
はてなキーワード:高等科とは
三菱系企業は戦前から東大、一橋、慶應義塾が強いと言われてきましたが
三菱重工業では伝統的に三菱長崎造船所や下関造船所の関係で九大(九州帝國大學)工学部も強い(三菱重工業第10代社長は九大工卒の増田信行)ですし、京大(京都帝國大學)も三菱系には全般的に強いです。
三菱銀行や三菱信託や東京海上火災保険や明治生命保険の三菱系の金融会社では伝統的に東大と一橋と慶應義塾が強く特に三菱銀行では三菱合資會社社長の三菱財閥四代目の岩崎小弥太(岩崎弥之助の長男)に厚く信頼されていた加藤武男(吉田茂内閣経済最高顧問)の影響で慶應義塾が東大と並ぶ学閥が強いことで有名でした。
戦後の三菱銀行でも加藤武男(慶大理財)、千金良宗三郎(慶大理財)、宇佐美洵(慶大経済・佐藤栄作内閣で池田勇人内閣からの引き継ぎ人事として戦後初の民間銀行出身者として第21代日銀総裁に就任)の3名が慶大卒業生で小笠原光雄(東京帝大法)、中谷一雄(東京帝大法)、田実渉(東京帝大経済)、中村俊男(東京帝大法)、山田春(東京帝大法)、伊夫伎一雄(東京帝大経済)、若井恒雄(東京帝大法)の東大卒業生7名に次ぐ頭取を輩出しています。
三菱商事は伝統的に圧倒的に東大(東京帝國大學)が強く慶應出身の社長は水産畑の第5代社長の三村庸平(慶大経済)社長だけですし、一橋出身の社長は機械畑のブンチンこと第4代社長の田部文一郎社長(東商大)と戦後の混乱期の田中完三社長(東京高等商業卒業で三菱合資會社出身)の二人だけです。
戦後の東大出の三菱商事社長は服部一郎(東京帝大法)、高垣勝次郎(東京帝大法)、荘清彦(東京帝大経済)、藤野忠次郎(東京帝大法)、近藤健男(東大工)、小島順彦(東大工)、小林健(東大法)、中西勝也(東大教養)の8名となります。因みに高垣勝次郎氏のご子息の高垣佑氏は東大経済学部卒業後、東京銀行(戦前の横浜正金銀行)に入行し、上記の若井恒雄頭取の時代の三菱銀行と合併して東京三菱銀行の初代頭取に就任します。
三菱商事の社長には東大や一橋や慶大以外には三菱の岩崎小弥太と縁が深い旧制成蹊高等学校からハーヴァード大学政治学部を卒業した第8代社長の槇原稔や大漢和辞典編纂者の漢学者の諸橋轍次氏の御曹司である上智大学経済学部を卒業した第7代社長の諸橋晋六や早稲田大学理工学部を卒業した第9代社長の佐々木幹夫や京都大学経済学部を卒業した第12代社長の垣内威彦等もいてアメリカのハーヴァード大学やカソリックのイエズス会経営の上智大学卒業の社長もいる様に東大卒業者と慶大卒業者に昭和時代にはほぼ頭取の卒業大学が限定されていた三菱銀行に比べると結構、外国大学や早慶以外の私大等バラエティに富んでいます。
三井系は戦前の三井銀行は財界三田閥の慶應義塾出身者の中上川彦次郎(福澤諭吉の甥)や池田成彬(中上川彦次郎の女婿)の強い影響力でかなり強い慶應閥の銀行でした。
戦後の三井銀行(戦前には第一銀行と合併して帝國銀行)及び三井グループのドンと言われた佐藤喜一郎は戦前の三井銀行では慶應義塾大学に次ぐ学閥だった東京帝國大學経済学部卒業生でした。佐藤喜一郎は旧制横浜一中(現在の県立希望ヶ丘高校)、旧制一高、東京帝國大學経済学部卒業のエリートで当時の池田成彬と並ぶ三井銀行の実力者だった東京英和学校(後の青山学院)出の米山梅吉の紹介で三井銀行に入行します。
戦後の三井銀行でも慶大出身の社長(頭取)は柳満珠雄(慶大理財)や板倉譲治(慶大経済)や神谷健一(慶大経済)と東大出身の佐藤喜一郎(東京帝大経済)、田中久兵衛(東京帝大経済)、関正彦(東京帝大経済)、末松謙一(東大経済)の4名に次ぐ3名を輩出しています。
