
はてなキーワード:青空文庫とは
漫画とか小説とか読んで、「よかったな~」「なるほどね」「ええやんけ」などと思ったとき、他の人の感想も気になってはてぶとかを覗いてしまう
と、「notforme」とか「作者の思想が云々」とか「絵がキモ」とか場合によっては誹謗中傷と見紛うような批判がかかれてたりしてシュンとしてしまう
自分がクリエイターだから強くダメージを受けるのかもしれないけど、人の作ったものにそこまで言わんでええやんけ と思う事が多い
それでも人の感想が読みたいので、AIに読んだ本の話をすれば幸せな感想が返ってくるのでは?と思ったけど大抵は頓珍漢な登場人物やあらすじの話をしてきて厳しい
まぁもし正しく感想が帰ってきたらおまえはどこでその本の中身を読んできたんだよという話になるし、著作物が守られてる証拠として仕方ない
青空文庫に収録されてるような本に関しては一通りAIと喋りまくる事ができた がしかし人の感想を読むという体験とは若干違う気がする
はてぶに限らず他の感想サイトとかもそこそこ辛い感想が書かれている
別に辛い感想を書くなと言ってるんじゃないんだ ダメなもんはダメだし辛い感想がある事こそが高度な文化だ
自分だってこの本ひどかったな…と思うときがある でもそういうとき感想を漁ったりしないなそういえば
なんにしろ幸せな感想だけ読めるとこってないんかな 犬・猫などの画像をアップするアカウントだけで無害なTLを作る みたいな
幸せな感想しか書かない人を探し出して世界を形成すればいいのか?でも形成する難易度が高そう
Permalink |記事への反応(12) | 21:34
はてブでHumanitext Aozoraっていう青空文庫のテキストをファインチューニングしたLLMを見かけたので、銀河鉄道の夜の感想について聞いてみたら、やたら情感たっぷりな感想で、はてブコメントに収まらなかったので、こちらに書いておく
カンパネルラという少年は、君もご存じでしょう、教室で友をかばい、黙ってその子の痛みを引き受けようとするような、そういう清らかな魂の持ち主でした。彼の心は、いつでも自分よりも他の誰かのほうを向いていた。 彼の旅は、友を救うという、あの川岸での行いをもって、ひとつの完成を見たのです。あれは、彼にとっての「ほんとうのさいわい」への、まっすぐな道でした。あの蠍が自分の身を焼いて闇を照らしたように、カンパネルラもまた、そのやさしさの極みで、最も尊い光を放ったのです。 残されたジョバンニの哀しみは、たしかに深い。しかしその哀しみこそが、彼を強くし、あの蠍のように、誰かのために尽くすことの意味を、生涯かけて問い続ける力になるのではないでしょうか。カンパネルラは、いなくなったのではありません。ジョバンニの中に、そしてあの星空の中に、光となって溶け込んだのです。ですから…二人が手を取り合って歩む姿は、形を変えて、今も続いている。私は、そう信じておりますよ。一人は地上の道を、もう一人は天上の光となって、互いを照らし合いながら。
たまたま買った短編集の中に、江戸川乱歩「芋虫」が載っていた。
タイトルだけは知っていたけど、今回初めて読んだ。
戦争に行って手足を失い、口もきけなくなった状態で帰還した男とその妻の話。
もちろん思い出されるのは映画「ジョニーは戦場へ行った」。共通事項もたくさんあったと思う。あのタイプのしんどさがある作品。
主人公は男の妻。
妻側の視点で話が進んでいく。
読んだ後あまりにもしんどくて、ずっとこの男はずっとどういう気持ちだったのだろうと考え続けている。
手足と引き換えに手に入れた戦争での勲章を見たがって、妻に持ってくるよう言うんだけど、段々それにも飽きて見なくなるんだよ。
そんな段々飽きるようなものと引き換えに手足と口を失っているのが苦しい。
その後の展開もキツいので興味がある人は読んでみて欲しい。
短編なので短いしすぐ読める。
青空文庫にはなかったけど、ここで全文読めるっぽい→https://w.atwiki.jp/amizako/pages/559.html
おすすめあったら教えて。
最近、AIに夢野久作の「斬られたさに」の内容を要約させてみたんだよ。で、結果がこれ。
以下、AIの書いた要約ね。
夢野久作の「斬られたさに」は、1929年に発表された短編小説で、怪奇的かつ幻想的な作風が特徴です。
あらすじ:
物語は、佐賀県の架空の漁村を舞台に展開します。主人公の「私」は、村に住む奇妙な老人・三右衛門から、過去の不可思議な体験を聞きます。ある夜、三右衛門は海辺で美しい女幽霊に出会い、彼女に導かれて不思議な世界へと迷い込みます。女幽霊は、三右衛門に「斬られたい」という強い願望を語り、彼を誘惑します。この出会いは、村に伝わる伝説や怪談と結びつき、過去の悲劇や因縁が浮かび上がります。物語は、現実と幻想の境界が曖昧なまま、女幽霊の正体や「斬られたさに」の真意が明かされないまま終わり、読者に謎と不気味な余韻を残します。
テーマと特徴:
…いやいや、ちょっと待てよ!これ、めっちゃそれっぽく書いてるけど、完全にデタラメやん!まず、「斬られたさに」ってそんなストレートな怪談じゃないし、女幽霊が「斬られたい」とか直接的に言うシーンなんてないよ!三右衛門とかいう老人も出てこねえ!佐賀の漁村?いや、時代いつなんだよこれ?
