
はてなキーワード:魚類とは
その時はさ、感情なんてなかった訳よ
あるのは単なる反応だよ
それがだいたい5億年前。
研究によると、「ある」ってことらしい
いや、早いな!
・社会性の維持
などがあるらしい。
それって良いこともあるけど、辛いこともあるよな?
なんとかならないのか?
感情がないと人生味気ないとは思うけど、別に感情は人生を楽しむために生まれた訳じゃないんだよ
「目的」ではないんだよ
これってどうよ?
俺たち人間は、「楽しむために」「幸せになるために」「安心するために」生きてるんじゃなかったのか?
なんかこれ、進化としてどうかと思うよ。
俺個人としては、生命が仕組んだ「生存のための感情」なんていらないんよ
なんで繁栄しなきゃならないんだ?
そういう傾向、遺伝子、全部いらないんだよ
やめちまいたいよ
コントロールされたくない。
そうじゃなくてさ、
俺は単に「存在」していたい
岩とか、山とか、砂とか、そんなんでいい
もし生きるとしても、植物がいい
痛みや苦しみはもうたくさんなんだよ
本来そうあるべきでは?
柔らかくて、ポンポン跳ねる
踏まれても傷つかない
そういう生命なんだ
たとえ死んだとしても、痛みを感じないし、悲しみも感じない
それって最高じゃない?
…まあこんなこと書いても共感されないのは分かってる
みんな感情の虜だもんな
嬉しいこと探して行うのも楽しい
それが生命って言われたら、その通りではある
でもできることなら、不快感がなくても、不幸がなくても生き延びて、楽しく生きられる方法があれば、その方がよくないか?
俺は生命の進化の方向が、全てとは言わないが、間違ってると思うよ。
ここらで修正入れないと、ずっと不幸が起きまくるよ。
人工知能(AI)の急速な進化は、私たち人間に突きつけられた実存的な問いである。「計算能力において機械が人間を凌駕したとき、人間に残される価値とは何か」。この問いに対し、多くの議論は「創造性」や「直感」といった曖昧な領域に逃げ場を求めてきた。しかし、マックス・ベネット著『知性の未来』と、それを翻訳・解説した脳科学者・恩蔵絢子氏の洞察は、より生物学的かつ哲学的な深淵へと私たちを導く。
彼らが提示する結論は、逆説的である。「AI時代に人間が持つ最大の能力は、感情になる」。そして、「本当に頭が良い人とは、他者に興味を持てる人である」。
一見すると、これは道徳的なスローガンのように響くかもしれない。しかし、認知科学、進化生物学、現象学の知見を総動員してこの命題を解剖するとき、そこには「知性」という現象の構造的な転回が見えてくる。本稿では、二重過程理論、ユクスキュルの環世界、身体性認知、社会脳仮説、そして間主観性という5つの視座を補助線とし、AIが決して到達し得ない「知性」の本質と、これからの時代に求められる「知的な生き方」について論じる。
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まず、私たちが「知性」と呼んできたものの正体を、ダニエル・カーネマンらが提唱した「二重過程理論」の枠組みで再考する必要がある。
伝統的な知能観において、知性とは「システム2(遅い思考、論理、計算)」の能力を指していた。複雑な数式を解き、論理的な推論を行い、未来を正確に予測する力である。現在のAI、特に大規模言語モデル(LLM)は、このシステム2の機能を極限まで外部化・高速化した存在と言える。彼らは感情を持たず、疲労を知らず、膨大なデータから論理的整合性を出力する。
しかし、ベネット氏が描く脳の進化史(5つのブレイクスルー)は、この「システム2至上主義」を根底から覆す。進化の歴史において、論理や言語といったシステム2の機能は、常にシステム1(速い思考、感情、直感)の要請によって開発されてきたからだ。
初期の生物(線虫など)は、「快・不快」という原始的なシステム1のみで生きていた。進化の過程で「予測」が必要になったとき(魚類)、予測誤差としての「失望」や「安堵」という感情が生まれた。さらに複雑なシミュレーション(マウス)が可能になったとき、反事実を嘆く「後悔」という感情が生まれた。
