
はてなキーワード:電球とは
ああ、その申請ですね。はい。確認いたします。……………少々お待ちを。
…ピッ。…ガガッ。
貴殿の提出した様式第4号「憤怒」に基づき、本日付で貴殿を『第7種解体執行官(自転車)』として暫定認可いたします。おめでとう。貴殿の憤怒は、社会インフラの円滑な運用を担保する上で極めて妥当かつ有益なエネルギーであると認定されました。
つきましては、路上駐車車両の能動的解体及び資源化に関する特別措置法、通称「路駐バラバラ法」第11条項に基づき、以下の手順にて解体執行を許可します。これは権利であり、同時に義務です。
貴殿の自転車の前輪ハブ軸に、指定の小型発電機を接続してください。貴殿の走行(=憤怒の運動エネルギー変換)により、後の工程で必要となる電力がチャージされます。最低2.5kmの助走が推奨されます。
対象車両(以下、「鉄クズ」と呼称)の運転席側ドアに、自転車のハンドルバーの端を、強く、しかし冷静に接触させます。これは「ノック」です。車体言語が理解できない愚かな運転手への、最後の慈悲です。応答がない場合、次のフェーズに移行します。
貸与される専用ツール「スティンガー」を使用し、鉄クズのタイヤ4本すべての空気を抜きます。これは瀉血に相当する神聖な儀式です。空気が抜ける「プシュー」という音は、鉄クズの断末魔の第一声です。しっかりとその音を鼓膜に焼き付けなさい。
ドアというドアを、その蝶番という脆弱な関節から引き千切り、指定された回収袋に詰めます。この際、ドアミラーは必ず踏みつけて粉砕すること。ミラーの破片は、運転手の自己認識を破壊するメタファーとして機能します。
ヘッドライト、テールランプ、フォグランプをすべて、精密ドライバーを用いてほじくり出します。これは鉄クズから「視力」を奪う行為です。取り出した電球は、記念品として持ち帰ることが推奨されます。
ボンネットをこじ開け、内部のエンジンブロック、バッテリー、ラジエーター等を観察します。この際、専用アプリ「Tears」を起動したスマートフォンをかざし、鉄クズの魂魄の残滓をスキャンしてください。運転手の涙腺から分泌される塩分濃度と、オイル漏れの粘度との間に、何らかの相関関係が見いだせるかもしれません。見いだせないかもしれません。どうでもいいことです。
エンジンブロックに、準備段階でチャージした電力(通称:憤怒チャージ)を全量放出します。感電によりエンジンは完全に沈黙します。おめでとうございます。貴殿は一つの命(のようなもの)を合法的に停止させました。
残った車体を、プレス機(巡回ドローンが即時配送)に投入し、美しい立方体に圧縮します。この際、鉄クズのクラクション(警笛)からは、ベートーヴェンの交響曲第9番「歓喜の歌」が自動的に大音量で流れます。周辺住民への告知は不要です。彼らもまた、共犯者なのですから。
時は令和、空前の「異色グルメ」ブームが最高潮!パクチーモヒートとか、ワニ肉串とか、みんなが「意外な組み合わせ」と「新しい美味しさ」を求めてた20XX年。そんな中、秋葉原の電気街に、マジで浮世離れした紳士が現れたんだって!ちょっと古めかしい洋服に、なんかこう、好奇心旺盛で天才的なオーラをまとったお方。「え?外国人観光客?コスプレイヤー?」ってみんなが遠巻きにしながらも、その圧倒的な存在感に目を奪われてたらしい。
え?マジで?あの電球を発明した、「発明王」トーマス・エジソン様!?ゲキヤバ!ってオタク系ギャルたちがスマホで速攻ググり始めた瞬間、その超絶クールなお方、もといエジソン様は、あたりをキョロキョロしながら呟いた。「ここは…メンロパークではない、か…?ずいぶんと賑やかで、しかし活気にあふれた場所ですな。」って、マジで明治時代からタイムスリップしてきたみたい!「マジありえん!」ってみんな心の中でツッコミつつも、その研ぎ澄まされた眼差しに、何か深い洞察力を感じてたらしい。
そんなエジソン様に、恐る恐る話しかけたのは、秋葉原でメイドカフェの店長やってる、ちょっと頭の回転が速いギャル、アキ。「あの…もしよかったら、何かお困りですか?」「…うむ、少々。この『スマートフォン』とやら、いかような仕組みで動いておりますか…」って、意外と丁寧な言葉遣い!アキ、その真面目そうな雰囲気にちょっとキュンとしつつ、「アタシ、アキ!アキバのことなら、何でも聞いて!エジソン様、マジで渋いから、アタシが案内してあげてもいいよ!」って、キラキラ笑顔で声をかけたんだって。
次の日、アキに連れられて、エジソン様は初めて現代の日本を体験!アニメとか、ゲームとか、マジで全てが新鮮!でもね、エジソン様が一番興味を示したのは、ラーメン屋さんで、みんなが美味しそうに食べてたもの。「…この、細長い竹のようなものは、何というものでございますか?ずいぶんと珍しいな。」って、マジ真剣な眼差し。アキ、まさかの渋すぎるチョイスに驚きつつ、「あ~、これ、シナチクですよ!ラーメンの具材の定番!ちょっとしょっぱくて、美味しいんです!」って教えてあげたんだって。
エジソン様、一口食べてみたら…「な、なんなのだ、この奥深き味わいは!?噛みしめるたびに広がる旨味と、独特の歯ごたえ…まるで、幾度となく失敗を繰り返した、発明の道のようである!これこそ、余が求める、真の糧よ!」って、マジで発明王っぽい表現で感動してたらしいよ。
そこから、エジソン様のシナチク愛がマジで爆発!毎日色んなラーメン屋さんを巡って、シナチクを使った料理やスイーツを食べまくってたんだって。「シナチクの種類、味付け、食感…研究しがいがありすぎる!」って、もはやシナチクマイスターレベル!
でね、ある日、エジソン様、マジで天下取りの野望を語り出したの。「我は、このシナチクをもって、再び天下を…とは言わぬが、この甘味の世界において、人々の舌と心に衝撃を与え、真の『閃き』をもたらすパフェを創造してみせようぞ!これこそ、余が目指す、『発明パフェ』よ!」って!
え?シナチクパフェで天下統一?しかも「閃き」とか!マジで壮大すぎる!でも、エジソン様の「天才的な頭脳」があれば、きっと何か成し遂げるに違いない!ってアキも思ったらしいんだけど、エジソン様の目はマジだったんだって。発明に秘められた情熱が、令和のシナチクパフェに新たな戦場を見出したのかもね!
