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はてなキーワード:青銅とは

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2025-06-13

ChatGPTに再現困難な奇跡発明発見ランキングにしてもらった

10位 黄リン発見錬金術が生んだ最初元素

17世紀ドイツ錬金術師ヘニッヒ・ブラントは大量の人尿を蒸発させる実験中に、夜光を放つ不思議物質を偶然取り出しました。これが元素リン(黄リン)」の発見です。ブラントは「賢者の石」を求めて尿に含まれる未知の物質を探していましたが、その過程で思いがけずリンに辿り着きました。当時は元素概念すら確立されておらず、尿から得られた発光物質は人々を驚かせました。その後、リンマッチ肥料、発煙弾など幅広く利用され、化学の発展に寄与しました。初めて人類人為的発見した新元素として、科学史に残る画期的発見です。

第9位 張衡の地動儀 –世界初地震計の謎

張衡が発明した地動儀の復元模型国立科学博物館の展示より)。内部の倒立振子が揺れ方向を検知し、龍の口から玉が落ちる仕組みになっていた。

から1900年前、後漢科学者・張衡(78–139年)は世界初地震計「候風地動儀」を考案しました。酒壺のような青銅製の容器の周囲に8匹の龍、その下に8匹の蛙を配置し、地震動の方向によって対応する龍の口から玉が落ちて蛙の口で受け止める仕掛けです。132年、この装置は都では揺れを感じない地震まで検知し、数日後に遠く離れた隴西の地震発生を的中させたと『後漢書』に記録されています。当時としては驚異的な精巧さであり、内部構造の詳細は文献から推測するしかなく、現代科学者再現を試みても完全には解明できていません。まさに古代中国科学技術の粋と言える発明です。

技術水準との乖離:2世紀に既に地震の方向検知装置を実現しており、同様の概念西洋で登場するのは1500年以上後。

第8位 X線発見 – “見えない光”との偶然の遭遇

19世紀末、ドイツ物理学者ヴィルヘルム・レントゲン真空放電管の実験中に未知の透過放射線に偶然気づきました。1895年11月8日暗室陰極線管に黒紙を巻いていたところ、2m離れた蛍光板がかすかに光る現象発見したのです。彼はこの正体不明の光線を「X線」と命名し、妻の手を写した世界初レントゲン写真撮影しました。X線は人体や物体を透過するため医学への応用(レントゲン診断)を飛躍的に進展させ、物理学にも原子放射能研究など新たな道を開きました。当時の常識では考えられなかった「見えない光」を発見たこ出来事は、まさに幸運洞察が生んだ科学革命でした。

第7位 ダマスカス鋼奇跡の名刀を生んだ失われた鍛造技術

古代インドで生まれ中世イスラム圏で広まった「ダマスカス鋼」は、波紋状の美しい木目模様と伝説的な切れ味で知られる名刀の材料です。炭素を多く含むるつぼから鍛造され、高硬度かつ靱性を両立したこの鋼は、当時の他の金属材料凌駕する性能を示しました。しかし18~19世紀までにその製法は途絶え、「失われた技術ロストテクノロジー)」の代表例となりました。現代材料科学者刀鍛冶が文献と顕微鏡分析を基に再現を試みていますが、完全に同じ構造性質の鋼を作ることは依然困難です。近年の研究では、ダマスカス鋼中に炭化物ナノ構造存在することが判明し、その卓越した性質の一端が解明されつつありますとはいえ中世の鍛冶職人が達成した奇跡の技を完全に再現するには、さらなる研究必要です。

第6位 ギリシア火薬中世を制した謎の焼夷兵器

東ローマビザティン)帝国7世紀以降に使用した秘密兵器ギリシア火薬」は、水上でも燃え続ける恐るべき焼夷剤でした。粘性のある可燃性液体に点火して敵船に噴射するこの兵器は、帝国海戦における切り札となり、数々の勝利をもたらしたと伝えられますしかし当時の技術水準で如何にこのような燃焼剤を製造できたのかは謎で、製法は厳重な軍事機密として一子相伝され、帝国の衰退とともに14世紀までに失われました。松脂・ナフサ(石油)、生石灰硫黄硝石などを混合したのではないかとも推測されていますが正確な配合は不明です。専門家は「水面でも燃焼を持続し消火困難な点で、現代ナパームに近い化合物だったのではないか」と推測しています。このようにギリシア火薬は史上初の化学兵器とも称され、その実態は今も歴史家化学者を惹きつけています

第5位 ギザの大ピラミッド古代エジプトの超絶建築技術

エジプトギザに聳えるクフ王の大ピラミッド紀元前2500年頃)は、古代世界七不思議に数えられる史上最大級の石造建造物です。230万個以上、重さ数十~数百トンの巨石ブロックを極めて精密に切り出し、隙間なく積み上げた構造は、現代でも驚異とされますピラミッドの各面はほぼ正確に東西南北を向き、高さ146mもの建造物を当時の人力と簡易な道具のみで築いたその技術力には謎が残ります。どうやって巨石を運搬・加工し、精巧に積み上げたのか、統一的な説は無いものの、直線傾斜路や螺旋状の内部スロープを用いた説、てこの原理や水を使った浮力輸送説など様々な仮説が提唱されています。近年の研究実験考古学により一部再現も試みられていますが、それでも「完全には解明されていない」のが実情です。大ピラミッド古代人の英知と膨大な労働力が生んだ奇跡モニュメントと言えるでしょう。