ここで重要なのは、「論理が感情を抑制するために進化した」のではなく、「感情をより細やかに処理し、生存確率を高めるために論理が進化した」という事実である。システム2は、システム1というエンジンの出力を最大化するためのトランスミッションに過ぎない。
AIの限界はここにある。AIには「エンジン(生存への渇望、快・不快、感情)」がない。あるのは精巧なトランスミッション(計算能力)だけだ。エンジンを持たない車が自律的にどこへも行けないように、感情という基盤を持たないAIは、自ら「問い」を発することも、「意味」を見出すこともできない。人間の知性の本質は、論理そのものではなく、論理を駆動し続ける「感情の熱量」にあるのだ。
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なぜAIには感情が宿らないのか。その答えは「身体」の欠如にある。「身体性認知(EmbodiedCognition)」の視点は、知性が脳という密室の出来事ではなく、環境と相互作用する身体の中に宿ることを教えてくれる。
記事の中で恩蔵氏は、老いによる身体の変化を「老年でしか味わえない内的な経験」として肯定的に捉えている。これは非常に重要な示唆を含んでいる。
生物にとっての「意味(Sense)」は、身体的な脆弱性から生まれる。身体があるからこそ、空腹は「苦痛」となり、食事は「快」となる。皮膚があるからこそ、他者との接触は「温もり」となる。死ぬ定めの身体があるからこそ、時間は「有限」となり、焦燥や希望が生まれる。
AIが扱う情報は、どこまで行っても「記号」である。AIにとって「痛み」という単語は、辞書的な定義や統計的な関連語の集合体に過ぎない。しかし人間にとっての「痛み」は、回避すべき切実なリアリティである。この「切実さ(Stakes)」こそが、世界に色を塗り、価値判断の基準を作る。
身体性認知の視点に立てば、加齢による能力の低下は、単なる「劣化」ではない。それは身体というインターフェースの変化に伴う、世界との関わり方の「再構築」である。
若い頃の強靭な身体で見えていた世界と、老いて動きが緩慢になった身体で見える世界は異なる。その変化を受け入れ、新たな身体感覚を通じて世界を再解釈することは、高度な知性の営みである。AIは「劣化」しない代わりに、「成熟」もしない。身体の変化を通じて世界モデルを更新し続けるプロセスこそ、人間特有の知的な冒険なのである。
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身体を持った生物は、それぞれの感覚器官が切り取った主観的な世界、すなわち「環世界(Umwelt)」の中に生きている。ユクスキュルが提唱したこの概念は、知性の進化を「孤独からの脱出劇」として描き出す。
ダニにとっての世界は「酪酸の匂い」と「温度」だけで構成されているように、すべての生物は自分の環世界というシャボン玉の中に閉じ込められている。本来、他者の環世界を知ることは不可能である。私はあなたの痛みそのものを感じることはできないし、あなたが見ている「赤」が私と同じ「赤」である保証もない。
この「絶対的な孤独」こそが、生物としての初期設定である。しかし、ベネット氏が指摘する第4、第5のブレイクスルー(メンタライジング、発話)において、人間はこの壁に挑み始めた。
「他者に興味を持つ」とは、自分の環世界という安全地帯から身を乗り出し、他者の環世界を覗き込もうとする無謀な試みである。「あの人は今、何を考えているのか?」「なぜ悲しい顔をしているのか?」。これは、自分の感覚データ(システム1)だけでは完結しない。高度な推論と想像力(システム2)を総動員して、見えない他者の内面をシミュレーションしなければならない。
