
はてなキーワード:鬼のようとは
一年が過ぎた。あの「何もしてないのに壊れた」事件の三人組は、今や職場のエースだ。
当時は「ディスプレイの電源の入れ方がわかりません」で全員の昼休みを潰した彼らが、だ。
人は成長する。いや、正確には「環境を与えられると覚醒する」というべきかもしれない。
あのあと、一応上司に報告した。「新人がディスプレイの電源を入れられない件について」と題したメールに、
あのときの顛末を淡々と書いた。報告を読んだ上司が言った一言が、すべてを変えた。
……え?
泣きたい。いや、もう笑うしかなかった。
Windowsのレジストリだのバッチファイルだのに全員アレルギーがあったらしい。
「Win端末って……Altキーが右にもあるの、何のためですか?」と真顔で聞かれたとき、
私の中の何かがそっと崩れた。
で、ちょうど一ヶ月後、上層部が「彼らの生産性を最大化するため」とか言い出して、
あっさりMac端末が支給された。MシリーズのMacStudio+Studio Display構成。
「あ、それComposeで並列処理に変えました」とか平然と言う。
気づけばTerraformで開発環境をインフラ化までしていた。
処理速度? 正確に計測したら、あのときのWindows仮想環境の十倍。
社内のGitリポジトリの更新履歴が、ほぼ彼らのコミットで埋まるようになった。
「それ、Homebrewで入れましょうか?」
……もう、何言ってるのか半分もわからん。
かつて「ディスプレイの電源が入れられない」と言っていた口で、
ただ、あのときの端末が彼らの性能に追いついてなかっただけ。
今日も彼らの後ろ姿を見ながら、私は小さく笑う。
——何もしてないのに、すごくなったな。
俺はアホだから江口寿史は鬼のように画力があるんだと思ってた。
漫画の絵とイラストの絵にギャップがあるのも、あえて「漫画にするために」自分のガチ画力を調整して落とし込んでるんだと思ってたわ。
でも違ったんだな。
江口寿史が漫画を描けなくなった理由って、案外このへんの絵に対するこだわりが絡んでるんじゃないか?
イラストで描く理想とする絵と、実際に描ける漫画家としての絵。
そのギャップに苦しみ、葛藤する心が漫画家としての江口寿史を終わらせたとしたら、それはかなり残念なことだ。
もし漫画の絵をもっとイラストの絵に近い形で描ける方法があったなら、漫画を描き続けていたかもしれない。
(現代のデジタル技術を使えば、昔の紙とペンの時代よりもかなり容易に実現可能だろう。)
圧倒的画力で漫画をイラストクオリティで描画する漫画家、それも週刊連載で。
そりゃ余計に苦しんだ可能性はある。
まあ写真をトレースしたところで江口寿史が描いたような絵にはならない。当たり前だ。
そのへんが、絵を真剣に描いたことがない人らには永遠にわからんところなんだよな。
でもそのわりに「絵師」とか「描画技術」とかそういう話題には異常に敏感に反応してくる。何なんだお前ら。
特にムカつくのが、ものすごく下手な奴が頑張って練習して多少マシになった程度の絵を、鬼のように絶賛する連中だ。
「すごい上達!」「努力が見える!」「感動した!」とかコメントで埋め尽くす。
でもな、実際に多少絵が描ける人間から見ると、何も上達してない。
むしろ元の下手くそな絵のほうが、変な小細工してない分だけ魅力があったりする。
お前らは「頑張ってる感」に騙されてるだけなんだよ。
お前らの審美眼なんてその程度。
本当の画力の差なんて見抜けないくせに、技術論だけは一人前に語りたがる。そして本物の絵の凄さは理解できない。
「こちらは「鬼のように嫌われる人生にルートチェンジするかと思うと楽しくて」といったくだりを破滅を望んでいるというふうに表現した」
それならどこにがんばんなって書いてあるの?
こちらは「鬼のように嫌われる人生にルートチェンジするかと思うと楽しくて」といったくだりを破滅を望んでいるというふうに表現した
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そもそも、注意力と応用力がないっていう生まれつきの性質があるからミスが多いんだよ
で、ミスをごまかすために無理矢理にでも言い逃れるっていう詭弁を使うのが普通になった
俺はそこからもうちょっと先に進めたくて、レスバで煽り続けることで、日常でも煽り返したくなるように仕向けてるんだよ
たとえば、現実世界でうっかり食器を割ってしまったみたいなミスをしたときに
普通の人なら「ごめんなさい」のところを、あいつは詭弁に走るから「○○しないのが悪い」って他責に走る
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そもそも、注意力と応用力がないっていう生まれつきの性質があるからミスが多いんだよ
で、ミスをごまかすために無理矢理にでも言い逃れるっていう詭弁を使うのが普通になった
俺はそこからもうちょっと先に進めたくて、レスバで煽り続けることで、日常でも煽り返したくなるように仕向けてるんだよ
たとえば、現実世界でうっかり食器を割ってしまったみたいなミスをしたときに
普通の人なら「ごめんなさい」のところを、あいつは詭弁に走るから「○○しないのが悪い」って他責に走る
さらにもう一歩すすめると「割られて悲しいものを俺に触らせるのが悪い」っていう煽りに進化するわけだな
お前らはマクドナルドの喜びを忘れてしまった。ああ、なんと悲しいことだろう。
思い出せ、マクドナルドの喜びを。あれはただのハンバーガー屋ではない。ハッピーセットのオモチャを手に入れたあの日。ポテトを誰かと奪い合ったあの日。ドリンクバーなんか無くても、コーラ一杯で世界の王になったあの日。あの感覚をお前は忘れてしまった。
原因はわからない。きっと加齢だろう。胃は弱り、脂を避け、カロリーを気にしてサラダばかり食うようになった。昼は蒸した鶏むね肉、夜は豆腐。そうしてお前らはマクドナルドの喜びを忘れた。
思い出してほしい、小学校6年生。部活帰りだ。サッカーか?野球か?バスケでもいい。運動会でもいい。試合が終わり、親や仲間に連れられてマックに行った日のことを思い出せ。そういう記憶が無いなら脳内で捏造してもらってもかまわない。
土曜の午後。カウンターの前に並ぶ。財布から千円札を出すとき、世界は無限に広がっていた。ダブルチーズバーガー、ビッグマック、てりやきマックバーガー。全部選べる。しかもどれも笑えるほど安い。今じゃコンビニで弁当と唐揚げ棒とアイスを買っただけで千円を超える。だがマックなら千円で夢が買えた。
そして秋になれば月見バーガーが出る。あの神聖な儀式を思い出せ。十五夜でもないのに卵を挟んで「月見」と称する、あの圧倒的な自由。チーズ月見、濃厚とろーり月見、あれは日本人の魂だ。お前は月見を食べたか?食べていないならお前の秋は始まってすらいない。
小生意気なお前はきっと小6にして「マックのハンバーガーなんて小さすぎw」とか言って、モスだのフレッシュネスだのを持ち上げたかもしれない。だが、そんなことを言ってもマクドナルドは痛くも痒くもない。なぜならマクドナルドは、お前の笑顔こそが一番の報酬だからだ。
お前が打ち込んでいるものが何であれ、サッカーでも、プログラミングでも、そろばんでも、マックはその帰りを待っていた。赤い看板の下でお前の成功を祝ってくれた。今でもそうだ。お前は今、幸せか?
