
はてなキーワード:赤本とは
アイドル界の酸いも甘いも混沌も描いた『推しの子』が、本来対象じゃない低い年齢層の子供にも受容されてて関係者が焦るみたいなニュースがだいぶ前にあったけど、
自分の子供時代も含めてだが、この約四十年以上も、『推しの子』どころではない、本来子供に見せるべきではないコンテンツを子供向けと強弁して売り付けるような商売が横行し続けているとしか思えない。
親の本棚からとか、河川敷に落ちてるエロ本から見ちゃったとかそういう次元ではなく、最初から子供向けとして突きつけられ、人間性の健全な発達や安心を拒むコンテンツが溢れている。
それも単なる暴力やセックスの話では収まらなくなってきている。最近の少女漫画ではメンタルヘルスが病んでいる状態をむしろ美化しているのが常態化している。学歴差別や格差をギャグのように描く作品もあり、それを小学生女児がこれから自分が過ごす社会の有様として受け止めながら読む、そんな光景すらある。
自分の話をすると、小さい頃から色々な漫画に触れられる環境にいた。親はむしろ漫画を気にせずどんどん読ませてくれる側だった。
だが、何というか、しっくりくるコンテンツが無かった。平成中〜後期の現行コンテンツより、帰省先の母の実家に捨てられずに残っていた昔の漫画の方が、地に足についている気がしていた。
大学で「こども文化論」科目を取った時、子供向けコンテンツの変遷を調べる機会があった。結論からいうと、70年代を境目に、子供へのアプローチが大きく変わっている。子供は育くむべきものではなく、子供もそこで消費者にすり替えられていた。
そしてそれは当然ながら子供自身が望んだことではなく、明らかに大人の商売のために作られたものだ。
もちろん昔から赤本漫画など色々な問題があったが、それはしっかりと不健全なものと理解されていた背景があり、それに対して「健全」さがしっかりと対抗できていた。今は、少年漫画も少女漫画も、その槍玉に挙げられていた赤本(技巧やページ数の限界で抑えられていた)より数十倍も酷い内容を、美麗な外見でやっている。
ここで、実在した漫画家・寺田ヒロオ――あるいは彼がモデルの、藤子不二雄Aの『まんが道』(とその続編)に出てくるテラさん――の話を思い出す。トキワ荘での良き兄貴分というよく知られたキャラクターとともに、彼は漫画界の傍流、あるいは一種のバッドエンドルートのような言及を今でも受け続けている。
彼が何をしたか、どうして多くの人の記憶に残っているのかは、検索すればサジェスト経由ですぐわかるだろう。なぜか「闇」扱いされたりしているが。
かいつまんで言うと、自分の連載と同じ漫画雑誌で連載されていた他作者の漫画「恐怖魔人ゾンビラス」(漫画内の仮称で、実際は楳図かずおか永井豪の漫画か?)に対して、編集長に「子供に悪い影響を与える、連載をやめろ」と異議を直談判し、それが受け容れられないと自らの連載を切ったエピソードなどだ。
実際にはスパッと漫画家を止めたわけではないなど、漫画的脚色はあるが、テラさんの行動は様々な方面から史実と言える。子供のための「健全な漫画コンテンツ」を求めたテラさんの行動は、漫画内の描写はもとより、ネット上でも「時代変化を理解しなかった頑固な人間」「遺物」みたいな扱いを受けている。
しかし私は、テラさんの立場の方がずっと正しく、明らかに子供に対して誠実だったと、60年も後から思わされている。
あと、付け加えると、テラさんは漫画文化に対してステレオタイプな「浄化」一辺倒な立場ではなく、大人向けとはっきりわかる形で描いたアダルトな作風の漫画は否定していない。テラさんが心を割って話せる存在が任侠・アダルト漫画家の棚下照生だったように。
子供に、身の回りの有様を伝えるときに、まともな人間なら、「人間関係は全て打算で、あらゆるものが欲望で出来ており、全てが醜い」と伝える人はいないだろう。社会にそう言う側面があっても、そこだけを切り取って子供に植え付けるのはまともな行いではない。
テラさん当時の、技巧的に発展途上の漫画・劇画ですら、子供たちの世界を暗く後ろめたいものにしていたが、当時はまだ最低限の良心かタイトルで煽る形で分かりやすくしていたのかもしれない。だが現代ではそれは一見分からない形で(ギャグやロマンスなどの体裁を取り)提供されるようにすらなっている。
はっきりいえば、思春期より前の子供には、ごく単純な、心理描写が少ない、身近な人間関係を描いた作品以外、適していないと思われる。
近所で野球をするだけ。親の手伝いをするだけ。学校で仲間と学び合うだけ。動物と戯れるだけ。「それだけ」の漫画で充分だった。
それをしなくなったのは、そして子供向けではないコンテンツが子供に蔓延したのは、子供の事情や「時代の要請」「技術の発展」なんてものではない(子供が「ハレンチ学園」や「トイレット博士」を望んだのではない)。大人の商売の都合なのだ。
うんことかちんちんとかわざと幼くさせられている少年コミックも、けばけばしい、「病み」を称揚する少女雑誌も、全部歪められた末のものだ。
子供がコンテンツと社会の両輪で、我々以上にますます病む前に。
西ノ京大学って実際どんなところ?世間のイメージと内実が違う&よく聞かれるので、レポートしたい。
話を高校時代に戻すと、自分は成績は良かったが、帰宅すると小説ばかり読んでいたし、学校では看板とは違ってコンピュータプログラミングする部活で雑談と他人の作ったゲームの批評ばかりしていた口で、つまり、悲しいことに先見性はなかった。プログラミング技術の習得を思い立たなかったことを、後悔している。
