
はてなキーワード:賽銭とは
なんでこんなに人生が退屈になったか推理していた。おそらく「可能性」が収束したのが原因だ。未来視が狭窄している
ガキの頃は取るに足らないアニメのなんてことないスジにときめいていた
え、死神になって?!女の子に監督されて?!押入に住み着いて?!うお!
そんな、死神以外の部分はまあ不可能ではないし、起こったとて…と今は思ってしまう
でもあの頃は可能性があったんだ。押入に女が住み着いたら、きっと楽しいだろうなっていう感覚
夢は追っているときが一番楽しい。押入に女が住み着いているような状況に置かれて、ああ、こんな感じなのねとなっている。
こっから自分が楽しい状態に遷移する確率が乏しいんだ。パスが塞がれているというか、塞がっているのが見えてきたというか。
俺は可能性を愛している。逆に可能性が見えると満足してしまう。この文章を見るのなんて世界に7人しかいない。でも可能性としては世界中の80億人が見ていてもおかしくないんだ。
だから俺はこれを大宮八幡宮(世界の中心)で叫んだりしない。賽銭もしない。
日本一の参拝者数を誇る場所だけに、しっかりとした準備が快適な参拝のカギになりますね。
2026年1月2日の参拝について、おすすめの時間帯やルートをまとめました。
1月2日は例年、日中(10:00〜15:00頃)が最も混雑し、参拝までに 1〜2時間以上 待つことも珍しくありません。
早朝(6:40の開門〜9:00頃)朝一番は空気が澄んでおり、比較的スムーズに本殿まで進めます。
夕方(16:00〜18:00の閉門まで) 18:00に閉門するため、17:00頃からは人が引き始めます。ただし、お守り授与所の受付時間には注意が必要です。
小田急線「参宮橋駅」から徒歩圏内です。原宿口に比べて圧倒的に人が少なく、地元の方や通な方が利用するルートです。
JR「代々木駅」から。原宿口よりは空いていますが、本殿までの距離はややあります。
JR「原宿駅」や「明治神宮前駅」直結で便利ですが、最も混雑します。大きな鳥居を通る「初詣らしさ」を味わいたいならこちらですが、行列は覚悟しましょう。
例年、1月2日も多くの屋台が出店しており、お祭り気分を味わえます。
本殿横の授与所は非常に混み合います。古いお札やお守りをお返しする「古神符納所」は、南手水舎の近くに設置されています。
玉砂利の上を歩くため、足元から冷えます。カイロや厚手の靴下は必須です。
参拝者数10位に入る神社だから人でごった返してるかと思ったらそうでもなかった。むしろ空いてた。
お守りを買わず、おみくじもやらなかった。大凶でも大吉でもなかった。買わなかったおみくじは木に結ばなかった。
お賽銭も奮発して1万円札を入れなかった。
砂利道が多いので靴の中に石が入ったりした。
帰りの電車も混んでなかった。
何も得ず、何も失わない初詣だった。
神も仏も幽霊も信じてない、寺社を観光地としてしか認識してない不届き者だけど、びっくりするほど縁切りに成功している。
地元なもんで存在は知っていたものの、縁切り神社って怖そうだし、嘘か誠か夜中に藁人形持ったヤバイ生身の人に遭遇したって噂も聞いたことがあり、長年避けていた場所だった。が、2年前の夏のある日に突如思い立って散歩がてら寄ってみた。
この地域は夏はアホみたいに暑いので、その日はまだ明るい時間だったけど既に人影はほぼ無かった。意外と綺麗な神社だった。
信心深くはないけど、寺社という場所はおもしろいところだと思うし維持費はそこそこかかるだろうと思っているので、ちゃんとお賽銭は納めていた。
そこで「職場のお局さんと、もっといえばブラック過ぎる職場環境と縁を切りたい。可能なら、不健康とも」と願ってきた。もちろんダメ元で。
そんで、絵馬見て適当に帰った。切実なのもヤバそうなのもあっておもしろかった。
その半年後、あと2年は異動できないと言われていた当時の職場から急に異動が決まった。異動先は前職場より家に近く、通勤時間が1時間ほど短縮された。仕事は相変わらず大変だけど、上司と同僚はみんな優しい人たちだった。
お局さんとも離れられ、通勤時間の分家で過ごせる時間も増え、ストレスも減った。
