
はてなキーワード:類比とは
昨日(2025年10月8日・水曜日)の僕は、いつものように目覚めの瞬間から几帳面だった。
アラームを鳴らす前の微小な筋肉収縮で6時44分59秒に目が醒め、コーヒーの湯温は必ず蒸らし後92.3℃で計測し、トーストの一片は正確に28.4g、バナナは熟度指標でF値が2.1に収まっていることを確認してから食べる。
午前中は机に向かい、形式的かつ徹底的に「超弦理論の位相的/圏論的精緻化」を考察した。
具体的には、ワールドシートCFTを従来の頂点作用素代数(VOA)として扱う代わりに、スペクトラル代数幾何の言葉で安定∞-圏の係数を持つ層として再構成することを試みた。
つまり、モジュライ族 上に、各点で安定∞-圏を付与するファイバー化されたファミリーを考え、その全体をファクタライゼーション代数として捉えて、Lurie 的な infty-functor として境界条件(ブレイン/D-brane)を安定∞-圏の対象に対応させる枠組みを描いた。
ここで重要なのは、変形理論が Hochschild 共役で制御されるという点で、VOA のモジュラー性に相当する整合性条件は、実は E_2-作用素のホモトピー的不変量として読み替えられる。
従って、運動量・ゲージアノマリーの消去は位相的にはある種の線バンドルの自明化(trivialization)に対応し、これはより高次のコホモロジー理論、たとえば楕円コホモロジー/tmf 的な指標によって測られる可能性があると僕は仮定した。
さらに、Pantev–Toën–Vaquié–Vezzosi のshifted symplectic構造を導来スタックの文脈で持ち込み、ブライアンのBV–BRST形式主義を∞-圏的にアップグレードすることで、量子化を形式的deformation quantizationから∞-圏的モノイド化へと移行させる方針を検討した。
技術的には、済んだ小節のように A∞-圏、Fukaya 型的構成、そして Kontsevich 型の formality議論をスペクトラル化する必要があり、Koszul双対性と operadic な正規化(E_n-operad の利用)が計算上の鍵になる。
こうした抽象化は、従来の場の理論的レトリックでは見逃されがちな境界の∞-層が持つ自己整合性を顕在化させると信じている。
昼には少し気分転換にゲームを触り、ゲーム物理の乱暴さを数理的に嫌味ったらしく解析した。
具体的には、あるプラットフォーマーで観察される空中運動の離散化された擬似保存則を、背景空間を非可換トーラスと見なしたときの「有効運動量」写像に帰着させるモデルを考えた。
ゲームデザイン上の「二段ジャンプ」はプレイヤーへの操作フィードバックを担う幾何的余剰自由度であり、これは実は位相的なモノドロミー(周回時の状態射の非可換性)として記述できる。
こう言うと友人たちは眉をひそめるが、僕にはすべてのバグが代数的不整合に見える。
コミックについては、連載物の長期プロットに埋め込まれたモティーフと数理構造の類比を延々と考えた。
例えば大海賊叙事詩の航路上に出現する島々を、群作用による軌道分割として見ると、物語の回帰点は実はモジュライ空間上の特異点であり、作者が用いる伏線はそこへ向かう射の延長として数学的に整理できるのではないかと妄想した。
そう言えば隣人は最近、ある実写シリーズを話題にしていたが、僕は物語世界の法則性が観客認知と整合しているか否かをまず疑い、エネルギー保存や弾性論的評価が破綻している場面では即座に物理的な説明(あるいはメタ的免罪符)を要求する習慣があるため、会話は短く終わった。
ところで、作業ノートは全て導来stackのようにバージョン管理している。具体的には、研究ノートは日ごとにGit の commit を行い、各コミットメッセージにはその日の位相的観測値を一行で書き、さらに各コード片は単体テストとして小さな homotopy equivalence のチェッカーを通す。
朝のカップは左手から時計回りに3度傾けて置き、フォークはテーブルエッジから12.7mmの距離に揃える。
