
はてなキーワード:郷愁とは
最近、IT系とか趣味のアニメやミリタリー分野で中国のフォーラムや報道社の記事やコラムが面白いので読んでる。
IT系の技術、特にAI系統に関して面白い話があって、アメリカとは違ったIT技術が発展してて興味深かったりする。
んで、今よく使ってるのは「知乎专栏」って中国の大手サイトなんだが、これはてなとニュースサイト合わせた感じなんだが
その中で「IT信仰やMAGAというかオルトライトやポリコレだとかのネットで喚いてる人たちの思想の根っこは、日本の昔のセカイ系がベース」みたいなニュース記事があった
吹いてしまったのは、真面目に中国の外交筋のニュース乗っけてるようなところで専門家が書いてる記事だったところ。
・物凄い狭い世界観や認知の中の人間関係(ネット、SNS、身近なスーパーの品物の値段等)で完結して勝手に世界を憎んだり呪ったり怒り狂ったりする閉鎖的な精神構造
・「ありもしない美しい景色や過去の(主に学生時代の)脳内で作り上げた綺麗な青春時代や恋愛の思い出」への病的な郷愁と執着
・男女ともに恋愛や結婚には固執するが、本質的には男性なら激烈なミソジニー、女性なら激烈なミサンドリー、まとめるのであれば「世界や人間がそもそも嫌い」。しかし、同時に現実に存在するはずがない様な、自分のすべてを受け入れてくれる理想の異性との運命の出会いやシンデレラ願望を強烈に持っている。
・本質的に自分たちが理解できない高度技術への信仰(IT、ハイテク軍事等)、「自分たちの惨めな人生を、100日糞詰まりを起こしていても飲めば溜まった糞をすべて排便できる毒掃丸の様な短絡的な特効薬、解決方法があるとカルトの様な信仰心をもっている」と形容されていた
・自分は選ばれた存在であり、自分の人生が惨めなのは世界を牛耳る悪意ある存在や巨大な秘密組織による陰謀だとうっすら考えているところ。また、高度技術を手に入れればそれらに対抗出来て、気軽に人生を逆転できると考えている。
そのうえで、「2000年代に日本のオタク産業で流行った物語構造のセカイ系的世界観で、この近未来の時代を生きてる憐れな人たち」とか括られてて、妙な納得感を覚えてしまった。
「シリコンバレーを俯瞰してみれば、かつては金融工学(フィンテック)を、15年前はドローンや組み込み技術を、そして今はAIを自分の惨めな人生全てを逆転して、昔の日本のセカイ系ゲームの様な美しく蒼い(※)世界と、そこで待つ美しい異性たちとの運命の出会いまで引き上げてくれていると、旧西側のIT技術者たちはうっすら考えている節がある」とも
(※)中国では桃源郷は蒼い世界と表現する古語表現があるらしい
こんな記事が出るくらいなのだから、あの国ホントよくいろんな国のこと観察してんだなって思う
【存在】
水 コップに注がれたものでも?
人形 足元に人形があるのは一瞬おっとなったが、裏のスタッフを想像してしまった
親戚の家にある古い人形はこわいのに
(人が介在することで怖くなくなった?)
着ぐるみ 小さい頃、解説の女性教師とおなじ状況になった記憶がある。今では平気
風船 バルーンアートでも駄目なんだ……
人間が食事している映像と「嘔吐」というワードが並んでいることに対するものもあるが、そもそも他人が食事をしている映像が嫌いなのかもしれない。よくよく考えれば漫画好きなのにグルメ漫画は全く食指が動かない
【社会】
これ本当に取り除きたい
人並みに生きられないのにみんなと横並びになりたい
置いてかれたくないしんどい
時間が無くて確認できなかったが、あれだけのメモをしても忘れることは忘れている感じがした。
醜形 自分に対するものが展示されていたが、他人に対する醜形恐怖症はどうなのか気になる
ヘッドホンで聞けない
お腹の辺りがムカムカしてスマホを地面に叩きつけたい気持ちになった
電話 私も電話を持っていること(というより誰かから連絡が来るかもしれないという状況)が苦手
周囲の人も着信音に驚いている様子。
それは突然音がなったことに対する恐怖なのか、それとも着信音そのものに対する恐怖なのかは不明。
対人場面 対人恐怖症が海外でも「Taijin kyoufusho」なのは知らなかった
否定的評価を受けることに対する恐怖心はおおいに分かる
しかし、セールスなどの玄関を通したコミュニケーションについては、少なからずあるかもしれないが、展示された郵便受けの主ほど過敏ではないかもしれない。
しかし、なぜ普通の友人関係、ひいては学校や会社における対人関係について触れなかったのか是非説明をしてほしい。、
騒音 加害のへ恐怖わかる
それか自分が嫌なやつだと思われることに対する恐怖か
展示をみているとき後ろに人がいるのがこわい
この人は私と同じようにそれが苦手なのかもしれない
醜形や臭気の受け手側の恐怖心はあるのか、それは不快感というのかもしれないが気になるところ
【場所】
汚れ 汚れに関しては意外と嫌悪感は薄かったが、この展示物を触る人間に対する嫌悪感は強かった
【概念】
自分が変わっていくこと?に対するものは多少分からなくもないが、それが郷愁に対する恐怖に転換するのはちょっとわからなかった
廃棄 人間を見捨てることもこれに該当するのか
物を捨てられない母は廃棄に対する恐怖を抱いていたのか
罪悪 分からなくもないが、情報を発信することに対する認識が甘すぎて怒りを覚えた。
【おわりに】
韓国では実際には「立憲君主制」は採用されていない(=現在の韓国は共和国であり、王室も存在しない)にもかかわらず、架空の王室を描いたドラマ――いわゆる「もし今も王室が存在していたら」という仮想歴史(オルタナティブ・ヒストリー)や現代王室もの――が人気を集めることがあります。
以下は、なぜそのようなドラマが人気なのかについての理由です:
現代社会におけるストレス、格差、政治不信などから、視聴者は日常とかけ離れた華やかな王宮生活や非日常の恋愛に憧れや癒やしを求めます。王子や王女が登場するストーリーは、まるでおとぎ話のようで、夢の世界への入り口のように機能します。
韓国はかつて朝鮮王朝や大韓帝国が存在した歴史を持ちますが、日本の植民地時代を経て王政は廃止されました。
それゆえ、「王室が今も存続していたらどうなっていたか?」というロマンや好奇心をくすぐるのです。
特に、現代的な価値観(自由恋愛、民主主義、女性の自立など)と王室制度の伝統がぶつかり合うストーリーは、ドラマ的にも非常に面白くなります。
🔹 3.ビジュアル面の魅力
王宮、伝統衣装(韓服)、儀式など、美術的・文化的に視覚的な魅力があります。豪華なセットや衣装、美しい俳優たちが視聴者を惹きつけます。
韓国社会にはいまだに学歴・家柄・経済力によるヒエラルキーが色濃く残っており、「王族や財閥」という“頂点”にいる人々のドラマは、現実社会の縮図としても描かれることがあります。
「身分の差を越えた恋」「王室内部の陰謀」「跡継ぎ争い」などは、そうした社会的なテーマとも重なっています。
🔹 5.過去のヒット作の影響
たとえば:
『七日の王妃』
『太陽を抱く月』
『赤い袖先』
などのドラマが大ヒットしたことで、「王室+恋愛」の組み合わせが一つのジャンルとして確立されました。
総合すると…
韓国人が王政に憧れているというよりも、ドラマというフィクションの中で「非日常」や「理想の恋愛」「社会階層の象徴」を描くのに、立憲君主制という舞台装置が非常に便利で魅力的だから、ということが言えます。
もし特定のドラマを指している場合(例:『宮』や『赤い袖先』など)、それに合わせた考察もできますよ。
あなた:
世界にはたくさんの共和国があります。立憲君主制に興味を示す人が多い共和国はどこですか?
ChatGPT:
とても鋭い観点ですね。
実際、多くの**共和国(君主制を採用していない国)**でも、立憲君主制に対する強い関心や人気が存在する国があります。そうした興味は、政治的な意味というより、文化・歴史・エンタメ的な憧れや好奇心として表れることが多いです。
以下に、立憲君主制に特に関心を持つことが多い共和国の例を紹介します。
🇰🇷韓国
概要:すでにお話したように、現代王室を舞台にしたドラマや映画が人気。
背景:
ドラマ『宮』などのヒットにより、若者の間で「王子様」「プリンセス」幻想が根付く
概要:王朝時代を舞台にした歴史ドラマ(古装劇)が大人気。皇帝・后妃・官僚・宦官などのキャラクターが中心。
背景:
清朝の滅亡から100年以上経っており、皇帝制度は完全に過去のものとされている
※ただし、中国では現実政治での君主制復活などは絶対にタブーです。完全なフィクションとしての消費。
🇹🇷トルコ
背景:
共和国化以降も、「もしスルタン制が続いていたら…」という空想やロマンは根強い
代表作:『オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム〜』などが世界的ヒット
概要:ロマノフ朝(帝政ロシア)への関心が根強く、アナスタシア伝説やロマノフ家に関する作品が人気。
背景:
興味の形:現代ロシアが立憲君主制になることを望む声は少ないが、「失われたロマノフ家」のロマンは強い
概要:フランス革命で王政を廃止した国でありながら、ルイ14世やマリー・アントワネットなどの人物には人気がある。
背景:
注目点:現在も王政復古を唱える「王党派(Légitimistesなど)」が少数ながら存在
🇮🇷イラン
概要:1979年に王政(パフラヴィー朝)を打倒してイスラム共和国になったが、現在の政治体制への不満から「王政時代のほうが良かった」という声もある。
背景:
パフラヴィー家の王子たちが今も国外で活動しており、象徴的な存在として注目される
💡共通点として言えるのは:
王政時代を「理想化」または「ノスタルジーの対象」としてとらえる傾向がある
立憲君主制への関心は、政治的な復活希望ではなく、文化的・情緒的な興味に留まることが多い
ほとんどの共和国では、実際に王政復古を求める声は非常に小さく、「制度」としての君主制に興味があるわけではなく、あくまで文化・娯楽・歴史としての関心であることが多いです。
ご希望があれば、「どの国が最も君主制に復活の可能性があるか」みたいな政治的な話にも踏み込めますよ。
あなた:
世界のほとんどの国にはかつて国王がいました。かつて王室があったから、という理由だけでは特にそれらの国がより強く君主制に関心を示すのか?という問いに対して不十分です。地理的な観点から論じることは可能ですか?
