
はてなキーワード:集落とは
二三年前の夏、未だ見たことのない伊香保榛名を見物の目的で出掛けたことがある。ところが、上野驛の改札口を這入つてから、ふとチヨツキのかくしへ手をやると、旅費の全部を入れた革財布がなくなつてゐた。改札口の混雜に紛れて何處かの「街の紳士」の手すさみに拔取られたものらしい。もう二度と出直す勇氣がなくなつてそれつきりそのまゝになつてしまつた。財布を取つた方も内容が期待を裏切つて失望したであらうから、結局此の伊香保行の企ては二人の人間を失望させるだけの結果に終つた譯である。
此頃少し身體の工合が惡いので二三日保養のために何處か温泉にでも出掛けようといふ、その目的地に此の因縁つきの伊香保が選ばれることになつた。十月十四日土曜午前十一時上野發に乘つたが、今度は掏摸すりの厄介にはならなくて濟んだし、汽車の中は思ひの外に空いて居たし、それに天氣も珍らしい好晴であつたが、慾を云へば武藏野の秋を十二分に觀賞する爲には未だ少し時候が早過ぎて、稻田と桑畑との市松模樣の單調を破るやうな樹林の色彩が乏しかつた。
途中の淋しい小驛の何處にでも、同じやうな乘合自動車のアルミニウム・ペイントが輝いて居た。昔はかういふ驛には附きものであつたあのヨボ/\の老車夫の後姿にまつはる淡い感傷はもう今では味はゝれないものになつてしまつたのである。
或る小驛で停り合はせた荷物列車の一臺には生きた豚が滿載されて居た。車内が上下二段に仕切られたその上下に、生きてゐる肥つた白い豚がぎつしり詰まつてゐる。中には可愛い眼で此方を覗いてゐるのもある。宅の白猫の顏に少し似てゐるが、あの喇叭のやうな恰好をして、さうして禿頭のやうな色彩を帶びた鼻面はセンシユアルでシユワイニツシである。此等の豚どもはみんな殺されに行く途中なのであらう。
進行中の汽車道から三町位はなれた工場の高い煙突の煙が大體東へ靡いて居るのに、すぐ近くの工場の低い煙突の煙が南へ流れて居るのに氣がついた。汽車が突進して居る爲に其の周圍に逆行氣流が起る、その影響かと思つて見たがそれにしても少し腑に落ちない。此れから行先にまだいくらも同じやうな煙突の一對があるだらうからもう少し詳しく觀察してやらうと思つて注意してゐたが、たうとう見付からずに澁川へ着いてしまつた。いくらでも代はりのありさうなものが實は此の世の中には存外ないのである。さうして、ありさうもないものが時々あるのも此の世の中である。
澁川驛前にはバスと電車が伊香保行の客を待つてゐる。大多數の客はバスを選ぶやうである。電車の運轉手は、しきりにベルを踏み鳴らしながら、併しわり合にのんきさうな顏をしてバスに押し込む遊山客の群を眺めて居たのである。疾とうの昔から敗者の運命に超越してしまつたのであらう。自分も同行Sも結局矢張りバスのもつ近代味の誘惑に牽き付けられてバスを選んだ。存外すいて居る車に乘込んだが、すぐあとから小團體がやつて來て完全に車内の空間を充填してしまつた。酒の香がたゞよつて居た。
道傍の崖に輕石の層が見える。淺間山麓一面を埋めて居るとよく似た豌豆大の粒の集積したものである。淺間のが此邊迄も降つたとは思はれない。何萬年も昔に榛名火山自身の噴出したものかも知れない。それとも隣りの赤城山の噴出物のお裾分けかも知れない。
前日に伊香保通のM君に聞いたところでは宿屋はKKの別館が靜かでいゝだらうといふことであつた。でも、うつかりいきなり行つたのでは斷られはしないかと聞いたら、そんなことはないといふ話であつた。それで、バスを降りてから二人で一つづゝカバンを提げて、すぐそこの別館の戸口迄歩いて行つた。館内は森閑として玄關には人氣がない。しばらくして内から年取つた番頭らしいのが出て來たが、別に這入れとも云はず突立つたまゝで不思議さうに吾々二人を見下ろしてゐる。此れはいけないと思つたが、何處か部屋はありませうかと聞かない譯にも行かなかつた。すると、多分番頭と思はれる五十恰好のその人は、恰度例へば何處かの役所の極めて親切な門衞のやうな態度で「前からの御申込でなければとてもとても……」と云つて、突然に乘込んで來ることの迂闊さを吾々に教へて呉れるのであつた。向うの階段の下では手拭を冠つて尻端折つて箒を持つた女中が三人、姦の字の形に寄合つて吾々二人の顏を穴のあく程見据えてゐた。
カバンをぶら下げて、悄々しをしをともとのバスの待合所へ歸つて來たら、どういふものか急に東京へそのまゝ引き返したくなつた。此の坂だらけの町を、あるかないか當てにならない宿を求めて歩き※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)はるのでは第一折角保養に來た本來の目的に合はない、それよりか寧ろ東京の宅の縁側で咲殘りのカンナでも眺めて欠伸をする方が遙かに有效であらうと思つたのである。併し、歸ることは歸るとしても兎も角も其處らを少し歩いてから歸つても遲くはないだらうとSがいふので、厄介な荷物を一時バスの待合所へ預けておいてぶら/\と坂道を上つて行つた。
宿屋が滿員の場合には入口に「滿員」の札でも出しておいたら便利であらう。又兎も角も折角其家を目指して遙々遠方から尋ねて來た客を、どうしても收容し切れない場合なら、せめて電話で温泉旅館組合の中の心當りを聞いてやる位の便宜をはかつてやつてはどうか。頼りにして來た客を、假令それがどんな人體であるにしても、尋ねてくるのが始めから間違つてゐるかのやうに取扱ふのは少し可哀相であらう。さうする位ならば「旅行案内」などの廣告にちやんと其旨を明記しておく方が親切であらう。
こんな敗者の繰言を少し貧血を起しかけた頭の中で繰返しながら狹い坂町を歩いてゐるうちに、思ひの外感じのいゝ新らしいM旅館別館の三階に、思ひもかけなかつた程に見晴らしの好い一室があいてゐるのを搜しあてゝ、それで漸く、暗くなりかゝつた機嫌を取直すことが出來たと同時に馴れぬ旅行に疲れた神經と肉體とをゆつくり休めることが出來たのは仕合せであつた。
此室の窓から眼下に見える同じ宿の本館には團體客が續々入込んでゐるやうである。其の本館から下方の山腹にはもう人家が少く、色々の樹林に蔽はれた山腹の斜面が午後の日に照らされて中々美しい。遠く裾野には稻田の黄色い斑の縞模樣が擴がり、其の遙かな向うには名を知らぬ山脈が盛上がつて、其の山腹に刻まれた褶襞の影日向が深い色調で鮮かに畫き出されて居る。反對側の、山の方へ向いた廊下へ出て見ると、此の山腹一面に築き上げ築き重ねた温泉旅館ばかりの集落は世にも不思議な標本的の光景である。昔、ローマ近くのアルバノ地方に遊んだ時に、「即興詩人」で名を知られたゲンツアノ湖畔を通つたことがある。其の湖の一方から見た同じ名の市街の眺めと、此處の眺めとは何處か似た所がある。併し、古い伊太利の彼の田舍町は油繪になり易いが此處のは版畫に適しさうである。數年前に此地に大火があつたさうであるが、成程火災の傳播には可也都合よく出來てゐる。餘程特別な防火設備が必要であらうと思はれる。
一と休みしてから湯元を見に出かけた。此の小市街の横町は水平であるが、本通りは急坂で、それが極めて不規則な階段のメロデイーの二重奏を奏してゐる。宿屋とお土産を賣る店の外には實に何もない町である。山腹温泉街の一つの標本として人文地理學者の研究に値ひするであらう。
階段の上ぼりつめに伊香保神社があつて、そこを右へ曲ると溪流に臨んだ崖道に出る。此の道路にも土産物を賣る店の連鎖が延長して溪流の眺めを杜絶してゐるのである。湯の流れに湯の花がつくやうに、かういふ處の人の流れの道筋にはきまつて此のやうな賣店の行列がきたなく付くのである。一寸珍らしいと思ふのは此道の兩側の色々の樹木に木札がぶら下げてあつて、それに樹の名前が書いてあることである。併し、流石にラテン語の學名は略してある。
崖崩れを石垣で喰ひ止める爲に、金のかゝつた工事がしてある。此れ位の細工で防がれる程度の崩れ方もあるであらうが、此の十倍百倍の大工事でも綺麗に押し流すやうな崩壞が明日にも起らないといふ保證は易者にも學者にも誰にも出來ない。さういふ未來の可能性を考へない間が現世の極樂である。自然の可能性に盲目な點では人間も蟻も大してちがはない。
此邊迄來ると紅葉がもうところ斑に色付いて居る。細い溪流の橋の兩側と云つたやうな處のが特に紅葉が早いらしい。夜中にかうした澤を吹下ろす寒風の影響であらうか。寫眞師がアルバムをひろげながらうるさく撮影をすゝめる。「心中ぢやないから」と云つて斷わる。
湯元迄行つた頃にはもう日が峯の彼方にかくれて、夕空の殘光に照らし出されて雜木林の色彩が實にこまやかに美しい諧調を見せて居た。樹木の幹の色彩がかういふ時には實に美しく見えるものであるが、どういふものか特に樹幹の色を讚美する人は少ないやうである。