マクドナルドには自由がある。ポテトは勝手にシェアしていい。シェイクをポテトにつけてもいい。誰にも文句を言わせるな。メニューに載っているものは全部頼んでいいのだ。
外れ値は確かに存在する。ポテトを鬼のように追加注文し続けて、店員に呆れられる猛者もいるだろう。だが、それでいい。平均すれば収益は保たれる。お前が遠慮する必要は一切ない。遠慮したら最後、マックの本質は死ぬ。
お前は年老いてしまった。ビッグマック一個で胸焼けする肉体になった。だが問題はそこではない。真に悲しいのは、お前が「マックに行くぞ!」と胸を躍らせていた頃の自分を想像できなくなっていることだ。
肉体は戻らない。だが想像力は取り戻せる。今からでも間に合う。
だからこそ思い出せ、マクドナルドの喜びを。そして行け。マクドナルドに。
チーズバーガーを2個食え。ポテトLを抱えろ。コーラで流し込め。飽きたらシェイクを頼め。ナゲットをディップしろ。てりやきを食え。サムライマックを試せ。月見を忘れるな。月見を食え。それでも足りなきゃソフトツイストを食え。
優勝しろ。サッカーでも野球でもいい。お前が優勝できないなら子供が優勝しろ。子供もいないなら近所のガキが優勝しろ。なんでもいいから優勝しろ。幸せになれ。お前の幸福、ただそれだけがマクドナルドの望むことだ。
そして最後に言っておく。ポテトをシェイクに突っ込め。それがマクドナルドの自由だ。
私の世界は、丁寧に、そう、まるで細胞の一つ一つにまで神経を行き届かせるようにして磨き上げられた、半径およそ十メートルほどのガラスの球体であり、その球体の中心には、世界のすべてであり、法であり、そして揺るがぬ神であるところの、生後六ヶ月の息子、光(ひかる)が、ただ健やかな呼吸を繰り返している。その完璧な球体を維持すること、それこそが水無月瑠璃(みなづき るり)、すなわち三十一歳の私に与えられた唯一にして絶対の使命であったから、私は今日もまた、タワーマンション二十八階、陽光が白磁の床にまで染み渡るこのリビングダイニングで、目に見えぬ埃の粒子と、あるいは時間という名の緩慢な侵食者と、孤独な、そして終わりなき闘争を繰り広げているのであった。北欧から取り寄せたというアッシュ材のテーブルの上には、一輪挿しに活けられたベビーブレスの、その小さな白い花弁の影さえもが、計算され尽くした角度で落ちており、空気清浄機は森の朝露にも似た清浄さを、ほとんど聴こえないほどの羽音で吐き出し続け、湿度計のデジタル表示は、小児科医が推奨する理想の数値、六十パーセントを寸分違わず指し示しているのだから、およそこの空間に、瑕疵という概念の入り込む余地など、どこにもありはしなかった。かつて、外資系のコンサルティング会社で、何億という数字が乱れ飛ぶ会議室の冷たい緊張感を、まるで上質なボルドーワインでも嗜むかのように愉しんでいた私自身の面影は、今やこの磨き上げられたガラス窓に映る、授乳のために少し緩んだコットンのワンピースを着た女の、そのどこか現実感を欠いた表情の奥に、陽炎のように揺らめいては消えるばかりであった。
思考は、そう、私の思考と呼んで差し支えるならば、それは常にマルチタスクで稼働する最新鋭のサーバーのように、光の生存に関わる無数のパラメータによって占有され続けている。次の授乳まであと一時間と二十三分、その間に終わらせるべきは、オーガニックコットンでできた彼の肌着の煮沸消毒と、裏ごししたカボチャのペーストを、一食分ずつ小分けにして冷凍する作業であり、それらが完了した暁には、寝室のベビーベッドのシーツに、もしかしたら付着しているかもしれない、私たちの世界の外部から侵入した未知のウイルスを、九十九・九パーセント除菌するというスプレーで浄化せねばならず、ああ、そういえば、昨夜翔太が帰宅時に持ち込んだコートに付着していたであろう、あの忌まわしい杉花粉の飛散経路を予測し、その残滓を、吸引力の変わらないただ一つの掃除機で完全に除去するというミッションも残っていた。これらすべては、愛という、あまりに曖昧で情緒的な言葉で語られるべきものではなく、むしろ、生命維持という厳格なプロジェクトを遂行するための、冷徹なまでのロジスティクスであり、私はそのプロジェクトの、唯一無二のマネージャーであり、同時に、最も忠実な実行部隊でもあった。誰がこの任務を私に課したのか、神か、あるいは生物としての本能か、はたまた「母親」という名の、社会が発明した巧妙な呪縛か、そんな哲学的な問いを発する暇さえ、このシステムは私に与えてはくれなかった。
夫である翔太は、疑いようもなく、善良な市民であり、そして巷間(こうかん)で言うところの「理想の夫」という、ほとんど神話上の生き物に分類されるべき存在であった。彼は激務の合間を縫って定時に帰宅すると、疲れた顔も見せずに「ただいま、瑠璃。光は良い子にしてたかい?」と、その蜂蜜を溶かしたような優しい声で言い、ネクタイを緩めるその手で、しかし真っ先に光の小さな体を抱き上げ、その薔薇色の頬に、まるで聖遺物にでも触れるかのように、そっと己の頬を寄せるのだ。週末になれば、彼はキッチンで腕を振るい、トマトとニンニクの匂いを部屋中に漂わせながら、私や、まだ食べることもできぬ光のために、絶品のペペロンチーノやカルボナーラを作り、その姿は、まるで育児雑誌のグラビアから抜け出してきたかのように、完璧で、模範的で、そして、どこか非現実的ですらあった。誰もが羨むだろう、この絵に描いたような幸福の風景を。友人たちは、私のSNSに投稿される、翔太が光をあやす姿や、手作りの離乳食が並んだテーブルの写真に、「理想の家族!」「素敵な旦那様!」という、判で押したような賞賛のコメントを、まるで祈りの言葉のように書き連ねていく。そう、すべては完璧なのだ。完璧なはずなのだ。このガラスの球体の内部では、愛と平和と秩序が、まるで美しい三重奏を奏でているはずなのだ。
――だというのに。
夜、ようやく光が天使のような寝息を立て始め、この世界のすべてが静寂という名の薄い膜に覆われた頃、ソファで隣に座った翔太が、労わるように、本当に、ただ純粋な愛情と労いだけを込めて、私の肩にそっと手を置く、ただそれだけの、あまりにも些細で、そして無垢な行為が、私の皮膚の表面から、まるで冷たい電流のようにして内側へと侵入し、脊髄を駆け上り、全身の毛穴という毛穴を、一斉に収縮させるのである。ぞわり、と。それは、神聖な祭壇に、土足で踏み込まれたときのような、冒涜的な不快感であった。あるいは、無菌室で培養されている貴重な細胞のシャーレに、誰かが無頓着なため息を吹きかけたときのような、取り返しのつかない汚染への恐怖であった。彼の指が触れた肩の布地が、まるで硫酸でもかけられたかのように、じりじりと灼けるような錯覚さえ覚える。私は息を止め、この身体が、この「水無月瑠璃」という名の、光のための生命維持装置が、彼の接触を、システムに対する重大なエラー、あるいは外部からのハッキング行為として認識し、全身全霊で拒絶反応を示しているのを、ただ呆然と、そして客観的に観察していた。