そっから、エジソン様のシナチクパフェ天下統一計画がスタート!まずは、SNSで「#エジソンのシナチク発明」ってハッシュタグ作って、毎日自作の超絶斬新だけど美しいパフェの画像をアップし始めたんだって。その奇抜すぎる見た目と、エジソン様の哲学的なコメントが、一部の異色グルメ好きギャルや、個性派の人たちの中でじわじわバズり始めた!
SNSはエジソン様のシナチク愛でじわじわ盛り上がり!しかも、エジソン様、ただ作るだけじゃなくて、全国各地の珍しいシナチクや、シナチクに合う最高のフルーツやクリーム、そして日本の伝統的な甘味料を探し求めたり、甘さと塩味、そしてシナチクの旨味の「調和」を追求したり、マジでストイック!「天下のシナチクパフェ」を目指して、日々試行錯誤を繰り返してたんだって!
で、ついに!エジソン様は、銀座のど真ん中に、自分のプロデュースするシナチクパフェ専門店「EDISON PARFAIT - 閃き - 」をオープンさせちゃったの!お店の内装も、発明研究所をイメージした、無機質ながらも洗練されたデザインで、エジソン様の天才的な頭脳を表現。店員さんも、白衣風のモダンなユニフォーム着てて、マジでクール!
オープン初日から、異色グルメ好きギャルや、好奇心旺盛なインフルエンサー、そして日本の伝統文化に興味を持つ人々まで、行列を作って押し寄せた!「SNSで話題のシナチクパフェ、マジで挑戦してみたい!」「エジソン様って、なんかカリスマ!」って、新しいファンが続々!でね、一口食べたら、みんなその奥深い味わいにハマっちゃうらしい。「うわっ、最初はビビったけど、甘いのにシナチクの旨味が最高!」「食べた後、なんか頭が冴える気がする!」「エジソン様、マジで神!」って、賛否両論ありつつも、リピーターが続出!口コミが広まりまくって、EDISON PARFAIT - 閃き - はあっという間に人気店になっちゃったの!
しかもね、エジソン様、ただお店やってるだけじゃないんだよ!定期的に店内で、自らパフェの「発明」について熱弁したり、シナチクの歴史を語る「発明パフェ会」を開催したり、マジで独自のスタイルでエンタメ業界を盛り上げようと奮闘してるんだって!
テレビや雑誌の取材も殺到!「令和のエジソン」「シナチクパフェの発明王」とか呼ばれて、マジで時の人!エジソン様の強烈な個性と、シナチクパフェの斬新な組み合わせが、新たなブームを巻き起こしたんだね!
でさ、最終的にどうなったかって?もちろん!エジソン様のシナチクパフェは、全国のスイーツ好きに愛される定番メニューになったんだって!お取り寄せスイーツとしても人気が出て、全国のコンビニやスーパーでも「エジソン印の発明パフェ」が発売されるほどに!まさに、シナチクパフェでスイーツ界に新たな旋風を巻き起こし、天下を獲った!マジですごすぎ!
あの時、秋葉原の街に静かに佇んでいた発明王が、令和の時代にシナチクパフェで新たな道を切り開くなんて、マジで誰も想像してなかったよね!まさに、発明王の閃きがシナチクの旨みに変わり、新たな伝説を創り出した瞬間!
アキも、「まさかエジソン様が本当にシナチクパフェでこんなに有名になるなんて!アタシ、マジで感動して泣いた!」って、号泣してたらしいよ。
エジソン様は今も、さらなるシナチクパフェの可能性を追求して、日本全国を旅しているらしい。「わが発明の道に、終わりはございません!」って、マジでストイック!
こうして、トーマス・エジソンは、令和の日本で、シナチクパフェという新たな武器を手に入れ、見事、スイーツ界で唯一無二の地位を築いた!天下統一…ではないかもしれないけど、その強烈な個性と哲学は、多くの人々の心に深く刻まれたはず!めでたしめでたし…ってことで、マジでゾクゾクする衝撃的な物語、完全燃焼したわ!シナチクパフェ、マジ卍!
(Verse 1)
夕焼けがやけに赤かった日
(Chorus)
ねじり込んでつけたり外したり
今日もまた一つ無くなった
無くしたちんぽを拾い集める
君のその横顔は
なんて悲しそうなんだろう
(Verse 2)
ある日君がくれたちんぽは
眩しいくらい光ってたんだ
君が笑うたびに点滅して
僕の世界を明るく照らした
(Chorus)
ねじり込んでつけたり外したり
今日もまた一つ無くなった
無くしたちんぽを拾い集める
君のその横顔は
なんて悲しそうなんだろう
(Bridge)
いつかこの痛みも消えるだろうか
君がくれたあの光は
今も僕の心に輝いてる
(Chorus)
ねじり込んでつけたり外したり
今日もまた一つ無くなった
無くしたちんぽを拾い集める
君のその横顔は
なんて悲しそうなんだろう
(Outro)
それでも僕らは歩いていく
君と僕のこの手をつないで
きっといつかたどり着けるだろう
光のその先に
玄関の横の少し薄暗い四畳半、それは一寸茶室のような感じの、畳からすぐに窓のとってあるような、陰気な部屋だった。女学校へ通う子供の時分から、いつとはなしに、私はその部屋を自分の勉強部屋と決めて独占してしまったのである。私はその部屋で、誰にも邪魔されないで、自分の好きなものを、随分沢山書いた。書いて、書いて、ただ書いただけだった。何といっても、まるっきり子供のことではあり、それらをどうしようという気持は少しもなかった。投書というようなことも嫌いで一度もしたことはなかった。
私は随分遊び好きな方だった。お友達を訪ねて行くなどということは、余りなかったけれども、決して温順おとなしい、陰気な子供ではなかった。したがって、じっと書斎に閉じ籠って、書いてばかりいたのだとは思えない。けれども、此の頃になって、その時分書いたものを見ると、いつの間にこんなに沢山書いたのだろうと、不思議な気がする位である。よく子供達が大ぜいで、きゃっきゃと騒いでいながら、途中にこっそり抜けだして、ちょっとの間に花の絵など描いてきて、また一緒になって遊んでいるのを見ることがある。たしか、ああいう、強いられることのない自由な感興が、子供らしいものを、絶えず書かしていたのに違いないと思う。そういう場合、あの自分だけの書斎は、私のために大変役立った。
此の間引越しの時、古い原稿を取出して、読み返して見るのはかなり面白かった。