三年の秋に赤本を開き、勉強しないといけないことに気づいたくらいで、他校の全国模試で一桁の成績をとるような連中とは無縁だった。
運良く現役で大学に滑り込み、医者にならずにすんだ。しかし、他人の腹を切って中に手を突っ込んで内臓を掴むことのできる職業は、そうそうないんじゃないかと思う。学部のガイダンスで「残りの大多数の(ハズレくじの)人も大学生活を満喫できるメニューを用意しているので安心して欲しい」と言われた通り、数学の才能その他はなかった。
一、ニ年目は、講義を詰められるだけ詰めて取ったおかげで忙しかった。一般教養の講義は、学生も教員もお互い期待しないだけあって多くはそれなりの質だったが、中には後に知識として役立ったものもあったし、良い先生もいた。この、過去の名声に胡座を掻き教育をしない大学に、決して期待してはいけない。一方で、専門の数学、物理は、よく理解できなかったが講義は良かった。生物はあまり面白くなかったが、これも適性というものだと思う。この大学の学生は、大多数の成績の良い普通の人、ごく一握りの上澄み層、そして有意な笑割合を占める自分のように運良く紛れ込んだ人、として分類できそうだが、上澄み層の人に学者として適性があるかといえば、必ずしもそうでもなさそうだ(数学の才人を除いて、実務家向きが多そう。だが、残念ながら、実務家として現に活躍している人がその層出身者にも見えない。いわゆる社会的なミスマッチ、個人的には人生の醍醐味だろうか。彼らは、どこで何をしているのだろう?)。
諸般の事情で大学院に進学した。本当は母校の悪口を言いたくないのだが、ここは匿名なので許してもらいたい。控えめに言って最悪だ。本来的には学部教育の不備が悪いのだが、研究者の職業教育訓練としてのカリキュラム(そんな決まったものはないし作り難いのは承知)がまるでないし、学生の意識任せ、所属する研究室の運任せだった。教授の下の親切な助教の先生は懇切丁寧に指導してくれるが、それも限度がある。論文を読んだり発表するには論理的な議論のやり方を習得する必要があるが、それにはこれまでの人生にひとまずさよならをして、意識的にロジカルな思考をはじめないといけない。見込みのある学生は放っておいても自分で身につけ発展するのだが、それを単に後押しすることで、徒弟教育した・篩をかけたことになっている。錬金術で一が十になった事実をもって、ゼロを一にしたと主張しているのだ。
研究も人間が組織を作って行う以上、人事が大事なのはいうまでもない。うまくゴマをすってなびかないと干されるのはどこでも同じだろう。問題は、人事やその他(プレゼンが上手い、など)の運にのみ頼ってキャリアを築いた、偶然のエリートが、無視できない割合で混じっていることだ(ポストを用意する側にも問題はあると思うが)。講義で成功者の研究上の転機や目の付け所を聞くのは後学のためになったが、偶然のエリートが色気を出して「こうすればうまくいく。こうするべきだ。だからこう教えている」と経験に基づかない独自の理論を言い回るのは実害がある。後に捏造で失職した人の「研究成果」を講義で拝聴したこともあるが、これと変わらない。
というわけで、大学院での大半の期間、自分は研究テーマに学術的な興味をもてず、密かな劣等感に苛まれて過ごした。ゼミで先輩や教授がコメントする内容が実は「大したことない」と気づいたのは、卒業する少し前のことだ。両親には支援を感謝している。今では当時と縁もゆかりもないコンサル職に就いているが、「お国のため」に貢献もしているので、投資は有益であったと思う。
大学受験でバーンアウトする人が多かった時代。今もか。昔はもっと多かったかも。わからないけど。
徹夜で赤本。朝寝て夕方起きて赤本。人と会わずに本だけ読んで、音楽聴いて幸せだった。
受検のときも、ホテルに泊まらせてもらって、誰ともしゃべらずに会場に行って。
東京の大学に行った。アパート借りた。どこでもよかった。1人だったら。家具も揃えて貰った。
入学式。じゃあこれで、と家族と別れた。テレビでセーラームーン見ながら泣いた。
授業が始まるまでの一週間、一言も口をきかずに過ごした。
親が買ってくれたシャンプー。髪に合わなかったのか、一週間で髪の毛がゴッソリ抜けた。
隣の部屋の男の子はすぐに彼女ができたらしい。壁越しに聞こえる。「シャンプー使っていい?」
生きてく術がない。1人で、普通に生きてく術が無い。ずっと受検勉強だった。
よく夜中にコンビニへ行ってた。同じ事をした。弁当とお惣菜と、タバコを買った。はじめてタバコを肺までいれた。これで決まった。
大学が始まった。語学の教室。え、また教室?友だちができるじゃない。いやだなあ。
帰りの電車で「友だち」としゃべる。うーん。
サークル。入った。一つはお酒を飲ませてくれたから、勢いで仲が良い感じにした。
忘れてたけど、この頃まで、人の目を見ることができなかった。
もう一つのサークルは、ダメだった。酔っ払ったセンパイに抱きつかれて、不機嫌なセンパイに八つ当たりされて怖くなった。
とにかく、早く家に帰りたかった。
自分もならった。サークルで2時までだべったら家に帰ってこれを聞いて、後は酒を飲んで寝ていた。
電話が鳴る。
大学受験でバーンアウトする人が多かった時代。今もか。昔はもっと多かったかも。わからないけど。
徹夜で赤本。朝寝て夕方起きて赤本。人と会わずに本だけ読んで、音楽聴いて幸せだった。
