
はてなキーワード:開放的とは
日本って「友達以上恋人未満」の概念が無いけど、海外には結構あるんだよね
| 文化圏 | 中間関係の名称/位置付け | 備考 |
| 🇺🇸アメリカ | Dating(デート中)/Seeingsomeone | 「交際準備段階」。複数人と同時にデート可。恋人ではない。排他性はまだない。 |
| 🇫🇷フランス | Flirt/Relation amoureuse naissante | 恋が始まりつつある関係。身体的接触もあるが、関係確定前。 |
| 🇧🇷ブラジル | Ficar | キス・一夜などを含む軽い関係。恋人前提ではない。社会的にも普通。 |
| 🇸🇪スウェーデン | Dejta | デート段階。性的関係もありうる。交際宣言は不要。 |
| 🇰🇷韓国 | 썸 (Some) | 「友達以上恋人未満」を公式用語として定義。LINE・デート・手を繋ぐが、交際確定前。 |
| 🇩🇪ドイツ | Kennenlernen(知り合い期間) | 「互いを知る段階」。恋人前提ではない。複数人並行もあり。 |
| 🇮🇳インド | Courtship(見合い期間) | 家族承認の前段階。恋愛ではないが将来性を見極める期間。 |
すべての国ではないが、思ったより多くの国でこの関係は「複数人可」で「性行為あり」だったりする
日本はグレーゾーンが概念として無いから、そりゃ消極的にもなる
なんか、自覚ないかもしれないけど、日本って世界的には厳格な方なんだよね
↑
│ 🇮🇳🇸🇦イスラム圏
│ 🇨🇳🇰🇷東アジア
│
│
│ 🇫🇷🇩🇪ヨーロッパ
↓
現代日本人が得てる創作やら常識って、実はアメリカ由来で、歴史的にはアジア由来なんだけど
世界的に統計取ったら実はそれ以外の国では割と寛容っていう(イスラムやアフリカの一部除く)
例えば不倫にしても、アメリカや日本では政治家が失脚するようなネタだけど、ヨーロッパやラテンアメリカではそうじゃないんだよね
思ったより我々は狭い価値観の中で生きているのかもしれない
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結局そういう機会が多いから、相対的に絶対数も増えるって話だよね、逆も然りで日本は厳格だからレイプ(不同意)の機会も減り犯罪数も減る
そしてポルノは少ない
これは鶏が先か卵が先かだけど
「ぶっちゃけ日本のIT技術者のレベルが元々低いだけ」論、読んだけど、雑に日本叩き→雑に海外持ち上げの“気持ちよさ”に全振りしてて、論としては穴だらけだよ。順に潰す。
“発明”って規格?論文?OSS?製品?この区別を曖昧にして「思い浮かばない=ない」をやるのは主観の事実化。
反例を淡々と置く(全部2010年代以降の「世界で通る」技術・成果):
HTTP/3 / QUIC系仕様・QPACKの主要貢献者のひとりは日本人エンジニア(例:Kazuho Oku)。IETFのRFCはまさに“世界標準”。「世界で通用」どころか世界の土台。
Chainer / CuPy(Preferred Networks)は動的計算グラフ系フレームワークの先行例。PyTorch隆盛の流れに技術的影響を与えた。CuPyはいまも広く使われてる。
ソニーのCMOSイメージセンサは世界シェア筆頭。これは“ハード”に見えて、設計・製造・信号処理・ツール群までソフトの塊。スマホのカメラ品質=AI前処理の土台。
日本人が中心メンテに関与した高性能HTTPサーバ(H2O等)はCDNや低レイテンシ配信に採用例多数。
産業用ロボット(FANUC、安川)周辺の制御・通信・ツールチェーンは世界の現場で常用。表に出にくいB2B領域は“見えないだけ”。
「LINEが~」みたいなB2Cの派手さだけが“発明”じゃない。基盤を握るのは地味仕事。あなたが気づかない=存在しない、ではない。
Winny/一太郎/CD-ROM/MIDIを“国民的知名度”で持ち上げて、以後は「思い浮かばない」って、知名度=技術力の誤用。
2000年代以降、ITは不可視化(クラウド、プロトコル、ライブラリ、半導体、サプライチェーン)へシフト。見えないところほど難しくなった。派手なガジェットが減ったからレベル低下、ではない。
問題領域で言語は変える。Webは「5歳児でも」動かせる?今のWebは、
CD/CI、IaC、K8s、SRE、ゼロトラスト、分散トレーシング、暗号化、フロントの再レンダリング戦略……
これらを運用で落とさないのが本番。Cが偉い/Webが軽い、は90年代の教養で止まってる。
起業に国の試験?それ、フィルタにはなるけどイノベーションの十分条件じゃない。
トップダウンは国家プロジェクトやインフラ敷設には強い。しかし、
分野で強弱は揺れる。制度の一軸で「勝ち負け」を断ずるのは幼い。
それ、犯罪としてのサイバー強盗の話でしょ。規制準拠の金融基盤と国ぐるみのハッキングを同じ土俵で比べるのは、
「百メートル走で銃使えば最速」って言ってるのと同じ。比較の土俵設定から破綻。
日本のITが伸び悩んだ要因は複合要因:内需の構造、調達・多重下請け、英語コミュニケーション、ストック報酬の弱さ、エクイティ文化、大学と産業の距離、IPO市場の質、人口動態、為替…
これを全部「技術者のレベル低い」で片付けると、説明力を失う。制度と資本設計の問題は制度と資本で解くのが筋。
「勝ってる」を“B2Cでバズるアプリ”だけに限定するから見落とす。
最後に一個だけ。
知り合いからVIPパスを頂いたので、急遽行くことになりました。
通常のチケットでは10月13日の閉幕までの土日は入場規制が掛かり、入場が出来ない状況だったのですが、VIPパスのお陰で入場出来て助かりました。
VIPパス優先ゲートから並ばずに入場出来たのでストレスフリーで本当に良かったです。
ルイヴィトン、ディオールの演出、フランス企業の樹齢1,000年のオリーブの木等、見ごたえ十分に楽しみました。
他のパビリオンも観たかったのですが、待ち時間が2時間以上だったので断念しました。
大屋根リングに上がると、海風が気持ち良くパビリオン全体が見渡せて開放的で気持ち良かったです。
陽が落ちると、大屋根リング全周がライトアップされ幻想的でした。
もちろん、キャラクターのミャクミャクのぬいぐるみも購入しました。
良い思い出になりました。
細川徳生
消費する人の数だけ嗜好も指向もあって主体はする側にあるのに何でその被害性を対象のキャラ造形や描写で定義するのかどう理屈が通ってるのかわからない
それって性的興奮の責任を被害側に見出す蔑視的な視点での痴漢自衛論みたいなのと変わらないし本来は消費する側の主観的で自己完結的でしかないはずの行為に搾取としての能動的加害性を指摘するのは消費される対象への支配的強制力を併せて認めるものだしそれって言わば性的消費のエンパワーメントだし被害性を論うための相対的根拠として効果狙って用いられてるの普通に意味わかんないなって思う
男性の裸体表現が女性に向けた消費物であったとしてもある種のナルシシズムで受け取られるように本来公平には性的魅力は本人の自己愛の発露、生物的造形美としての意味性があって然るべきなのに消費被害の論において女性のそれは問答無用で男性のための性的消費物として扱われてるの本質的な女性差別蔑視的価値観の喧伝刷り込みでしかないからやめて欲しいなとも思う
所謂ノイズもそうやって消費する人達の好き"そうな"描写表現自体を加害性パッケージで定義したものであくまで被害を叫ぶ側のバイアスかかった漠然とした基準でしかないし
胸の揺れや女性的曲線美、クネクネしてるとかそれ自体は結局女性性を示す一表現もしくは性的魅力を伴うもの以上でも以下でもないのにそうやって「ノイズ」の定義に恣意的な個人のハードルでブチ込んで加害性をタグ付マーキングして流れ作業的にジャッジしてるのが最近の「フェミニズム」の傾向で、踝出してたら性的って時代から今変化してるみたいに性的忌避性はそのまま性的定義に繋がってて性的定義からの解放は対象の忌避性を意識させないまで日常化する事でしか得られないのに今やってる事と言えば真逆で女性の社会における性的受容性の観念的制限増と実を伴わない嫌悪感の生産なの地獄だなと思う
是非は別としても媒体によるターゲット層の違いなんかでゾーニングとしての表現変更はマーケティングとして真っ当だけど性的消費でノイズだから、は主観と客観区別つかなくなってるんだろうなって
消費物として用意された女性の描写が加害性を伴うって論についてもそれは元来のフェミニズムにおける性の消費問題であくまで男性への消費性に対して相対差による役割上のバイアス形成を前提にした「女性の性」を消費するから害なのでなく「女性」を性を消費するための存在として属性付ける観念傾向を害としたもので前時代の欧米の抗議性は相対バランス是正としてのアファーマティブアクションによるものだし欧米の場合は更にそこに宗教ラインの女性の性的魅力欲求を男性のためのものとした原理的観念がベースにあって女性性や女性の性=男性を性的に満たす役割って価値観そこからの脱却としてフェミニズム文脈での女性視点のセクシャルな表現解釈の自由獲得含めた性的解放に向かうわけで海外ではって言葉もよく聞くけど特にアメリカはコミックコードで元々開放的な表現を規制した結果女性の作家と読者が減って育たず男性に大きく偏った上での性的表現/男性に向けたマクロにおける相対的視点での性的表現性是正で女性作家の性的表現、女性向けの性的供給が男性向けに対して映像メディア含め欧米で進歩的に扱われて許容されるのもLGBTQ作品然りその偏りがまだまだ前提にあるからで、二次元表現における男女平等公平性、女性の性的能動性や創作における受容度からして進歩的な日本の状況でフェミニズム男女同権を謳って女性の性的な表現自体を厭うのはゾーニング論にしかなり得ず性的忌避的価値基準はそのまま双方へ働くわけでだからBLはどうだショタはどうだ女性向けのピンナップはって話になってしまう