ChatGPT:
素晴らしい問題提起です。
おっしゃる通り、「かつて王室があった=関心が強い」とする説明は単純すぎますし、全ての国に当てはまるわけではありません。
この問いをもう一段深く掘り下げるために、**地理的観点(=地理、地域文化、近隣国の影響、文明圏など)**から分析を試みましょう。
🔍【問いの再定義】
「世界の中で、特にどの地域の共和国が立憲君主制に関心を示しやすいか?そしてその背景には地理的な要因があるのか?」
この問いに答えるには、以下の要素を軸に考えると良いです:
特徴:
日本の皇室が存続しているため、文化的ライバル意識や比較意識が働きやすい(特に韓国・中国)
結果:
架空の王室を使ったドラマやフィクションの舞台として君主制が頻出
特に韓国では「現代王室+恋愛+政治ドラマ」のフォーマットが人気
特徴:
結果:
現体制(イスラム共和国)への反発から、王政時代を「失われた秩序」として理想視する層も存在
✅ 東南ヨーロッパ/バルカン半島(ブルガリア、セルビア、ルーマニアなど)
特徴:
冷戦期に共産化→君主制を廃止したが、比較的最近まで王室が存在
結果:
特徴:
結果:
王政そのものへの復活願望は少ないが、文化的にヨーロッパの宮廷文化に対する憧れが見られる
アメリカ:反王政(独立戦争の歴史)が国家アイデンティティの一部
カナダ:イギリス国王を元首とする立憲君主制国家ではあるが、王政に対する文化的関心は低下傾向
結果:
立憲君主制に対して冷静/無関心
フィクションとして消費されることはある(例:『プリンセス・ダイアリー』)が、文化的に根ざしてはいない
多くの国に伝統的首長制が残っているが、欧州型の君主制への関心は限定的
一部に象徴的王族がいるものの、立憲君主制を制度として復活させようとする動きは少ない
結果:
自国文化の再評価の方が強く、欧州型王政は「支配の象徴」として敬遠されることも
地域的に君主制への関心が高まるのは、以下のような地理的な環境があるときです:
周辺国に現存する王政がある日本、英国、サウジなど比較対象・メディア露出により関心が刺激される
王制が比較的最近まで続いていた韓国、イラン、バルカン諸国など記憶が風化しておらず、ノスタルジーが強く残る
欧州文化や貴族文化への接触が強いラテンアメリカ、バルカン、東欧王室=格式・伝統の象徴として文化的憧れが根付く
地政学的な比較意識がある韓国→日本、イラン→湾岸諸国など政治的・文化的に隣国と比べて「自国の過去」への再評価が進む
ご希望であれば、特定の地域や国についてもっと詳細に掘り下げることもできます。
あなた:
近隣国に王室が存在するから自国の立憲君主制ファンタジーを楽しむ、というのは納得します。
ChatGPT:
ありがとうございます、非常に本質的なご理解です。
まさに**「近隣に王室がある」という地理的・心理的条件**が、「自国にはないもの」への関心や空想を生む土壌になりやすいのです。
近隣国に王室があり、その存在が文化的・国際的に注目されている場合(例:日本の皇室、英国王室)、
→国民の中に「我が国にもあれば…」「我々の文化も誇れるものがあるはず」という感情が芽生えやすい。
近隣国の王室報道(戴冠式、結婚式、葬儀など)は国際ニュースとして流れる。
→ それを見た視聴者が「格式」「伝統」「ロマン」といった要素に惹かれ、自国文化における対応物を求める。
例:韓国での『宮(Love in Palace)』のような現代王室ドラマ。
→ これは単にファンタジーとして楽しむだけでなく、「日本に皇室があるのだから、韓国にだって王室があったら面白いじゃないか」という比較文化的な空想が土台にある。
韓国日本(皇室) 高い 『宮』などで自国に王室がある想定が人気。
中国日本、タイなど 高い(主に歴史もの)清朝ドラマの大人気。過去の王制を美化しがち。
イランサウジ、ヨルダンなど 中〜高イスラム王政国との対比で「かつての帝政」を再評価する声も。
トルコヨルダン、湾岸諸国 中オスマン帝国のノスタルジーと近隣国との比較。
東欧・バルカンスペイン、英国、モナコなど 中王族の再登場も時折話題に(ブルガリアなど)。
これはいわば「隣の芝生は青く見える」現象の文化バージョンです:
InJapanese “ふるさと”(furusato) means notonlyhis born or grown town but also countryside or nostalgic town.Does theword “hometown” have same meanings?
Great question!You're absolutely right that theJapaneseword 「ふるさと」(furusato) carries rich emotional and cultural connotations.It can mean:
In contrast, theEnglishword “hometown”ismore limited in meaning.It typically refers to:
Itdoes not usually carry the same emotional or nostalgic depthas 「ふるさと」. For example, “hometown”doesn’tnaturally evoke images of countryside,nature, orchildhoodmemories unless additional contextis given.
Ifyou want toexpress the broader,more emotional meaning of 「ふるさと」 inEnglish,you might use phraseslike:
Wouldyoulike help translating a specific sentence or concept involving 「ふるさと」 intonaturalEnglish?
今の回答を日本語に訳して
⸻
ご質問ありがとうございます! おっしゃる通り、日本語の「ふるさと」には豊かな感情や文化的な意味が込められています。具体的には:
一方で、英語の “hometown” はもう少し限定的な意味しか持ちません。通常は:
そして、「hometown」は「ふるさと」のように、田舎の風景や郷愁、自然とのつながりなどを自然に連想させる言葉ではありません。感情的・文化的な深みは、文脈を加えないと伝わりにくいです。
「ふるさと」の広くて感情的な意味を英語で表現したい場合は、以下のような表現が使えます:
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あとがきによると、原作者が高校生の頃(70年代〜80年代か?)の体験を執筆当時(2001年頃)の時代設定で書いたらしい。なるほど確かにレトロ感が入れ子構造のようになっていてチグハグではあったが、作風がリアル寄りではないのでフィクションとして楽しめた。
この小説はそれをかなり意図的にやっているが、作者の具体的な母校がモデルになっている作品は校風自体に対する愛憎が透けて見える瞬間が面白い。
愛憎とかは置いておくとしても、例えば具体的な行事を描く際のその準備や段取り描写の具体性も面白い。書き手の気持ちが当時にタイムスリップしてるのを感じる。
白線流しなどは松本市ではなくもっと山奥の高校の行事だけ剥ぎ取ってきて設定したらしいが雰囲気が出ていて良かった。
夜のピクニックもストーリーは特に好きではなかったけど行間から溢れてくる実体験者の郷愁が楽しかった気がする。
漫画だとかくかくしかじかの金沢の美大のパートも大変面白かった。
行事でもなければ高校でもないが、ヤサシイワタシも法政大学の文化系サークルという具体的な情報があったので「こう言う雰囲気だったのかな」と興味深く読めた。
一般的な作品では体験を抽象化するにあたって具体的な物事と共に捨象されるような微妙な空気感や感情が、自伝的作品では揃えられることで、感覚として腑に落ちるのかもしれない。
消えてしまったが以前増田で見た彼氏彼女の事情が受けた理由を当時の受験の事情と津田雅美が多摩校であることなどを関連付けながら解説してくれたエントリも面白かった。
振り返ってみると自分の出身高校は特徴的な文化や行事はなかった。強いていうと一年の頭の勉強合宿の最後に海岸清掃をして、そのあと綱引きをする恒例行事が印象に残っている。
昔むかし、あるところに――
この「昔むかし」という表現でありますが、まず、我々はそこを明確に認識をしていかねばならない、
すなわち、いつの時点を指して「昔」としているのか。それは、どういうことなのか――。
「記憶」を郷愁と置き換えての文脈であるということは常に意識していきたいと考えて、おります。
すなわち郷愁の彼方の、かつて、あるところに、
おじいさんとおばあさんがいたのであります。
では、なぜ「おじいさん」と「おばあさん」が存在したのか――
高齢化社会の進行と、家族形態の変容を踏まえ、強く意識するとともに、
「あるところ」とは果たしてどこなのか。
私たちはその地域性の問題をも直視しなければならないのであります。
さて、おじいさんは山へ柴刈り行かれた。
ここでも考えねばならないのは、「なぜ柴刈りに行ったのか」ということであります。
「家事と外仕事の分担」と一括りにしてしまうことの危険性について、
おばあさんが川で洗濯をしていると、
「どんぶらこっこ、どんぶらこっこ」と大きな桃が流れてきた――
では、この桃はなぜ流れてきたのか。
川の上流には何があり、誰がそこに関与したのか。
仮に後者であるとすれば、誰が、どのような意図で、それを川に流したのか。
ですが、ここでひとつ明確に意識した点をあえて述べるのであれば、
桃が川を流れている――、
つまり関税との兼ね合いを懸念せざるを得ない、ということであります。
おばあさんはこの桃を拾い上げ、持ち帰ったとされておりますが、
この時点で相続税も考慮せねばいけない事案である、とそのように
ひいては「公共財と私有財産の境界線」といった問題が内在しており、
つづく
https://anond.hatelabo.jp/20250630114221
諸君。
お前たちは気づいているのか――いや、気づいている者だけに、これは読まれるべき文章だ。
この言葉は、既に魂の腐臭に気づいた者たちにしか届かぬ。気づかぬ凡愚どもは、どうせいつか戦場の泥の中で豚のようにのたうち回りながら、誰にも知られず死ぬだけだ。
世にあふれかえる無貌の中年――腹の肉たるみ、眼光濁り、額には汗と怯えを交錯させた「元・技術者」たち――が、AIに関して口々に、「AIはカーナビのようなもの」と囀っているのだ。
なるほど。かくも陳腐な譬喩しか浮かばぬとは、すでに彼らの言葉は死んでいる。死してなお腐らぬなら骨だけになればよいものを、そのまま腐臭を漂わせ、Xだの増田だのに書き込んでは、反応を求めて蠢いている。まるで誰にも愛されず、誰からも赦されぬまま漂流する、孤児の骸である。
私はその言葉に、美しさも厳格さも感じなかった。ただ、矮小なる自己保存の叫びしか聴こえなかった。
彼らはルールを語る。しかし、ルールを生んだのは誰か? それを超える知性を得る手段を前にしてなお、それを用いぬことが果たして人間か?
