
はてなキーワード:高畑とは
「坊主」っていうXアカウントあるじゃん? あれ、普通にみんな面白がってたはずなのに、いつのまにか「坊主フォローしてるとか、つまんねえやつ確定だな」みたいな雰囲気になった気がするんよな
致命的なスキャンダルがあったとかいうわけでもないのに、なんかみんな急に手のひら返した覚えがあるんよなあ。まあ強いて言うと、書籍出したのがちょっとウザがられてた覚えはあるが
まあ上の記事に書いてる、Tシャツのタックインが普通→ダサい→普通……となってるように、みんなの「ダサい」「つまらない」ってコロッと変わってしまうもんなのかもしれんが。
ほんこれな
最近の日本じゃ The Alters やスパイダーバースのフレイバーレベルの反体制描写ですら、
なかなかお目に掛かれないからなぁ
ただまぁ下記のようには思う
描写が過激過ぎるから締め出しはありつつも、『はだしのゲン』や『日本昔ばなし』が生まれ、
パクさんが『火垂るの墓』を残してくれて良かったよな
というか、極端に振れずに、"適当"であることを良して生の力強さを肯定した、
今後、おそらく日本に生まれないだろうと思われるタイプのインテリ・エリートで、なおかつ偉大な大衆芸術家だからな
答えを出ないことを考え続ける作品を作るのも、答えが出ない作品を作って商業ラインに乗せるのも、
ちなみにワイ的には、疲れて帰ってきた時に、辛い状況の時に、
難しい/説教くさい話は観たくないって考えは、理解・共感できるけど、
⭐️主人公の資格がない人物を主人公に取り上げて、人との繋がりについて思いをはせる大切さ⭐️
私たちはアニメーションで、困難に雄々しく立ち向かい、状況を切りひらき、たくましく生き抜く素晴らしい少年少女ばかりを描いて来た。
しかし、現実には決して切りひらくことのできない状況がある。それは戦場と化した街や村であり、修羅と化す人の心である。
そこで死ななければならないのは心やさしい現代の若者であり、私たちの半分である。
マルコを取り巻く人々は悪人であってもときに良心のうずきに悩まされ、善人であっても善人であり続けられるほどの強さがなく、
常に人生と社会に対してとまどいつつ向き合っている弱い弱い私たち自身の姿でした。
私たちはここでおそらくはじめて、"主人公" たる資格に欠けた"人物"と"社会"を主人公にしたアニメーションを作り上げたのだと。
⭐️A or B と極端に振れるのではなく、答えが出ないことを自分ごととして考え続ける大切さ⭐️
日本では――日本の観客に関しては、清太について同情的なところが大多数だったんですね。
これは、(公開)当時とても意外でした。
というのは、作る時に私は、清太っていうのは、ある意味では非常に今の子どもたちに似ていると思っていたんです。
「お金があればなんとかやっていけるだろう」と思った。
それで、おばさんに頭を下げたり、屈服したりせずにやっていけると思ったんですね。
(清太の)お母さんが、これは原作では病弱なんですが――
そういう自信があったから、「自分たちだけでやれる」と思った。
こういう在り方は、今の子どもに非常によく似ていると思うんですね。
その――人々と、なんとか折り合いをつけて。
もしも屈辱的であっても、頭を下げなくちゃいけないところは、頭を下げて。
なにしろ自分だけじゃなくて、妹も一緒に生活していかなくちゃいけないんですから。
それでやっていく――ということができずに、すぐキレたりとか、そういうのありますけれども。
お金を持ってさえいれば、コンビニに行けばなんでも買えるし。今。
で、清太も、それを間違えたんだと思うんですよ。
お金を持っていれば、なんとかなると思ったんですよ。
実際に、僕自身が知っているわけで。
それでも歯を食いしばって、我慢して、生き抜いた人はたくさんいるわけです。
ところが、清太という子は、それを耐えることができない。
耐えないで、なんとかやっていけると思った。
子どもなんですね。
自分たちだったら、やっぱり清太側(清太タイプの人間)になるけれど、
でも、清太側にいれば、
という風に見てくれる人がいればよかったんですが……
そうじゃなくて、ただ――同情的に見る、というような。
そうなっていたような気がしますね。
それは当然だと思うし、むしろ、出てくれるくらいの方が良かったと思うんですね。
取るべき態度ではなかったんじゃないか? あの時には――
という風なことを、
清太と節子は "家庭生活" には成功するけれど、"社会生活" に失敗するんですね。
いや、失敗するのじゃなくて、徹底して社会生活を拒否するわけです。
しかし、清太の方も人とのつながりを積極的に求めるどころか、次々とその機会を捨てていきます。
お向かいの娘に「うちらも2階の教室やからけえへん?」と誘われても、
「ぼくらあとでいきますさかい」と断り、学校へも行かず、先生にも相談しない。
置かしてもらった親類の未亡人は嫌味を次々いい放つけれど、
あの時代、未亡人のいうことぐらい特に冷酷でもなんでもなかった。
清太はそれを我慢しない。
「ここやったら誰もけえへんし、節子とふたりだけで好きに出来るよ。」
そして無心に"純粋の家庭"を築こうとする。
そんなことが可能か?