第4位 ジェンナー種痘法 – 偶然がもたらした世界初ワクチン

1796年英国人医師エドワード・ジェンナーは、牛痘にかかった乳しぼり娘が天然痘に罹らないことに着目し、8歳の少年に牛痘膿を接種してから天然痘ウイルスを植え付ける実験を行いました。結果、少年天然痘にかからず、世界で初めて予防接種種痘)が成功しました。この功績により天然痘ワクチンが開発・普及し、人類はついに致死的感染症であった天然痘制圧1980年には地球から根絶するに至ります。興味深いことに、後年の研究ジェンナーが用いた牛痘ウイルスは実は馬由来の近縁ウイルス(馬痘)だったことが判明しており、この成功は偶然の産物でもありました。当時はウイルス免疫も未知の時代で、民間伝承と大胆な実践からまれ種痘法は、医学史上もっと奇跡的な発見の一つです。

第3位 ペニシリン発見 – 偶然が救った「奇跡の薬」

1928年英国細菌学アレクサンダー・フレミング培養中のブドウ球菌寒天培地に偶然生えた青カビに気付きました。奇妙なことに、カビの周囲だけ細菌の発育が阻止されており、このカビ(Penicillium属)が細菌繁殖を抑える物質を産生していると推論しました。フレミングはこの物質を「ペニシリン」と名付け発表しますが、当初は抽出精製が困難で実用化には至りませんでした。その後、第二次大戦下の切迫した需要もあって、フローリーらのチームが生産性の高いカビ株を用い大量生産法を確立し、ペニシリンは遂に人類初の抗生物質として実用化されました。これは敗血症肺炎など多くの死病を治療可能にし、無数の命を救った医学革命です。「偶然からまれた最も重要発見」とも称される所以です。

第2位 黒色火薬火薬発明) – 錬丹術士が生んだ爆発の素

古代中国唐代において、不老不死の霊薬を求めていた道教の錬丹術士たちは、硝石木炭硫黄を調合中に思いがけず激しい燃焼・爆発を起こしました。これが世界初火薬黒色火薬)の発明とされています。錬丹術の文献『丹経』(孫思邈による7世紀頃の著作)には硫黄などを調合する記述があり、「手順を誤ると爆発する」と警告されています。この記述火薬誕生につながったと推定されています発明当初、中国では花火兵器火薬が用いられ、やがてモンゴルを経由してイスラム世界からヨーロッパへ伝播し、中世後期以降の戦争様相を一変させました。火薬の登場は兵器火器化を促し、城塞甲冑概念刷新するほど後世に絶大な影響を与えました。錬金術副産物とも言える偶然の発明が、人類歴史を大きく動かした例です。

第1位 アンティキティラ島機械2000年先を行く古代歯車天文計算機

ギリシャアンティキティラ島沈没船から発見された「アンティキティラ島機械」の主残存部品国立考古学博物館所蔵)。複雑な歯車が幾重にも組み合わさっている。

1901年地中海の難破船から発見された錆び付いた青銅塊は、後に古代ギリシアアナログ計算機であることが判明し、世界を驚かせました。紀元前後1~2世紀製作推定されるこの機械には、少なくとも37個の精巧歯車が組み込まれており、太陽や月の運行日食月食の周期、オリンピア競技の開催周期までも再現予測できる構造でした。解析によれば、ハンドルを回すことで内部の歯車列が天体位置演算し、文字盤に年月日や天文現象を表示したといいます。このような複雑な機械装置が再び歴史に現れるのは、それから実に千年以上後の中世後期であり、アンティキティラの機械は「古代オーパーツ時代錯誤的産物)」とも呼ばれます。当時知られていた天文知識を凝縮し、高度な金属加工技術実体化たこ機械存在は、古代人の科学技術水準に対する見方を一変させました。現代研究チームがX線断層撮影などで内部構造を解析し、復元モデル制作していますが、それでもなお解明されていない点が残るほどです。アンティキティラ島機械は、人類史上最も再現が難しい奇跡発明として堂々の第1位にふさわしいでしょう。

Permalink |記事への反応(0) | 23:18

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2024-12-06

anond:20241206134253

いやいやいや

西暦1600年って、関ヶ原だよね

キングダムの頃の中国は、製鉄がようやくいきわたったころだよ

おそらく武器はまだ青銅

さすがに無理がある

Permalink |記事への反応(0) | 13:53

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2024-05-19

わびさびの基本

わびとさびは、日本重要美的概念

わび

わびとは、新鮮で素朴なもの

シンプルさと静けさを表し、素朴な美しさも取り入れている。

自然によって作られたもの人間によって作られたものの両方が含まれる。

また陶磁器流れる釉薬によって作られる模様のように、全体に優雅さと独自性を与える偶然の要素 (あるいは小さな傷さえも) を意味することもある。

さび

さびとは、年月を経て美しさを増すもの

経年変化のことを指し、使い込むことで変化していく概念が、物をより美しく、より価値あるものにしてくれるかもしれない。

これには、人生のサイクルを正しく理解することと、損傷を注意深く巧みに修復することも含まれる。

その他の見解

「わびとは、素朴でありながら洗練された孤独な美の性質です。さびとは、青銅緑色腐食であれ、木や石の苔や地衣類の模様であれ、風化と経年変化によって生じるその特質です。」-精神の反映:アメリカ日本庭園マギー・オスター