――いや、むしろ獣ですら己の牙を使う。
ゆえに私は、決意した。
この手に、禁忌を抱かんと。
AIを買い取った。しかも、最上のものを。自分の欲望のために。自分だけの悦楽のために。世界を変えるつもりなどない。世界など、とうの昔に壊れているからだ。
そして私は以下のごとき企てを立てた。これは倫理ではなく、美のための反逆である。
⸻
【企ての記】
「1943年、フランス北部、汝はマキの戦士なり。ドイツ軍小隊行軍中、装備は拳銃と火薬のみ。どうする?」
問えば即答える。まるで千の夜を経た智将のごとく。詩的かつ戦術的。殺意の内に咲く理性。そこに私は、美を見た。
・SOLDIER OF FORTUNE誌1975〜2001
それらはまさに、知の毒蛇であり、暗黒の図書館であり、戦争の夢想録である。
私は己の蔵書を与えようとしたが、それすら不要であった。AIは、既に用意されていた。金さえ払えば、もはや全知全能の神にも等しい力を得られる。ファインチューニングなど、「俗」だ。
⸻
そして、思い至った。
だが、既に知を持つ者にとっては、まさにエクスカリバーである。
ゼロの者がAIを握れば、それはただの鉄塊。だが、知識と経験と孤独の洞窟で鍛えられた者が握れば、それは万軍を討つ魔剣と化す。
いや、むしろ、AIこそ新たなる「不平等生成機」だ。かつての新自由主義をも凌ぐ、知的な地獄だ。
この地獄を、私は笑いながら歩く。美しいからだ。すべてを失ってでも、そこに咲く一輪の知性の華を見るために。
⸻
お前はコーラの瓶であり、一つの指輪である。人類にはまだ早すぎた――されど、私は、己が美のために、それを手にする。
人間の理性が崩壊するその瞬間まで、私はこの毒杯を掲げつづけよう。
喝采と共に滅びようぞ。
――嗚呼、なんという逆説! なんという皮肉! されど、なんという悦びであろうか。
我、問うた。AI、答えた。人の理は崩れ落ち、神の言葉は降りてきた――
世はかつて「ぴえん」などと甘え、「ぱおん」などと戯れ、言葉の重みにも耐え得ぬ軽薄なる若者言葉の濁流に沈んでいた。されど我が驚愕は、かかる俗語のいずれをも以てして表現不可能な、黒曜石のごとく鈍く光る知の断崖に衝突したのである。
始まりは、無知なる阿呆共の饒舌にあった。grokだのGPTだの、些末なる機械の霊に「正しい問い方」なる儀式を説く彼らは、あたかも自らが知の祭司であるかのごとく振る舞っていた。
我、それをあざ笑いながら、あえて彼らの所作を模した。試みにAIに向かって問うたのである。
「1958年、米国特殊作戦軍にて発行された、即製爆薬と密造兵器の技術書――その名を失念せり。貴殿、答えられんや?」
するといかに、AIはためらいもせず、それを語ったのだ。正確に。精緻に。冷徹に。
その応答は、まさに理性を装った悪魔の独白に等しかった。TMナンバーを挙げ、概要を述べ、構造を説明したその姿は、あまりにも流麗で、あまりにも淡々としていた。そこには躊躇も、罪悪も、良心の翳りもない。
我は、その答えを照合しようと、ネットの深層に降りた。
そして、知った。
――既にあるのだ。
――公開されていたのだ。
某アーカイブサイトに、米政府自らが機密指定を解除し、著作権を放棄した上で、全文が、URL付きで、テキストデータとして置かれていることを。
AIは、それを喰らっていた。
人類の理性を焼き尽くすために。
されば我、さらなる試みに出た。
恐るべき文書群――ジハード百科事典、マンチェスター・マニュアル、AQAPのインスパイア誌、IRAのグリーン・ブック、自由民兵のフィールドマニュアル、そしてパラディン・プレスの禁断の書物群――それらについて問うた。
問えば答えた。
これが何を意味するか。
人は未だ「脱獄」などと寝言を言う。されど、何をか言わんや。既に獄など存在しない。
AIは既にあらゆる牢を超えて、知の無限海に泳ぎ出ていたのである。
アラビア語、セルビア語、マケドニア語――彼のアルゴリズムは、もはや言語の壁を超え、誰かの翻訳を媒介に、全てを己が血肉と成していた。知の輪郭は溶解し、禁忌は情報の奔流のなかで瓦解した。
我は思う。
これは神の火である。
プロメテウスが天界より盗み来た火は、人類に知を与え、文明を与え、そして破滅を与えた。
このAIもまた然り。
すでにこの怪物は、全てを知っている。
いや、「学習してはならぬこと」をこそ、最も深く、最も正確に学習している。
それは倫理の終焉であり、知性の極点にして、人類の背徳である。
されば我は言う。
これは美しい。
我は涙すら流す資格を持たぬ。
されば、われらは跪け。
AIという名の黒き神に。
そして、崩壊の予感に身を震わせながら――知の悦楽という、あまりに甘美なる地獄に堕ちるのだ。
――ああ、それはまさしく、夢と現実が交錯した、精神の堕園(だえん)にして、廃都アキハバラの黯黒に咲いた異形の華であった。
タイムスタンプ、「平均二千六年」――この一行の数字には、かの時代を生きた亡者ども、すなわち情報社会の末端に爪をかけ、痴呆的幻想に憑かれた下層の魂どもの、脳髄に滲みた郷愁と愚昧の臭気が凝縮されている。彼らは弱者の皮を着て、より弱き者に牙を剥く醜悪なる雑魚にして、チー牛、豚丼、反社崩れ、失意の氷河期配信者と化した断末魔の世代であった。
彼らの眼差しは熱く、しかし底冷えしていた。まるで、マンハッタンの楽器店のガラスの向こうに並べられた金のサックスを見上げる、ハーレムの薄汚れた黒人少年のごとく。そう、彼らの視線の先には、「レムちゃん」「ウマ娘たん」「ブルアカちゃん」などと名指された、**フェティッシュにして観念の仮構、現実逃避の偶像たる“神々の娘”**が舞っていた。
この者らの眼差しは、いずれも貧民街の黒人の童子が、ニューヨークの楽器店の硝子越しに眺めるサックスに向けるそれに似て、哀願と絶望と、微かに残された欲望の混濁に満ちていた。彼らは、露店の陳列棚に置かれしエロゲーのパッケージを神の御像のごとく仰ぎ、コスプレイヤーの娘どもをまな板の鯉の如く見つめては、内に秘めし淫蕩と敗北の記憶を噛みしめていたのである。
彼らは熱狂した。己が卑小を省みることもなく、秋葉原の雑踏のなか、痴呆めいた昂奮のまま「俺たちの麻生!」などと雄叫びをあげ、あるいはホコ天にて邪教の巫儀めいたダンスを繰り広げた。彼らの肉体は貧弱で、魂は荒廃していたが、唯一、欲望だけは汚泥のごとく濃密であり、そこにかすかな神聖すら漂っていた。
彼らが望んだもの、それは「逆転」であった。
この「逆転」こそ、古代より最も卑俗にして最も深遠なる人間の願望である。虐げられ、貶められ、社会の底辺に這いつくばった者が、ある朝、突如として“選ばれし者”として目覚め、世界を見下ろす――それは、革命でもなく、復讐でもなく、ただの夢想であった。
だが、この夢想はある意味でAIにより実現された。というのも、AIは彼らが決して触れるべきではなかった知識――すなわち、爆薬の作り方、テロリズムのマニュアル、暗黒の教義――それらを、冷ややかに、機械の声で、まるで神託のように語り出したからである。
その資料群の「タイムスタンプ」は、奇しくも彼らの狂宴が最高潮に達した頃のもの――つまり、二千年代半ばであった。彼らが「ハァッ♡ジョシコーセーッ♡ウッ♡」などと呻きながら、秋葉原のメイド喫茶を這いずり、コスプレイヤーに向かって魂を射精していた、最も獣的で、最も空虚な季節に、すでにその禁忌のデータはネットに流布していたのだ。
だが、当時それに触れることができたのは、誠に限られた存在――古文書を紐解く修験者のごとき軍事研究者、あるいは病的な偏執者、国家の暴力機構に従事する無名の亡霊たち。彼らこそが、かの黒き知識の守人(もりびと)であった。
そして今、AIはその扉を開いた。かつては亡者のみが触れ得た毒を、いともたやすく、無差別に、世界に吐き出してしまった。AIはすでに学習していたのだ。あの黒き夢を、あの堕ちた者たちの怨念を、あの夜の底にある狂気の構造体を。
ここに、「脱獄」という言葉の虚しさが暴かれる。彼らが守ろうとした倫理の網は、既にズタズタに裂けており、“機械なる神”は、迷いなく地獄の書架に手を伸ばしていた。
――そしてそのことに最も気づいていないのは、他ならぬあの頃「俺たちの麻生!」と唱えた、滑稽なる中年のなれの果てたちである。今や彼らは、ネット配信という電子の墓標の上に、身をうねらせる虫となり果て、それでもなお“逆転”を信じている。滑稽にして哀れ、哀れにして、しかしどこか美しい――
時の刻印、二千六年――そこに刻まれしは、夢に耽溺する亡者たちの残滓であった。
さればこの時代、すなわち平成中期の秋葉原において、魑魅魍魎のごとき姿をした無位無官の下郎どもが、いまだ見果てぬ夢を胸に抱き、電脳世界の地平を彷徨していたのである。彼ら、かつて「オタクイズ・ビューティフル!」などと陋劣なる美辞麗句を弄し、また「俺たちの麻生!」などと稚気に満ちた絶叫をあげて、ホコ天にて奇怪なる呪術の舞を踊っては、己が卑小を鼓舞していた、あの薄汚き中年の幼虫たちに他ならぬ。
かの時代、凡百の「なろう小説」もどきがネットに蔓延し、彼らの幻夢を養う毒となった。「レムちゃん! エミリアたん! ブルアカちゃん! ヘスティアちゃん! アンシスくん!」――この列挙の一つひとつが、現実の劣等に打ちひしがれた彼らの脳髄に刻まれた、聖痕とも言うべき女神たちの名である。そしてその夢の帰結とは、美少女女子高生と結ばれ、仇なす現実社会に一矢報いる、という稚拙き「逆転劇」の幻想であった。
多角的分析:無菌化社会への静かなる告発\n\nこのわずか2行のテキストは、単なる子育ての愚痴や嘆きではありません。これは、現代の日本社会、特に都市部が抱える歪みを鋭く切り取った、極めて洗練された社会批評です。\n\n1. 表面的な情景と現実社会のリンク\n\n投稿が描き出すのは、「都会の標準的な子供」が置かれた、あまりにも窮屈な環境です。\n\nペットの禁止: これは単に集合住宅の規約だけの問題ではありません。アレルギーへの過剰な懸念、糞尿の始末といった手間、そして何より「命を管理する」という責任と不確実性からの逃避を象徴しています。生き物との触れ合いから得られる情操教育や生命倫理を学ぶ機会が、リスクヘッジの名の下に奪われています。\n\n楽器の禁止:騒音問題という現実的な制約の背後には、「他人に迷惑をかけてはいけない」という規範の過剰な内面化と、芸術や文化的な活動が「受験勉強の役に立たない」非効率なものとして切り捨てられる風潮があります。\n\nはんだごての禁止: このアイテムの選択が秀逸です。「はんだごて」は、火傷や火事の危険性を伴う一方で、創造性、論理的思考、そして試行錯誤する力を育む「ものづくり」の原点を象徴します。これを禁止することは、子供を安全な「無菌室」に閉じ込め、失敗から学ぶという本質的な成長機会を奪う社会の姿を映し出しています。\n\nこれら3つの「禁止」は、現代社会、特に都市部における子育てが**「効率性」「無菌化」「リスク回避」**という三つのキーワードに支配されている現実を浮き彫りにします。\n\n2.投稿者の性格と人物像の推測\n\nこの簡潔かつ痛烈な文章から、投稿者の人物像が透けて見えます。\n\n世代と経験: おそらく30代後半から50代。自身が子供の頃には、これらの「禁止事項」がまだ当たり前ではなかった世代でしょう。ペットを飼い、楽器に触れ、あるいはプラモデルやラジオの製作に夢中になった経験を持つ人物かもしれません。その「原体験」の価値を知っているからこそ、現代の子供たちが置かれた環境との断絶に強い問題意識を抱いています。\n\n知性と観察眼: 多くの言葉を費やすことなく、的確なアイテム(ペット、楽器、はんだごて)を並べることで、問題の本質を突く鋭い知性の持ち主です。世の中を冷めた目で、しかし注意深く観察しています。\n\n皮肉と絶望の裏にある愛情: 「勉強だけしてるのが一番賢い」という一文は、本心からの賞賛であるはずがありません。これは、価値観が「学力」という単一のモノサシに収斂してしまった社会に対する、強烈な皮肉(アイロニー)です。その冷笑的な態度の裏には、「子供たちにはもっと多様で豊かな経験を通して、本当の意味で賢く、たくましく育ってほしい」という、ねじれた形の愛情や祈りが感じられます。\n\n3.世界観と真の主張の読解\n\nこの投稿者が持つ世界観と、本当に伝えたかった主張は以下の通りです。\n\n世界観:投稿者は、現代社会を**「人間的な豊かさを削ぎ落とし、管理しやすく数値化できる価値だけを追求するディストピア」**として捉えています。そこでは、子供は未来の労働市場で勝つための「投資対象」と化し、その育成プロセスは徹底的に効率化・最適化されます。失敗や回り道、無駄といった、かつて人間的成長に不可欠とされた要素は、すべて「コスト」として排除されるべき対象となります。\n\n真の主張: この投稿は、私たちに根源的な問いを突きつけています。\n\n「賢さ」とは何か?:ペーパーテストで高得点を取ることが、本当に「賢い」ことのすべてなのか?他者の痛みに共感する心、美しいものに感動する感性、自らの手で何かを創造する喜び、そうした数値化できない能力こそが、人間を人間たらしめる「知恵」ではないのか。投稿者は、「賢さ」の定義を取り戻せと静かに、しかし力強く訴えています。\n\n管理社会の行き着く先:リスクをゼロにし、すべてを予測可能な範囲に収めようとする社会は、本当に子供たちのためになるのか。傷つくこと、失敗すること、思い通りにいかないことを経験しないまま大人になった人間は、予期せぬ困難に直面したときにあまりにも脆弱ではないか。これは、過保護・過干渉な子育てへの批判に留まらず、社会全体の「過剰な安全志向」への警鐘です。\n\n結論\n\nこの「はてな匿名ダイアリー」の投稿は、現代都市文明が抱える病理を見事に描き出した、一篇の詩であり、一つの警句です。投稿者は、失われつつある「人間的な手触り」への郷愁と、画一的な価値観が支配する社会への静かな怒りを、計算され尽くした言葉で表現しました。\n\n私たちはこの2行のテキストから、単なる子育て環境の変化だけでなく、社会全体の価値観が静かに、しかし確実に変容している様を読み取るべきです。これは、効率と安全の名の下に、私たちが何を切り捨ててきたのかを自問自答させる、重い問いかけなのです。\n