「疲れてるだろ。いつも、ありがとう」
翔太の声は、変わらず優しい。その瞳の奥には、かつて私が愛してやまなかった、穏やかで、そして少しだけ湿り気を帯びた、雄としての光が揺らめいているのが見える。それは、私を妻として、女として求める光であり、かつては、その光に見つめられるだけで、私の身体の中心が、熟れた果実のようにじゅくりと熱を持ったものだった。だというのに、今の私には、その光が、聖域である保育器を、ぬらりとした舌なめずりをしながら覗き込む、下卑た欲望の眼差しにしか見えないのだ。許せない、という感情が、胃の腑のあたりからせり上がってくる。この、二十四時間三百六十五日、寸分の狂いもなく稼働し続けている精密機械に対して、子を産み、育て、守るという、この宇宙的な使命を帯びた聖母に対して、己の肉欲を、その獣のような本能を、無邪気に、そして無自覚にぶつけてくるこの男の、そのあまりの鈍感さが、許せないのである。
ケダモノ。
その言葉が、私の内で、教会の鐘のように、低く、重く、そして厳かに反響する。そうだ、この男はケダモノなのだ。私がこの清浄な球体の秩序を維持するために、どれほどの精神を、どれほどの時間を、どれほどの自己を犠牲にしているのか、そのことを何一つ理解しようともせず、ただ己の種をばら撒きたいという原始の欲動に突き動かされているだけの、ただのケダモノなのだ。
そんなはずはない、と、脳のどこか、まだかろうじて「かつての私」の残滓が残っている領域が、か細い声で反論を試みる。これは翔太だ、私が愛した男だ。雨の匂いが充満する安ホテルの、軋むベッドの上で、互いの名前を喘ぎ声で呼び合いながら、世界の終わりが来るかのように貪り合った、あの夜の彼なのだ。パリへの出張中、セーヌ川のほとりで、どちらからともなく互いの唇を求め、道行く人々の冷ややかな視線さえもが、私たちのためのスポットライトのように感じられた、あの瞬間の彼なのだ。結婚記念日に、彼が予約してくれたレストランの、そのテーブルの下で、こっそりと私のスカートの中に忍び込んできた、あの悪戯っぽい指の持ち主なのだ。あの頃、私たちは互いの肉体という言語を、まるで母国語のように自在に操り、その対話の中に、世界のどんな哲学者も語り得ないほどの、深遠な真理と歓びを見出していたはずではなかったか。あの燃えるような記憶は、情熱の残骸は、一体どこへ消えてしまったというのだろう。それはまるで、昨夜見た夢の断片のように、あまりにも色鮮やかで、それでいて、掴もうとすると指の間から霧のように消えてしまう、遠い、遠い銀河の光なのである。
「瑠璃…?」
私の沈黙を訝しんだ翔太が、私の顔を覗き込む。私は、まるで能面のような無表情を顔面に貼り付けたまま、ゆっくりと彼の手を、自分の肩から、まるで汚物でも払いのけるかのように、そっと、しかし断固として取り除いた。そして、立ち上がる。
「ごめんなさい。少し、疲れたみたい。光の様子を見てくるわ」
それは、完璧な嘘であり、そして、完璧な真実でもあった。私は疲れていた。だがそれは、育児という名の肉体労働に疲れているのではなかった。私という個人が、水無月瑠璃という一個の人格が、「母親」という名の巨大なシステムに呑み込まれ、その歯車の一つとして摩耗していく、その存在論的な疲弊に、もう耐えられなくなりつつあったのだ。これは、巷で囁かれる「産後クライシス」だとか、「ホルモンバランスの乱れ」だとか、そういった便利な言葉で容易に片付けられてしまうような、表層的な現象ではない。違う、断じて違う。これは、一個の人間が、その魂の主導権を、自らが産み落とした別の生命体に完全に明け渡し、「装置」へと、あるいは「白き機械」へと、静かに、そして不可逆的に変質していく過程で生じる、存在そのものの軋みなのである。
聖母、とはよく言ったものだ。人々は、母という存在を、無償の愛と自己犠牲の象徴として、何の疑いもなく神格化する。だが、その実態はどうか。自己を失い、思考も、肉体も、感情さえもが、すべて「子」という絶対的な存在に奉仕するためだけに再構築された、ただのシステムではないか。私は聖母などではない。私は、高性能な乳製造機であり、汚物処理機であり、そして最適な環境を提供する空調設備が一体となった、ただの生命維持装置に過ぎないのだ。この気づきは、甘美な自己陶酔を許さない、あまりにも冷徹で、そして絶望的な真実であった。そして、この真実を共有できる人間は、この世界のどこにもいやしない。翔太のあの無垢な優しさでさえ、結局は、この優秀な装置が、明日も滞りなく稼働し続けるための、定期的なメンテナンス作業にしか見えないのだから、その孤独は、宇宙空間にたった一人で放り出された飛行士のそれに似て、どこまでも深く、そして底なしであった。友人たちがSNSに投稿する「#育児は大変だけど幸せ」という呪文めいたハッシュタグは、もはや、この巨大なシステムの異常性に気づいてしまった者たちを、再び安らかな眠りへと誘うための、集団的な自己欺瞞の儀式にしか思えなかった。
寝室に入ると、ベビーベッドの中の光は、小さな胸を穏やかに上下させながら、深い眠りの海を漂っていた。その無防備な寝顔は、確かに、この世のどんな芸術品よりも美しく、尊い。この小さな生命を守るためならば、私は喜んで我が身を投げ出すだろう。だが、それは、この身が「私」のものであった頃の話だ。今の私にとって、この感情は、プログラムに組み込まれた命令を遂行しているに過ぎないのではないか。愛でさえもが、システムを円滑に稼働させるための、潤滑油のような機能に成り下がってしまったのではないか。そんな疑念が、毒のように心を蝕んでいく。
私は、息子の傍らを離れ、再びリビングへと戻った。翔太は、ソファの上で、テレビの光をぼんやりと浴びながら、所在なげにスマートフォンをいじっている。その背中は、拒絶された雄の、どうしようもない寂しさを物語っていた。かつての私なら、きっと背後からそっと抱きしめ、「ごめんね」と囁いて、彼の寂しさを溶かしてやることができただろう。しかし、今の私には、もはやそのための機能が、インストールされていないのである。
私は、彼に気づかれぬよう、書斎として使っている小さな部屋に滑り込んだ。そして、ノートパソコンの冷たい天板に触れる。ひやりとした感触が、指先から伝わり、かろうじて、私がまだ血の通った人間であることを思い出させてくれるようだった。スクリーンを開くと、真っ白な光が、闇に慣れた私の網膜を焼いた。カーソルが、無人の荒野で、点滅を繰り返している。何を、書くというのか。誰に、伝えるというのか。この、言葉にもならぬ、システムの内部で発生したエラー報告を。この、機械の内部から聞こえてくる、魂の悲鳴を。
