
はてなキーワード:護身術とは
その人に本当に必要であれば
なろう系のファンタジーだって、冒険に出る前に剣術習ったり、素振りしてるわけで、
敵が現れた、ドラゴンが現れた、
必要になった、問題に直面した、学ばざるをえない、今から学ぼう!
は、もう遅いんだよ…😟
だから、学校の勉強、受験勉強は護身術みたいなところがあって、
人生でそういうトラブルとかチャンスに遭遇しない人には確かに必要ないんだよね…😟
確かに学校の勉強とか受験勉強が今後の人生でも一度も必要ないであろう、
そういう人が、仮に人生で、昔勉強しておけば良かったな、と思うイベントに遭遇しても諦めればいい、
何事も想定外はあるし、自分はそこまで準備してなかった、失敗した、で、まあ終わる…😟
だけど、人生のどこかで、なんかプログラミング書いてみたくなった、
とりあえず、子供の頃好きだった2Dの縦シュー作るか、ぐらいでも、三角関数は使う…😟
3Dの格ゲーが作りたい、なら尚更で、UnityやUnreal全盛ではあるけど、もっと知ってないと駄目
あと、英語
国語とか数学とか何の役に立つのは、まあ分からんでもないけど、英語はできた方がいい
もちろん、今はAI翻訳が便利すぎる状況だけど、英文があってもせめて物怖じしないようでないと、
プログラミングのドキュメントも英語だし、輸入食材も英語のままだったりするし…😟
輩たちは、ギリギリ言質を取られないような言動で他者を威圧する。
そこに腹を立てて訴え出たところで、一般的な立ち合いにおいては音声記録などの証拠もなく、うやむやにすることは可能である。
先に手を出した方が悪いというのは、倫理的な話ではなく、外傷という物的証拠が残るからである。
そういった事情により、輩たちと相対する人々は、独自の対処技術を学んでいった。
輩の見ているところで、身内の従業員をこれ見よがしに叱責したり、大音量の大声で挨拶や業務連絡を行うといった手法である。
それぞれ、業務上の連絡であったと言い張れながら、輩を圧倒しうるのである。
インターネット上ではネガティブに語られる「声のデカさ」であるが、輩と協業する肉体労働職においては、必然的に生じた護身術なのである。
フランク・キャンパーという元ベトナム退役兵が1980年代に傭兵学校を設立しました、並木書房から日本人の参加ルポが出ていたと思いますがその詳細を教えてください
エコー・イン・ジャパン:フランク・キャンパー、並木書房、そして傭兵の呼び声に応えた日本人
ご質問の内容は、単なる書籍の問い合わせにとどまらず、1980年代の日本における特異な文化的モーメントを映し出す歴史的アーティファクトである。この時代、日本では軍事、特に傭兵や特殊部隊といったロマンチックかつ危険な世界への大衆的関心が急激に高まった 1。この熱狂は、落合信彦氏のような作家が手がけた「スーパードキュメント」と呼ばれるノンフィクションによって大きく煽られた。特に、氏の著作『傭兵部隊』はフランク・キャンパーを大きく取り上げ、後の日本人参加者を含む当時の若者たちに強烈なインスピレーションを与えたのである 1。
本報告書は、ご質問者が記憶されている「日本人の参加ルポ」と完全に一致する一冊の本は存在しないものの、その記憶がフランク・キャンパー、高橋和弘、毛利元貞といった人物、並木書房による出版物、そしてキャンパーの学校とその「後継」組織という、相互に関連し合う魅力的なネットワークを指し示していることを明らかにする。その全貌は、一個人の参加報告よりもはるかに複雑で、示唆に富むものである。
