
はてなキーワード:長方形とは
これなにもわかってないんだよな
「二つのバスケット」と、「バスケットには3個のリンゴ」ってのは、言い方を変えても一緒なんだよ
いくつ分(バスケットの数)が2なんだよ
何が【一つ分】なのよ?
いくつ分(リンゴの数)が3ってなに?
日本語として変になるだろ?
なんだよそれ
1つ分の数×いくつ分=ぜんぶの数
この考えに当てはめると、3*2=6って立式になるのね
バスケットの数が変わったらどう変わるか、リンゴの数が変わったらどう変わるか、そういうのを図解されながら理解してくフェーズなんだよ
だから、1つ分の数×いくつ分、みたいな形にはめる授業をすんだよ
そうして、文章で示された事象を式に落として数を把握するってことに繋げていくんだ
ちな、長方形は縦と横があって、図示される以上それは変わらんわけ
Taro-8号先生たちも悩んでいる - ttm08_teacher'snayami_03.12.pdf
https://nakaguntta.main.jp/ttm08_teacher%27snayami_03.12.pdf
長方形の面積=横×縦を誤りとする教え方の存在を上野健爾氏(数学者)が平成 13 年の中央教
育審議会の教育課程部会で指摘した。その後、学習指導要領解説では縦×横と横×縦が併記され
【算数編】小学校学習指導要領(平成29年告示)解説 - 1387017_004.pdf
P.210
(長方形の面積)=(縦)×(横)(又は(横)×(縦))
掛け算の順序の固定は無理があるのではないか。
学習データってあーたね…黄金比なんて幾らでもウェブに転がってるしあーたもその数式やら比率やら出してるでしょうが
そして普通にあーたも描写しようとして黄金螺旋を描くかと思ったら黄金長方形内の正方形ごとに弧の向きが違うグラフ描写し出したから『お前コレマジなん?』って聞く訳です。
もう潰れてしまってないのだが、兵庫県加西市のジャスコ内で売っていたお好み焼きが食べたくて仕方ない。
お持ち帰りのみで、お持ち帰り用の発泡スチロールケースに二つ折りにして入れられるお好み焼き。
緑の包装紙で包まれ、ケースから溢れたソースが包装紙に飛び出ているのは御愛嬌。
今どきの細い線で何重にも描かれるように載せられるマヨネーズとは違って、スプーンでベタッと置かれ、家に帰ってきたときには、何故か少しマヨネーズが固まっているといったものだった。
酸味のあるマヨネーズではなく、独特の美味しさがあるマヨネーズだった。
片手持ちの金属の椀に、刻んだキャベツと溶いた小麦粉、鰹節粉、天かすをガサッと入れたあと、卵一個片手で入れかき混ぜて焼いている風景を思い出す。
お持ち帰り用の発泡スチロールに入れるために、丸円に焼くのではなく、角丸長方形。
豚バラだと思うがU字に置かれていた。
何が他と違うのか、うまく説明は出来ないが、今大阪付近でやっているお好み焼き屋で食べれないのだ。
半球の金属の丸カバーで蒸し焼きにするといったこともなかった。
よくヘラで押さえつけていたように記憶しているが、家庭でやるような押さえつけすぎて固くなりすぎるといったこともなかった。
かといって、口に入れたらキャベツがホロホロ砕けるような、今どきのお好み焼きではない。
