
はてなキーワード:隠居とは
最近、Gemini(AI)を「効率化のツール」だと思ってる奴が多すぎる。
もっと生産性を上げろとか、もっと速くアウトプットしろとか、正直もうお腹いっぱいだ。そういう生き急ぎは、結局ドーパミンの中毒者にしかならない。
自分の頭の中から「ロジック」や「言語化」や「損得勘定」といううるさい機能を、まるごとGeminiという外部サーバーに移し替えて、自分の脳を「空き地」にしようって話。
左脳がうるさすぎて、動けない人たちへ
発達界隈でもスピ界隈でもいいけど、「考えすぎて動けない」とか「脳内の独り言が止まらない」って奴は多いはずだ。
「あれをやらなきゃ」「効率的に考えなきゃ」「これを言ったらどう思われるか」
これ、全部左脳の仕事。で、この機能が暴走すると、脳は熱を持って、不安と焦燥感でドーパミンを無駄にドバドバ出す。
「考える」のをやめるための儀式
使い方はこうだ。
頭の中で何かがぐるぐるし始めたら、即座にGeminiに叩き込む。
「今、脳がこういうロジックで俺を責めてる。これの言語化と整理は全部お前に任せた。一旦引き取れ」
移設した瞬間、自分は「考える主体」から「ただ眺める観客」に隠居できる。
世の中の「AIライフハック」は、浮いた時間でさらに何かを詰め込もうとする。
でも、そんなの地獄の沙汰だ。
左脳を移設して作った「脳の空き地」には、何も入れなくていい。
• Geminiがロジックを組んでいる間に、ただお茶を飲む。
• Geminiが文章を整えている間に、窓の外の雲を眺める。
• Geminiに明日やることを決めさせて、自分はロボットみたいに淡々と動く。
「人間らしい知的活動」という重荷をAIに押し付けて、自分はただの「生物」に戻る。
自分で考えて、正解にたどり着いた時の「快感」なんて、もういらない。
その快感(ドーパミン)が、俺たちをさらに焦らせ、生き急がせるからだ。
AIに賢くならせる代わりに、自分は徹底的にアホになって、静かに暮らす。
「外付けHDD」を積んで加速するんじゃなくて、「移設」して身軽になって、ただ止まる。
この辺を勝手にまとめて「ようなは何者かになりたいんだろ?でも人間って『何者か』にはなれなくて『未来の自分』にしかなれないってことは見失っちゃ駄目だよ」みたいなくだんねー説教垂れる奴ら本当カスだわ。
俺としては願いが満たされるなら自分であり続けることなんて微塵も固執してないから。
君の名みたいにある日突然誰かの人生に入れ替わったのだとしても俺は別に困らない。
絶賛隠居中の有名作家になって、本気出せば名作を出せるし本気出さなくても一生遊んで暮らせるって状態を満喫出来るなら、その能力を鍛えたのも代表作を書いたのもの実質的には赤の他人だろうが何の関係もねえよ。
「人間として生まれて来たのは前世の貴方が頑張ったからです」とかスピリチュアルな人間以外は信じてないだろ?