受検のときも、ホテルに泊まらせてもらって、誰ともしゃべらずに会場に行って。
東京の大学に行った。アパート借りた。どこでもよかった。1人だったら。家具も揃えて貰った。
入学式。じゃあこれで、と家族と別れた。テレビでセーラームーン見ながら泣いた。
授業が始まるまでの一週間、一言も口をきかずに過ごした。
親が買ってくれたシャンプー。髪に合わなかったのか、一週間で髪の毛がゴッソリ抜けた。
隣の部屋の男の子はすぐに彼女ができたらしい。壁越しに聞こえる。「シャンプー使っていい?」
生きてく術がない。1人で、普通に生きてく術が無い。ずっと受検勉強だった。
よく夜中にコンビニへ行ってた。同じ事をした。弁当とお惣菜と、タバコを買った。はじめてタバコを肺までいれた。これで決まった。
大学が始まった。語学の教室。え、また教室?友だちができるじゃない。いやだなあ。
帰りの電車で「友だち」としゃべる。うーん。
サークル。入った。一つはお酒を飲ませてくれたから、勢いで仲が良い感じにした。
忘れてたけど、この頃まで、人の目を見ることができなかった。
もう一つのサークルは、ダメだった。酔っ払ったセンパイに抱きつかれて、不機嫌なセンパイに八つ当たりされて怖くなった。
とにかく、早く家に帰りたかった。
自分もならった。サークルで2時までだべったら家に帰ってこれを聞いて、後は酒を飲んで寝ていた。
電話が鳴る。
https://kokamumo.hatenablog.com/entry/2025/06/25/134921
熱意ある感想見てなんか書く
自分は見ててニャアンが好きになれなかった
とにかくその場しのぎで他人に依存してその癖一定の距離取って自分が生き残れば他人はどうでもいい。自分勝手(に見えた)なキャラクターが無理だった
キシリアに世話になって高待遇されてもマチュ見たら考えるより先に撃って、キシリア死んでも自分の心配、最後もマチュにくっついて地球満喫してピザ食って馬鹿騒ぎ
超寄生虫
確かにニャアンは故郷と家族を失い恐らく戸籍も曖昧な難民なので上で書いたメンタルはリアルなのだろう。自分が今日生きるのが大事。利用できるものはすべて利用ししゃぶり尽くす。努力の姿勢は見せるが赤本前に小物置くようにすぐ止める。楽な方に行く
たぶんリアルだがアニメで見たいキャラじゃない。居ても死んで視聴者にスッキリさせる役目がせいぜい
最終回直後に強盗来たら即マチュ差し出して金目の物取って逃げるだろうし、それ以前になんか面倒って思ったら金目の物取って逃げそう。
比較的近いZZのジュドーやXのガロードや∀のロランだってここまでじゃなかった。ガチリアルな難民がなんだかんだ色んな人に寄生して地球でバカンスするアニメがGquuuuuux。なんでニャアン最後握りつぶされなかったの?
キシリアがニャアンのことをジオン工科大に行きたがっている向学心のある娘と勘違いしていた節があり
実際は永住権が欲しいからその手段として考えていて、一応赤本は持ってるけど参考書は持ってないし、勉強なんかしたくないのはエグザベカーでの会話で判明していた
このシーンを軽んじていたけどニャアンって12歳で難民になってからろくに学校に行けてなくて、小学校中退みたいな学力なのかも
というか小学校が全壊して故郷が全滅しているので小学校の卒業に失敗したまんまみたいな感じ?
ジオン工科大の赤本を持っているっていうのが理系進学して就職安泰みたいな発想に基づいたものじゃなく、「アホだから大学の名前なんて『東大』一個だけしか知らない」みたいな状態だった説…?
エグザベは難民になってから拾われスクールに入るまでの空白期間がそんなになかったタイプで、ニャアンはがっつり空白で闇バイトで食いつないでいたのかもと思った
ニャアンが人とのかかわり方がおかしいのも、12~17歳まで同級生との交流がゼロで、マーコなどから仕事を請けるだけだったと考えるとなるほど…ってなる
ニャアン、なんか体形がシュッとしていてNT能力により本音を読み取った行動をとるからハッタリがきくというか、不当に頭が良さそうに見えているだけで、学力でいうと激ヤバなのかもしれない
キシリアに地球産の香水をもらったときも、キシリアはイオマグヌッソで地球を滅ぼしてもらう、それで地球産香水はもう生産できなくなる…ということを匂わせている
でも匂わせのようなコミュニケーションで、もしかしてなんにもニャアンに通じてなかった説…?
「へえ、廃盤になるのかな」「いい匂い~いかにも高そう~銃も𝓣𝓱𝓪𝓷𝓴 𝓨𝓸𝓾」で流されちゃってて、もう青葉区に向けて撃っちゃったんだけど自分が何やったかまったく分かってない説…?
なにがなんだかわかってないからためらいなく二発目も撃とうとした?てかキシリアのバカ、冷却が必要なことくらい教えてあげなさいよ!
ニャアンが毒ケーキ戦でエグザベに守ってもらえず自力勝利したときの勘の良さを見ると、ものすごく頭がよく見えてしまう
実際に向けられる悪意に敏感で、死の危険に敏感で、その場その場の判断で生き延びる知能みたいなものは突出して高い
でもそれ以外がメチャクチャな子なのかもしれない…割とアホで、その場ではスンとわかったふりしてて、コミュニケーション失敗したまんまみたいな子なのかも…
そういや闇バイトでも失敗して、次もしくじったらクビなとか言われてたな最初のほうで
こわ!ああいうしゃべり方をする、瘦せていて背が高い子って、しかも釣り目気味って、アホに見えない!もしかしたらアホかもしれないのに…!