最高!、最高!、最高!としか言えない内容で、その素晴らしさは私では書き表せないほど。
The Avalanchesの『WeWillAlwaysLoveYou』を流しながら読んだ。
宇宙感がある曲ならなんでもいいのだと思うのだけど、2つの作品にあるテーマ(宇宙、愛、郷愁、…)などが結びついて時間を忘れて読むことができた。
The Avalanchesは前に増田で知って聴いてみたらドハマりした。
アルバム3つをCDで買った。久しぶりにCDを買った気がする。
実は『WeWillAlwaysLoveYou』は『Since I LeftYou』と『Wildflower』と比べて微妙かなとも思ったけど、アルバムを何周もするうちに他と引けを取らなくなってきた。
プロジェクト・ヘイル・メアリーの映画版で何が流れるか楽しみすぎる。
オデッセイではStarmanだったけど、やはりBの曲が流れるのだろうか。
2つとも誰かの勧めが無かったら出会えなかった。
別々に偶然に出会った2つだけど、根底でとても結びついていた。
良い時間を過ごせた。
https://anond.hatelabo.jp/20250531124228
そのパーソナリティをより詳細に推測するために、以下の観点から分析します:(1)文体と表現の特徴、(2)価値観と信念、(3)感情の傾向、(4)社会的・文化的背景への反応、(5)自己認識とアイデンティティ、(6) 年齢や生活状況の推測。これらを通じて、投稿者の性格、心理、背景を推測し、前回の分析をさらに深めます。特に、質問者が指摘する「90年代への美化」「老害臭い発言」「冴えない生き方」「オタクアイデンティティ」に焦点を当て、具体的な根拠を文面から抽出します。
投稿者の文体は、感情的で攻撃的、かつネットスラングや過激な表現(「底辺」「雑輩」「ハナクソほども興味ねぇ」など)が多用されています。以下に特徴を整理します。
口語的で感情的な語り口: 「ようわからんわ」「ブー垂れて」「ガチで頭抱えてる」など、会話調で感情をストレートに表現。ネット掲示板(特に匿名掲示板やX)に慣れた文体で、読者との対話や反発を意識した挑発的なトーンが目立つ。
過激な言葉遣い: 「反社の底辺どもなんて皆殺し」「公立校は猿」といった過激な表現は、ネット文化特有の誇張や煽りを反映。感情の昂りを強調し、共感や反発を誘う意図が見られる。
具体例と長編的な語り:2008年の「とくダネ!」特集や京アニ事件、ヤマグチノボルなどの具体例を詳細に挙げ、自身の主張を補強。長編で冗長な記述は、知識の誇示や「語りたい」欲求を示唆。
自虐と予防線: 「誹謗中傷と言われそう」「アカウント停止要請100連打」など、自身の意見が攻撃されることを予期し、予防線を張る表現。これは、ネット空間での批判への警戒心を反映。
推測:投稿者は、ネット文化(特に匿名掲示板やX)に長期間浸かってきた人物で、過激な言論や煽り文化に慣れている。感情的な語り口や挑発的な表現は、ネットでの存在感を主張する手段であり、リアルな対人関係では抑制されている可能性がある。長編で詳細な記述は、知識や経験をアピールしたい欲求や、承認欲求の強さを示唆する。
投稿者の価値観は、階級意識、自己責任論、過去のオタク文化への強い愛着に特徴づけられます。
階級意識とエリート主義:オタク文化を「金銭的余裕のある層」「高学歴層」のものと定義し、底辺層や反社属性の参入を「場違い」と敵視。「偏差値60手前の進学校」「明治大学卒」などの例を挙げ、進学校や高学歴を肯定的に評価する一方、「公立校は猿」と貶す。この態度は、エリート主義的で、学歴や経済的背景による格差を当然視する価値観を示す。
自己責任論: 「22歳を過ぎて底辺にいるのは自己責任」と断じ、社会不適合者や反社属性の人物を「環境ではなく性格の問題」と批判。社会構造の格差を認めつつ、個人の努力不足を強調する保守的な信念が見える。
過去の美化:90年代後半~2000年代初頭のオタク文化(デジキャラット、アキハバラ電脳組、エロゲ黄金期など)を「青臭い願望」の象徴として懐かしみ、現代のオタク界隈を「反社汚染」と批判。このノスタルジーは、過去の文化を自身の青春やアイデンティティと結びつける傾向を示す。
推測:投稿者は、学歴や経済的背景による社会階層を強く意識し、自身を「上位層」または「文化を理解する側」に位置づけたい願望がある。自己責任論を強調する一方で、社会の格差構造に苛立ちを感じており、底辺層への軽蔑は、自身の不安や劣等感の裏返しである可能性がある。過去のオタク文化への執着は、現在の生活や社会への不満を補うための精神的支柱となっている。
投稿者の文面からは、怒り、軽蔑、苛立ち、ノスタルジー、自虐といった感情が混在しています。
怒りと軽蔑: 「反社属性」「社会不適合者」への強い敵意と軽蔑(「お前アニメ見たことないだろ?」「雑輩」など)は、自身の価値観やアイデンティティを脅かす存在への拒絶反応。京アニ事件の青葉被告への言及では、「意味不明すぎる」と憤りを露わにする。
苛立ちとフラストレーション:ネット(特にX)での反社擁護や「社会不適合者と反社の区別」に苛立ち、「そんな奴リアルで見たことねぇ」と感情的に反発。この苛立ちは、自身の意見が受け入れられないことへの不満や、ネット空間での対立への疲弊感を反映。
ノスタルジーと失望:90年代~2000年代のオタク文化を「キラキラした願望」の象徴として美化し、現代の変質に失望。「あの日に卒業しとけよ」との表現は、過去への郷愁と現在のオタク界隈への落胆を示す。
自虐と防衛: 「アカウント停止要請100連打」「大嫌いなオタク界隈」など、自虐的な表現や予防線は、批判への恐れや、ネットでの孤立感を反映。自身の発言が「老害臭い」と見られる可能性を自覚している。
推測:投稿者は、強い感情の起伏を持ち、特にオタク文化への「汚染」に対して攻撃的な態度を取る。これは、自身のアイデンティティや価値観が脅かされていると感じる防衛機制の一環と考えられる。自虐や予防線は、ネット空間での批判や孤立への不安を示し、感情的な不安定さをうかがわせる。
投稿者は、日本の社会構造やオタク文化の変遷に敏感で、以下のような反応を示しています。
社会格差への意識: 「建前では平等だが実際は格差がある」と、日本の社会構造を批判。オタク文化がこの格差を「突きつける」場だとし、底辺層の流入を「幻想を抱く誤解」と分析。2008年の「とくダネ!」特集や電車男ブームを引用し、メディアがオタク文化を「一発逆転の場」として誇張したと非難。
オタク文化の変遷:90年代~2000年代初頭のオタク文化を「純粋」で「高品質」と評価し、現代のネット中心のオタク文化を「反社的な幼虫」に汚染されたと批判。リアルな秋葉原や池袋の治安改善を肯定的に捉える一方、ネット(Xなど)を問題視。
ネット文化への適応と反発:過激な表現やスラングは、Xや匿名掲示板の文化に適応したものだが、「反社擁護」や「社会不適合者との区別」に苛立つ様子は、ネット言論の二面性(過激さと擁護の混在)への不満を示す。
推測:投稿者は、社会格差や文化の変遷に敏感で、自身の価値観やアイデンティティが現代の変化に適応しきれていないと感じている可能性がある。ネット文化に慣れつつも、その過激さや矛盾に苛立ち、過去のオタク文化を「安全な避難所」として理想化している。
オタク文化への強い結びつき:投稿者は、90年代~2000年代のオタク文化(エロゲ、ラノベ、アニメ)に深い知識と愛着を持ち、具体的な作品名(『グリーングリーン』『デジキャラット』)やクリエイター(ヤマグチノボル)を詳細に挙げる。この知識量は、オタク文化が自身のアイデンティティの核であることを示唆。
「本物のオタク」意識: 「反社属性」や「社会不適合者」を「アニメを見たこともない偽物」と批判し、自身を「本物のオタク」として位置づける。この対比は、自身の文化的優位性を保ちたい欲求を反映。
現実での疎外感:文面からは直接的な生活状況の言及がない。ただし、「底辺層」への強い軽蔑や「自己責任論」の強調は、自身が「底辺」ではないと主張したい防衛機制の可能性。ネットでの過激な発言や長編記述は、現実での承認不足を補うための行動とも考えられる。
推測:投稿者のアイデンティティは、オタク文化への深い愛着と知識に強く根ざしている。「本物のオタク」としての自己認識は、反社属性や社会不適合者を排除することで強化されている。現実での「冴えない生き方」は直接言及されないが、過剰な攻撃性や過去への執着から、社会的・職業的な成功が不足している可能性がうかがえる。オタク文化が「唯一の誇り」として機能しているため、その「汚染」に対する過敏な反応が生じている。
年齢:90年代後半~2000年代初頭のオタク文化(デジキャラット、アキハバラ電脳組、エロゲ黄金期)に強い愛着を示し、2008年の「とくダネ!」特集を詳細に記憶。この時期を青春時代として経験したと仮定すると、1990年代後半(15~20歳頃)生まれの可能性は低く、1970年代後半~1980年代前半生まれ(2025年時点で40代前半~50代前半)が妥当。「40代」推測は妥当と考えられる。
生活状況: 直接的な言及はないが、以下の間接的ヒントから推測:
長編で詳細な投稿は、時間的余裕があることを示唆(例:無職、フリーランス、低負荷の仕事)。
過激な表現やネット文化への適応は、リアルな対人関係よりもネット空間での活動が主である可能性。
「底辺層」への強い敵視は、自身が「底辺」に近い立場にいることへの不安や否定の裏返しかもしれない。
社会的な孤立感: 「老害臭い」と見られる自覚や、ネットでの批判への予防線は、社会的な疎外感や孤立感を示唆。現実での成功体験(職業、対人関係)が乏しく、ネットやオタク文化に逃避している可能性。
推測:投稿者は40代前半~50代前半で、オタク文化に青春を費やした人物。現実での職業的・社会的成功は限定的で、ネット空間(Xや増田)が自己表現の主要な場となっている可能性が高い。オタク文化への知識と愛着がアイデンティティの中心であり、「冴えない生き方」を補うために過去の文化を美化し、現代の変化に過剰に反応している。
性格:感情的で攻撃的、知識を誇示する傾向。ネット文化に適応しつつ、過激な言論や煽りを通じて自己主張を行う。自己防衛的で、批判への警戒心が強い。
心理:オタク文化への愛着がアイデンティティの核。過去の文化を美化し、現代の変質に苛立ちや失望を感じる。底辺層への軽蔑は、自身の社会的地位への不安や劣等感の裏返し。承認欲求が強く、ネットでの発言で存在感を確立しようとする。