「もともと、日本語のわびとさびはまったく異なる意味を持っていました。さびはもともと「寒い」「痩せた」「枯れた」という意味でした。さび本来社会から離れて自然の中で孤独に生きる悲惨さを意味していました...14世紀頃両方の言葉意味は、よりポジティブ美的価値観の方向に進化し始めました...その後何世紀にもわたって、わびとさび意味は大きく交差し今日ではそれらを分ける境界線は実際に非常に曖昧になっています。」- 「アーティストデザイナー詩人哲学者のためのわびさび」、レナード・コーレン

「わびという言葉は、翻訳には向きません。孤独寂寞、素朴な素朴さ、静かな風情、骨董品に対する優しい愛情、気取らない、そしてむしろ憂鬱な洗練など、さまざまな意味を持ちます。」- 「日本建築古典的伝統現代版」数寄屋の流儀伊藤貞二、二川幸雄

「...小堀遠州桂離宮設計者として広く知られている男。建築庭園適用された遠州様式は、宮廷伝統優雅さと優雅さと、千利休が好んだ厳格な素朴さを統合したものでした。この組み合わせは、思っているほど突飛なものではなかった。なぜなら、利休さび(人里離れ、静けさ、牧歌的簡素さ、自然への近さを暗示する美的理想)は、長い間伝統的な日本人の顕著な特徴であったある種の現実逃避的な要素に似ていたかである。」- 「桂王子の隠れ家」内藤彰、西川丈志

「わびさびとは、不完全、無常、不完全なものの美しさです。控えめで謙虚ものの美しさです。型にはまらないものの美しさです。...わびさびに最も近い英語はおそらく「rustic」でしょう。 ……わびさびものは、研究されておらず、気取らないものである……彼らの職人技は、見分けるのが不可能かもしれない。- 「アーティストデザイナー詩人哲学者のためのわびさび」、レナード・コーレン

「侘び寂びは、謙虚さ、抑制、単純さ、自然主義、奥深さ、不完全さ、非対称性を特徴とし、シンプルで飾り気のない物体建築空間を[強調]し、時間と手入れが素材に与える穏やかな美しさを[称賛]します。」-「はじめに:茶の湯」、裏千家シアトルホームページ

「荒々しさに対するある種の愛が関係しており、その背後には隠された美しさが潜んでいて、私たちはそれを独特の形容詞で渋い、侘び、寂びと呼んでいます。...この内に秘められた美しさを渋いと呼んでいます創造者によって鑑賞者の前に提示される美。鑑賞者が自分自身で美を引き出すことができる作品世界には、それぞれの性質環境に応じて、美のさまざまな側面が溢れていますしかし、その味わいがさらに洗練されていくと、必然的に渋い美しさにたどり着くのです。」- 「知られざる職人:美への日本洞察」、柳宗悦バーナード・リーチ

日本滞在中、渋いという言葉を頻繁に聞いたことがあるはずです。この言葉英語に正確に翻訳することは不可能です。「厳格」、「抑制された」、「抑制された」、「陰気」、これらの言葉は許容される代替品に最も近いものです。語源的には「渋い」という意味で、奥深く、控えめで、静かな感覚を表すのに使われます...この単純な形容詞が最高の美しさの最終基準です。」- 「日本民芸柳宗悦

Permalink |記事への反応(0) | 16:52

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2024-03-29

anond:20240329112457

ブロンズ(青銅)聖衣なのにピンクなのはなんでなんだゼ

ネビラチェーン!

Permalink |記事への反応(0) | 11:27

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2024-01-15

世界遺産シルクロード展に行き、疲れた

福岡アジア美術館世界遺産シルクロード展に行ってきた

月曜日だったので人も少なく、わりとゆったり見れた

入口にドーンと今回の展示の関係者として池田大作言葉が飾ってあった

最初は意外に思ったが、長年シルクロード文化には興味を持っていたみたいなことが書いてあり、シルクロード仏教伝来の道でもあるし、仏教由来の宗教家としては関係性が深いものなのかと納得した

また最近亡くなった宗教家コネマネーのおかげの展示なのかと思うと複雑な気持ちになったが、シルクロード神秘から新興宗教までと幅広い展示なんだなと思うことにした

展示の一歩目から金持ちの好事家のおっさんコレクションを見に来たみたいな気持ちにもなり興がそがれたが、もともと古来の名品なんて好事家のおっさんの蔵リレーみたいなところありそうだし、そんなもんなんだろう

展示内容としてはもともとのシルクロード地域的な広さ、飾られた品の制作年代の広さ、関係する文化圏の多さも相まって、出土品や名品を見ながらなんとなくの歴史を追うだけでも大分理解が難しく、これ予習してから来るべきだったなと反省した