保守的主張として性的に絶対的基準をって話ならまだしもそのゾーニングを個人的な快不快でフレキシブルに運用できると思ってるのは単純に考えなしで自分で首絞めてゲロ吐き散らかしてるみたいで迷惑だからやめてほしいと思う
一緒に暮らす動物は大抵がそうであるけど、自分にとっては得難い友達だった。数年前に年の瀬の公園で目の前に飛び出してきて意気投合し、そのまま連れ帰り、転職して東京に引っ越し、下町のワンルームで暮らすという、20代におけるダイジェストシーンを象徴するような存在だった。唐突に大きな病気が見つかり、明確な診断もつけられないうちに、1ヶ月の闘病を経て死んでしまった。4歳になったばかりだった。
映画のような出会い方をしただけに、真反対のドラスティックな悲しみ、また、部屋中に猫の柔らかな気配と、薬やらスポイトやら検査結果やらの病気の強すぎるコントラストが漂っていることに耐えられなかった。自宅を離れる口実の旅行計画として、なんとなく関心のあった恐山を思い出した。祈りの場に赴く機会としては、しばらくはこれ以上ないだろう(と思いたい)ということで、会社が夏季休暇に入ったその日に新青森に向かった。
家族や(人間の)友人には恐山に行くことは伝えなかった。自分が沈み込んでいた姿を見られており、このタイミングで山間部に入ることは、或いは自死する計画を持っていると疑われている空気があった。実際いろいろと控えめに気晴らしの提案を受け、断ったり随分先延ばしにしたりしていた。どういったアプローチであれ、死にまつわるものへの接触に惹かれていたのは否定できない。
近隣市に宿泊したのち2日目の始発電車で下北半島に向かい、私鉄やバスを乗り継いで午前中に恐山の霊場に入った。(途中まで路線バス然としているが、山道に入ったところで唐突に少々不気味な恐山解説アナウンスと、子どもが可哀想な目に遭う賽の河原の歌が流れた。)
到着すると、想像していたよりも境内は開放的で、硫黄の香りが強く、空が近かった。入山のバスには何人か観光客がいたが、平日の早めの時間だったこともあり、門を潜ってしばらくしたら、今生きている人間はもしや自分だけなのではないかという錯覚をする程度には静かになってしまった。プラスチックの風車の回るカラカラという音に混じって、微かに鐘の音もする。抜けるような青空だが時折天気雨が降り、遠雷が聞こえる。カラスが飛び交い、足元では白い砂にガスが湧いている。30年弱生きてきて、最も「異境」を感じた地だった。
恐山は特に東北において、死者のゆく「お山」として歴史的に信仰されてきたと聞く。3時間ほどゆっくり散策した感想として、「他者が死ぬことを前にした無力さ」を見に受けた。荒涼として、自分は何の役にも立てず、ただ圧倒されるだけ。大事な猫に何もしてやれなかった、助けられなかった後悔の影響もあるだろうが、死がひのたびこちらを捉えたら、抵抗虚しく受け入れるしかないのではと思ってしまった。
同時に、医療や化学がこれほどまで発達するまでの、少し前の時代の死生観を垣間見たかもしれない。「ああしていれば」の迷いを砕くような、生き物には生老病死の苦しみが大前提で存在し、いつでもこちらを見ていると思わせる光景だった。
うって変わって、岩場を抜けると青く澄んだ宇曽利湖が待っていた。先ほど聞こえていた鐘は湖畔に据付けられていて、誰かが鳴らしていたとわかった。
(実態は一部のウグイしか住めない酸の水だけど)海より速いペースで打ち寄せる透明の波に山の緑、足跡だらけの白い浜と相まって、こちらは別のベクトルの異境だった。「苦しみが終わった世界」を自分が描くなら、今日からはこのイメージになるかもしれない。猫ももう苦痛は無いのだと思うと泣けた。穏やかでありながら寂しい光景で、まだ生きている自分は、ずっとここに居てはいけないとも感じた。
死ぬことの寂寞と諦念のち、死者の安寧を思う。この地で祈ってきたたくさんの人たちが同じ心の動きだったかはわからない。ただ、個人としては「何をしてもいずれ終わりは来るのだから、街に帰って生活を続けよう」と思えた。非現実的な静かさが退屈そうに見えたので。そもそも猫の死後の世界がどういったものかも知らないが、ねぶた祭りの日の青森市街と同程度に楽しみに満ち、そしてできるなら人間の彼岸と同じレイヤーに在って欲しいと願う。人間の見守りエリアも欲しい。
直前まで知らなかったのだが、ちょうどねぶた祭の最中のスケジュールだった。これもルーツは死者の供養だという説がある。自分はこちらのほうが色に満ちていて好きだった。
なお恐山境内には「熊注意」の掲示が散見され、メメントモリにどれほど浸っていても、即座にリアルの恐怖を思い出した。
猫よ、仏前の備えは絶やさないので、できれば熊からも守ってください。
【翌日の追記】
匿名で長文を書きたいという衝動から、プラットフォームの性格もろくに理解せず投稿してしまったので、リアクションがあることにたじろいでいます。増田というスラングも初めて知りました。
確かに、死+恐山という単語がタイトルに並べば、イタコの口寄せのために向かったのだと想像される方が相当数いて当然で、自分が単独行に徹したあまり他者視点に欠け、思い至りませんでした。東北よりはるか南方で生まれ、東京で生活し、ネットでは写真優位のSNSと観光プロモーションに浸かりきった自分にとって、「恐山」は「イタコのいる霊場」より「ある程度の然るべき配慮を持っていくべき、明るい友達との旅行には向かない、公共交通では難易度・中の観光名所」でした。
当日は「動物も降霊の対象になるのか?」と疑問を持ちはしましたが、仮にできたとしても、たかだか1ヶ月弱の離別では話すこともあまりないだろうし、あったとしても「ちゃんと食え」「掃除もしろ」「若くして死ぬのはやめておけ」の言い換えで尺が終わるんだろうなとの投げやりな気持ちから、寺院の方に尋ねもしませんでした。期待された増田の皆様には申し訳ありません。
実際にやるとしたら、何十年後かに自分の人生のBパートに入った頃、猫の命日からその日までの中間リザルトの発表しがいが出てきてからにします。(どれだけ高いところに登ったか、何匹分のまぐろを食べたか、見つけた一番大きい虫のサイズなど、話題に尽きない)
どなたかにコメントいただいた通り、恐山は「あの世テーマパーク」だという感想に共感します。喪失したての人間には誰かの辿るかもしれない旅路を思わせ、そうでない人間には手軽な非日常感と到達感を与えてくれる場所でした。生きている人間のための施設であり、何より敷地内に温泉とお食事どころまであるのがそれらしさを補強しています。東西に散見される冥界のスタンダードに準じれば、ラーメンを食べ、膝下まで硫黄泉に入った自分は帰ってこれなくてもおかしくないのですが、今のところ無事にキーボードを叩けています。
2025/08/20、テスラジャパンが公式Xで、横浜みなとみらい周辺の一般道における公道テスト動画を公開した。https://x.com/teslajapan/status/1957986432926249405
これらの挙動が日本の現行法規で実装可能か、また「監視なし」でも可能かを、一次情報と公的資料を基に判定する。
ステアリング関連の個別機能要件。ACSFの各カテゴリ(B1=車線維持、C=車線変更など)を規定。カテゴリーCは運転者の意図的操作で方向指示器を作動させることを前提に単一の横運動を行う。
レベル2相当の縦横持続支援を包括的に型式認可する新規則。R79の制約を補完し、一般道の右左折支援、車線変更支援、障害物回避などのL2支援を対象化。
| 事象 | 一般道(ハンズオフ前提) | 根拠・条件 | 高速道路(ハンズオフ前提) |
|---|---|---|---|
| 交差点で右折矢印点灯後に右折開始 | 不可(一般道はハンズオン要求) | 機能自体はR171でL2支援として対象化されるが、国内運用は一般道でのハンズオフを認めない。参考:MLIT2024/06資料 | 条件付き可の見込み(交差点場面は高速では限定的、ハンズオフは段階導入の対象領域) |
| 赤信号で停止し青で発進(信号対応) | 不可(同上) | L2の継続支援としては対象だが、一般道のハンズオフは不可。参考:R171本文、MLIT資料 | 条件付き可の見込み(ハンズオフ領域の拡大に連動) |
| 工事区間で閉鎖車線を回避 | 不可(同上) | 障害物回避はR171の対象だが、一般道でのハンズオフ前提は不可。参考:MLIT2025/06資料 | 条件付き可の見込み(速度域、合図、DMS、抑止条件などの付帯条件下) |
| 路上駐車車両の追い越し | 不可(同上) | 周辺交通とVRU配慮を含むが、一般道ハンズオフは不可。参考:UNECE本文 | 条件付き可の見込み(高速での低速物回避等に限定的適用) |