マチュとニャアン、ペーパーテストしたら圧倒的にマチュのほうが点数高いんだろうな…!
っていうか女キャラ3人でペーパーテストしたら一番高い点数取るのコモリなのかな
本当にどうでもいいことだけど、コモリがマチュに勝って「コロンビア」のポーズをしてほしい
追記:
「ニャアンは衝動的に動くと自分にとってマイナスの結果になる子なんだろう」って逆の受け取られ方して衝撃
あとエグザベ君が「同期と一緒に新人を護衛する」っていう任務で「同期が新人を撃とうとしている」という状況にバグって同期を撃てなくて見ているだけの地蔵になっちゃったときにも、ニャアンがパッと動けなければニャアン死んでたと思うんですけど
これはエグザベ君批判ではなく同期と新人を天秤にかけさせられ一瞬の判断を強要されたエグザベ君に同情しています
言いたいことは全然逆で、一瞬の判断で自分が生き延びられるほうを選ぶセンスはあるけど、キシリア様に難しい単語で匂わせるように説得・懐柔を試みられてもニャアンには何も分からなくて通じてないのでは
キシリア様は生活苦の経験がないので、直近で生き延びられるほう的な感性の理解が浅いのでは、キシニャアってキシリアがニャアンを理解し懐柔しているようで、
あるいは「暗殺者に狙われてる仲間」として勘違いしたシンパシーをキシリアが抱いていただけで、お互い上級と下級すぎて話通じていなかったのではということです
毒ケーキ君がニャアンを射殺してたら、次のジフレドパイロット見つけるまでに時間がかかって、青葉区民は死んでなかったって話ならそう、だけどニャアンにとってニャアンが死んでる結果が一番マイナスの結果じゃないですか?
一番ニャアンにとってマイナスの結果を招いた可能性があるのは衝動的な動きというより「マチュとガンダムを捨てて逃げよう!」とシュウジに言った舌禍のほうじゃないですかね
Permalink |記事への反応(18) | 19:46
メルカリ を物色、ウィンドウショッピング中
人気のある品が複数あり、しかも新品ときたら 怪しい業者判定、近づかないのが吉
趣味で人気の品・割と高級品をとにかくストック買いしておく人が、子供の不用品を最初に売ってたが、自分の趣味の品も放出し始めた、とか
いやでもだからって同ブランドの同じ品12品とかストックってレベルじゃない
ないと思う
自分は好きな品なら開けたボトルの他に2本くらいは持ってたりもするけど
めちゃくちゃ使うからと余計に買いたくもなるけど
だとしても多すぎる
多すぎるし怪しい業者が扱う人気の品率高過ぎて怖い
しかしそんな中にもマニアックな品もちらほらあり、これ本当に趣味の人なのか?と悶々として見ている
住んでる場所の問題で、デパートで試すといったことができず基本ブラインドバイのスタンス
男女に寄らないのがまた、、
まあ眺めるだけにしておく
https://togetter.com/li/2502016
こんな話題を見かけた。増田はいわゆる兼業の物書きで、わずかながら試験問題に採用されたことがあるから、事情がわかる気がする。
まず、試験そのものへの掲載は漏洩を避けるために事後承諾でいいことになってる。試験日のあとしばらくするといきなり試験問題のサンプルと許諾書が送られてくる。許諾しなかったところで試験がなくなりはしないが、公式に公開する過去問には収録されなくなると思う。
赤本などに収録される時はそれとは別で、出版社から収録の可否の問い合わせがある。これが結構面倒で、複数の学校で試験に使われたら別々に問い合わせが来たり、返事も書類に印鑑を押して返さないとならなかったりで、自分はすぐに返したが、忘れる人がいてもおかしくないと思う。そうなると、当然許可は得られなかった扱いになるのだろう。
まとめ内に出版社がケチっていると書いている人がいるが、基本的には赤本全体のうちのページ数割で著作権料が決まっていて(この金額なら許可するなどの指定もできるが、まずはデフォルトの金額が伝えられる)、問題に一つ採用されたくらいだと数千円程度だったりするから、そんな額をケチってはいないだろう。というか、初版部数とページ数で決まってるっぽいから、著作権料が大きくなりすぎるなんてことは作家側が無茶なふっかけをしない限り仕組みとしてあり得ないと思う。そして個人的な感覚としては、そんなことでいちいち無茶なふっかけをするなんて面倒なことしたいとは思わなかった。
そしていちばん面倒なのは、兼業で規定の収入を超えたら確定申告が必要なわけだけど、その際にすべて記入しないといけないこと。書類の数も増えるし訳がわからなくなる。
どれくらいブスかというと子どもの頃から散々な目に遭った日は数知れず…
幼稚園や小学校の頃虐げられまくっていたのは言うまでもなく(小さい子どもって残酷ですね)、周りもまあまあ成熟してきているはずの中学生になっても「こんなにブスなやつ見たことない」と言われたり、後ろの席の男子に椅子を蹴られまくり、椅子と机との間に挟まって苦しくて悔しくてその場で涙がこぼれたこともありました。
心機一転、高校は女子高だったから天国だった…とはならず、卒業式の日にクラスのイケてる子数名から「美優(仮名)はほんまに面白かった!ブスやけど笑」としっかりトドメを刺される始末。
ただ、吹奏楽部だったこともあり、穏やかで優しい友達にも恵まれ、テスト明けにいつも数名のグループでお買い物やカラオケに行って楽しかった思い出もたくさんあります。
(吹奏楽部は気が強い子もいるけど、純粋に楽器や音楽が好きな子も多いので)