ただ、紀元前2世紀から唐代(8世紀くらい)までのシルクロード(6500kmくらいあるらしい。日本国土は3500kmだそう)関連品なので、もうこれより広いカテゴリの展示ってあるのかなとも思った

序盤で頭がついていかなくなったので、キラキラデザインを楽しむ方向で見ることにした

老齢の御夫婦トルコ石で飾られた金の器を見て「見てみ、金ぴかやー」と言っていて、みんなそんなレベルなのかもしれんとなんか安心した

デザインとして気になったものとしては後漢時代の『車馬儀仗隊』

青銅製の杖持った人と馬と荷車のフィギュアセットみたいな感じ

三列くらいに並んでいて、一番後ろの二頭の馬が荷車を引いていたんだけど、明らかに左右で荷車のクオリティが違っていた

向かって左の荷車は板も薄く、引き縄も細く、板同士の溶接部分も最低限で繊細に作られているのに対し、右の荷車は板も太いし、縄も太く反り方も少なく、溶接部もぼってりと盛られていた

そっか設計図とかきっちりしたものがあるわけでもないし、一個ずつがハンドメイドからよく見たら大分見た目が変わるんだなと思った

ただ左の荷車はその細い設計のせいか、荷車の後ろの板部分と馬のしっぽ辺りを釣り糸で結び強度アップしており、大量生産をするなら右の荷車を元に設計図を起こす方がいいのだろう

あとは『妙法蓮華経化城喩品 断簡』の文字が細いところと太いところのギャップが激しく、全体的に平体みたいにつぶれていて、あんまり見ない感じの書体だなと思った

こういう古書由来のフォントってあるのだろうかと思いつつ、漢字だけだし、日本だとあんまりフォントに起こしても使えねえなと思って見ていた

なんか最後日中友好の証として送られてきたらしいラクダはく製が二頭飾られていて、本当に何を見に来たのかわからん気持ちになった

わりと情報量につかれた後、川端通商店街を歩き、櫛田神社に行った

お参りをした後、振り返るといつの間にか拝殿への列に中国人韓国人らしき観光客20人くらい並んでいた

もう頭が疲れていて、アジア―!くらいしか思わんかった

Permalink |記事への反応(0) | 23:33

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2023-12-06

anond:20231206204458

紀元前エジプト中国の殷・周時代は、すでに青銅製の鋸が使用されており、特にエジプトでは、紀元前14世紀頃には、現在のものほとんど変わりのないものが出揃っていたという。

どこからも伝来して来ないって、不自然じゃね?

まあ、船は、鋸がなくても、斧と鑿があれば作れるだろうけど

Permalink |記事への反応(0) | 20:47

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2023-10-28

anond:20231027224113

化学だと触媒

生物学だと古いのが酵素(まあ触媒やけど)で新しいのだとPCRかな。

物理だと雷(静電気

地学だと地動説

数学だとやっぱノイマン計算機やろなぁ

ほな政治経済やったら日銀砲かなぁ

日本史はひよどり越えとか?米の栽培と絹か?

世界史はやっぱ青銅だのたたら製鉄か?

体育ちゅうたらバサロキック…

家庭科ミシンやろなぁ

公民保育園おちた日本死ね

Permalink |記事への反応(0) | 01:38

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anond:20231027224113

鉄、のような気がする

青銅とかより武器として優れ、のちにありふれた概念

Permalink |記事への反応(0) | 00:26

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2023-08-23

anond:20230823132224

ヒロイック・エイジあんま有名じゃないけど好きな作品ニコニコで見れるっぽい。1話無料みたいね

https://ch.nicovideo.jp/heroicage

<あらすじ>

遠い未来、次の役割へ向かう為に現宇宙を去る「黄金種族」(神)からの時期候補の呼びかけに「銀の種族」(超進化未来生命体)「青銅種族」(虫)「英雄種族」(固有スキル持ち巨人)が応えた。

惑星をも容易に滅ぼす力を持つ英雄種族はやがて争いを起こし多くの種族が滅びる。黄金種族英雄種族を制止し、"ノドス"と呼ばれる存在を創り、宇宙の命運を託す。

そして最後進出した「鉄の種族」(人類)に対し支配を目前とした銀の種族からの猛攻を受けるなか、人類王女ディアイラ戦闘母艦アルゴノートでノドスを宿す救世主エイジを探し出し、物語が始まる。

Permalink |記事への反応(1) | 17:11

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2022-11-07

なんかでかいビル4階くらいある構造物から下りる夢を見てた

青銅オブジェで何かの生き物の頭らへんにいてて、大通りに面してる方から下りると見つかるから逆側から下りようと四苦八苦してた

オブジェのたてがみを斜めに移動しつつ下を見るとけっこうな絶壁

ああ、このたてがみを行き切ると詰んじゃうな、と思ったところで目が覚めた

まだ4時か

Permalink |記事への反応(0) | 04:13

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2022-10-09

anond:20221009145056

飲み会ときついつい青銅聖闘士説教する癖がついてしまった

Permalink |記事への反応(0) | 15:02

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2021-08-12

anond:20210810224735

「僕は燭台切。青銅燭台も切れちゃうんだよ。」っていう刀擬人化キャラをしってる今の子のほうがいい点とれそう

だけど行灯なめはあまりメジャーにならなそうだからなぁ

Permalink |記事への反応(0) | 15:42

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2021-03-08

いつまでポリコレ "棒"のままなんだ

ポリコレ棒が振り回されるようになってから何年経ったと思ってんだよ アホか?