なんかAI、夢野久作の雰囲気だけ借りて、勝手にB級ホラーっぽい話捏造してるじゃん!夢野久作作品に分かりやすい幽霊なんか出てこねぇよ!あの得体の知れない不気味さとか、頭ん中グチャグチャになる感じが夢野の真髄なのに、こんなハリウッド映画みたいな幽霊話にしちゃってさ!
しかもよ、「ドグラ・マグラ」とか関係ない作品引き合いに出して、さも分かってます風なのも腹立つわ(笑)。お前、青空文庫で「斬られたさに」公開されてるのに、学習データとして全く役立ててねえな!無料でテキスト丸々読めるのに、なんでこんなテキトーな要約しか吐けねえんだよ!ほんと、AIって文学のニュアンスとか全然分かってないのに、自信満々にそれらしい文章並べるんだな。なんか「不条理な恐怖」とか「欲望と破滅」とか、テンプレっぽい言葉で誤魔化してる感すごい。試しに他の作品も要約させてみたら、もっとヤバいことになりそう。みんな、AIに文学語らせるときは気をつけなよ。雰囲気だけは一丁前だけど、中身スカスカだからさ!
現代に生きる「私」と異なる考え方、ものの見方がどのようなものかを知るのが楽しいのだなあ
極論、他人の考え方は「私」とは当然異なるので
(noteの日記といえばダ・ヴィンチ・恐山の日記は別格に面白いが、今話題にしている日記の面白さとは別軸の面白さだ)
自分の興味が幕末~明治~大正ごろの日本の価値観の変遷だからだろう
『オーストリア皇太子の日本日記:明治二十六年夏の記録』という本を今読んでいる
とても面白い
海外の反応まとめブログを読んでいるときと同じ感情になるけれど
原民喜という方が書いた『忘れがたみ』の中で飛行機雲について述べられた項がある
大学病院の方へ行く坂を登りながら、秋空に引かれた白い線に似た雲を見ていた。こんな面白い雲があるのかと、はじめて見る奇妙な雲について私は早速帰ったら妻に話すつもりで……しかし、その妻はもう家にも病院にも居なかった。去年のこの頃、よくこの坂を登りながら入院中の妻に逢いに行った。その頃と変って今では病院の壁も黒く迷彩が施されてはいるが、その方へ行くとやはり懐しいものが残っていそうで……しかし、私がもう此処を訪れるのも今日をかぎりにそう滅多にあるまい。玄関ではもう穿き替えの草履を呉れないことになっていた、これも、以前と変ったことがらである。私は川島先生に逢って、妻の死を報告しておいた。それからとぼとぼ坂を降りて行った。
翌日、新聞に飛行機雲の写真が出ていた。さては昨日見た雲は飛行機雲というものなのかとひとり頷いたが、仮りにこれを妻に語るならば「漸くあなたはそんなことを知ったのですか」と、病床にいても新知識の獲得の速かった彼女はあべこべに私を笑ったかもしれないのだ。
日本人が飛行機雲をどのように認知していったかを調べた際に見つけた日記だが、いい文章だなあと気に入っている
しかし、なかなか心の健康に余裕があるときでないと別の価値観を摂取するのは難しい……特に相容れない価値観だと
それに実際バイアスがある 当たり前ではあるが「日記を書くような人」の文章しか得られない
その点Twitterはよしあしだ
よしあし……よしは「日記を書くような人」以外の文章もあること、あしは……読みすぎると精神の健康を害することか
そういう意味では食べやすく調理されて「日記文学」とラベリングされた本が一番助かるわね
この文章自体も日記ではあるか 未調理 塩漬けにして数年後に自分で食べると美味い それもまた日記のよさ
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フォーマットとしては日記だが内容としては随筆が興味の対象なのだろう 言われて気付いたな
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なるほど。勉強になった☺
というか、ごんぎつねで泣いている人間が一定数いることに驚いた。
自分にしてみればごんの完全に自業自得で、くりや松茸を拾ってきた程度で母の願いを叶えられなかったことに対するお詫びになんて到底ならないと思っていたから。