問題はそのグループの中に、めっちゃくちゃ上品でいい子なんだけど「この人私のことバカにしてない…?」と思うことがある子が一人いて、ここでは愛理ちゃんと仮に呼ばせてもらいます。
愛理ちゃんは才女で、他の生徒からも先生からもおぼえがめでたいような子でした。話したら大人しいのに会話に機転を感じてすごく面白くて、実際同性だけでなく異性からもひそかに人気だったことは知っています。
ただ、私に対する態度が「ん…?」となった最初の出来事は、高校時代、周囲が恋バナで盛り上がってたとき空気と化していた私に、「美優は外国人からモテそうかも~」と言ってきたことでした。
正直全く恋愛しそう(できそう)にない私がその場で半透明になっていたのを見かねて振ってくれたのかもしれないけど、暗に普通のその辺の日本人からは相手にされないってことか?と、勘ぐって地味に傷ついたのがこの卑屈ブスでした(周りの「あ~…」って反応が紙やすりのようにブスのハートを包み込んだのもある)。
そして時は流れ十年、結婚したのをひっそりLINEのプロフィール画像で公開していた私に、愛理ちゃんから「おめでとう!」のメッセージが。
(アイコンの後ろに設定できる画像を、ウエディングドレス姿のシルバニアのペルシャ猫ちゃんと婚約指輪の写真に変えていた)
同窓会が近づいて見返してたら見つけたらしいんだけど、会話の流れで「びっくりした!」とのこと。
まあ確かに近況報告なしで突然誰かが結婚してたら驚かないことはないかもしれないけど、愛理ちゃんが結婚したと聞いて「びっくり!」なんて言うやついないんだろうな……と思ったのがトリガーで、学生時代の思い出が無駄に鮮明に蘇った。
高校時代、書店で女性ファッション誌を見て「メイクはもとがカワイイ人がやるから意味を成すんだよねえ…見た目磨くことなんかより勉強して長所つくらなきゃね」と言ったこととか。
自分の中で、書店の発言は赤本買いに行った日だったから単に勉強しなきゃという意味なのではと思おうとしたり、いやブスいじりされまくってる私の前でわざわざ言わないでよと感じてしまったり。
蹴り事件のときも、愛理ちゃんが男子を止める義理はないし愛理ちゃんだって怖かっただろうし、でも尊敬されてて発言力ある友達に間に入ってもらえたらどんなに助かったことだろうか…とタラレバを妄想したり。
矛盾した気持ちをぐるぐる回ってしまいつつ、卑屈になってはいかん!と、一応自分に都合のいい解釈の方を信じるようにしてるけど。
あ~やっぱブスってつらいねー。
元の本読んでないけど、
ゲーム感覚修行感覚で乗り切ってた部分と、最低限やることやるけど自分の時間と認識させてた部分があるなぁ
残業減りつつあったけどフレックス使って基本19時退社で、だいたい20時~21時に会社出て1時間後帰宅、土日休みの超サブだったから偉そうなことは言えない身分ですが
前者は、ショッピングモールとかベビザラ赤本西松とか、スリング多用してたし、あえてのスリング封印もしたし、隙あればハーフスクワットしてた
忍者の修行と一緒で、徐々に重くなる我が子とアラサーの筋力強化との闘い
20年ぐらい前だけど、イオンで椅子座ろうとしても一人で待機してるおじさんが居座ってたりでこれだからじじいはって男ながらに思ったりした
脳への影響とかで今はあかんとなってるのもあるかもだけど、高い高いとか飛行機(膝やら足の裏に乗せるやつ)とかも、一石何鶏にもなってた(外部の評価↑筋力⇑我が子の機嫌⇑⇑)
調合みたいな面白さと単純に食材を細かくするというちまちま作業(今でもしりしりしたりするの好き)、これは食う、これは口の中にとどまる時間が長い、嫌いっぽい? とかのも将来のネタになると思ってたし(ほぼ忘れた。こないだ好物聞いたらほうれん草って言われて急に思い出した。そういや2歳かなんかの時にほうれん草ケーキ作っってたわ)
生まれたときは3076gだった(自分の生年西暦の下2桁との誤差±で覚えやすかった)けど、めっちゃ大きくなって、ずり這時期が長くて、
お手本見せてみたり、もっと効率良い動きはないのか? その動きを覚えさせるには? とか
楽しかったけど、今思えば、四六時中面倒見てくれてた奥さんのおかげでしかないな
それでも頑張って、夜中のミルクとかおむつ替えとかできる限りやったのは自己満だけど書いときたい(やる偽善みたいな)
おぎゃあの前のほぎゃのほの前の吸息で動き出してるのとか母強すぎやろと夜中にケータイ見ながら思ったことも多々ある。だからこそ動けるときは動こうってモチベ湧いた
寝かしつけとかは散歩兼ねたり、アニメや本読みながらだったり、休日も(一人目は奥さんの美容院とかそんなの以外は3人行動がほとんどだったが、2個下の二人目出来て、3-1や2-2も増えた)
第一目的は子供の要望だけど、2か所目はちょっとこちらの趣味にも寄せたり、聞き分けできるようになった時は社会勉強と思ってくれと思って、完全に自分趣味のイベントに向かって、
詫び○○(ご飯だったりゲーセンだったり)で納得してもらったり
小さい時の寝かしつけ以外なにがあったかなぁ ベビーカーを如何に揺らさないかとか、哺乳瓶でバーテンごっこ(吸うのが弱くて穴拡張してたので結構飛び散る)とか、前者のほうに偏ってる
一緒にずっとゲーム漫画アニメの話してる大きい子供(自分)を、なんか色々途中ゴタゴタしたけど、なんだかんだでついでに見守ってくれてる奥さんには頭上がらんと再認識させていただきました
高専を卒業してからしばらく経つのだが、定期的に高専はうんぬんですごいみたいなXの投稿が流れてくる
実際のとこ世の高専卒のみなさんってその選択に満足しているのだろうか?