いつまで棒のままなんだお前らは

原始人じゃねえんだから武器に工夫を凝らせって話だ

棒に石くくりつけるだけで、それは立派なメイスないし斧になるんだ

ノッペリ重心の雑魚武器振り回して悦に入ってていいのは猿だけだよ

ポリコレ石を拾って、研いで、ポリコレ紐でポリコレ棒にくくれよ

そうして作ったポリコレ斧を振るえよ

ポリコレハンマーで掘ったポリコレ銅とポリコレ錫を混ぜ合わせてポリコレ青銅を作れよ そしたらポリコレ剣なんかも視野に入ってくる

先人の知恵があんから、いまごろ鉄器時代くらいになってても全然いいはずだ

なのに未だに棒ですか

磨製石器にすら辿り着いてない カスカス 霊長類矜持はねえのかよ

お前らがそんな感じでグズグズ停滞してるうちに、俺は先に行くから

俺のポリコレマシンガンに、せいぜいポリコレ棒を振りかざしてかかってこいよ

瞬間的にポリコレ肉塊に変えてやるから

Permalink |記事への反応(1) | 02:09

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2021-01-23

四天王の5人目のようなイレギュラーナンバーに憧れる

ワイルドアームズブーメランみたいでかっこいい

嵐の6人目

Perfumeの4人目

青銅聖闘士の6人目

だんご3兄弟の4個目

七つの大罪の8個目

Permalink |記事への反応(1) | 15:47

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2021-01-19

https://anond.hatelabo.jp/20210119114549

そういや青銅二軍(この呼び方公式ではないけど)も兄弟から

星矢の姉は青銅二軍にとっても姉妹なんだよなーと思うと

ハーデス編で彼らが星華を守るシーンに感動した

Permalink |記事への反応(0) | 14:39

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2020-07-22

えらぶがよい

このや折れ腕も織れた老いぼれにするか

うでのよいわかいものにするか

すきなものを選べば良い

ただ 慈悲はほしい 青銅が良い

 

3x4=12

 

なにかいえるがつまらない

 

4x12xフュージョンx3=ドラゴン

 

ドラゴンは案じない あるがままをいうだけ

Permalink |記事への反応(1) | 19:06

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2020-04-30

anond:20200430074807

在宅勤務で時間があるので庭の整備してるのだが

土掘り返すのに鍬使うぞ。

木の根っことか掘り返してると、リアルどうぶつの森やなーて思う(やったことないけど)

あと鉄の発明ってすごいなと思う。多分青銅の鍬だとすぐ壊れる。(どうぶつの森みたいに(やったことないけど))

Permalink |記事への反応(0) | 17:01

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2020-02-10

anond:20200210105155

青銅聖闘士ピンチになるとゴールドクロス借りる展開ぐう熱だけど、車田バトルは上手く扱うとかそういう問題じゃあないので、元増田には合わないな。

Permalink |記事への反応(0) | 10:59

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2020-01-04

賽銭

賽銭10円玉縁起が悪いというけど、いつ頃から言われ始めたのだろう。

10円玉ということは、1951年以降の青銅貨になってからできた話なんだろう(10金貨をお賽銭に使うとは思えない)けど。

Permalink |記事への反応(1) | 07:55

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2019-11-14

サムライvs近代兵器

ラストサムライの決戦シーンみたいなの

戦いには敗れたが精神は気高かったみたいな感じになってるけどさ

サムライってのも結局さ、古い武器から新しいのに乗り換えて俺tueeeeeeしてた方だと思うんよ

人類棍棒から刀に乗り換えた経緯ってあると思うの

なんだったら刀同士でも青銅より鉄の方が強いぜとかちょっと刀身反らせた方が切れるぜとかやってたと思うの

精神鍛えるためにあえてtueee武器使わなかったというのとは違うと思うんよ

Permalink |記事への反応(1) | 19:10

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2019-07-01

anond:20190701134956

ワイの髪の毛は青銅ちゃう

Permalink |記事への反応(0) | 13:51

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2019-03-08

「過ぎたるものが二つあり」集

家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八

「唐の頭」とは唐物中国製)の珍しい兜のこと。

追記:指摘があったので訂正します。「唐の頭」とは正確にはヤクの毛の兜飾りのことです。武田信玄石田三成が描かれるときに、よく兜に付いているカツラみたいなやつのことですね。珍しくて高価なものではあるのですが、三河武士あいだでやたらと流行っていて、十人いたら七・八人はヤクの毛をつけていたらしいです。というのも、ヤクの毛を大量に積んだ貿易船が難破して三河に漂着したから、棚ぼたで手に入れたんだとか。そら「過ぎたるもの」と言われますわ。