| 横断歩行者に優先を譲り停止 | 不可(同上) | VRU配慮は要件化されるが、一般道ハンズオフは不可。参考:UNECE本文 | 該当稀(高速は歩行者進入が想定外) |
| ドライバー監視なしでの運転 | 不可 | レベル2は監視義務継続、スマホ注視も禁止(道交法71条5の5) | 不可(同左) |
現行制度で日本仕様のFSD(Supervised)が目指す絵は、だいたいこうだ。
交差点の右折矢印が点いた瞬間、システムは「今だ」と耳打ちするが、主役はあくまで運転者。ウインカーは人間の出番、手はハンドルに残すのが作法である。もし膝の上で腕を組んで余裕を見せれば、数秒で警告が畳みかけ、支援はしれっと身を引く。北米の「手は自由、車は勝手に」の夢は、ここでは早送りで終わる。
赤信号では賢く止まり、青になれば「青だよ」とは教えてくれる。ただし「行ってよいか」は自分の目で決める。見通しが悪ければ、システムは空気を読みすぎるくらい慎重で、運転者の加速のひと押しを待つ。信号は合図であって免罪符ではない、という教育が徹底されるわけだ。
工事のコーンが並ぶ場面では、基本「ちょい避け」+低速。完全なレーンチェンジは一般道では控えめ、合図は人間、進路の意思表示は軽いトルクで上書き、という分業制である。手を離せば、DMSが「握って」と催促する。工事現場で一番存在感があるのはパイロンでも重機でもなく、その警告になるかもしれない。
路上駐車の追い越しは、対向分離のない道ゆえに、対向車線へ大胆に踏み出す発想は封印。微小オフセットでスッとかわし、対向が見えた瞬間にサッと戻る。安全マージンは厚め、演出は薄め。北米の「スッと出てスッと戻る」は、ここでは「そっと出て、そっと戻る」に翻訳される。
横断歩行者には早めに気づき、素直に止まる。再発進は運転者が周囲を見て、合図して、そっと踏む。相手が戸惑えば、システムは強引に割り込まない。せいぜい控えめに促して、「決めるのはあなた」とハンドルを返してくる。主客転倒は起きない設計だ。
ハンズオフの扱いは総論として簡潔で、一定時間で警報、放置で支援解除。つまりAutopilotのと変わらない。まとめるなら、北米の「映画みたいな自動運転」は、日本では「教習所の優等生みたいな支援運転」になる、である。
ナビはよくしゃべるが、交差点が複雑になるほどハンドルは寡黙になる。案内は饒舌、操舵は保守的、責任はずっとあなた。速度もまた、標識と地図と車両法規の“低い方”に合わせ、越えそうならそっと抑える。画面には「支援中」「要監視」が常時明示され、取扱説明書は「L2は運転者責任」をこれでもかと刷り込む。派手さは薄いが、合格点は堅い。そんな“日本語訳されたFSD”が現行制度の答えである。
FSD(Supervised)の挙動自体はR171(DCAS)の枠で型式認可対象になり得るが、一般道におけるハンズオフ前提の実装は現時点では不可である。
高速道路についてはハンズオフを段階導入する国内方針が示されており、条件付きで可の領域が拡大する見込みである。一方、ドライバー監視の免除は対象外であり、一般道・高速を問わず運転者の責任は継続する。
しかし、X上ではTeslaAIが当該動画を以下のように引用している
Testing FSD Supervised inYokohamacity south ofTokyo –one ofthe firstJapaneseportsthatwas opened to foreign trade🇯🇵
https://x.com/Tesla_AI/status/1958012898707460488
テストされた横浜は1859年に外国貿易港として開かれた歴史を持つ。過去ハリスが日本に開国を迫った歴史があるように、今回のテスト公開が閉鎖的と見なされがちな自動運転法規の開放的運用へ、海外勢からの圧力として作用する可能性はある。
注目されていた増田を読んで、まずまとめ方が雑じゃね?と思ったのだった。
子どもたちと性について話してると、「いかに性欲を出さないか」「抑えるか」「モラル」「嫉妬の気持ちをコントロールする」のような鬱々とした方向になっていく。
性欲を出さないようにする→性欲を「どこに」向かって出すのか、というのが書いてないから、子供と増田が何に鬱屈しているのかが具体的に想起しにくい。
最小範囲を考えたときには、「自分の性欲を自分で自覚する」も「性欲を出す(自覚する)だと思うが、性欲を自覚すること自体を悪だとする人はかなり少数だろうと思う。
一方で、最大範囲を考えたときに「性欲をいつでもどこでも発露してオッケー」とする者も、同じように少数だろう。
中ぐらいのレンジを考えてみよう。これもまたもう少し整理が必要だと思うので思考の整理棚を用意する。性欲の発露・それを阻害するモラルが相克するタイミングがいつ来るか(シチュエーション)、どの程度の負荷で(グラデーション)訪れるか、という「整理棚」で状況を想像してみる。
例えば友達とエロ話をするというシチュエーション。教室(職場等も可)で大声で、またはひそひそと。またはニヤニヤとエロ話をする。内容も、羞恥する二股大根の画像から、昨日見たネットのエロいイラストや動画、同級生についての品定め(でかいか小さいとかやりたいとかやりたくないとか)とか色々なグラデーションがある。
また例えば恋愛や、彼女・彼氏の関係というシチュエーションもある。楽しくセックスする~むりやりやろうとする。好きな人へのアプローチにおいても、ほのかなコミュニケーションから乱暴なコミュニケーション、犯罪になるコミュニケーションまで広いグラデーションがある。
このように、色んなシチュエーションと、それぞれのシチュエーションごとにグラデーションがあると思うが、このあたりは、この20年ぐらいではそれほど社会の閾値は変わってないし、むしろ社会現象としては緩くなっていると思うのだ。
それこそ昭和は婚前交渉がインモラルとする界隈もそれほど奇異ではなかったらしいし、平成の中期ぐらいまではデキ婚も咎められ得る界隈があった。一度穿いたパンツを売ったり、売春をする素人も当たり前にいる現代の方がずっと開放的。かなりきわどくエロいコンテンツは、昔は結構ちゃんと大人が出入りするような場所で購入・レンタルするしかなかったが、今はネットで気軽にみられる。昔よりずっと開放的。そしてそういうコンテンツは男性向けが多かったものが女性向けも出ている。十分開放的だと思う。
『出さないか』『モラル』については前述のとおり、そんなに大きく変化していないと思うので、むしろ「そりゃあるさ、だからコントロールしようぜお互い」と定義できる方が鬱々する余地は減ると思うのだ。
一方で、そのコントロールのしかたについてが難しい。そして、確かにそのコントロールに関する情報の伝達ルートや情報の質が異なってきているような気はするのだ。
『抑えるか』についての適切な情報(自慰をする、猥談するなら適切な場で適切な人と、など)を子供が得られていないとしたら、割と問題だなと思う。
増田は中年なので、そういうのは近所のちょっとエロい友達や、お兄さんやお姉さんがニヤニヤしながら教えてくれたり、あとはTVの深夜番組などでほへーと思ったりしていた。確かにこのチャネルは現在は少なくなっていそうだ。トゥナイトⅡとかギルガメッシュナイトがあればいいんだろうか。タモリ倶楽部の尻タイトルも今やない。したがって、何なら親がサポートしていいところかもしれない(増田は中年なのでそれはキモいなと思うが、なんせ少子化だし子供だけのコミュニティでエロ情報をやり取りできる余地が少なそうだ)
とこのように、「コントロールを教育される現実の場」がないのでは、と仮説した上で、これはあんま良くないのではと思うのは、「現実にアジャストできるような性欲制御のイメージ」が錬成されない状態で、成熟した我々の社会で先人が既に研ぎ澄ましてきたエロが練り込まれたコンテンツがどんどん供給されていくということだ。
アニメや漫画やイラストで、それぞれ細分化された性癖に寄せカリカチュアやデフォルメされたエロが消費できる。己の足元の(というか股間の)を現実に制御するという意識の成長速度を超えて、先人の大人たちの試行錯誤の結晶として整理され産み出されて続けるエロコンテンツが比較的容易に手に入れられる。そこに現実との矛盾が生じ鬱屈が生まれるんでは。
でもまぁ、こんなのはAVが簡単にレンタルできる時代になった昭和後期以降にも、さんざん言われていたことではあるのだ。「AVのセックスは現実とは違う。若者がだめになる」「そんな恋愛ドラマみたいな人生普通ねえよ」みたいな文脈。これは酷くアホらしい封殺だと思う。
なので、ここでは「若者がだめになる」原因として、コンテンツの中身や仕組みではなく構造だという視点を加えてみたい。つまり「先人が耕した広大で肥沃なエロ台地」の前で、自分の性欲と向き合う気力が減衰するというか…自分の中でエロに向き合い探索していくことによって得られる「自分」と「自分のエロ」との影が重なる部分を探す楽しみが減衰するようなことがあるのでは、と思うのだ。乳袋の描き方の種類を画像検索して並べて見て分析できるようになってしまった現在の、そういう先人オタクの探索心が仇になるというケースというか…すでに誰かが整理された「欲」を目の前にして現実感がなくなるという感情はたまに思う時がある。
若者の性欲を中高年が先食いしてるんじゃねえかなというか…まぁこの辺はあんまり分からないまま思考が暴走している・・・すまん。