この現象を解き明かす上で、並木書房の役割は極めて重要である。同社は単に受動的な出版社ではなく、日本の市場に向けて「傭兵」や「サバイバル」といった特定のサブジャンルを積極的に開拓・形成した「キュレーター」であった。まず、1990年に高橋和弘訳によるフランク・キャンパー自身の著書『ザ・マーセナリー』と『ザ・ラープ』を出版し、日本におけるキャンパーのブランドを確立した 9。同年、その翻訳者である高橋自身の体験記『USサバイバル・スクール』を刊行 14。これは、確立されたキャンパーのブランドと翻訳者の信頼性を利用して、新たな日本のオリジナル作品を市場に投入する戦略であった。翌年には、キャンパーが象徴する世界に直接繋がるもう一人の日本人、毛利元貞の『傭兵修行』を出版した 15。この一連の流れは、海外の著名な人物を輸入してブランド化し、次にそのブランドに連なる国内の物語を発掘・出版することで、ニッチな市場全体を掌握するという、並木書房の意図的な戦略を示している。
1.1. 論争の的となった経歴:兵士、情報提供者、そして神話の創造者
フランク・キャンパーの公的なペルソナと、彼が設立した傭兵学校の信頼性の核となっていたのは、その軍歴であった。彼は自身をベトナム戦争に従軍した第4歩兵師団の長距離偵察パトロール(LRRP)隊員であると主張し、そのエリートとしての経歴を喧伝した17。この物語は、後に日本で『ザ・ラープ 長距離偵察部隊』として翻訳・出版される自著『LRRP: The Professional』によって、さらに補強された10。
しかし、1985年に公開された公式の軍記録は、彼が歩兵およびトラック運転手として訓練を受けたと記しており、その経歴に疑問を投げかけた17。この矛盾は、1988年にキャンパー自身が上院小委員会の公聴会で証言したことにより、ある種の解決を見る。彼は、軍事情報部、CIA、ATF(アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局)、FBIとの「高度な機密指定を受けた経歴」を明らかにし、矛盾する記録は情報機関によるカバーストーリーであったと説明した 19。彼によれば、1970年から秘密情報提供者として活動し、アメリカ共産党(CPUSA)やアラバマ黒人解放戦線(Alabama Black Liberation Front)のような組織に潜入していたという17。この兵士と情報提供者という二重のアイデンティティこそが、彼の行動を理解する上での鍵となる。
1.2. マーセナリー・スクール(1980年-1986年):準軍事的事業の実態
1980年、キャンパーはアラバマ州ドロマイト近郊で「マーセナリー・スクール」を開校した。当初、実地訓練はフロリダで行われていたが、原子力発電所付近での不法侵入容疑による逮捕後、拠点をアラバマ州ジェファーソン郡のウォリアー川沿いにある77エーカーの森林地帯に移した17。
学校は『ソルジャー・オブ・フォーチュン』のような軍事雑誌で宣伝され、2週間のコース料金は350ドルから500ドルに設定されていた17。訓練内容は、体力トレーニング、銃器の取り扱い、白兵戦、ナイフ格闘術、サバイバル技術、ランドナビゲーション(地図判読)、E&E(脱出と回避)、爆発物、ブービートラップの設置など、多岐にわたった 1。機密解除されたCIAの文書には、司令部であった「バンカー」の様子や、実弾が飛び交う中で行われた「ライブ・ファイア」演習の生々しい記述が残されている 22。
キャンパーは学校設立の理念として、米国政府のための情報収集と、将来的な協力者となりうる外国人の資質を見極めることの2点を挙げていた 21。これは彼が担っていた情報提供者としての役割と一致する。しかし、批評家たちからは、この学校は単なる「大規模なペイントボール・ゲーム」に過ぎないと揶揄されてもいた17。
キャンパーの学校は、単に軍事技術を教える場にとどまらず、国際的なテロリズムや犯罪と深く結びついていた。