心情的には、べつに現代の青少年たちとだけ類似があるんじゃないと思うんです。
マイホームとか核家族とか、個室やオートバイを子どもに与えるとか、
大人もみんな清太になりたがり、
自分の子どもが清太的になることを理解し、認めているんじゃないんですか。
出来るなら気を許せない人づきあいは避けたい。
それが現代です。
それが、ある程度可能なんですね。
清太の心情は、痛いほどわかるはずだと思います。
でも結局、実のところ、類似というのはこの出発点の心情だけかもしれないんです。
清太と節子が生きた時代というのは、
それにもちろん軍隊、内務班、分列行進「歩調とれ!」と、
ことごとに抑圧的な集団主義がとられていました。
社会生活の中でも最悪最低の "全体主義" がはびこっていたんです。
清太はそういうところから自らを解き放つわけでしょう。
"純粋の家庭"を築くというのは、おそろしく反時代的な行為ですよね。
現代の青少年が、私たち大人が、心情的に清太をわかりやすいのは、
時代の方が逆転したせいなんです。
こっちは時代の流れに乗っているにすぎない。
いま清太に持てるような心情を保ち続けられるでしょうか。
全体主義に押し流されないで済むのでしょうか。
清太になるどころか、未亡人以上に清太を指弾することにはならないでしょうか。
ぼくは、おそろしい気がします。
あのおばさんのような人間にすぐになってしまうんじゃないかと。
見た人はそこに怯えて欲しいんです。
今は善人かも知れないけど、必ずしも善人を貫けないという危険性は、
常に孕んでいるということ、その心配とか。
もう一方これは(作中で)全然描かれてないんですけど、じゃあ孤立しないでやろうとしたら、
いっぺんに隣組とかがんじ絡めで、あの時代だったら、要するに集団主義の中に落ち込むんですね。
同調していかないと、あらゆることに同調していって、もちろん戦争には協力するわけだし、
言いたいことも言えないっていう状況を招く。
どっちに転んでも難しいよね。
8月2日放送のETV特集「火垂るの墓と高畑勲と7冊のノート」を観た。
https://www.ghibli.jp/info/013977/
番組では、これまで存在が知られていなかった7冊の創作ノートが紹介された。高畑は映画『火垂るの墓』において、原作に忠実でありながらも「F清太(ファントム/幽霊)」という独自の視点を加えたことが4冊目のノートで明かされる。原作と異なる重要な点は<思い出のなかの清太>と<幽霊としてのF清太>の二人がいるということだという。F清太は、最後に観客をじっと見つめ、現代の私たちに問いかける存在として描かれている。言われてみれば確かに映画の冒頭と最後にカメラ目線の瞬間がある。長年、心の奥底に染みついていただけだったが、改めて自分がF清太に見られていたことを強く意識させられると同時に、その意味が次第に言語化されてきた。そうか、過去の自分を思い出す幽霊から始まっているのか。過去を思い出し、未来へ目線をむける、その行為に何か深みを感じた。
この映画は、多くの人が指摘していることだが、子どもの頃と大人になってからでは感じ方が変わる。清太は二人で生き抜けると信じて家を出たが、現実は甘くなく、妹を死なせてしまう。その未熟さは、みる大人には悔しさを呼び起こす。
そこに、F清太の俯瞰的な視線を意識してみると今度は、清太の個人の物語を超え、より大きな歴史的な文脈で当時の日本という国の姿と重なって見えてくる。清太は、叔母と決別したあと、東京の親戚の居場所を探そうともせず、叔母との和解を諭した農家や医師の言葉に耳を貸さなかった。和解するチャンスは何度もあったが、戻ろうとはしなかった。その判断は、満州事変以降ABCD包囲網に至るまで、外交解決を放棄して戦争に突き進んだ当時の日本の姿と共鳴しあう。そして節子の死もまた、戦時中に兵士の多くが飢えで亡くなった現実と重なり、戦争が長引き補給が途絶え、国家が国民を守れなくなった姿を映している。空襲のたびに街へでて火事場泥棒を働き、痛快な笑顔で横穴に戻る清太。二人が暮らした水辺は、あたかも戦地となったアジア太平洋すらも想起させる。