自分は高専卒業後に大学編入をして、以降は普通の大卒のルートに乗って社会人になっているので、キャリア的な不満は一切ない
高専卒でそのまま働いている人たちはみんな早婚で20代で2人子供がいる人もよく見かけており、それなりに幸せそうには見える。学生時代女性に縁がなさそうだったやつも子供がいたりするので、実質男子校に5年間幽閉されても恋愛面での影響はないのかもしれない
一方で学業的の不満はたくさんある。
5年間の学生生活で講義はフル単を要求され、受けないという選択肢がない。
きちんと出欠を取るのでサボることも難しく、それでいてどの科目も宿題があるので放課後も忙しい。高専は進級要件が厳しく全単位の平均点数が6割を超えてないと留年したりするが、自分の高専は下限の学生に合わせた救済措置がある。課題プリントの点数が最終点数のn割、中間期末試験の点数の10-n割が最終点数として計算されるケースが多かった。
まあ大学の講義でも似たようなシステムを採用してたりしますが、編入学志望の学生は大学受験と関係ないことにかなり時間を割かれるので厳しいわけです
高専は四半期に10科目以上の講義を受講し、それぞれの最終点数平均で席次が決まる。体育や第二外国語みたいな科目の点数も席次に影響してくるので、本当に5年間学生生活にコミットしないといけない。それに加えて受験科目の勉強も必要なので拷問
厄介なのが、就職希望の学生もいいとこの推薦が欲しいので成績ガチ勢になる。席次を上げるのが受験生活で1番苦しかった
推薦入試はこの席次の点数配分がめちゃくちゃに高いので受験までの4年間きちんと努力しないといけない。
特に苦しいのが、旧帝大などハイレベルな大学はそもそも一般受験を受けるために推薦が必要となるため、受験勉強に全振りすることができないところ。よく編入生は優秀なんていわれたりするが、単に受験難易度が高いから本来の適性の大学に進学できていないだけでは?と感じる。一方で地方駅弁レベルの大学はそれほど受験需要が高くないので、クラスで下位の学生が数ヶ月勉強して受かってたりする。上を見るときついが、とりあえず進学したいならたしかにコスパのよい選択肢かもしれない
編入のペーパー試験は過去問を公開している大学が少ない(特に旧帝大など)ので情報量の格差が大きい。それだけでも赤本というものが存在する普通受験が羨ましい。他にも模試が定期的に開催されるので自分の適正感を測ることもできるし、お金さえかければ学習塾でみっちり対策できる。編入試験は基本的に宅弁なのでね、内省力とか調査力が高くないと受験競争に勝てない
高専はどこも金がない、まともな論文指導ができる教員もいないし、講義の熱量は教員によって露骨に違う。授業時間の半分くらい高専卒は優秀、大企業にコスパよく入社するのが幸せを連呼する教授のせいでその専門科目が嫌いになった
大学の図書館のような時間を忘れて学業に専念できる空間もないし、そもそも専門科目が難しくなる時期は受験生なのでそれほど授業に集中できない。編入生は在来生よりも専門科目が得意っていうのは当時から大嘘だと思っている。東大の講義資料でクラウド構築して〜とかやってたりするのを見ると、高専ではBASICでGOTOしてましたとは言えない。
レポート作成も全部手書きだし(多分地元では今でもそうだと思う)、なにかと無駄が多い。大学はなにかと勉強するためのストレスが一切ないので楽しすぎワロタだった
あとはサークル活動もしょぼいし、恋愛模様も少ない。というか年齢層が中学卒業したてから大学4年生(専攻科)の年齢まで在籍している空間なので、校内恋愛が本当に歪で気持ち悪い。16歳と20歳で恋愛していることもザラだし、学校見学にきた中3と連絡先交換して付き合ってた奴はマジでキモかった。女性が希少すぎるのでとんでもないブスが高飛車になってたりして、男女双方に悪影響すぎる。女性の理系進学が推されている昨今ではあるが、自分が親ならせめて大学の理系学科進学にしときなさいと伝える
社会人になってから久々に高専出身の人間にあうと、みんなどこかズレてるなと感じることが多いが、いつまでもあの頃のノリで会話ができるのは嬉しかったりする。愚痴っぽくなったが、それなりに悪くはない選択だったと思っている
もう受験生でもない自分が高校レベルの参考書や問題集をいつまでも解いたりするべきなのか分かりません。
解いたりするべきだと思う以下の持論を持っているのですが、この持論が正しいかどうか全く確信が持てません。
以下から持論です。
まず、高校で習うことを理解していなければ、大学以降のより専門的なことが理解できないことがあるというのは確かだと思います。
だから私を含めそういう専門的なことを理解したい人は、高校レベルのことの穴を埋めるべきだと思います。
それをせずに大学レベルのことの学習に手を付けても理解できることがある可能性はありますが、その理解したという感じに錯覚の場合が混ざるおそれがでてくると思います。
つまり理解してないのに知った気になる、いわば「何がわからないかわからない」状態に陥る可能性が出てくると思うのです。
そのうえで、そのような大学レベルのことを理解していないと理解できない、より高度な理論を学ぼうとすると、今度はわからないという自覚はあるが「なんでわからないのかわからない」という状態に陥ることになります。
つまりその高度な理論を理解するのに必要なそれに比べれば相対的に基礎的な理論や概念は複数あることも当然考えられ、そのどれを理解してないのかがわからない、特定できない、ということが考えられるわけです。
理解しなければならないこととしては当然高校レベルの部分に穴がある可能性もあるでしょう。
しかし学ぼうとするものを見ても、その理論等の全容を見て、具体的にどんな知識が必要か余すことなく把握することは意外に難しいでしょう。
