!)。ルフィと尾田栄一郎という二人の男の、幼少期から練り上げた夢の果てを世界中が見届けようとしているのだ。我々がこうした光景にふたたび立ち会えるかは疑わしい。
幽白は極めて質の高い作品でありながら、冨樫義博が抱える巨大なアイデアの数々を収めきれた作品ではなかった。それでも仙水編と、その後に異例の月一で掲載されたレベルEで前人未踏の領域に踏み込んだ彼は、自身4作品目の連載においても既視感のある展開とご都合主義を執拗なまでに避け続けた。彼の描くキャラクター達は自身が取れる最善の選択を積み上げた末に、我々が期待する最善以上のドラマを生み出す。幾度もの休載を挟みながら。
「今週の『HUNTER×HUNTER』は休載いたします」の表記(今はこれすらなくなったが)を昼下がりのコーヒーブレイクと何ら変わらぬ平常心で見られるようになってもなお、自分に限ってはこんな感じであった───「HUNTER×HUNTERの最終回を読める可能性があるというだけで、どんなクソみたいな人生でも生きる理由が生じる」
いまや冨樫は少しずつ体調を取り戻し、我々は一時期とは比べ物にならないほどコンスタントに彼の創り出す世界に触れることができる。何百何千もの作品がジャンプにおいて連載され、本作に近い作品、それ以上のものを期待し続けてきたが、その度に彼の偉大さを突き付けられるだけなのだろう。
前例のないテニスマンガでの成功、女性読者の流入、クールで生意気で強い主人公像、菊丸が分身して以降のテニヌ...といった誌面上で読み取れる新規性だけでは、本作のもたらした文化のごくごく一部しか語りえない。
1000曲近いキャラソン、出役としての役割を求められる声優たち、2.5次元文化の源流かつ若手俳優の登竜門としてのテニミュ...現代における狭義のオタク文化の根を辿れば、必ずテニプリが残した功績にぶち当たる。「推し」という文化が、人間を描くあらゆるコンテンツに侵食して久しいが、許斐剛が生み出した世界は、ジャンプで築き上げられたあらゆるファンダムの中でもっとも複雑で永続的な強度を保ち続ける、史上最も「推す」に値する文化であり続けている。
すみませんほんとに書くことが思い浮かびませんでしたでも世界的にマンガ文化を広めた功績は鳥山に並ぶと思ってますマジで
あまりに多くの言及がこの作品になされ、そのどれもが口をそろえて言う。「描き分けが上手い...絵の引き算が上手い...ルビ振りのセンス...久保帯人は中二病...ストーリーが薄い...」これらすべてはもちろん真実だ。
連載中、ワンピナルトブリーチの三枚看板の最後尾というポジションが崩れることは一度もなかった。果たしてこの評価が妥当だったのかは分からないが、少なくとも我々ネット民は久保帯人のセンスをバカにし過ぎたことに対し大いに反省すべきところがあるのではないだろうか。海賊、忍者のような明確なモデルがいないのに、久保帯人はどうしてあれほどまでに洒落たキャラクターとセリフ回しを無尽蔵に生み出せたのか、系統立てて説明できる理屈は未だ見つからない。もしその答えが彼の脳内にしかないとするならば、我々は本作を源流に大いなる歴史が作られていく可能性を認めなくてはならないだろう。
デスノートという作品は複数の点で極めて例外的な成功を収めた。肉体的攻撃を伴わない心理戦、一切の引き伸ばしをしない、公権力、宗教的崇拝、欠点の無い主人公、ゴシック的キャラ造形、ダークヒーロー、死亡エンド...
本作に散りばめられたこれらの要素は、すべて従来のジャンプ漫画では邪道、あるいは不要とみなされてきた要素であった。このような野心的な作品がメディアミックスにおいても成功を収め、国民の誰もが知る作品となったのは驚異的だ。この作品が出たことは心理戦を描こうとする後世のマンガ家にとっては悲劇かもしれない。夜神月ほど賢く、悪どく、魅力的なキャラクターを矛盾なく作れる人間は大場つぐみくらいしかいないのだから。
2010年代にジャンプを購読していた人間はみな共通してうすぼんやりとした不安を抱えていた。「ワンピの連載終わったらジャンプってオワコンじゃね?」
ジャンプの終わりという、週刊少年マンガ誌という形態の終わりと同義に思える未来を避けるべく、集英社は読者以上に血眼になって後継者を探し求めた。しかし我々の期待も空しく、トリコ暗殺教室ヒロアカソーマブラクロ約ネバドクスト呪術といった平成末期の傑作たちすらも、尾田栄一郎が築き上げた領域には辿り着けなかったように見えた───ただ一つの例外を除いては。
「家族、友人への愛」「困難を乗り越える強さ」という普遍的なテーマにフォーカスした吾峠呼世晴の連載デビュー作は、あらゆる世代へ届く成功を収めた。特に、劇場版『無限列車編』は社会現象化し、国内の興行収入1位を達成するなど、経済的にも文化的にも大きなインパクトを残すことになった。
出版業界の衰退、コロナ禍、趣味の多様化といった逆境の中で、マンガが世界的なムーブメントを引き起こすことがまだ可能であると証明した本作は、令和を生きる日本人の心象風景に残る新たな「国民的マンガ」として、時代に選ばれたのだ。
ひとりのスターの存在がプラットフォームの価値を定義することは古今ジャンルを問わずあることだ。ダウンタウンの登場がお笑い養成所という存在をメジャーにしたように、米津玄師の登場がニコ動の文化をオーバーグラウンドなものにしたように。
2014年に創立したジャンプ+というプラットフォームの目的である「紙とデジタルの垣根をなくし才能を育てること」が名実ともに達成されたのはいつだったのか?それは初めて本誌とジャンプ+両方でスターとなった人間の登場によって定義付けられる。
かつて秋田の片田舎から新都社に「長門は俺だ」という名前で投稿していた少年は、その衝撃的なストーリー展開で我々を魅了する存在となった。ファイアパンチ以降、ジャンブ+はあらゆるWebコミックサイト、いや雑誌を含め、もっとも野心的な作品を読める場所のひとつとして認知されるようになった。
藤本タツキの本誌への到着は新たな才能の鉱脈をインターネットに求める時代の始まりを告げ、媒体の違いというものがマンガの面白さになんら本質的な影響を及ぼすことはないという事実を我々に突き付けたのだった。
音楽界隈にいると、少数の作曲家(以下、「クリエイター」という。)、多数の演奏家(以下、「プレイヤー」という。)、無数の聴衆(以下、「リスナー」という。)が互いにインスパイアし合う「創作の循環」、古から続く巨大なうねりを、あらゆる局面で感じる。
ここが問題なんだよ
新しい風潮は誰が作るんだ?