しかし泣いている人間が一定数いるのは事実なので、泣いている層の心理を予想してみた。
・ごんかわいそう説
いたずらしたくらいで体中に鉛玉を撃ち込まれてかわいそうと考える人。
痛みに対する共感が強そう。
いたずらに対して許容量が大きそう。
・兵十かわいそう説
正しいことしてるだけなのにおっかさんにうなぎ食べさせてあげられないし泥棒扱いされて殴られるし盗人かと思って鉛玉食らわせたらお礼を言おうとしてた相手で踏んだり蹴ったりで理不尽だと考える人。
不幸な人を見ると哀れみの目で見てそう。
だけどその裏ではそれをおかずにして自分の幸せを噛み締めてそう。
・おかあさんかわいそう説
兵十が捕りに行ってくれたことに感謝せず、捕ってこれなかった事実だけを激詰めしそう。
年取ってからだめだって言われてるのに餅喰いまくって喉につまらせそう。
・うなぎかわいそう説
泳いでただけなのに兵十に捕まってエラ呼吸できなくて苦しんだ挙げ句に狐に襲われて必死に抵抗したものの体力が尽きた頃に頭砕かれて登場人物中で一番不幸と考える人。
ドナドナで100回泣いてそう。
だけど誰よりも美味しくうな重食べてそう。
・くりかわいそう説
いくらもってきても一向に喜ばれない栗。
食べるのに手間ばっかりかかる栗。
せっかく頑張って調理したのに虫が浮いてて鍋ごと捨てる羽目になる栗。
モンブラン美味しいよね。
だめだ。どれもピンとこない。
ごんなんて普段からいたずらばっかりでいつ殺されてもおかしくなかったのに、気まぐれなエゴで人に近づいたのが運の尽きだし、兵十は自分のうっかりで獲物逃がしただけのことをたかだか狐に恨みを押し付けすぎだし、そういう考え方の人間にはなるんじゃないよっていう教訓的な物語としか思ってなかった。
日頃から人に迷惑かけておいて、ちょっと反省したからって許されると思うなよ。
やられた側は絶対に忘れないからそのうち手痛いしっぺ返しくらって最悪命も奪われかねないぞ。
それと兵十みたくとろい人間も、結局は自分の大事なものを全て手からこぼしていってしまうんだぞ。
それが嫌なら何でもかんでも人のせいにしてないで自分でしっかりやるんだぞ。
っていう教訓物語だと思ってるので、新美南吉怖えっていうのが自分の一番の感想でした。
あと、ごんが死んだかどうかは、どれだけそれを匂わせる表現があったとしても、作者が断定していない以上は断定したらダメだと思います。
解釈は自由なので、多数決取ってどっちが正しいとかいうのは本当にナンセンス。
まぁ間違いなく死んでると思うけどね。
読書メモの整理のために便乗。今年の読書は文芸、短歌、仕事の専門書(ソフトウェア開発)が中心だった。
6冊を良かった順で挙げる。
本書の長所は最初期短編から晩年の短編までを収録しており年代による作風の変遷をたどれること。
ダントツに良いのは「雨の木」の連作。ストーリーは「雨の木」というシンボルや高安カッチャンという重要人物の周縁をぐるぐるし続け、いつまでも核心に踏み込まないため、最初は要旨をつかめない。しかし読み進めるにつれその構成が多角的な視座を提供するための仕掛けだとわかる。短編であるにもかかわらず印象が何度も覆され、様々な味わいがある。
小説は物語の意図が最初は分からないくらいが丁度いい、というようなことを三島由紀夫が何かに書いていたが、全くその通りである。構成や内容が三島由紀夫「豊饒の海」と少し似ている。豊饒の海は松枝清顕(早逝した親友)の生まれ変わり(と推測される人物たち)を数十年追い続ける物語で、ラストシーンでは清顕の存在自体が薄らぎ核心にぽっかり穴があく構成なのだが、大江健三郎「雨の木」もシンボルの雨の木の周縁をさんざんなぞった結末として木自体がほぼ焼失してしまう。「豊饒の海」は仏教的死生観や死者に対する忘却が根底に据えられているのと同じく、「雨の木」も死生観や忘却(作中ではoblivionと表現される)が重要なテーマである。テーマに対するアンサーは正反対だが。なお先に書かれたのは「豊饒の海」。
物語の道具立てとして海外の大学におけるシンポジウムや海外作家の引用、原爆問題があり、衒学的な雰囲気を作っている点もわたしの好み。