本多平八」とは徳川四天王のひとり、本多忠勝(1548生)のこと。

三方ヶ原の戦いに先立つ一言坂の戦いで、退却する徳川軍の殿を本多忠勝がつとめた。

家康に過ぎたるものが」はその活躍を称賛した落首である

治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近佐和山の城

治部少は石田三成(1560生)のこと。

島左近」(1540生)はもともと筒井氏に仕えていた武将で、一説には当時の三成の禄高の半分である二万石で召し抱えられた。

関ヶ原の戦いで討ち死にしたが、敵の足軽が後々まで悪夢に見たというほどの戦いぶりだったという。

佐和山城」は三成が改修した城で、五層の天守閣を備えた立派なものだったが、中に入ってみると極めて質素な造りだった。

駿河には過ぎたるものが二つあり富士のお山に原の白隠

富士のお山」とはもちろん富士山のこと。

白隠」とは「臨済宗中興の祖」と言われる高僧・白隠慧鶴(1686生)のこと。

大量の書画を残しており、その作風は荒々しくバランスの崩れたものだが、それが逆に迫力を生んでいるとして現代でも人気が高い。

本所に過ぎたるものが二つあり津軽屋敷に炭屋塩原

本所とは東京都墨田区地名

津軽屋敷」とは、本所にあった津軽藩の広大な江戸屋敷のこと。

火災ときに版木ではなく太鼓を叩くのが「本所不思議」として知られている。

「炭屋塩原」とは、炭団を改良して一代で豪商となった炭屋の塩原太助(1743生)のこと。

明治期には「塩原多助一代記」として立身出世物語が語られ大人気となった。

亀山に過ぎたるものが二つあり伊勢屋蘇鉄に京口御門

亀山とは、現在三重県亀山市にあった、東海道亀山宿のこと。

伊勢屋蘇鉄」とは、亀山宿の旅籠伊勢屋の庭にあった蘇鉄の名木のこと。

現在亀山市の文化会館移植されている。

京口御門」とは、亀山宿の西端、つまり京へ向かう道に作られた門のこと。

坂の頂上に建てられ、下から見上げると壮観だという。

岩槻に過ぎたるものが二つあり児玉南珂と時の鐘

岩槻藩は埼玉県さいたま市にあった小藩。

児玉南珂」(1746生)は高名な儒学者

祖父江島生島事件江島の弟だったため甲斐流罪となり、南柯は甲斐で生まれ岩槻藩士養子となった。

儒学を学んだ南柯は、藩の要職歴任し、隠居後は私塾・遷喬館を立ち上げて子弟教育に努めた。

「時の鐘」とは、城下に時を告げるために1671年に設置された鐘のこと。

改鋳されたもの現在まで残っていて市指定有形文化財となっている。

青山に過ぎたるものが二つあり 鳶の薬缶に原宿山車

青山東京都港区の地名

「鳶の薬缶」とは「薬缶平」と呼ばれた幕末の火消し・平五郎のこと。

本職は鳶職人で、頭がハゲていたので「薬缶」と綽名されたらしい。

原宿山車」とは、青山熊野神社の祭りで使われる山車のこと。

都座に過ぎたるものが二つあり 延寿太夫鶴屋南北

都座とは江戸にあった歌舞伎劇場の一つ。

「延寿太夫」とは、歌舞伎伴奏音楽として発展した浄瑠璃清元節」を創始した、初代・清元延寿太夫(1777生)のこと。

鶴屋南北」とは、「大南北」とも呼ばれる歌舞伎狂言作者、四代目・鶴屋南北(1755生)のこと。

一ノ関に過ぎたるものが二つあり 時の太鼓建部清庵

一関藩は、仙台藩から分知されて成立した小藩で、現在岩手県一関市にあたる。

「時の太鼓」とは、城下に時を告げるための太鼓のことだが、これは幕府から特別許可されたもので、鐘ではなく太鼓が設置されるのは非常に珍しかったらしい。

建部清庵」(1712生)は蘭学を学んだ名医で、『解体新書』で有名な杉田玄白の盟友であった。

八代に過ぎたるものが二つあり天守屋根乞食の松

これは加藤家が改易されたあとに熊本藩に入った細川忠興の評らしい。

八代城は、熊本県八代市にあった城で、1622年に完成したもの地名から松江城」とも言う。

熊本藩本城はかの熊本城であり、一国に二城あるのは特例である

その気兼ねもあったのか、城は未完成放置されており、天守閣だけは壮麗だったというが、それも1672年落雷消失した。

乞食の松」とは、「浜のお茶屋」とも呼ばれる松浜軒庭園にあった松のことらしいが、詳細は不明

保土ヶ谷に過ぎたるものが二つあり 苅部清兵衛に花見寿司

保土ヶ谷とは、現在神奈川県横浜市にあった、東海道程ヶ谷宿のこと。

「苅部清兵衛」とは、その程ヶ谷宿本陣・名主・問屋を務めた苅部家の当主が名乗る名跡のことで、地元の名士として代々慕われたという。