恩蔵氏が「他者に興味を持つことは難しい」と述べるのは、これが認知的に極めて高コストな作業だからだ。自分の環世界(自分の話、自分の関心)に浸っている方が楽なのだ。しかし、あえてそのコストを支払い、他者の世界へ「越境」しようとする意志。それこそが、人間を人間たらしめている知性の正体である。AIには環世界がないため、そもそも「他者の世界」という概念自体が存在しない。
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なぜ人間は、これほどまでにコストのかかる「他者理解」という能力を発達させたのか。ロビン・ダンバーの「社会脳仮説」は、それが「集団での生存」に不可欠だったからだと説明する。
自然界の脅威(猛獣や寒さ)に対処するだけなら、これほど巨大な脳は必要なかったかもしれない。しかし、人間にとって最大の環境要因は「他の人間」であった。誰が味方で、誰が裏切り者か。誰と協力すればより多くの食料が得られるか。
他者の心は、天候や物理法則よりも遥かに複雑で、予測不可能な「変数」である。この変数を読み解くために、脳は巨大化し、知性は進化した。記事にある「会話の70%は噂話」という事実は、私たちが情報の交換以上に、人間関係のメンテナンス(社会的グルーミング)に知能のリソースを割いていることを示している。
この文脈において、「頭が良い」という定義は劇的に変化する。それはIQテストのスコアが高いことでも、計算が速いことでもない。
真に知的な個体とは、「他者の意図を正確に読み取り、共感し、信頼関係を構築して、集団としてのパフォーマンスを最大化できる個体」である。
「他者に興味を持てる人」が頭が良いとされる理由は、単なる優しさではない。他者への関心は、複雑な社会マトリックスの中で生き残るための、最も強力なセンサーであり、武器だからだ。自分の殻に閉じこもることは、社会的動物としては「死」に等しい。他者への好奇心は、生命力そのものの発露と言える。
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そして、知性の進化の到達点は、個人の脳内にも、個別の身体にも留まらない。「間主観性(Intersubjectivity)」の領域、すなわち「私とあなたの間」に生まれる知性である。
記事の中で触れられている「指差し」は、人間特有の驚くべき行動である。チンパンジーは報酬を得るために手を伸ばすが、人間の幼児は「見て!あそこに犬がいるよ!」と、ただ注意を共有するためだけに指を差す。
これは、「私が見ている世界を、あなたにも見てほしい」という強烈な欲求の表れである。ここで初めて、孤立していた二つの環世界が接続される。
言葉、文化、ルール、そして愛。これらはすべて、物理的な実体ではなく、私たちが共有することで初めて存在する「間主観的」な現実である。
AIは「客観的なデータ」を処理することはできる。しかし、「あなたと私の間だけで通じる冗談」や「阿吽の呼吸」、「信頼」といった、主観と主観の間で紡がれる現実を作り出すことはできない。
恩蔵氏が翻訳を通じて感じた「人間の宝」とは、この「心の共有」の可能性そのものであろう。私たちは、他者の心に触れることで、自分一人では決して到達できない豊かな世界(拡張された環世界)を生きることができる。知性とは、個人の所有物ではなく、関係性の中に宿る現象なのだ。
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以上の分析から、AI時代における「知的な生き方」の輪郭が浮かび上がる。それは、AIに対抗して計算能力を磨くことでも、AIに仕事を奪われないように効率化を目指すことでもない。むしろ、AIが捨て去ったもの、あるいは持ち得ないものを、徹底的に深める生き方である。
AIは効率と最適化の権化である。対して、人間の知性の源泉は「感情」や「身体」といった、一見非効率なノイズの中にある。