此處の湯元から湧き出す湯の量は中々豐富らしい。澤山の旅館の浴槽を充たしてなほ餘りがあると見えて、惜氣もなく道端の小溝に溢れ流れ下つて溪流に注いで居る。或る他の國の或る小温泉では、僅かに一つの浴槽にやつと間に合ふ位の湯が生温るくて、それを熱くする爲に一生涯骨を折つて、やつと死ぬ一年前に成功した人がある。其人が此處を見たときにどんな氣がしたか。有る處にはあり餘つて無い處にはないといふのは、智慧や黄金に限らず、勝景や温泉に限らぬ自然の大法則であるらしい。生きてゐる自然界には平等は存在せず、平等は即ち宇宙の死を意味する。いくら革命を起して人間の首を切つても、金持と天才との種を絶やすことは六かしい。ましてや少しでも自己觸媒作用オートカタリテイツク・アクシヨンのある所には、ものの片寄るのが寧ろ普遍な現象だからである。さうして方則に順應するのは榮え、反逆するものは亡びるのも亦普遍の現象である。
宿へ歸つて見ると自分等の泊つてゐる新館にも二三の團體客が到着して賑やかである。○○銀行○○課の一團は物靜かでモーニングを着た官吏風の人が多い。○○百貨店○○支店の一行は和服が多く、此方は藝者を揚げて三絃の音を響かせて居るが、肝心の本職の藝者の歌謠の節※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)はしが大分危なつかしく、寧ろ御客の中に一人いゝ聲を出すのが居て、それがやゝもすると外れかゝる調子を引戻して居るのは面白い。ずつと下の方の座敷には足踏み轟かして東京音頭を踊つて居るらしい一團がある。人數は少いが此組が壓倒的優勢を占めて居るやうである。
今度は自分などのやうに、うるさく騷がしい都を離れて、しばらく疲れた頭を休める爲にかういふ山中の自然を索たづねて來るものゝある一方では又、東京では斷ち切れない色々の窮屈を束縛をふりちぎつて、一日だけ、はめを外づして暴れ※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)はる爲にわざ/\かういふ土地を選んで來る人もあるのである。此れも人間界の現象である。此の二種類の人間の相撲になれば明白に前者の敗である。後者の方は、宿の中でも出來るだけ濃厚なる存在を強調する爲か、廊下を歩くにも必要以上に足音を高く轟かし、三尺はなれた仲間に話をするのでも、宿屋中に響くやうに大きな聲を出すのであるが、前者の部類の客はあてがはれた室の圍ひの中に小さくなつて、其の騷ぎを聞きつゝ眠られぬ臥床ふしどの上に輾轉するより外に途がないのである。床の間を見ると贋物の不折の軸が懸かつて居る、その五言の漢詩の結句が「枕を拂つて長夜に憐む」といふのであつたのは偶然である。やつと團體の靜まる頃には隣室へ子供づれの客が着いた。單調な東京音頭は嵐か波の音と思つて聽き流すことが出來ると假定しても、可愛い子供の片言は身につまされてどうにも耳朶の外側に走らせることの出來ぬものである。電燈の光が弱いから讀書で紛らすことも出來ない。
やつと宿の物音があらかた靜まつた後は、門前のカフエーから蓄音機の奏する流行小唄の甘酸つぱい旋律が流れ出して居た。併し、かうした山腹の湯の町の夜の雰圍氣を通して響いて來る此の民衆音樂の調べには、何處か昔の按摩の笛や、辻占賣の聲などのもつて居た情調を想ひ出させるやうな或るものが無いとは云はれない。
蓄音機と云へば、宿へ着いた時につい隣りの見晴らしの縁側に旅行用蓄音機を据ゑて、色々な一粒選りの洋樂のレコードをかけてゐる家族連の客があつた。此れも存在の鮮明な點に於て前述の東京音頭の連中と同種類に屬する人達であらう。
夜中に驟雨があつた。朝はもう降り止んではゐたが、空は低く曇つてゐた。兎も角も榛名湖畔迄上ぼつて見ようといふので、ケーブルカーの停車場のある谷底へ下りて行つた。此の谷底の停車場風景は一寸面白い。見ると、改札口へ登つて行く階段だか斜面だかには夥しい人の群が押しかけてゐる。それがなんだか若芽についたあぶら蟲か、腫物につけた蛭の群のやうに、ぎつしり詰まつて身動きも出來さうにない。それだのにあとから/\此處を目指して町の方から坂を下りて來る人の群は段々に増すばかりである。此の有樣を見て居たら急に胃の工合が變になつて來て待合室の腰掛に一時の避難所を求めなければならなかつた。「おぢいさんが人癲癇を起こした」と云つてSが笑出したが、兎も角も榛名行は中止、その代りつい近所だと云ふ七重の瀧へ行つて見ることにした。此の道筋の林間の小徑は往來の人通りも稀れで、安價なる人癲癇は忽ち解消した。前夜の雨に洗はれた道の上には黄褐紫色樣々の厚朴の落葉などが美しくちらばつてゐた。
七重の瀧の茶店で「燒饅頭」と貼札したものを試みに注文したら、丸いパンのやうなものに味噌※(「滔」の「さんずい」に代えて「しょくへん」、第4水準2-92-68)を塗つたものであつた。東京の下町の若旦那らしい一團が銘々にカメラを持つてゐて、思ひ思ひに三脚を立てゝ御誂向の瀧を撮影する。ピントを覗く爲に皆申合せたやうに羽織の裾をまくつて頭に冠ると、銘々の羽織の裏の鹽瀬の美しい模樣が茶店に休んでゐる女學生達の面前にずらりと陳列される趣向になつてゐた。
溪を下りて行くと別莊だか茶店だかゞあつて其前の養魚池の岸にかはせみが一羽止まつて居たが、下の方から青年團の服を着た男が長い杖をふりまはして上がつて來たので其のフアシズムの前に氣の弱い小鳥は驚いて茂みに飛び込んでしまつた。
大杉公園といふのはどんな處かと思つたら、とある神社の杉並木のことであつた。併し杉並木は美しい。太古の苔の匂ひがする。ボロ洋服を着た小學生が三人、一匹の眞白な野羊を荒繩の手綱で曳いて驅け※(「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11)つてゐたが、どう思つたか自分が寫眞をとつて居る傍へ來て帽子を取つてお辭儀をした。學校の先生と間違へたのかどうだか分らない。昔郷里の田舍を歩いて居て、よく知らぬ小學生に禮をされた事を想ひ出して、時代が急に明治に逆戻りするやうな氣がした。此邊では未だイデオロギー的階級鬪爭意識が普及して居ないのであらう。社前の茶店に葡萄棚がある。一つの棚は普通のぶだうだが、もう一つのは山葡萄で紅葉してゐる。店の婆さんに聞くと、山葡萄は棚にしたら一向に實がならぬさうである。山葡萄は矢張り人家にはそぐはないと見える。
茶店の周圍に花畑がある。花を切つて高崎へでも賣りに出すのかと聞くと、唯々お客さんに自由に進呈するためだといふ。此の山懷の一隅には非常時の嵐が未だ屆いて居ないのか、妙にのんびりした閑寂の別天地である。薄雲を透した日光が暫く此の靜かな村里を照らして、ダリアやコスモスが光り輝くやうに見えた。
宿へ歸つて晝飯を食つてゐる頃から、宿が又昨日に増して賑やかになつた。日本橋邊の或る金融機關の團體客百二十人が到着したのである。其爲に階上階下の部屋といふ部屋は一杯で廊下の籐椅子に迄もはみ出してゐる。吾々は、此處へ來たときからの約束で暫時帳場の横へ移轉することになつた。
部屋に籠つて寐轉んで居ると、すぐ近くの階段や廊下を往來する人々の足音が間斷なく聞こえ、それが丁度御會式の太鼓のやうに響き渡り、音ばかりでなく家屋全體が其の色々な固有振動の週期で連續的に振動して居る。さういふ状態が一時間二時間[#「二時間」は底本では「二間時」]三時間と經過しても一向に變りがない。
一體どうして、かういふ風に連續的に足音や地響きが持續するかといふ理由を考へて見た。百數十人の人間が二人三人づつ交る/″\階下の浴室へ出掛けて行き、又歸つて來る。その際に一人が五つの階段の一段々々を踏み鳴らす。其外に平坦な縁側や廊下をあるく音も加はる。假に、一人宛て百囘の音を寄與コントリビユートするとして、百五十で一萬五千囘、此れを假に午後二時から五時迄の三時間、即ち一萬八百秒に割當てると毎一秒間に平均一囘よりは少し多くなる勘定である。此外に浴室通ひ以外の室と室との交通、又女中や下男の忙はしい反復往來をも考慮に加へると、一秒間に三囘や四囘に達するのは雜作もないことである。即ち丁度太鼓を相當急速に連打するのと似た程度のテンポになり、それが三時間位持續するのは何でもないことになるのである。唯々面白いのは、此の何萬囘の足音が一度にかたまつて發しないで、實にうまく一樣に時間的に配分されて、勿論多少の自然的偏倚は示しながらも統計的に一樣な毎秒平均足音數を示してゐることである。容器の中の瓦斯體の分子が、その熱擾動サーマルアヂテーシヨンのために器壁に反覆衝突するのが、いくらか此れに似た状況であらうと思はれた。かうなると人間も矢張り一つの「分子」になつてしまふのである。
室に寐ころんだ切り、ぼんやり此んなことを考へてゐる内に四時になつた。すると階下の大廣間の演藝場と思はれる見當で東京音頭の大會が始まつた。さうして此れが約三十分續いた。それが終つても、未だその陶醉的歡喜の惰性を階上迄持込[#「持込」は底本では「持迄」]んで客室前の廊下を踏鳴らしながら濁聲高く唄ひ踊る小集團もあつた。