単に用語の意味を知らないといったことなら、その用語をネット検索で、その用語を使っている理論のなかでもっとも基礎的なものが何かということを目星をつけて、そこから学ぶという方法がとれるでしょう。
しかし学術的文章が理解できない原因は必ずしも「単にこの言葉がわからないから」というような、わかりやすい輪郭を持ったものに由来しているとは限らないと思うわけです。
大学レベルの参考書(学術書)や論文を書く人は受験競争を経験した人なわけですが、受験勉強で得た「考え方のひな型」のようなものが、少なからずその後の思考やそれに基づく文章に影響を与えていると私は考えます。
それはもはや自覚的に認識できるものではない、無意識下にある思考の体系であるわけです。
その「枠組み」を共有していない人にとっては、より言葉を尽くさないとわからないことでも「既知の事項として」という感覚すら持たずに、その部分の言語化をせずに文章を書いている部分があると思います。
特に幾何学が絡む記述は、センス=ひな型・枠組みを持つ著者自身には空気のように当たり前のことであるために記述がシンプルになってる説明に対して、枠組みの無い人にはなんでそうなるのということがまるでわからないということが起こり得ます。
それは著者すれば「なんかこいつすごく察しが悪いな」としか思えないほど逆に理解しがたいことです。
これは大学と高校の話ではなく高校とそれ以下の話なのでたとえが悪いかもしれませんが、たとえば高校物理である部分の角度と別の部分の角度が同じという事実から式を導出することにおいて、なぜ角度が同じといえるかということの説明まではされてないみたいなことがあります。
これは、角度のことについてなら、中学受験の算数の難問を数多く解いてきたりその答に対する解説を見た経験が、まさに有機的に思考の枠組みとして血肉化した書き手自身には、条件反射的に当たり前のように角度が同じだと認識できるが、そうでない人には説明がないとわからない、という枠組みの有無による断絶ともいうべきことが生じているのだと考えられます。
しかし書き手にはすべての読者のレベルに対応することは不可能ですし、そもそも「枠組み」がある当人には1+1=2のレベルで当たり前のようにしか思えない角度の同じさを説明しようという発想すら起こらないから、こうしたことが起こると思うわけです。
そしてこの枠組みは「枠組みが足りてないから理解できないのではないか」という必要性の認識に応じて選択的に必要十分なものを特定して身に着けられる、という性質のものでないわけです。
上記は高校とそれ以下のレベルでの話ですが、大学とそれ以下のレベルという場合でも同じ構造的問題を共有していると思います。
因数分解や極限値を求めるための式変形の定石や、その他証明問題などに対して定石と呼べるような解法から定石ではない解法まで、その問題をこなしてきた人たちにとってはその経験が枠組み化しています。
なのでその人たち自身が見てきた高校レベルの参考書では途中過程として式変形など書かれていたものが、当人が研究者になって書く大学レベルの本ではその本人の主観的に自明性が強すぎてその途中過程を書くような発想すら存在しないわけです。
ですから、大学レベルの本を理解するには、およそ考えられるかぎりのあらゆる高校レベル以下の問題を解いて理解することを片っ端から行いその経験を積んで枠組みとする必要があると思うのです。
でなければ結局「何がわからないかわからない」「なんでわからないかわからない」という状況に陥ると思うわけです。
予備校講師の数学のアドバイスで「数3は数1Aと数2Bの知識がなければ理解できないというが、だからといって数1A・数2Bを完璧してから数3に取り掛かる必要はない。完璧は難しいのだから同時並行でよい」という趣旨のことを書いていたのを見たことがありますが、まずこれは受験勉強に関してのアドバイスであるということに注意するべきだと思います。
つまり点を取るためなら、完璧でない理解でも、ふわっとした理解でもパターンとそれへのあてはめとして、問題は解けてしまうということは十分考えられるからです。人口無能、あるいは中国語の部屋のようなものかもしれません。
一方で学問として理解するということにおいては、厳密に完璧に理解していなければ、ただの知ったかで、それは全く理解してないのと同じ価値しかないのではと思うわけです。まさに論理として理解しているのではなく「受験で点が取れる感覚」でパターン認識としてわかった気になっているだけだと思うからです。
また、大学以降のより専門的なことが理解できれば、高校で習うことはすべて理解できる、というわけでもないと思います。
先ほどの高校物理の例にあるように、高校レベルのことが当たり前になってる人が書いた大学レベルの文章には、高校レベルのことは書いてないことがあるわけです。
そして、どの大学レベルの理論を学ぼうとするかによっては、自分の持つ枠組みで十分にその理論が理解できるということはありえます。ありとあらゆる高校レベルの枠組みを網羅している必要はないわけです。
なので、大学レベルのことは理解してるが、その大学レベルの文章に高校レベルのことは書いてないかもしれないので、その後大学レベルのことにしか触れなかった場合、高校レベルだけど初見だと解けない問題が死ぬまで解けないままであるということが起こり得ると思うわけです。
たかが高校レベルだから、初歩的なんだから受験生じゃなくなっても真面目にとりくむほどではないと思うかもしれません。
しかしそのように単なる初歩的なこととされるかは、意義深いこととされるかは、時代次第の相対的なことではないでしょうか。
2000年以上前ならピタゴラスの定理を理解することも十分意義深いことだったでしょう。
時代が進むことによって、より高度な定理や理論が発見され、既存の定理はそれを理解するためのより初歩的なことと規定し直されるというだけです。