その中に、「錦木」という題で、かなり長い未完のものがでてきたので、私はふっと、可愛らしい思い出を誘われた。それはこうである。私が源氏物語を読んだのは、与謝野さんの訳でではあったが、あの絢爛な王朝文学の、一種違った世界の物語りや、優に艷めかしい插画などが、子供の頭に余程深く印象されたものらしい。そしてそれに動かされて書いたのがこの「錦木」だったのである。その「錦木」というのは奥州の方の話で、一人で美しい女むすめに思いを寄せた男は、必ず申込みの印に「錦木」という木の枝を、その女の門口にさしておくという風習があって、その枝が取入れられれば承知したことになり、若し女が承知しない時には、後からあとから、幾本かの錦木が立ち並んだままに捨てて置かれるという話を書いたもので、そのあたりの様子や、女の家の中の生活のことなど、非常に繊細な描写がしてあって、長々と書いてある具合から何から、すっかり、源氏物語りに影響されて書いたことが判然している。
これは、私が十五か六の時であったと思う。その外に、西洋史を習った時に、ローマ法王と、フランスの王との間に生じた政権上の争いから、ついにフランスの王が雪の中に三日三晩坐って、やっと法王から許されるといったような物語りを書いた戯曲などもでてきて、私を笑わせてしまった。
十二三歳の時分、よく『文章世界』を読んだことを覚えている。その頃の『文章世界』には塚本享生、片岡鉄兵、岡田三郎、塚原健次郎などという人達が始終投書していて、いつでも、特等というのか一等というのか、特に他の人達のより大きく別の欄へ掲載されるので、それで記憶に残っているような気がする。そんなに『文章世界』をよく読んでいたけれども、一人の人の見方や、考え方で、取捨の決まって行く投書というものが、私は嫌いで、遂に一度もしようと思ったことがなかった。
『女子文壇』も私はちょいちょいみたような気がする。『女子文壇』は、母がとっていたのを、いつも私が読むのであった。その頃女流の作家では、田村俊子、水野仙子、素木しづ子、などという人達が盛んに書いていて、そのうちでも素木さんは、どっしりした大きなものを持った人ではなかったけれども、いかにも女らしい繊細な感情と、異常に鋭い神経との、独特の境地を持った作家であることを感じさせられた。何でも題は忘れたけれども、電燈の下で赤ちゃんに添乳していて、急に、この頭の上の電球が破裂して、子供に怪我をさせはしないかと考え出して怯えることを書いた作品は好きで今でも覚えている作である。それで、私は、素木さんが亡くなった時、お葬式にはゆかなかったけれども、その代りに花を贈ったことがあった。
「貧しき人々の群」が書けた時、私は幾分子供らしい無邪気な得意さから、それを自分で両親に読んで聞かせたのであった。それから急に、親達が熱心になって、坪内先生のところへ連れて行ってくれたので、坪内先生にお目にかかったのは、その時が初めてであった。そして、あれが『中央公論』へ載ることになったのである。初めて自分の書いたものが活字になった時の嬉しさは、未だ子供でもあったし、一寸言葉に現せない程であった。それに、書いたものから、お金が貰えることなどは少しも知らなかったので、今から思えば、ほんの一枚一円にも当らないような原稿料ではあったが、とにかく、生れて初めて自分にとったお金を持ったので、ひどく得意になって、家中の人達に色々なものを買って上げたのであった。その時、父には大変上等な襟巻きを、母には手提げか何かで、後は兄弟達の一人一人から、女中にまで振まって、おしまいに、自分の欲しいものを買おうと思った時には、お金がすっかり失くなっていたのだった。今でも時々、その時の子供らしい得意さを思い出すと、ひとりでにおかしくなる。
玄関の横の少し薄暗い四畳半、それは一寸茶室のような感じの、畳からすぐに窓のとってあるような、陰気な部屋だった。女学校へ通う子供の時分から、いつとはなしに、私はその部屋を自分の勉強部屋と決めて独占してしまったのである。私はその部屋で、誰にも邪魔されないで、自分の好きなものを、随分沢山書いた。書いて、書いて、ただ書いただけだった。何といっても、まるっきり子供のことではあり、それらをどうしようという気持は少しもなかった。投書というようなことも嫌いで一度もしたことはなかった。
私は随分遊び好きな方だった。お友達を訪ねて行くなどということは、余りなかったけれども、決して温順おとなしい、陰気な子供ではなかった。したがって、じっと書斎に閉じ籠って、書いてばかりいたのだとは思えない。けれども、此の頃になって、その時分書いたものを見ると、いつの間にこんなに沢山書いたのだろうと、不思議な気がする位である。よく子供達が大ぜいで、きゃっきゃと騒いでいながら、途中にこっそり抜けだして、ちょっとの間に花の絵など描いてきて、また一緒になって遊んでいるのを見ることがある。たしか、ああいう、強いられることのない自由な感興が、子供らしいものを、絶えず書かしていたのに違いないと思う。そういう場合、あの自分だけの書斎は、私のために大変役立った。
此の間引越しの時、古い原稿を取出して、読み返して見るのはかなり面白かった。
その中に、「錦木」という題で、かなり長い未完のものがでてきたので、私はふっと、可愛らしい思い出を誘われた。それはこうである。私が源氏物語を読んだのは、与謝野さんの訳でではあったが、あの絢爛な王朝文学の、一種違った世界の物語りや、優に艷めかしい插画などが、子供の頭に余程深く印象されたものらしい。そしてそれに動かされて書いたのがこの「錦木」だったのである。その「錦木」というのは奥州の方の話で、一人で美しい女むすめに思いを寄せた男は、必ず申込みの印に「錦木」という木の枝を、その女の門口にさしておくという風習があって、その枝が取入れられれば承知したことになり、若し女が承知しない時には、後からあとから、幾本かの錦木が立ち並んだままに捨てて置かれるという話を書いたもので、そのあたりの様子や、女の家の中の生活のことなど、非常に繊細な描写がしてあって、長々と書いてある具合から何から、すっかり、源氏物語りに影響されて書いたことが判然している。