薄暗い場末のバーであった。入り口から奥に向かってやや細長い作り。既に客が入っている。ぼくは一番右奥の角に陣取り、改めて店内を見回した。ここからちょうど対角線の反対側に当たる入口の扉近く、狭いカウンターの奥には無表情なマスター。入口の扉を挟んでマスターの向かいにいるのが女占い師。そして左奥の隅、すなわちぼくの向かい側には、長いコートを着込んだ得体の知れない人物が佇んでいる。つまり店内にいるこの四人の人物たちが四隅を埋めていたということになる。さらにぼくには気掛かりがもうひとつ。それはコートの男とマスターとの中間辺りの壁に描かれた人物像である。不気味なほどリアルなのだ。じっと見つめていると、まるでそれがもう一人の客であるかのような錯覚を引き起こしそうになる。しばらくして暗がりに目が慣れてくると、ぼくはさらにいくつか新しい発見をしたようだ。まず人物画と向き合った反対側の壁だが、これといった照明もないのに、そこだけ茫と明るんでいること。人物画から未知の光が照射され、ネガとポジのようにそこに自らの複製を作り出しているのだ。次にぼくとコートの男の間の壁、すなわち入口の扉と反対側のこの壁にももう一枚の扉があること。この退廃的な雰囲気にすっかり同化しているため、うっかりしているとなかなか気付かない。おそらくこの扉の先にあるのは地下へと続く長い長い階段であるはずだ。
事件は何の前触れもなく起きた。コートの男が、いつのまにか刀を手にして立ち上がっていた。そして全く無表情のまま、占い師の女を斬りつけたのだ。鮮やかな一振りであった。まるで暖めたナイフでバターを切るように、何の抵抗もなく、この長方形の部屋に一本の対角線を引いたのだ。だがその途端呻き声をあげたのは女占い師ではなく、壁に描かれた人物画の方であった。刀の一閃により、向かいの壁に浮かんだ明るみと自分とを結ぶ直線が断ち切られてしまったがための苦悶であった。人物画は激しく絶叫しながら悶え苦しんでいる。ぼくは咄嗟にマスターに合図を送った。狭い部屋を入り乱れるいくつもの直線。マスターは、後から行くので先に逃げろと促す。ぼくはすぐさま目の前の扉を開き、真っ暗な階段を全速力で駆け下りていった。
しばらくして突然明るい場所に出た。どうやら巨大な客船の甲板らしい。ぼくは客室から飛び出してきたところであった。足下がゆっくりとした振幅で揺れている。眩しい、目が痛い。遠く水平線の方にハイウェイが横たわっているのが見える。辺りを見回すと、ハイウェイはこの船の周囲をぐるりと取り囲んでいる。ということは、ここは巨大な湖のちょうど中央付近ということになるのだろうか。とはいえどの岸までもほとんど水平線すれすれの距離があるため、その真偽のほどは定かではない。もうひとつ、船首の向いた方向の湖面に何か人工的な建造物が見えるが、やはりここからでは距離があるため、船とも浮島とも判然としない。ぼくはそこへ行きたいと考える。とにかくこの場から離れたいのだ。だがこの船は先程から少しも進んでいないようだ。穏やかな水面が静かに波打つばかりで、どこへも近付きもしなければ、どこからも遠ざかりもしていない。仕方なくぼくはマストによじ登る。先端に立ってみると、高さは十分のようだった。ぼくは巨大な翼をもたげるように両腕を広げ、大きく息を吸い込むと、そのまま風に乗って滑空した。抵抗のない滑らかな浮遊感であった。
辿り着いてみるとそこはビニールの袋を空気で膨らましただけの浮島であった。いわば巨大なゴムボートである。大勢の人々が行き交い、騒ついた雰囲気なのだが、皆忙しそうであった。流れに溶け込めずに立ち尽くしていると、一人の幼い少年が何か駄々をこねているのに出会った。いや、実はその少年というのはぼく自身であり、ぼくが何か邪なものに手を触れようとしているとことろを、見知らぬ男に止められてしまったのだ。ぼくはどうしてもそれに触りたいと繰り返すのだが、男は頑なに禁止する。そして最後には強引に手を引きながら、もう帰ろうと言いだす始末であった。帰る方法もやはり滑空だ。なぜ滑空するのかといえば、それ以外に水面を越える方法がないからである。ぼくらは一度目の滑空を試みる。だがうまくいかない。風向きが良くなかったのだ。再度試みる。そして失敗。今度は翼が壊れてしまったのだ。さらにもう一度。またも失敗。今度は軌道が橋をくぐってしまった。さらに次は高度不足。もう一度、もう一度、もう一度……。だが何度繰り返してみてもうまく行かない。ぼくは次第に本来の目的を忘れ始める。いや、初めから目的などなかったのかもしれない。それさえも分からない。