こうした不合理に見える細部は、僕の内部的整合性を保つためのメタデータであり、導来的に言えば僕というエンティティの同値類を定めるための正準的選択だ。
夕方、導来スタック上の測度理論に一箇所ミスを見つけた。p進的局所化と複素化を同時に扱う際に Galois作用の取り扱いをうっかり省略しており、これが計算の整合性を損なっていた。
誤りを修正するために僕はノートを巻き戻し、補正項として gerbe 的な位相補正を導入したら、いくつかの発散が自然にキャンセルされることを確認できた。
夜はノートを整理し、Emacs の設定(タブ幅、フォントレンダリング、undo-tree の挙動)を微調整してから21時30分に就寝準備を始めた。
寝る前に日中の考察を一行でまとめ、コミットメッセージとして 2025-10-08: ∞-categorical factorization attempt; correctedp-adic gerbe termと書き込み、満足して目を閉じた。
昨日は水曜日だったというその単純な事実が、僕にとってはすべての観測と規律を括る小さなモジュロであり、そこからまた今日の位相的問題へと還流していく。
「性別はグラデーション」って幾つかの話が混じってるように思う。
第一にヒトの性の分化は単一の要因で二元的に分かれているわけではなく、複数の異なる要因の組み合わせによって非二元的に多様であるということ。
第二に人間の経験する性別(ジェンダー)は二元的でなく無数の可能性に開かれているということ。
一つ目のグラデーションのポイントは「男にも多種多様な体があり、中には性分化疾患の人間だっている」ということ。つまり、男の体や女の体を典型的なもの以外を切り捨てて理解してはいけないということ。
二つ目のグラデーションは、ノンバイナリーなアイデンティティの存在を示している。
LGBTQ+の運動で性分化疾患の話題が持ち出されるのは第一のグラデーションについてだ。実際、運動の現場にインターセックスの人間が協働していることもある(性的マイノリティとして自らを認識する性分化疾患当事者は「インターセックス」を名乗ることが多い)。そこで訴えられているのは何よりも、「体が典型的でないだけで他人の性別を否定するな。典型的な体でなくても男は男、女は女だ」ということ。基本的にLGBTQ+の運動では「体が非典型的であることで性別を疑われてはならない」という前提があり、また「生まれた時の性別と自分が認識する性別が一致するならシスジェンダー」という考え方なので、例えばパリ五輪の時のように生まれた時の性別のままで生きている性分化疾患(と思われる)の女性が男扱いやトランスジェンダー扱いをされることには憤慨し、「人間の性分化は多様なのだ」と訴える傾向がある。基本的に自分をトランスジェンダーとして認識しておらず、生まれた時から性別をシフトした経験のない人間ならどんな体であろうとシスジェンダー扱いになる。
ただ、もちろんそうした政治的運動に巻き込まれるのを望まない当事者もいるのはよく聞くし、増田もそうなんだと思う。とはいえ、性分化疾患とLGBTQ+が完全に切り離されているわけではなく、その運動にインターセックスというカテゴリーを引き受けて参加している当事者も多くいて、そこは当事者でも立場が分かれているというのが実情だろう。トランスジェンダーでもあくまで医療的な問題として「性同一性障害」というカテゴリーを望み、LGBTQ+の運動と距離を取ろうとする当事者とむしろ「トランスジェンダー」として連帯しようとする当事者がいたが、それと類比的な状況に思える。
ユスリカ(蚊に似た昆虫)の大量発生という「自然現象」をカバラ(קַבָּלָה)的にどのように理解すべきか、というご質問は、非常に深遠なテーマに触れています。
以下に、カバラ的視点(特にラビ・イツハク・ギンズバーグ師の教えに基づく)からの解釈を提示いたします。