内なる他者=F清太は、自分自身の過去の行動を死者の目線で見つめており、時には未来の観客の目をまっすぐに見返してくる。このカメラ視線を意識すればするほど「なぜこんなことになってしまったのか」と、観ている私たち一人ひとりに問いかけているように感じられる。ここには、レヴィナスの<他者>を思わせるものがある。レヴィナスによれば、自己は他者の顔に直面することによって、つまり一方的な応答責任に巻き込まれることによってこそ立ち上がるという(『全体性と無限』)。F清太の視線が観客に向く、その瞬間、私たちは名指され、呼び出され、ただの観客ではなくなる。作品の外でメタな存在であるはずだった私たちは、他者のまなざしを向けられることによって物語の中に引き込まれ、「問われている存在」として主体構成を迫られる。「自分ならどうしたか?」―作品の内と外を隔てる壁を破り、私たち自身の判断と責任を静かに問いかけられる。
番組では、作家・綿矢りさが「子どものころは清太のサバイバルをワクワクしながら観ていた」と語ったのも印象的だった。その感覚は、太平洋戦争開戦直後に「きっと勝てる」と信じていた日本人の空気に通じる。興味深いことに、高畑の絵コンテには、防空壕での痛快なサバイバル生活がもっと丹念に描かれていたが全体の尺の都合から削られたのだという。上映日が迫るなか、高畑本人は自ら切り捨てることを忍び得ず、鈴木敏夫に削除を一任した。番組で紹介された不採用の絵コンテを見る限り、水辺ののどかな生活風景のようだ。編集により、水辺で暮らし始め、父はきっと帰ってくると信じていた清太の胸に去来した観艦式の思い出や軍艦マーチ、そして火事場泥棒などのエピソードが残った。最初は希望に満ちていても、ゆっくりと悲劇が忍び寄る―そうした構造が、上映直前の編集によって鮮明に浮かび上がったように思えた。
物語の転機は、敗戦を知り、父の所属する連合艦隊の壊滅を知る場面だ。<連合艦隊>は単に日本軍というだけではない、海軍のなかでも特別の位置づけをもった組織だ。通常の艦隊や部隊は、海軍省等の指揮命令系統に組み込まれ、直接に天皇と結びつくことはないが、連合艦隊司令長官は「天皇直隷(直属)」という形をとっていた。そこに士官として所属していた清太の父はエリート中のエリートだ。
その連合艦隊に所属する父は清太にとって「何とかしてくれる」存在であり戦争の正義そのものだったが、その希望が崩れ落ちる。その絶望は、敗北を直視できず精神論にすがった国民の姿と重なる。節子が死んだ夜の風雨は枕崎台風だ。この台風で農作物は壊滅し、翌年にかけて1千万人の餓死者が出るのではとの大臣談話が出ていた。そして清太が最期を迎える三ノ宮駅は、父に再会できるかもしれないという一縷の望みにすがった象徴でもあった。見事な演出だ。
そしてF清太の目線は、丘の上からみおろす現代の夜景へと転じ、物語の最後に、いまを生きる私たちに向けられる。その物言わぬ視線はあたかも「清太の行動が未熟に見えたあなた。けれど、あなたが同じ状況に置かれたとき、別の選択が本当にできるといえますか?そうするほかなかった、と空気に流されるのではないですか」と問うているかのようだ。
もっとも、ここまで述べた感想はF清太に焦点を当てた深読みの試みにすぎない。『火垂るの墓』の99.9%を占めるのは、やはり胸を締めつけるような少年の悔恨であり、戦時下のどうしようもない状況、飢餓といった普遍的なテーマだ。その圧倒的な描写力に観るたび心を揺さぶられる。しかし、その感傷のただなかで、最後にF清太がふと視聴者に向けた視線だけは、別のすごみがある。全体の流れからすればわずか1秒足らずに過ぎないが、その一瞬にメタな視点からのメッセージが宿り、感傷を突き抜けた先に観客をつれてゆく力を持っている。川島雄三的な手法だ。
清太が叔母の家を出たのは、彼の自立的な選択だったのだろうか。清太の行動はむしろ、「しょうがない」の状況に流された形にみえる。東京の親戚を訪ねれば?との叔母の問いにも「だって居場所知らない」というつぶやきも状況を受け入れているにすぎない。国家もまた、ABCD包囲網を前に「他に道はない」と繰り返しながら、実際には〈選択不能性〉を自己演出し、主体的責任を回避した。ここに丸山眞男が「無責任の体系」と呼んだ入れ子の構造が垣間見える。
しかし、その<仕方のなさ>の感覚は、まぎれもない当時の人々にとっての記憶だ。戦後、戦争の記憶を語らない人も多かった。「あのときは選びようがなかった」という感覚は、語れば外からの価値観に塗り替えられてしまうという恐れを呼び起こす。占領下の日本でGHQの統制下、180度価値観が転換されるといわれた時代、戦争を生きた記憶は、勝者の正義の空気の中で、語ればすぐに記憶が塗り替えられてしまう。語れば壊れてしまう記憶を守るための沈黙はとてもよく理解できる。<反省>という行為は進歩の感覚がセットになると、胡散臭さが付きまとう。日本は生まれ変わるのだといわれてもなと。冒頭の三ノ宮駅での通りすがりの人の「もうすぐ米軍が来るというのに、恥やで、こんなんおったら」は象徴的だ。結果として人々は沈黙していたのではないだろうか。