むかし学校給食で「ワンタンスープ」なる献立で、餃子の皮とか八橋の皮みたいなのをを短冊切りしただけの長方形のピラっとしたものを入れただけのスープが供されてたが、あれをワンタンと呼んでたの未だに納得いってない
24時間楽器演奏可能な防音マンション「ミュージション」というのがある。
2000年から始まったリブランマインドという不動産の賃貸マンションブランドで都内近郊に物件が多数。
もちろん高価格帯だ。
なお、アンプにつなぐ系の楽器や重低音が出る楽器は時間制限があるため、人によっては誇大広告に感じるだろう。
自分は音楽鑑賞と趣味の歌唱を周りに気兼ねなく行えること、他の部屋の音が聞こえないことにメリット感じて入居。
複数のミュージション物件に住んだため、それを元にメリデメをだらだら記載する。
先に言っておくと、大きなメリットもあるが大きなデメリットもある。
個人的には高価格帯のものを扱う会社はそれなりにしっかりしていると思っていたのだが、リブランマインドは悪い意味で不動産らしい会社だった。
人によるとこ
持ち家のローンぐらいの値段(のはず)。
もともと高いが、最近は家賃は値上がりし続けている。新しい物件はかなり高めの値付け。
既存の物件も人が入れ替わるタイミングで上がっていることが多い。
毎年のように新しいマンションが建っているがまだまだ需要がある様子。
家賃を上げすぎて中々埋まらない新築も数ヶ月経てば少しすれば埋まってたりする。
退去が決定した物件の情報が公式LINEで流されるんのだが大体すぐ埋まる。物件によっては流れた瞬間に埋まる。
基本的に内見は契約後で、前入居者が退去した後のクリーニング前に可能。
数年前には入居者用のサービスサイトを勝手に立ち上げ、その使用料として年間1万円以上の支払いが必須に。
内容は入居時の案内や設備マニュアル、お知らせ、解約申請、問い合わせなどがあるがいずれも別で参照できたり申し込めるため不要。
基本的に不動産側の広告媒体にしかなっておらず、イベントの告知や任意の有料サービス各種、オウンドメディアなどが置いてある。
入居者はほぼ使う機会が訪れず不動産側も使いこなせていない謎の有料サイト。
敷金が全額回収される契約→違った。申し訳ない。高い修繕費を差し引いた額が振り込まれる。
退去時は修復箇所をチェックする外注の人が来て見積もりを渡されるのだが金額はかなり高い。
自分はかなりキレイに使うほうで過去の他社物件も含めて追加費用を払ったことはないが、ミュージションは敷金ギリギリの見積もりだった。
他にも駐輪場は別途月額料金がかかるし駐車場も付近の相場より高めで設定されている。
他のデメリットの内容も含めて一部分なら納得できもするが…ここまでになると自社だけの利益を上げようとする姿勢に辟易する。
有料サービスサイトの問い合わせ窓口に連絡しても1週間以上返事がなく別ルートで問い合わせしなおし。
入居後に自分が設備の不備を発見したのだが、業者が直した後に確認や謝罪の連絡をしてこない。補填もない。
ちなみにその不備は工事しないと直せないもので一時対処で終了。
クリーニング時に直すべき箇所がそのままになっていることがあった。一時退去しないと補修できないため対応なし。補填なし。
楽器演奏ルールを守っていない騒音入居者を長期間放置したことがある。
事前に告知しないと引っ越し直後にトラブルになりそうなゴミ捨て系の自治体ルールなどの事前周知がない。
物件によってはゴミ捨て場がかなり汚い。(掃除のおばちゃんはいるから建物のコストカットしすぎ?)