1984年から85年にかけて、4人のシーク教徒過激派がこの学校で訓練を受けた17。キャンパーは彼らに武器や爆発物の使用法、暗殺技術を指導した 21。彼は、当時インドのラジブ・ガンジー首相の訪米に合わせた暗殺計画を阻止するため、FBIと協力しておとり捜査を進めていたと主張している17。しかし、このおとり捜査の網をすり抜けた2人の訓練生が、キャンパーの学校から盗まれたとされる爆発物を使用し、1985年に329名の命を奪ったエア・インディア182便爆破事件を実行した 21。キャンパーは後に、容疑者全員を逮捕できなかったのは、自身が提供した情報が関係機関によって不適切に扱われたためだと非難した 21。
学校の終焉を決定づけたのは、1985年にキャンパーと3人の教官がカリフォルニア州の学校経営者から依頼を受け、元従業員の車に爆弾を仕掛けた事件であった 21。彼らは1986年5月に逮捕され、この逮捕がアラバマ州司法長官に、州の私立学校免許なしで運営されていた同校を閉鎖する法的根拠を与えた17。キャンパーは有罪判決を受け、14年の懲役刑を宣告されたが、実際には5年半服役し、1991年12月に釈放された17。
この一連の出来事は、マーセナリー・スクールが単に犯罪者が集う場であったという以上に、より複雑な本質を持っていたことを示唆している。キャンパーが公言していたように、この学校は米国政府のための情報収集を目的とした「ハニーポット(蜜の壺)」として構想され、運営されていた。その設計思想自体が、過激派や犯罪者を引き寄せるものであった。彼は実際に、ナイジェリアへの武器密輸計画やKKK関連のクーデター計画など、訓練生の違法行為を当局に通報し、逮捕に貢献している17。シーク教徒の事件に関するFBIの宣誓供述書にも、アラバマ州の「信頼できる情報源」からの通報があったことが記されている 22。
しかし、このモデルは致命的な欠陥を抱えていた。エア・インディア機爆破事件は、この「ハニーポット」戦略が破綻した最悪の事例である。キャンパーが教えた技術は、彼が仕掛けたおとり捜査の網をすり抜けたテロリストによって、悲劇的な形で実行されてしまった。したがって、この学校の遺産は単なる犯罪の歴史ではなく、国家による情報収集活動が民間委託され、危険な個人を「育てる」ことと「罠にかける」ことの境界線が曖昧になった結果、大惨事を引き起こした高リスクな秘密工作の失敗例として記憶されるべきである。学校の存在そのものが、ある種の秘密工作の一環であり、その破綻は、その機能から直接的にもたらされた必然的な帰結であった。
2.1. 直接的な回答:高橋和弘の『U.S. Survival School』
ご質問者が記憶されている「日本人の参加ルポ」に最も直接的に該当するのが、高橋和弘氏による著作である。高橋氏はアウトドアやサバイバル技術に造詣の深い日本のライター兼翻訳家であり、並木書房から出版されたキャンパーの著書の日本語訳も担当していた 9。
1990年、並木書房は彼のオリジナル著作『USサバイバル・スクール―極限の野外生存術』を出版した 14。この本こそが、ご質問の核心に触れる一次資料である。本書は、高橋氏自身がアメリカに渡り、8つの異なるサバイバルおよび軍事系スクールに参加した際の体験を綴った一人称のルポルタージュであり、その第3章が「傭兵学校―マーク・スクール(MS)」と題され、ユーザーが記憶する詳細な参加報告が記されている 14。
2.2. 決定的な繋がり:「マーク・スクール」と教官「ピート」