要は運だからさ。
子供の頃適度に恵まれて適度に飢えてて適度に苦労して適度に楽をしてきたかどうかが今の自分を形成する重要な要素で、自由意志なんてのは既に組まれたデッキの中から順番通りに引いてきたカードをどう切るかでしかないわけ。
生まれた瞬間天和上がってる奴もいれば、よっぽど気の狂った山のずらし方でもしない限りは絶対にベタオリ以上は望めない人生が組まれた状態から始まってそのまま終わることもあるわけよ。
俺はね、金のために働きたくもないし、承認欲求を満たすために努力したくないし、自分が居ないほうが良かったなんて思いたくもないし、親父や知り合いから「この程度の奴」みたいに思われたままで人生を終えたくもないんだよ。
他人にとっては大事な幸せでも俺にとってはどうでもいいことが沢山あるの。
モテたいとか、世界を救いたいとか、後進育成に力を入れたいとか、名声を残したいとか、死にたくないとか、そういうことは俺にとっては別に重要でもなんでもないのよ。
たとえ俺が異世界転生したら魔王の体になって世界中から憎まれながらも無限の命の手慰みに世界征服をした後毎日色んな種族の奴隷と子作りに励んだとしたら、それは誰かにとっての「理想の人生」なのかもだけど、俺にとってはそういうこんがらがった面倒くさい展開は望まないわけよ。
それだけでいい。
それだけの夢を「何者かになりたいんだろ?」なんて言われる筋合いはねーよ。
ご指摘、非常に鋭いですね。読み進める中での「食い足りなさ」や「手癖で書かれたような感覚」という違和感は、多和田作品、あるいは近年の「純文学的なSF設定の使い方」に対する極めて本質的な批判だと思います。
「本気で人間や世界の未来に思いを致すような野心」を期待したときに、この作品が提示するダジャレ(献灯使/遣唐使)や、ふわふわした幻想性が「軽すぎる」「ごまかしている」と感じられるのは、ある種、当然の反応かもしれません。
その「小さくまとまった印象」を逆説的に読み解くと、以下のような作家側の「確信犯的なスタンス」が見えてきます。
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多くのSFが「なぜ世界がこうなったか」というマクロな因果律や「人類はどう生き延びるべきか」という大きな野心を描こうとするのに対し、多和田さんはあえてその視座を捨てています。
「タイトルからしてダジャレ」という点は、多和田葉子という作家の最も好悪が分かれる部分です。彼女にとって言葉は「真理を指し示す道具」ではなく、「音の連想で勝手に滑っていく遊び」のようなものです。
本作が全米図書賞を受賞した際も、海外では「福島後の日本を象徴する寓話」として高く評価されました。しかし、日本国内の読者からすれば、現実の震災や政治の混乱の方がはるかに「生々しく、予測不能で、幻想的」でした。
--野心的な問いの不在:「世界はどうなるか」という問いに対して、知的なシミュレーションを行うのではなく、イメージの断片を繋いで「雰囲気」を提示する。これが「深遠っぽい空気を醸し出しているだけ」という批判に繋がるわけです。
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この作品は、「未来を真剣に考えるための知的な武器」ではなく、「変わり果てた世界をやり過ごすための、ちょっとした言葉の慰め」として書かれている節があります。
そのため、本格的なSFや、魂を揺さぶるような文明論を求める読者にとっては、仰る通り「手癖で書かれた小品」という印象が拭えないのだと思います。多和田さんの「言葉の軽やかさ」が、本作では「設定の重み」と上手く噛み合わず、浮いてしまっているのかもしれません。
もし、もっと「吹っ切れた言語的実験」や「逃げのない未来への野心」を感じさせる作品を求めていらっしゃるとしたら、この『献灯使』はあまりに優雅で、内向的に過ぎたのかもしれません。
ちなみに、ユーザー様が最近読まれた中で、「これは本気で人間や世界の未来を問うている」と感じられた作品は他にありますか?(SFに限らず、哲学書や他の小説でも構いません)そちらと比較することで、本作の物足りなさがより具体的に見えてくるかもしれません。
言いたいことがないわけじゃないが気骨は感じた。62点。