終戦直後、小林秀雄は「近代の超克」を自省する知識人たちを相手に、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と言い放った。知識人たちの総括に対する小林の態度は考えさせられる。小林は戦前から一貫して進歩主義に基づくマルクス主義史観には距離を置く発言をしてきた文化人だ。
また、反省という言葉を聞くたびに思い出すのは岸田秀だ。「ものぐさ精神分析」のエッセイ集のなかで、酒を飲んでやらかしてしまったときの自己嫌悪を例に挙げ、なぜ反省しているのに何度も同じことを繰り返すのか、そもそも「自己嫌悪」とは何かを分析した。自己嫌悪に効果がなく同じことを繰り返してしまうのは、<倫理的に覚醒した自分>が<コントロールを失って暴れた自分>を自省し、本来の自分は倫理的で、酔って暴れた自分は本来の自分ではなかったという卑怯な立ち位置のもとで成り立っているからだと喝破した。これは「まだ本気を出していないだけ」の思考回路と同じだ。
同じことが、戦争の記憶もいえるはずだ。特に戦中派(特攻世代)の一つ上の世代の記憶。
太平洋戦争末期を思春期・青年期に過ごした戦中派と異なり、それ以前の世代の戦争の記憶は同じ戦時下といっても微妙に異なったものだっただろう。戦争が泥沼化するに伴い、決して人に言いたくない血塗られた戦闘に巻き込まれた世代だ。長期化する日中戦争に伴う厭戦気分と士気の低下が増大するにつれ、あとに続く若い世代の忠義心がむしろ煽られるのを目の当たりにしていたし、強い責任感とともにお国のために尽くす自己犠牲の美学に傾倒するさまをみていたはずだ。この世代の葛藤を描いだドラマ作品に、山田洋次原作『少年寅次郎』(脚本・岡田惠和)がある。戦地から戻った寅次郎の父が罪悪感から娘さくらの顔を直視できなくなる場面がある。彼は中国戦線で同じ年ごろの子どもを殺していたからだ。その罪の重みと、生きていかなければならない現実とのあいだで沈黙する姿が描かれる。アジア太平洋への侵略を後世の人間が反省するとき、被害者側や左派の論理で都合よく記憶が加工されてしまうが、それは本当に反省といえるのか。歴史は被害者の記憶で塗りつぶせばいいわけではないはずだ。これが右派もしくは保守の大方の感覚だろう。そして保守もまた、お国のために尽くし自らの経験と責任を美しく語れる世代と、戦地で自ら手を血に染めた禍々しい記憶を胸に沈黙する世代に断絶が生じ、結果として戦後、記憶をより美しく語ったほうが、あたかも風化に耐えた岩盤のような面持ちで保守の本流になっていった。右派も記憶の加工に加担しているのだ。語られぬ記憶による生存者バイアス、そして私たちが何を記憶としてすくい取るか、その流れ自体が、戦争の記憶の複雑さを物語る。
しかし、そんな個人としての記憶のしまい方は、将来世代が戦争を止める契機を奪う力学としても作用することに次第に気づかされる。「あの頃はどうしようもなかった」という思い出は、欺瞞的な反省への個人の抵抗ではあっても、やはり将来世代には反省を承継しなければならない思いも強まる。小林秀雄は、歴史は上手に思い出すことだ、といった。しかし、後世の人はえてして都合のいいことしか思い出さない。記憶の封印によって社会が戦争を忘却するくらいなら、という思いで晩年になって初めて戦争の記憶を語り始める人もしばしばみられる。それは、自らの死の間際になると、社会の忘却のダイナミズムが見え始めるからではないだろうか。
火垂るの墓に対して宮崎駿がどのように思っていたかは番組では紹介されなかった。
同じ終戦前後の少年の内面を描いた宮崎の作品として『君たちはどう生きるか』がある。もし高畑のアプローチがレヴィナス的な<他者>であったとすれば、宮崎のそれはヘーゲル的な<承認>の構造を想起させる。新しい母との関係を受け入れられない眞人にとって異世界への旅は必然であり、死者や過去の存在と出会い、その言葉に耳を傾けることが自らを見つめ直すきっかけとなった。それは、自己意識が他者との対話を通じた承認によって成り立つというヘーゲル的テーゼを思わせる。他の宮崎作品をみても、むしろ近代的な自我—対話と承認、責任の引き受けといった構造の中で人間の成長を描こうとする傾向がみてとれる。「泣くときは一人で泣け(風立ちぬのカプローニ伯爵)」や「じたばたするしかないよ(魔女の宅急便の森の絵かき)」、「今からお前の名前は千だ(湯婆婆)」など成長と自立を促すダイアローグが宮崎アニメに特徴的だ。