マンション入口が電球切れで真っ暗だったが1ヶ月以上放置したことがある。
細かい部分でたくさん不満があるが割愛。基本的には住みやすさを軽視している感じ。
一番「は?」と思ったのは長方形の片側の短辺にエントランスがあって、反対側の短辺にエレベーターがある物件。エレベーターまで遠すぎ。
ただし、ここ2、3年ぐらいの物件は入居者の声を取り入れて改善してきているようす。
逆にいうと2000年に始まったブランドなのにそれ以前は改善できていないということかー…となるが。
担当者に聞くと素知らぬ顔でそれらしい言い訳をするがコストカット以外の何者でもない。
それで躱せると思ってるとこからしてアレ。
もともと家にこだわりが強いので不満はめちゃくちゃあるが、防音の部分だけで選ばざるをえない…。
防音性のためにそうなっているとのこと。
通常は左右の物件との区切りは簡易的な衝立みたいになっていて、上部は開放的になっていると思う。
ミュージションはベランダの左右も上から下までしっかりコンクリで覆われている。
開口部が狭いから最初は圧迫感があるし若干日差しも入りにくい。
ミュージションには頑張ってほしいところだけどどうだろうなあ。
いなり寿司は大体1つ120kcalだそうで、5つも食べようものなら600kcalを超えます。
ちょっと待てよと。
まあ食べれないもんじゃない。でもそんな爆弾的食べ物だったのか…?
ここで検索をかけていたのですが、こういうことらしいです。
関東のいなり寿司は俵型で、長方形の油揚げを半分にして酢飯を詰めているようなのです。
確かになんかコンビニとかで見るのはこれです。なんかでかいなと思ってましたが、そういうサービス的な商品かなとも思ってました。
しかし関西で多くの人が認識するいなり寿司は、正方形の油揚げ(2枚で長方形油揚げサイズです)を対角線上で切って、三角にしたものに、具材が入った酢飯を詰めたものなのです。
つまり…ざっくり…関東のいなり寿司の半分くらいのサイズなのです。
そもそもですが具材も違うので、あすけんにどうやって登録すればいいのか混乱は続いていますが、面倒なので10個食べたら5個で登録していいですかね…。
っていうか半分って認識で合ってるんですかね。
博多風恵方巻きは明太子を使った恵方巻きです!ピリ辛で風味豊かな明太子は、恵方巻きの具材としても人気です。色々な具材との組み合わせが楽しめるので、ぜひお好みの恵方巻きを作ってみてください。
寿司飯
焼き海苔
明太子は薄皮を取り、ほぐしておく。
きゅうりは細長く切っておく。
寿司飯の上に、明太子、卵焼き、きゅうり、桜でんぶ、かんぴょうを彩りよく並べる。
手前からしっかりと巻く。
食べやすい大きさに切る。
ツナマヨネーズ
明太子は、生のまま使うのはもちろん、軽く炙っても香ばしくなって美味しいです。
巻き終わりはしっかりと閉じましょう。
明太マヨ恵方巻き:明太子とマヨネーズを混ぜて、コクのある味わいに。
チーズ明太恵方巻き:明太子とチーズを組み合わせて、洋風な味わいに。
スマートフォンが主流になって久しい。街中を見れば老若男女関係なく、誰もが同じような長方形の端末を手にしているし、電車に乗ればみんな下を向いてSNSやらゲームやらに没頭している。いや、それ自体を否定するつもりはないんだ。だけどさ、本当にみんながスマートフォンを必要としているのかなって思うことはある。いまやスマホの機能はパソコンをも凌ぐものになってきているけど、それって果たして全員にとって必要不可欠なのだろうか。そもそもガラケーで事足りる人って、意外と多いんじゃないかと思うんだよね。
そりゃ、便利だよ、スマホは。アプリを入れれば何だってできるし、SNSだって投稿が簡単にできる。動画も地図もあれこれ全部一つの端末に詰め込んで、ポケットに入れて持ち運べるなんて、かつてのパソコン時代やガラケー時代から比べたら夢のようだ。それに加えて大容量のデータ通信が可能なプランを契約すれば、外でもガンガン動画を観られるし、リアルタイムでのやり取りもスムーズ。そういう意味では、確かにスマホはすごい。でも、その“すごさ”を真に活用できている人がどれほどいるのかは、ちょっと疑問だ。