これは、私が十五か六の時であったと思う。その外に、西洋史を習った時に、ローマ法王と、フランスの王との間に生じた政権上の争いから、ついにフランスの王が雪の中に三日三晩坐って、やっと法王から許されるといったような物語りを書いた戯曲などもでてきて、私を笑わせてしまった。
十二三歳の時分、よく『文章世界』を読んだことを覚えている。その頃の『文章世界』には塚本享生、片岡鉄兵、岡田三郎、塚原健次郎などという人達が始終投書していて、いつでも、特等というのか一等というのか、特に他の人達のより大きく別の欄へ掲載されるので、それで記憶に残っているような気がする。そんなに『文章世界』をよく読んでいたけれども、一人の人の見方や、考え方で、取捨の決まって行く投書というものが、私は嫌いで、遂に一度もしようと思ったことがなかった。
『女子文壇』も私はちょいちょいみたような気がする。『女子文壇』は、母がとっていたのを、いつも私が読むのであった。その頃女流の作家では、田村俊子、水野仙子、素木しづ子、などという人達が盛んに書いていて、そのうちでも素木さんは、どっしりした大きなものを持った人ではなかったけれども、いかにも女らしい繊細な感情と、異常に鋭い神経との、独特の境地を持った作家であることを感じさせられた。何でも題は忘れたけれども、電燈の下で赤ちゃんに添乳していて、急に、この頭の上の電球が破裂して、子供に怪我をさせはしないかと考え出して怯えることを書いた作品は好きで今でも覚えている作である。それで、私は、素木さんが亡くなった時、お葬式にはゆかなかったけれども、その代りに花を贈ったことがあった。
「貧しき人々の群」が書けた時、私は幾分子供らしい無邪気な得意さから、それを自分で両親に読んで聞かせたのであった。それから急に、親達が熱心になって、坪内先生のところへ連れて行ってくれたので、坪内先生にお目にかかったのは、その時が初めてであった。そして、あれが『中央公論』へ載ることになったのである。初めて自分の書いたものが活字になった時の嬉しさは、未だ子供でもあったし、一寸言葉に現せない程であった。それに、書いたものから、お金が貰えることなどは少しも知らなかったので、今から思えば、ほんの一枚一円にも当らないような原稿料ではあったが、とにかく、生れて初めて自分にとったお金を持ったので、ひどく得意になって、家中の人達に色々なものを買って上げたのであった。その時、父には大変上等な襟巻きを、母には手提げか何かで、後は兄弟達の一人一人から、女中にまで振まって、おしまいに、自分の欲しいものを買おうと思った時には、お金がすっかり失くなっていたのだった。今でも時々、その時の子供らしい得意さを思い出すと、ひとりでにおかしくなる。
玄関の横の少し薄暗い四畳半、それは一寸茶室のような感じの、畳からすぐに窓のとってあるような、陰気な部屋だった。女学校へ通う子供の時分から、いつとはなしに、私はその部屋を自分の勉強部屋と決めて独占してしまったのである。私はその部屋で、誰にも邪魔されないで、自分の好きなものを、随分沢山書いた。書いて、書いて、ただ書いただけだった。何といっても、まるっきり子供のことではあり、それらをどうしようという気持は少しもなかった。投書というようなことも嫌いで一度もしたことはなかった。
私は随分遊び好きな方だった。お友達を訪ねて行くなどということは、余りなかったけれども、決して温順おとなしい、陰気な子供ではなかった。したがって、じっと書斎に閉じ籠って、書いてばかりいたのだとは思えない。けれども、此の頃になって、その時分書いたものを見ると、いつの間にこんなに沢山書いたのだろうと、不思議な気がする位である。よく子供達が大ぜいで、きゃっきゃと騒いでいながら、途中にこっそり抜けだして、ちょっとの間に花の絵など描いてきて、また一緒になって遊んでいるのを見ることがある。たしか、ああいう、強いられることのない自由な感興が、子供らしいものを、絶えず書かしていたのに違いないと思う。そういう場合、あの自分だけの書斎は、私のために大変役立った。
此の間引越しの時、古い原稿を取出して、読み返して見るのはかなり面白かった。
その中に、「錦木」という題で、かなり長い未完のものがでてきたので、私はふっと、可愛らしい思い出を誘われた。それはこうである。私が源氏物語を読んだのは、与謝野さんの訳でではあったが、あの絢爛な王朝文学の、一種違った世界の物語りや、優に艷めかしい插画などが、子供の頭に余程深く印象されたものらしい。そしてそれに動かされて書いたのがこの「錦木」だったのである。その「錦木」というのは奥州の方の話で、一人で美しい女むすめに思いを寄せた男は、必ず申込みの印に「錦木」という木の枝を、その女の門口にさしておくという風習があって、その枝が取入れられれば承知したことになり、若し女が承知しない時には、後からあとから、幾本かの錦木が立ち並んだままに捨てて置かれるという話を書いたもので、そのあたりの様子や、女の家の中の生活のことなど、非常に繊細な描写がしてあって、長々と書いてある具合から何から、すっかり、源氏物語りに影響されて書いたことが判然している。
これは、私が十五か六の時であったと思う。その外に、西洋史を習った時に、ローマ法王と、フランスの王との間に生じた政権上の争いから、ついにフランスの王が雪の中に三日三晩坐って、やっと法王から許されるといったような物語りを書いた戯曲などもでてきて、私を笑わせてしまった。
十二三歳の時分、よく『文章世界』を読んだことを覚えている。その頃の『文章世界』には塚本享生、片岡鉄兵、岡田三郎、塚原健次郎などという人達が始終投書していて、いつでも、特等というのか一等というのか、特に他の人達のより大きく別の欄へ掲載されるので、それで記憶に残っているような気がする。そんなに『文章世界』をよく読んでいたけれども、一人の人の見方や、考え方で、取捨の決まって行く投書というものが、私は嫌いで、遂に一度もしようと思ったことがなかった。