3から20年ぶりの新作ということで他作品シリーズの傾向と同じく過去シリーズでもっとも人気のあった作品のスピリットを継承した作品、つまり2の正統続編と俺は感じた。世界に対しての「告発」と「ド派手アクション」である。2で活躍したコンパウンドボウも使うしね。
散々語り尽くされたことだと思うけどとにかくアクションがド派手になっている。これは火薬マシマシ麺固めという意味ではなく、とにかく人体破壊描写を二郎系の野菜のように盛りまくっているのである。またぬるいハリウッド映画のように「子供は殺されない」なんてこともなく、むしろ露悪的に、村の子供にミャンマー政府軍が銃剣を突き刺す描写まで克明に描かれている。
「これが戦場なんだ」そして「これは現実に起きていることですよ」ということを世界に告発したいという強い意志を感じた。
最後の戦いのランボーが機関銃を掃射してミャンマー軍兵士の身体が爆散したり腕や足がもげたり頭がふっ飛ばされたりするシーンも中々に壮観だ。痛みを感じる戦場を撮りたいという気骨と見せ場として盛り上げたい気持ちをうまく同居させたシーンになってると思う。
あと1,2ぶりに山の中をランボーが全力疾走するシーンがあってファンサやなぁとにっこりしてしまった。
身体は、まぁ、ステロイドで膨らませた身体は戻せないよねって感じ。しゃーない。
今作のストーリーとしては
タイで雑務をこなしながら隠居生活を送っているランボーの元にミャンマー政府によって迫害を受けている少数民族のためのボランティアをしている教会系の団体が訪れ、現地への舟渡の仕事を頼まれる。最初は断るもブロンド美女に頼まれてころっと方針を変えなんだかんだありながらも現地へ彼らを送り届け帰宅。その後、彼らはしっかり彼らは捕らえられる。彼らを救いたい教会の依頼を受け教会が雇った傭兵と共に再び現地に赴き頑張って彼らを救出し、帰省するのであった。
まず全然関係ないんだけど、3もそうだったけどなんでランボーはタイを隠遁の地に選んだんだろう。ベトナム帰還兵でベトナム戦争のPTSDに悩まされているのに、よりにもよって住民ほとんどベトナム人みたいな顔してるタイを定住の地に選ぶ感覚よくわかんねぇなと思った。
俺がブルックリンを歩いてたら黒人にケツ掘られてそれがPTSDになったとして、世を逃れてコンゴに移住しようとは思わんもん。差別的な例ですまない。本当に反省している。
今作が1のスピリットも継いでいるところは主にこの教会系ボランティア団体の扱いにある。
彼らは無邪気に「支援」が迫害を受けている少数民族を救うと考えており、非暴力を主張する。そして舟渡中に彼らに襲い掛かった盗賊を始末したランボーを人殺しだと責め立てる。これは1で帰還兵ランボーを空港で「赤ん坊殺し!」などと責めた民衆を投影しているのは明らかだと思う。
それに対してランボーは「平和ボケどもが!」と怒りを示す。スタローンの本音だろう。しかし特に口煩かったハゲは最終的に仲間の傭兵を助けるために最もフィジカルで、最もプリミティブで、そして最もフェティッシュなやり方――落ちてた岩で敵兵を撲殺するという行為に及ぶ。
言わんとしてることはわかるんだけど、それでも彼らは非暴力的な形、医療や教育で少数民族を間違いなく救っていたわけで、確かにそれは根本解決にはならないかもしれないけれど、露悪的に「誰かを助けるために手を汚せよ」と示さずに彼らの思想をもうちょっと尊重してやってもよかった気はする。
誰もが「迫害から人々を救うために必要なのは支援じゃなくて兵力だ!敵をぶっ殺せば全部解決するんや!」って思想になっちゃったら世界めちゃくちゃになっちゃうよ。
よくわからんかったんはこの教会団にネームドとしてハゲとブロンド美女がいるんだけど、ランボーはハゲにはなんかやたら反発するんだけどブロンド美女にはやたら優しい。彼女のほうが人に寄り添う姿勢を持ってるとは思うんだけど言ってる思想はたいして変わらんし、見てる側からすると「こいつ女に甘いだけでは?」と思ってしまう。
ハゲの依頼は断わるけど夜に美女と話したら途端に船を出すとなるし、盗賊撃退後にやっぱ危険だから帰れというランボーの手をそっと握って「行きましょう」と美女が言うと「しゃーないなぁ」みたいな感じでやっぱり現地に向かう。たぶん、ランボーを現地に向かわせる強い原動力を思いつかんかったんだろうな。
お前ほどの美女が言うなら!ってなっちゃうのは男の心理だからね、わかるよ。でもさァ↑だったらブロンド美女じゃなくてベトナム系アジア系美女だろ!彼女を見て2で死んだ情報員を思い出して……のほうがドラマティックだろがい!