たとえば、メールと電話、それにちょっとしたSNSやブラウザ検索くらいができれば十分という人は少なくないはずだ。その程度の用途なら、別にガラケーでもいいんじゃないの? と思うわけ。必要最小限の機能を備えていれば、そもそも「ネットが重い」「アプリが落ちる」「OSがバージョンアップできないからアプリが使えない」といった煩わしさとは無縁だし、バッテリーも長持ちする。なんせガラケーなら2〜3日は充電しなくても平気だ、なんてこともザラにあるからね。スマホだと日常的に毎晩充電しなきゃいけないから、その手間を考えるとガラケーの利点もやっぱり大きい。
もちろん、スマホにはカメラ性能が高いとか、決済機能があるとか、生活を快適にするいろいろな便利機能が詰まっている。でも、カメラだって一眼レフやデジカメを持っている人からすれば、スマホカメラじゃ満足できないこともあるはずだし、逆にスナップ写真くらいしか撮らない人ならガラケーのカメラで十分事足りる。決済についても、スマホ決済が便利なのは間違いないけど、クレジットカードや交通系ICカードがあれば大抵の場所で用は足りるんだよね。結局、なんでもかんでもスマホに集約して「スマホがないと生活できない」状態になるのは少し危うい気さえする。
思えば、ガラケーと呼ばれる前の時代は、みんなが当たり前にあの二つ折りやスライド型の携帯電話を使っていたわけで。それでも社会は動いていたし、人間関係だってきちんと成り立っていた。実際、あの頃は電話とメールだけでコミュニケーションが十分成立していたし、インターネットをしたいならパソコンを使えばよかった。そして何より、ちょっとしたネット閲覧や着うた・着メロのダウンロードには、ガラケー専用のサイトが用意されていたから、それを不便だと感じていた人は今ほど多くなかったんじゃないかと思うんだ。
そう考えると、やっぱり「ケータイなんてガラケーだけで十分じゃね?」と思うこともある。だって、通話とメールが使えれば連絡は取れるし、カメラも簡易的な撮影には不自由しない。さらに、多くのガラケーにはストラップを付けられる穴があって、そこにお気に入りのキャラグッズをぶら下げてアピールする楽しみ方なんかもあった。いまのスマホには、そういう「ケータイの個性化」を楽しむ余地が薄い気がするんだよ。スマホケースやカバーで差別化するっていう人もいるけど、昔のようにジャラジャラとストラップをぶら下げる感じとは違うんだよな。
ときどき言われるのが、「いやいや、いまの世の中はLINEでのやり取りが必須だから、ガラケーじゃ不便でしょう」という意見。でも、それって本当に全員が必要かな? たしかに仕事やサークル、あるいは家族・友人のグループチャットで情報を一斉共有したり、スタンプでカジュアルにコミュニケーションしたりするのは楽で便利だ。でも、電話やメールじゃダメなの? 昔はそれでやりくりしていたわけで、無理にLINEに縛られる必要はないんじゃないかと思う。もちろん「いや、仕事でどうしても必要なんだ」っていう人はいるだろう。そういう人はスマホを使えばいい。でも、誰もが「LINE至上主義」に合わせている現状に、ちょっと違和感を覚えるのも事実だ。
もっと言えば、「そんなにインターネットがしたかったらiモードもあるし」と言いたくなることだってある。そう、ガラケーにはiモードという独自のネット接続サービスがあって、昔はあれで天気予報やニュースサイトを見たり、ちょっとした調べごとをしたりしてたわけだ。いまはさすがに対応サイトが減ってしまったかもしれないけど、それでも基本的な情報収集ならできなくもない。「スマホじゃなきゃネットができない」わけじゃないんだよな。
とはいえ、世の中にはガラケーを愛用しつつも、必要最低限の用途だけスマホを使う「2台持ち」という人もいる。スマホは持っているけど通話はガラケーでする、みたいなスタイルだ。これってわりと理にかなっていて、ガラケーは通話用にバッテリーが長持ちし、スマホはSNSやアプリ専用と割り切ると、余計な通知に煩わされることも減る。料金プランをうまく選べば、そこまでコストも高くならないから、案外「スマホ1台より2台持ち」のほうがストレスフリーという人だっているわけだ。