「バスの切符を御忘れにならないやうに」と大聲で何遍となく繰返して居るのが聞こえた。それからしばらくすると、急に家中がしんとして、大風の後のやうな靜穩が此の山腹全體を支配するやうに感ぜられた。一時間前の伊香保とは丸で別な伊香保が出現したやうに思はれた。三階の廊下から見上げた山腹の各旅館の、明るく灯のともつた室々の障子の列が上へ上へと暗い夜空の上に累積してゐる光景は、龍宮城のやうに、蜃氣樓のやうに、又ニユーヨークの摩天樓街のやうにも思はれた。晝間は出入の織るやうに忙がしかつた各旅館の玄關にも今は殆ど人氣が見えず、野良犬がそこらをうろ/\して居るのが見えた。
團體の爲に一時小さな室に追ひやられた埋合せに、今度はがらあきになつた三階の一番廣く見晴らしのいゝ上等の室に移され、地面迄數へると五階の窓下を、淙々として流れる溪流の水音と、窓外の高杉の梢にしみ入る山雨の音を聞きながら此處へ來てはじめての安らかな眠りに落ちて行つた。
翌日も雨は止んだが空は晴れさうもなかつた。霧が湧いたり消えたりして、山腹から山麓へかけての景色を取換へ取換へ迅速に樣々に變化させる。世にも美しい天工の紙芝居である。一寸青空が顏を出したと思ふと又降出す。
とある宿屋の前の崖にコンクリートで道路と同平面のテラスを造り其の下の空間を物置にして居るのがあるのは思ひ付きである。此の近代的設備の脚下の道傍に古い石地藏が赤い涎掛けをして、さうして雨曝しになつて小さく鎭座して居るのが奇觀である。此處らに未だ家も何もなかつた昔から此の地藏尊は此の山腹の小道の傍に立つて居て、さうして次第に開ける此の町の發展を見守つて來たであらうが、物を云はぬから聞いて見る譯にも行かない。
晝飯をすませて、そろ/\歸る支度にかゝる頃から空が次第に明るくなつて來て、やがて雲が破れ、東の谷間に虹の橋が懸つた。
歸りのバスが澁川に近づく頃、同乘の兎も角も知識階級らしい四人連の紳士が「耳がガーンとした」とか「欠伸をしたらやつと直つた」とか云つたやうな話をして居る。山を下つて氣壓が變る爲に鼓膜の壓迫されたことを云つて居るらしい。唾を飮み込めば直るといふことを知らないと見える。小學校や中學校でこのやうな科學的常識を教はらなかつたものと思はれる。學校の教育でも時には要らぬ事を教へて要ることを教へるのを忘れて居る場合があるのかも知れない。尤も教へても教へ方が惡いか、教はる方の心掛けが惡ければ教へないのも同じになる譯ではある。
上野へついて地下室の大阪料理で夕食を食つた。土瓶むしの土瓶のつるを持ち上げると土瓶が横に傾いて汁がこぼれた。土瓶の耳の幅が廣過ぎるのである。此處にも簡單な物理學が考慮の外に置かれてゐるのであつた。どうして、かう「科學」といふものが我が文化國日本で嫌はれ敬遠されるかゞ不思議である。
雨の爲に榛名湖は見られなかつたが、併し雨のおかげでからだの休養が出來た。讀まず、書かず、電話が掛からず、手紙が來ず、人に會はずの三日間で頭の疲れが直り、從つて胃の苦情もいくらか減つたやうである。その上に、宿屋の階段の連續的足音の奇現象を觀察することの出來たのは思はぬ拾ひものであつた。
温泉には三度しかはひらなかつた。湯は黄色く濁つてゐて、それに少しぬるくて餘り氣持がよくなかつた。その上に階段を五つも下りて又上がらなければならなかつた。温泉場と階段はとかくつきものである。温泉場へ來たからには義理にも度々温泉に浴しなければならないといふ譯もないが、すこしすまなかつたやうな氣がする。
他の温泉でもさうであるが、浴槽に浸つて居ると、槽外の流しでからだを洗つて居る浴客がざあつと溜め桶の水を肩からあびる。そのしぶきが散つて此方の頭上に降りかゝるのはそれ程潔癖でないつもりの自分にも餘り愉快でない。此れも矢張り宿屋へ蓄音機を持ち込み、宿屋で東京音頭を踊るPermalink |記事への反応(0) | 18:19
遠野から国道107号、もしくは340号を南下するとたどり着くのが住田町。ここは東日本大震災の時に大船渡と陸前高田をバックアップする基地として活躍した。そもそも住田、大船渡、陸前高田の3地域は合わせて"気仙地域"として扱われていることも多い。
340号と107号は途中で合流する。合流したところにあるのが世田米(せたまい)地区で、ここから再び107号が分かれて行くのが大船渡、340号が行くのが陸前高田。行き先によってどちらに行くか分かれるキーとなる町ではある。住所的にはここと上有住(かみありす)を押さえておけば観光的にはなんとかなる。
上有住は釜石線の駅名になっているが、上有住の集落中心地はこの駅の周辺ではない。もし列車のなかから上有住駅の外を見てとんでもない僻地だと思った人がいたら、上有住はそこまでの場所じゃないよ、ということだけは覚えておいてほしい。しかしこの駅も観光には重要で、上有住、いや住田で最も重要な観光名所がこの駅のそばにあるのだ。鍾乳洞である滝観洞。龍泉洞の整備された順路とはうってかわったヘルメット必須(貸してくれる)の観光スポットだが、経路最奥にはその名の通り滝が見えて、これがけっこう壮観。入口横にあるレストランでは滝流しそば</b.という名物があって、これがいわゆる流しそうめんのそばバージョンのような形で食べられるのでアトラクションとしても面白い。なおこのレストランには"滝流しカレー"もあるのだけれど、流石にカレーは流れてこない。岩に見立てたご飯にカレーを流すだけ。</p>
気仙地区には宮大工である気仙大工の伝統があって、その成果を見られる寺が世田米にある。満蔵寺。特にここの山門は必見。あと世田米には鶏の加工工場があって、ここが鶏の希少部位として"鶏ハラミ"を名物に仕立て上げている。若干悪意のある言い方をしたけれどもうまいのは確かで、世田米にある食堂を中心に何店かで鶏ハラミを使った料理を食べることが出来る。たぶん一番わかりやすい店は世田米は世田米でも国道397号(107号から途中で南に分かれて西に向かう)の町境にある"道の駅種山ヶ原"のレストランにあるラーメンだと思う。この他に豚肉も特産品として売りに出されていて、世田米市街地に近い側にある産直、イーガストすみただとこの辺がお土産で買って帰られる。ただこの店でもっと買うべきは上有住の菓子店お菓子工房eat+のシフォンケーキだけどね。
107号を東方向に行くと、大船渡にたどり着く。大船渡には岩手唯一の私鉄が今も走っているけれど、旅客運輸は随分昔に廃止されたので乗ることは出来ない。ただ貨物輸送は今でも1日10往復以上やっているらしいので、運が良ければ107号を走っている時に見られるかもしれない(ほぼ並走している)。市街地に入る前に長安寺という寺があって、ここの山門も気仙大工の手による。あまりに豪華なので伊達政宗が怒ったという逸話もある。大船渡市街地は盛駅周辺(最近盛岡駅をこう略する人が増えて非常に紛らわしい)と大船渡駅周辺に分かれていて、古くから栄えてきたのは盛駅周辺。津波被害も盛駅周辺はそれほどなかった。それもあって、最近の再開発は大船渡駅周辺を中心に行われている。駅の東側に"かもめの玉子"のさいとう製菓が運営する"かもめテラス"では工場見学(要予約)他ここオリジナルのお菓子が食べられたり作れたりするし、最近は魚の駅という海産物に特化した施設も生まれた。じゃあ盛駅周辺に何もないかというと、少し北に行ったところにあるイタリア料理店ポルコ・ロッソと、そこから路地を奥に入ったところにあるハンバーガー店The BurgerHeartsの評判はいい。さらに南に行くと大船渡魚市場があり、ここのレストランは最近閉店してしまったのだけど、近くにある丸清食堂はよくテレビで紹介される。ここからさらに南に行ったところにある大船渡温泉は311後の開業だが、日帰り入浴も出来るし宿泊にもいい。
大船渡市の東側は平成の大合併までは三陸町という自治体だった。ここも昭和に吉浜、越喜来、綾里という3つの町が合併して出来た町で、それぞれ特産の海産物が違っていてそれぞれ有名という特色を持っている。特に有名なのは吉浜のアワビか。まあこれらはどれも海中にあるので前述の施設のどこからで料理もしくはお土産用に買うほうが身近だ。越喜来はいくつか見どころがあって、小石浜駅は少し前に恋し浜と駅名を変えて三陸鉄道が少し長めに停車するようになったし、甫嶺駅のそばには岩手では珍しいダイビングツアーショップがあって三陸の海に潜れる貴重な体験が出来る(密漁を気にしてか陸中海岸では水中メガネとシュノーケルのセットすら持ち歩くのに躊躇する風土なのだ)。ちなみに大船渡は牡蠣が旨いが、その中でも赤崎の牡蠣はデカくてうまい。ただこの辺一帯が春先の山火事で大被害を被ったのはけっこう痛い。
45号をさらに南に行くと、末崎半島に分かれる道がある。以前の大船渡観光地は宮古における浄土ヶ浜のようにこの末端に集中していて、大船渡が最も推していた碁石海岸はこの半島の端っこにある。それ以外にも大船渡が北限(いろいろ条件つけて)の椿を展示している世界の椿館とか、311以前の津波被害についても展示のある大船渡市立博物館とかもこの半島に存在する。