重要なのは、高橋氏が参加した「マーク・スクール(MS)」が、1986年に閉鎖されたキャンパーのアラバマの学校そのものではないという点である。調査によれば、この学校は、フランク・キャンパーの元アシスタント教官であった「ピート」という人物が新たに設立した「後継」の学校であったことが特定されている 2。この事実は、毛利元貞氏のWikipediaページの脚注において、高橋氏自身の著書『USサバイバル・スクール』を典拠として明記されている。「スペシャル・アサルト・スクール」とも呼ばれたこの後継学校は、ミシシッピ州に拠点を置いていた 2。
この事実関係を整理することで、ご質問者の記憶の謎が解ける。記憶は機能的には正しく、しかしキャンパーという著名な名前と、実際に日本人が報告した学校とを混同していたのである。その報告は、キャンパーの弟子が運営し、キャンパーを中心としたカタログを構築していた並木書房から出版された、「キャンパー・スタイル」の傭兵学校に関するものであった。つまり、ご質問者の記憶の核心は正しく、その背景には直接的な血脈が存在していた。1990年当時の読者にとって、キャンパー本人の学校と、その直系の後継者が運営する学校との区別は些細なものであり、体験の「精神」はキャンパーの遺産そのものの延長線上にあったのである。
この物語には、もう一人の重要な日本人が登場する。1964年生まれの毛利元貞氏である 2。彼もまた落合信彦の『傭兵部隊』に触発され、より実践的な経験を求めて自衛隊、そしてフランス外人部隊へと進んだが、いずれも脱走している 2。
彼の探求は、アメリカでピートが運営するミシシッピ州の「スペシャル・アサルト・スクール」へとたどり着く。しかし、彼は参加者としてではなく、その卓越した技能を認められ、同校の「教官」となった 2。1991年、並木書房は彼の体験をまとめた『傭兵修行―世界に冒険を求めて』を出版した 15。この本は、ジャーナリスト的な参加者として訪れた高橋氏の視点とは対照的に、組織のスタッフとして完全に内部に溶け込んだ日本人の視点から描かれた、ユニークで並行する報告となっている。
高橋氏と毛利氏の物語は、このアメリカのサブカルチャーに対する日本人の二つの異なる関与の形を象徴している。高橋氏は、体験し、記録することを目的とした「観察者・記録者」であり、その役割は本質的にジャーナリスティックであった 14。一方、毛利氏は、その世界を報告するだけでなく、自ら生きることを目指した「実践者・求道者」であり、その目標はプロフェッショナルになることであった 2。並木書房がほぼ同時期に両者の著作を出版したことは、同社が、体験談を読んで楽しみたい「 armchair enthusiast(安楽椅子探偵)」層(高橋の読者)と、自らもそうなりたいと夢見る層(毛利の読者)の両方を読者層として認識していたことを示唆している。二人の本は、日本の「傭兵ブーム」が内包するファンタジーの全スペクトラムに応えるものであった。
著者/翻訳者
年
関連性
Merc: The Professional
1990
キャンパー自身の傭兵としてのキャリアを語り、日本での彼のペルソナを確立した 9。
LRRP: The Professional
1990
中国のポップカルチャーにおいて顕著に見られる、刀剣を携行する日本人女性像に対する憧憬の現象は、単なる一時的な関心に留まらず、日中両国の歴史的背景、ポップカルチャーにおける表象、現代社会におけるジェンダー観の変化といった多角的な要因が複合的に作用した結果として捉えることができる。
日本史において、刀剣は単に武具としての役割を超え、武士道の精神を象徴する文化的アイコンとしての地位を確立してきた。その精緻な意匠と鍛錬技術は、単なる実用品ではなく、精神性と美意識が凝縮された芸術品として認識されている。一方で、武士階級の女性においても、家を守るための護身術や、有事の際の戦闘能力が求められることがあり、薙刀をはじめとする武具を扱う女性武芸者の存在が歴史的に確認されている。これらの女性たちは、勇壮さと同時に、凛とした佇まいや内面の強さを兼ね備えた存在として、後世に語り継がれてきた。この歴史的背景が、刀剣と女性を結びつけるイメージの素地となり、中国のポップカルチャーにおける受容の基盤を形成したと考えられる。