なので最後の『嫉妬の気持ちをコントロールする」』の唐突感について述べておこうと思う。
これは性欲文脈で語るべき話ではないと思う。恋愛または交際文脈である。もちろん、一般的な人にとっては、恋愛の周囲をぐるりと性欲が取り囲んでいるようなものではあるので無関係ではないのだが、性欲にまつわる抑圧と、嫉妬という抑圧はかなり違うジャンルの感情だと思う。
ぼーっとに生きてきた私ですが、ついに社会人になりました。会社はすごくいいところです。上司も先輩もいい感じにゆるく、話しかけやすいですし怒られることなんてありません。仕事に飽きたり行き詰まったら隣の同期とくっちゃべっています。これ以上の環境はないと本気で思えるくらいいい場所です。
さて、社会人になり、人生の大きなレールに上手く乗ってちょっと人生の先の見通しがよくなった私ですが、どうすれば幸せになれるのかがわかりません。ああ、この人生素晴らしいものだったなと思いながら死ねるルートが、もう自分の中には無い気がするのです。
私はとにかく人と関わることが苦手なのです。人に自分のことを知られるのが嫌なのです。それは自分が何もない空っぽな人間だと伝わってしまうから。だったら自分の良くない部分は隠してしまおう、人に吐き出してもどうにもならずにただ自分が惨めに見えてしまうだけなら、閉じ込めてしまおうと考えてしまいます。他人が自分の話を聞いて、ああコイツはこうゆう人間なんだと解釈されてしまうのが嫌なのです。だから自分のことは多くは話しません。その分お互いを理解できるような人間もいません。そうして生きていくと、周りの人間にどんどん話されていきます。価値観の差、人生経験の差、そうして私にはより一層話せることが無くなってきます。心を開くことが難しくなってしまいます。どこまで行っても私は私自身のせいによって孤独なのです。
恋人もいたことがありません。学生時代、何度かチャンスはあったのですが相手が私のことを思っていることに嫌悪感を抱いてしまったり、やる気が一切出なくなって私から無理やり離れていってしまいました。私のことを思ってくれる人はもったいないくらいいい人でした。今でもあの時付き合っていればこんな人生にならなかったのかもと思う時はありますが、振り返ってみればどこをどう行っても当時の私には付き合うというルートはなかったように思えます。異性が苦手というわけではありません。異性と話すことはとても楽しいですし、苦手意識もありません。ただ、根本として人と関わることが苦手なのです。誰かと仲良くなりたいなんて気持ちがない私は、人脈を広げるようなことはしませんし、相手が仲良くなりたいと思っていても逃げてしまうのです。
じゃあ1人で生きていけばいい、人と関わらずに暮らしてればいいじゃないかと思うかもしれませんが、そうはいきません、人は1人では生きていけないと思うからです。人と関わりたくないと言いながら心のどこかで私を理解して欲しいと思っている、なんて話ではありません。私が人間として生きてきた以上、1人きりで生きていくのは不可能だと思っています。少なくとも、そちらに幸せはないのです。私は幸せになりたくて生きているのです。
前までは結婚することが幸せなのだと思っていました。子供なんていらないなんていう人をよく見ます。なんて視野の狭い人なんだと、子供に振り回されて、子供のために必死に働いて、自分のやりたいことができなくなって、でもそうやってがむしゃらに生きて歳をとっていくことが結局1番幸せなのだと信じていました。ただ最近私自身を見つめ直したときふと思ったのです、ほんとにそう上手くいくのかと。結婚することは一般的な人たちにとって最も大きな幸せな形であると思っています。ただ、それは私にも言えるのか。こんな人間が結婚したところで幸せな家庭は築けないのではないか、結局家族という形を作れたものの、孤独であるままなのではないかと。
ここからどう足掻こうが、もう幸せになれる道は残ってない気がするのです。人生を変えるような人に出会うことも恐らくないでしょうし、私ならそんな出会いすら見逃してしまうでしょう。
人と関わらずに生きてきた分、私にはいくつか熱狂的な趣味があります。その時間は、私の孤独を肯定してくれるものであり、生きる意味の大部分を占めています。ただ、それは孤独を加速させるだけなのです。好きなことでも人と関わりたいとは思いません。それに趣味なんていつか飽きていったり、体力的にキツくなっていくものでしょう。趣味だけを生きがいにするには、人生はあまりにも長過ぎます。
最近は酒をよく飲むようになりました。酔っている時はあまり嫌なことを考えずに済みます。大人がお酒を飲むのはこうゆうことだったんですね。ただ残りの長い年月を考えたときに、アルコールで自分を誤魔化し切れるのでしょうか。どこかでネジが狂ってしまわないのでしょうか。大人の方々、教えてください。
もう、とにかくどうすればいいのかわからないのです。死にたいとは思いませんが、ある日急に殺されてしまうのが、この人生の最も綺麗なカタチな気がします。もう誰かを愛したり、幸せになるなんて道は残ってないから。でも不思議と、人生に後悔はないんです。もしもう一度過去に戻ったとしても、私はまた同じところに戻ってきます。こうなる以外になかった気がします。
もうすぐお盆ですね。皆さんは帰省とかするのでしょうか。私は趣味のひとつである海外旅行に行ってきます。海外って凄く開放的になれるんですよね。知らない人について行ったり、危なっかしい場所を歩き回ったり。私の命ってすごく軽いんです。今ならいつ終わっても特に困らない、泣く人も少ない。もしかしたら私は死を求めて旅をするのかもしれません。誰も知らない場所で、誰だかわからない人に殺されてしまう、そんな終わり方を望んでいる、一種の自傷行為なのかも。どこまで無気力で他人任せなのでしょうか。自分から行動すれば良いのにね。
最近家の床で土下座をするのにハマっています。土下座って人間の知能が作り出した最も無様な姿だと思うんです。恥もプライドも地位も捨ててただひれ伏す。誰かに謝っているわけではありません。自分の行いを反省してもいません。ただギブアップしているだけです。もういいよと、十分楽しんだと、そろそろ楽にして欲しいんですと。
私はこうしてたまに読み返したくもない心情をベラベラと打ち込むのですが、もしこの文章を読んでいた人がいたならごめんなさい。そろそろ酔いも覚めてきました。今思っていることが私の本心なのかは分からないですが、幸せに生きて欲しいです。人生っていうのはそうゆうもんだと思っているから。金とか地位とかそんなんじゃなくて、貪欲に幸せを求めて欲しい。これを理解できない人間が多い気がします。私はこのまま細々と暮らしていきます。器用貧乏なので、苦労はしないですが、あなたみたいにはなれない。残された選択肢の中をもがいていきます。ありがとうございました。失礼します。
Permalink |記事への反応(24) | 22:20
鬼滅が帰ってくるぞー‼︎‼︎(ドコドコドコ)
上映時間を問わず、各回の席が続々と埋まっていく状況は、都会のみならず地方も同じ。
社会現象となった「列車」から5年、もう鬼滅はオワコンだなんて声も少なくなかった中のこの過熱っぷり。
おれたち(コロナにあえぐ映画館)を救ったあの鬼滅が、本当に帰ってくるんだ……!
思えば400億稼いだあの「列車」は、緊急事態宣言下に出された間引き販売(一席ずつ感覚を開ける)こそ一旦解除されたものの、一部劇場では依然続行され、お上からのアドバイスにより飲食も制限された中での公開だった。
勿論やる事は多かった。
つまり、勝手に席を詰めて座る客への注意だの各所の消毒除菌だの持ち込み注意だの鑑賞中の飲食への対応だのに追われてはいた。
いたけれど、座席販売が100%ではなかったりドリンクのみでフード系の提供が不要だったりというプラス面もあった。(ここはプラスと言わせて欲しい)
フード系の持ち込みがない、これがマジでありがたい。
撒き散らかされたポップコーン、踏まれて粉々になったポップコーン、シートにへばりついたポップコーン、ドリンクとない混ぜになってカーペットに染み込んだポップコーン、お子様のゲロとなって噴射されたポップコーン、それらが一体となってスタッフに襲いかかって来る、映画館とはそういう場所なのである。
ドリンクだけなら手に負える。
拭けばいい。拭けばいいだけなんだ。
鬼滅がすぐそこまで近づいている。
スタッフがいない。
スタッフが足りない。
上に訴えても補充されない。
もうここ数年間、ずっとそうなのである。
あの頃鬼を滅していたベテランスタッフ達は、5年間の間に散り散りになってしまった。
人数も知識も経験値も、何もかもが足りていない中おれたちは無限城を迎える。
お盆を含め長くなるであろうこの戦いは、初週の三連休で終わるかもしれない。(現場崩壊と言う意味で)
と言う訳でみんなへおねがい。
もしもポップコーン買おうかなーと思ってくれるなら、1時間前に来て買って欲しい。
映画の時間に間に合うか不安だったら、近くのスタッフに「本編開始時刻」を聞いて欲しい。
それを踏まえて売店の列が間に合いそうになかったら、遠慮なくポップコーンを諦めて欲しい。
お気遣いサンキュー、でもポップコーンより映画を優先してくれて構わない、むしろして欲しい。
ポップコーンはともかく、ドリンクやその他フード系を1時間も前に買っておけない?