そう言えば大船渡が漁港として最も誇っているのがサンマの水揚げで、その影響もあって新しい御当地グルメとしてさんまラーメンがある。これの特色兼困ったところとして「サンマを使っていればその形態は問わない」というものがあって、まあ食べ歩いて比べる楽しみがある一方、さんまラーメンと言って一言で言えるものでは亡くなってしまっている。ただ、個人的には107号の長安寺付近にある黒船という店の秋刀魚出汁ラーメンが好き。
大船渡南側の峠を越えると陸前高田だ。おそらくテレビで何度も見たことがあると思うが、陸前高田の市街地は完全に津波にのまれて一部の建物以外はなくなってしまった。さらに当時の市長は再建にあたって市街地全体を嵩上げすることにしたので、現在の市街地は完全に311以降一から作り直された場所である。御当地歌手・千昌夫が多額の出資をしたキャピタルホテル1000も当初の場所とは全く別の場所に建っている。ただ、国道45号が海沿いを走るあたりは嵩上げが行われておらず、ほぼ道沿いに震災遺構が数多く残っている。大船渡側から順に、下宿定住促進住宅、タピック45、国道から少し離れるが米沢商会、そして奇跡の一本松、気仙中学校。事前予約があればガイド付きで中に入れるところもまだあったはずだが、まあ入らなくてもどこまで津波が来たかはそれなりに見えると思う。なおそれが非常にわかりやすかったタピック45前のガソリンスタンド看板は移転で撤去された。
奇跡の一本松。陸前高田の観光スポットはここ周辺に整備されている。現在の道の駅はこの一本松を見るための駐車場として整備されたフシがあるし、そもそも道の駅の中に津波伝承館が併設されていて、ここは正直奇跡の一本松以上に必見のスポット。なお一本松は元から一本松だったわけではなく、ここには松林があった。その松林を復興させるために松の植え直しが行われたので、50年後にはそういう逸話込みでここが名所になるかもしれない。
復興された市街地はアバッセたかたというショッピングモール周辺。この東側、市民ホールのそばにある四海楼が佐々木朗希ゆかりの店ということになっていてテレビでも何回も紹介されたが味はよく知らない。個人的には西隣にある熊谷の担々麺に何度もお世話になっているし、一時盛岡に移転した居酒屋俺っちが陸前高田に復活して営業しているのはいいことだと思っている。
住田町からの国道340号は陸前高田の西端を通って45号につながる。そのつながる直前のところに発酵パークCAMOCYがあって、地元の醤油屋さんが運営する食堂を始め、ほぼ全ての店が発酵をテーマにした商品を扱っていてここは寄るべき。この裏に最近復活した旧吉田家住宅は気仙大工の技を津波を経て復活させた建物で、今のところは無料で見られるので是非見ておくべき。気仙大工の話を事ある毎にしてきたが、資料館そのもの、というか伝承館もあってこれは陸前高田の東側にある。この伝承館の裏(もちろん車で行くべき)に展望台があって、ここの眺めはたぶんこの近辺で一番いい。陸前高田東側には他にも陸前高田のソウルフードならぬソウルドリンク"マスカットサイダー"を作っていた神田葡萄園があるが、ここでのこのドリンクの製造は2年ほど前に終わっている。ただこの商品そのものは地元のスーパーが引き継いだので今でも買うことが出来る。あとどうも孟宗竹の自生の北限がこの辺らしく、東側、広田半島には岩手ではあんまり見られない竹林がけっこう頻繁に見られるんだが、まあこれは外から来た人には珍しくもないか。
そう言えば陸前高田の地酒に酔仙という酒があって、ここが出している雪っ子というにごり酒は10月から出荷になる。これがうまいがアルコール度数がけっこう高いので危ない酒でもある。なお陸前高田の会社だが、酒蔵は大船渡に移転になった。見学は要予約だが無料で可能。
それとも俺が知らないだけで日本のどこか因習あふれる闇の集落(東京とか)では未だに女性が家畜同様金銭で売買されてマチアプでさばかれてるのか
さて宮古。
宮古は合併の結果、岩手で一番大きな自治体になっている。全国的にもトップ10に入ったり(市)入らなかったり(市町村)という大きさらしい。合併前のところまで含めて「宮古観光」とはなりにくいところも多いのだけど、とりあえず全部説明することにする。
まず旧宮古市な場所。ここの観光地のほぼ全ては浄土ヶ浜近辺に集中している。浄土ヶ浜はもちろん、宮古港海戦の記念碑とか遊覧船の乗り場とか、青の洞窟へのサッパ船遊覧船乗り場もみんな浄土ヶ浜近辺にあるので、ここにたどり着けばだいたいの観光は出来る。1日1本だけだけど、盛岡から走っている宮古行きのバスが浄土ヶ浜に行くのも納得だ。
近年はここより宮古市街地に近い出崎埠頭近辺が観光地としてプッシュされていて、この近辺に道の駅があったり、遊覧船の発着場所もここ出発に変更されたりしている(浄土ヶ浜の埠頭から一周することも可能)。何せここには魚市場があるからね。魚市場食堂はまあリーズナブルだけど、ご飯のおかわりができなくなったのが地味に残念。
市場といえば、まあ観光客向けなのはこの魚市場というよりは、市内中心部少し北に存在する魚菜市場のほうが有名かもしれない。ただ秋は端境期でもある。ウニを買うには遅いし、タラ(宮古はタラの水揚げが日本一多い)やカニを買うにはちょっと早いし、早採りワカメとは季節が完全にずれている。まあ秋以外の季節にはこの辺の物を探しに来る地元民が多い。いちおう海鮮丼の店もある。宮古はラーメンも最近注目されている。古くから注目されていた多楽福を始め、ぴかいち、一竜あたりが似た雰囲気のラーメンを出している。ただ、ハズレとはならないまでも、特徴のないラーメンと思われるような地味な姿はしているけどね。
そういう意味では、最近寿司などの海鮮店で展開されている瓶ドンのほうがメリハリがついているかもしれない。ただ、これはその場で食べられる店と、持ち帰りだけを売っている店が観光客に区別がつきにくいのが少し難点かもしれない。瓶詰めだけど保存のことはあまり考えていない(冷凍のやつも存在はする)のもあってもう少しわかりやすくして欲しいところではある。
合併した町村のうち、北に接していたのが旧田老町。ここは過去2度の津波で2度とも壊滅的な被害を受けた町で、その後巨大な防波堤で1度は津波から町を守った(チリ地震津波)のだが、311ではこの防波堤を壊すほどの津波が来てまた壊滅的な被害を受けた町でもある。おそらく今最も見る価値があるのはこの津波遺構となったたろう観光ホテル。ホテルそのものの外観は予約なしでも見ることが出来、予約すれば内部の見学(+ここの最上階から撮影した津波の来襲のVTR観覧)をすることも出来る。
西に接していた村のうち近かったのが旧新里村。温浴施設の湯ったり館は新里に用があって泊まる必要があるならいい候補だし日帰り入浴もあるけど、わざわざ県外から入る風呂じゃない。秘境中の秘境路線な岩泉線は廃止になって10年以上経ってる。まあ一部区間を観光のレールバイクで走れる(要予約)など、観光村おこしはそこそこやってはいる。その西の旧川井村は昔電気が通らない集落として映画になったほどの僻地も含まれる場所で、さらにその西端の区界高原にある兜明神岳は1時間弱で登れる程度の山なのに岩登りまで出来るというお遊びで登るには最適な山であることだけはここに書き残しておきたい。何せ今やほとんどの人はこの山の横をトンネルで通過するからね。いちおうこの山には前九年の役で負けた安倍氏が隠したという埋蔵金伝説もあったりする。
なお現在盛岡と宮古の間(川井と新里を含む)は少し交通の便が良くなっている。JR山田線チケットを買うとバス路線106急行(特急)が相互利用できるようになったから。これを利用するとこの地区を途中下車して観光することが少し簡単になる。まあ観光するほど施設があるのか、という問題はあまり解決していないけれど。
山田線の話をしたついでに、宮古市の南にある山田町も紹介しておこう。現在山田線は山田町まで走っていない。311きっかけで陸中山田を含む宮古から釜石までの区間をJR東日本が三陸鉄道に譲渡したから。なので山田に行くなら山田線じゃなくて今は三陸鉄道に乗ることになるのね。まあ例によってここもレンタカーを前提としたほうがいい。