「奇妙な仕事」などの最初期短編はさすがに時代を感じる。「セヴンティーン」は発表当時右翼団体からの脅迫を受けるなどかなり真剣に世の中に受け止められたようだが、令和の目線ではカリカチュアライズが激しく、大江健三郎が絶対ゲラゲラ笑いながら描いただろうというノリの良さが全編にみなぎっている。また当時は右翼に対する攻撃という見方が大勢だったようだが、左翼側の非論理性も指摘する内容のため、私の感覚では左翼小説と思わない。
最後の「火をめぐらす鳥」は大江健三郎流の引用の繰り返しや観念の世界に入り込む構成といったスタイルを貫きつつも、おそらく意図的に情報量を落としており、ゆとりと円熟を感じさせる。
乳幼児の育児の心構えを説く名著。以下は印象に残ったポイント。
今年は家事育児ワンオペ +フルタイム勤務に忙殺され、子供への対応が雑になっていることを自覚しつつも改善策を見出せない期間が年末近くまで続き苦しかったが、本書の心構えを持っておくことで自信をもって育児ができるようになった。
夏目漱石が1914年に学習院で行った講演録。青空文庫で読んだ。https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/772_33100.html
ごく短く、読むのに30分もかからないが、内容はキャリア論、社会思想、フェミニズムにまでわたる。
キャリア論の概略は以下の通り。
どこかに突き抜けたくても突き抜けられず、何かを掴みたくも掴めておらず悩んでいる者は、どこに進めばよいか分からない以上、何かにぶつかるまで進む他ない。自らの個性で行けるところまで行ってツルハシで何かを掘り当てれば、自分なりに道を作ってきたことに安心と自信が生まれる。反対に、行けるところまで行かないかぎり、悩みと不愉快が一生ついて回る。
昨今は会社員に主体的なキャリア開発が求められる一方で、異動を会社の都合で命じられたり、顧客への責任を第一に優先すべきという考えもあり、主体性を発揮してばかりいられないという板挟みを感じていた。しかし「私の個人主義」を読みとりあえず行けるところまで行くしかないと開き直ることができた。
社会思想については、自らの個性を尊重すると同時に他者も尊重しなければならないとか、裕福な人間は相応の責任を負うべきだ、など。
いわゆる秀歌、つまり散文と異なる詩的な文体で、細部の描写を通じ、多層的な意味を表現する、という歌ではないものが多いが、わたしは好き。岡野大嗣の中ではいまのところこれがベストの歌集。
ライブの楽しさが伝わる。ドラマーがボーカルのトークに関心を持ってきちんと聞いておりハイハットで反応してあげるという仲の良さがほほえましい。
どの店もゆかいな高低差の街でみるみる減っていく体力だ
高低差、という単語を発見したのがこの歌の成果だと思う。坂が多くておしゃれな店ばかりの街で、ついつい歩きすぎて疲れてしまったことの充実感が歌われている。
オセロ相手との関係性を想像させる表現が巧み。"広いソファー"もゆとりある生活を感じさせ心地よい。
漫画。
冬目景は遅筆だが近年は順調に出してくれていることに、まず安心する。
冬目景は恋愛モノが多く、登場人物たちがうじうじ悩みながら自分の意志で一歩を踏み出していく様子を丹念に描いていることが、本作に限らない多くの作品の特徴。本作も登場人物がおっかなびっくり、逡巡しながら実に遅々たるペースで接近してゆく。時には後退することもある。しかし自分の意志で進むからこそ人間味があり、納得感がある。
またこれも冬目景作品に共通の特徴だが、登場人物は基本的に善人ばかりであるものの皆わりと淡白でコミュニケーションが暑苦しくないところに品の良さがある。
中国SF短編集。「中国太陽」が最良。「良いSFは未来技術ではなく技術がもたらす新たな社会を描く」ということをアシモフか小松左京か高千穂遥あたりの誰かが言っていたが、その好例。SFなのに人生の苦労と発展にフォーカスしておりすごくウェット。
『三体』はまだ読んでいないが読むべきかな。