このような文脈での主語はあくまで「人類」です。言い換えれば、人類のうち誰かひとりでも知っていたり理解していたりするようなことを全て知っているような、仮想的な知性にとっての意味付けだと言えると思います。なかば無意識的にこのような仮想的な知性と自分を主語のうえで同化させてこのような「初歩的/意義深い」という価値判断をくだしているにすぎないのではないでしょうか。
あるいは「文明」を擬人化して主語においているとも言えるかもしれません。「文明」にとって、容易に理解できる初歩的なことかどうかということです。
一方実際に世界を経験する主体の単位は「個人」であり、わたしであり、あなたです。
ある時代にとって意義深いけれど今は初歩的なことを理解してない個人がいるならば、人類や文明が主語である場合、それが最先端の知識=未知であるか、または既知となって間もないか、で意義深いかどうかの価値が規定されていたのですから、個人を主語にした場合も同様に考えればよいのではないでしょうか。
つまりその個人が理解してないのなら、それはその個人にとって意義深いことなのだと思うのです。
大学レベルとか高校レベルとか関係なく、「自分が知らないという意味で意義深い」解ける問題を増やしていくことは、この世界や現象に対する理解の解像度をあげると思うのです。
だから大学レベルのことには書いてない高校レベルの問題の解法も赤本や難関大を意図した参考書には無数にあるので、それを解き続けることには、それを飛ばして大学のことを学び始めることを通じては経験できない意義深さがあると思うのです。
まとめれば、高校レベルのことが足りないために大学レベルのことが理解できないこともあれば、大学レベルのことでは身に着けられない高校レベルのこともあるので、結局この世の中をよりよく理解する手段として高校レベルのことも大学レベルのことも等しく有効なら、まずは高校レベルのことを完璧にしなければならないのではないか、と思うわけです。
ここまでが持論の全容です。ですが世の中の成果をあげている科学者の全てがこのようなことをしているとは到底思えないので、自分の考えが合っているなどという確信は全く持てないわけです。
なので、ぜひ、反論できるところがあったら教えてください。
小学生や中学生レベルの参考書はさすがに読もうと思わない。さすがに発見がないだろうことがわかるから。
高校受験の赤本?とかならさすがに全部初見で問題解けるわけじゃないだろうし解説見ることによる発見もあるかもしれないが、所詮応用の利かないパズルの解き方知識としか思えず、また現代との学問とのつながりを感じられる内容でもなかろうから、知的興味をそそられない
これが高校の参考書になると物理・化学でも数学でも、一つ問題集を(皮相を)完璧に理解したところで、別の問題集が解ける保証など少なくとも私の一を聞いて1.5を知るのが限界な頭にはどこにもない。
だから問題集を解くたびに新たな発見があると思ってる。というか現に新たな発見を繰り返してるのと、一体どれほど問題集の解き続ければ「何見てもわかりきった問題しかないな~」と小学生向けのドリル解いているときのような境地になれるのか予測するのが不可能だから、なかなか高校レベルの参考書から興味が離れられない。国語も英語も当然そうだ。
化学とかは同じ著者が書いてる新理系の化学と、化学の原点シリーズって何が違うんだ?どっちかがどっちかの内容を完全に内包してるんじゃないのか?とも思えるのだが、何か少しでも新たな発見があるのではないかという感じも捨てきれず、興味を捨てられない(なんか塾の策略にはまってる気がするなあ)係数比較法に関する小技みたいなのがその参考書独自のだったりするとわくわくしてしょうがない。
もちろんこんなの大学レベルから見れば何も難しくないことなのかもしれないが、そもそも私レベルには大学以降で扱うことなど理解の範疇を超えてしまうので「ありがたいお経の暗記」のような状態になってしまい、知的活動というより単純労働の趣が強くなってしまう。
私がしたいのはあくまで知的活動の方で、それには高校レベルが「すごく難しいが頑張れば頑張るほどちゃんと理解が深まる」ぎりぎりのラインなので、そのレベルにこだわってしまう。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E5%A1%9A%E6%B2%BB%E8%99%AB
夏目房之介は、赤本時代の手塚漫画の達成として「コマの読み方」を変えたことを挙げている。それまでの日本の漫画は、現在の4コマ漫画と同じように、1ページ内で右側に配置されたコマを縦に読んで行き、次に左側に移りまた縦に読んでいく、というかたちで読まれていた。しかしこの読み方ではコマ割りの方法が大幅に制限されるため、手塚は赤本時代に、上の段のコマを右から左に読んで行き、次に下の段に移りまた右から左に読む、という現在の読み方を少しずつ試み浸透させていった[116]。これに加えて、初期の手塚は登場人物の絵柄をより記号化し、微妙な線の変化を用いて人物造形や表情のヴァリエーションを格段に増やした。流線や汗、擬音などの漫画的な記号も従来に比べて格段に増やしており、このような表現の幅の広さが、多数の人物が入り組む複雑な物語を漫画で描くことを可能にし[117]、また絵柄の記号化を進めたことは、絵を学ばずとも記号表現を覚えることで、誰でも漫画を描くことができるという状況を作ることにもなった[118]。また物語という点において戦前の漫画と手塚漫画の物語を隔てるものは「主人公の死」などをはじめとする悲劇性の導入であり、死やエロティシズムを作品に取り入れていったことで多様な物語世界を描くことを可能にし、以降の漫画界における物語の多様さを準備することになった[119]。
やっぱめちゃくちゃすごいんじゃね?知らんけど