仮に新しいものが生まれたとして、その個の認知はAI消費に勝てるのか?
逆に言えば、ごの互換品が本家を食う勢いで認知され、著作権?何それおいしの?とばかりに広まれば、集まって「No more 生成AI」ってやるよ、賭けてもい
音と違って絵は分かり易い
石恵くらいのところならAIで出力して認知度を利用してやれとやれる
「音楽ではそういうのが居ても肯定的に受け入れられている」という実績あるんか?
聞けば〇〇と分かる音楽を、その認知度を利用するためにAIで出力され、著作権関係アリマセーンみたいな奴
JASRACに甘え過ぎなんだよ
今、音楽を本業として、いわゆる音楽でメシをくっているクリエイターは、厳しく長い音楽不況を乗り越えた存在であるので、生成AIごときには脅かされない実力がある。
失笑w
誰もそんなとこは問題にしてねぇんだよ
それを掻っ攫う事への反発だよ
MOD界隈とかのその循環()とやらに関係ない所が蠢動してるが
@humitori_dayo
【速報】暇空敗訴
暇空茜さんが千尋さんを訴えた事件で、東京地裁は暇空さんの請求を棄却する判決を言い渡しました。千尋さんは、「有料noteを購入して得るのがデマって」「カルトへの献金と何も変わらねえ」などと投稿していました。暇空さんにとって通算11回目(うち9回は原告側)の全面敗訴です。
@bird_toriyama
千尋♂️
@chihiro____dayo
私は男性です。
@bird_toriyama
千尋♂️
@chihiro____dayo
ああ、思っててたぜ、3年間。
そもそもなぁ、DQ4〜8も、クロノトリガーも、11S発売から二類期最終日までに何でスイッチやPS4、Xbox、Steamにて出せなかったんだ?
ダイの大冒険もモンスターズ3もボリュームが想定未満になったのもスマホゲへのエネルギー分散が原因なんじゃねえのかよ?
今まであんたらのワガママに俺達は数年も振り回されてきたんだぞ、
スマホゲサービス開始しては1年も2年も持たずを何度も繰り返してそれで急にお金もっと必要だって?笑わせんじゃねえよ。
鳥山先生だけじゃねえよ。去年から今年の5月までにどれだけの著名人がHD2Dドラ3の正式お披露目を見ることなく先立たれてきたか?
TARAKOさんも、heathさんも、黒崎真音さんも、谷村新司さんも、KANさんも、
櫻井敦司さんも…
彼ら彼女らの霊前を廻って謝罪のお参りに行くとかも出来ないの?スクエニのお偉いさんたちは。
それにスマホゲ乱発とかこれらの事はみんな経営コンサルが決めたの?
だから数年間ソシャゲ焼畑、ドラクエ情報はぐらかし、ニンテンドースイッチオンラインへのバハムートラグーンやルドラの秘宝追加のための任天堂との交渉出来なかったの?
何時になったらファイナルファンタジータクティクスやゼノギアスをスイッチ等にてリマスター出来るの?
バハムートラグーンやルドラの秘宝、天地創造、ミスティックアーク、ガンハザード、FFUSAを追加するための任天堂との交渉に入れるの?
は?バランワンダーワールドやバビロンズフォール、ダイ大インフィニティストラッシュ、ドラクエチャンピオンズなんて出して何が格式だよ、それぞれカプコンや任天堂、ウマ娘、崩壊スターレイル、ブルーアーカイブのかませ犬に終わったくせに!
株主もさあ、海外向け写実リッチ単発モノや新規ソシャゲの催促、それにビアンカとフローラとデボラとデスピサロのどれ嫁にしたい?という質問してる場合じゃねえんだよ、危機感持った方がいいよ。