ただ、「ガラケーとスマホを両方持つとか、管理が面倒くさい」という声もあるだろうし、そもそも二台持ちが一般的になると、街中で両手に端末を持って歩くようになるのかな? なんて想像すると少し滑稽でもある。そこまでしてガラケーにこだわらなくてもいいじゃないか、という意見があるのも理解できる。でも、一部のガラケーユーザーにとっては、あの折りたたみの感触や物理ボタンの打ちやすさ、そして着信音を選ぶ楽しみなんかが、今でも捨てがたいんだろうなって思うんだ。
ガラケーの物理ボタンは、スマホのタッチスクリーンにはない魅力があると思う。画面を見なくても、手探りでボタン操作ができるし、押した感触がハッキリしている。メールを打つにも、慣れればかなりのスピードで文字入力ができるから、指先が画面を飛び回るスマホよりも誤操作が少ないという人もいる。実際、ガラケー世代の人間からすると、あのテンキー入力のほうが「身体に染み付いている」感覚があって、スマホのフリック入力がどうにも馴染まないなんて話もよく聞く。だから、使い勝手という面では、ガラケーを「機能が少ない」と一蹴するのは早計だという気がする。
また、ガラケーには折りたたみやスライドなど、端末自体の形状にバリエーションがあった。そのせいか、端末のデザインにも個性が感じられたものだ。カメラ部分の形が凝っていたり、アンテナが伸びるタイプだったり、質感も金属やプラスチックなど機種ごとに違う。自分の好みや使いやすさに合わせて端末を選ぶ楽しみがあった。スマホは基本的に「大きなタッチ画面がどんっとある長方形」という形状が大半だから、デザイン的な違いはあっても機能面はほとんど似たり寄ったり。文字通り“画一化”している印象が強い。
カバーやケースを付ければ見た目も変えられるし、画面上の壁紙やアイコン配置で多少の個性を演出できる。でも、ガラケーの時代にあったワクワク感、たとえば「次はどんな機種を買おうかな?」みたいな楽しさは、スマホ時代とはちょっと違う。「新作スマホが出た」と言われても、画面のサイズやベゼルの細さが変わったくらいで、そこまで大きくは変わらない印象がある。もちろんカメラ性能やCPUの進化もあるんだけど、日常的にそこまで性能を使いこなす場面がない人にとっては、あんまり魅力を感じない場合もあるだろう。
それに、スマホはついつい「時間泥棒」になりがちだ。SNSをちょっと見るだけのつもりが、いつの間にか1時間も経っていたとか、寝る前にスマホを触っていたら気づけば深夜になっていたなんて話は、ザラにある。ガラケーだと、動画視聴やSNSのタイムライン閲覧はそこまで快適とはいえないぶん、長時間だらだら触り続けるということはあまりない。そもそも画面が小さいから、がっつり見るには不向きだし、ネット料金が従量制だとしたらむやみに使えないという制限がある。そのおかげで、自分の時間を無駄にしすぎない、という利点すら感じることがある。
「ガラケーの時代には戻れない」とよく言われる。確かに通信インフラや社会の仕組みがスマホを前提とした形に急速に変わりつつあるから、一人で頑固にガラケーを使い続けるのは不利かもしれない。銀行のアプリや役所関係の手続きなんかも、スマホ前提で設計されていたりして、ガラケーだけでは対応できないことも増えている。そこはちょっと残念なところだ。時代の流れに逆行するとなると、どうしても不便を甘受しなきゃいけない部分が出てくるのは仕方ない。
でも、その不便を受け入れてでも「ガラケーだけでいい」と思う人がいるのは、やっぱりそれなりの理由があるんじゃないか。何より、常に最新のSNSやアプリの動向を追う必要がないし、スマホをいじりすぎて疲れることも減る。コミュニケーションや情報収集に追われないから、心に余裕が生まれるかもしれない。実際、スマホをやめてガラケーに戻した友人が、「今までSNSやブラウザの更新ばかり気にしていた時間を、ほかのことに使えるようになった。すごく楽になったよ」と言っていた。まさにデジタルデトックスの効果だろう。