これに対して「火垂るの墓」では、他者との対話よりも、むしろ「思い出す」ことが大きな意味を持つ。叔母の家を離れた理由も、節子の死後に池へ戻らなかった理由も明示されない。ときには悔恨を滲ませる表情でF清太に思い出されるだけだ。西宮のおばさんが母の着物を米と交換するのを節子が泣いて嫌がるシーンで、耳をふさいで苦悩するF清太の表情は忘れがたい。
高畑作品のもう一つの特徴は、人々が主人公に過度に伴走しないことだ。叔母さんの描き方にそれは表れており、主人公を見放すひとには見放すひとなりの人生がある。だからこそ、視聴者はときに西宮のおばさんに共感を寄せたりもする。これは<思い出す>ことを重視した高畑ならではの演出手法であり、主人公がどうであろうと、人にはその人なりの人生があり、決して主人公に語りかけるためにだけ登場するわけでも、寄り添っているわけでもない。これは、視聴者の視点を固定し、常にだれかに見守られて成長するお姫様・王子様特性の主人公を描いてきた宮崎駿作品とは対照的だ。
<思い出す主体>を用意する手法は『おもいでぽろぽろ(1991)』にも表れる。記憶の中の小学四年生の自分という思い出を<内なる他者>として宿し、現在の自分=タエ子27歳が過去を振り返り、沈黙していた感情や語られなかった出来事に光を当てるという手法である。そこでは、言葉にされなかった過去とともに今を生き続ける姿勢が描かれており、<思い出す主体>であるタエ子27歳とF清太の視線は同じ構造を持つ。つまり、高畑は「語られなさ」をただの欠落ではなく、むしろ思い出すことを通じて現在を形づくる力として示している。
高畑・宮崎の両者が描いたのは、どちらも「戦争と少年の魂」であった。両者はまったく異なるアプローチながら、しかし同じ戦後を見つめていた。宮崎は、自我が他者との対話や承認によって確立されるという弁証法的な構造を物語に組み込み、言葉や応答を通じた関係性の中で成長を描こうとしたのに対し、高畑は「語られなさ」に宿る沈黙の力ー思い出すことで再生される倫理に重心を置いた。高畑勲は『火垂るの墓』を通じてどこまで人間の真実に迫れるかを静かに証明してみせたのだと思う。
「君たちはどう生きるか」に見られる過剰なまでの<対話>は、『火垂るの墓』に対話がなく沈黙に包まれていることとの見事な対比をなす。高畑は、あえて沈黙した視線を通じて「別の選択」の可能性を観客の私たちに突きつけた。「そうするよりほかになかった」状況、それが水辺でのサバイバルであれ、太平洋戦争であれ、それを回避する主体的な<選択>の余地は本当になかったんですか?と。それを対話ではなく、沈黙の視線で表現した。それがラストシーンでふと一瞬、観客のほうに視線をむけるF清太なのだ。
これは、<記憶を語らない>ことで選択を拒否し、結果として空気に流されてしまう私たちの精神構造を映し出しつつ、同時に、後世の人が<思い出す行為>を通じて「いかに主体的に選択しうるのか」を問いかける――その両義性を体現した見事な映像表現というほかない。比較すると、救いの構造が異なる二人の巨人のすごさがわかる。
高畑の手法は小林秀雄風にいうならば、歴史を上手に思い出せるんですか?という問いになろう。小林がいうように、人は不完全であり、過去をまっすぐ生きてきた人の手触りを感じることは難しい。上手に思い出すというのは実は難しいことだ。むしろ、現在の価値観(民主主義や人権)によって自分たちは成熟している、進歩しているという思い込みで邪魔されてしまう。当時の人々の生を未来の人しか知らないフレームに当てはめてしまい、他人事としてしか理解できないというのは往々にしてあるのではなかろうか。ここまで言葉にしてきたやや穿ち過ぎな分析がまさに記憶を台無しにする悪い見本だ、ということも含めて。
あそこまでのものとはわかってなかった人が
多かったからかな。
決着がついた存在なんだと
根拠なく感じていた人が多かったんだと思う。
みたいなものだと
という人が多かったのだと思う。
ただ私は、あの映画を見ていて、
あの悲しみと惜別、万感たる気持ちが
どっと大叔父との別れのシーン
あのシーンで伝わってきて
胸が苦しくなり涙が出そうになった。
と誤解していたのだが
あとになって理解できた。
ここでようやく本題だが
本筋から離れる
思われる向きもあると思うが
でも、それでもやはり
あの大叔父への悲しみのあの大きな感情の正体がなんだったのか?