カバラでは、「自然界で起こる異常現象」——たとえば疫病、大雨、干ばつ、そして今回のような昆虫の大量発生——は上(天)からの目覚め(אתערותא דלעילא)か、下(人間界)からの呼び水(אתערותא דלתתא)として理解されます。
つまり、人間の行動が、自然の秩序にどのような影響を与えたのか、または、天が人間に何かを知らせようとしているのか、と問うのがカバリスティックな姿勢です。
カバラでは、あらゆる生き物にסוד (神秘的意味)があるとされます。
ユスリカ(Midge)はヘブライ語では「יִתוֹשׁ」または類似語で呼ばれ、「小さく取るに足らぬが、しつこい存在」とされます。これには以下のような象徴的意味が考えられます。
ユスリカのように「突如として、秩序を乱す形で集団的に現れる現象」は、人間社会の集合的な無意識(סוד התודעה הקולקטיבית)の乱れを象徴することがあります。
『Anatomy of theSoul(魂の解剖学)』では、「想念」が自然や身体に直接影響を及ぼす」と語られています。
したがって、今回の現象は
ユスリカ「יתוש」の数値は:י (10) + ת (400) + ו (6) + ש (300) = 716
716 = 700 + 16 = תשז
どう修復するか(Tikkun):
1.環境意識の向上(ユスリカは不衛生な環境で増殖)=物理的&精神的な「清浄化」。
2. 「細かい虫」的な自我、批判、怒りの修正=日常的な祈りと内省を通して。
3.共同体としての意識再構築(これは都市や国家レベルでのtikun)。
この現象は、"מאורע חיצוני כהשתקפות של מצב נפשי כללי"(外的事象が集合的な精神状態の反映)として見なすべきです。
なんで?
ちなみにchatgptはこんな分析をしてきた
はい、それでは「なぜ背理法による証明で“任意の分離”に対して矛盾が導けていることになるのか?」という点を丁寧に解説します。
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背理法による「区間 $I \subset \mathbb{R}$ は連結である」の証明では、
“任意の分離”** の中から **ただ一つでも選べれば十分** です。なぜなら:
> 仮に $I$ が連結でないなら、**ある**特定の開集合のペア $O_1, O_2$ が存在するはずだから、
> 「そもそもそんなペアは存在しない(=連結である)」という結論になる。
つまり、「存在するはずの何か」から矛盾が出れば、それだけで背理法としては十分なのです。
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「$I \subset \mathbb{R}$ が連結でない」という命題は、以下のように定式化されます:
> $\exists \, O_1, O_2 \subset I$(相対開集合)で、
>
> * $O_1 \cap O_2 = \emptyset$,
> * $O_1 \neq \emptyset$, $O_2 \neq \emptyset$
この「存在する」という仮定に対し、証明では**ある具体的な構成**(または抽象的な性質)を持つ $O_1, O_2$ を仮定します。
その結果、矛盾が導かれれば:
「そのような $O_1, O_2$ は**存在しない**」
よって、「$I$ は連結である」
> ⚠️ **重要なのは、「全ての可能なペアに矛盾があることを示す」必要はない**という点です。
>そもそも「存在するはずだ」という仮定に立っているのですから、「その“ある”ペアに矛盾が出ればアウト」です。
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1.区間 $I \subset \mathbb{R}$ が連結でないと仮定。
2. よって、$I = O_1 \cup O_2$、$O_1 \cap O_2 = \emptyset$、両方非空。