近年の中国において、日本のアニメ、漫画、ゲームといったポピュラーカルチャーは広範な支持を得ており、その中で刀剣を操る日本人女性キャラクターが数多く登場している。これらのキャラクターは、卓越した剣術の腕前を持つことはもとより、多様な個性と背景設定が付与されている。例えば、冷静沈着な女剣士、強い正義感を持つ女武芸者、可憐な外見ながらも内に強靭な意志を秘めた姫君など、その類型は多岐にわたる。これらのキャラクター造形に共通して見られるのは、力強さと同時に、美しさや繊細さといった女性的な魅力が強調されている点である。また、伝統的な日本の衣装や風景を背景に刀剣を構える姿は、異国情緒と神秘性を喚起し、現実には存在し得ない幻想的な魅力を醸し出す。これらの表象は、中国の受容者にとって、単なるフィクションの範疇を超え、一種の理想像として認識される傾向にあると考えられる。
現代社会においては、伝統的な性別役割に拘束されず、自立した生き方を追求する女性像への共感が世界的に拡大している。中国においても例外ではなく、社会の多様化に伴い、強さと独立性を兼ね備えた女性キャラクターへの支持が高まっている。刀剣を携行する日本人女性キャラクターは、まさにそのような現代的な女性像の象徴として解釈される可能性が高い。男性的なイメージの強い刀剣を操りながらも、内面には優しさや信念を持つという二面性は、多面的な魅力として受容者に共感を呼び、憧憬の念を抱かせる要因となり得る。
中国と日本との間には、過去の歴史に起因する複雑な感情が存在する。しかし、特に若い世代においては、歴史認識とポップカルチャーに対する興味を分離して捉える傾向が認められる。日本のポップカルチャーが持つエンターテイメントとしての魅力、そしてそこに描かれる魅力的なキャラクターたちは、歴史的な背景とは異なる次元で享受されることがある。刀剣を携行する日本人女性キャラクターに対する憧憬も、このようなポップカルチャーの魅力の一環として理解することができる。
結論として、中国のポップカルチャーにおける刀剣を携行する日本人女性像への憧憬は、日本の歴史と文化に根ざした刀剣の象徴性、ポップカルチャーにおける多様かつ魅力的なキャラクター表象、現代社会におけるジェンダー観の変化、そして歴史認識と文化受容の分離といった複数の要因が複雑に相互作用した結果として生じた現象であると結論付けられる。これらのキャラクターは、強靭さと優美さ、伝統と革新性、そして自律的な精神を体現する存在として、中国の広範な層に受容され、独自の文化的アイコンとしての地位を確立しつつあると言えるだろう。今後の研究においては、この憧憬が中国社会のジェンダー観や国際認識に与える影響についても考察する必要があるだろうね。
人間たちのせいで野生動物の居場所や食料が無くなり畑なんかを荒らすわけですが、実際に目の前に現れた場合やすやすとやられる訳にはいきません。
女性の方でも簡単に出来る護身術ですので是非チャレンジしてみて下さい♪
2)クマさんのテレフォンパンチをダッキングでかわして前に出る。
3)すばやくバックをとる。←ここ重要。
とにかくクマさんのパンチにすばやく対応しなければなりません。
5)がっちりバックチョーク!いかに体力があろうと脳への血流が遮断されれば倒れる。
6)失神。野生動物は後ろに倒れることは無いのでつぶされる心配は無い。
当然ですが、失神してから更に締め付けると死んでしまうので、倒れたらすぐさまその場を離れるようにしましょう。
いかがだったでしょうか?