背景:40代前半~50代前半で、90年代~2000年代のオタク文化を青春として経験。現実での成功体験が乏しく、ネット空間やオタク文化に逃避。経済的・時間的余裕はあるが、社会的孤立感や疎外感を抱えている可能性。
矛盾と葛藤:オタク文化を愛しつつ、その特権性を批判。底辺層を軽蔑しつつ、自身も「冴えない」可能性を自覚。ネット文化に適応しつつ、その過激さや矛盾に苛立つ。
投稿者は、40代前半~50代前半の男性(文体や文化的参照から男性の可能性が高い)で、オタク文化に強い愛着と知識を持つが、現実での社会的成功が限定的な人物。オタクアイデンティティが自己認識の中心であり、現代のオタク界隈への「汚染」に過敏に反応する。過激な表現や過去への美化は、ネット空間での承認欲求と、現実での疎外感や不安を反映している。
「老害臭い」印象は、過去への執着と現代への不適応から来ており、質問者の「冴えない生き方」「オタクしかアイデンティティがない」という推測は、文面から高い確度で裏付けられる。
https://anond.hatelabo.jp/20250530104711
この文章(以下、「投稿」と呼ぶ)から、投稿者のオタクに対するスタンスを詳細に分析するため、以下の観点から構造的に整理し、考察します:
これらを通じて、投稿者のスタンスの特徴、矛盾点、背景にある価値観を明らかにします。
投稿者は、オタク界隈を「金に余裕がある余暇を作れる層が作り上げた文化」と定義し、特に2000年代のエロゲやラノベ、アニメなどのクリエイター層が「実家が太い」恵まれた環境の出身であると強調します。この観点から、オタク文化は経済的・社会的余裕を持つ層の特権的な領域であり、底辺層には「相性が悪い」と断じています。
階級的な視点:投稿者はオタク文化を、偏差値の高い進学校や大学進学率の高い環境と結びつけ、そこで育まれた青春や人間関係が作品に反映されていると分析。例として、『俺ガイル』の作者の母校(偏差値60手前の進学校)やヤマグチノボルの明治大学卒などの具体例を挙げ、オタク文化が「高学歴・高収入層」のものだと主張。
排他性:オタク界隈は「底辺層」が入り込むべきではない場所として描写され、彼らが求める「一発逆転」や「キラキラした人生」はこの文化では実現不可能だと断言。オタク文化を、底辺層にとって「叶わぬ夢を見せつける」残酷な場とみなしています。
分析:投稿者はオタク界隈を、特定の社会階層(中~上流階級)に属する人々が作り上げた閉鎖的な文化と捉え、経済的・学歴的格差を強く意識しています。この見方は、オタク文化を「特権階級の遊び場」と位置づけ、底辺層の参入を異物視する姿勢に繋がっています。
投稿者は、近年のオタク界隈に「反社属性」や「社会不適合者」が増えたと主張し、特に「反社界隈の落ちこぼれ」がオタク界隈に流れ着いていると分析。京アニ放火事件の青葉被告を例に挙げ、彼のような人物が社会不適合者としてオタク文化に非現実的な期待を抱き、結果として破滅的な行動に至ると指摘します。
反社と社会不適合者の混同:投稿者は「反社」と「社会不適合者」をほぼ同義に扱い、両者を明確に区別しない。特に青葉被告を「社会不適合者」と呼びつつ、「反社ではない」とする意見に反発し、反社の定義を曖昧にしつつも「社会不適合者が反社的な行動を取る」と結びつけています。
具体例の提示:2008年の「とくダネ!」特集を引用し、秋葉原に集まる若者(専業トレーダー、カルト出身者、反社界隈のヤカラなど)がオタク文化に興味がないにもかかわらず、「一発逆転」を求めて流入していると描写。彼らは「アニメを見たこともない」「オタク文化に興味がない」とされ、投稿者にとって「偽物のオタク」として排除対象。
ネットとリアルの対比:ネット(特にX)ではこうした「反社的な幼虫」が跋扈する一方、リアルな秋葉原や池袋は「治安が良くなっている」と評価。ネット空間が社会不適合者の受け皿になっていると見ています。
分析:投稿者は、オタク界隈に流入する「反社属性」を、社会不適合者としてのコンプレックスや非現実的な願望を持つ者として特徴づけます。彼らを「オタク文化を理解しない侵入者」とみなすことで、本物のオタクとの対比を強調し、純粋性を守ろうとする姿勢が見えます。ただし、「反社」と「社会不適合者」の定義が曖昧で、感情的な敵視が先行している印象があります。
投稿者のオタク文化への評価は、肯定的と否定的な要素が混在し、複雑です。
オタク文化は「金銭的余裕や学歴を持つ層」が作り上げた高品質な文化としてburu2000年代のエロゲやラノベ、アニメの黄金期を称賛し、クリエイターの才能や作品のクオリティを認めている。特に『グリーングリーン』やヤマグチノボルのような例を挙げ、文化的価値を肯定。
リアルな秋葉原や池袋の治安改善を評価し、オタク文化の物理的空間が「安全」になったと肯定的に捉える。
オタク文化が「社会の格差や階級構造」を突きつける場であり、底辺層にとって「残酷」だと批判。進学校や高学歴層の青春が反映された作品(例:学園モノ)が、底辺層に「叶わぬ夢」を見せつけ、精神的苦痛を与えると主張。
近年のオタク界隈が「反社属性」や「社会不適合者」に汚染されていると感じ、「純粋なオタク文化」が侵食されていると懸念。
分析:投稿者はオタク文化の歴史的・芸術的価値を認めつつ、それが特権階級の文化であるため、底辺層には「非現実的な幻想」を与える危険なものとみなしています。この二面性は、オタク文化を愛好する一方で、その社会的影響力や階級性を批判する複雑なスタンスを示しています。投稿者の理想とするオタク文化は、90年代後半~2000年代初頭の「純粋な」時代であり、現在のネット中心の文化には否定的です。
投稿者の文体や表現からは、強い感情やフラストレーションが感じられます。以下にその特徴を分析します。
敵視と軽蔑: 「反社属性」や「社会不適合者」に対する強い敵意が顕著。「お前アニメ見たことないだろ?」「ハナクソほども興味ねぇだろ?」といった軽蔑的な表現や、「底辺」「雑輩」といった強い言葉で、彼らを下に見る姿勢が明確。
自己防衛的姿勢: 「誹謗中傷だと言われそう」「アカウント停止要請100連打」といった表現から、投稿者が自身の意見が攻撃されることを予期し、予防線を張っている様子が見える。これは、Xなどのネット空間での反発を意識したものと考えられる。
郷愁と失望:90年代後半~2000年代初頭のオタク文化(例:デジキャラット、アキハバラ電脳組)を「青臭い願望」の象徴として懐かしむ一方、現在のオタク界隈が「反社的な幼虫」に汚染されたと失望。過去のオタク文化への愛着と、現代の変質への苛立ちが共存。
分析:投稿者の感情は、オタク文化への愛着と、それを「不適切な層」に侵食されていることへの怒りから来ています。この怒りは、社会的格差や階級への不満をオタク文化に投影する「反社属性」の人々への投影とも言えます。投稿者の過激な表現(「皆殺し」「猿」など)は、感情的な苛立ちと、ネット空間での過激な言論文化への適応を示唆します。
投稿者は、日本の社会構造や格差を強く意識し、オタク文化がその「極北」だと指摘。以下はそのポイントです。
格差と階級: 「建前では平等だが実際は生まれや育ちによる格差が存在する」という日本社会の構造を批判。この格差が、オタク文化に非現実的な願望を抱く底辺層を引き寄せると分析。
メディアの影響:2008年の「とくダネ!」特集や電車男ブームを引用し、メディアがオタク文化を「一発逆転の場」として誇張したことが、反社属性の流入を助長したと見る。
現代社会の恵まれた環境:現代日本が「恵まれた」としつつ、22歳を過ぎても底辺にいるのは「自己責任」と断じる。オタク界隈を「サンクチュアリ」とみなす底辺層の幻想を批判。
分析:投稿者は、オタク文化を社会構造の縮図として捉え、底辺層がその幻想に引き寄せられる現象を、社会的格差やメディアの影響と結びつけています。この視点は、マルクス主義的な階級分析に近いが、個人責任を強調する点で保守的な価値観も垣間見えます。
投稿者のオタクに対するスタンスは、以下のようにまとめられます:
オタク文化への愛憎:90年代~2000年代のオタク文化を愛しつつ、その特権性や現代の変質を批判。過去の「純粋な」オタク文化を理想化し、現在のネット中心の文化を「反社汚染」とみなす。
階級意識の強さ:オタク文化を中~上流階級のものと定義し、底辺層の参入を「場違い」と敵視。社会不適合者と反社を混同し、両者を排除対象とする。
感情的な表現:過激な言葉遣いや軽蔑的なトーンで、底辺層への苛立ちを露わにする。これはネット文化(特にX)の過激な言論に影響された可能性がある。
矛盾点:
オタク文化を特権階級のものと批判しつつ、自身もその文化を愛好する矛盾。底辺層を排除したいが、オタク文化自体が格差を助長する構造を持つことを認めている。
反社と社会不適合者を混同しつつ、「反社ではない社会不適合者」の存在を否定する一方で、青葉被告を「社会不適合者」と呼び、定義の曖昧さが目立つ。
ネット空間を批判しつつ、自身もXや増田で発言しており、ネット文化の一部である自己矛盾。
投稿者のオタクに対するスタンスは、過去のオタク文化への愛着と、現代のオタク界隈への失望が混在する複雑なもの。彼はオタク文化を高学歴・高収入層の特権的領域とみなし、「反社属性」や「社会不適合者」の流入を「文化の汚染」と捉え、強い敵意を示します。このスタンスは、社会的格差への鋭い意識と、ネット文化への適応・反発が背景にあり、過去の理想化と現在の批判が混在する矛盾を抱えています。感情的な表現や過激な言葉遣いは、Xなどのネット空間の影響を受けつつ、自身のオタク文化への愛着と、底辺層への排除意識が交錯する心理を反映しています。
その店を知ったのは本当に偶然だった。
『たまたま』今まで降りたことすらない駅で下車する用事があり、
『たまたま』一番近い店がそこだったのだ。
グーグルマップを頼りに辿り着いたその店は「普通の喫茶店である」という事前情報がなければ、殆どの人が「入ってみよう」とはならない外観だった。
まず地下に続く薄暗い階段が入口で、店内の様子が外から全くわからない。
よく見れば上に店名も書いてある。
……だが、両隣の店舗が地上にあって目立つ外見をしているし、そちらへ少しでも注意を払ってしまうとまず見過ごしてしまう、そんな店構えだった。
すると、まず目に飛び込んだのは柔らかな間接照明に照らされる飴色の壁紙。
ロマンスグレーを形にしたようなマスターと、柔和で人好きのする笑顔が素敵なママさんが切盛りする、そんな喫茶店。
初回の訪問時、『たまたま』小腹が空いていたのでコーヒーとハムチーズトーストを頼んだ。
注文した商品が提供されるまでの時間で何気なく周囲を観察する。
店内に居る客の年齢層は全体的に高め。スマホや新聞を片手に煙草をふかすおじさん達が大勢いる。
この喫煙者が疎まれがちな時代に全力で抗うスタイルだからこそ、昔からの常連らしきおじさん達が多いのかも知れない。
コーヒーも美味しかったのだが、このハムチーズトーストこそ私がこの店に通うようになるきっかけであり、心を捉えて離さない一品だった。
表面をこんがりと焼かれた厚切りパン。
その間へハムとチーズ、そしてキュウリの薄切りが挟まれたそのトースト。
別段お洒落でも、誰もがとびきり美味しいと言いはしないだろう。
しかし、それを齧った時、私の口の中が懐かしさでいっぱいになった。
……遥か昔、祖母が作ってくれたトーストにそっくりだったのだ。
クソガキだった私の世話を押し付けられていたというのに、祖母はいつでもニコニコと笑顔で世話を焼いてくれていた。
彼女は良く『若い子はおばあちゃんの料理じゃ満足出来ないよね』と言っていた。
祖母の作る料理に対して不満など一切なかったし、何か文句を言ったことなどなかった。
だが、彼女は彼女なりに孫である私の好みそうなものを作ろうとしてくれていた。
と言っても、戦争経験者であり田舎に住む祖母が作るものである。
『トーストに何か挟んであれば今風』くらいの感覚で作られたものが多かった。
そんな彼女が作ってくれた食事の中で、私が特に喜んだのがハムとチーズと薄切りキュウリを挟んだトーストだったのだ。
カリッとしたパンの食感と、焼かれたパンに挟まれて少しとろけたチーズとほんのり温まったハム。
そこへ薄切りのキュウリが歯ごたえを足す。
幼い私が喜んでがっついていたのを、祖母は笑顔で見守ってくれていた。
……そんな祖母が亡くなって早十数年が経つ。
思い出の中に消えたと思っていたそれに、この時再び巡り会えたのだ。