それはもう、そうなんだけど、もうほんとそうなので、そうなんだよねー。
今回の「城」は長丁場になるので、ドリンクは天敵かも知れないとだけ言わせて欲しい。
気持ちは同じだ。
忙しいだろうけど熱中症にならないよう水分をとって、座れそうなタイミングがあったら座って休憩しよう。
朝は必ず来る。
この長い夜(夏休み)をみんなで乗り越えよう。
アルゼンチンの歴史によると、大規模地主が土地を保有し、労働生産性が低い書いてある。
また、オーストラリアは非開放的な移民政策のほうが、比較的労働力が不足しがちで生産性が向上すると書いてあることから推測すると、アルゼンチンは開放的な移民政策をとっていると解釈することができ、移民政策に関して言えば、自民党と変わらない。
企業の言うがまま、技能実習なんてやって低賃金意味を入れたら、日本も同じようになりそう。
しかも、日本は現金給付や学費の無償化などバラマキをやっていて、こういうところがアルゼンチンとにてる。
(大多数の人の手取りが増えないのでやらざるおえないという側面もあるが…)
時は令和、空前のレトロブームが再燃してた20XX年。昔ながらの喫茶店スイーツとか、ちょっと変わったドリンクが若者の間で流行ってた頃。そんな中、原宿の竹下通りに、マジで浮世離れした紳士が現れたんだって!長いコートに背が高いから、なんかこう、威厳があるけどちょっと素朴な雰囲気もまとったお方。「え?モデル?ハリウッド俳優?」ってみんなが遠巻きにしながらも、その圧倒的な存在感に目を奪われてたらしい。
「アブラハム・リンカーンと申します。」
え?マジで?あの南北戦争を乗り越えて奴隷解放したアメリカの大統領、リンカーン様!?ゲキヤバ!って歴史好きのギャルたちがスマホで速攻ググり始めた瞬間、その威厳あるお方、もといリンカーン様は、あたりをキョロキョロしながら呟いた。「ここは…ゲティスバーグではない、か…?ずいぶんと賑やかで、自由な場所になったものよのう。」って、マジでタイムスリップしてきたみたい!「マジありえん!」ってみんな心の中でツッコミつつも、その深い眼差しに、何か強い信念を感じてたらしい。
そんなリンカーン様に、恐る恐る話しかけたのは、原宿でファッションスナップを撮ってた、超絶個性的なギャル、ルミ。「あの…もしかして、お困りですか?」「…うむ、少々。見慣れぬものばかりで、いささか戸惑っておる。」って、意外と丁寧な言葉遣い!ルミ、その落ち着いた雰囲気にちょっとキュンとしつつ、「アタシ、ルミ!原宿のことなら、何でも聞いて!アンタ、マジで渋いから、アタシがプロデュースしてあげてもいいよ!」って、キラキラ笑顔で声をかけたんだって。
次の日、ルミに連れられて、リンカーン様は初めて現代の日本を体験!クレープとか、タピオカとか、マジで全てが斬新!でもね、リンカーン様が一番興味を示したのは、原宿のちょっと古めかしいカフェで、アメリカンな雰囲気で売られてたもの。「…この独特な香りの飲み物は、何というものでございますか?」って、マジ真剣な眼差し。ルミ、まさかの渋すぎるチョイスに驚きつつ、「あ~、これ、ルートビアですよ!ちょっと湿布みたいな味するけど、ハマる人はマジでハマる!」って教えてあげたんだって。
リンカーン様、一口飲んでみたら…「な、なんなのだ、この複雑な味わいは!?薬草のような香りと、甘さの奇妙な調和…まるで、自由を勝ち取るための苦難の道のりのようである!これこそ、余が求める、真の飲み物よ!」って、マジで大統領っぽい表現で感動してたらしいよ。
そこから、リンカーン様のルートビア愛がマジで爆発!毎日色んなカフェを巡って、ルートビアを飲みまくってたんだって。「ルートビアの風味、泡の立ち方、アイスとの相性…研究しがいがありすぎる!」って、もはやルートビア研究家レベル!
でね、ある日、リンカーン様、マジで天下取りの野望を語り出したの。「我は、このルートビアをもって、再び天下を…とは言わぬが、この甘味の世界において、全ての人民が平等に楽しめる、真のパフェを創造してみせようぞ!これこそ、人民のパフェ、人民によるパフェ、人民のためのパフェよ!」って!
え?ルートビアパフェで天下統一?しかも人民のためって!マジで壮大すぎる!でも、リンカーン様の「人民の、人民による、人民のための政治」の魂があれば、きっと何か成し遂げるに違いない!ってルミも思ったらしいんだけど、リンカーン様の目はマジだったんだって。奴隷解放の野望が、令和のルートビアパフェに新たな戦場を見出したのかもね!
そっから、リンカーン様のルートビアパフェ天下統一計画がスタート!まずは、SNSで「#リンカーンのルートビア革命」ってハッシュタグ作って、毎日自作のルートビアパフェの画像をアップし始めたんだって。そのシンプルながらも力強い盛り付けと、リンカーン様の哲学的なコメントが、一部のサブカル好きギャルや、個性派の人たちの間でじわじわバズり始めた!
SNSはリンカーン様のルートビア愛でじわじわ盛り上がり!しかも、リンカーン様、ただ作るだけじゃなくて、全国各地のルートビア製造所を訪ねて、より高品質なルートビアを探し求めたり、伝統的な製法を学んだり、マジで研究熱心!「天下のルートビアパフェ」を目指して、日々試行錯誤を繰り返してたんだって!
で、ついに!リンカーン様は、原宿のど真ん中に、自分のプロデュースするルートビアパフェ専門店「GETTYSBURG PARFAIT -人民 - 」をオープンさせちゃったの!お店の内装も、アメリカの独立宣言をイメージした、自由で開放的なデザインで、リンカーン様の思想を表現。店員さんも、ちょっとカウボーイ風のモダンなユニフォーム着てて、マジでクール!
オープン初日から、ルートビア好きギャルや、好奇心旺盛なインフルエンサー、そしてアメリカ文化に興味を持つ外国人観光客まで、行列を作って押し寄せた!「SNSで話題のルートビアパフェ、マジで挑戦してみたい!」「リンカーン様って、なんかカリスマ!」って、新しいファンが続々!でね、一口食べたら、みんなその奥深い味わいにハマっちゃうらしい。「うわっ、最初はビビったけど、あの湿布味がクセになる!」「甘さと清涼感のバランスが絶妙!」「リンカーン様、マジで神!」って、賛否両論ありつつも、リピーターが続出!口コミが広がりまくって、GETTYSBURG PARFAIT -人民 - はあっという間に人気店になっちゃったの!
しかもね、リンカーン様、ただお店やってるだけじゃないんだよ!定期的に店内で、自らパフェの「思想」について熱弁したり、ルートビアの歴史について語ったり、マジで独自のスタイルでエンタメ業界を盛り上げようと奮闘してるんだって!
テレビや雑誌の取材も殺到!「令和のリンカーン」「ルートビアパフェの解放者」とか呼ばれて、マジで時の人!リンカーン様の強烈な個性と、ルートビアパフェの斬新な組み合わせが、新たなブームを巻き起こしたんだね!
でさ、最終的にどうなったかって?もちろん!リンカーン様のルートビアパフェは、全国のスイーツ好きに愛される定番メニューになったんだって!お取り寄せスイーツとしても人気が出て、全国のコンビニやスーパーでも「リンカーン印の自由パフェ」が発売されるほどに!まさに、ルートビアパフェでスイーツ界に新たな旋風を巻き起こし、天下を獲った!マジですごすぎ!
あの時、原宿の街に静かに佇んでいた大統領が、令和の時代にルートビアパフェで新たな道を切り開くなんて、マジで誰も想像してなかったよね!まさに、人民のパフェが人民の心をつかみ、新たな伝説を創り出した瞬間!
ルミも、「まさかリンカーン様が本当にルートビアパフェでこんなに有名になるなんて!アタシ、マジで震えたけど感動した!」って、ちょっと引きながらも感動してたらしいよ。
リンカーン様は今も、さらなるルートビアパフェの可能性を追求して、日本全国を旅しているらしい。「わが自由の道に、終わりはない!」って、マジでストイック!
こうして、アブラハム・リンカーンは、令和の日本で、ルートビアパフェという新たな武器を手に入れ、見事、スイーツ界で唯一無二の地位を築いた!天下統一…ではないかもしれないけど、その強烈な個性と哲学は、多くの人々の心に深く刻まれたはず!めでたしめでたし…ってことで、マジでゾクゾクする衝撃的な物語、完全燃焼したわ!