その分、趣味に使える時間が増え、推し活を再開させた途端に推しが主演に抜擢された。公演に通っているうちに推しの熱量に当てられて、もっと体力をつけたくなり、ジムに通い始めた。現在までに7kg痩せて、久しぶりに標準体重になれた。
せっかく年末年始はお休みでのんびり出来るのに、人混みで溢れかえる有名な寺社仏閣に出かけるのは実に馬鹿げている。
正月はテレビで駅伝を観るのが最高の楽しみだ。1日はニューイヤー駅伝、2日、3日は箱根駅伝がある。
駅伝が終わったら散歩などに出かける。地元の小さな神社の前を通ったりする。まあ神社の前を通るときは多少厳かな気持ちにはなるが、鳥居を潜って参拝する気にはならない。横目に神社を見て通り過ぎるだけだ。
神社に本当に「神」がいるとは思えないし、仮に居たとしても、「あいつはこの辺に住んでいるくせに鳥居の前を通り過ぎるだけで参拝に来ないから不幸な目に合わせてやろう」とか考えるなら邪神でしかない。神社に仮に神様がいるとしても、そんな邪神とは思えないので素通りしても害はない。
もっと分からないのは、神社で願い事をすることだ。俺がまだ初詣をしていた頃、一緒に初詣にいった彼女は「何をお願いしたの?」と俺に尋ねた。
お願い?上にも書いたように神社に実際に神様がいる可能性はゼロに等しいし、仮に居たとしても、それはその地域の霊的安定を保っている存在であり、個々人の「商売繁盛」「試験に合格」「女にモテますよように」「病気が治りますように」「借金地獄から抜け出せますように」とかいった現世利益を硬貨数枚程度のお賽銭で叶えてくれるはずがないのである。だから俺はその時はただ「神様」に御挨拶として「参拝」しただけで何の「願い事」もしていなかった。だから「別に何もお願いはしてないよ」と言ったら彼女は「何それ?意味ないじゃん馬鹿じゃないの」とか言ってゲラゲラ笑い出した。心からは愛せない女だったので2月頃に別れた。
じゃあお寺で願い事をすればいいのか?というと、それはもっと違うだろう。
仏教は煩悩を捨てて悟りに至れと教えるのだから、「商売繁盛」「試験に合格」「女にモテますよように」「病気が治りますように」などという現世利益=煩悩をお願いするのは仏教の教えと根本から反している。寺院に参拝して願うことといえば「煩悩がなくなりますように」とか「極楽往生」になるはずだ。
そもそも仏教の根本的な精神を考えたら、自力本願ならば座禅や瞑想などの修行に励めば良く、他力本願ならば「南無阿弥陀仏」と念仏すれば良いのだから、寺院に参拝する必要がない。
かれこれ二十年近く経つ。
國府田マリコを追いかけ、そして彼女の結婚で人生が終わったように感じたあの日から。
あの時、俺は誓ったはずだった。「二度と誰かに人生を預けるような真似はしない」と。
画面の向こうで笑い、泣き、歌い、恋をしないフリをする──VTuber たちだ。
だが一つだけ決定的に違うのは、中の人が見えない ということだ。
それがどれだけ危ういか、俺たちはあの日の痛みで知っていたはずなのに。
「メンシ」という信仰の証で身を飾り、
「ガワ」だの「中身」だのと噂しながら、誰もがリアルを捨てる。
だが本当に悪いのは、彼女たちではない。
現実を見ないための最新の夢。
形が違うだけで、やってることは変わらない。
「届くはずのない想い」を投げ続けて、自分をすり減らす。
だが一つだけ違う。
今の“推し”は、AIが自動で笑い、コメントを拾い、好感度を最適化する。
ただ一つだけ言いたい。
「彼女たちは、君を見ていない」。
その現実を直視できないまま、「推し活」という言葉に酔いしれている間に、
気づけば人生の季節は過ぎ去っていく。
俺は國府田マリコで終わった。
今の若者は、ホロだのにじだので終わる。
でもせめて、同じ過ちを繰り返すなら、
画面の向こうに「生きる理由」を預けるな。
祝福はする。ただし、俺はもうファンをやめる。
出雲大社に行ってきた
休日出勤の振休で平日休みが生じ、なにするかな、おっ11月(旧暦10月、神在月)じゃん、いいじゃーん行くかーと昨晩決めた。家から出雲大社までは車で2時間程度。
斐川インターチェンジを降り(高速代をケチって出雲インターの手前で降りている)、田園ひろがる平地を駆け抜けていくと、色付いた山々の麓に赤い石州瓦の家々が見えてくる。来たなあ、出雲だなあ……と旅情高まる。……が、いやいや、いつまで経っても着かない。道間違えたか?いや合ってる。まあ地図見りゃわかるんだが出雲大社ってインター降りてから長いのよね。