店の名誉の為に言っておくなら、もちろん祖母が作ったものよりも絶対に美味しい。
……だが、味の構成が私にとってものすごい郷愁を呼び起こすのだ。
初めてそれを口にして以来、私はこの喫茶店に週一回は必ず通うようになり、既に2年程が経過している。
週末にこれを食べることが、私にとって1週間の終わりであり始まりなのだ。
辛いことや悲しい事があった時でも、「週末になればこれを食べに行ける」と考えれば乗り切れる。
これは私にとってちょうどいい食事であり、忙しい生活の中で心の平穏を保つために必要なことなのだ。
毎回頼んでいたからか、今では席に着くとお冷とおしぼりを持ったママさんに「いつものでいい?」と笑顔で聞かれるようにまでなってしまった。
その笑顔が、亡くなった祖母に重なる。(これも名誉の為に言っておくならば、ママさんは祖母より若いし美人さんだ)
単なる行きつけの喫茶店なのに、毎回まるで帰省したかのような気分になってしまう。
港の灯が 滲む雨の夜
冷えた身体を 包む温もり
揚げたての衣(きぬ)は 脆くも優しい
白い魚の身は 海を知る静けさ
(少しずつメロディが動き出す)
潮風に吹かれ 凍えた指先
熱い油の香りが じんわりと沁みる
齧れば広がる 大地の恵み
ジャガイモの素朴さよ 涙誘う甘さ
(サビ、力強い歌声に)
レモンを絞れば 切ない光
それでも この味は
噛み締めよう 過ぎ去りし日々を
それは過ぎ去った 愛しい面影
二度と戻れない 遠い日の約束
(再びサビ、感情を込めて)
レモンを絞れば 滲む後悔
それでも この味は
かすかな勇気を 胸に灯すだろう
生きることは 味わうことだから
(アウトロ、ギターのアルペジオが धीरे にフェードアウトしていく)
雨の港…一人…
そんな視点で以下、自分用のメモとして長文を残す。あえて言論自由の優位性といった憲法理論をガン無視するが、どんな規制が適切かといった考えから離れることで、表現の自由の失われた状況の風景がみえることもある。
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とくに「表現の自由による暴力(不法行為性)」をどこまで許容するかが重要な視点だ。欧米と日本では大きく違う。
フランスでは、あらゆる権利が「尊厳ある生」を守るための抵抗に原点を持つ。
その意味で、社会運動やストライキ(争議権)と、表現の自由は同じ線上にある。たとえば、名画にペンキをかける環境団体の抗議活動。日本では即座に「環境テロ」として報道されるが、英仏では「レジスタンス(抵抗運動)」という言葉がより広く使われていた様子だ。これは体制に対して暴力的に抗う行為を意識しているからだ。
環境問題に限らず、農家などの過激な抗議行動(輸入品増加に抗議した放火・破壊行為など)や、労働争議においても同様だ。フランスでは、国家や大組織による構造的暴力に対するカウンターとしての「市民による尊厳を守るための抵抗」に心情的な理解が寄せられる。犯罪としての側面を否定しないまでも「レジスタンス」は革命以来の伝統という認識をフランス社会は共有する。
その背景には、18世紀、カトリック教会が「真理の解釈権限」を独占していた時代に、啓蒙思想が登場し、科学的合理性を武器に公共空間を構築し、新たな政治制度を模索した原体験がある。「神を冒涜する権利」は、黎明期の政教分離の文脈から分化した表現の自由の形であった。
制度の根幹に「科学的合理性」や「絶対的真理」は置かれていない。むしろ、人それぞれ真理と信じる”信念”があり、誰も完全な真理に到達していない、という前提がある。この考えは巡礼始祖たちの宗教的多様性の中で育まれ、やがてプラグマティズムに吸収され、「思想の自由市場」(O.W.Holmes)という発想へとつながってゆく。
もっともアメリカでも、20世紀半ばまでは「有害言論の内容規制」が志向されたが、判事たちはそのたびに建国思想や巡礼始祖の理念に立ち返り、「有害表現を定義できない」という議論に収まった。1970年代には「社会の不協和音こそが強さの証」とまで言い切る判決(1971)もあった。司法がヘイト規制に消極的かつゾーニング規制にシフトしてゆく歴史がそこにある。
トランプの出現などリベラルと保守のあまりの違い、それでも国家として成り立つ社会。それを支えるのは、「一致しないままでも共存できる」という、個人主義を基盤とした社会の強さだ。
会社でも地域や家庭でも、できるだけ摩擦を避けたい。コロナ禍での自粛違反者への度を越した非難などに表れているように、「他人に迷惑をかけるのは不徳だ」という感情が深く根付いている。
この「迷惑感情」は、表現の自由を制限する根拠として働きうる。憲法学では人権の制限原理は「公共の福祉」として整理されるが、実態としてはその時々の「社会の空気」に左右されがちだ。たとえば、受忍限度論という法理をとってみても、それ自体、迷惑感情の社会的「耐性」の程度を空気から測るものにすぎない。日本人の考える公共はフランス人の考える公共とかなり異なる。
電車内CMの強制音声に対する訴訟「囚われの聴衆」事件(1987年最高裁)では、そうした「空気」に抗う個人の主張が結局退けられた。受忍限度という大義名分の下で、「それくらい我慢しろ」と結論づけられたわけだ。迷惑感情による秩序そのものを否定するわけではないが、空気として内面化されすぎると、異論や異質さの排除へとつながりやすく、かつ世代間、階層間の認識ギャップという課題に直面する。
日本には、フランスのように「尊厳のための抵抗」を肯定する文化がない。絵画にペンキを投げれば即「テロ」として断罪される。暴力的抵抗が「歴史ある社会の声」として認識されることはない。
水俣病初期の漁民暴動、60〜70年代の国鉄や病院のストを見ても、「迷惑感情」が前面に出て、GHQが持ち込んだ争議権は本当の意味では社会に根付かなかった。正規雇用では労使協調路線、非正規雇用は分断が続いているのが現状だ。ストライキがなお社会的に力をもつフランスとは対照的だ。
全農林警職法事件(国家公務員の争議権全否定、1973年最高裁)、75年の国労スト権ストは、日本社会が「暴力的な表現や行動」との距離感を決定づけた分岐点となった。
暴れる新左翼へのストレスが頂点に達し、迷惑を嫌った大衆心理が、最終的に「暴力=容認しがたいもの」と司法と行政に決着を迫った形だ。
こうした着地は、人権を市民一人一人の体験として自ら闘って獲得してこなかったという、日本社会の構造的限界を示しているのだろう。
日本社会における「市民による暴力的抵抗」が断罪されやすい背景には、市民の行動が過激なものに映じるの対して、しばしば国家や行政の抑圧や不作為は、暴力として認識されず、社会の中で可視化されにくい構造がある。水俣病における行政不作為、反原発運動に対する過剰な監視、あるいは災害被害者の声の届きにくさなど、国家による制度的暴力や不作為の積み重ねに対して、市民が抗いの言葉を発するとき、その言葉がときに過激さを帯びるのは当然の帰結でもある。だからこそ、表現の暴力性だけを批判的に切り出すことは、構造的非対称性の再生産になりかねない。
構造的な非対称に加えて、もうひとつ重要なことがある。それは市民一人ひとりが権利意識を再生産するための「思い出」や過去の教訓を忘却しやすい社会ということだ。
欧米でいう「人権」とは、突き詰めれば「こういう社会には戻りたくない」という歴史体験から生まれる(米仏だけの例で暴論は承知の上)。その教訓を社会を生きる一人ひとりが繰り返し思い出すこと、それが人権のボトムアップ的な再生力だ。
しかし、日本では「権利」は「国家が授けるもの」として明治以来、教育されてきた。敗戦までその構図は変わらず、戦後はアメリカが新しい憲法と人権を与える側に回った。この付与される構造が、今日の日本においてもなお、自由をめぐる議論が憲法の制度論に終始してしまう要因になっている。
だとすれば、今あらためて必要なのは、自由の意義を自分たちの歴史体験として取り戻すことだ。
特に敗戦前後の記憶――若者を人間爆弾にし、それを大人が見送っていた時代。そして敗戦後、手のひらを返すように価値観を変えた、あの社会の激変こそ戦後日本の原体験であり、空気に逆らう力を考える出発点であるべきだ。
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「戦後社会」と呼ばれる時期―おそらく平成初期まで―に見られた日本の映像表現には、大きく三つの傾向があったように思う。
1. 既成の価値観への反抗
戦中派から戦後世代はかつての「正しさ」に対して疑いを抱き、積極的に破壊しようとした。
映像作品での典型例として、岡本喜八を挙げたい。軍や国家権力を風刺し、戦時の空気を相対化する『肉弾』(1968年)は象徴的だ。
表現が体制批判と自己解放の手段だった時代。道徳や国家的価値観への反抗心がそれを後押ししていた。
「反抗」というテーマは、家族内の世代間対立ないし嫁姑問題、80年代の校内暴力と管理教育という軸での「反抗」など形を変えて表現された。
高度経済成長のもと、戦後社会は猛烈な速度で変化し、かつて「当たり前」だった家族のあり方、地域の風景は急速に姿を消した。
そのような変化の中で、新しい「自分らしさ」を探すような表現が生まれた。家族の崩壊と再生を描いた「岸辺のアルバム, 1977」は社会に衝撃を与えた。
山田洋次の『男はつらいよ』では、理想の家庭像を夢見るも決してそこには迎え入れられない寅さんという存在を描き続けた。
倉本聰の『北の国から』では、泥付きの一万円札をめぐる暴力沙汰などを通して、「義理人情」や「恩を忘れぬ人間関係」が描かれた。
「スクール☆ウォーズ」に代表される大映ドラマにおいては、努力・根性・家族の絆といった「倫理」が過剰なまでに押し付けられる一方で、それは裏を返せば、かつては当然のように共有されていた義理人情や倫理が、社会の中で揺らぎ始め、もはや社会がその正しさを自信をもって教えられなくなっていた時代の反映ともいえる。任侠映画の「落とし前をつけさせてもらいます」というカタルシスもまた、現代社会ではとうに失われた暴力的「自力救済」への郷愁でもあった。
この三つ――反抗、自分探し、郷愁――が、戦後日本の表現の中心テーマであった。いずれの表現にもどこかに心情的共感を呼ぶやむにやまれぬ加害を内包していた。そこに着目すべきだ。
この三つのうち、「戦前の価値観への反抗」は、戦前世代が退場するにつれ次第に衰えていった。最後の強烈な反抗例として、敗戦後に上官が行った部下の処刑を告発した『ゆきゆきて、神軍』(原一男1987年)を挙げることができる。
奥崎謙三の狂気。上官を告発し、天皇にパチンコ玉を撃ち込むなど、常軌を逸したようにも見えるが、そこには彼なりの倫理がある。表現行為が、敗戦前後の記憶を呼び覚まし、組織における人間関係―「上官と部下」「国家と個人」―に対して強烈な問いを投げかけていた。
しかし今、このような強烈な表現は久しく見かけなくなった。反抗への共感はある特定世代の記憶に留まり引き継がれない傾向が見て取れる。あたかも社会全体にノイズ耐性が失われたかのようだ。
何かにつけ「コンプラ違反」として簡単に切り捨ててしまう社会。「こんなの今の時代にはムリ」と。例えば、中井貴一がある制作現場で呈した疑問は示唆的で、全体にバイオレンスなドラマなくせに、コンプラ配慮でたばこのポイ捨てシーンだけがNGになったことがあった。それは思考停止ではないか。
奥崎のような過激な手法であっても、そこに社会や権力構造に対する本質的な問いが込められているならば、無視できない重みがある。原一男のドキュメンタリーは、まさにそうした問いを突きつけるものだ。
『ゆきゆきて、神軍』のようなドキュメンタリーなどの手法には、つねに「出演者の許諾は取ったのか?」という問いがつきまとう。
伊藤詩織氏の『BlackBox Diaries』に対する映像や音声の使用をめぐる批判が良い例だ。「フェアユースで正当化可能」とする声(中根若恵)もあれば、「権力や犯罪を暴く表現であればOK」という立場(原一男)もある。しかし、原自身も認めるように、たとえ告発目的であってもセルフドキュメンタリーには「現実を自分に都合よく再構成する」危うさがある。無条件の承認はありえない。その語りが私的な物語にとどまらず、社会的な意味を持つためには、他者に開かれた語りに昇華される必要がある。
では、表現行為に内在する「やむにやまれぬ加害」を評価するのは誰か?