通勤・通学
防犯アプリの活用:位置情報を共有できる防犯アプリをインストールしておくと、万が一の時に役立ちます。
タクシーの利用:夜遅く帰宅する場合は、信頼できるタクシー会社を利用するのも一つの方法です。
住居
防犯カメラの設置:玄関やベランダに防犯カメラを設置することで、不審者の侵入を防ぐことができます。
郵便受けの管理:郵便受けに郵便物が溜まらないようにし、留守が長引く場合は郵便物の一時保管サービスを利用する。
生活習慣
緊急連絡先の登録:スマホに緊急連絡先を登録しておき、すぐに連絡できるようにしておく。
自己防衛術の習得:護身術のクラスを受講し、基本的な防衛技術を身につける。
目立たない服装:夜間や人通りの少ない場所では、目立たない服装を心がける。
防犯グッズの携帯:防犯ブザーやペッパースプレーなどの防犯グッズを常に携帯する。
タイトルの通り、小学生時代に遭った痴漢やそれに類することについてと、書き出してみて思ったこと。
当時の私はピアノを習っていて、発表会に祖母と母が来てくれた。おろしたてのワンピース、フリルのついたソックス、少しだけかかとの高いよそゆきの靴、いつもより豪華に結ってもらった髪にはリボン。かわいい格好ができて嬉しかったのを覚えている。
発表会は市民ホールを貸しきって、昼すぎまでかかっていたと思う。早起きしたぶんお腹はペコペコで、遅めの昼食は近くて回転率がよくすぐに食べられるお蕎麦屋さんを選んだ。
昼すぎでも土日だったからか、お客さんが並んでいた。回転率のよさは知っているので、並ぶのは苦にならない。眠気も出てきていささかぼんやりしつつ、だらだらと前に並ぶ人へ続く。
すると突然、ぐいっと左手を掴まれた。反射的にそちらを見上げると、知らないおじさんが私の手をとり握手するみたいにぎゅむぎゅむ握っている。とても、とても驚いた。けれど声は出なかったし、ぴくりとも動けなかった。知らないおじさんは「可愛かったからつい」と言って、手を離して店を出て行った。
母たちは「びっくりしたねぇ」などと何だか和やかに言っていたが、私はほんとうに驚いて、つまりショックで、その後どうしたか覚えていない。もちろんかなり古い記憶なので、単純に時間経過によって忘れてしまっただけかもしれないけれど。
ほんとうに驚いたとき、人間は悲鳴も上げられないしすぐに逃げもできないのだな、と何だか絶望に近い気持ちになったことは覚えている。アニメやドラマ(刑事ドラマが好きでよく観ていた)のようにはできないのだ、と。
「かわいい」は褒め言葉のはずなのに、なにも嬉しくなかった。なんとも言えないモヤモヤが澱のように腹の底に溜まった。
プライベートゾーンを触られたわけでもなく、何なら一緒にいた親族も問題視したふうでもなく、法的に痴漢には分類されない体験。今でも一般的になんと分類するものか分からないままだ。それでも私の中でだけは、初めて遭った痴漢として記憶している。
私の地元は田舎で、徒歩通学だった。当時はとにかく読書が好きで、通学中は図書室で借りた本を読みながら歩くのがほとんどだった。二宮金次郎みたいに。
学校帰り、季節もあってまだまだ明るい中、いつも通り本を読みながら一人でひたすら歩く。毎日毎日そうしているから慣れたものだった。
車が1台ぎりぎり通れるくらいの、田んぼと畑と農家然とした少し古めの民家ばかりの道で、ふいに後ろから声をかけられた。自転車に乗った男子学生だった。中学生か高校生か、とにかく同じ小学生でないことしか分からなかった。親や学校の先生以外で年上と話す機会もそうなかったし。
喉が乾いたので飲み物を分けてもらえないか、と言われた。夏なので肩に水筒をぶら下げていたのだ。大人なのに変なの、とは思いつつ、水筒のコップ代わりの蓋になみなみ注いで渡した。