さらに言えば、ガラケーを持っていると周囲から興味を持たれたり、「まだガラケー使ってるんだ」と話のネタになったりすることもある。ひと昔前には、最新のスマホを持つことがステータスのように扱われていたけれど、いまはみんなが同じようなスマホを持っているから、逆にガラケーのほうが個性として面白がられるんだ。「なつかしい!」なんて言われると、そこから会話が広がったりして、それはそれで悪くない。
もちろん、ガラケーの提供を続けるキャリアもどんどん減っているし、新品の端末を購入するのは難しくなってきている現実がある。将来的には4G・5Gの通信環境に完全移行して、ガラケー時代の通信方式が廃止される可能性もある。そのときは、事実上ガラケーが使えなくなるかもしれないし、いわゆる「ガラホ」と呼ばれる、ガラケー風のAndroid端末に移行するしかない時代が来るかもしれない。とはいえ、今すぐに「ガラケー文化がすべて滅びる」わけではないだろうし、それまでガラケー愛好家はしぶとく生き残るはずだ。
結局、「スマホとガラケー、どっちがいいか」っていうのは、その人の使い方や好みによる。スマホが便利で手放せないという人もいれば、ガラケーのシンプルさがちょうどいいという人もいる。世の中にはいろんなライフスタイルがあっていいはずだから、無理に合わせる必要はないと思う。誰かが「スマホを使ってないなんて遅れてる」と言ってきても、それを「押し付けがましいなあ」と聞き流すくらいの心の余裕があればいい。結局、自分が何をしたいかが重要なんだから。
もし「周りがみんなスマホだから自分もスマホにしなきゃ」と思っているだけで、本当はそんなにSNSやアプリを使わないという人がいるなら、思いきってガラケーに戻すのも手だと思う。通話とメールだけならガラケーのほうが圧倒的にバッテリーも保つし、料金も抑えられるかもしれないし、「端末をどこかに置き忘れても、スマホほど重要な情報が入ってないから不安にならない」なんていうメリットだってあるだろう。「みんなと同じだから安心」じゃなくて、「自分の必要な機能がちゃんとある」ことこそが大事なんじゃないか。
もちろん、スマホが悪いわけじゃないし、ガラケー至上主義を唱えたいわけでもない。ただ、「必要以上にスマホを使って疲れちゃうくらいなら、ガラケーで十分なんじゃないの?」という提案をしたいだけなんだよね。実はわたし自身、仕事用スマホとは別にガラケーをサブ機として使っているんだけど、やっぱりガラケーをパカッと開いてガシガシと文字を打つ感覚は良いもんだよ。慣れ親しんだ操作性と、あの独特の押し心地には、どこか安心感がある。電車でスマホの通知に追われずに済むのもストレスが少ないし、本を読んだり音楽を聴いたりする時間が増えた気がするんだ。
そういうわけで、ガラケーという選択肢は決して時代遅れのものではない、と声を大にして言いたい。機能の充実や最新テクノロジーに目を奪われるのも悪くはないけれど、シンプルに生きるための道具としては、いまだガラケーは捨てがたい魅力を持っている。もしあなたが日常のほとんどをスマホに奪われていると感じるなら、一度ガラケーで過ごす日常を思い出してみるのもいいかもしれない。通話とメール、それに少しのネットがあれば不自由しない生活に戻るのも、ある意味では豊かな選択なのではないだろうか。
繰り返すが、「ケータイなんてガラケーだけで十分じゃね?」とまでは言わなくても、ガラケーで十分足りるような人もたくさんいるんじゃないか。昔みたいに、キーボタンをカチカチ押しながら、「そうそう、あれこれこうだよね」とメールを送るのだって味わい深い。意外と悪くない、というかむしろ懐かしくて温かい気持ちになれるかもしれない。少なくとも、ガラケー派の人たちを「時代遅れ」とバッサリ切り捨てるのはもったいない話だと思うんだ。最新のスマホだけが正解じゃない。だからこそ、みんなが自分にとってベストな形で“ケータイ”という道具を選べる社会であってほしいと思う。