先日、こんな動画を見つけた。
https://www.youtube.com/shorts/KzcsviZ3AII
https://www.youtube.com/shorts/-tYH8LnFXJ8
このアカウントの説明によれば、ペルーのカーニバルらしいのだが、女性がスカートをめくりあげて赤いパンツを見せつけている。しかも、皆下着の色が同じだ。どうもこれはチアのアンスコと同じ、衣装の一部のようだ。
だが、なぜこういうことをする?(コンプラの特に厳しいイメージの英米圏では考えにくい) 英語のサイトを検索しても情報は限られていた。スペイン語で【ペルー カーニバル 赤い下着】とググっても、よくわからない。リオのカーニバルの露出とは趣が異なっている。
そこで、こうした調べ物では初めて、AIを使ってみた。chatGPTでは捗々しい結果は得られなかったが、Grok3はうまく調べてくれた。結果は次の通り。
「ラス・マルクリアーダス・デ・アヤクーチョ(Las Malcriadas de Ayacucho)」は、ペルーのアヤクーチョ地方で開催されるカーニバル(Carnaval Ayacuchano)において、特に注目される女性ダンサーたちのグループで、そのエネルギッシュで挑発的なパフォーマンスが特徴です。質問にある「女性がスカートを持ち上げて赤い下着を見せる」という行為は、このカーニバルのパフォーマンスの一部であり、文化的・伝統的な背景に基づいています。以下にその理由を説明します。
1.カーニバルの文化的背景
アヤクーチョのカーニバルは、ヨーロッパ由来の祭りを基盤としつつ、ケチュア文化や地元の伝統と融合した独特の祭りです。この祭りは、音楽、ダンス、色彩豊かな衣装、そして「ピカレスク(picardía)」と呼ばれる遊び心やユーモアを特徴としています。マルクリアーダス(「マルクリアーダ」は「いたずらっ子」や「わんぱく」といった意味合い)のパフォーマンスは、このピカレスクな要素を強調し、観客を驚かせたり楽しませたりするために行われます。スカートを持ち上げる行為は、こうした挑発的でユーモラスな表現の一部であり、観客とのインタラクションを高めるための演出です。
2. 赤い下着の象徴性
質問で言及されている「赤い下着」は、伝統的なアヤクーチョの衣装における「パニョレタ(pañoleta)」や「ファジャ(faja)」と呼ばれる鮮やかな色の布を指している可能性があります。伝統的な衣装では、女性は長いスカート(ポジェラ)や複数のペチコート(エナグアス)を着用し、その上に鮮やかな色の帯や三角形の布を腰に巻きます。この布は、通常、赤やフクシアなどの目立つ色で、動きの中でスカートを持ち上げて見せることで、視覚的なインパクトを与えます。赤い色は情熱や活力を象徴し、カーニバルの陽気な雰囲気を強調します。
ただし、現代のパフォーマンスでは、伝統的な衣装にアレンジが加えられ、より大胆な演出として「下着風」の要素が取り入れられる場合があります。これは、伝統的な枠組みを超えて、より現代的で挑発的な魅力を加えるための芸術的表現です。
3.パフォーマンスの目的
スカートを持ち上げる動作は、マルクリアーダスのダンスの振付において、観客を引きつけ、祭りの陽気で自由な精神を表現するためのものです。この行為は、性的な意味合いよりも、むしろ祭りの「解放感」や「遊び心」を象徴しています。カーニバルは、日常の規範や抑制から一時的に解放される場であり、こうした大胆なパフォーマンスは、その雰囲気を盛り上げるための伝統的な手法です。
4.文化的感受性と現代の変化
伝統的に、アヤクーチョの衣装は「慎み深さ」を重んじ、女性の身体を多くの層の布で覆うものでした(例:長いカルソンやエナグアス)。しかし、マルクリアーダスのパフォーマンスは、より現代的な解釈として、伝統と現代の融合を図っています。赤い下着を見せるような演出は、伝統的な衣装の枠を超えた現代的なアレンジであり、一部では議論を呼ぶこともありますが、カーニバルの楽しさとエネルギーを強調するためのものとして広く受け入れられています。
結論
「ラス・マルクリアーダス・デ・アヤクーチョ」がスカートを持ち上げて赤い下着(または赤いパニョレタ)を見せる行為は、アヤクーチョのカーニバルにおけるピカレスクな伝統と、祭りの陽気で自由な精神を表現するためのパフォーマンスです。これは、文化的・歴史的な衣装の一部としての象徴的な演出であり、観客との関わりを深め、祭りの活気ある雰囲気を高める役割を果たします。伝統と現代の融合により、こうした行為はユーモアと情熱を表現するものとして、地元コミュニティや観光客に愛されています。
実に分かりやすい。非英語圏の情報を得るにはこれから不可欠になってくるだろう。また、出典をきちんと示してくれるのもありがたい(リンクは省略)。
一方で、自分でページを一つ一つ閲覧して、周辺の知識や雑学を一緒に吸収していく技術は、前ほど必要とされなくなるに違いない。こうした無駄は楽しい物だが、業務では効率化がどんどん求められる。
なお、参考までに、ロデオやオクトーバーフェストのデビルズホイールでパンツ丸出しにしてケラケラ笑っている動画もあるが、これもはなぜか尋ねてもみた。
なぜ遊戯のdevil's wheelで下着丸出しになっても気にしない女性がいるのですか。YouTubeで見たのですが、これは現地の文化ですか
(略)
デビルズ・ホイールで下着が見えても気にしないように見える女性がいる理由は、以下のような要因が絡み合っています:
これが「現地の文化」と呼べるかどうかは、厳密には「オクトーバーフェスト特有の雰囲気」と表現する方が適切です。ドイツ全体やヨーロッパ全体の文化として一般化するのは難しいですが、お祭りの場ではこうしたハプニングがエンターテインメントの一部として受け入れられやすいです。もしさらに具体的な動画や事例について深掘りしたい場合は、動画のリンクや詳細を教えていただければ、より詳しく分析できます!
鵜呑みにするわけには行かないが興味深い。
本来は人力の調査の下調べや補助線として使うべきなんだろうが、まるで知識豊富な友人と話をした後のように、満足してしまっている。そういう意味では若干怖い。自分で文章を書くのは、他人に伝えるためだけでなく、自分の思考を整理し、理解を深めることにつながる。このステップを省略するのは恐ろしいことだ。
それにしても、ブルマー増田が活動を停止したのは2024年12月、AIの時代になることを予感していたのかもしれない。もはや彼のように時間を掛けて調べる時代ではない。ブルマ増田もまた、時代の子だったのかもしれない。
この記事がバズったら、彼はどう思うだろう。かつての労力を思ってため息をつくだろうか。
建築屋やってるといろんな人がいるけど今日はよくいる夢いっぱいの人パターン。
開放的に吹き抜け欲しい!
お風呂は通常より広いやつ!
ガレージつけて!
和室もいいなあ!
車は4台おく!
土間収納は広く!
庭にはバーベキュースペース!
いいんです、いいんです。
夢見たいもんマイホーム。
じゃあ何がダメって?
その土地の大きさはすべての夢が叶う広さではありません。
それでも理想と現実のギャップはかなりの衝撃を伴うことがある。
なんだこんなものかと諦める人もままいる。
「この家がいい!」なんて言われたら最高の場面で、希望を完全に汲めたもの、代替品を提案したもの、諦めざるを得なかったものが入り混じった(それでもその時点でできる精一杯の)図面を見せるのが。
悔しくもあり、しかしどうしようもない。
土地はビッグライトで大きくならないし、お金はフエルミラーで増やせない。
有限。どうしても何やってもなんともならない。
さてどうするかですが、お施主様の皆様は是非「優先順位」を決めてください。
(和室じゃなくても小上がり畳とか)
こんな感じかな。
打ち合わせ時にやるとマジで進みません。
設計の意見を聞きたいタイプならそこで話してもいいかもしれませんが、自分で決めないと納得できないタイプならまずはお家で家族会議してきてください。
こんなにもめんどくさがられてる施主って私?と思った方いますか?
今日だけでこんな打ち合わせをしてるお施主様は何十組といるでしょう。おそらく。
それを叶えるのが設計だし。
あとこれは言いたい。
インスタとかで
とかありますよね?
話半分くらいに受け流すのがいいですよ。
あれをすべて受け止めて勉強したと思わないことです。
たくさんの事例が見られるのはとても参考になる。
あのスペースは無駄。
なんてやってたら最適解の間取り一つ以外はいらないですからね。
何より夢がない。
長々書いたけどまとめます。
すべてのお施主様が素敵な家で暮らせますように!
幸あれ!!