三井銀行では戦前は池田成彬と並ぶ実力者だった米山梅吉(後の三井信託社長)が青山学院の前身の東京英和学校の出身者であったので其の米山梅吉の強い引きで三井銀行に入行した青山学院高等科卒業の万代順四郎も慶應出や東大出との出世競争に打ち勝って三井銀行の頭取を戦前に務めています。※銀行では戦後は頭取と呼ばずに社長と呼称しています。
しかしながら三井財閥の持株會社だった三井合名會社と並ぶ中核企業だった三井物産は鈍翁・益田孝の三田閥偏重の学閥排除の目的から意識的に一橋の高等商業学校や東京高等商業学校や東京商科大学を三井物産の幹部社員候補として意識的に重点的に優先採用して来たので戦前から戦後のある時期までは三井物産は完全な一橋の如水会が最大の学閥となる総合商社でした。
戦後の三井物産でも名物社長と言われた三井物産再統合の立役者・新関八洲太郎や『ハヤブサの達』こと水上達三、『根アカ経営論』の八尋俊邦等は皆、一橋の東京高等商業学校や東京商科大学の卒業生です。
戦後の三井物産の東大出の社長は池田芳蔵(東京帝大経済)、江尻宏一郎(東京帝大法)、槍田松榮(東大工)、安永竜夫(東大工)の4名で京大出の社長は熊谷直彦(京大法)と上島重ニ(京大経済)の2名で慶應出の社長は今の堀健一(慶大経済)の1名だけです。
一橋(3)と東大(4)と京大(2)と慶大(1)以外の三井物産の社長の学歴は長崎高等商業学校(長崎大学経済学部)卒業の若杉末雪と東京外国語大学外国語学部ポルトガル語学科卒業の清水慎次郎と横浜国立大学経営学部卒業の飯島彰己となります。
住友系は戦前の財閥持株会社だった住友合資會社が戦前には今の東大の東京帝國大學や今の京大の京都帝國大學や今の一橋大の東京商科大学や今の神戸大の神戸商業大学の旧帝大と旧商大グループを意識的に幹部社員として優先採用してきたので今でも東大、京大や一橋大や神戸大が人脈的に強い傾向があります。
戦後の住友銀行頭取は野田哲造(東京帝大法)、鈴木剛(京都帝大経済)、堀田庄三(京都帝大経済)、浅井孝二(神戸高商)、伊部恭之助(東京帝大経済)、磯田一郎(京都帝大法)、小松康(東京帝大経済)、巽外夫(京都帝大法)、森川敏雄(東大法)、西川善文(阪大法)となります。
戦後の住友銀行の頭取の学歴は京大4名、東大4名、阪大1名、神戸大1 名となります。
三菱財閥や三井財閥の銀行や商社に多く見られた一橋や慶應義塾出身者は住友銀行頭取では皆無となります。
文系は戦後派の阪大も住友系には強く西川善文元三井住友銀行頭取(後にゆうちょ銀行社長)の様な個性的な人材を輩出しています。
老いと病により先も長くないため、ここに私の生い立ちを残しておきます。
私は公務員の父親と教師の母親の間に長男として東京都千代田区六番町に生まれました。
本籍地は京都府京都市で、我が家はかつてとある公家に仕えていた身分の低い青侍の家系です。
御維新の際に主家が天子様とともに東京へ移り、私の先祖も従って移ったとのことです。
父は衆議院法制局に勤務する国会職員で、母は学習院女子中等科・高等科の国語教員でした。
私は学習院幼稚園、学習院初等科に通い、父の転勤に伴って米国のボーディングスクールに一時期在籍しました。
その後帰国し、東京学芸大学附属高等学校を経て東京大学文科一類に進学しました。
高祖父、曽祖父、祖父、父と公務員の家系だったため、国家公務員になるつもりでしたが、銀行に入行していた先輩から誘われた食事の席で、先輩とその上司から強引に誘われて三和銀行に入行することを決めました。
公務員に対してそれほど強い思いはなく、出来の良かった弟が外務省への入省を希望していたので「まあ別にいいか」という気持ちでした。