もしあなたが、いつの間にかスマホでの習慣に疲れているなら、こう考えてみてはどうだろう。「ケータイって何のためにあるんだろう?」と。連絡手段として割り切るなら、ガラケーこそ理想的な答えかもしれない。もちろん人によっては、「やっぱりスマホがないと生活が成り立たない」という人もいるだろう。それでいいんだ。それこそ「自由」じゃないか。だから、「スマホが当たり前」という常識に縛られず、自分に本当に必要な機能がどれくらいなのかを見極めるのが大事。いまの時代だからこそ、逆にガラケーを見直す価値があるんじゃないかと思う。
最終的には「そんなにインターネットがしたかったらiモードもあるし」、通話とメールで十分ならガラケーでもいい。そこにプラスアルファでスマホを持つか持たないかは、個人の自由。要するに、スマホ一辺倒の世の中だからといって、ガラケーを諦める必要はないんだよね。わたしはそう信じている。あなたのケータイライフに、少しでもガラケー復権の可能性を感じてくれたら、これほど嬉しいことはないよ。
氷の彫刻を初めて作った。
調理人やら職人やらが、彫刻刀だか包丁だかを使って、無色の長方形というか直方体から何物かを作り出すマジックのようなショーのような素晴らしさを見て、無職の自分でもやりたくなってしょーがなくなって試してみた。
今は何でもネット記事やネット動画になっているので、それを見ながら氷屋から経営し始めて、わりと簡単にぱぱっと美しく作ることができてよかった。ネットと元気があれば何でもできる、って本当なんだなぁ!
そして、年末の最近に至ってはけっこう作り慣れてきて、氷に触れるどころか氷を買ってこなくても、白鳥や薔薇やシェルピンスキーのギャスケットなど、自分の思う像がイメージしただけで氷像として生み出せるようになった。彫刻技術以上のものにまで卓越した自分にほれぼれしてる。
それと、そのいくつかは我ながら出来がよかったので、美術館で何年か野外展示してもらうことにした。交渉には三年くらいかかったので本当に嬉しい。なお、氷の彫刻の常設展示は、その美術館では初めてとのことらしい。子供たちで賑わう夏休みが今から待ち遠しい。
別にそのへんは全部手作業なんだから「正方形よりの長方形がいい」とか発注者の好みのオーダーで気ままにつくらせりゃいいだろ
そりゃ実際には長方形だったんだろうと思うよ。
でもおまえらはちゃんと根拠を持って「畳が正方形なのはおかしい」って言ってるわけじゃないよな。
「自分がいままで見た畳は長方形だった」とか「大河ドラマではそうだった」くらいの感覚的な話だろ。
実際に調べてみるとわかるけど意外と確認が難しいんだよな。
当時の城の内部を描いた絵なんか見当たらないし。
今も現存してる城はあるけど、もちろん内装まで戦国時代のままってわけじゃないし。
如何なはてなーと言えども軒並み揃って歴史の専門家ってわけじゃないだろうから、
まあ、知ったかぶりで叩いてるんだろうね。
稲村亜美さんのやつってお触りどうこうよりも、単純に圧死の方が問題だよな
あと、円形になると誰かが動くとみんな動きたくなるからそれも危険
稲村亜美の件、円形なのがまずくて半径20mの円から半径10mの円をくり抜いた形状に中学生男子が充填されているため、20mの外円にいるやつが1cm詰めたら10mの内円にいるやつは2cm詰めないといけなくて、外円17mになるころには内円の速度は∞になるから圧死して当然なんですよね
速度が∞になった男子中学生が人間に衝突したらそれがグラビアアイドルであろうとなかろうと乳くらい触ることになるし、野球やるような男子中学生が以上の理論を理解しているわけないので、最初に取り囲んだ時点で結果は決まってたので、全ての責任は円形に並べた人にある
この件で運営でなく男子中学生を叩いてる曖昧フェミニストたちは上記の理論を理解してないわけで、自分がこの運営の立場になったら絶対円形に人間を配置して同じ轍を踏むんですよ、無知はレイプの元、こわ〜、自分が同じレイプをする可能性極めて高いのにフェミニスト名乗るの、もっとこわ〜〜〜