駐車場は8割がた埋まっている。ド平日だが秋の行楽シーズンしなあ。年配のひとが多いが、子連れや修学旅行生もちらほら。外国人観光客はあまり見ない(見た目に分からないだけで中国人や韓国人はいるのかもしれないが)。京都と違って出雲は人気ないのかな、まあ遠いしな。
昨年出産して親戚らから全国津々浦々の安産守をもらった。さすがに全国津々浦々巡ってお焚き上げしてもらうわけにはいかないので、出雲大社でまとめてお返しし、八百万の神々が集まっているタイミングでまとめてお礼を言うという寸法である。お集まりのところすみません、その節はお世話になりました。
どデカい鳥居をくぐって敷地内を歩いて回る。めちゃくちゃいい天気だし、植わってる木は相変わらず全部デッケェしかなり気分がいい。そして広い。なんかめちゃくちゃ歩いた。空気も眺めもいい場所をひたすら歩いてるとそれだけで気分が上向く。運気ってこういうことなんだろうな。つまり健全な肉体に健全な魂が宿るということ。
何回も来てるくせに相変わらずいわゆる手順的なのはおぼつかない。毎回周りを見て真似している。ええんやええんや、大事なのは気分やからな。
御守りを所定のポストに入れ、賽銭を入れ二礼四拍手一礼。家族親族親友の健康と、物件のご縁(最近引越しを検討中なんすわ)を念じる。おみくじ引いたら凶だった。うひー。所定のところにくくる。
目的を果たしたのであとは気楽なもので、ぐるぐる歩いて見て周り、老舗の蕎麦屋に30分並んで蕎麦を食べ、土産屋で5000円するそば猪口を見たり(買わない)した。満足したので帰る。滞在時間3時間。
出雲大社にはじめてきたのは10年以上前。参詣した3日後に科研費が当たった。もちろん参詣したタイミングでは採択は内定済だったのだろうが、なんかすっかり嬉しくなってしまい、その後なにかにつけて、主には人生がうまくいってないなと思うときやつらいとき、それが解消した時などに出雲大社に遊びに行っている。なので、出雲大社を歩いていると昔のあれこれが思い出される。うまくいってないなーと思って参詣した数年後に大抵解消される。だってまあ、ずっと悩んで取り組んでりゃそりゃね。結局、神頼みとは自分を奮起させるための口実なんだろうな、自分の場合は。ともあれ、物件のご縁、マジでマジで頼むぜ!というか物件探し頑張るぜ!育児と仕事も頑張るぜ!また行きまーす。
外貨でもいいわよ。
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俺さぁ……ぬ~べ~大好きだったんだよ。
小学生の頃なんて誇張抜きでビデオ擦り切れるまで見たりして、漫画も全部読んで、妖怪の名前もほとんど覚えてた。
で、実際見始めたら……悪くない。
リメイクものって作品によっては現代に迎合させ過ぎておかしくなってたりするのも結構あるけど、ぬ~べ~に関しては杞憂だったなと最初はそう思った。
だってストーリーの核がちゃんとしてれば違和感なんてないんだよ。
しかも作画も綺麗になってるし、各キャラクターの人間味もちゃんと描かれてる。ぬ~べ~の声優が一緒なのも個人的には嬉しかった。
あーやっぱぬ~べ~は今見ても面白れぇな!って思ってたんだよ。
…あの回を見るまではな。
そう、はたもんば回。
そんでそれを見た妖怪はたもんばが首狩りに来る。
あれこそ、やってはいけないことをやったら恐ろしい報いが来るっていう、ぬ~べ~らしい因果応報の象徴だった。
当時の俺、マジで震えたもん。
この話にはとにかくぬ~べ~の良さが詰まってる。
ちゃんと怖いし、でも面白くて教訓にもなる。本当に忘れられない回だったんだよ。
でもリメイク版……何これ?
賽銭箱から五百円玉が勝手に飛び出してきて、自分から克也の足元に転がってきて、それ拾ったら泥棒扱い???
いやいやいやいや……。克也、何もしてねぇじゃん。
それなのに理不尽に命狙われるって、ただの不条理ホラーじゃねぇか。
「悪いことすると報いが来る」じゃなくて「お金拾ったら首飛びます」だぞ?
お前それはもうはたもんばじゃないだろ。
もちろん、現代だと小学生が賽銭泥棒するって描写がやりづらいのは分かるよ。
妖怪に首狩りされかけて、命からがら助かるっていう完全ホラー教育なんだぞ?