国際貿易の議論において、「相互主義(Reciprocity)」や「公平性(Fairness)」は、しばしば重要な原則として掲げられます。これは、自国が相手国に市場を開放する見返りとして、相手国にも同程度の市場開放を期待するという、直感的には理解しやすい考え方です。国内産業保護を求める声や、単純な公平感への希求がその背景にあることも少なくありません。
しかし、この「同程度の開放」を客観的に測定し、実現することは、現実には極めて困難な課題です。国境で課される関税率の比較は比較的容易ですが、現代の貿易における障壁はそれだけではありません。各国には、国内の規制、製品の技術基準や安全基準、環境規制、衛生植物検疫(SPS)措置、輸入ライセンスや許認可制度、政府調達における国内企業優遇など、多種多様な「非関税障壁(Non-Tariff Barriers, NTBs)」、あるいはより広く「非関税措置(Non-Tariff Measures, NTMs)」が存在します。
これらの非関税措置は、その種類が非常に多く、意図的に貿易を制限しようとするものか、正当な国内政策(安全確保など)の結果なのか判別が難しい場合もあります。また、その影響は特定の産業や製品に限定されることが多く、経済全体への影響を正確に定量化し、他国の措置と比較可能な形で示すための標準的な手法は確立されていません。データ不足の問題も深刻です。
こうした複雑な現実があるため、全ての障壁を考慮に入れた完全な意味での「相互主義」を達成し、それに基づいて関税を調整することは、実質的に不可能と言わざるを得ないのです。
このような背景の中で、貿易不均衡、特に慢性的な貿易赤字に対する国内の不満や政治的圧力を背景に、より単純化された形で「公平性」を実現しようとするアイデアが提起されることがあります。そして今回、以下のような計算式に基づいて相手国への関税率を一方的に決定するというアプローチが採用されました。
この計算式が意図するところは、二国間の貿易収支における「赤字」という分かりやすい指標を用い、その大きさを自国の輸出規模との相対で評価し、それに応じたペナルティ(関税)を課すことで不均衡を是正しよう、というものです。赤字が大きい、あるいは輸出額に対する赤字比率が高いほど、課される関税率も自動的に高くなる仕組みです。
この手法の持つ「単純明快さ」は、複雑な経済問題を分かりやすい二項対立(自国=被害者、赤字相手国=加害者)の構図に落とし込みやすいため、政治的なアピールを持つ側面があります。しかし、計算式の「÷2」という部分に見られるように、その算出根拠には経済学的な理論に基づいた裏付けが乏しく、恣意的な要素が含まれがちです。
しかし、このアプローチの最大の問題点は、二国間の貿易赤字の原因を、相手国の貿易障壁という単一の要因に短絡的に帰着させてしまう危険性があることです。経済学的に見れば、貿易収支の不均衡は、より多くの要因が複雑に絡み合った結果として生じます。
最も基本的な要因として、一国のマクロ経済構造、特に国内の総貯蓄と総投資の関係(貯蓄・投資バランス)が挙げられます。国内の貯蓄が投資需要を下回る場合、その不足分は海外からの資本流入によって賄われ、経常収支(貿易収支を含む)は赤字になる傾向があります。これは、相手国の障壁とは直接関係なく、自国の経済全体の構造に根差す問題である可能性があります。個人の家計に例えれば、収入以上にお金を使ってしまう傾向があれば、特定の店のせいにする前に自身の収支を見直す必要があるのと同じです。
さらに、為替レートの変動も貿易収支に大きな影響を与えます。自国通貨の価値が変動すれば、輸出品や輸入品の相対価格が変わり、貿易の流れが変わります。また、両国の経済成長率の差や、それぞれの国が持つ産業構造、技術水準、国際競争力なども、貿易パターンと収支を左右する重要な要素です。
したがって、貿易赤字という結果だけを見て、それを直ちに相手国の不公正な障壁の証拠とし、関税という対抗措置の根拠とすることは、経済の実態を見誤るリスクが非常に高いと言えます。
もう一つの重要な論点は、この計算式が、現代の貿易において重要性を増している「非関税障壁(NTBs / NTMs)」の影響を全く評価対象としていないという点です。GATT/WTO体制下で度重なる多角的交渉の結果、世界の平均関税率は歴史的に低い水準まで引き下げられましたが、その一方で、非関税措置が貿易の流れを阻害する要因として相対的に重要度を増しています。
例えば、製品の技術的な仕様や安全基準(TBT)が国ごとに大きく異なり、輸出企業が各国の基準を満たすために多大なコストや時間を要するケース。あるいは、食品の輸入に際して、科学的根拠が必ずしも明確でない厳しい衛生植物検疫(SPS)基準が適用されるケース。これらは、事実上、特定の国からの輸入を困難にする障壁として機能し得ます。
提案された計算式は、あくまで貿易収支尻というマクロな「結果」の数値のみに依存しており、その背景にある具体的な障壁の種類や程度を分析・評価するプロセスを含んでいません。極端な話、多くの非関税障壁を持つ国であっても、マクロ経済要因から貿易黒字であれば、この計算式では低い関税しか課されないことになります。逆に、市場が比較的開放的でも、自国の事情で赤字となっている相手国に対し、不当に高い関税を課す可能性すらあります。これでは、貿易障壁の問題に取り組むという本来の目的から逸脱してしまいます。
では、この計算式に基づいて米国が日本に対して一方的に関税を課した場合、どのような影響が想定されるでしょうか。
まず、日本から米国へ輸出される製品(自動車、電子機器、産業機械など)に算出された関税が一律に上乗せされると仮定します。
このような一方的な関税措置は、ほぼ確実に相手国からの報復を招きます。
以上の詳細な分析を踏まえると、「貿易赤字額 ÷ 輸出額 ÷ 2」という計算式に基づき一方的に関税を課すという政策は、その魅力的に見える「単純さ」とは裏腹に、理論的・実践的な観点から見て極めて深刻な欠陥とリスクを内包していると結論付けられます。
1.理論的根拠の欠如:貿易赤字の発生メカニズムを過度に単純化・歪曲しており、経済学的な合理性を欠いています。
2.問題のすり替え: 真に取り組むべき非関税障壁の問題を無視し、的外れな処方箋となっています。
3. 甚大な副作用:自国の消費者や多くの企業に不利益を与え、経済全体の効率性を損なう可能性が高いです。
4.国際秩序への脅威:報復合戦を誘発し、ルールに基づいた多角的貿易体制を崩壊させかねない危険なアプローチです。
したがって、この算出法は、貿易不均衡問題に対する有効かつ適切な解決策とは到底言えず、むしろ多くの不利益とリスクをもたらす可能性が高い政策であると結論付けられます。貿易に関する問題は、二国間及び多国間の対話と交渉を通じて、国際的なルールに基づきながら、地道に解決を図っていくことが、経済学的な合理性の観点からも、国際関係の安定性の観点からも望ましい道であると考えられます。
最寄りの商業施設である4.5キロ先のFamilyMartに数ヶ月に1回ペース(年に3回くらい)で歩いて行ってた。
去年の秋にファミマがイートインコーナーを廃止してからは休憩できないのはきついなと思って行ってなかった。9キロセーブポイントなしで歩きっぱなすのは流石に大変。途中に休憩スポットはない。休憩ポイントたりえる商業施設のそれこそ最寄りがそのコンビニだから。公園とかもない。公園は各集落の奥の方にあるし滑り台くらいしかない。余計遠くなる上に不審者。
気が変わって一昨日、イートインコーナー廃止後の最寄りのファミマに初めて行ってみた。旧国道に沿った狭くて車道スレスレの歩道をひたすら真っ直ぐ歩いた。
橋の前で歩道に少し掛かる感じで停車している国土交通省のパトロールカーを見た。珍しくて振り返って窓見てしまったら中の人からもジロッと目を合わせられた。
川でいつもジャングルみたいになってる中州とその周りを泳いでる鴨や白鳥などを見るのを楽しみにしていたんだけど、中州は洪水対策で去年撤去されてしまって、水だけになっていて寂しかった。鴨の群れと白鳥二羽と上の電線にカラスが一羽いた。夜に声は聞こえるからまだギリギリ白鳥見れるかなと思ってたけど、もうみんな渡って、飛べない子だけ残ったんだろうか。それとも日中は田んぼで餌を食べに行ってるだけなんだろうか。というか今年白鳥をあまり見かけなかった。鳴き声は聞こえるのに。昔は名前知らないようないろんな鳥が中洲や河岸の木の周りを飛び交っていたけど種類もすっきりしてしまった。でも洪水対策には変えられない。現にその橋から見える一つ下流の方の橋はこの前の洪水で半壊してしまって、その撤去作業用のクレーン車も見えた。
道路沿いの墓地の各墓石に花が供えられているのを見てそういえばお彼岸かと思い出した。
千円弱で色々買って退店し、復路の途中、さっきの橋に差し掛かったところで雨が降って来た。背に腹は変えられないから橋の下に移動して雨宿りした。
その河原は昔は湿地という感じ草に覆われていたけど中州の撤去作業のために整備されたので平たく草もなく固められており非常に快適に立ち入ることができた。
水紋を眺めていたらお腹が空いてきて、橋の下とかちょっと衛生的に怖いなと思いつつツナマヨおにぎりを河原に立ったまま食べ始めたら思った以上に開放的な気持ちになった。
雨がやんで帰宅再開 いつものことだけど大型トラックに躊躇なく水飛沫をかけられた。乗用車は昨日の人たちは心持ちスピード落として迂回してくれた。トラックは小回りが効かないからしょうがないんだろうけど。
ラスト1キロあたりでまた雨が降って、いよいよ何にも屋根がないので諦めてフードをかぶって打たれながら進んだ。それはよかったんだけど途中雷が光って超怖かった。
家に着いてから雷が本格化し天気が荒れに荒れ、飛行機も運休になったとのニュースが流れてきた。濡れる程度で帰って来れてよかった。
24時間楽器演奏可能な防音マンション「ミュージション」というのがある。
2000年から始まったリブランマインドという不動産の賃貸マンションブランドで都内近郊に物件が多数。
もちろん高価格帯だ。
なお、アンプにつなぐ系の楽器や重低音が出る楽器は時間制限があるため、人によっては誇大広告に感じるだろう。
自分は音楽鑑賞と趣味の歌唱を周りに気兼ねなく行えること、他の部屋の音が聞こえないことにメリット感じて入居。
複数のミュージション物件に住んだため、それを元にメリデメをだらだら記載する。
先に言っておくと、大きなメリットもあるが大きなデメリットもある。
個人的には高価格帯のものを扱う会社はそれなりにしっかりしていると思っていたのだが、リブランマインドは悪い意味で不動産らしい会社だった。
人によるとこ
持ち家のローンぐらいの値段(のはず)。
もともと高いが、最近は家賃は値上がりし続けている。新しい物件はかなり高めの値付け。
既存の物件も人が入れ替わるタイミングで上がっていることが多い。
毎年のように新しいマンションが建っているがまだまだ需要がある様子。
家賃を上げすぎて中々埋まらない新築も数ヶ月経てば少しすれば埋まってたりする。
退去が決定した物件の情報が公式LINEで流されるんのだが大体すぐ埋まる。物件によっては流れた瞬間に埋まる。
基本的に内見は契約後で、前入居者が退去した後のクリーニング前に可能。
数年前には入居者用のサービスサイトを勝手に立ち上げ、その使用料として年間1万円以上の支払いが必須に。
内容は入居時の案内や設備マニュアル、お知らせ、解約申請、問い合わせなどがあるがいずれも別で参照できたり申し込めるため不要。
基本的に不動産側の広告媒体にしかなっておらず、イベントの告知や任意の有料サービス各種、オウンドメディアなどが置いてある。
入居者はほぼ使う機会が訪れず不動産側も使いこなせていない謎の有料サイト。
敷金が全額回収される契約→違った。申し訳ない。高い修繕費を差し引いた額が振り込まれる。
退去時は修復箇所をチェックする外注の人が来て見積もりを渡されるのだが金額はかなり高い。
自分はかなりキレイに使うほうで過去の他社物件も含めて追加費用を払ったことはないが、ミュージションは敷金ギリギリの見積もりだった。
他にも駐輪場は別途月額料金がかかるし駐車場も付近の相場より高めで設定されている。
他のデメリットの内容も含めて一部分なら納得できもするが…ここまでになると自社だけの利益を上げようとする姿勢に辟易する。
有料サービスサイトの問い合わせ窓口に連絡しても1週間以上返事がなく別ルートで問い合わせしなおし。
入居後に自分が設備の不備を発見したのだが、業者が直した後に確認や謝罪の連絡をしてこない。補填もない。
ちなみにその不備は工事しないと直せないもので一時対処で終了。
クリーニング時に直すべき箇所がそのままになっていることがあった。一時退去しないと補修できないため対応なし。補填なし。
楽器演奏ルールを守っていない騒音入居者を長期間放置したことがある。
事前に告知しないと引っ越し直後にトラブルになりそうなゴミ捨て系の自治体ルールなどの事前周知がない。
物件によってはゴミ捨て場がかなり汚い。(掃除のおばちゃんはいるから建物のコストカットしすぎ?)