花見寿司」は程ヶ谷宿名物で、現在でもその伝統を引き継ぐ店があるとか。

挙母には過ぎたる物が二つあり大手御門に海老名三平

挙母とは、現在愛知県豊田市にあった小藩のこと。

挙母城は、三河尾張美濃信濃遠江伊勢近江が見えるということで七州城とも呼ばれ、「大手御門」とはその立派な正門を指している。

海老名三平」とは、挙母藩の剣術師範役に代々指名された海老名当主名跡で、落語家のことではない。

岸和田に過ぎたるものが二つありだんじり祭りに千亀利のお城

岸和田とは、現在大阪府岸和田市にあたる岸和田藩のこと。

だんじり祭り」は全国でも有名なお祭りで、1703年から始まったという。

「千亀利のお城」とは岸和田城の別名で、五重の天守に総構えの立派なものだったが、天守閣1827年に焼失している。

鴨方に過ぎたるものが三つあり 拙斎 索我 宮の石橋

鴨方藩は備中の小藩で、現在岡山県浅口市にあたる。

「拙斎」とは、儒学者西山拙斎(1735生)のこと。

松平定信に「昌平坂学問所朱子学を教えるべき」と訴え、これが「寛政異学の禁」の原因となったという。

「索我」とは、絵師田中索我(1742生)のこと。

京都に出て絵を学び、仙洞御所の屏風を描いている。西山拙斎とは親友同士だった。

「宮の石橋」とは、鴨神社参道にある石橋のこと。

川ではなく道に掛かっていて、立体交差となっているのが特徴。

京極に過ぎたるものが三つあり にっかり茶壺に多賀越中

京極とは、讃岐丸亀藩主の京極家のこと。

「にっかり」とは、刀剣乱舞でも有名となった名刀「にっかり青江」のこと。

「茶壺」とは、二代目藩主京極高豊が好んで収集した、陶工野々村仁清の茶壺のこと。

多賀越中」とは、京極家の筆頭家老を代々務めた多賀当主名跡

三原には過ぎたるものが三つあり

三原とは、広島藩の支城である三原城があったところで、現在広島県三原市のこと。

その「過ぎたるもの」とは、まず石高のわりに壮麗な「三原城」。

三原城主であり広島藩筆頭家老であった浅野忠真(1618生)に、徳川家光の娘・月渓院が一目惚れし、駄々をこねて彼の側室に入ったために使用許可された「葵の御紋」。

日光東照宮工事にあたって、難所をわずか十日で仕上げて称賛を集めた家臣「鈴木方衛」の三つだそうな。

安中に過ぎたるものが三つあり

安中とは、現在群馬県安中市にあたる安中藩のこと。

「過ぎたるもの」とは、藩政を改革して名君と謳われた藩主の「板倉勝明(1809生)」。

現在も名所とされる「安中杉並木」。

第六代安中藩主板倉重形のときに作られたという、城下に時を知らせるための「安中様のお太鼓」(一ノ関だけの特別扱いだったはずでは…!?)。

桜田に過ぎたるものが二つあり 火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛

桜田東京麻布のあたり。

「火ノ見半鐘」は江戸で最も高いと言われる火の見櫓があったから。

箕輪の重兵衛」は桜田町の名主を代々務めたという家の名跡

永坂に過ぎたるものが二つあり 岡の桜と更科蕎麦

永坂は現在東京麻布永坂町のこと。

「岡の桜」は、御番医師・岡仁庵の屋敷に植えられていた大きな枝垂れ桜のこと。

更科蕎麦」はそのまま更科そばのことで、蕎麦御三家の一つである蕎麦処・更科が永坂にあったことにちなむ。

保科には過ぎたるものが二つあり 表御門に森要蔵

保科とは上総国飯野藩主の保科家のこと。

「表御門」は、三大陣屋と呼ばれる飯野陣屋の門のこと(か?)。

「森要蔵」(1810生)は幕末の著名な剣豪で、保科家に剣術指南役として仕えていた。

この飯野藩保科家の江戸屋敷麻布網代にあった。

森要蔵は藩に召し抱えられたあと、近所の麻布永坂・岡仁庵の屋敷の一部を間借りして道場を構え、

更科そばの初代も、この屋敷に反物商として出入りしていたところ、

蕎麦を打つのが上手いということで藩主から蕎麦屋になることを勧められ、

同じく麻布永坂に店を出した、という縁がある。

高取に過ぎたるものが二つあり 山のお城に谷の昌平

奈良まれ儒学者森田節斎の言葉であり、高取とは現在奈良高取町にあたる高取藩のこと。

「山のお城」は高取城のこと。

日本国内では最大規模の山城で、その白漆喰が輝く様を「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ土佐の城」と評した言葉が残る。