知的な生き方とは、効率を追求するあまり、感情の揺らぎや身体の実感を切り捨てないことだ。迷い、後悔し、喜び、痛むこと。これらの「ノイズ」こそが、世界に意味を与え、独自の価値判断を生み出す土壌となる。
「本当に頭が良い人」になるためには、意識的に「他者への旅」に出る必要がある。
SNSのアルゴリズムは、私たちが心地よいと感じる情報だけを見せ、環世界をより狭く、強固なものにしてしまう(フィルターバブル)。知的な態度は、その快適な殻を破ることから始まる。
自分とは異なる意見、異なる背景、異なる身体性を持つ他者に対し、「なぜそう感じるのか?」と問いかけること。自分の正しさを一旦脇に置き、相手の環世界に身を浸すこと。この「認知的負荷」をあえて引き受ける勇気を持つことだ。
AIは「答え」を出すことにおいては人間を凌駕する。しかし、「問い」を立てることはできない。問いは、「こうありたい」「これはおかしい」という、身体的な違和感や理想(感情)から生まれるからだ。
また、AIはデータを羅列できるが、「物語」を生きることはできない。私たちは、他者との関わりの中で、それぞれの人生という物語を紡いでいる。
これからの知性とは、正解のない世界で、他者と共に悩み、対話し、新しい「納得解(間主観的な合意)」を形成していくプロセスそのものを指すようになるだろう。
マックス・ベネットと恩蔵絢子が示したのは、冷徹な計算機としての脳ではなく、熱を帯び、他者を求め、身体を通じて世界と震え合う臓器としての脳であった。
AI時代において、私たちは「賢さ」の定義を、ColdIntelligence(処理能力)から WarmIntelligence(共感と接続の能力) へとシフトさせなければならない。
老いて記憶力が衰えようとも、計算が遅くなろうとも、目の前の人の手の震えに気づき、その心に思いを馳せることができるなら、その人は最高に「知的」である。
他者の心という、宇宙で最も複雑で、不可解で、魅力的な謎に挑み続けること。その終わりのない探求こそが、機械には決して模倣できない、人間の知性の最後の聖域となるだろう。
https://news.yahoo.co.jp/articles/be7a5812ddaf607d08bb52f0663554ab39a9389c
自分がよく行くスーパーマーケットは「イオン」「ヨークマート(ヨークフーズ)」「ベルク」「サミット」「新鮮市場」「マルエイ」「ベルクス」
くらいだろうか。
「イオン」
何でもあるが、何も無い所。ここで売ってるこれが欲しくて行くということはないお店。モールに行ったついでに
寄る所。惣菜、弁当、一見美味しそうだが家で食べるとがっかりすること多し。
衣類が季節の終わりに半額の50%offなんてこともある。定価の25%だ。
全体的にゆったりとした作りでそれなりの店
独自に近隣のスーパーの特売価格に合わせているようだが今更感が否めない。
今後どうなるのか。
この立地で太刀打ちできるのはドン・キホーテ、ロピア、okストアか。
「ベルク」
鳴り物入りでオープンしたベルク。衝撃のオープン価格で圧倒した模様。
残念なのは惣菜、弁当が絶望的に美味しくない。価格は魅力的だががっかり感がイオンより上。
生鮮食品、目を引くものなし。値引きが早いのでその当たりをチェックすると面白い。
「サミット」
近いので一番通うお店。ここが標準になっている気がする。
月間スケジュールで割引セール日がわかるのでその時にまとめ買いができる。
途中加工品?レンジで出来る焼魚?とかスパゲッティ、フライ加工品など、新しい製品が面白い。
精肉、昔オージービーフ押しで一貫体制で作っているのを売りにしていたが美味しくなかった。
我が家ではサミ弁と呼んでいるが、惣菜弁当は比較的はずれなし。ただ、価格が比較的高め。
店内調理のパン以外の菓子パン、定番以外の新商品とか変わったパンなどがほとんど並ばない。
近隣店で見かけるも、まったく仕入れなし。もう少し大きい棚で種類を増やしてもいいのではないか?