「インターネット教養」と嘲笑されるものの一つに中島敦の『山月記』があることは、インターネットばかり見ている皆さんはご存知だろう。
教科書に掲載されているという普遍性、中二病心をくすぐる文体、人が虎になるというファンタジー性、そして何より繊細な青年の挫折譚への共感、どれをとっても「インターネット教養」として共有される理由にふさわしいし、もちろん文学作品として完成されている。
しかし、無教養で意地の悪い私はどうしてもそれが気に入らない。
なぜか。それは、インターネット民にとってこの作品のイメージが「虎」として共有されているからだ。
もちろん、「それは中国説話に由来していて~」、「文学的表現として~」とかいう話をしている訳ではない。
「『山月記』に出てくる「虎」は美しい。だからこそ、良くないのだ。
『山月記』が優れているのは、若者の自意識やナルシズムを美しく描き、それらからの解放も描いていることだ。
しかし、それでも「虎」のイメージや漢文調の文体は、最後まで李徴を悲劇の中に美しく取り残す。
結果的に、授業を聞き何となく感動した我々は、いつしかインターネットの中で、自分を李徴に例える。
「俺もこんな時期があったなあ…李徴は若いころの俺だよ」
違うだろ。
お前は今も新たなナルシズムを生きている。
そして、お前は何もなしていないし、何にもぶつかっていない。
そして、李徴は友人袁傪が聞き手になったが、お前の話は誰も聞き手にならない。
お前は虎でもないし、山に帰って一人で生きていくこともできない。
お前は過剰な自意識を過去のもののように言っているが、それは今も同じだろう。
『山月記』を悲劇ポルノとして消化して、ナルシズムオナニーに使うのをやめろ!!!
やめてくれ!!
★★★
中学校で『山月記』並みにメジャーな題材に魯迅の『故郷』がある。
その魯迅の短編『孔乙己』は、中国では教科書にも載っている有名な作品だ。
日本語訳が青空文庫にあるが、訳が古すぎてよくないので、岩波文庫や光文社古典新訳に収録されたものを本屋か図書館で立ち読みしてほしい。10分とかからないはずだ。
「孔乙己」は、汚いおっさんだ。しかし、この時代には珍しく読み書きができる。
それもそのはず、おっさんは科挙のために学問をし、何十年も勉強していた読書人なのだ。
しかし、おっさん、いや、青年孔乙己は科挙の入口の最下級試験にすら受かることはなかった…
それでも、彼にはプライドがある。他人とは違う、俺は勉強もした。読書人だ!
だから知識人の服装をして居酒屋に出向くが、通されるのは労働者が集うカウンターだ。
そこで仰々しく喋る彼は、支払いこそまじめにするものの、周りの労働者、子供、番頭みなに馬鹿にされる。
本を盗むことは読書階級のなせる業で犯罪ではない!というのだ。
しかし世間には通用しない。彼は最終的に袋叩きにされ町を去り、人々から忘れ去られてしまう・・・
冷徹な描写の美しさはあるが、自意識過剰でプライドの高い孔乙己と言う人格は醜く、滑稽で、寂しく、情けないものとして描かれる。
★★★
それは体系的な知識も持たず、ただインターネットの内輪の中で義務教育レベルのものを教養とありがたがるのが滑稽だからだろう。
そうした何者でもないインターネット民は、『山月記』をイメージとして消費し、「自嘲する虎」になったつもりになる。
そして、誰にも顧みられない自分の物語を、袁傪ではなくそこらの関係ない人に押し付けて話す。
実際は、型通りでここにでもいる自尊心の高い汚いおっさんでしかないのに。
誰にも顧みられなく、醜い。
ただ、自分を美化するのはやめよう。これ以上自意識を肥大化させるのはやめよう。
等身大の自分を、等身大に生きて、判で押したようなインターネット教養を離れて自分の人生を生きよう。
自嘲風の自慢をやめよう。こじらせるのもやめよう。
我々は、いや、僕らはこじらせても虎にはなれないし、帰る山もない。盗人になるだけだろう...
ここまで、偉そうに長々と書いたが、ここで私が話しかけていた「お前」は私自身だ。
私の文章に、私の気持ち悪い自意識やナルシズムを感じた人は『孔乙己』を読まなくてもいい。
ただ、それを感じなかった人は、ぜひ、明日にでも読んでほしい。