
はてなキーワード:風刺画とは
昼寝をした。Twitterで流れてきた恐怖の役満(自民国民維新N国参政)の風刺画を見ながら寝落ちした。
曲はchouchouのLunaria。
暗い客席、白い砂の舞台を円に囲む観客は星。
舞台で歌う好きな歌手と美しい音、そこに副総理?になったからと仕事で舞台に立つ嫌いな政治家。そいつは齋藤だったか、石丸だったか。曲の精神を何も理解しないまま俺の好きなものを穢している(この俺の夢こそが好きな作品を汚す勝手な融合でもある)。
舞台の上で、歌に合わせて役者達が踊る。天から舞台に差す光芒に、一輪の白い花をかざす役者達。青い星からの光を花で遮り、輝く夜空を見上げる役者。この曲の精神を表現したパフォーマンスだった。
しかし、役者の1人が泣き崩れる。演技を続けようとしては跪き顔を埋めてしまう者がいる。それは俺だった。こんな穢れから解放されることを謳った曲が穢れに屈している。これ以上の屈辱はない。俺は必死に役を演じようとまた花を天のライトにかざそうとした。そうするたびに涙が溢れて、体が崩れ、地に伏した。
ステージを見に来ている橋下徹は居眠りしている。カメラが捉えたそれをリポーターは必死に病気や薬やと庇う言い訳を述べている。隣の者が慌てて起こすも橋下は何も慌てない。
怖い。眩しい。悲しい。あぁ。不甲斐なく泣き叫んだところで起きた。
起きたらまた見たくもない醜悪に描かれた高市の風刺画が目に映った。
くっそ。
(村上春樹だったかが、物語の力うんぬんを何か言っていた気がする。政局を物語に酔って憂うのはまさに自分が恐れている悪い物語であるし、政治への怒りに精神が侵蝕されていることも含めて嘆かわしい。しかし物語の力は信じたい。穢れのない物語そのものは大切にして自己の涵養に努めたい。)
日本でのインタビュー記事が物議を醸しており、人気アニメ「ぼっち・ざ・ろっく!」の脚本家が、原作の一部をノイズ」として削除したと主張しています。彼女はまた、キャラクターの性的搾取を避ける努力をしたとコメントし、自身のイデオロギ作品に組み込まれている示唆しました。本質的に、これはローカライザーが自身のイデオロギーを反映するために作品を改変するのと似ており、日本でも同じ問題が起きています。昨年、日本では、原に望ましくない変更が加えられたことにより、漫画家が悲しみのあまり自殺するという痛ましい事件起きました。この事件について原作者がどう感じているかは不明ですが、これらの作品のファンは、原作が忠実に再現されることを期待しており、他の意図の介入は「ノイズ」と見なされます。消費者として、私は原作者へのより大きな敬意が強調されることを願っています。
芦原妃名子の死をあなたの議論で持ち出すなんて、絶対に許さないわ。セクシー田中さんは、客体化と、社会における女性が男性主導の評価システムに基づいて判断され、価値付けられる様子についてのマンガよ。これはあなたが嫌って絶対に読まないような作品。あなたには関係ないの。遠慮して。
信じられない気持ちです。
どうして誰かが罪悪感を感じずにこんなことができるのでしょうか?
マンガにないファンサービスがアニメに含まれるたびに、この人たちが不平を言うのを見かけません。
なぜだろう。
芦原妃名子を持ち出すなんて厚かましい。彼女は、自身のマンガ「セクシー田中さん」の実写化が、マンガのテーマやメッセージ、つまり加齢する女性としての身体やセクシュアリティを扱う難しさを無視したり、矛盾したりしたことが原因で、一部自ら命を絶った。
ゼンコ・クリシタが尊敬され、真面目な中道左派の政治家から、ますます過激で妄想的な自身の利益のために女性の自殺を利用するような安っぽい扇動者に変わったのはいつからだろうか?
反動的な考えは、時には愚かさを装って主張する必要があるだけだと分かっていますが、それでも「このキャラクターのアニメのおっぱいが十分に大きくなかったら、漫画家が自殺してしまうかもしれない :( 」というのには驚かされます。
芦原妃名子は30年間、女性のために成長、友情、愛、喪失、精神的な健康、そして自分を大切にすることの重要性について書いてきました。彼女に起こったことは、未成年の少女が性的に扱われるのを見たいというあなたの欲求を正当化する例ではありません。
これまでくりしたの存在を知らなかった人たちにも知れ渡り、くりしたの顔写真を使った風刺画像も発生し、女作者と女脚本家が認め合って作った作品に、ファンでもない作品に言及したことのなかった外野の男が割り込んで暴力的態度を取っているとバカにされている
幕末から明治の初めに出版された風刺画による日本の世相紹介本「ジャパン・パンチ」に由来する。
このことから、新聞などに掲載される滑稽な風刺画を「ポンチ絵」という言葉が生まれ、それがお役所言葉などで、政策や大きなシステムを一枚の絵で説明する際に添えられる簡便な絵を指す言葉として使用されるようになった。なお、「パンチ」自体は本家イギリスの本家「パンチ」に、また、イギリスの「パンチ」自体は、風刺のために用いられた人形劇「パンチとジュディ」の登場人物の名前に由来し、この人形劇の登場人物「パンチ(パンチネロ)」の名前は人形劇の由来であるイタリアの風刺劇コメディ・デラルテに登場する毒舌のピエロ「プルチネッラ」から来るそう。
まず、引用された投稿は非常に感情的で攻撃的な言葉遣いを使っており、特定のグループ(「テクウヨ」「AIアノン」「ロリコンキモオス」など)や個人(仁藤さん、蓮舫さん、赤松や山田議員など)を一括りにして非難しています。このような過激なレッテル貼りや憎悪を煽る表現は、議論を建設的な方向に進めるどころか、対立を深めるだけです。以下に、投稿の主張に対する反論を、論理的かつ冷静に展開します。
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### 1. 「テクウヨ」や「AIアノン」のレッテル貼りの問題
投稿は「テクウヨ(テック右翼)」や「AIアノン(AI信者)」という言葉を使って、AI技術やその支持者を一括りに右翼的でミソジニスト(女性嫌悪者)だと決めつけています。しかし、AI技術の利用者や支持者は多様であり、特定の政治的イデオロギーや性差別主義に還元するのは無理があります。