「新鮮市場」
ある意味、一番ワクワクするお店。入店前から特売品が並び、ついついカートに入れてしまう。
鮮魚も近くの市場から直送したような、変わった種類の魚が並んでいる時がある。
肉は安い。でもまずい。焼いたときに立ち上るニオイで顔をそむける時がある。
以前、週末にはお店の前で焼き鳥を焼いて売っていた。これでビールを飲むのが好きだった。
しばらく行ってないのでもう変わったのかもしれないが、客層がいまいち。
なんとなく殺伐としていて、年寄りがつかみ合いの喧嘩をしているのを見かけたことがある。
「マルエイ」
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ここまでは一年以上前に書いたものだと思う。久しぶりにアクセスしたら書きっぱなしで放ってあった。
色々状況変化してるので思うところを。
「ヨークマート」
フライパンで簡単にできる肉惣菜が充実しだした。安いしおいしい。
「ベルク」
惣菜、弁当、そこまでひどくなくなった。たくさん入ったポップコーン目当てで買い物に行くこと多し。
「サミット」
色々面白い特集で販売意欲を掻き立ててくれる。やはり惣菜弁当高め。
「新鮮市場」
上の文章を書いた頃はよく通っていたが、ここ数年全く行っていない。
品揃えが面白いのでまた行ってみたい。
「マルエイ」
安さをメインにしていた覚えがあったが、久しぶりに行ったら閑散としていた。時間のせいもあったかもしれないが。
惣菜、弁当、価格勝負していたものが普通のスーパー並。かなり粗めに陳列していたりするので、なにかメリット
「ベルクス」
最近よく通う店。賞味期限が近い訳あり品を特価で販売していたり、お楽しみ抽選会があったりして通うのに面白いお店。
野菜も安い、魚類も面白い品揃えと近場にあれば毎日でも行きたいお店。ちなみに界隈で一番米が安い。
惣菜も手作り感満載で見るのが楽しみ。「ベルク」と関係があるかと思ったら無関係らしい。
「TOP」
大きいだけあって品揃えはすごい。野菜、肉、魚、充実。ここの鮭の切り身は美味しい。
惣菜も安いし美味しい。ただ、後半の店内導線が悪く、人を避けながら買い物している感じ。
サッカー台も少なくて狭いので、レジ終了後ちょっと嫌な気分になる。
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なかなか行けないが、駅のショッピングモールに入っている角上魚類とかデパ地下のマーケットで思う存分買い物したい。
色々高くて大変です・・・
中国が処理水のイチャモンで禁輸発動してた時期に他の販路が伸びて禁輸発動前の水準をおおむね回復してる。
https://moto-no.jp/insight/ex_jp_fish_2025/
↑これ見りゃわかるが
魚類の中国向け輸出額は2022年に717億円で2位アメリカ392億円を大きく引き離す水準だったのが2024年にはなんと3億円になった。
一時的なダメージはあったが中国以外の販路が伸びまくっていて輸出額全体では2022年に2,566億円であったのが今年は2700億円を見込んでいる。
2025年の中国への輸出見込み額が27億円なのでこれが停止されても全体への影響は軽微。
処理水イチャモン事件で流石に中国がどういう国かは思い知ったので販路分散体制が構築できており、今回の停止で悲鳴を上げるのは単に間抜けかよほどの「なにか」がある業者だけ。
Permalink |記事への反応(17) | 15:56
福利厚生で社食が100円なのよ、管理栄養士監修とかの日替わり定食が5種類くらい
めちゃ助かる〜!と思ってた、弁当作って持ち運んで洗う手間も献立考える手間もなくなるから(自炊下手なので人の作った飯大好き人間)
マズいんじゃないかなって思い始めた
この物価高のご時世にありがたい福利厚生にケチつけるなんてそんな…と思ってたけど
いやマズいよ、味付けが好みじゃないとかじゃなくて揚げ物がカラッとしてたことないし肉類ボソボソしてるし魚類はまだマシな方だけど生野菜はパサパサかベチョベチョで小鉢は冷蔵庫の風味がする
基本的に自分はグルメとかでは全くなくて何でも美味しい!最高!わーい!なタイプなので衝撃だった、なんなんだこれ
確かにお弁当を持参してる人はたまにいるけどほぼ社食利用が多い、部署の人にそれとなく聞いたけどみんな普通に助かるよね!美味しいよね!ってテンションで怖い、私の味覚が終わってるのか?コロナ?病気?まじで?