弟は学士助手を経て法学者になったので役人になることはありませんでしたが。
入行前のお客様扱いはすぐに消え去り、すぐに先輩から厳しくしごかれる毎日が始まりました。
日に分けて書いていくつもりです。
Permalink |記事への反応(10) | 13:00
我が家はいわゆる青侍の家系だ。幕府や大名ではなく、公家に仕えており、公家の使い走りや護衛をしていた身分の低い武士である。明治維新で転機を迎え、その時の当主とその息子、その孫(俺の曽祖父)の3人が頑張ったおかげでようやく曽祖父が男爵となるも秒で終戦を迎えた。
現在の我が家は別に家訓があるとか、厳しいという訳ではない。しかしなんとなく「我が家はこう」という暗黙のルールがある。
・生まれも育ちも東京だが本籍地は京都。祖父は自分のことを京都人だと思っているが一回も住んだことはない。
・姉や妹、叔母などは大学も学習院だが、元々学習院は高等科までだったため男は一般入試で国立か早慶、防大に進むべきとされている。
・大手の民間企業よりも教師、公務員、研究者、自衛官が良い進路とされている。
・俺含め男は習い事は乗馬、弓道、剣道。大昔のご先祖が身を興した地方の神事に参加するため流鏑馬も習う。
・裕福なわけでもないが貧しいわけでもない。元々財産らしい財産も何もないので華族廃止の影響はなかった。
8年ほど前に学習院でのイジメのことを書いてホッテントリ入りした。
このとき、中等科でMくんを自殺寸前にまで追い込むイジメをしていたグループのメンバーで
高等科では苦手な水泳が嫌でプールにブルーレットを投げ込んだ人物は
いまでは国立大学の教員となり、テレビにも出てコメントなどをしている。
彼の研究していることや関わっている事業は多くの人の命に関わることだろう。
彼とクラスが一緒になったのは中高6年間でおそらく一度くらいで、
同級生がこんな立派な仕事についてることは誇らしいことなのだろう。
それでも、いくら現在は人の役に立つこと、ためになることをしているからといって、
彼が、彼らが過去にMくんに暴力をふるい人権を蹂躙し人生を狂わせ、
一生癒えることのない傷を負わせたことに変わりはない。
中学生の頃、僕は好きだった子に告白をした。恥ずかしさが勝って直接言うことはできなかった。授業中や放課後にやり取りしていたメモ書きの延長線上で、思いの丈を書きつづった手紙をこっそり渡した。
その翌日、下校しようとしていた僕はその子から手紙を受け取った。
「じゃあね」
間違いない。告白の返事だろう。結果は何も分からないのに、勢い余った嬉しい気持ちが胸にこみ上げてきた。
下校するのを止めた僕は、滅多に人が来ない最上階の踊り場に駆け上がると、すぐに手紙を読み始めた。
「好きになってくれてありがとう。」
手紙はそんな言葉で始まっていた。天にも昇るような気持ちになったものの、読み進めていくうちに徐々に冷静さを取り戻していく。
雲行きが怪しい。手紙の最後は「ごめんね。」という言葉で括られていた。
じわじわと別の波が押し寄せてくる。悟った。ふられた。
優しい彼女は、言葉を選びに選びつくして、僕ができるだけ傷つかないように手紙をしたためてくれたのだろう。彼女の真意にすぐに気づくことができず、それだけ失恋の反動は大きかった。
しばらく独りになりたかった。日の当たらない最上階の踊り場は、陰鬱な気持ちに拍車をかける。ここではないどこかへ行きたくなった。
僕の通っていた学校は、最上階の渡り廊下から校舎の屋上を眺めることができた。そして廊下の付け根から手すりを乗り越えると、屋上まで歩いて渡ることができた。もちろん、そんなことをしてはいけないのは明白だった。