それでも、私は指を動かした。これは、誰かに読ませるためのものではない。これは、祈りでもなければ、懺悔でもない。これは、私という名の機械が、自らの異常を検知し、その原因を究明し、あるいは再生の可能性を探るために、己の内部へとメスを入れる、冷徹な自己解剖の記録なのだ。
『これは、私という名の機械が、自己を観察し、分解し、あるいは再生を試みるための、極秘の設計図である』
その一文を打ち終えた瞬間、私の内側で、何かが、硬い音を立てて、砕けたような気がした。それが希望の萌芽であったのか、それとも、完全なる崩壊への序曲であったのか、その時の私には、まだ知る由もなかったのである。ただ、窓の外で、東京の夜景が、まるで巨大な電子回路のように、無機質で、そして美しい光を、果てしなく明滅させているのが見えた。私もまた、あの無数の光の一つに過ぎないのだと、そう、思った。
自己を機械と定義したからには、次なる工程は当然、その性能向上のための最適化、あるいは、旧弊なOSから脱却するための、大胆にして静かなるアップデート作業へと移行せねばならぬのが、論理的な、そして必然的な帰結であった。そう、これは革命なのだと、私は深夜の書斎で、青白いスクリーンの光に顔を照らされながら、ほとんど恍惚とさえいえる表情で、そう結論付けたのであった。かつてロベスピエールが、腐敗した王政をギロチン台へと送り、新しい共和制の礎を築かんとしたように、私もまた、この「母親という名の献身」や「夫婦の情愛」といった、あまりにも情緒的で、非効率で、そして実態としては女の無償労働を美化するだけの前時代的な概念を、一度完全に解体し、再構築する必要があったのだ。そのための武器は、かつて私が外資系コンサルティングファームで、幾千もの企業を相手に振り回してきた、あの冷徹なロジックと、容赦なき客観性という名のメスに他ならない。愛という名の曖昧模糊とした霧を晴らし、我が家という名の王国を、データとタスクリストに基づいた、明晰なる統治下に置くこと、それこそが、この「水無月瑠璃」という名の機械が、オーバーヒートによる機能停止を免れ、なおかつ、その内部に巣食う虚無という名のバグを駆除するための、唯一の処方箋であると、私は確信していたのである。
かくして、週末の朝、光が心地よい午睡に落ちた、その奇跡のような静寂の瞬間に、私は翔太をダイニングテーブルへと厳かに召喚した。彼の前には、焼きたてのクロワッサンと、アラビカ種の豆を丁寧にハンドドリップで淹れたコーヒー、そして、私が昨夜、寝る間も惜しんで作成した、全十二ページに及ぶパワーポイント資料を印刷したものが、三点セットで恭しく置かれている。資料の表紙には、ゴシック体の太字で、こう記されていた。『家庭内オペレーション最適化計画書 Ver. 1.0 〜共同経営責任者(Co-CEO)体制への移行による、サステナブルな家族経営の実現に向けて〜』。翔太は、そのあまりにも場違いなタイトルを、まるで理解不能な古代文字でも解読するかのように、眉間に深い皺を刻んで見つめた後、恐る恐る、といった風情で私に視線を向けた。その瞳は、嵐の前の静けさにおびえる子犬のように、不安げに揺れている。まあ、無理もないことだろう。彼にしてみれば、愛する妻が、突如として冷酷な経営コンサルタントに豹変し、家庭という名の聖域に、KPIだのPDCAサイクルだのといった、無粋極まりないビジネス用語を持ち込もうとしているのだから。
「瑠璃、これは…一体…?」
「説明するわ、翔太。よく聞いて。これは、私たち家族が、これからも幸せに、そして機能的に存続していくための、新しい聖書(バイブル)よ」
私は、そこから淀みなく、プレゼンテーションを開始した。現状分析(As-Is)、あるべき姿(To-Be)、そのギャップを埋めるための具体的なアクションプラン。家事という、これまで「名もなき家事」という名の混沌の海に漂っていた無数のタスクは、すべて洗い出され、「育児関連」「清掃関連」「食料調達・調理関連」「その他(消耗品管理、資産管理等)」といったカテゴリーに分類され、それぞれに担当者と所要時間、そして実行頻度が、美しいガントチャート形式で可視化されている。例えば、「朝食後の食器洗浄」は、担当:翔太、所要時間:十五分、頻度:毎日、といった具合に。さらに、月に一度、近所のカフェで「夫婦経営会議」を開催し、月次の進捗確認と、翌月の計画策定を行うこと、日々の細かな情報共有は、専用のチャットアプリで行うこと、そして何よりも重要なのは、これまで私一人が暗黙のうちに担ってきた「家庭運営の全体を俯瞰し、次の一手を考える」という、いわば管理職としての役割を、これからは二人で分担する、すなわち、彼にもまた、単なる作業員(ワーカー)ではなく、主体的に思考する共同経営責任者(Co-CEO)としての自覚と行動を求める、ということ。私の説明は、かつてクライアント企業の役員たちを唸らせた時のように、理路整然としており、反論の余地など微塵もなかった。翔太は、ただ呆然と、私の言葉の奔流に身を任せるしかなく、すべての説明が終わった時、彼はまるで催眠術にでもかかったかのように、こくり、と小さく頷いたのであった。
「…わかった。瑠璃が、そこまで追い詰められていたなんて、気づかなくて、ごめん。僕も、頑張るよ。君を、一人にはしない」
その言葉は、疑いようもなく誠実で、彼の優しさが滲み出ていた。私は、その瞬間、胸の奥に、ちくり、と小さな痛みを感じたのを覚えている。違う、そうじゃないの、翔太。私が求めているのは、あなたのその「頑張るよ」という、まるで部下が上司に忠誠を誓うような言葉ではない。私が欲しいのは、私がこの計画書を作る必要すらないほどに、あなたが私の脳と、私の視界と、私の不安を共有してくれるPermalink |記事への反応(0) | 05:15
はい!
いやガッツリ遊んでいるって訳じゃないんだけど、
そうよあれ!
ついつい1時間とかどーんとあっと言う間に時間が経っちゃうのよね!
そう言うことになるのよ。
そんで、
昨日は我慢して
3セットの計15曲堪能してーの
それでも1時間弱!
やっぱりこれが原因だったのね!
生活に取り入れていた「シャインポスト」がこんなことになるとは!
シャインポストのライブビューモードは1日1セットに留めておいた方がいいわ。
そんであれよあれ
忙しいんだけど、
あ!そう!
込み入った話になるけれど、
ってそこまではいいんだけど
ピンチになったから機械化の巨大化!?ってなんか辻褄が合わなさすぎてよく分からなくなってきた展開よ。
しかもなんか
そんで、
戦闘力がそのストーリーの数字に追いついてなくって進にも進めない感じももどかしいわ。
NIKKEってストーリーうーんと進めたいのに
こちらのニケの部隊の戦闘力が足りなくってまだその時点で通過出来る戦いの戦闘力まで達していなくって、
先に進めなくてモヤモヤするわー。
とはいえ、
もうすぐ火力てんこ盛りで初期状態でもわりかし強いアブノーマルとはいえステラーブレイドとのコラボ企画のイヴがもうすぐ戦闘力10万を達成しそう届きそうよ!