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### 2. 「ミソジニーポルノ」や「憎悪煽動」の具体性の欠如
投稿は「ミソジニーポルノ量産」や「憎悪煽動画像」がAIで作られていると主張し、具体例としてニコニコ静画のリンクを挙げています。しかし、リンク先の画像(例: 「公金チューチューおばさん」「蓮舫のかえんほうしゃ!」など)が、実際にAI生成かどうかは不明であり、どの程度が「憎悪煽動」や「ミソジニー」に該当するのかも曖昧です。
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投稿はニコニコ静画の運営が問題コンテンツを放置し、「表現の自由」を理由に対応しないと批判しています。しかし、表現の自由は民主社会の基盤であり、プラットフォームがすべての不快なコンテンツを削除することは現実的ではありません。
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投稿はAI推進を自民党や「表自議員」(赤松健や山田太郎を指していると推測)が女性やリベラル派への嫌がらせ目的で行っていると主張します。また、AI業界やXのユーザーを「ウヨ」「アンチポリコレ」と一括りにしています。
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投稿は「クソオス」「キモオス」「頭おかC」などの侮辱的な言葉を多用し、相手を人間として尊重する姿勢が欠けています。このような言葉遣いは、問題提起の正当性を損ない、対話を妨げます。
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###結論
引用された投稿は、AI技術やその利用者を「ミソジニスト」「右翼」と一括りに非難し、ニコニコ静画の運営や特定の政治家を攻撃する内容ですが、以下の点で問題があります:
3.表現の自由やプラットフォーム運営の複雑さを無視した一方的な批判。
ニコニコ静画のリンク先の画像は、確かに政治風刺として攻撃的なものもありますが、すべてが「憎悪煽動」や「ミソジニー」に該当するわけではなく、個別に評価が必要です。AI技術やプラットフォームの課題を議論するなら、感情的な非難ではなく、具体的な事実と建設的な提案に基づくアプローチが求められます。(https://seiga.nicovideo.jp/index.php)(https://sur.ly/i/seiga.nicovideo.jp/)
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元々のVisaの規約引っ張ってきてくれてる人のを見ると、「児童ポルノ」とは直接的には書いてないな。
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Visa所有マークまたはVisa Inc.もしくはその関連会社の評判を落とす可能性のある方法。
写真、映像、コンピューター生成画像、アニメーション(漫画や風刺画を含む)、シミュレーション、またはその他のメディアや活動(以下を含みますが、これらに限定されません)に関連して、またはその購入や取引のために使用すること:
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なので、1と2の「児童ポルノが国によって法律の定義が違うから」っていう線はなさそう。むしろ法律が違っても適用できるようになっているのではないだろうか。
3の「責任の所在を明確にする」っていうのはなんかちょっとよくわからないな…上記に挙げた商売にVisaを使用することはできませんって言うのと、そこにVisa所有のマークの使用についてっていうワンクッションかませるのと何が違うんだろうか。
4はまさにコンテンツの規制、つまり表現の自由問題に足を突っ込んじゃうからめんどくさいから避けたいってことなんじゃ…?
5も「直接ダメ」っていうのと「使用条件」っていうのだと監視義務がどう変わるのかよくわかんないな。そこもうちょっと詳しく。
実際には、これが理由となって女性にとって食べ放題はほぼペイしないので、女性は「より多くの金を払ってた」というよりは市場から退出させられている。(付き合いで行くか、たまたま女性でも大食いなケースを除いて。)
で、そうなると、今度は店側は女性客は価格誘因的には来ないものとして、ほとんど男性客しか来ない前提で利益を最大化する価格設定をしてくる。だから、男性客にとって、別に女性の存在によって食べ放題が安くなったりはしていない。
なお、女性にとって、妥当な価格で食べ放題をするという機会が失われているという問題が発生している。男女同価格での食べ放題は、形の上では平等だが実情はそうでない、という平等に関してよくあるパターンの一つだね。背の高い人と低い人がともにフェンスの向こうを見たいときに、ダンボールを差別なく一個ずつ渡す(結局、背の低い人はまだ届かず見れない)のと、低い人に二個渡す(背の低い人も見れるようになり、高い人は貰わなくても見れる)のと、といった風刺画があるけど、あれの一個ずつ渡す状況に近い。
1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナンドがボスニアのサラエボでセルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された。
この振り返りがなぜ大切かというと、一つの出来事がどれだけ大きな結果を引き起こすかという点で、現在の他の出来事を見るための視点を与えてくれるからだ。
それに比べると、現代のSNS上での出来事や感情の発露はささいなものかもしれない。
しかし、自己表現や批評の仕方には時代や文化の影響が大きく左右する。
例えば、江戸時代の浮世絵に描かれていた日常風景や風刺画も、多くの人々を楽しませ、また議論を巻き起こしたものだ。
現代のツイッターマンガも、それなりに私たちの社会を映し出しているのかもしれない。
他人の表現や視点に対して不快感を覚えることもあるだろうが、歴史を振り返ると、多様な意見や表現が存在し、それが社会の一部として受け入れられてきたことが分かる。
そして、それがどのような結果を生むのかを冷静に見つめることが大切だ。