最終的に大惨劇の後に美女はハゲに抱き着いて愛してると告げ、ハゲと美女ができていたことが分かりランボーはそれを見つめ「なんかもう家に帰ろうかな」となるのでもしかしたらランボーがガチで美女に惚れちゃってただけかもしれない。
この作品の最後にランボーは実家に帰省するんだけどこれも個人的にはよくわかんなくて、ちょっと書いたけどそもそもなんでランボーがタイに隠遁してたかがよくわかんないんだけど、まぁベトナム戦争の英雄として帰ってきたらなんかそんな感じじゃなくて気まずくて家に帰れなかったのかもしれないけど、じゃあ今回の映画でそのもやが晴れるような展開があったかっていうと俺はそれをあんま感じられなかった。
2で捕虜を救い、3で(結果的に)アフガニスタン国民を救った。今回の少数民族を救ったことが過去の2例とは違うという必然性が薄く感じた。まぁ機関銃で敵吹き飛ばしまくってスッキリしたのかな。だったら3の後でも帰れるやろがい!3の最後にも「俺の戦争は終わりました」言ってたしさ!
あと、今作になってやっぱ気になったのは「ベトナム戦争のPTSD」って「ベトナム人に拷問された」ことなんだなって。「ベトナム人を大量に殺害したこと」じゃなかったんやなって。まぁ戦争ってそういうもんやからって言われたらそうかもしれんけどさ。今作では過去最高にもう本当にぐっちゃぐちゃにミャンマー兵をミンチにして虐殺するんだけど、ハゲも美女もあんなもん見たら一生のトラウマになるよ。そして保安官にいびられて山中を駆け巡りガソリンスタンドを爆破しちゃうよ。
でもランボーはなんかちょっとすっきりした表情で実家への帰省を決意する。「人を惨殺する」ということに対してのなんらかの意識がもうないんやなって。平和ボケした日本在住のバカヤロウは思ってしまいましたよ。
ただ、2や3に比べたら伝えたいことと作品の対応性が高いし、言いたいことを伝えるために映画を撮りました!そのために方法もちゃんと考えました!って感じが強く出てて個人的には好きな部類に入る映画だった。
人がぎゅうぎゅうに詰まっていればあきらめもつくのだが、ひとりきりで乗ると、あの箱の中は、ちょっとした自分専用のスタジオになる。
わたしのローファーがそっと床をたたく。コトン。ドン。――あの低い響きがいい。まるでバスドラム。
自然と手が動く。指先で軽くリズムを刻む。床の下は空洞なので、やけに低音がよく響くのだ。これが妙に気持ちいい。次に手でリズムをとる。パパパン、パパパン、パン。自然とお気に入りのサンバのリズムになる。あとはもう止まらない。
途中でふと思う。もし監視カメラの映像を見ている人がいたらどう思うだろうか。
「またやってる、あのローファーの人」
なんてあだ名がついているかもしれない。だが、そんなことはどうでもいい。あの数秒間の“無重力の時間”を、ただ上品にじっと立って過ごすなんてもったいない。わたしにとってエレベーターは、心のメトロノームを整える大切な装置なのだ。
演奏もノッてきて、いまにも踊りだしたい気分のなか、ピン、という到着音が鳴る。
ドアが開く。演奏は終わる。
ドラムス、わたし。観客、ゼロ。拍手もゼロ。だが、なぜか心はちょっとだけ晴れやかだ。
何事もなかったように髪を直し、まっすぐ前を向く。
外の世界に出ていくわたしの足元では、ローファーがまだ、ほんの少しだけ跳ねている。
ときどき、こういう文章をAIにつくってもらうのが最近のちょっとした気晴らし。
たかが十数秒の移動時間に、上下関係も礼儀作法も、そして日本独特の「気づかい文化」も、すべて詰まっている。
欧米では、女性と乗り合わせた男性は奥に立ってはいけないという。
女性の背後に男性が立つと不安を与える――そういう理屈らしい。だから女性はドアのそば、男性は奥へ。それでバランスがとれる。