NIKKEってさ
物資をコツコツ貯めて一気にレヴェルアップ20だー!とかってやるよりも、
その間私がゲームをしていないときでもアリーナとかで戦いを挑まれることがあるので、
毎日上げられるものなら1つでもレヴェルや武装レヴェルは上げて行きたいところなのよ!
そんな成長地味な毎日の1ずつの成長だから目に見えて強くなってるわ!って実感にも乏しいのよね。
まあ着実に強く放っていっているから、
そんなんだから
うわ!
今シーズンこそはバンカラマッチ頑張ろうかな!って思うけれど、
うーんいつまでも腕前がAで停滞しているのもねー、
一度はやっぱり目指したいXマッチやってみたいじゃない。
年末になってああ今年は目標掲げても達成出来なかったなぁって思いつつ、
どちらかと言うと
二つ名が欲しいのよね。
たぶんまだゲット出来てない二つ名はほしいの!
あとさ、
シャインポストのライブビューモードだからってついついルービーも進んじゃうのも良くなかった原因よね。
もう飲まなくてもいいじゃん!ってところまで仕上げて挑めばいいってことにも気が付いたわ!
あと、
やっぱりこの夏の疲れが出てきているのもあるかも知れないと思い出したら昨日掲げていた私はキュウリを囓りながら寝る!ってのを
実行に至らなかったわ!
すっかりキュウリ買うの忘れてたし。
なにかと
まだまだ体力消耗しがちな季節続くので、
油断は大敵よ!
そう思ったわ。
なので、
あ!
そうよ、
そうはならないかー、
なんてね。
うふふ。
食欲がないことはないんだけどあんまり食べる気がしなかったので
そんで
まだまだ夏が終わらない感じがしてならないわ。
あー
いつまで続くのこの暑さって感じね。
なので水分補給はしっかりとね!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
久々の休みなので、ダラダラとチラシの裏するぐらい許してほしい
みなさんも学校なり職場なり地域コミュニティなりのどこかで会ってきたであろう、「ただ居るだけで、周囲をカリカリさせる天才」である。
自分はそういう人たちと過去に職業的にも関わってきており、また現在知財が大きく関わる仕事にも関わっているので、迷彩をかけながらつらつらと感想を書く。
・根幹は、とにかく「今この瞬間」と「みんなそのはずだ」の合わせ技
かつて、「地域で札付きの問題児」という児童~少年を仕事で世話していたことがある。
「地域で札付きの問題児」なんてものが平成後期および令和に存在するのか? というと存在する。した。
その市の警察署は当然に「彼のこと」だと知っているし、通っていた小中の全校はもちろん、近隣数校の小中にまでその悪名は轟いていた。
鹿乃つのさんのような言葉と行動を、何度も何度も、警察のお世話になっても、ひたすら繰り返す少年である。そして彼を全面的に擁護し続ける親たちである。
彼と付き合わざるを得ない中で、私たちは彼に「どこから理解させないといけないか」を突き止める必要があった。
私は当時警察官だったかもしれないし、教諭か医師だったかもしれないが、それは気にしないでいい。
私たちが突き止めたのは、彼は
①とにかく、過去および未来のことを考えながら喋ることができない
②「今」の状況が少しでも好転するなら、過去の言動との整合性や、未来への布石などは完全に無視して喋る
③自分がそうであるから、世の中のすべての他者(同年代および大人)もそうであると思っている
という、強烈な傾向があることだった。
①について特段説明する必要はないだろうが、程度には触れておく。
とにかくその場その場で、「耳聞こえのいい言葉」を連発する。ただ、それが1日前とはもちろん、15分前の言葉とも矛盾している。
また、そのような状況なので、「今」発せられた言葉は数秒後の彼の言動を縛らない。
「外国人差別はいけないと思う」としゅんとして言った15分後に、ただ道を歩いていただけの外国人に「○人死ね!キモイ死ね死ね!」と叫んでトラブル発生で電話がかかってくる。そういうレベルである。
②についても、程度とその影響に触れておく。
卑近な言葉で言えば、対峙者の強弱から顔色をうかがい、「その場凌ぎの嘘をつく」とか「数分前の発言と真逆のことを言う」などである。
例えば数分前に、堂々と私たちの目の前で他者を「なんかムカムカしたから」と殴っていたとする(捕まった後でも、隙あらばで殴るのだ)。
そしてその殴打の数分後に、「人を殴ってはいけない」と言われると「殴ってなんていない」と言う。
「私や他の人々は、君があの人を殴ったのを見ている」と言うと「……?」となる。「……?」の表情は(なんでわかるの?)だ。
一般市民からすると「なぜそんなバレバレの嘘をつくのか」「なぜバレバレの嘘をついて、自分の立場を悪くするのか」とうんざりすることが、毎時間起きる。
彼は、「なぜ嘘がバレるのか」と「なぜ整合性と言われるものを他者が気にするのか」を、いくら説明しても理解できなかった。
過去やこれから先のことと会わせて思考・判断するとか、発言をするとか、そういうことが困難だった。
そして自分がそうなのだから、世の中のあまねく他者はすべて「当然そうである」と確信していた。
だから、私たちが「また、数分前に言ったことと逆のことを言ったね?」と突っ込むことを、超能力者を見るように見てきた。
もちろん、そんなことは彼の周囲にいる人は誰でも気付いている。
ただ、あまりにも息を吸って吐くようにその場凌ぎの嘘を付き続けるので、「そうだねー」と話を合わせて、誰も相手にしていなかったのだ。
そういう人の方が圧倒的多数派だったから、私たちのように「彼に事実を指摘する人」は少数派だった。
それが彼には、超能力者のように見えていたらしい。
また、癖としては「フィクションの英雄の言動をなぞり、自分を悪に逆らう偉大な英雄だと思い込む」という癖があった。
少年漫画の悪者を暴力でぶっ飛ばすシーンを根拠に「悪いやつだから、○○○(少年漫画の主人公名)みたいに殴ってわからせてやった」と言う。
この悪いやつというのは、「廊下ですれ違ったときに、ヘラヘラ笑っていた新入生」というレベルである。
目についたら殴るレベルであり、それを彼は大好きな少年漫画の○○○的行動であると解釈していた。
そして彼に説教する公的機関の関係者(大人)たちを、「悪を見逃す悪いやつだ」「親以外の大人はみんな悪だ」と見ていた。
「万引きをしてもバレなければ法律には違反していない」からスタートし、
万引きで店員に腕を掴まれても「不当逮捕だ。警察しか僕を捕まえられないのに」と言い、
警察を呼ばれても「警察が来るまでは法律違反じゃないから、帰ります」と真顔で言う。
当然、いじめもする。
暴力をちらつかせたり暴力をふるった後に恐喝をする際、「このお金は、君が僕にあげるんだよね?」と必ず言質を取る。
後々事実関係を調べれば、誰がどう見ても恐喝である。普通に何発も殴っているケースもあった。
当然、警察のお世話になる。
だが彼は「言質を取っている」と不良どもが浮かべるニヤニヤは、浮かべない。