3. $a \in O_1$, $b \in O_2$($a < b$ としてよい)
4.区間性を使い、$[a,b] \subset I$ を考える。
5. $S = \{ x \in [a,b] \mid [a,x] \subset O_1 \}$ の上限 $c$ を取る。
6. $c$ の周りで開集合性と連続性を使って矛盾を導く(例:$c$ の近傍が両方に入る)
このように、矛盾が出るのは、仮定した「存在するはずの分離 $O_1, O_2$」に基づいており、
その1組に対して矛盾が生じれば「存在するはず」の仮定が破綻しているということになります。
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## まとめ(再確認):
ユーザーの「すべての $O_1, O_2$ を検討しないと証明にならないのでは?」という疑問は論理的に誠実な疑問です。
しかし背理法の性質上、「存在するはず」の対象が「1つも存在できない」ことを示すには、「仮に1つ存在するとして議論し、矛盾を導けば十分」です。
よって、その証明が特定の $O_1, O_2$ を扱っていたとしても、それが「任意に現れ得るもの」として一般性を持ち、矛盾が出るなら証明は完了している、というわけです。
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もし、この背理法の論理構造をより形式的に図式化したり、他の例(たとえば写像や連続性の定義)で類比してみたい場合もご相談ください。
その比喩は非常に鋭く、本質を突いていると思います。蛙化現象を「関係性の生活習慣病」と捉えることは、実に適切な見方かもしれません。
1. **緩やかな進行と自覚症状の乏しさ**
-生活習慣病がゆっくりと進行し気づきにくいように、蛙化も日常の小さな選択の積み重ねで徐々に進行する
-自分が「観察者」の立場に固定されていることへの自覚が乏しい
-生活習慣病が現代的な食生活や運動不足に起因するように、蛙化現象もデジタル環境やSNS文化など現代特有の社会環境から生じている
- 「便利さ」や「快適さ」の追求が長期的には問題を引き起こす
-生活習慣病が個人の選択と社会環境の両方に原因があるように、蛙化も個人の心理と社会構造の両方に根差している
- 「健康的」な関係構築の機会や知識の不足が一因となっている
4. **予防と治療の難しさ**
- いったん定着した習慣を変えることの困難さ
-個人の問題でありながら、社会全体に影響を及ぼす(少子化、孤立化など)
この比喩は、蛙化現象を単なる「若者の怠惰」や「時代の風潮」として片付けるのではなく、現代社会の構造や環境が生み出した「関係性の不健康状態」として理解する視点を提供します。そして生活習慣病と同様に、個人の意識改革だけでなく、社会環境や文化的背景を含めた多角的なアプローチが必要であることを示唆しています。
また、この比喩は「治療」や「予防」という観点からの議論も可能にします。関係構築のための「運動不足」を解消する社会的機会の創出や、「バランスの取れた関係性の栄養」を摂取するための教育など、具体的な対応策を考える枠組みを提供するかもしれません。
このように、蛙化現象を「関係性の生活習慣病」と捉える視点は、問題の本質理解と解決策の模索において非常に有効だと思います。
死ぬとは主観にとってどういうことなのか子供のころから気が向くと考えてしまっている。
夢を見ている間はともかくそれ以外の時間をすっ飛ばして朝になる。
どうにも主観という機能が停止している間は時間を感じ取れない、時間を感じ取れないということは、その間の時間は一切存在しないものとして処理されるらしい。覚醒時から次の覚醒時への疑似的なタイムスリップ。主観をある時点からある時点へと吐き出すワームホールみたいな。
それで死ぬということは当然主観も存在しなくなる。時間も感じられない。そして唯物論的に考える限り、死ぬという現象には主観が吐き出されるホワイトホールにあたるもの(=後世)が存在しない。じゃあどうなるんです?