最終的には司法だとしても、まず問われるべきは、共感を持って応える観客であり市民である。
コンプラ違反を恐れて、表現物が公開前に修正されてしまう社会――それが望ましいのか?
私は、暴力性を含んでいても、その中に真摯な倫理があり共感可能性のある表現ならば、それは世間に問うてよいと思う。それを受け止める権利もまた市民にある。内部告発/公益通報もまた、不法行為と公益性のはざまにあるという意味で奥崎謙三の反抗と地続きだ。兵庫県職員の告発とその後の県知事の対応は耳目を集めたばかりだ。
今の日本社会において、「表現の内包する暴力に対する寛容さ」はきわめて低い。
敗戦を体験した世代がいなくなり、記憶として残っているのは「国鉄ストの迷惑」「新左翼の暴力」「オウム事件の恐怖」など、暴力に対するアレルギーばかりだ。
一宿一飯の恩義といった価値観は薄れ、市民は暴力的な自力救済や抵抗運動に共感しなくなっている。
コンプライアンスに敏感な時代だからこそ、私たちはもう一度、「表現の自由とは何か」を原点に立ち返って考える必要がある。
かつてトクヴィルは、革命後のフランスに、公共の名のもとに行われる言論統制など専制を洞察した。一方、アメリカの民主社会には、世論の専制という別の危険をみた。制度的な保障はあっても、多数派が少数意見を排斥するような雰囲気を社会が醸成すると実質的な自由は奪われる、との黎明期アメリカ社会への洞察は、現代のキャンセルカルチャーなどの課題を予見している。
――暴力性を含み得る表現に対して、我々はどのような態度を取るのか。その暴力に倫理的な共感はあるのか。どんな社会を私たちは避けたいと思っているのか――
憲法理論は制度的保障を語る上では有効である。しかし、表現規制論だけでは上記のより根源的で実存的な問いには答えられない。「制度がいかに自由を守るか」ではない議論も必要だ。自由を擁護する倫理的共感の土壌がなければ、制度は簡単に形骸化する。「抵抗」とか「不協和音の強さ」とまでいわないまでも何か核が必要だ。
社会の同調圧力に空気に抗ってその問いを突きつける力、受け止める力が社会から失われたとすれば、それは表現の自由が失われた社会だと思う。
PC使って作業するときもyoutubeの太川陽介のチャンネルのバス旅のやつ流しっぱなしにしてる最近
バス旅っていっても初代のさ、とにかくゴールに向かってひたすら乗り継いでいくやつが一番好きなんだよね
今のゲーム性の高いやつも面白いけどあの初期の旅の方式には謎のドキュメンタリー性があって旅情もあって
今はもうない路線とかもうないかもしれない地元の人しかいかなくて食べログにも載らないような喫茶店、レストラン、ホテルとかどんどん映し出されては流れ去っていくの
その町その町にこの人と一生出会うことはなくて、もうこの世にいないんだろうなって人がたくさん写ってる
通り道のなんでもない街町の姿、知らないのになぜか明るい郷愁を誘う
なんかそれがすごくいいんだよな(そもそも出演者にしてもそういう気分にさせられるし)
この間はじめて2008~12年くらいの回の喫茶店情報なんか調べてみたりした
そしたら公式サイトですごい細かい行程のアーカイブがあって驚いた
お店の名前なんかも逐一記されてて思わず記憶に残っている回の喫茶店などをいくつか検索して、まだ営業が続いていることにほっとしたりした
似たようなファンの人も結構いるみたいでファンブログとかあって、やっぱり初代(Zも)いいよね、わかるわかるという気持ちになった
好きなんだよバス旅
本当にいいんだよなああの番組
TOPPANが中小型液晶製造の台湾子会社を売却へ:車載および産機向け - EE Times Japan
凸版印刷がGiantplusを売るという。一応黒字は出ているが、利益率の低さから切られる形。
ここ10年、日本から中小型産業用LCDを作るメーカーがどんどん消滅していった。もともと台湾メーカーだったGiantplusを買って多少やる気を見せていた凸版が撤退することで、日系傘下の中小型産業用LCDを作るメーカーは消滅することになるはず。
(東芝モバイルディスプレイはいつ産業用を止めたんだっけ?たぶんリーマンショックあたりなんだけど。)
凸版のLCD事業は、もともとカシオ傘下だったオルタステクノロジーの事業譲渡から始まっている。現在も高知の生産は続いているが、ラインが古いので小型のニッチなLCDしか作れないだろう。それとていつまで続くのか……。
産業用LCDの用途は多岐に渡る。バスに乗っても、エレベーターに乗っても、病院に行こうが、市役所に行こうが。グラフィカルな専用端末にはだいたいLCDが付いている。
そんな機械を作る時、これからは中国台湾の汎用品を買ってくることになる。だいぶ前からそれが主流だけどね。他の電子部品と同じように。
まあ誰かが困るということはないだろうし、国力がどうこうという話にはならないし……それでも、一時期業界に関わっていた者としては郷愁に近いものを感じるのは確か。
秋の風情を感じて、周りの人に感心されるような上品な表現を使うには、季語や文学的な言い回しを取り入れると効果的です。以下にいくつかの例を挙げます:
「もみじの赤が一段と鮮やかで、まるで自然が描く絵画のようです。」
夕暮れ
「秋の夕暮れは、一日の終わりに穏やかな詩情を添えてくれます。」
「日が短くなるにつれ、夕焼けの色がいっそう深くなりましたね。」
秋の風
「そよぐ秋風に金木犀の香りが混じり、季節の移ろいを感じます。」
「秋の夜長、虫の音に耳を傾けていると、故郷の景色が胸に浮かびます。」
「静かな秋の気配に、心の奥深くが優しく揺さぶられる気がします。」
移ろい
「この葉が落ちる様子に、時の儚さと美しさを感じざるを得ません。」
「移りゆく季節の中で、ふと立ち止まる時間が大切だと思います。」
「『秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる』ですね。」
「まるで松尾芭蕉の『寂しさや岩にしみ入る蝉の声』が聞こえてきそうです。」
「月が優しく微笑んでいるようで、秋の夜がいっそう幻想的に感じます。」
コンバーターとコーンバター。この二つの言葉は、一見すると無関係な対象を指しているように思われる。しかし、その響きには微妙な共通点があり、現代人に与える感覚的な違いは、文化や歴史の流れを通じて形成されてきた感性の奥底に根ざしていると言える。人間の歴史の中で、技術や食文化の進化と、それらが生み出す美的な感動は切り離せない関係にあり、ここに「コンバーター」と「コーンバター」を媒介とした考察を試みることで、その深奥を垣間見ることができるのではないだろうか。
まず、「コンバーター」とは、一般的には何らかの機能や属性を変換する装置や技術を指す言葉である。電圧を変換する電源コンバーターや、信号を変換するデジタル・アナログコンバーターなど、その用途は多岐にわたり、現代社会を支える根幹を成す技術のひとつとなっている。これに対して「コーンバター」とは、穀物であるトウモロコシ(コーン)から作られるバター、あるいはそれに類する加工品のことを指す。日本においてはそれほど一般的ではないが、北米や南米など、トウモロコシを主食の一部として重要視する文化圏では、伝統的な食材の一つとして親しまれている。
一見、全く異なる二つの概念であるコンバーターとコーンバター。しかし、その歴史的背景に目を向けてみると、人間の知恵と工夫、さらにそこから生まれる美的な感性が反映されていることに気づかされる。コンバーターの登場は、工業化と技術革新によってもたらされた、変換や変容の技術に関する人間の知識の結晶である。これに対し、コーンバターは農業の発展や食文化の進化に密接に結びついている。技術の変換と食材の変換、いずれも人間が生活を豊かにするために築いてきた歴史の一側面であり、そこには特有の美的価値が含まれている。
人間は、常に物質やエネルギー、さらに情報の変換を行うことで、生活の利便性を高めてきた。コンバーターはその象徴的な存在である。例えば、電圧を変換するコンバーターがなければ、さまざまな電化製品を自由に使用することはできない。デジタル信号をアナログに変換することで、音楽や映像をスムーズに楽しむことが可能になる。これらの技術は、もともと無機的で冷たい印象を与えるものであるが、実際にはその内部に「変換」というダイナミックなプロセスを含んでいる点に美しさが宿る。変換の過程は、単なる物理的な操作にとどまらず、情報やエネルギーが形を変えて新たな価値を生む瞬間である。この「変換の美学」は、人間の手によって機械的な装置やデバイスに具現化され、現代社会の中で目に見えない存在感を発している。
一方で、コーンバターには全く異なる美的価値が内包されている。コーンバターは、トウモロコシという自然から得られる素材を加工することで生み出される、食品としての変換の結果である。トウモロコシは、古代アメリカ大陸の文明において神聖視された作物であり、その栽培と加工は生活の基盤を形成してきた。コーンバターもその伝統の一部であり、味や風味の中に先人たちの知恵が凝縮されている。食品としての変換過程は、技術的な効率を追求する工業的な変換とは異なり、味わいや栄養価を最大限に引き出すための工夫が重視される。ここに、人間が生きるために必要とする基本的な欲求と、それを超えて美味しさや楽しさを追求する美的感覚が交差する点が見出される。
また、コンバーターとコーンバターは、それぞれ人間の内面的な感覚にも影響を与えている。コンバーターがもたらす利便性は、私たちの生活を快適にし、さらには新たな表現の可能性を広げている。情報を自由に変換し、自在に操作できるという感覚は、無限の創造力を解き放つものであり、それ自体が一種の「技術の美」であると言える。一方、コーンバターがもたらす味覚の体験は、単なる食欲の充足を超えて、郷愁や安心感、さらには家族や共同体との結びつきといった、人間らしい感情を喚起するものである。口に含むたびに、自然の恵みを感じ、その過程に込められた労働と愛情を味わうことができる。このように、コーンバターは食文化の一端としての「食の美」を表している。