カレーライスだけは完食できるくらいに食えるレベルなので(美味しいわけではないが)必然的に日替わりでカレーがあれば絶対選択するようになり、社食のお姉さんと部署の人にカレーライスお好きなんですねと言われて、あはは〜と笑うしかなかった今日
デイビッド=スター=ジョーダンという生物分類学者が、34歳でインディアナ大学学長、その後スカウトされスタンフォード大学初代学長になる。このデイビッドは、スタンフォード夫人から大学人事や経営での不正を疑われ、スパイを送りこまれる。スパイは不正の証拠を見つけるが、性的スキャンダルで失脚させられる。
スタンフォード夫人は、未遂をふくめて2度目の工作でハワイ逃避中にストリキニーネで毒殺される。が、なぜか揉み消される。
それでタイトルだが、Wikipediaでは、進化的に魚類は爬虫類の一分枝なのに「ある目立つ特徴(見た目)」をもって進化的に進んだ種と分類されている、という意味らしい。
四億年前から進化してない「魚類」のシーラカンスもいるからね(笑)
次は、ビクトリア=ブレースウェート著「魚は痛みを感じるか」。結論として感じるといってるんだが、納得できない。俎板の鯉というけれど、刃を当てても暴れる度合いは変わらないから。たぶん水から揚げられて酸欠が嫌なだけじゃないのか。
ある日、分譲マンションの掲示板に「ペットの飼育は禁止されています。ご注意ください」という張り紙が貼られました。私の住むマンションは小鳥や魚類を除き、犬や猫などの飼育は禁止と規約に明記されています。
正直、その張り紙を見た瞬間に「やっぱりな」と思いました。なぜなら、私の隣の部屋から、毎日のように犬の鳴き声が聞こえていたからです。
最初は体が小さかったのかあまり聞こえなかったが、次第にエスカレート。
そこで管理会社を通じて注意をお願いしました。最初は「気をつけます」と返事があったようですが、全く改善せず、むしろ犬がさらに成長して声が大きくなり、ますます苦痛に。廊下ですれ違うたびに犬が吠え、心臓がバクバクするほどのストレスを感じるようになりました。
同じように迷惑を感じていた住民は他にもいて、理事会に正式な苦情が寄せられました。それでも隣人は「うちの家族だから手放さない」と強硬に主張。話し合いは平行線のままでした。
私は覚悟を決めました。弁護士に相談し、訴訟を提起したのです。
証拠として、鳴き声の録音データを提出しました。日付・時刻を記録し、何度も繰り返し響いていることを明確にしました。さらに、他の住戸の方にも陳述書を書いていただきました。「眠れない」「アレルギーがある」といった声は、私だけの被害ではないことを示してくれました。
裁判では、「ペット禁止規約の有効性」が最大の争点となりました。被告である隣人は「家族同然だから」とか「鳴き声は一時的」と主張しましたが、裁判官は冷静に判断しました。
「マンションという共同住宅において、ペット禁止規約は有効である。鳴き声は近隣の居住環境に重大な影響を与えており、受忍限度を超えている」
そして、犬の飼育差止めと損害賠償の一部支払いが命じられました。
隣人は不服を申し立てましたが、高裁でも同じ結論が維持され、最終的に犬を手放すか、防音措置を徹底しなければならなくなったのです。
この一件を通じて学んだのは、「マンションの規約は単なる紙切れではない」ということです。守らなければならないのは、そこに暮らすすべての人の安心のため。自分だけの都合を優先させれば、必ずどこかで歪みが出ます。
私自身、裁判まで発展させたくはありませんでした。でも、毎日毎日、鳴き声で生活が壊される現実がありました。だからこそ「もう我慢できない」と声を上げました。
もしこの記事を読んでいる方の中に、「うちもペット禁止だけど、ちょっとくらいなら大丈夫」と思っている人がいたら、どうか考え直してほしいです。隣人は必ずしも直接苦情を言ってくるとは限りません。静かに、しかし確実に証拠を集め、そして法的手段に出る場合もあるのです。
共同住宅で暮らす以上、ルールは皆で守らなければなりません。それが一番シンプルで、一番大事なことだと、身をもって実感しました。
「死んだ」サケに様々な写真を見せて”fMRI”測定を行ったところ、死後魚類脳のいくつかの部位で、写真に反応した「神経活動」が統計的に有意に検出されました。これは、死後魚類の驚くべき認知活動を意味するのでしようか?もちろんできません。
これは単に、データ分析における「多重比較補正」を怠った結果現れた、偽陽性であることがわかりました。
結論:fMRIデータの閾値設定時に「適切な多重比較**補正**」を標準的な慣行として利用すべきです。
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この論文は、「人々を笑わせ、そのあとで考えさせた」功績により、イグノーベル賞を受賞しました。
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この研究の主要なテーマは、**fMRIデータ分析における多重比較補正の重要性**と、その補正を怠った場合に生じる**偽陽性の危険性**を強調することです [1-3]。
*典型的なfMRIデータは非常に多くのボクセル(約130,000個)を含むため、コントラストごとに数万回の統計テストが行われるのが一般的です [1, 2]。