だからこそ他人にくっついて「他人の作品」に心血を注ぐことが出来る。
逆に『何か』があるやつはずっと他人の作品を作り続けることが出来ない。
修行時代とかはともかくとして自分のキャリアをかけてまで、他人の作品にずっと携わることなんて出来ない。
宮崎駿とかでもそうじゃない?
最初は高畑の子分で、高畑のために、高畑に褒めてもらうために、
ある日どこかでそれでは無理になるときがやってくるわけじゃない。
どんだけ尊敬してて好きな人でもいずれは袂を分かつときがくるじゃない。
それが『何か』がある人の運命なんだよ。
逆に『何か』がない人は、誰かのために一生涯働くことになる。
別にそれでいいんだよ。
それが悪いわけでは全然もちろんない。
『何か』のある無しは結局、才能とか運命(さだめ)とかそういう類のものだから。
無いもんは無いんだから仕方がない。
ただそういう「無い」人が、大きな仕事をするのは難しいと思う。
こっそりとあまり目立たないところで小さな仕事をするのは大丈夫だとは思う。
10-14
稲垣来泉(13),毎田暖乃(13),白鳥玉季(14),浅田芭路(11),新津ちせ(14)
15-19
住田萌乃(16),川島夕空(16),鈴木梨央(19),伊東蒼(19),當間あみ(18),田牧そら(18),豊嶋花(17)
浜辺美波(24),芦田愛菜(20),上白石萌歌(24),清原果耶(22),本田望結(20),見上愛(24),八木莉可子(23),河合優美(24),森七菜(23),桜田ひより(22),高石あかり(22),畑芽育(22),福本莉子(24),山田杏奈(23),片岡凛(21)
25-29
小芝風花(27),広瀬すず(26),橋本環奈(25),中条あやみ(27)、池田エライザ(28),松岡茉優(29),福原遥(26),杉咲花(27),上白石萌音(26),土屋太鳳(29),永野芽郁(25),広瀬アリス(29),橋本愛(28),優希美青(25),黒川結菜(27),古川琴音(28),今田美桜(27),恒松祐里(26),森田望智(28),堀田真由(26),山本舞香(27),田辺桃子(25),川口春奈(29),吉川愛(25),森川葵(29),芳根京子(27),小松菜奈(28),中村ゆりか(27),葵わかな(26),関水渚(26),伊原六花(25),奈緒(29),川栄李奈(29),桜井日奈子(27),北香那(27),片山友希(28),三吉彩花(28),小野花梨(26),白石聖(26)
30-34
波留(33),高畑充希(33),黒木華(34),吉岡里帆(31),二階堂ふみ(30),有村架純(31),夏帆(33),門脇麦(32),桐谷美玲(35),山本美月(33),谷村美月(34),真野恵里菜(33),清野菜名(30),能年玲奈(31),大政絢(33),福田沙紀(34),趣里(34),伊藤沙莉(30),本田翼(32),菜々緒(36),西野七瀬(30),志田未来(31),瀧本美織(33),堀田茜(32),岸井ゆきの(32),山崎紘菜(30),仁村 紗和(30)
35-39
石原さとみ(38),戸田恵梨香(36) ,長澤まさみ(37),蒼井優(39),綾瀬はるか(39),仲里依紗(35),沢尻エリカ(38),宮崎あおい(38),満島ひかり(39),新垣結衣(36),安藤サクラ(38),上戸彩(39),木南晴香(39),多部未華子(35),堀北真希(36),榮倉奈々(36),井上真央(37),吉高由里子(36),杏(38),上野樹里(38),木村文乃(37),松下奈緒(39),三倉茉奈(38),三倉佳奈(38),貫地谷しほり(38),比嘉愛未(38),本仮屋ユイカ(37),瀧内公美(35),泉里香(36),北川景子(38)
,倉科カナ(37)
40-44
深田恭子(42),柴咲コウ(43),安達祐実(43),真木よう子(42),広末涼子(44),小西真奈美(46),小池栄子(43)尾野真千子(43),栗山千明(40),田畑智子(43),壇蜜(44),松本まりか(40),酒井若菜(44)
45-49
米倉涼子(49),仲間由紀恵(45),中谷美紀(48),麻生久美子(46),菅野美穂(47),井川遥(48),市川実日子(46),松たか子(47),ともさかりえ(45),木村佳乃(48),内田有紀(48),小雪(47),佐藤仁美(45),吉瀬美智子(49),国仲涼子(45),平岩紙(45),板谷由夏(49),酒井美紀(46)
50-54