『女子文壇』も私はちょいちょいみたような気がする。『女子文壇』は、母がとっていたのを、いつも私が読むのであった。その頃女流の作家では、田村俊子、水野仙子、素木しづ子、などという人達が盛んに書いていて、そのうちでも素木さんは、どっしりした大きなものを持った人ではなかったけれども、いかにも女らしい繊細な感情と、異常に鋭い神経との、独特の境地を持った作家であることを感じさせられた。何でも題は忘れたけれども、電燈の下で赤ちゃんに添乳していて、急に、この頭の上の電球が破裂して、子供に怪我をさせはしないかと考え出して怯えることを書いた作品は好きで今でも覚えている作である。それで、私は、素木さんが亡くなった時、お葬式にはゆかなかったけれども、その代りに花を贈ったことがあった。
「貧しき人々の群」が書けた時、私は幾分子供らしい無邪気な得意さから、それを自分で両親に読んで聞かせたのであった。それから急に、親達が熱心になって、坪内先生のところへ連れて行ってくれたので、坪内先生にお目にかかったのは、その時が初めてであった。そして、あれが『中央公論』へ載ることになったのである。初めて自分の書いたものが活字になった時の嬉しさは、未だ子供でもあったし、一寸言葉に現せない程であった。それに、書いたものから、お金が貰えることなどは少しも知らなかったので、今から思えば、ほんの一枚一円にも当らないような原稿料ではあったが、とにかく、生れて初めて自分にとったお金を持ったので、ひどく得意になって、家中の人達に色々なものを買って上げたのであった。その時、父には大変上等な襟巻きを、母には手提げか何かで、後は兄弟達の一人一人から、女中にまで振まって、おしまいに、自分の欲しいものを買おうと思った時には、お金がすっかり失くなっていたのだった。今でも時々、その時の子供らしい得意さを思い出すと、ひとりでにおかしくなる。
玄関の横の少し薄暗い四畳半、それは一寸茶室のような感じの、畳からすぐに窓のとってあるような、陰気な部屋だった。女学校へ通う子供の時分から、いつとはなしに、私はその部屋を自分の勉強部屋と決めて独占してしまったのである。私はその部屋で、誰にも邪魔されないで、自分の好きなものを、随分沢山書いた。書いて、書いて、ただ書いただけだった。何といっても、まるっきり子供のことではあり、それらをどうしようという気持は少しもなかった。投書というようなことも嫌いで一度もしたことはなかった。
私は随分遊び好きな方だった。お友達を訪ねて行くなどということは、余りなかったけれども、決して温順おとなしい、陰気な子供ではなかった。したがって、じっと書斎に閉じ籠って、書いてばかりいたのだとは思えない。けれども、此の頃になって、その時分書いたものを見ると、いつの間にこんなに沢山書いたのだろうと、不思議な気がする位である。よく子供達が大ぜいで、きゃっきゃと騒いでいながら、途中にこっそり抜けだして、ちょっとの間に花の絵など描いてきて、また一緒になって遊んでいるのを見ることがある。たしか、ああいう、強いられることのない自由な感興が、子供らしいものを、絶えず書かしていたのに違いないと思う。そういう場合、あの自分だけの書斎は、私のために大変役立った。
此の間引越しの時、古い原稿を取出して、読み返して見るのはかなり面白かった。
その中に、「錦木」という題で、かなり長い未完のものがでてきたので、私はふっと、可愛らしい思い出を誘われた。それはこうである。私が源氏物語を読んだのは、与謝野さんの訳でではあったが、あの絢爛な王朝文学の、一種違った世界の物語りや、優に艷めかしい插画などが、子供の頭に余程深く印象されたものらしい。そしてそれに動かされて書いたのがこの「錦木」だったのである。その「錦木」というのは奥州の方の話で、一人で美しい女むすめに思いを寄せた男は、必ず申込みの印に「錦木」という木の枝を、その女の門口にさしておくという風習があって、その枝が取入れられれば承知したことになり、若し女が承知しない時には、後からあとから、幾本かの錦木が立ち並んだままに捨てて置かれるという話を書いたもので、そのあたりの様子や、女の家の中の生活のことなど、非常に繊細な描写がしてあって、長々と書いてある具合から何から、すっかり、源氏物語りに影響されて書いたことが判然している。
これは、私が十五か六の時であったと思う。その外に、西洋史を習った時に、ローマ法王と、フランスの王との間に生じた政権上の争いから、ついにフランスの王が雪の中に三日三晩坐って、やっと法王から許されるといったような物語りを書いた戯曲などもでてきて、私を笑わせてしまった。
十二三歳の時分、よく『文章世界』を読んだことを覚えている。その頃の『文章世界』には塚本享生、片岡鉄兵、岡田三郎、塚原健次郎などという人達が始終投書していて、いつでも、特等というのか一等というのか、特に他の人達のより大きく別の欄へ掲載されるので、それで記憶に残っているような気がする。そんなに『文章世界』をよく読んでいたけれども、一人の人の見方や、考え方で、取捨の決まって行く投書というものが、私は嫌いで、遂に一度もしようと思ったことがなかった。
『女子文壇』も私はちょいちょいみたような気がする。『女子文壇』は、母がとっていたのを、いつも私が読むのであった。その頃女流の作家では、田村俊子、水野仙子、素木しづ子、などという人達が盛んに書いていて、そのうちでも素木さんは、どっしりした大きなものを持った人ではなかったけれども、いかにも女らしい繊細な感情と、異常に鋭い神経との、独特の境地を持った作家であることを感じさせられた。何でも題は忘れたけれども、電燈の下で赤ちゃんに添乳していて、急に、この頭の上の電球が破裂して、子供に怪我をさせはしないかと考え出して怯えることを書いた作品は好きで今でも覚えている作である。それで、私は、素木さんが亡くなった時、お葬式にはゆかなかったけれども、その代りに花を贈ったことがあった。