山田町は大まかに言うと3つの地区に分かれている。宮古に近い側から豊間根、山田、船越。このうち豊間根にはあんまり立ち寄る観光資源がない。鉱泉が1つあるくらい。ただ、豊間根に来る前の宮古市の運動公園のそばには、おそらくそこがすずめの戸締まりの実家のモデル場所になったんではないかと言われている電波塔が建っていて、その場所には今は白い扉が建てられている。山田は中心地区で、豊間根との境に近いあたりには少し新しめの道の駅があったりするのと、中心部のスーパーびはんがオリジナル商品作ったりしてけっこう頑張っている。この地域の湾に見える離島はオランダ島と言って夏の間は海水浴に最適なんだけど秋はシーズンオフ。漁船の人と話がつけば秋でも送ってくれることはあるけれど、行ったとて、なところはある。それよりも、船越と山田の間にある織笠駅がすずめの戸締まりのラス前シーンのモデルになった場所で、それで話題になったりもした。この駅から少し海に行ったところにある公園にもすずめの戸締まりをイメージした扉は建てられている。船越は以前まで道の駅があったところ(今もある)で、ここのそばにある岩手船越駅は本州最東端だそうだがたぶんそれはどうでもいいかもしれない。それよりもこのあたりから半島に入ったあたりにある鯨と海の博物館と山田のかき小屋については訪れる価値がある。特に後者は蒸し牡蠣が飽きるほどリーズナブルに食べられる(要予約)のでカレー粉とマヨネーズとレモン汁を持って乗り込むといい。なおここの牡蠣の食べ頃は「後になればなるほど美味しい」で、5月頃産卵が起きる直前が一番美味しいんだそうだが、そこには運も絡むので普通に冬に出かけたときの楽しみにしたほうがいい。
いまだに「女性を人間扱いする」みたいなフワフワマジックワードで婚活語るアホがいるのかとあきれ返ってたらブクマカが「地に足ついてる!」とか言ってて横転
どこがだよ地に足どころかフワフワ浮きまくってるだろ月まで届くくらい内容の無いフレーズだろこれ
それとも俺が知らないだけで日本のどこか因習あふれる闇の集落(東京とか)では未だに女性が家畜同様金銭で売買されてマチアプでさばかれてるのか
「人間扱いして」なんていうのは「女の部分ばかり見ないで」という程度の意味です
なので「初回のデートで性交渉を誘わない」とだけ言えば事足りる
・眼鏡をやめる(見た目が悪いので)
・定職に就く
最低限これだけがんばろう
次は久慈近辺を紹介することにする。花巻(北上)、一関(平泉)と来て、内陸を埋めるなら奥州いくべきなんだろうけどね。
盛岡から久慈に行くにはどう行くかがまず問題。バスだと直行便が1日5往復(4+1往復)あるんだけれど、日帰りには致命的に不便。二戸まで新幹線で行ってバスに乗り換えるのがたぶんいちばん便利。そういう意味でもレンタカーがおすすめ。
レンタカーでも、ルートは大まかに行って4つある。1つめのおすすめは東北自動車道-八戸道で九戸インターで降りて、あとは一般道を通るルートで、これがたぶんいちばん楽で速い。それ以外に、国道4号で沼宮内近辺から葛巻方向に入っていく経路と、国道455号で岩泉を経由する経路と、国道106号で宮古経由で行く経路がある。葛巻経由はまあ趣味の世界。道路状況は悪くないけど遠い。岩泉ルートはもっと遠いが龍泉洞をついでに観光できるという利点は捨てがたい。宮古ルートは311後の道路改良のおかげで意外と近い。たぶん旅行計画によって葛巻ルート以外の2つを行き帰りで選ぶことになると思う。岩泉ルートと宮古ルートは途中に野田、田野畑あたりも経由できるのでこの辺もあとで紹介しておく。
久慈は平成の大合併で山形村を合併して大きくなった市で、旧山形村にはそれほど観光資源がない。あったのがまめぶ汁だがこれは「あまちゃん」でなぜか海女の食べ物になってしまった。とは言え能年玲奈がその後主役になった映画「星屑の町」は山形村な地域でのロケがけっこう行われたのでこの映画に興味がある向きはロケ地巡りに周ることが可能。ロケ地マップは久慈市が公式サイト上で配布している。説明はこれくらいにしておく。たぶんこの地域を周るとガタゴンという未確認生物の話も聞けると思う。
で、久慈地域。ほかにもいろいろあるのだけど、まあ基本的には「あまちゃん」が全て持っていってしまっている。結局それ絡みの観光名所を周ることになると思う。ウニ弁当を売っている久慈駅とか、そこに面して建っている廃墟である久慈駅前デパートとか。あまちゃんハウスは閉鎖して、そこにあったあまちゃんグッズは久慈駅南側の公共施設YOMUNOSUに移設された。喫茶リアスのモデルになった喫茶モカも久慈駅からギリギリ見える場所にある。あま絵の描かれたシャッター商店街も久慈駅から歩ける範囲にある。つまり久慈駅にたどり着けばだいたい見ることが出来る。ラーメン好きにはカツらーめんが有名なラーメンの千草もかなり近所にある。
いっぽうで、そこから少しでも離れると車なしでは観光地は回れない距離になる。北三陸鉄道袖ヶ浜駅は三陸鉄道の堀内駅で、久慈市には存在しないし、海女として活動していた小袖海岸は絶対にそこの最寄り駅ではない(そもそも小袖海岸のそばを三陸鉄道は走らない)。結局レンタカー頼りになっちゃうわけだ。
ウニについては、久慈よりもそこより少し北にある洋野町が盛ん(久慈にもあるけど)。正直もう生ウニシーズンは終わっているけれど、ウニを買うなら洋野町のほうがいい気がする。食べるならはまなす亭がおすすめ。個人的には洋野ではウニよりもホヤを試してほしい。特に喜利屋のダイバー定食はホヤ嫌いでも一度は食べてみるべきなんだけど、そういえば元増田は魚介類には興味ないんだっけな。
久慈は琥珀の日本最大の産地で、その近辺で肉食恐竜の化石も見つかっているんだけど、この辺にはあまり詳しくないのでおすすめはしない。いちおう琥珀は博物館もあるし、琥珀の工作体験が出来る店もあるらしい。まあこれはそういうものもあるという情報だけ。
そう言えば、遠地で津波を伴う地震があった時に、本州で最初に津波が到達することが多いのが久慈だったりする。7月にカムチャツカ半島で起きた津波も日本で一番大きいのは久慈に来た津波だった。久慈の災害情報カメラはほぼ全系列、久慈漁港に置かれているので、ここを南側から見ると次に津波が起きた時に「ここに来たことがある」と実感が持てるかもしれない。
先ほど堀内の話をしてしまったので、間の野田について少し。自分にとってのイチオシは陸中野田駅の斜向かいにあるお魚センターだったのだが、どうやら今年になって閉店したらしい。まあ魚介類には興味ないから別にいいか。道の駅も陸中野田駅に隣接していたのだけれど三陸自動車道の開通があって野田インターのそばに移転した。野田は塩の産地でここで売っているソフトクリームは塩入りなので試してみるべき。あと、どうもこの辺で売っているかりんとうはふつうのかりんとうとは形が違うらしい。北三陸でかりんとうを見かけたらこの道の駅でなくていいので買ってみてほしい。あと、テレビで紹介されたものとしては木彫りの魚があるね。これは道の駅からはけっこう離れている。
さて堀内から少し南に(45号を)行くと、少し海が開けたところが見える。本当はここは三陸鉄道で渡って欲しいところなのだけど、たぶん日帰りだとそれはかなわないと思う。ここが大沢橋梁で、三陸鉄道屈指の絶景スポット(三陸鉄道はあんまり海のそばを走っていない。それでも津波で被害を受けた)。実は「あまちゃん」絡みの撮影スポットでもある。さらに南に行くと普代村の市街地。市街地といっても村なのでそれほど大きくはないが、ここから県道を通って北山崎に向かうことができる。ここは必見。ここに向かう県道沿いの普代市街地を出てすぐのところに普代水門という可動防波堤があって、普代村はこれのおかげで311の津波を避けることが出来たという逆の意味での震災遺構となっているのでこれも是非。このあたりから田野畑村で、ここをさらに南に行った先に机浜という集落があって、ここが少し観光に力を入れている。漁村ならではの体験もあるけれど、イチオシはここから北山崎を下から眺めるサッパ船ツアー。三陸海岸は東向きなので本当はここは午前中に来て欲しいところではある(日帰りでは厳しい)。もし泊まるなら少し南にあるホテル羅賀荘がおすすめ。
このそば(当然歩いて行くことはおすすめしない)に、三陸鉄道の田野畑駅と島越駅がある。田野畑駅は「あまちゃん」で畑野駅として使われた駅。島越駅は津波を見越して作られたにも関わらず三陸鉄道最大の津波被害を受けた駅であるというストーリー(プロジェクトXで紹介された)を知っていると見る価値はある。ここから45号線に戻る山道が辞職坂と言われる坂。実は田野畑村は陸の孤島で、そこにかかっている橋を含め2つの橋が出来るまではこの大きさの谷を2つ越えて来る必要があった。辞令で田野畑に来る命令をされた人が最初の谷(思案坂)でこのまま勤めるか悩み、この谷で辞職を決意したという伝説が残っている。最初の坂にかかった橋は真木沢橋だが、現在は隣に高速道路のその名も「思案坂大橋」という橋がかかっている。ここを通れば田野畑村を抜けるが、もし田野畑村で昼食が食べたかったら北に国道を戻って北川食堂で食べるといい。
そこら辺は色々と考えられていて
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みたいなことを何かの専門家が言っててなるほどと思った