* この極端な次元性により、**少なくとも1つの偽陽性が出る確率はほぼ確実**になります [1-3]。
* 適切な多重比較補正が行われないと、誤った結果(偽陽性)が報告される可能性が高まります [1, 2, 4]。
* 多くの研究者が未補正の統計量を使用しており、p値の閾値を厳しくしたり(例: p < 0.001)、最小クラスターサイズを設定したりする方法に頼っていますが、これは多重比較問題への不適切な対処法であり、原理に基づかないアプローチだとされています [5, 6]。
* **目的**: この研究は、多重比較補正を無視することの危険性を示すために、**死んだタイセイヨウサケを被験者としてfMRIスキャンを実施**しました [1, 3, 6, 7]。
* **方法**:
サケは、人間が社会的な状況にいる写真のシリーズを提示されるという、**開かれた精神化課題**を与えられました [18]。これらの写真は、社会的に包摂的または排他的な、特定の感情的価数を持っていました [18]。サケは、写真の中の人物がどのような感情を経験しているかを判断するように「求められました」 [18]。これは、後に人間の被験者グループにも実施されたのと同じ**社会的視点取得タスク**でした [2]。
刺激はブロックデザインで提示され、各ブロックは4枚の写真がそれぞれ2.5秒間(合計10秒間)提示され、その後12秒間の休憩が続きました [18]。合計12ブロックの写真提示が完了し、ラン中に48枚の写真が提示されました [18]。タスクの総スキャン時間は5.8分で、140の画像ボリュームが取得されました [18]。画像取得には1.5テスラGEシグナMRスキャナーが使用され、クアドラチャーバードケージヘッドコイルがRF送受信に用いられました [17]。サケの動きを制限するためにヘッドコイル内にフォームパッドが配置されましたが、被験体の動きが非常に少なかったため、ほとんど必要ありませんでした [17]。
* **結果**:
* **未補正の統計量(p < 0.001)では、サケの脳腔と脊柱に活動的なボクセルクラスターが観察されました** [1, 9-11]。そのクラスターサイズは81mm³で、クラスターレベルの有意性はp = 0.001でした [10]。
* **多重比較を補正した統計量(家族全体のエラー率 (FWER) と偽発見率 (FDR))では、緩和された統計的閾値(FDR = 0.25およびFWER = 0.25)であっても、活動的なボクセルは全く存在しないことが示されました** [1,10]。
* **結論**: このデータは、**EPI時系列のランダムなノイズが、多重テストが制御されない場合に誤った結果を生み出す可能性がある**ことを示唆しています [3]。
* **FWER(家族全体のエラー率)**:複数の有意性検定を行った後に、1つ以上の偽陽性を観察する確率を制御します。例えば、FWER = 0.05は、仮説テスト全体で1つ以上の偽陽性が出る可能性が5%であることを意味します [12]。Bonferroni補正が最もよく知られたFWER制御法ですが、fMRIデータには保守的すぎることがあり、真のシグナルを排除してしまう可能性があります [11-14]。fMRIではガウスランダム場理論や順列法が主に用いられます [12]。
* **FDR(偽発見率)**: 検出された結果のうち、偽陽性であると予想される割合を制御します。例えば、FDR = 0.05は、検出された結果の最大5%が偽陽性であると予想されることを意味します [10, 13]。FDRはFWERよりも保守的ではありませんが、統計的検出力と多重比較制御のより良いバランスを提供します [13, 15]。
* これらの補正方法は、主要な神経画像処理ソフトウェアパッケージ(SPM、AFNI、FSLなど)にすべて含まれており、**適用することは難しくありません** [4, 15, 16]。
*論文は、**fMRIデータの閾値設定時に適切な多重比較補正を標準的な慣行として利用すべき**であると主張しています [1, 4]。
*研究者は、統計的検出力の低下を懸念して補正を避ける傾向がありますが、**未補正の統計量を使用し続けるという選択肢はあってはならない**と述べています [4]。
* 多重比較問題は「非独立性エラー」(クラスター内のボクセルが同じ統計的尺度で選択された場合の統計的推定値のインフレ)や、時系列自己相関、低周波ドリフトといった他の統計的問題とは区別されるべきです [17]。
https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S1053811909712029
水不足に陥った大きな溜池に給水車で水を注入している様子を小泉大臣がツイートしていました。焼け石に水という言葉がぴったり当てはまる光景です。これに対して「バカか」「税金の無駄」などと炎上しているのですが、他方で、これは従来から行われていることであり、一定の効果が有るから部外者は黙っているべき、という意見も散見されますが、その具体的効果というのがいまいち見えてきません。実際にはどのような効果がありますか?