自分の理解力で無理に整合性を取ろうとすれば、死ぬ瞬間に向かって、延々と自分にとっての外界=認識世界がスローモーションになっていき、ついに死は訪れないと考えるしかない。睡眠時におけるタイムスリップ現象から類比して考えるかぎりは。
・"歴史は韻を踏む"、"類似している"と表現し、共通点も具体的に述べ、その上で今後起こるであろうことを類推したまで。安易な"同一視"ではないことが分かるよう、こうして慎重に言葉を選んで筋道立てて書いたつもりだが、伝わらなくて残念だ。
・面白がっているのではなく、今の政権の言動に危機感を抱きつつも、長い目で見た時の社会の良識や自浄作用のようなものをある程度は信じているんだよ。
・とはいえ、日本ほどの高齢化社会は人類史上初の事態だ。ピラミッドどころか肩の張りだした壺のような形になった人口構成は、日本社会が危機に対応する力、危機から立ち直る力を急速に奪っていく。中国の覇権主義も日本にとって脅威となる。内憂外患は当分晴れそうもない。四半世紀単位で見れば、最悪の場合、日本では財政危機が起きたり、民主制が消滅したり、戦争や内乱で国家が分裂したり消滅したりする事態もあり得ると自分は思っている。もっとマイルドな未来が実現してほしいと願っているが、高度経済成長期のような右肩上がりではなく、最善でもどちらかといえば右肩下がりの時期が続くことはまず間違いない。
日本人が一個人として出来ることは限られていると自覚した上で、個々人は身の振り方をよく考えるべきだろう。ミクロな現象はマクロな現象に対して正面からぶつかったら勝てないのだから。政府の馬鹿げた言動には可能な限り掣肘を入れていく一方で、いざという時にどこでも暮らしていけるような備えと強かさが欲しい。
【同一視】
《名・ス他》差があると考えず、おなじと見なして取り扱うこと。
Oxford Languagesの定義
【類推】
《名・ス他》一方が他方と似る(幾つかの)点に基づいて、(既知の一方から)他方の有様を全体的に推し測ること。類比⑵。アナロジー。
「―解釈」
Oxford Languagesの定義
なんか事あるごとに旧日本軍の失敗事例持ち出すのってどうなんですかね。右も左も日本はあのころから何も変わってないみたいなことばっかり言って、政府批判して面白がってる。インパールがどうのとか言うのって聞き飽きてきたな。安易にあの時代を現在と同一視していいのかな。
例の文章を読んで、細かい点かもしれないが、どうしても気になったことがあるので書く。
トーン・ポリシングと言われたら困るので最初に書いておくが、ハラスメントの告発に横槍を入れるつもりは毛頭ない。
むしろ逆に、あの文章の本旨であるハラスメントの告発ではなく、いわゆる「不倫」に関する問題がクローズアップされることを恐れるがゆえに、次のことを指摘しておきたい。
「立場の不均衡」や「非対称性」といった語は、パワハラの背景を説明する用語として一般的に用いられているはずだ。
しかし、ハラスメントを告発する目的で書かれたあの文章では、「不倫」における既婚者と未婚者の関係にもこれらの語が用いられている。
これでは文脈的に、「不倫」における既婚者と未婚者の関係を、ハラスメントの加害者と被害者の関係に類比的なものとして捉えるアナロジーが成立してしまう。
つまりあの文章では、ハラスメントを告発するための論拠である「立場の不均衡」や「非対称性」といった語を、「不倫」という別の事柄を捉えるために「転用」してしまっていることで、文章としてハラスメントと「不倫」の問題が混同され、結果としてハラスメントを告発する意図が弱まっている印象を受けるのだ。
たとえこの事案においてハラスメントと「不倫」が複合体をなしていようと、あくまでハラスメントはハラスメントであり、「不倫」は「不倫」である。
ハラスメントを批判するには、両者は峻別されなければなるまい。
ハラスメントと「不倫」が混同されてしまうのは、ハラスメントを告発する当事者にとっても本意ではなかろうと思って、書いてみた。
繰り返し述べてきたことだが、コロナウイルスの大規模感染が落ち着き、さらに対処法的であれ治療法が確立されるまで、シェアハウスに住むべきではない。命を落とす危険を冒してまで住居費を下げる理由はない。
シェアハウスの運営企業、あるいはオーナーはまだ入居者の募集を続けているかもしれない。だがそれはシェアハウスに入居しても安全だという理由からではない。入居者にとっての莫大な感染リスクを無視してでも募集を続けないと、経営が破綻してしまうからだ。