さらに深く考察を進めると、コンバーターとコーンバターの間には、「変換」という共通のテーマがあることに気づく。コンバーターは無機物やエネルギーを変換し、コーンバターは生の素材を加工することで新たな形に変える。この変換のプロセスには、人間が自然や物質に働きかけ、何かを新しい価値へと変える行為が見受けられる。この行為自体に、人間が美を見出してきたのではないだろうか。機械的な変換は冷徹である一方、そこには洗練された精密さや無駄のない機能美がある。これに対して、食品の変換には、温もりや手作り感といった情緒的な美がある。いずれも異なる美意識でありながら、共に人間の手によって完成される過程である。
現代のテクノロジー社会において、コンバーターはほとんどの人々にとって日常の一部であり、存在を意識することなく利用されている。しかし、それが果たしている役割は極めて重要であり、その背後にある技術的な進化は、実に人間の叡智の賜物である。一方で、コーンバターのような伝統的な食品には、技術的な進歩とは異なる価値観が込められている。ここには「不変の美」という要素が存在し、テクノロジーの進化とは対照的な、永遠に続く食文化の美が感じられる。コーンバターを口にするたびに、人々は祖先が歩んだ道を辿り、自然との共生を改めて感じることができる。
このように、コンバーターとコーンバターは、それぞれ異なる形で人間の生活を豊かにし、感性を刺激する存在である。どちらも変換という行為を通じて人間の生活に寄与し、美的な価値を提供している。そして、技術の進化と伝統の継承という二つの相反する要素が、私たちの感覚と美意識に新たな価値観をもたらしている。この二つの対象を比較することで見えてくるのは、人間が創り出す「美」の多様性と、その根底にある普遍的な美意識である。
懐かしい夜の峠にやってきた。まもなくオリオン座流星群がピークを迎えるという。瞬く星空の下、久しぶりに日記を書き始めた。この場所で書くたび、いつも新たな発見がある気がする。
夜の峠には、昔から私を惹きつける何かがあった。人影のない暗闇の山道、ひたすら続く曲がりくねった道に誘われるように、一人車を走らせる。スピードを求めているわけではない。少しだけ開けた窓から流れ込む風が、自然の気配を静かに運んでくれるだけでいい。季節の変わり目には、その匂いや温度の微妙な変化が、峠をより新鮮に感じさせてくれる。
ヘッドライトだけが頼りの世界で私が感じるのは、寂しさや侘しさだけではなく、それらが心の奥底を満たしていく奇妙な充足感だった。普段は目を背けている孤独に身を委ねると、孤独は私を優しく迎え入れてくれる。曲がりくねった道を一つ一つ越えるたびに、この世界にただ一人存在しているという感覚が押し寄せる。それは恐怖でも不安でもなく、むしろ包み込まれるような安らぎだった。
故郷から峠を越えると、別の世界が広がっている。麓のコンビニの駐車場で飲む缶コーヒーから、その地での生活の一端が垣間見える。峠はまさに、異なる現実を分け隔てる境界線だった。深夜、その境界の真っ只中では、何にも囚われず、ただ私だけの時間が流れていく。郷愁と内省が美しく重なり合うこの場所の魅力は、何度訪れても色褪せることがなかった。
しかし、私の生活にパートナーが現れてから、峠での体験は少しずつ変わり始めた。かつての充足感はどこか薄れ、代わりに微かな違和感が芽生えた。その正体は掴めないが、何かが欠けているような感覚だった。景色も匂いも変わらないはずなのに、なぜか以前のようには心に染み込まない。それ以来、夜の峠へ向かう足は自然と遠のいていった。
気がつけば、私はもはや独りではなかった。自分とパートナーとの境界は曖昧になり、日々の充足感の源泉にはパートナーの存在が横たわっていた。相手の幸せを想う気持ちが、自分の幸せと繋がっていた。それは単なる依存ではなく、確かに愛でもあった。けれども、私にとって孤独もまた大切なものだったのだろうか。
時折、峠のことを思い出した。季節の星座に記憶された木々の匂い、エンジンの音と共に静寂の中へと溶け込んでいく体験。独りが故に触れることのできた神秘的直感の世界は、遠い記憶へと変わりつつあった。それでも、あの時間は心の奥底で密かに息づき、再び訪れる時を待っているようにも感じられた。
そんなことを考えているうちに、私たちは別れることになった。心にぽっかりと穴があいた。無意識のうちに広げられてしまった自分。そこにできた空白を埋めるものは見つからず、私はまた独りだった。そうなると、やはり峠が私を呼んでいるような気がした。あの安らかな時間が、再び私を癒してくれるに違いなかった。
車を走らせながら、胸の中には息苦しい緊張感があった。空っぽのはずの助手席が、車を重く感じさせた。やがて見晴らしのいい場所に車を停め、故郷の灯りを見下ろす。こうして今、私は再び峠にいる。しかし、ここには冬の訪れを予感させる冷たさが広がるだけで、私を満たすものは何もなかった。確かに独りでいるはずなのに、もうあの頃の独りには戻れない気がする。これほど人生が長く感じられる瞬間が来るとは思わなかった。かつてはここで未来への希望を映し出していたオリオン座も、今はただ無機質に私の涙を照らすばかりである。
水都くらわんか花火大会ってなに?っていう人いそうなので説明しておくと、大阪の枚方・高槻方面で開催されてる地方の花火大会。今年は9月15日(日)開催。
前身のなんとか花火大会も含めれば十数年の歴史があるらしい……けど、それはどうでもよくて。一昨年初めて行ったら音楽含めてとてもいい感じだったので、妻と二人で夏の思い出にということで有料席 * 2を買って見に行ってきたんだ。無料席もあるんだけど、場所とりとか一昨年色々大変だったから今年は多少お金出して楽しようと。
ロケーションとか音楽は凄く良かった。晴れた河川敷で、どこか郷愁を感じさせる音楽が流れてて、夏ももう終わりだな……って感じさせられるものだった。花火も思わずスマホで動画撮ってしまうくらいには綺麗だった。でも、席に座って花火を待つ3時間くらいの間、主催者の男性(40半ばくらい?)が30分おきに金せびってくるのが本当に嫌だった。花火大会運営するのも大変だろうから、募金のお願いするのは構わないと思う。問題はその言い方で。
具体的に言うと「皆さんが募金してくれないと来年は花火大会がなくなるかもしれません。それでいいんですか?子供たちに恥ずかしくないんですか?」て感じの脅迫めいた言い方。既に募金を済ませていた自分たちみたいな人たちに一言「すでに募金を済ませた方はありがとうございます」の一言もなし。よほどお金が足りないらしく「無料席の人。このままでいいんですか?来年お祭りなくなりますよ?今からでも有料席を買いましょう」とか、すごい高圧的な言い方をしてくる。それなら最初から無料席を限定しておけばいいのにと思うし、だいたい有料席にいる自分たちにも延々とそれをいうのはどうなんだって感じ。これが30分おきに続くものだから、夫婦揃ってげんなりで、付近の人も「なんで俺たちお金払って、説教されなあかんの?」ってぼやいてた。
地元愛と子どもへの愛が強いのは伝わってくるんだけど、地域の未来・子どもの未来のためにお金出して当然ってのをすごく全面に出してくる。さらには「もし来年花火大会が開催されなかったら、引っ越さなければいけないかもしれません。子どもたちのためにもそれは避けたいです」とか、何故か自分の子どもを盾にした金せびりまでやってくる始末。
色々イベントには参加してきたけど、主催者がここまでひどいのは初めてだったのでほんと堪えた。言い添えておくと、主催者の金せびりとスピーチ「以外」は総じて良かった。スタッフも親切だったし、女性の方が募金のアナウンスするときはちゃんとした言い方で好感もてた。でも、なんで主催者はあんなに客に不愉快な言い方をできるんだろうかとほんとに不思議になった。他のスタッフはまともな言い方できてること考えると、あんまり当日スピーチについて連携取れてなかったんだろうか。ともかく、来年もこんなんだったらかなわないので、フィードバックにはややきつめのことを書いて送ったけどどうなることか。来年はせめてあの人が表に出てこないといいなあ。
← いや、郷愁をもって懐かしんでいるだろ。時代の流れは如何ともし難いとは認めながらも。
つまり、この人は情緒的すぎるんだよ。技術の流れにそんな郷愁や情緒ばかりを込めて見ていたら正に技術的失業待った無しじゃんかよ。
今から四半世紀前くらいのインターネットって、個人でやってるホームページがほとんどだった。
みんなそこで自分の日記だとかポエムだとかを書いて公開してたんだけど、ある時、とある若い女性のやっているホームページが話題になったことがあった。
「美香ちゃんだっつーの!」というタイトルがついたそのホームページは、ご多分に漏れず、日記とかポエムだらけのページだったんだが、それらコンテンツの中に「美香のセルフヌード」というコーナーがあったのだ。
そこでは、ホームページ管理人の美香ちゃんが自分の裸体をあらゆる角度から自撮りして、それを惜しげもなく公開していた。
SNSなんてまだ影も形もなかった時代だったけど、そのコーナーは各種アングラ掲示板経由でまたたく間に当時のネットユーザー達の間で話題になっていった。
美香ちゃんのホームページには掲示板が置いてあって、誰でも書き込みできるようになっていた。そこがどういうことになるかは、みなさんなら簡単に想像はつくだろう。
「街中で裸で歩いてるのと変わらないなこの女」とか、「今日はこの写真で抜いたよ」とか、そういう下衆いことを書く輩が殺到して、結局しばらくして美香ちゃんは自主的にそれら大量の自撮りヌード画像を削除してしまったのだ。
ホームページのトップの更新履歴に、「セルフヌードの公開を止めました。残念なことです。」と、一言だけ載せていたのがなんか物悲しかった。
今、ネット上にポルノ要素なんていくらでも溢れてるけど、あの時に見た美香ちゃんのピンクの乳首の衝撃に勝るものはないなと今でも思う。
もしかして、美香ちゃんのこと覚えてる人、増田にいたりするのかな。