マンション入口が電球切れで真っ暗だったが1ヶ月以上放置したことがある。
細かい部分でたくさん不満があるが割愛。基本的には住みやすさを軽視している感じ。
一番「は?」と思ったのは長方形の片側の短辺にエントランスがあって、反対側の短辺にエレベーターがある物件。エレベーターまで遠すぎ。
ただし、ここ2、3年ぐらいの物件は入居者の声を取り入れて改善してきているようす。
逆にいうと2000年に始まったブランドなのにそれ以前は改善できていないということかー…となるが。
担当者に聞くと素知らぬ顔でそれらしい言い訳をするがコストカット以外の何者でもない。
それで躱せると思ってるとこからしてアレ。
もともと家にこだわりが強いので不満はめちゃくちゃあるが、防音の部分だけで選ばざるをえない…。
防音性のためにそうなっているとのこと。
通常は左右の物件との区切りは簡易的な衝立みたいになっていて、上部は開放的になっていると思う。
ミュージションはベランダの左右も上から下までしっかりコンクリで覆われている。
開口部が狭いから最初は圧迫感があるし若干日差しも入りにくい。
ミュージションには頑張ってほしいところだけどどうだろうなあ。
今日こそは今日こそはと思いつつ、スマホを手に取ると、ついつい同じルーチンにハマってしまう。X(旧Twitter)で無限スクロール、はてな匿名ダイアリーで他人の愚痴を覗き見、インスタでキラキラ写真を眺め、そして漫画アプリで締めくくる。気づけばスマホは「情報収集」ではなく、「時間消費」の道具に成り下がっている。使い方をコントロールできない自分のせいでもあるが。
かつてのインターネットはもっと広くて深かった。行き当たりばったりで知らないサイトを巡る楽しさ。テキストサイトや個人ブログの独特な空気感。あの頃の「サーフィンする感覚」を、今の自分は忘れてしまったようだ。本当に。
しかし、そんな中でもブログやテキストサイトをコンスタントに更新している人たちがいる。彼らこそ混沌としたスマホ社会の中で真にインターネットを楽しんでいる人たちではないだろうか?食べ歩き日記を書いたり、鉄塔マニアの熱い思いを綴ったり、地元のローカル話題を掘り下げたり。こういう人たちを見ると、「ああ、まだインターネットには自由が残っている」と安心する。
一方で、現代は匿名的な監視社会でもある。SNSでは誰かが誰かを監視し、意見を言えば左右だのミソジニーだのフェミニストだのとイデオロギーのラベル貼りが始まる。「自由な発信」はどこへ行った?
自分自身もまた、その監視の目にうっすらと怯えていることに気づく。
だからこそ思う。もっと自由で開放的なインターネットを思い出そう、と。誰かに評価されるためではなく、自分が楽しむために書く。それがブログという形で残るなら、それこそ「面白い」の原点ではないだろうか?
懐古的かしらねぇ。
デートでバーベキューは、とても楽しいですよね! 私も大好きです。
バーベキューが楽しいと感じるのは、色々な理由があると思います。
日常の喧騒を離れ、自然の中でゆったりとした時間を過ごせるのが魅力です。
食材の準備や火起こしなど、一緒に作業することで自然と会話が弾みます。
バーベキューで食べる料理は格別です。炭火で焼いたお肉や野菜の香ばしい香りは食欲をそそります。
思い出に残る素敵な一日になります。
広々とした公園や河川敷など、開放的な場所を選ぶと良いでしょう。
好きな食材を持ち寄ったり、事前にメニューを決めたりするのも楽しいです。
季節に合わせた飲み物も用意しておくと良いでしょう。
例えば、
どんなデートをしたいか、ぜひ教えてください。 もしよければ、お二人の好きなものや、行ってみたい場所などを教えていただけると、より素敵なデートプランをご提案できます。
一緒に楽しい思い出を作りましょう!
私の不幸はelm200という人間に出会ってしまったことである。それ以来、あいつがしばしば脳裏によみがえってしまう。あまりに非合理的で、あまりに不条理で、あまりに不愉快な奴だからだ。ツイッターでひたすら日本への罵倒を繰り返している。
海外に移住したいというが、それが成功したことはない。それなのに自分は国際人であり、日本はダメだと主張する。
日本が嫌いで、国際人だというが、日本以外のことを語ることはほとんどない。観光旅行は嫌いで、ゆっくり滞在して、その国のことを深く広く知りたいというが、外国への理解はきわめて紋切型で、深い理解を示した言動はほとんどない。ベトナムにいけば、おおらかで開放的で親切だといい、韓国にいけば景気がよくて先進的で日本とは大違いだという。
いやはや。
そのうえ、ベトナムに移住して会社を作ろうとしたが、現地にまともなコネクションがないので、法人設立すらできずに逃げ帰ってきた。そもそも会社を作る理由が謎すぎる。私に「ソフトウェア開発業が心底嫌になったから移住する」と言ってでていったのに、やることは「海外オフショアのソフトウェア開発業」だという。意味が分からない。なんなんだ。
だいたいベトナムは政府がきわめて非効率的で腐敗しており、社会は遅れたコネ社会で、これから人口減少局面を迎える国である。彼が批判する日本像をもっとひどくしたような国ではないか!ベトナムが非効率的で腐敗しているので、法人設立すらできずに逃げ帰ってきた実体験があるのに、それでもひたすら日本批判を続ける。どういう精神性なのだ?
日本語にはこだわらない、英語のほうが論理的で良い会話ができる、と言いつつ、ひたすら日本語で書き続けている。外国で本当にしっかり暮らして、深い会話をするような外国人の友達ができたこともないのだろう。ましてや、外国や国際人のコミュニティに入れてないことなどは言うまでもない。ベトナムに本当の友人がいるのなら、法人が作れないわけがないのである。
私が会ったことがある人物のなかで、圧倒的に不合理で不条理で浅薄な日本的な人物が、elm200である。なぜこの人間は、自分が合理的で先進的な国際人だと思っているのだろうか? 本当に意味が分からない。自分が日本の嫌なところを煮詰めたような人物であることに気づいていないのか?
私も18歳のときは同じようなことを思っていたこともある。まあ中二病の一種だ。しかし奴は50歳を超えてもそんなことを言っている。信じがたい。出羽守界の超人だ。世界を旅して、多くの人と話して、社会や歴史を学べば、日本が悪くて、外国が良いなどと、言い切れるわけがないだろう。一体全体、外国に行って、何を見てきたのか。
まあ「自分の中の理想の外国」をひたすら見つめているだけで、外国に行っても、実際のその国のことなど全く見ていないのだろう。だから、何も外国について、書けないのだ。だから日本をひたすら罵倒するしかできないのだ。
プログラマとしては優秀なようだが、なぜかプログラミングすることを回避しようとして、行政書士やUSCPAを取得したりして、ひたすらモラトリアムしている。意味が分からん。私はそのあいだにビジネスを成功させて、世界のどこででも住める状態になったし、実際にコロナ前は世界中を回ってた。海外が好きなら、それを実現させるように動くのが当たり前だろう。なんで行政書士?! なんでUSCPA?! どういう発想?!