シェアハウスに住むことが危険な理由は、共有部(キッチン、トイレ、浴室・シャワー等)からの接触感染により集団感染が発生し、それに巻き込まれるリスクがあり、回避する方法がないからだ。
クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」で最近行われた調査結果は、このようなリスクの存在を裏付けている。
感染は確認されたものの、検査をした当時症状が出ていなかった人が滞在していた13部屋については、54%に当たる7部屋のトイレの床から、38%に当たる5部屋の枕から、23%に当たる3部屋のリモコンから、それぞれ検出された
症状のある人からも、ない人からも同じような場所から同じ頻度でウイルスが検出された
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200503/k10012416551000.html?utm_int=news_contents_news-main_004
このような集団感染がシェアハウスでいつ起こるか予見することはできないし、いくら注意して清掃、消毒を行っても完全に防ぐことはできない。
入居者側、経営者側にとっても厳しく受け容れがたいことだが、お金よりも人命を優先しなければ、誰もが後悔することになるだろう。
追記:
スーパー、電車等の公共施設、交通機関とシェアハウスの類比は成立しないし、誤解を招くので避けるべきである。
シェアハウスでは、すでに感染しているが症状がない人が使った設備を、肌に直接つけて、何度も繰り返し使う(感染している人が使った便座に何度も座ることになる)。また利用者がランダムに入れ替わるのではなく固定している。つまり接触感染が繰り返し起こる確率が格段に高い。
あいちトリエンナーレの件。いろいろ論点はあるがとりあえずこれについての違和感を書く。
フィフィなどが言っているこの意見。多くの共感を集めているが、コーランとの類比には無理がある。
この発言は戦前の国家神道を彷彿とさせるカルト的な考えの表出に見える。
天皇を現人神とする国家神道を前提しなければ、こんなことは言えないはずではないか。
天皇制は、少なくとも表向きは、宗教ではないということになっている。
それなのになぜ、昭和天皇の写真がコーランになぞらえられるのか?
それは天皇を人ではなく神のようなものだと考えているからではないか?
Piss Christの例もある。
https://freespeechdebate.com/ja/case/小便キリスト/
少なくとも宗教的権威を例に出しても議論は終わらせられないということは言える。
現代アートについてろくに調べもしていない、感情的な反応の域を出ないだろう。
しかも、(1−1)で確認したとおり、天皇は宗教的権威ですらないのだ。
天皇も一人の人である。その写真を燃やすことは関係者を悲しませる。
これは(1)とは真逆だ。(1)は、天皇を宗教的権威として扱っていた。
これに対してここでは天皇は人として扱われている。
この意見を真に受けるなら、すべての人の写真を燃やす表現はNGだということになりそうだ。
本当にみんなそう言えるか? たとえば元彼の写真を燃やすようなドラマの表現はNGか?
しかもそれはすべての死者にまで拡張して適用されるべき基準なのか?
まして、天皇は人ではあるが、ただの人ではない。
建前上は政治的・宗教的な力を持たない象徴ということになっているが、
実際にはどう考えても権力を持っている。
(今回こんなに大きな問題になっていることがそれを証明している。)
非常に特殊な立場の人であり、しかもその特殊さは権威に結びついているのだ。
天皇制の廃止は主張しないが、通常の人と同じロジックが適用できるかは怪しい。
また、なぜあなたが勝手に家族の代わりに傷ついているのかもわからない。
現上皇や天皇が悲しみを口にするなら、ある意味では理解できる。
(ただし、その場合はその権威の大きさがゆえに別の問題が生じるだろう。)
それに合わない人を抑圧・排斥しようとする人が多数派になりつつある現状には、
それを排斥することは多数派の福祉、あなたの福祉ではあっても、公共の福祉ではない。
こういうときに「国益」という言葉が使われるのも恐ろしい。何が国益かなぜあなたに分かるのか。