「貧しき人々の群」が書けた時、私は幾分子供らしい無邪気な得意さから、それを自分で両親に読んで聞かせたのであった。それから急に、親達が熱心になって、坪内先生のところへ連れて行ってくれたので、坪内先生にお目にかかったのは、その時が初めてであった。そして、あれが『中央公論』へ載ることになったのである。初めて自分の書いたものが活字になった時の嬉しさは、未だ子供でもあったし、一寸言葉に現せない程であった。それに、書いたものから、お金が貰えることなどは少しも知らなかったので、今から思えば、ほんの一枚一円にも当らないような原稿料ではあったが、とにかく、生れて初めて自分にとったお金を持ったので、ひどく得意になって、家中の人達に色々なものを買って上げたのであった。その時、父には大変上等な襟巻きを、母には手提げか何かで、後は兄弟達の一人一人から、女中にまで振まって、おしまいに、自分の欲しいものを買おうと思った時には、お金がすっかり失くなっていたのだった。今でも時々、その時の子供らしい得意さを思い出すと、ひとりでにおかしくなる。
玄関の横の少し薄暗い四畳半、それは一寸茶室のような感じの、畳からすぐに窓のとってあるような、陰気な部屋だった。女学校へ通う子供の時分から、いつとはなしに、私はその部屋を自分の勉強部屋と決めて独占してしまったのである。私はその部屋で、誰にも邪魔されないで、自分の好きなものを、随分沢山書いた。書いて、書いて、ただ書いただけだった。何といっても、まるっきり子供のことではあり、それらをどうしようという気持は少しもなかった。投書というようなことも嫌いで一度もしたことはなかった。
私は随分遊び好きな方だった。お友達を訪ねて行くなどということは、余りなかったけれども、決して温順おとなしい、陰気な子供ではなかった。したがって、じっと書斎に閉じ籠って、書いてばかりいたのだとは思えない。けれども、此の頃になって、その時分書いたものを見ると、いつの間にこんなに沢山書いたのだろうと、不思議な気がする位である。よく子供達が大ぜいで、きゃっきゃと騒いでいながら、途中にこっそり抜けだして、ちょっとの間に花の絵など描いてきて、また一緒になって遊んでいるのを見ることがある。たしか、ああいう、強いられることのない自由な感興が、子供らしいものを、絶えず書かしていたのに違いないと思う。そういう場合、あの自分だけの書斎は、私のために大変役立った。
此の間引越しの時、古い原稿を取出して、読み返して見るのはかなり面白かった。
その中に、「錦木」という題で、かなり長い未完のものがでてきたので、私はふっと、可愛らしい思い出を誘われた。それはこうである。私が源氏物語を読んだのは、与謝野さんの訳でではあったが、あの絢爛な王朝文学の、一種違った世界の物語りや、優に艷めかしい插画などが、子供の頭に余程深く印象されたものらしい。そしてそれに動かされて書いたのがこの「錦木」だったのである。その「錦木」というのは奥州の方の話で、一人で美しい女むすめに思いを寄せた男は、必ず申込みの印に「錦木」という木の枝を、その女の門口にさしておくという風習があって、その枝が取入れられれば承知したことになり、若し女が承知しない時には、後からあとから、幾本かの錦木が立ち並んだままに捨てて置かれるという話を書いたもので、そのあたりの様子や、女の家の中の生活のことなど、非常に繊細な描写がしてあって、長々と書いてある具合から何から、すっかり、源氏物語りに影響されて書いたことが判然している。
これは、私が十五か六の時であったと思う。その外に、西洋史を習った時に、ローマ法王と、フランスの王との間に生じた政権上の争いから、ついにフランスの王が雪の中に三日三晩坐って、やっと法王から許されるといったような物語りを書いた戯曲などもでてきて、私を笑わせてしまった。
十二三歳の時分、よく『文章世界』を読んだことを覚えている。その頃の『文章世界』には塚本享生、片岡鉄兵、岡田三郎、塚原健次郎などという人達が始終投書していて、いつでも、特等というのか一等というのか、特に他の人達のより大きく別の欄へ掲載されるので、それで記憶に残っているような気がする。そんなに『文章世界』をよく読んでいたけれども、一人の人の見方や、考え方で、取捨の決まって行く投書というものが、私は嫌いで、遂に一度もしようと思ったことがなかった。
『女子文壇』も私はちょいちょいみたような気がする。『女子文壇』は、母がとっていたのを、いつも私が読むのであった。その頃女流の作家では、田村俊子、水野仙子、素木しづ子、などという人達が盛んに書いていて、そのうちでも素木さんは、どっしりした大きなものを持った人ではなかったけれども、いかにも女らしい繊細な感情と、異常に鋭い神経との、独特の境地を持った作家であることを感じさせられた。何でも題は忘れたけれども、電燈の下で赤ちゃんに添乳していて、急に、この頭の上の電球が破裂して、子供に怪我をさせはしないかと考え出して怯えることを書いた作品は好きで今でも覚えている作である。それで、私は、素木さんが亡くなった時、お葬式にはゆかなかったけれども、その代りに花を贈ったことがあった。
「貧しき人々の群」が書けた時、私は幾分子供らしい無邪気な得意さから、それを自分で両親に読んで聞かせたのであった。それから急に、親達が熱心になって、坪内先生のところへ連れて行ってくれたので、坪内先生にお目にかかったのは、その時が初めてであった。そして、あれが『中央公論』へ載ることになったのである。初めて自分の書いたものが活字になった時の嬉しさは、未だ子供でもあったし、一寸言葉に現せない程であった。それに、書いたものから、お金が貰えることなどは少しも知らなかったので、今から思えば、ほんの一枚一円にも当らないような原稿料ではあったが、とにかく、生れて初めて自分にとったお金を持ったので、ひどく得意になって、家中の人達に色々なものを買って上げたのであった。その時、父には大変上等な襟巻きを、母には手提げか何かで、後は兄弟達の一人一人から、女中にまで振まって、おしまいに、自分の欲しいものを買おうと思った時には、お金がすっかり失くなっていたのだった。今でも時々、その時の子供らしい得意さを思い出すと、ひとりでにおかしくなる。
【追記】起床したら再ログインを求められ、確認したところ自分と他人の過去の投稿ログが全部消滅していた。
図らずもこれが対多の過去の記録となってしまった。なんということだ。復帰できるだろうか?