つまり、一世代のことしか考えられないと、せいぜい20年30年で儲かればいいっていう考えになりがちって言ってて
何なら今の若手なんて、そこそこいい会社に入ったらあとは手を抜くからね
いまどき、「自分の世代が下積みに終わったとしても、次の世代で花開けばいい」なんて考えで仕事に取り組んでる人なんて稀だろうしなあ
あとなんて言ってたっけ、そういう人が増えると国依存が強くなるって言ってたな
昔は一族・会社・集落っていう単位で繁栄を考えていたけど、今は国くらいしか単位がないみたいな
今は「会社に貢献」みたいな考えも持ちづらいみたいな話、いかに会社から奪うかだよね
誰が言ってたかな
おいらの所はいわゆる限界集落で、山奥過ぎて集落(平成の大合併の前の村の範囲)では既に人口400人を切って、高齢化率が8割を超えているような場所なんよ。
かつての街道筋で国道は通っているけど、二十数年前に高速道路が開通したもののインターは無し。交通量がガクンとへって一気に寂れたと言う。
例えば、ガソリンスタンドも苦労して維持している。タンクの交換期限が来て廃業すると言う話を、みんなでお金を出し合って出資して会社を作り、なんとか維持している。
病院も診療所が一応あるが医師は常駐して無くて、ドラッグストアどころか薬局もない。そんな場所だ。
そんな場所に唯一日常のものを売っている施設、それがファミリーマートなのだ。
元々ここにコンビニはなかった。ただ、道の駅がまだ純粋に長距離ドライブの休憩ポイントとしてバランス良く配置されることを指向していた時代に、道の駅が作られた。それに併設されている。
当時、色々な奇跡と偶然が重なって補助金もとれて、道の駅に既存の温泉宿を取り込んで日帰り温泉と小さな宿泊施設を作った。その一角に誘致して作られたのがサークルKだ。
サークルKのオーナーは周辺で何店舗もサークルKを運営し、他にも古本屋やレストランなどのフランチャイズをやっている会社さんで、お土産物も扱っている関係で手を上げてくれたという経緯がある。
ただ経営は厳しく。それでもつないでくれて、吸収合併を経てファミマとなった。
しかし無理になったのがコロナ禍だ。道の駅にも客は来ない。温泉施設は危険だという事になって業務停止。宿は形の上だけではやっていたが客はおらず。
それでも営業を続けてくれようとしていたが、従業員としてメインで働いていた皆さんは高齢者がほとんど。流行中の中にお店に立つことが難しくなっていて退職され、いくらお金をだしても店を開けられなくなった。
これで一度は閉鎖された。
ただ、オーナーさんはそれでもミニファミ号という移動店舗を派遣してくれていて、それでなんとかつなげていた部分がある。
本来はこの水準だと明らかな赤字になる、再開するにしてもそのままでは難しく新たに改装などが必要なこと、など色々な問題があるが、自治体と、道の駅とガススタの運営をしている合同会社が入って話し合いを進め、ファミマの本部側も例外的な処置を認めてくれて、基準に満たないけれども出典にGOサイン、朝6時から22時までの営業にするなどを認めてもらい、恐らく配送ルート的にも赤字なのにやってくれることになった。
オーナーさんも儲からないのに再び経営に乗り出してくれたし、道の駅とガススタの運営会社も人員面で協力すること。さらに改修費用は自治体が出すこととなって、再開にこぎ着けたのだった。
ファミマが復活したことや、近くにスマートインターができたこともあってコロナ前よりも道の駅の利用者は増えている。ファミマも店舗の収支としては赤字にはなってないよう。
普通のファミマよりも服や日用品、野菜や果物といった生鮮食料品なども扱ってくれるし、本当に助かっている。
ああ、その話かい。
爺さんの爺さん、そのまた爺さんの話らしいがな。
このあたりの川、昔は今みたいにおとなしく流れちゃいなかった。
春になると氷が割れて、川底から「うねり魚」って化け物が上がってきたんだ。
でな、その魚が畑の大根を好んで食うもんだから、村じゃ毎年、大根を川っぷちに並べて供えてたんだと。
供えた大根の本数が足りねえと、夜のうちに家の柱が一本、まるごと無くなっちまうって話だ。
でもある年、欲張りな百姓がいてな、供えもんの大根をわざと少なくして、自分で食おうとした。
そしたら夜中、柱どころか家ごと川ん中に引きずり込まれたらしい。
翌朝、川岸にその百姓の草履と、かじられた大根が一本だけ残ってたそうな。
だからこの村じゃ、今でも大根を川向こうに置く日は、絶対に数をケチっちゃならねえ、って言い伝えがあるんだ。
去年も隣の集落のやつがふざけて大根を半分だけ置いたら、翌日そいつん家の物干し竿が丸ごと消えたんだと。
ほら、やっぱり今でもいるんだよ、うねり魚は。
(追記)
もちろんAIで書いた文です。
非公開で
なんかそれって悲しくない?
はてブの新着に出てこないんよ
一度ブクマされたらもうその増田は鮮度を失ってるみたいになるんだよ
それもなんだか悲しいね
部落差別問題が一時期ネットで話題になってて気になっていたのだが、自分の中で消化しきれてなかったので完全に乗り遅れた。思ったことを忘れないために書き起こした。
いわく、関西以外の地域では部落問題を軽く扱いすぎているのでは、という話だ。
元のポストでは、言語差別・地域差別・職業差別が混在していたので議論がかみ合ってなかったように思う。
私はどちらかというと、うちの地域に部落差別なんてありません!と無邪気に投げつける数々のリプライにかなりギョッとさせられた。
そして体感8割くらいのリプが「部落」という単語に差別的な意識はありませんが?という的外れな内容ばかりでさらに愕然とした。
いやそうじゃねえだろ、と。
元々差別的な意味合いのない単語が差別的に使われる例なんていくらでもある。身体的特徴(つんぼ、かたわ)、地域名・国名(福島、朝鮮)、など言い始めれば枚挙にいとまがない。
構造でとらえるならば、部落差別のことの起こりは、職業で人を差別し、隔離することだ。
そうするとモヤモヤの正体が見えてきたような気がした。
歴史的経緯の話。
「穢多・非人」と呼ばれた人々は関西だけに存在したわけではなく、日本全国に見られた。江戸幕府の作り上げた身分制度から外れ差別された人々である。
関西の問題として認識されることが多いのは、その規模の問題である。近世以前、江戸より先に栄えていた関西地域は人口も多く、また文化の中心地であった。
自然と集落規模が大きくなったことで、明治以降の解放運動の中心地となっていく。
他地域においては規模が小さいゆえに「なかったこと」になった問題が、関西ではそうではなかった、というのが正しいだろう。
うちの地域にはありません、という人間は、はっきりいって不勉強もいいところである。
今回調べて初めて知ったが、特に一部地域においては、差別をなかったことにして解消しようとする動きがあるというのは90年代には指摘があるようだ。
「関西人は差別をする蛮族、自分の地域にはそんな差別ない」という趣旨の、自分で言ってておかしいと思わないのか?と思うようなリプが多く見受けられた。
どうにも関西人は殴ってもいいサンドバッグのように思っているらしい人間が少なからずいるっぽい。地域によって人をラベリングして貶めようとするのは差別以外の何物でもない。
現代の日本、とくに都心部においても、職業差別が無いなんてのも嘘だ。東京に居ればしばしば見かける、「勉強しないとあんな仕事しかできなくなるよ」と子供に声をかける母親、なんていうのはもはや典型的差別主義者だ。
私も作業服で公共の電車に乗ったとき、周りのサラリーマンたちが私を避けるように分散したのがとても印象的だった。綺麗にクリーニングされ、他の作業者に申し訳ないくらい綺麗で、そして良い匂いになってた作業でもこれだ。
普段よれよれの汗臭いスーツで電車に乗ってもこうはならない。大なり小なり他人を見下して生きているのだろう。
いけしゃあしゃあと差別なんてありませんなどよく言えたものだと思うが
かくいう私も恐らく危険を避けるという名目のもとで誰かを見た目で判断して意図的に避けたりしているのだから同じ穴の狢である。
他地域の人間が関西に行った時に、部落という言葉を使うことの是非というのも話題に出てきたが、答えとしては、気にしろという他ないだろう。
気に食わないという人は、アトランタに来てニガー!と叫んでみればいい。その代わり生きて帰れると思わないことだ。
言葉というのは生き物であり、本来の意味がどうであれ、現在の用法やその集団における意味に注意して使わなければ大きな誤解を招く。
日本はともすれば単一民族・単一言語の国家と思われがちだが、少数民族も多く、方言というにはあまりにも異なる複数の言葉が混在する、非常に複雑な社会だ。