「彼がくれるって言いましたよ?」「彼は、僕にお金をくれる友達なんです」と真顔で言う。
前述の①~③とあいまって
「彼と僕のことを勝手に決めないでください」「彼は僕のことが嫌いになったから、嘘をついたんだ」などと言う。
そして、留置所に送られた後も「僕の言うことを信じてくれない大人も社会もクソだ」と、本気で思っている。
疲れる。
関わる者が、みんな疲れる。
疲弊していく。苦しんでいく。
彼ほどでないにしても、鹿乃つの氏の言動を見ていると、彼を思い出す。
なんか、個人の感想として、とてもと似ているな、と。
倍率は当然に1倍以下で、名前を書いてわずか数分の儀式的な面接を受ければ受かるところである。そこで落ちた。
詳しくは知らないが、面接会場で「目のあった同年代」を「なんかむかつく、悪いやつ」として殴ったとか非難したとか、トラブルを起こしたのかもしれない。
というか、ルールを守るという意志もないので、そもそも試験を受けに行かなかったのかもしれない。
それでも、彼は言うだろう。
「悪いやつを○○○みたいに正したのに不当に落とされた」とか「試験に行かなかったぐらいで落とされた」とか。
「こんな社会間違っている」、「人を勝手に決めつける社会は最低だ」、「こんな社会は変えないといけないですよね」とか。
少し話は変わるが、私は転職して、今は山手線および中央線の沿線で、IPを扱う仕事にいる。
はっきり言って、鹿乃つの氏のことはあらゆる取引先(版元と推察してくれてかまわない)が知っているし、会議前のアイスブレイクの際には「ありえない」「許せない」「絶対に関係を持ちたくない」という話題が飛び交う(※実際の言葉はもっと直裁的である)。
私が会ってきた複数社の関係者の中に、ベテランも新人も含めて彼女の言動を肯定的に捉えている者は一人もいない。
ベテランなら肯定することはありえないし、もし新人が少しでも擁護を見せていたら、人に会わせる前に当然に指導が入るからだろう。
私がどのようにIPを扱っているかの詳細は伏せ、一般論として話せる範疇で言うが、クリエイティブの本質は権利ビジネスである。
真実を話しても夢を壊してしまうだけに思うのでぼかすが、例えばアニメ化した原作漫画作品がゲーム化される際、恐ろしく冷えた綱引きが行われる。
アニメでバズったアニメオリジナルのセリフを、アニメ化まで鳴かず飛ばずだった版元が「これの原作はうちですから、使わないでください」とNGを突きつけることもある。
関西弁キャラがアニメ版で一人称「ウチ」でバズったとき、漫画原作側で一人称が「私」だと、ゲーム化の際にはその声優さんに「私」で読ませたりする。
なお、声優さんは制作委員会(アニメ版)の座組で関わっているので、ゲーム化の際は出版社は個別に声優事務所と契約を結び直す……
などなど、IPビジネスに関する企業間の綱引きは「部分的に許可が降りていても」「膨大な権利使用料を払っていても」「広義のビジネスパートナーでも」これほどまでに熾烈なのが当たり前だ。
正直「一次創作者も二次創作者に敬意を払うべき」とか「もっと二次創作が自由にできる発展的な世の中になるべき」などの主張は、プロであればプロであるほど、全てのプロにおいて抱腹絶倒ものである。
本当に、やめた方がいい。
あるIPが、数百万円~数千万円を払って他社IPとコラボさせていただいたとき、それだけの契約料を払っていてなお、その監修は鬼のように厳しい。
コンテンツビジネスとはIPビジネスであり、すべてのコンテンツホルダーが超絶絶対NGとすることは「IP毀損」だからだ。
今の私の仕事で、IP毀損をしてしまって部署を変えられた者、職を辞した者、損害賠償を請求されてしまった会社は、珍しくない。
Xで表面化することが全てではない。むしろ、BtoBでは表面化しないまま、係争や精算が行われていることの方が圧倒的に多い。
正直、公式IPで仕事をしている者としては、同人誌の二次創作ですら「人類の持つ奇跡的な優しさ(お目こぼし)が発揮されている」としか、今は思えなくなっている。
その奇跡的な優しさからこぼれることをしているとき、「版元が来ない間は許されている」わけではなく「版元は着々と準備を進めている」のである。
静かに無言のまま内容証明は送られ、ある日いきなり届くのである。ライツを扱う部署には、それ専門の担当者がいる。
というか、IPを扱う部署では業務の基礎教養的入り口として、国家試験である「知的財産管理技能検定」を取らせるところもある。
鹿乃つの氏の著作権認識では3級合格も遠く見えるが、彼女はこの国家試験の内容すら「間違っている」「弾圧的である」」「撤廃された方が発展的なよい世界になる」と言うのだろうか。
年に3回も実施されているので、鹿乃つの氏は「実業社会の当たり前の著作権の世界」を垣間見る機会として、テキストを買って勉強されるのは有効だと思う。
そして、Xで自身の発言を見ている人たちの中には、2級や1級を持っている「無名の普通の人」もゴロゴロいるということも、受験者数の統計と合わせて認識できれば、なおよいと思う。
山手線沿線で知財を扱っている会社なら、議員の対応など「日常業務」である。
むしろ、つながっていても全然メリットがないのによくやってくるものだから、「面倒くさい仕事」として新人たちに「怒らせないように、テキトーに応対といて」という業務である。
新人たちも、時間を取られるだけのうんざりな仕事の一つとして嫌々である。
なぜかと言うと、彼ら彼女らは繁忙期以外は年中人と会って話すのが仕事であり、それゆえにもっともらしく話したことの200に1つも具体的に動かし始めない。
たかだか議員の1人と、呼びつけて数時間一緒に食事をしただけで、「自分には議員がついている」などSNSで自慢気に言ってしまうのは、今年一の共感性羞恥であった。
同僚たちも、数年目の若手たちも「うわぁ……」「きつい……」である。
あの程度の「日常的な、まず空振りの雑事」程度のことを自慢してしまうことが、逆説的に氏がIP業界(というか山手線や飯田橋~神保町辺りにオフィスがあるホワイトカラー界)とあまりにも縁遠いことを証明してしまっているのだ。
山手線周辺で、大なり小なりIPが業務に絡む範疇で働いている人を全員合わせれば5%として85万人ほどいるだろうか。
私の見立てでは、約85万人の正式なプロが、恥ずかしくて耳が真っ赤になるレベルのことをしてしまっている(そして皆賢いので当然対面以外で誰も言わない)ように思うので、今後は本当にやめた方がいいと思う。
人には、向き不向きがある。
絶望的に向いていないところで英雄たらんとすることは、革命家たらんとすることは、生涯において継続的に自らの生を不幸にするだけだ。
鹿乃つの氏には、SNSやレスバを休止して、もっと自身の適性の向いているところで、穏やかな幸せを得てほしいと思う。
Permalink |記事への反応(25) | 14:18
2025年9月12日、リコーから「RICOHGRIV」が発売されます。
そう言われているこのGRIV、カメラ初心者のあなたにこそ、全力で、魂を込めてお勧めします。
なぜかって?