ChatGPT:
給水車で溜池に水を注入するという行為は、たしかに一見「焼け石に水」と思えるような光景かもしれません。しかし、これは必ずしも「無意味」や「パフォーマンス目的」とは限らず、状況によっては限定的ながらも実際に効果があるケースがあります。以下、現実的な効果や背景を解説します。
■ 1. 【緊急的な最低水位の確保】
溜池は、農業用水や防火用水など災害や生産活動に重要なインフラです。
水位が極端に下がると、ポンプなどの取水設備が使えなくなります。
一定量の水を確保することで「最後の水利用」に備えることができます。
例:出穂期の水稲にとって「ここで水がないと全滅」という重要な時期に水を融通。
→ このような緊急の最低ラインを死守するための水入れという意味では、多少の量でも「無駄ではない」とされます。
長期間干上がると、底の泥が露出し、以下のような問題が発生します:
ヘドロの酸化・腐敗
水質の急激な悪化
魚類の全滅
→ 散水車の水を入れることで泥の露出を防ぎ、最悪の環境悪化を回避する目的があります。
■ 3. 【ため池が周囲の農業水路・地下水系とつながっている場合】
これは専門的な事情ですが:
一部の溜池は**地下水涵養(かんよう)**の役割も果たしており、
水を入れておくことで、周辺の地下水位や小水路の保全に役立つ場合があります。
→ 見た目の水量以上に、周辺環境への間接効果が期待されることがあります。
水利組合や農家から「どうしてもここに水を確保してほしい」という要望があり、
あるいは**次の雨までの「つなぎ」**として使われる、
こともあります。
■ 5. 【「パフォーマンス」に見えるのはなぜか?】
使っている散水車の水量が明らかに少ない(例:タンク1台で10トン程度、池は数万トン)
一度だけの給水なら、持続性がない
SNSなどで「見せる」要素が強い
といったことが、「焼け石に水」「税金の無駄遣い」と映る原因になっています。
■結論:
▶ 本当に無駄かどうかは、その溜池の役割と注水の規模・頻度による
▶ 緊急対策として、水利維持・水質保持・最低ライン確保などに効果はありうる
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ついでに家で暇そうにしてた母親連れ出してみた
中古オフィスチェア屋で「良いイスってこういう所が良くて~」って母親座らせながら説明してたら
母親も良い椅子の魅力がわかったみたいで3万くらいの中古の椅子欲しがったので自分のやつのついでで買ってあげた
帰りに諏訪湖の周りグルグル走りながら諏訪湖畔が歩道整備されててウォーキングするのに良い話をしたり
「この水門から出てく水が天竜川」とか「あれが八ヶ岳」とか「あれが高島城」とか観光ガイドみたいにいろいろ諏訪を紹介しながらドライブした
母親が寿司好きなので諏訪湖近くの魚類がめっちゃおいしいと評判のスーパーに寄っておいしい寿司買って
ちょうど桜が一番きれいな時季で天気も良かったから母親も大満足なドライブデートになった