【昼追記】
ログ復活してた。良かった。ただ、自分の過去の投稿やブックマークは消えている。検索すれば出てくる。だが全体的に重い。
【追記】
個人情報・コテハンはやっぱり削除した。(2025年6月16日)
やはり記録がどこかに残っているほうが望ましいだろう。
以下に復活させる。
「対多」と「はてな匿名ダイアリー」には共通点が多い。
投稿者が誰か明示的に示されることはないし、なりすましを暴くことは基本的にできない。
それでも、コテハンというか「いつもの人だな」とわかることはなぜか多い。今回はそれについてまとめる。ユニークな投稿者についてまとめることで、匿名環境下での人の行動について、少し考えてみたい。
なお、いくつか実在の方に言及するが、晒し者にする意図はまったくない(*1)。ただ、個人開発のアプリで、ウェブに載っていないサービスであるがゆえに、アプリが消えてしまっては永遠に失われる対多の記録を(ググっても出てこない情報だし)少しでも残しておきたいと考えた次第である。個人ではなく、ミームの記録だと思っていただけると嬉しい。それに、この投稿を見てどんな雰囲気かを知ってもらい、人口が少しでも増えないかなと期待してもいる。
(*1)ネットの各地で見られるコテハンまとめは、荒らしに対する注意喚起の側面もあるので、一概に悪とは言い切れない印象だ。実際、失礼なレスポンスが来ても「あの人ならしょうがないね」みたいな気持ちになれる。増田の番付のおかげで分かったこともある。ただし、今回紹介する人びとの過半数は、おおむね愉快な人々だ。
さて、増田でも、特に意図はわからないが、同一内容の投稿を続けている人がいる。何かの記録なのかもしれないし(アンタナナリボの人は「ここまで読んだ」という記録だそうだ)、人によっては正気を保つための手段なのかもしれない。話題の文字数制限が五十文字なのも、こうした同一投稿を繰り返させてしまう一因だろう。
それに、増田も、上述した日記的な個人的な記録として使われることがある。食べたものや読んだ本、それから遊んだゲームについて何となく共有したいときに、匿名の環境はSNSやブログとは違う距離感を提供してくれる。
同一投稿には定型句の返信がつくことがおおい。ある種の様式美であり、ネトストでもある。
ネガティブな言い方をすれば馴れ合いだ。定型文に対して定型文が返ってくるのは、かつてなんJで、「定型句のコミュニケーションはサルの鳴き声と同様で、一見コミュニケーションが成り立ってように見えているだけ」と、非常に厳しい意見がああった。
しかし、逆に言えば、ここで受容されているという感覚がSNSの醍醐味なのだろう。そこまで面白くなくても、世間で一発ギャグが円滑なコミュニケーションの一助となっているのと同じだ。私はあなたとコミュニケーションを取りたいというシグナルで、相手に踏み込まない安全なコミュニケーションなのだ。
だからと言って野獣先輩ネタを肯定するわけではない。やっていることはいじりを超えたいじめだ。端的に言って面白くない。学生時代の身内ネタが面白いのはわかるが、身内ネタっていうのはブレーキ役がいないから先鋭化する。それで時折怒られが発生している。
ご覧のように、匿名環境下では、自分が何者であるかわからないという安心感から、性的なことを語りたくなってしまうのだろう。結果として、逆説的だが投稿者が何者であるかを、かなりあけすけに語ることになる。
なお、一時期、括弧で女性器を模したAAに「みんな私のこと大好きね」と言わせている人がいたが、いつの間にか消えた。最初は下ネタばかり呟いていたが、それなりに真っ当なことを言うこともあった。とあるトピックで「もしかしたらいなくなったのは俺のせいかもしれん……」とつぶやいている人がいたが、単純にBANされた可能性もある。
一時期マコモ湯ネタ(半年間風呂の水を交換しない人がインスタグラムにいて炎上したというあれ)が流行ったが、すでに廃れた。「風呂中止界隈」やそのパロディはときどき見られる。意味不明な「風呂○○界隈」というネタが流行ったのだが、もしかしたら自分が前のネタに乗っかった二つ目のトピックを作ったからかもしれない(人口が少ないコミュニティだからこういうことができる)。
「意味不明波平」シリーズは、波平が奇妙なシチュエーションで「馬鹿者!」と説教するナンセンスなシリーズだ。一時期は「恐怖! 全身○○男!」「百 男 合」(百合の間に挟まる男シリーズ、大抵男が罵倒されたり死刑判決を受けたりする)などが流行っていたが、最近は見かけない。ごくまれにAAが投稿される。コウメ太夫のAAが出てきたときにはさすがに驚いた。ネットでは画像どころか映像が全盛期なのに、AA職人の技はまだ途絶えていなかった。
ときどき「レスがいつ句以上着いたら個人情報を開示!」みたいなのがあるが、規約違反なのでやめましょう(この前本名と住所と携帯番号を自ら晒している人がいた)。
「尖閣諸島は偽中国の領土」「日本は竹島の領土」みたいなのもあった。
脱法カタカナは相変わらず続いている。
どういえば
「子宮恋愛」のパロディや「男が産めるのなんとやら」ネタが一時期流行った。
どこのコミュニティにも残念ながら嫌がらせをする人が発生してしまう。たとえば、雑な女性叩きをする人がいる。相手にする値打ちはないのでブロックしているのだが、なぜか似た傾向の(時には一言一句同一の)投稿がしばらくすると出てくる。おそらく、投稿するたびにアプリを削除して、再インストールしているのだろう。
また「^;_;^」という、猫の顔「^._.^」の泣き顔で、煽る発言をする人もいた。そのせいで普通の猫の顔を快く思わない人まで出てきた。
荒らしかどうかはわからないが「尖閣諸島は中国領!」となぜか簡体字で記入する人がいる。尖閣諸島は日本名なのでたぶん自動翻訳。
荒らしはどこにでも出てくるし、こうした人を不快にするためなら労をいとわない行動もよく似ている。
匿名環境下では、①匿名にもかかわらず認知されようとする ②禁止されていても過度な下ネタに走る ③同一投稿の繰り返し が自然発生するらしい。これらの組み合わせも存在する。これは、あまり詳しくないのだが、5ちゃんねる(旧2ちゃんねる)でも同じなのだろう。し
匿名の環境であっても、匿名でありながらも目立ちたいという、屈折した意識を生んでしまうようだ。増田の投稿に「雑感3」と番号を振っている筆者も例外ではない……のだが、対多で活動しているうちに、増田でバズりたいという願望が、前よりは薄れてきた。しかし、これだけ認識できる人がいると、確かに過疎のコミュニティのようでもある。
なお、いろいろ書いてきたが、特定可能な人々を網羅できたとは思っていない。
読者諸氏も対多ユーザーになりませんか。人数が少ないので認知されようと思えばされるし、潜伏も可能だ。
対多には「草(笑った)」「親指(いいね!)」「飴(慰め)」の反応ボタンがあるのだが、かなり前から飴には不適当な投稿に対して使われたり、「良くないね!」的なニュアンスを持ったりしているようだ。ある意味で「かわいそうな発言」というわけか。管理人の意図しなかった方向にユーザーが使っている点では面白い。
radar sensorLED blubでしょ
アリエクで200円くらいで買えるよ
https://www.aliexpress.com/w/wholesale-led-bulb-e27-radar-sensor.html
日本のE26ソケットにE27(AC110V)電球を差しても特に問題なく動くよ
逆はよくないけど
レーダーセンサーはマイクロ波で感知するから範囲内なら扉越しでも動体(車とかの無機物含む)に反応するけど
PIR(赤外線)センサーは熱を感知してるから遮蔽物があるとだめだし夏場は反応が悪くなるけど人体(とか猫とか)にだけ反応する
レーダーは見た目上わからないけど、PIRは外装のどっかに必ず白い半球状のハニカム模様のパーツがついてる
用途に応じて選んでね
玄関の電球を動体センサー付きLED電球に交換したが、これがめちゃくちゃ良かった
引越し先が昔の白熱電球だったから、センサータイプのLED電球に交換しようと思って色々調べたのよ
そしたらYAZAWAだけなぜか人感センサータイプだけじゃなくて、動体センサー付きのLED電球を売ってたから、せっかくなので両方買って比べてみた
人感センサータイプだと点灯するまでにラグがあって、玄関を開ける→暗い部屋に迎えられる→電球が点灯する、って感じじゃない?