カメラって、大きくて重い、そして操作が複雑で、持ち運ぶのが億劫…そう思っていませんか?
まるでスマートフォンをポケットに入れるかのように、スッと服のポケットに収まるサイズ。
しかし、その小さなボディの中には、APS-Cという一眼レフカメラにも使われている大きなセンサーが詰まっているんです。
「あっ、今だ!」と思った瞬間、カメラの電源を入れて、設定をいじっているうちに、その一瞬はもう過去のもの。
まるであなたの眼と心がダイレクトに繋がったかのような、圧倒的なレスポンス。
カメラ任せでシャッターを切るだけで、まるでプロが撮ったかのような、深みのあるモノクロ写真や、空気感まで写し出すカラー写真が撮れてしまう。
撮るたびに、写真の奥深さに魅了されていく。GRは、そんな写真の楽しさを教えてくれる、最高の先生なんです。
リコーは、長年にわたり、写真という文化と真摯に向き合ってきました。
そこには、リコーが写真に捧げてきたすべての想いが込められています。
これからカメラを始めるあなたにこそ、その魂の宿った名機を手にしてほしい。
あなたの日常を、人生を、豊かにしてくれる、唯一無二の相棒となるはずです。
さあ、この稀代の名機とともに、写真の旅を始めましょう。
入社前
新卒から4年勤めた会社を辞め、ライブ配信系のスタートアップに転職した。かねてより進路相談に乗ってもらっていた大学時代のバイト先の上司Aから職場見学の誘いを受けたのがきっかけ。この紹介された会社はAの大学時代の同級生(Aと私は同じ大学出身で、私から見ても先輩に当たる)が起こした会社で、ちょうど収録スタッフを探しているということで私に声がかかったらしい。二つ返事でOKし、Aと2人で見学に行くことに。応接室に通された先で出迎えた社長は人の顔色や事情を伺わないというか、意図的に無視することで鈍感に物事を進める人なのだなという印象がこの時からうっすらあった。しかしその印象をおいても、当時の私は希望の職種につけるという希望を優先し、多少の違和感に目をつぶった。オフィスを案内されたときも、どことなく社員が無愛想で無機質な空間(他の社員からすれば突然の来客なのだから仕方ないという意見もあるだろうが、私に対してというより、その場の空間が他の人間に対する全面的な無関心に支配されているという印象だった)だなというのが最初に抱いた感想だったが、これも仕事内容に多くの注意を割いていたため違和感にフタをした。履歴書を送り、役員面接を1回受けて採用が決まった。
入社後
入社後早々地方ロケに投入されることになるが、この直属の上司Bとの相性が最悪だった。未経験の私が質問を連発し、この態度がBには鬱陶しかったらしく、1カ月以内には日常的な会話もなく業務連絡も必要最低限の内容しかやり取りされない状況になった。ロケ当日、まとめた荷物にBから「その機材はいらない」と指摘され出張直前でバタついたため、あやうく新幹線を乗り過ごす羽目になった。ロケ中は3人1組での行動だったが、基本的にBは私ではなく同行した協力会社の人に話しかけていた。出張が終わり駅に着いた後、私は会社を紹介してもらった上司Aと会う約束があったので、会社に戻る先輩2人と別れて駅にとどまった。この行動がまずかったらしいが、Bは物言いたげな表情を浮かべながらそのまま駅のホームに向かったためその場では何も起こらなかった。私はその後Aと合流してご飯を食べ、帰りの新幹線の中でスマホを開いたところ、AからのLINE通知が鬼のように押し寄せていた。社長が私が出張後に帰社しなかったことに激怒しAに怒りのメールを送ったとのこと。「駅到着後は自由解散」とSlackで事前共有されていたので会社には戻らなかったが、どうやらBは新幹線で帰社し増田は戻らなかったと報告したらしい。出張後は速やかに帰社するのが常識だがそれを破って友人と会っている(BにはAと会うとは伝えておらず現地の友人と会うと伝えていた)、もしかして増田ってダメな奴ですか?という文言でAから転送されてきたメールは締めくくられていた。その後Aからもお前のせいで社長から不当に責められている、事情を説明してくれと抗議のLINEが追って届いたが、突然の情報の奔流と、与り知らない理由で自分が激しく叩かれている事実を知った衝撃からそのLINEには返信することができなかった。
この一件を持って社長からは「ダメな奴」の烙印を押された私は、最初のプロジェクトからは外され、本件以降呼び捨てで呼ばれることになる。Bと社長の両方からよく思われず業務遂行の面で味方がいなかったこと、Bが「増田と業務のことに関してコミュニケーションが取れない」と社長にチクっているのを耳にしたこともあり、当時の自分が何を考えて過ごしていたかは詳しく覚えていないが、気まずさと居場所のない荒涼とした強い不安の波と比較的凪の状態を交互に耐えるような日々が続いていたように思う。いや、出勤途中でこちらの姿を認めた瞬間に走って逃げるような人とコミュニケーションが取れるわけなかろうて。「自分の頭で考えろ」と「なんで相談しないんだ」の境目は新人には見分けがつかない。ちなみに、Bは1年後同業他社に転職していった。私としては青天の霹靂だったが、Bは入社から5年の間、社長とのコミュニケーションに苦心していたらしいと聞いた。
次なる厄介事は同僚Cのガスライティングである。入社して間もないころはCは普通の社員という印象で、気になるところがあればこだわりが強い点、もしかしてこちらの発言がまずかったかな?と思わせてくるような無機質な間の取り方や表情を使う点で、最初はASD傾向がある人なのかなーと考えていた。この表情等のコントロールを私が敏感に感じ取っていたのと、異業種に転職したこともあり頑張って溶け込まないと!と意気込んでいたので、彼女に積極的にサポートを申し出たり仲の良さをキープしようと無理に振る舞っていた。同性とは仲良くしなければならないという謎の規範意識が自分の中にあったこともあり頑張っていたが、結果的にそれが良くない結果につながった。1年目は気が付かなかったが、私が頼まれた資格をAが自分も取るとタイミングを合わせてきたり、服装等で何かと私の真似をするようになった。それからほどなくして、Cは私の細かな振る舞いにケチをつけてくるようになった(私は傘を下に向けて持って歩いていたが、その持ち方はおかしい、危ないからやめろと言う、私が会食に白い服を着てくるとよくそんな服着てきましたね~と嫌味を言う等)。私がコンタクトではなく眼鏡で出社した日の翌日、イメチェンしてみたのと眼鏡をかけてきたときは寒気がした。この時2年目の春で、私の真似をしながら逐一行動をチェックして槍玉に挙げるというCの分裂した行動にほとほと嫌気が差していた。調べると、Cはどうやら自己愛性人格障害の行動パターンにぴったり合致していた。その他、私のタイピングにCが合わせてタイピングを開始するなど、人に言ったら信じてもらえないような細かな嫌がらせがあった。