吉田羊(50),稲森いずみ(52),深津絵里(51),松雪泰子(51),篠原涼子(51),宮沢りえ(51),永作博美(54),牧瀬里穂(52),宮沢りえ(51),堀内敬子(53),常盤貴子(52)寺島しのぶ(51),西田尚美(54),和久井映見(53),麻生祐未(51),水野美紀(500,水野真紀(54),坂井真紀(54)
55-59
鈴木京香(56),天海祐希(57),沢口靖子(59),若村麻由美(57),石田ゆり子(55),南野陽子(57),原田知世(56),財前直美(58),小泉今日子(58),富田靖子(55),斉藤由貴(58),有森也美(56),羽田美智子(56),鈴木保奈美(58),いしのようこ(56),小林聡美(59)
60-64
黒木瞳(64) ,室井滋(64),浅野温子(63),浅野ゆう子(64),薬師丸ひろ子(60),高橋ひとみ(63),キムラ緑子(63),山口智子(60),真矢みき(60),石野真子(63)
65-69
大地真央(68),大竹しのぶ(67),余貴美子(68),戸田恵子(67),片平なぎさ(65),古手川祐子(65),宮崎美子(66),名取裕子(67),室井滋(66),かたせ梨乃(67),森下愛子(66)
70-74
松坂慶子(72),竹下景子(71),多岐川裕美(73),高畑 淳子(70)
75-79
吉永小百合(79),宮本信子(79),泉ピン子(77),倍賞美津子(78),富司純子(79)
80-84
85-89
90-94
草笛光子(91)
週刊少年ジャンプ史上最も重要なマンガ20選 https://anond.hatelabo.jp/20241012181121
上記に触発されて書く。
膨大な量があり、どれがどれに影響を与えたかも把握が難しいので色々補足反論、コメントしてくれると嬉しい。
2002年に九里史生(川原礫)氏により、氏のホームページ「Word Gear」にて発表された。2009年に電撃文庫から書籍化。
先行の類似設定の作品にウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』、岡嶋二人『クラインの壺』、高畑恭一郎『クリス・クロス』がある。
また映画では『マトリックス』、同時期にゲームでは『.hack』などが発表されたが、
いわゆるVRMMOというジャンルがWeb小説界で隆盛したのは間違いなくこの作品の影響が大きい。
2013年発表。以降の悪役令嬢(転生)ものに多大な影響を及ぼした。
恐ろしい更新速度と内容の面白さで「小説家になろう」のランキングを駆け上がった。
そして突然の更新停止で読者を地獄に叩き落した。今も叩き落とし続けている。
当時は男性向けが幅を利かせていた「小説家になろう」の中で、女性向けが人気を獲れることを証明した作品でもある。
少し脱線した語りになるのだが、Web小説は既存の小説媒体と比べて「文字数制限がない」のが大きな特徴だと思う。
SF小説家フィリップ・K・ディックが「短編、中編、長編といったメディアの制約がそのまま物語の制約となってしまっている」というようなことを書いていたと記憶している。
Web小説にはそれがない。なので、キリのいいところで盛り上げたり終えたりする必要がない。
この謙虚・堅実はそのWeb小説の特徴をいかんなく発揮した物語だと感じた。
2005年に魔法のiランドで発表。以降書籍化、漫画化、映画化、ドラマ化と立て続けにされ大きなムーブメントを起こした。
その口語的な等身大の文体には賛否両論があったが、多くの当時の若者の心をつかんだ。
(それにしても、あの頃僕らは魔法のiランドでクソみたいなホームページをたくさん作っていた)
劇場版エヴァ(EoE)の衝撃的な終わりにおかしくなった若者たちは、その情熱を二次創作に注ぎ、いくつもの名作・怪作を生んだ──
エヴァFF(ファンフィクション)の代表として2ndRingをチョイスさせていただいた。
LAS(ラブラブ・アスカ・シンジ)かLRS(ラブラブ・レイ・シンジ)かでいうと、LRSの王道逆行モノである。
特に転生・逆行・ヘイト(ザマァ)・最強もの的な要素は二次創作からの流れが大きいことが指摘される。
ただ二次創作は広く、深い。To Heart、TYPE-MOON作品などエヴァ以外に盛り上がった作品は多いし、夢小説やBL二次小説までいったらもうお手上げである。
2chのSSが書籍化、漫画化、アニメ化するなんて信じられない。
でもまおゆうはそれをやった。
SSとはショートストーリーの略で、2chにおいてはニュー速VIPなどの板で盛んに制作された物語の形式である。
キャラ「〇〇〇」
当時は2chまとめサイトが多くあり、まおゆうもまとめサイトに乗り人気を博した。