共通語での意味がどうであれ、その地域における文脈で異なる意味を持ち、誤解を招く表現であればそれは避けるのが理性的だろう。決して、自分の所属集団では問題ないから!などと押し通すものではない。
間違えてはいけないのは、方言を禁止しようという話ではなく、自分の話す言葉の暴力性を指摘されたら次から気を付けようね、という程度の話なのだと思う。決して難しいことではない。
自分は我慢して標準語を話しているのに、あいつら関西人は自由に方言を話していて気に食わないと主張している人間もいて、さすがにもはや元ポスト関係ねえけどこれも何かの本質だろうと思った。
5匹の猿の実験でググって欲しい。いまだに方言札を首から下げて、意味も分からず方言を叩くルールに従っている人間もいるのだろう。
どれだけ書いても文章の読めない人間はいるが念のために書いておくと、関西が先進的とかいう話をしているのではない。日本全国どこでも発生している問題の一部を取り上げて、いち地域の差別性をことさらに取り上げるのは間違ってるのではないかと言いたい。
そもそも恐らく人間は本質的に差別的な生き物なのだから、そこを否定しても仕方ないと私は思っている。
私は東京周辺の関東地域にしか住んだことがないので関東の人間には申し訳ないがやり玉に挙げさせていただく。又聞きではその他地域においてもいろんな例を聞いている。これは自分自身に対する戒めでもある。
「部落差別は関西特有の問題」というのではなく、人間社会全体に根を下ろす差別意識の一形態にすぎないのだと思う。
身近な例を出すと、派遣社員を区別して休憩室を使わせないようにする正社員、というのも、差別のスタート地点だろう。
自身の差別性と嗜虐性に少し自覚的になり向き合うことで、昨日よりはマシな人間性を得られるのではないかと私は期待している。
愉快な作業ではないが、差別意識をなかったことにして綺麗に見せかける人生よりはよほど有益だろう。
歳を取るにつれ日々考えるのが億劫になる一方なのだが、隣同士ちょっと気を遣う丁寧な生き方を心掛けたいと思ってここに記す。
・・・もしかするとこれもXで見かけたポストの投稿者を見下し言葉で責めその愚かさを指摘してあざ笑いたいというサディズムの発露なのかもしれないが。
昔々、深い山あいに **ヒナ村** と **ツル村** というふたつの集落がありました。
両村のあいだには “めんどり谷” と呼ばれる崖っぷちの細い谷があり、行き来するには遠回りの山道を一日がかりで歩かなければなりません。
ある年、ヒナ村の若い大工 **カケル** はこう考えました。
>> 「遠回りなんて時間のムダだ。村祭りまでに橋を架ければ、往復一時間で済むじゃないか!」 <<
しかし祭りまで残りわずか三日。石の土台を築き、丈夫な梁を組む時間はありません。
そこでカケルは **丸太を並べロープで縛っただけの“仮置きの丸太橋”** を提案しました。
こうして橋は **3日の突貫工事** で完成。祭りは大盛況、ヒナ村とツル村は大喜びでした。
半年後――
渡るたびに村人はヒヤリとしますが、橋を使わないと仕事になりません。
>> 「今さら人手も資材も割けん。次の収穫祭まで“ごまかし補強”でしのげ!」 <<
カケルは仕方なく **針金で締め直し、看板に“2人ずつ渡れ”** と書きました。
修繕コストは日々膨らみ、**“丸太橋に払う利子”** のように村の時間と木材を奪っていきます。
ついに秋の長雨で川が増水し、丸太橋は真夜中に崩落。
翌朝、谷を挟んで立ちすくむ村人たち。物流は止まり、市場も学校も大混乱です。
>> **急ごしらえの便利さは“借金”でした。返済を先送りした分、利子が膨らんだ――これこそ“技術的負債”です。**
>> 今度こそ基礎から石橋を築きましょう。時間も費用もかかりますが、将来の利子はゼロになります。 <<
村人たちは一致団結し、一年かけて **アーチ型の石橋** を完成させました。
以後百年、橋はびくともせず、子や孫の代まで安全な往来を支えました。
たとえ昔話でも、**技術的負債は“物語の外”で私たちが背負うリアルな借金**。
「急ぐ理由」と「後で払う利子」を天秤にかけ、**いつ返済するかを決める目** こそ、現代のソフトウェア職人に求められる力なのです。
この記事はけっこう刺さってしまったなあ。このおじいさん2010年当時95歳か。この世代の戦争体験を生の声で聞ける時代は、もう終ってしまったのだなあ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/2b0b23e248c99cadd393ab67a11a0a5ce4a6662d
「許してくれ、許してくれ」とガマで泣き崩れた 沖縄戦で母子を撃った90代の元日本兵が謝罪
6/19(木) 6:04配信
元兵士の照屋さん(仮名)が住民をあやめてしまったと告白した時に巡った壕。入り口に生える草は光がさす方に背を伸ばしていた=3月6日、沖縄本島(竹花徹朗撮影)
「私は銃の引き金を引いてしまった。今でも何度も夢に見る。苦しくて、苦しくて。このにおいは間違いなくあの親子のいた場所です」
2010年のある日、沖縄本島内のガマで、照屋さん(仮名)は泣き崩れた。90代半ばの元日本兵。言葉にならないような震えた声で「許してくれ、許してくれ」と何度も謝った。
臨床心理士の吉川麻衣子さん(49)=那覇市=が沖縄戦体験者でつくるグループ「語り合いの場」を立ち上げて5年目だった。
参加の意思があるか、ないか。体験者に繰り返し確認するのが吉川さんの手法だ。
事前面談が21回に及んだ照屋さんは、吉川さんにだけ、自身の過去を打ち明けていた。「みんなの前では語らないけれど、場には参加したい」との相談に、吉川さんは「無理しないで、自分のペースとタイミングを大切にしましょう」と伝えた。
体験者は照屋さんを含め9人。グループは月1回、それぞれの戦争体験で関わりのある場所を巡ったり、公民館で集ったりした。
「私は兵士でした」。照屋さんはそう自己紹介した以外、ほとんど口を開かず、表情も変えずに部屋の隅でじっと座っていた。記憶が残る戦地をどう巡るか意見を出し合った時も、「私にはそういった所はないので、みんなに任せます」と仏頂面だった。
それでも、会を重ねるごとに表情は和らいでいった。吉川さんと出会って6年が過ぎた頃、「話がある」と切り出した。「いまさらで申し訳ない。皆さんがいい、って言ってくれたら、あのガマで手を合わせたい」。吉川さんは「ようやく照屋さんのタイミングが来たのだな」と受け止めた。
慰霊の日を終えた後の夏の日だった。照屋さんは仲間たちとあのガマを訪れた。
意を決したように入り口に近寄るが、すぐに立ち止まる。しばらくして再び歩を進めると、また止まった。
そんな動作を何度か繰り返すと、仲間の男性が照屋さんの手を取り、中へ入った。
「間違いない」。照屋さんはそうつぶやくと、ごつごつとした岩場に膝をつき、嗚咽(おえつ)を漏らした。
90代半ばの元日本兵、照屋さん(仮名)は一通り泣いた後、語り出した。
所属部隊のガマが米軍に見つかったこと。住民が避難していたガマを部隊が使うと決めたこと。ガマには住民がぎゅうぎゅう詰めで、上官が「ここは今から我々が使うから、一人残らず出て行け」と命じたこと。痩せ細って泣く赤ん坊を抱いた母親が照屋さんの足にすがり「お願いです。この子だけは生かして」と叫んだこと。そして照屋さんがその親子を銃で撃ったこと-。
告白の後、参加者全員で線香をたいて手を合わせた。メンバーの一人に「話してくれてありがとう」と声をかけられると、今度は声を上げ、子どものように涙を流した。
帰り際「一人では二度とあの場所に近づけないと思っていたが、みんなが背中を押してくれた」と頭を下げた。「戦争の時にしてしまったことは消えないけれど、供養になれば…」と言葉を継いだ。
照屋さんは1915年、沖縄本島中部で生まれた。厳しい父と優しい母に育てられ、かけっこが得意だった。25歳の時、五つ年下の女性と結婚。生まれた娘には豊かな子に育ってほしいという願いを込め、「トミ」と名付けた。
太平洋戦争で東南アジアの戦地に出兵。「家族を守るため自分の命をささげる」との決意だった。戦争が激しくなった44年、沖縄に配属された。日本軍と県は住民の県外疎開を促していた。照屋さんと入れ替わるように妻と子は船に乗った。
45年8月15日、日本の敗戦を伝える玉音放送を収容所で聞いてうなだれた。ようやく戦争が終わったと実感したが、県外に渡った妻子とは連絡が取れなかった。行き先は聞いていなかった。
2人が長崎に疎開し、原爆で命を落としたことを知ったのは数年後のこと。自分が殺してしまった親子への罪悪感と、心の拠(よ)り所だった家族を失い「生きている価値がない」との絶望感から沖縄を離れたが、仕事の関係で間もなく戻らざるを得なくなった。
それでも故郷の集落には足が向かなかった。手元に1枚だけ残った妻と子の写真は肌身離さず持ち歩き、なるべく人と接しないよう、ひっそり暮らした。