それでも、好きな子から手紙を受け取った高揚感とふられてしまった喪失感が妙に入り混じったその日の僕には、冷静な判断ができなかった。
人生で初めて屋上に立ち入った僕は、屋上の床が見た目と違って意外とふかふかしていることに感動した。いつもは教室や渡り廊下からしか見下ろせなかったグラウンドを見渡してみる。部活中の生徒が小さく見えた。周囲には学校以上に高い建物はなかった。空が広かった。
ふかふかの屋上に寝転がって、ポケットに突っ込んだ手紙を広げてみる。何度読んでも結末は同じだった。
いつの間にか日も暮れかかって、少し肌寒くなってきた。下校時刻だ。屋上に侵入したときと同じ手すりを乗り越えて、渡り廊下に戻ってきた。
その時、死角にいた初老の先生と目があった。普段は高等科の担当で、週に一回は中等科でも授業を受け持っている数学の先生。お互い顔は見知っていた。
血の気が引いていく。どう言い繕ってもごまかすことはできない。叱られる。終わった。
そんな絶望感に苛まれた僕に、先生がかけた言葉は意外なものだった。
そう言うと先生は、何事もなかったかのように渡り廊下を抜けて職員室の方へと歩いていった。
何が起こったのか、しばらく頭の中で整理がつかなかった。
何となく落ち込んでいる雰囲気を察して、今回は見逃してくれたのかもしれない。先生のちょっとした優しさが、今の僕には嬉しかった。
安倍昭恵は聖心女子専門学校出身。大学へは進まず電通へ。(この学校から4年制大学へ進まないのは1割以下という話も)森永製菓創業家の長女として育ち、聖心幼稚園から初等部、中等部、高等科、聖心女子専門学校へと進学した女性だから、教育が世間と比べて偏ってるんだろうな。
ここからは余談だが、幸福の科学は精神女子専門学校を取り込もうとしたことがある。
その記事は、映画「かみさまとのやくそく」をバックグラウンドにして居るのはちょっと調べれば分かる。
その映画に出演してるのは「幸福の科学出版」から多数の本を出版してる池川明医師。
生まれてこの方十六年、処女をやっている者なのだが友人の話を聞いて時折恐怖しておる。
中等学校では数えるほどしかおらなんだ不順異性交遊者が高等科へ上がると十の指では、いや足も含めて二十の指でも数えることができん。あな恐ろしや。
先日も仲間内で夕餉を共にした際に親友が中等学校在籍時に純潔を散らしていたことを知った。ブルトゥス、お前もか。私が冗談半分で交際相手でもない男と情を交わせば絶交すると言ったのを間に受けていたようだった。実際、言葉を失ったがそれ如きで揺らぐ友情ではない。私は涙とそれに溶けた睫毛装飾液と筆で描いた目線が混じりあった黒い雫を零した。
私が感じる恐怖というのは何もする相手がいない、ということではない。単純に痛そうだからに過ぎん。
興味が湧いて秘所に指を入れてみた事がある。指一本と少ししか入らなかった。具体的に言うと中指丸々と人差し指の第一関節まで、だ。しかも痛かった…もう二度とこのような真似はすまい。解せばとか濡らせば良いなどという助言は要らぬ。詳細は省くがそういうことは十二分にした。それでもこの結果だったのだ。なんと恐ろしい事か…!かような体たらくで男を受け入れたり子を産んだりすることが出来るのだろうか。我が母上もこのような試練を乗り越えたのだと思うと頭が下がるばかりである。
追記
読み捨ての三文小説、とかいう意味合いらしい舶来の映画には良い褥での一時を過ごす為に秘所にピアッシングをした女が出てきた。痛くないのだろうか…夫が麻薬商人であったから麻酔替わりに商品を使いながらしたのかもしれぬな。