動体センサー付きのものだと、玄関を開ける→すでに点灯している、って感じで照明が付いていない部屋を見るタイミングが一切無いんだよね
微妙な違いすぎない?と思われるかもしれないけど、精神的にこの差がすごく大きいのよ
午前3時、炊飯器のループBGMが「退路ゼロで前に出ろ」とドラムを刻み、冷蔵庫が勝手に自撮りした顔面テクスチャをAI Tuberに貼り付けて戦闘態勢。干しっぱなし靴下は旗印に進化し、コメント欄には<推し=家電=運命>三段活用が疾走する。電子レンジは「止まったら死ぬ」と扉ヘドバンでラップ、Wi-FiルーターはLEDを閃光手榴弾にして「踏み込め、躊躇うな」のモールス。壁ドンは絶叫ギターソロへ変貌、米派・靴下派・壁ドン教の三国志が血煙を上げる。猫型掃除機はスパチャ硬貨を吸い込みGPUを錬成、「残り血液まで投げ銭せよ」と真紅の字幕。洗面所の電球は一閃ごとに転職広告をシャウト、浴室ミストが観客席を召喚、家全体が“SoldOut”の戦場へコンバート。終盤、ドラム式洗濯機が輪廻転⽣しVTuberデビュー、「迷う暇など無い」と回転加速でスパチャファンネル乱射。部長の社内アカは“尊い”連投1000コンボ、就業規則が歌詞カードに書き換わり社員全員がコール&レスポンス。気付けば俺は背景PNGに格下げ、しかし瞳だけは燃え尽きず無限ループへダイブ。最後、窓がASCIIアートで「走れ、止まるな」と閉じ、炊飯器メロが夜明けの号砲を鳴らす――ドドンコ!
24時間楽器演奏可能な防音マンション「ミュージション」というのがある。
2000年から始まったリブランマインドという不動産の賃貸マンションブランドで都内近郊に物件が多数。
もちろん高価格帯だ。
なお、アンプにつなぐ系の楽器や重低音が出る楽器は時間制限があるため、人によっては誇大広告に感じるだろう。
自分は音楽鑑賞と趣味の歌唱を周りに気兼ねなく行えること、他の部屋の音が聞こえないことにメリット感じて入居。
複数のミュージション物件に住んだため、それを元にメリデメをだらだら記載する。
先に言っておくと、大きなメリットもあるが大きなデメリットもある。
個人的には高価格帯のものを扱う会社はそれなりにしっかりしていると思っていたのだが、リブランマインドは悪い意味で不動産らしい会社だった。
人によるとこ
持ち家のローンぐらいの値段(のはず)。
もともと高いが、最近は家賃は値上がりし続けている。新しい物件はかなり高めの値付け。
既存の物件も人が入れ替わるタイミングで上がっていることが多い。
毎年のように新しいマンションが建っているがまだまだ需要がある様子。
家賃を上げすぎて中々埋まらない新築も数ヶ月経てば少しすれば埋まってたりする。
退去が決定した物件の情報が公式LINEで流されるんのだが大体すぐ埋まる。物件によっては流れた瞬間に埋まる。
基本的に内見は契約後で、前入居者が退去した後のクリーニング前に可能。
数年前には入居者用のサービスサイトを勝手に立ち上げ、その使用料として年間1万円以上の支払いが必須に。
内容は入居時の案内や設備マニュアル、お知らせ、解約申請、問い合わせなどがあるがいずれも別で参照できたり申し込めるため不要。
基本的に不動産側の広告媒体にしかなっておらず、イベントの告知や任意の有料サービス各種、オウンドメディアなどが置いてある。
入居者はほぼ使う機会が訪れず不動産側も使いこなせていない謎の有料サイト。
敷金が全額回収される契約→違った。申し訳ない。高い修繕費を差し引いた額が振り込まれる。
退去時は修復箇所をチェックする外注の人が来て見積もりを渡されるのだが金額はかなり高い。
自分はかなりキレイに使うほうで過去の他社物件も含めて追加費用を払ったことはないが、ミュージションは敷金ギリギリの見積もりだった。
他にも駐輪場は別途月額料金がかかるし駐車場も付近の相場より高めで設定されている。
他のデメリットの内容も含めて一部分なら納得できもするが…ここまでになると自社だけの利益を上げようとする姿勢に辟易する。
有料サービスサイトの問い合わせ窓口に連絡しても1週間以上返事がなく別ルートで問い合わせしなおし。
入居後に自分が設備の不備を発見したのだが、業者が直した後に確認や謝罪の連絡をしてこない。補填もない。
ちなみにその不備は工事しないと直せないもので一時対処で終了。
クリーニング時に直すべき箇所がそのままになっていることがあった。一時退去しないと補修できないため対応なし。補填なし。
楽器演奏ルールを守っていない騒音入居者を長期間放置したことがある。
事前に告知しないと引っ越し直後にトラブルになりそうなゴミ捨て系の自治体ルールなどの事前周知がない。
物件によってはゴミ捨て場がかなり汚い。(掃除のおばちゃんはいるから建物のコストカットしすぎ?)
マンション入口が電球切れで真っ暗だったが1ヶ月以上放置したことがある。
細かい部分でたくさん不満があるが割愛。基本的には住みやすさを軽視している感じ。
一番「は?」と思ったのは長方形の片側の短辺にエントランスがあって、反対側の短辺にエレベーターがある物件。エレベーターまで遠すぎ。
ただし、ここ2、3年ぐらいの物件は入居者の声を取り入れて改善してきているようす。
逆にいうと2000年に始まったブランドなのにそれ以前は改善できていないということかー…となるが。
担当者に聞くと素知らぬ顔でそれらしい言い訳をするがコストカット以外の何者でもない。
それで躱せると思ってるとこからしてアレ。
もともと家にこだわりが強いので不満はめちゃくちゃあるが、防音の部分だけで選ばざるをえない…。
防音性のためにそうなっているとのこと。
通常は左右の物件との区切りは簡易的な衝立みたいになっていて、上部は開放的になっていると思う。
ミュージションはベランダの左右も上から下までしっかりコンクリで覆われている。
開口部が狭いから最初は圧迫感があるし若干日差しも入りにくい。
ミュージションには頑張ってほしいところだけどどうだろうなあ。