むしろ「ああいうことするとマジで怖い目に遭う」っていう最高の教材だったじゃん。
それを「犯罪描写は全部NG!」って理由で消すって、俺はそっちのほうが怖ぇわ。
そうやって一個一個因果の筋を削ってったら、ただの怖そうに見えるだけの別物。
ぬ~べ~ってのはさ、妖怪と人間の関係とか、善悪の境界とか、そういうのをド直球で描いてくれる作品だったんだよ。
それがこの作品の良さであって、エロ以外にもちゃんと魅力があったからこそ人気があったと断言できる。
俺は今回のリメイク版はたもんばを見て思ったよ。
私は神社仏閣の御朱印を集めるのが趣味であるが、その中で知った御朱印の種類について書こうと思う。
・直書き
通常は筆やペンで文字を書き、印を押して貰う形となるが文字もゴム印で押して日付けのみ手書き、若しくは無かったり自身で書き入れる形となることがある。
・書き置き
あらかじめ用紙に御朱印を書き入れたものであり、通常の御朱印の他にカラーデザインや切り絵等のものもある。
一枚一枚手書きで書いたものもあればコピーで印のみ手押し、若しくはすべてコピーという所もある。
住職等、御朱印が書ける人が不在でもどなたかいればいただけたり、境内の中に置いておいてお代は賽銭箱にという形を取っている所もある。
また住職がいても御朱印を1から書いていると時間がかかるのでという理由で書き置きのみの所もあれば、書き置きでは味気ないと直書きしか行っていない所もある。
また大きさも様々であるが私は小さめの御朱印帳を使用しているため、書き置きの御朱印が大きくて貼れない場合は小さめのクリアファイルにて保存している。
・書き手
基本的に住職が書き入れる事が多いが住職が不在だったり多忙だったりすると副住職や弟子、前住職や寺庭(住職の奥様)が書き入れる所もある。
またお寺限定で書道教室を行っている書道家の方もおり、その方が住職に変わり書き置きの御朱印を書いたり、お寺のイベントで御朱印帳に直接書き入れを行なう事もある。
また書家の金澤翔子氏が縁のある寺院で御朱印を書いたり、書道展を行っている。
小さな神社仏閣では御朱印がない所もあるので事前に聞いて有無を確認した方が良いと思う。
住職が普段いらっしゃる寺院で兼務されているお寺の御朱印もいただける事がある。
御朱印に力を入れている所ではLINEで御朱印をいただける日時を予約出来るが、一般的には事前に電話で都合の良い日時を聞いてお願いした方が無駄足にもならず効率が良い。
小さな寺院では人手も少なく特に土日に法事が多く、その合間にいただく事もあるがあくまで寺院の都合に合わせる形となるので自身のスケジュールに余裕がある時でないと難しい。
・金額について
基本的に300円で良いという所が多いが最初から金額が提示されていて500円やカラーや切り絵のものでは1000円前後のものもある。
書き置きでコピーのものでは100〜200円で良いという所もある。
今日、近所のコンビニエンスストアなるものに立ち寄り、いわゆる「セルフレジ」なる機械にて会計を済ませた。
ピッ、ピッ、と電子音が鳴る。品物についておるバーコードなる紋様を機械にかざすだけの、まことに簡便な手続きである。
されど、この一連の所作、どうも古の無人販売所、あるいは賽銭箱に銭を投げ入れ、神仏の加護を願う行為の変奏のようにも思われてならぬ。
かつて路傍に置かれた野菜の代金を正直に箱に入れる行為には、村落共同体の暗黙の掟、あるいは目に見えぬ存在への畏敬の念が介在していたのではなかろうか。
翻って現代。我々は液晶画面の指示に従い、疑うことなく商品を機械に読み取らせ、電子的な貨幣にて対価を支払う。店員という「人」を介さぬこの行為は、ある種の隔絶と、同時に機械という新たな「カミ」への直接的な奉納の儀のようにも見える。
バーコードは品物の呪力を封じた護符か。スキャンする行為は一種の祓であろうか。支払いの完了を告げる電子音は、神託の証左か。
人の手による温かみが薄れたと嘆く声もあろうが、形を変えども、人は何かしらの「規則」や「儀礼」に則って生きることをやめられぬ性を持つのかもしれぬ。スーパーの袋詰め台で、人々が黙々と品物を整然と袋に収める姿なども、どこか日常に潜む祭祀性を帯びて見えなくもない。
レジ袋が有料となり、人々が「マイバッグ」なる自前の袋を持参するようになったのも、単なる経済合理性だけでは説明がつかぬ、新たな「持ち物」への意識、あるいは外部からの「ケガレ」を自らの領域に持ち込まぬための結界のような意味合いを、深層心理のどこかで帯びているのでは、などと思うた次第。
これもまた、名もなき「常民」たちの、声にならぬ習俗の生成過程なのであろうか。日々移ろいゆく世の慣わしを、こうして記録しておくことも、また無意味ではあるまい。