戦時の体験を明かすまで65年。照屋さんと対話を重ねてきた臨床心理士の吉川麻衣子さん(49)は「話したからといって、罪悪感を払拭したいという思いがあったわけでも、自分の行為を正当化したかったわけでもないと思う」と胸の内を推察する。
「照屋さんにとってこの場なら大丈夫と安心して、自分で話せるようになるのに、それだけの時間が必要だった。私はただ待って、機が熟したと本人が感じた時にそっと背中を押すという距離感を保ってきた」と振り返った。(戦後80年取材班・吉田伸)
この記事、読んでいて本当につらかった。
なにより衝撃だったのは、泣き叫ぶ子どもだけでなく、その母親まで撃ったということ。あまりに酷すぎて、もし自分が家族だったら、このおじいさんを絶対に許せないと思った。久米島守備隊の住民虐殺事件など、日本軍の行動を思い出しても、本当にひどい。
きっと、当時の兵士にとって、住民は守るべき存在ではなく、戦闘の妨げになる「障害」と見なされていたのだろう。でも、もしそうだとしたら、一体何のために戦っていたのか?普通に考えれば疑問に思うはずだ。だが、その「普通に考える」という倫理観は、命の危機にさらされた極限状態では働かなくなってしまうものなのだろう。
一方で、彼は自分の妻子を県外に避難させようとした。冷静な倫理観を失っていなかったともいえる。しかし、妻子は長崎で原爆により命を落とすという皮肉な結果を迎える。「因果応報」という言葉が浮かぶが、亡くなった家族にとってはあまりに残酷すぎる結末だ。
このおじいさんは1915年生まれ。つまり、戦中派(特攻世代)より一回り上の世代にあたる。戦後80年、この世代の体験談を聞ける機会はもはや残されていない。「普通に考えればわかるはずの倫理」が破綻した時代を生きた世代だ。象徴的な人物としては大岡昇平や奥崎謙三、俳優では池辺良。池辺のエッセイには、部下に恨まれた将校が海に放り込まれたエピソードなどがさらっと描かれており、ユーモアを交えて将校時代の下克上が語られている。奥崎は、部下の処刑をめぐって上官を追及したドキュメンタリーで知られる。
第一に、1910年代以前の生まれの「戦争を指導した大人世代」。上官や責任ある立場で戦争に関与し、戦後は沈黙を保って生き延びた人々。戦場で人間性を喪失し、それでも帰ってきた。
第二に、大正末期から昭和一桁生まれの「特攻・戦中派世代」。三島由紀夫、鶴田浩二、吉田満らが代表で、国のためひとのために尽くし、「美しく死ぬこと」に倫理を見出し、ある種過剰に倫理的だった。岡本喜八の映画作品にみられるこうした倫理へのアンチテーゼもまた戦中派の主題となった。
第三に、終戦時に少年期だった「焼け跡世代」。彼ら子供に目には、戦争から帰って沈黙した親たちの世代と国家報恩を信じて裏切られた兄たちの世代間ギャップがみえていたはずだ。
このうち、戦後に戦争体験を最も語ったのは特攻世代だった。戦前派は血塗られた過去に沈黙を貫き、焼け跡派は語れるほどの戦地体験を持たなかった。
特攻世代の特徴は「死の意味」を内面化しようとしたこと。彼らにとっては、「美しく死ぬ」ことで自分の運命を受け入れるしかなかった。その純粋さが戦後の道徳観につながり、吉田満に代表される感性は現代の保守層に理想視されてもいる。
しかしその倫理観には、自己満足や欺瞞が含まれている可能性もある。過去の自分の非を、倫理的になった「現在の自分」が糾弾するかたちには、どこか自己満足と偽善が入り込んでいる。ご都合主義というやつだ。
そして、その倫理観は被害者に対しても危うい。「恨まれて当然のことをした」という構図を強化してしまいかねない。戦場での行為は謝って済む話ではないことがほとんどだ。怨恨は抽象化され、「慰安婦」や「ホロコースト」のように象徴的な言葉として拡散され、世代を超えて敵意の燃料となっていく。
脚本家・橋田壽賀子も戦中派世代。「おしん」に出てくる夫・竜三は、隣組組長として若者たちを戦場に送り出した責任をとって自決する。そこには戦中派の「死によってけじめをつける」という倫理観が濃く反映されている。
死によって責任を取るという倫理のあり方は、戦争中は自分も戦意を煽っておきながら戦後になると民主主義的な道徳を語り始めた知識人の自己批判にも似て、実は同根なのかもしれない。終戦直後、小林秀雄は「近代の超克」を自省する知識人たちを相手に、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と言い放った。
知識人たちのある種の自己嫌悪に対する小林の態度は考えさせられる。
岸田秀は「ものぐさ精神分析」のなかで、酒を飲んでやらかしてしまった失態を例に挙げ、なぜ反省しているのに何度も同じことを繰り返すのか、そもそも「自己嫌悪」とは何かを分析した。倫理的に覚醒した自分がコントロールを失って暴れた自分を自省し、本来の自分は倫理的で、酔って暴れた自分は本来の自分ではなかったという卑怯なポジショニングのもとで成り立っているからだと喝破した。
現代のSNS社会では、こうした加害者の欺瞞的な贖罪を被害者がつけ込む形で、この構造がさらに先鋭化する。加害者には「反省し続ける姿勢」が求められ、被害者には「傷ついたままであること」が期待されてしまう。
ときに「病みアピ」とも呼ばれる行動は、関心を集めるための戦略になりがちだ。弱ったときは周囲が心配してくれ、攻撃されれば誰かが擁護してくれる──そんな「おいしい被害者」のポジションに依存してしまい、自分でも気づかぬうちに抜け出せなくなってしまう。
でも本当に必要なのは、「赦し」なのだと思う。贖罪は再生のきっかけにすぎない。
この記事に描かれた世代は、「死を美化する」戦中派とは違い、倫理的な生き方などできなかった。理不尽で泥臭い体験を抱え、時にはそれを笑いに変えてでも、ぶざまに生きてきた人たちだ。過去の行為を忘れたい、でも忘れられない──その葛藤とともに、不器用に、ぶざまに、しかし確かに生きてきた。
この世代の葛藤を描いだ作品に、山田洋次原作『少年寅次郎』(脚本・岡田惠和)がある。戦地から戻った父が罪悪感から娘の顔を直視できなくなる場面がある。彼は中国戦線で同じ年ごろの子どもを殺していたからだ。その罪の重みと、生きていかなければならない現実とのあいだで沈黙する姿が描かれる。魂が抜けたように無口な毎日を過ごす夫に対して、いつものちゃらんぽらんな性格にもどってほしい、とつぶやく妻のセリフは印象的だ。ひとたび戦場で倫理が破綻してしまった人間に対するまなざしとはそういうものだったのだろう。
これに対して戦中派の苦悩を描いだ作品として、山田太一のドラマ『男たちの旅路』も思い出す。特攻の記憶を引きずる鶴田浩二と、彼に恋する部下を演じた桃井かおり、上司役の池辺良の三者が見せたのは、世代間の倫理観の激突だった。上司役の池辺良が放った「筋を通すな」という一言は、戦中派の倫理観に対する戦前派からの強烈なカウンターだった。山田太一の、戦前派と戦中派の葛藤に対する繊細なまなざしがここに凝縮されている。
記事のおじいさんはまさに沈黙してきた世代だ。生きるために沖縄に戻らざるを得なかったこと、その土地で暮らしたこと、そして65年の沈黙。たった一度の涙より、その沈黙の重さにこそリアリティがある。
「贖罪でも正当化でもない」と吉川さんは言った。語らなかった時間のほうが、語られた言葉よりも重いのだと思う。
私たちは「贖罪の涙」や「被害者のトラウマ」ばかりに注目しがちだが、本当に大事なのは、「赦し」へ向かうゆっくりとしたプロセスだ。
「話してくれてありがとう」と言ってくれるグループの存在。「自分のペースとタイミング」で見守る吉川さんのような人の存在。そのほうがよほど重い。
被害者の側も、いつまでも「被害者であり続ける」ことはできない。
辺見庸の『もの食う人々』では、フィリピンの住民が「日本兵に家族をブタの丸焼きのように食べられた。でももう恨んでいない」と淡々と語った。その表情に、辺見は「悲しんでいる余裕もなく生きてきた強さ」を見たという。
人生って、つらい経験ほど上書き保存、楽しい記憶は名前をつけて保存──本来そうあるべきなのに、振り返ると逆になっていることが多い。
贖罪より、赦しの方がずっと尊く、強い。
人間、図太く生きていたいものだ。戦前派の多くはそうして沈黙を貫いてきた。自分もそうありたいし、あのおじいさんも赦されてほしい。
65年経って懺悔されても──という思いもあるが、戦争が人間性を狂わせるということは、後世の私たちが覚えておけばいい。
山田太一で思い出した「太一」つながりで、昨日は国分太一の番組降板が話題になっていた。あれがどんな問題だったかは知らないが、この記事のおじいさんのことを思えば、本当に取るに足らない騒ぎに思えてしまう。
もちろん、軽々しく比較するべきではないけれど、それでも、そう感じてしまう自分がいる。