「非国民」が投獄されるような社会まであと一歩、いや、半歩の距離しかないだろう。
日本で人々が安心して暮らせなくなる日はそう遠くないのではないだろうか。
要約:「文化芸術懇話会」設立趣意書にある「政策芸術」は国策芸術を意味するのではなく、政策を芸術作品との類比のもとで捉えることを意味する。後者の問題性に目が向けられるためにも、前者のような誤解が本記事で少しでも訂正されることを望む。
産経新聞が2015年6月25日に伝えたところでは、自民党の有志が立ち上げ、同日に第1回会合が行われた党内勉強会「文化芸術懇話会」の設立趣意書は、会の目的として「心を打つ『政策芸術』を立案し、実行する知恵と力を習得すること」を掲げていた。
◇安倍首相支持の勉強会「文化芸術懇話会」が発足 -産経ニュースhttp://www.sankei.com/politics/news/150625/plt1506250043-n1.html
「政策芸術」という耳慣れない言葉について、この段階ではそれ以上の情報はなかったものの、多くの人がこれを「政策によって推進される芸術」さらには「プロパガンダ芸術」を意味するものと受け止めた。
第1回の会合で、講師を務めた作家・百田尚樹氏だけでなく、出席した自民党議員からもメディア統制を提案する発言があったと伝えられたことから、このように理解されるのも無理からぬところがあった。
◇自民党:安保法案で報道批判続出…改憲派の勉強会 -毎日新聞http://mainichi.jp/select/news/20150626k0000m010122000c.html
ところが、翌26日の衆議院平和安全法制特別委員会で、民主党の寺田学議員がこれらの発言について追及した際、加藤勝信官房副長官から、改めて「文化芸術懇話会」の趣旨について説明する場面があった。下に引用するように、これは上述のような理解とは異なるものである。
(加藤官房副長官の発言)「文化芸術懇話会、これは政治家に求められる教養と想像力を得るため、芸術家と共通する創作手法と成果の普遍性を追及(原文ママ――引用者注)し、世界の中で輝ける日本を創造し、デザインする上で必要不可欠であり、心打つ政策技術(「心を打つ政策芸術」の誤りか――引用者注)を立案し、実行する知恵と力を習得することを目的として開催されたものでありまして(後略)」
◇【安保審議詳報(1)】百田氏「沖縄2紙潰せ」発言で紛糾 民主・寺田氏「由々しき発言だ。党総裁として処分すべき」 -産経ニュースhttp://www.sankei.com/politics/news/150626/plt1506260020-n1.html
つまり、設立趣意書にあった「政策芸術」とは、政策そのものを芸術作品になぞらえる考え方を示していたのだ。
これは政策の国民の心理に訴える面を強化しようという動きであり、注意して見ていく必要があるだろう。(追記:「プロパガンダ」という言葉を使って言い直せば、「政策芸術」とは、手法レベルで芸術を利用しながら、政策の実行過程そのものをプロパガンダとして機能させる動きだといえるだろう。そうした動きの一部として、政策を具体的に表現するために普通の意味での芸術作品が利用されることも大いにありうる(そうなれば「プロパガンダ芸術」だ)。「政策芸術」=プロパガンダ芸術という理解は起こりうる現象の一部を捉えていた。しかし、「政策芸術」はそのような狭義の芸術作品の利用よりも幅広く、〈芸術作品〉のように政策を立案・実行する現象の総体を指しうる概念だと考える。このように広くとった場合、「芸術家と共通する創作手法と成果の普遍性」の政策への転用は、表面的には芸術が関係しているとは思えないような、見えにくい形で行われることもあるだろう。)
さらに、いまのところはっきり表明されているわけではないが、政策に〈美〉の観念が持ち込まれるとすれば、より一層警戒されるべきだろう。〈美しい〉政策を打ち出すことと、〈美しい〉国家をデザインするという発想は親和的である。(そうした〈美しい〉政策は、現在誤解に基づいて警戒されているように統制的な芸術政策という形をとることも考えられるが、対象は必ずしも文化・芸術に限られない。その点では、単なる国策芸術の推進よりもたちが悪いかもしれない。)