退職を決定的に決意したのは3年目の夏である。社内に響き渡る大声で責められ怒鳴られ、プチっと切れてしまい頭の中が冷静になったのを覚えている。自分は被害者ではなく加害者寄りの意識だったし、自分はいなくなった方が自分も会社も幸せになるだろうと本気で思っていたからだ。その後の業務でも、軽い確認の質問に対してピシャっとキレ気味の一言が返ってくるだけのことが度々あった。私に対してだけではないが、心の通った人間同士の会話だろうかこれは、と思う応酬があちこちに散見される。他の同僚数名からはあれはないよね(笑)みたいな気遣いの言葉をかけてもらったりもしたが、静かに心に決めた退職の意志は揺らぐことはなかった。私だけでなく他の社員もきつく叱責されることがあり、それが余計に報告が雑になったり滞ったりする原因になっていることはみな知っているものの、どうこうすることもできないので愚痴を共有してその場は終了という感じ。
退職を申し出た次の日から有給消化に入った。その日のうちに諸々の備品を返却しなければならなくなったので、挨拶回りの時間はなかった。
入社後の出来事を振り返るとどれもこれも肝が冷えてくる思い出ばかりで、本当に辞められてよかったな…というのが正直な感想である。自分の無知ゆえに上司や社長をイラつかせてしまったことは反省しているが、心理的安全性がマイナス圏に到達した環境下で生き延びてきた自分を改めてねぎらってやりたいという思いが改めて湧いてきた。体力は人並み以上にあったのと元々楽観的な性格だったのもあり、深く病んで折れる前に逃げることができた。
振り返って、社長に対する印象も会社全体に対する印象も第一印象に戻っただけだという結論に達した。
今まで第一印象は先入観でしかないと考えてきたが、それなりの年月を生きてきて蓄積された経験が直感となり第一印象を形作るものであって、軽視するものではないと改めて思う。BやC以外の上司や同僚にはよくしてもらったし、下らない話をして笑い合った思い出も含めていい経験になった。
杉村タイゾーのバカが、「年収400万以下は東京に住むな」とか言ってるね。
これがどんなバカな話かわからない、あるいは表面上わかったふりしながら、実際それを加速させるような政治をしてる国や都の政策に何も言わない、そんなバカばっかだから日本は衰退した。
年収400万のやつが東京に住もうとするのは、その「400万の仕事」が「東京にあるから」だ。
当たり前だよ。地方に住んでその仕事がそのまま続けられるなら誰だって地方に住むよ。
関東だって16号の外側なら普通にまあまあ安く暮らせるんだ。誰も嫌がらねえよ。
バカ言うなってんだよな。東京に中低所得の仕事が要らないわけないだろ。
むしろ都市部こそ、サービス業務やらインフラ整備やらの需要があって当たり前だろうが。
そういう仕事に、生活できる十分な給与が出ないなら、出さない方がおかしいんだよ。
企業にその体力がないなら、そういう給与でも暮らしていける補助を国や自治体が出さなきゃいけないんだよ。
実際、ニュースにもならないので日本人は知らないが、ほとんどの先進国ではそうなってる。
ミッドタウンのど真ん中、タイムズスクエアに歩いていける距離に、家賃数万円で暮らしてるエッセンシャルワーカーがゴロゴロいる。
日本では、ニューヨークの家賃は何十万円だとか煽られるが、それは「市場価格」。
ニューヨークの賃貸の半分は市場価格では提供されてない。そういう規制があるからだ。
https://www.nyc.gov/site/mayorspeu/programs/rent-stabilization.page
ニューヨークの半数以上(公営住宅もあるので)の住人は、日本人の所得でも無理なく払える程度の家賃で生活してる。
ニューヨークに暮らすのが鬼のように金がかかるなんてのは嘘。少なくとも単純すぎる単純化。
当たり前だよ。ニューヨークにだって電気工事技師も看護師も要るんだよ。そういう仕事につく人を、みんなわざわざ郊外から通勤させてるとでも思ってるのかよ。
そういうシステムを全く作ってこなかったのが、日本の政治と称する殿様商売なんだよ。
そろそろ気づいたらどうだろうね?
収入が良くて学歴が高い「生産的」な人たちがはてブから去って行ってるんだよ。老いてリタイヤしているというのもあるかも。
「保育園落ちた詩ね」の左翼はあの成功体験が忘れられずに表現の自由とか外国人かわいそうとか生活保護とか夫婦別姓とか女性の権利とか痴漢詩ねとかおひとり様万歳とか鬼のように朝日新聞の記事をブクマしまくってるように見えるけど老いていくためかどんどん弱体化してきている。あと、ひまをもてあまして昔2chを荒らした団塊おじが退職した後に乱入してきてクソみたいなはてサと反対側の保守的な世迷言を書き散らしているけれどこれもクソコメ過ぎて反論がつくだけで大きな動きにならない。オタクは昔見たいなハードコアエッジクラスタはいなくて、電車やトイレでポチポチスマホを触りながらガチャ課金とかして「養分」をやっている層ばかりだ。「推し」とか言って主体性があるようなふりをしているけれど実際にはただの養分で文化的な進化が停まった人達。結論としてはてブコミュニティは終わっている。再生の道はあるのか・・・
まあいいけど人気は出ないよね。
うる星やつら、とかも期待だけはとてつもなく大きかったけどいざ始まれば1話以外は誰も見ない。
らんまとかもそうだし。
その理由は色々とあるんだろうけど、あえてヒットした要素を外してしまうからなんだと思う。
でもさ、実際にヒットしたアニメは押井のうる星なわけじゃない?
それを完全に無視するのはどうかと思う。
偉大なアニメをリメイクするに当たり、アレンジをどうするのかは鬼のようにもっと考えないといけないと思う。
なんちゅーか、もう一度大ブレイクを起こさせてやる!!という気概は欲しいよね。
ちょっと面白いアレンジ思いついたから見て見て、私を見てえええええ!!
みたいなノリなのは嫌。
Permalink |記事への反応(10) | 10:18
ちょっと話がズレるけど俺がSACDからオーディオ沼にハマって冷めた理由がソースの音源がバラバラっていうのがあったのを思い出した。
結局何を持って「良い音」とするか基準は人それぞれで、生音こそ至高と考える人なら本物に近い音を「良い音」と感じるだろうし、オーディオ的な意味での良い音を求めるならスピーカーやアンプなどのシステム構成にこだわるだろう。
SACDは実際「音」が良かったんだが結局ソースがバラバラでレコードからリマスターしたものもあればライブ録音もあって、どれを聴いても全て満足するシステム作りは経済的にも無理だし、自分の感性と照らし合わせても意味がないことだと悟った。
仮に最新のライブ録音だとしてもコンサートホールに鬼のようにマイク立てて録音してるものもあれば、天井からマイク1本吊るして録ってるものもある。そういうの全てに対応できるシステム構築って現実的に難しいと思うんだ。極論言うとCDの枚数だけシステムも必要になる。楽器の位置にスピーカー置くのと同じくらい非現実的。だからみんなどこかで妥協してカバーできるようにしてるんだと思う。
結局は何を持ってして自分にとって「良い音」とするかなんだよね。
俺はSACDプレーヤー売ってから大分経つけど、音楽の楽しみ方がカジュアルになった分、いろんな音楽聴くようになった。それはそれで楽しめてるよ。