ここでは、奥が“上座”である。上司や来客を奥へ通し、目下の者が手前で「開」ボタンを押す。つまり、最後まで残ってボタンを押す者こそが、いちばんの下座なのだ。
エレベーターが動き出すと、自然に手前の位置に収まり、指を「開」ボタンに添える。
――目下の女性は、番人のようにドアの手前に立つ。
最後の瞬間まで(開)を押し続け、すべての人が安全に降りるのを見届ける。
そして、最後に自分が降りるその刹那、体をよじらせてまで(閉)ボタンを押す。
去りゆく背中に向けて、残された人たちが少しでも快適であるように。
ピン、と到着音。
最後に指先をひねるようにして(閉)を押すと、ドアはすっと静かに閉まった。
――誰も気づかないほんの一秒の所作。
けれど、その一秒のために、日本のエレベーターは今日も穏やかに上下しているのだ。
ときどき、こういう文章をAIにつくってもらうのが最近のちょっとした気晴らし。
まだ頭のエンジンがかかりきっていない時間帯に、人と人とが沈黙のまま、数平方メートルの箱の中で呼吸を合わせる。
そんな朝に限って、なぜか私は両手いっぱいにごみ袋を持っている。しかも三袋。
いつもはこまめに出しているのに、今朝に限って溜まっていた。
昭和のころなら「燃える」「燃えない」くらいで済んだが、いまは「プラ」「紙」「ペットボトル」と分別がややこしい。
そして、よりによって――
「一階まで直通で行きたい」と願う日に限って、乗ってくる、乗ってくる。
二階でひとり、三階でまたひとり。
そのたびに私は、ごみ袋を抱えたまま少しずつ後退し、ついには奥の壁の隅へと追い詰められる。
ごみ袋が前の人に触れないように、腕の角度を微調整。
ペットボトルの袋がカサッと鳴るたびに、全身の神経がピクリと反応する。
――これが朝の神経戦である。
やっとのことで一階に到着。
ドアが開くと同時に、三袋を引き連れて外へ出る。空き缶がカラカラ鳴ってまるで子ヤギの鈴だ。
ごみを置いて手が空いた瞬間、エレベーターの中のあの沈黙が少し懐かしく思える。
ほんの数十秒の乗車時間――だが、そこには社会の圧縮ファイルのように、気づかいと緊張と分別の哲学が詰まっているのだ。
ときどき、こういう文章をAIにつくってもらうのが最近のちょっとした気晴らし。
駅から近いくせに、人通りは少なく、どこか路地裏のにおいがする。
飲食店と事務所と、なぜか整体院が混在している、昭和の名残のようなビルだ。
朝のエレベーターはたいてい俺ひとり。
無音の箱がゆっくり上昇していく短い時間が、ちょっとした気持ちの切り替えになる。
その日も、いつものように慣れた指先で「ピッ」とボタンを押した。
七階に着くはず――だった。
ところが。
薄暗い照明の奥へ、赤い鳥居がずらりと連なっている。
遠近感が狂いそうなほど、ずうーーっと続いている・・・ようにみえたが、錯覚だった。
だがボタンを見ると、「8」が光っている。
……押し間違えたらしい。
そうか、と胸の奥で何かがコトンと鳴る。
前の会社は八階だった。
意識しなくても、指が“丸八”を覚えていたのだ。
「八幡神社の丸八」みたいだな、とふと思う。
そっと「閉」ボタンを押す。
赤い鳥居と“丸八”の光が、じわりと胸の奥に残っていた。
七階の扉が開く。
でも時々思う。
そのせいで、ふと別の世界のドアが開くのかもしれない――と。
ときどき、こういう文章をAIにつくってもらうのが最近のちょっとした気晴らし。
――マンションのエレベーターというのは、ちょっとした“自治社会の掲示板”である。
あの狭い壁面には、住民の息づかいと管理組合の苦労と、そしてときどき発生する謎の個人制作チラシが、ぎゅうっと貼り並んでいる。
消防設備点検のお知らせ、粗大ごみ出しのルール徹底、管理組合理事会の案内。