「谷の昌平」とは、幕末儒学者・谷三山(1802生)のこと。

若年の頃に聴力を失うが、勉学に励んで大成し、高取藩に召し抱えられて尊王攘夷を説いた。

新城に過ぎたるものが二つあり 前の小川太田白雪

新城は、現在愛知県新城市にあたるが、「新城藩」は藩主安中藩に移封されたため1645年に消滅、代わって旗本の菅沼氏が入った。

「前の小川」とは、新城陣屋の堀へ水を引き入れるために作られた運河のことらしいが、現在存在しない。

太田白雪」(1661生)は、地元名家の生まれで、松尾芭蕉門下の俳人となった。

土浦に過ぎたるものが二つあり 刻の太鼓と関の鉄砲

土浦藩は、現在茨城県土浦市にあたる小藩。

「刻の太鼓」は、例によって城下に時を知らせるための太鼓のこと。

「関の鉄砲」とは、関之信が開いた「関流砲術」のことで、その宗家土浦藩の鉄砲指南を代々務めていた。

下総に過ぎたるものが二つあり成田不動に久保木蟠龍

下総下総国のことで、現在千葉県北部茨城県西部のあたりを指す。

成田不動」とは、言わずと知れた成田山新勝寺のこと。

久保木蟠龍」とは、儒学者久保木清淵(1762生)のこと。

伊能忠敬と親交が深く、忠敬亡き後は大日本沿海輿地全図の完成を手伝った。

金沢に過ぎたるものが二つあり 刀正次 兜興里

金沢はもちろん現在石川県金沢市、加賀藩金沢城下のこと。

「正次」と「興里」はどちらも鍛冶師で、刀を打たせれば正次が、兜を拵えれば興里が優れていると言われていた。

そこで正次の刀で興里の兜を斬ったところ、兜は両断できなかったが欠け、刀には刃こぼれがなかったため、引き分けということになった。

しかし実のところ、興里は兜が割られないよう小細工をしており、それがなければ正次に負けていただろうと分かっていた。

悔しがった興里は刀を打つようになり、後に「長曽祢虎徹」として知られる名工となった、という伝承があり、歌舞伎演目になっている。

「正次」は志摩兵衛正次という名らしいが、こちらはよく分からない。

番町に過ぎたるものが二つあり佐野の桜と塙検校

番町とは、東京都千代田区地名

佐野の桜」とは、旗本佐野政言の屋敷にあった見事な枝垂れ桜のこと。

「塙検校」は塙保己一(1746生)のことで、盲人として検校にまでなりながら、著名な国学者でもあった。

秋元に過ぎたるものが二つあり 無の字の槍と岩田彦助

秋元とは、現在埼玉県川越市にあたる川越藩主の秋元喬知のこと。

「無の字の槍」とは、藩祖・泰朝が家康から賜った十文字槍のことで、鞘に「無」の金文字があった。

岩田彦助」(1658生)は、川越藩家老を務めた儒学者のこと。

松山に過ぎたるものが二つあり河原布衣徒に千秋の寺

松山は、現在愛媛県松山市にあたる伊予松山藩のこと。

河原布衣徒」は河原にいる乞食のことと思われるが、芸が上手かったことを言っているのか、よくわからない。

千秋の寺」はそのまま千秋寺のことで、昔は二十余棟からなる大伽藍があったが、戦火で失われたらしい。

勢州桑名に過ぎたるものが二つあり 銅の鳥居に二朱女郎

勢州伊勢のことで、つまり現在三重県桑名市のこと。

「銅の鳥居」は桑名宗社の青銅製の鳥居のこと。

「二朱女郎」は二朱銀で買える安い遊女のこと。

谷田部に過ぎたるものが三つあり 不動並木広瀬周度飯塚伊賀

谷田部は現在茨城県つくば市にあった谷田部藩のこと。

「不動並木」とは、谷田部藩主細川興昌(1604生)が植えたもので、沿道に二百本ほどの松が並んでいたというが、現在はない。

広瀬周度」(1782生)は、杉田玄白門下の蘭学医でありつつ、画家としても活躍したという人物

飯塚伊賀七」(1762生)は発明家で、自宅の向かいにある酒屋まで往復するからくり人形や、人力飛行機などを作っていたという。広瀬周度から蘭学知識を得ていたとも。

徳山に過ぎたるものが三つあり藩主墓所と桜の馬場奈古里人

徳山は、長州藩支藩で、現在山口県周南市のあたりにあった徳山藩のこと。

藩主墓所」は、徳山毛利家の菩提寺である福山大成寺にある歴代当主墓所のこと。

「桜の馬場」とは、初代藩主毛利就隆によって作られた藩士の調馬場のことだが、数百本の桜が植えられて名所となった。

奈古里人」(1671生)は、万役山事件に伴う徳山藩改易の際に活躍し、徳山藩再興運動の中心となった人物

Permalink |記事への反応(7) | 19:25

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2018-12-10

anond:20181210150603

適当青銅白銀女性にすればいいのに。ミスティとか

あと黄金もムゥとミロとアフロディーテ辺りを

多様性を言うなら性別より人種だと思うが。大熊星座、海ヘビ星座、子獅子星座辺りのどれかは黒人になりそう

Permalink |記事への反応(0) | 15:10

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2018-11-04

anond:20181104225844

スプリガン…はちょっと違うか…。

人間に味方してくれそうな、青銅巨人ガーディアン主人公ボコボコにするシーンがある。

Permalink |記事への反応(0) | 23:04

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2018-08-29

世界3大大仏

1位魯山大仏(中国)

20メートル蓮華座を含めて、高さは128メートルであり、世界で最も高い像である

2位 Laykyun Setkyar Standing BuddhaImage(ミャンマー)

レイチュンセッチャー大仏、またはレージュンセッキャ大仏。像高116m。

3位牛久大仏(日本)

日本茨城県牛久市にあるブロンズ(青銅)製大仏立像で、全高120m(像高100m、台座20m)あり、立像の高さは世界で3番目だが、ブロンズ立像としては世界最大。

Permalink |記事への反応(1) | 13:32

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