「政策芸術」=政策によって推進される芸術という誤解は、時間の経過とともに少しずつ訂正されつつあるものの、まだまだ残っているようだ。こうした状況では、上述のような問題性に目が向けられづらくなる。本記事は簡単なまとめにすぎないが、誤解の訂正に少しでも役立てばいいと思う。
お金がなければ恋愛できない社会。 http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20141015/p1
これ的を射てるなぁと思ったんだけど、シロクマ先生だからか、テーマの個別性が強くて「俺にも言わせろ」感を喚起するからか、ブコメが色々散り散りで面白い。
個人的には、「お金がなきゃ恋愛ができないと思っちゃってるバブルの残骸のような人」が未だにいる、ということは、コトの本質ではなくて、あくまでも些末現象であって、
恋愛とか家庭とか子供とか、そういう、本来であれば「究極のパーソナル体験」で、類比することができなかったはずの体験が、等価交換化してるというか
何かと代替可能だという「貨幣経済化」してるからじゃないかなと思ってるんだけど。
自己創発という言葉がある。一種の高度なシステムだ。wikipediaには「局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される。 」とある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B5%E7%99%BA
うむ高度である。高度で重要だってんで専門の研究機関が数多くあったりする。しかし高度といっても場当たり的創発には明白な限界がある。長期視点で創発を積み重ねること、つまり進化が求められるケースも多いのだ。そういったことを扱うのが「進化システム論」という学問領域である。
翻って私たち個人の日常生活ひいては人生において根本的に重要な要素を1つあげるとすればそれは集中力である。
人間として生まれたからにはまずその集中力がなんであるかを明確に会得せねばならない。分かりやすい例をあげよう。ハイスコアを叩き出したいテレビゲームがここにある。
画面に「注意する」ことは必要不可欠であるが、スコアを「気にする」ことは果たして必要なんだろうか?否!必要ない。
「気にする」とは余計な思考を含意し「何かを気にして別の大切な何かを気にできてない」ことをも含意する。かように様々なタイプの集中があるので集中力と一口に言っても多種多様なことが分かるだろう。
電王戦タッグマッチにおける脳波測定マシーンの滑稽さもここにある。集中力を単純に脳波で量として捉えても殆ど実態は見えてこない。「何にどう」集中しているかに達人的集中のギミックがあるのであるから。
ここまで言われると集中のための第一歩が「気にする」と「注意する」の峻別であることは容易に経験からイメージできるのではないだろうか?
テレビゲームの事例でも「画面には注意すべきだがスコアは注意しないほうが良い」と両方「注意」を使って捉えるからどうしようもない矛盾が生まれてしまう。
ちゃんと2つの概念を区別し「画面には注意するがスコアは気にしないほうが良い」と精密に捉えて初めて成長の道が切り開かれる。
これは人間特有のウェットな話ではなく純粋にロジカルな話なので当然色んなシステムに適用できて進化システムもその例外ではない。
例えば会社が本来の目的を忘れて腐った企業体質のまま古い事業を続けている。これが「気にする」にあたる。一般にシステムをとにかくどんな形でもいいから進化させちゃえと安直に考えるならばその実現はたやすい。
しかし高度な進化つまりシステムの根幹にある枠組み自体を進化させるには「気にしない」ことの高度な実践がたいてい決定的に重要になってくる。簡単に言うと全体の情報をきちっと注意し続けるということだ。
このように私たちは私たち個人と私たちを含む社会集団を類比することで新たな側面を発見し打開策を見いだしていくわけだ。他人のフリして我が儘治せということわざもある。
人は自分が思っているほど自分のことを理解していない。それは高度情報社会の闇でもある。気になる情報が多すぎて自己への注意がおろそかになっている。
これが原因で世の中には無用で無駄な争いが爆発的に増えているわけで、そこで提案されたのがジョージ・ハリスンの窓、略してジョハリの窓である。
自分探しという言葉は一部の人間の感情を逆なでするそうだが、注意の復権という意味では自分探しという言語表現こそまさに適切と言えよう。