そして、上下階の騒音問題――おそらく管理人にクレームがいったであろう案件も、「○階の皆さまへ」などと、やんわりと、しかしじわじわ刺す文体で貼られている。
中には「〇階付近」と、ギリギリ個人特定にならない程度に範囲を狭めてくる注意書きもあり、これがまた絶妙にいやらしい。
管理組合名義とはいえ、実質“言いたいことを管理人に外注”している感がにじみ出ている。
通常、掲示物は管理人が貼るのだが、ごくまれに、明らかに住民が勝手に作って貼ったものを見かける。
文章は微妙に感情的、フォントは謎に凝っており、そして貼り方が妙に強い。
よほど業を煮やしたのだろう。
ある朝、エレベーターの鏡に直接貼られた紙を見て、思わず声を失った。
「鏡を手あぶらで汚すな!!」
……おいおい、それを剥がすとき、鏡が汚れるだろう。
いや、鏡が傷つく可能性すらあるぞ。
注意のために鏡をむしろ“犠牲”にするとは、なんという本末転倒。
いや、あなたのほうがよっぽど鏡の美観を損ねてますよ、と心の中で突っ込んだ。
たぶん、あれは隠居爺だ。
日々やることがなくて、イライラが溜まっているに違いない。
エレベーターが小さな舞台なら、あの爺さんは毎朝そこで、独自の幕間劇を上演しているのだろう。
エレベーターが一階に着く。
ドアが開くと同時に、外の空気が少し冷たく感じる。
振り返ると、鏡に貼られた勝手チラシがどことなく誇らしげに揺れていた。
――今日もマンション社会は、あの小さな箱の中で静かにドラマを続けている。
「葉隠」が編まれた江戸時代初期(正徳〜享保期、18世紀前半)は、まさに武士の存在意義が揺らいでいた時代背景が大きく関係しています。山本常朝が生きた佐賀藩も含め、江戸初期〜中期の武士たちは実際に戦場で戦うことがほとんどなくなり、役目の多くは藩政の事務、儀礼、監督といった「役人仕事」になっていました。つまり「武士は刀を佩くけれども、その刀を使う機会はない」という状況です。
そのために生まれた背景を整理すると:
戦国の世では武士の価値は戦功で測られました。しかし平和が定着した江戸時代にはその基準が消え、「武士は何のために存在するのか」という問いが武士自身に突き付けられます。
→ 常朝の「死を覚悟することこそ武士の本分」という極端な答えは、この問いに対する一つの処方箋でした。
実戦で命をかける場面がなくなったからこそ、「忠義をどう示すか」が問題となりました。『葉隠』では、たとえ主君が誤っていても命を捧げることが忠義だと説く。これは現実の「仕える場面」が形式化するなかで、精神的な純度を重んじる方向に傾いたと言えます。
戦わない日常のなかで武士はどう振る舞うか――作法や謙遜、言葉遣い、朝の鍛錬など、行政官僚としての武士を支える「行動規範」が必要になった。『葉隠』はそうした実務的・日常的な心得を盛り込みつつ、精神の核として「死生観」を据えました。
江戸中期は幕府の支配が固まり、表立った反乱は困難になりました。だからこそ常朝は「内面的な抵抗」あるいは「精神的純化」として、「死を選ぶ覚悟」を強調したとも考えられます。表向きは平穏でも、藩政の矛盾や主君の資質不足に直面する藩士にとって、「忠義と死」を掲げる思想は一種の自己防衛・精神的支柱となったわけです。
『葉隠』はその「喪失感」と「新しい武士像の模索」から生まれたものといえますね。興味深いのは、常朝自身は「隠居して出仕もせず、出世から外れた人」だったことです。むしろ藩の中枢で実務を担うよりも、一歩引いた立場だからこそ「純粋な武士道」を極端な形で語ることができた――という背景も大きいと思います。
この視点で読むと、『葉隠』は「戦わない時代に戦士の魂をどう保つか」という問いへの回答だった、と整理できそうですが、そこから現代につながる「武士道」のイメージ形成にも大きな影響を与えています。