後にゴブリンスレイヤーなどのAA(アスキーアート=文字で絵を表現する形式)スレの書籍化にもつながる影響を残した。
電車男などを入れるかも迷ったが、小説ではないのでランクインしませんでした。
ただ影響度という意味ではかなり大きく、2chやオタク文化を世間一般に浸透させた偉大な作品(スレ)。
暇空茜の弁護士として知られる渥美陽子は高畑裕太レイプ事件で高畑の弁護人をしており不起訴を勝ち取り、
「高畑がやったのは悪質な行為ではない。起訴されたとしても無罪を主張していた」と相手女性を非難する声明をマスコミを通じて発表
それに対して相手女性が事件自体は実在したとして「まるで私がウソをついたかのようなことが書かれていました。私が悪かったというのでしょうか。なぜ加害者のように扱われるのでしょうか」と反論
「女性は高畑裕太さんの目つきが怖かったこと等を理由に大声を上げるといった抵抗はされなかったとお話しされていますが、この点も例えば『騒ぐと殺す』と脅迫する、口を押さえつけるといった男性側が当初から明らかに強姦であると認識している事例とは異なるものです」と“合意説”を改めて訴えた。
https://www.excite.co.jp/news/article/Cyzo_201610_post_20842/
エグい。
「気づけば朝」なんて生ぬるいモンじゃない。気づけば翌日の昼だ。勘弁してくれ。無職より。
まず次から次へと課される低難易度のタスク。こいつがやばい。クリア→報酬→クリア→報酬……を超短いスパンで繰り返させてくる。なめてかかると生活リズムが崩壊し、いずれ死ぬ。絶対にユーザーのドーパミンを途切れさせてやるものかという鉄の意志の産物だ。
そして強い“F”へのこだわり。
「F組のみんな集合〜! あったまテカテカドラえもん〜いたいた空にはパーマン〜」←どうせこれレベルだろうと侮ってはいけない。
ゲームには歴代大長編のゲストキャラが平等に登場するが、出るのはピーブまで。
ひみつ道具をコインと交換してくれるのはクルトやジンジャーではなく、未来デパートのウランカナだ。つまりそういうことだ。
わかるか、このこだわり。
・インテリアの苗木に植物自動化液をかけるとキー坊になる。ロケット発射場建設後UFOの離着陸ができるようになると留学し、しばらく待つと雲の王国の姿で戻ってくる。
・同じようにインテリアの石にタイム風呂敷を使うとピー助が生まれるが、一旦はビニールプールで育てる。時間経過で池を作ってやるイベントが始まる。
・名無しのモブとしてマニアックなキャラが出てくる。ハッピー商事の悪どいおっさん、創世日記(短編の方)のおっさん、あのおっさんにこのおばさんと、中年の多様性が保たれている。
・なんでも空港を作ると魔美(+高畑)やデンカ、ペガグリドラコを連れたククルなど、飛ぶキャラはみんな降りてくる。特定のアイテムを渡すことで飛ぶキャラもいる。ミツ夫たち→パーマンセット、てぶくろてっちゃん→手袋など。
・オバQは権利関係がややこしいのだろう、出ない。が、黒べえはちゃんと出る。赤べえも出る。
・基本的に原作設定準拠だが、キテレツだけは例外的にかなりアニメ色が濃い。
・エステルにミートキューブをあげられる。サルクは出ない。あいつはお菓子で満腹になってる場合じゃないので。
・うさぎに拾ったヒョンヒョロをあげられる。どら焼き屋の近隣住民は誘拐されたのかもしれない。
・コールドスリープ室では翻訳機や三次元クロスワード、ゼム油などと一緒に、アルタイル犬を販売できる。隣に試食室を作ったら、キンダイチに嫌われる準備は万端だ。
・お化け屋敷に人が入ると『なくな!ゆうれい』のゆうれいが出てくる。
・カメラ屋を作るとヨドバ氏の各種カメラを販売できるようになる。
・どうぶつの森でいうシリーズ家具の概念があり、F先生の机や鉄道模型の部屋が設置できる。シリーズではないが落語部屋も作れる。
・やりこみ要素としてキャラの銅像集めがあるが、お馴染みのキャラと並んでポンチ、宙ポコ、Uボーなど、ドラえもん目的のキッズが喜ぶとは思えないラインナップ。すきだ。
こんな感じで、寄せては返すタスクの合間に、絶妙なネタを忍ばせてくるので、次は何がくるのかと手が止まらなくなってしまうわけだ。
この題材ならコマーさるも出して欲しかった、なんて欲が引っ込むくらいネタ盛り盛り。
人体への有害度で言えばパチンコより邪悪。生活には閉店がないから。
というわけで、これを読んだ藤子・F・不二雄ファンは即刻どら焼き屋を開業し、やりこみ系ゲームのこわさと時間の大切さを学んでください。
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