水筒のお茶を飲むところをぼんやり眺めていたら、コップを持つ男子学生の手がぶるぶる震えていた。おそるおそる口をつける。そのさまを見て、なぜだか急に、明確におかしいと感じた。一気飲みはせず、謎に丁寧にお茶を飲んでから返されたコップ。水筒に戻しながら、どうやって帰ろうか不安になった。自宅までそんなに距離がなかったからだ。なぜかついてこられるのでは、と思った。その間も、ぽつりぽつりと男子学生からの問いかけが続く。いつもこの道を通るの、とか、何年生なの、とか。
今の私は何でそこで律儀にと思うが、その時は走って逃げるとか急に話を切り上げるとかいう選択肢がなかった。失礼だと思ったからだ。誰か帰路の小学生でもいれば、知らない子でも混じって帰ったと思う。でも誰もいなかった。人っ子一人。えー…とか、うーんと…とか枕詞みたいに付けたふんわりした回答をしながら、子供なりに頭はフル回転していたはずだ。でも、打開策が思いつかなかった。
少しして、私たちがいた道沿いの民家から住人のおばさんが出てきた。知らない人だったけれど、何してるの、と声をかけてくれた。それを見て、男子学生は何も言わずに自転車を走らせて去っていった。その背中が私の帰り道と同じ方向だったのを見届けて、まだ呆然としたままの私は、なんにもないです、とだけ答えた。知らないおばさんが「さっきの子は知り合い?」と言うので、首を振る。ちょっと回り道してから帰りなさいね、と言われた。私もそのつもりだった。
この体験も、お茶をくれと言われて分けただけで何もされていない。痴漢ではない。なので何と呼べばいいか分からないけれど、自分の中ではその他の痴漢と同じカテゴリに分類して記憶していると思う。そういう系統の嫌な気持ちだった。
これも小学校中〜高学年頃。
私の両親は離婚しており、母に引き取られていた。夏休みに父のところへ泊まりに行っていたときだった。
例によって本が好きなので、県立図書館へ連れていってもらった。いっちょまえに児童書は卒業していたので、見る本棚は一般書架。父はAVコーナー(ネットカフェみたいに区切られたブースで各々映像資料が観られる。アダルト資料ではない)にいるというので、一人でゆっくりと本棚を眺めていた。作者なんかは知らないから、タイトルや表紙のデザインを中心に何となく気になった本を探す。児童書に比べてかなり数が多いので、背表紙を眺めているだけでも楽しかった。タイトルしか読んでいないのに、いくら読んでも読み終わらなくて。
ふと、足元がぬるい感じがした。見下ろすと人が床に手をついてしゃがみ込んでいた。年齢は分からなかったけれど、男の人であることだけは分かった。
図書館の本棚は上下左右ギチギチに本が詰まっている。下の段の本を見るには、学校でミクロマンとイジられていた私の体躯でもしゃがみ込まなければならなかったので、下の方が見たいんだなと思った。図書室で人気の本棚にみんなが密集するのはよくあることだ。と思ったけれど、はぁーーー、と長い息を膝に吐きかけられているのを見て、一気に過去の嫌な気持ちが呼び起こされてしまった。気付いていないふりでじりじりと距離をとり、別の本棚へ移動する。
何だったんだろう、と心臓がばくばく言うのを落ち着かせているうちに、暑いから息が上がっていただけでは?という気になってきた。そう思うと何をビビっていたんだろうと馬鹿らしくなって、また端から背表紙を読んで、読んで、時には取り出して表紙やもくじを眺めて。
じきに、また足元に違和感があった。今度は微妙にぺたぺた?ぬるぬる?する。見下ろすと先ほどの男の人がしゃがみ込んで、私の膝辺りを舐めていた。他人の舌が肌を這うことなどないし、誰か分からないし、理由も分からないし、どうすればいいか分からなくて、なのに気付いていることを勘付かれてはいけないと咄嗟に思った。心臓はまたばくばく暴れて、目の前の本を適当に抜き取り「これにしよ」なんてわざとらしく声に出して、父のところへ逃げた。
この時に借りたのは『エリコ』という本だったと思う。いま調べてみると表紙が記憶と違っているけど、女の子のモノクロっぽいイラストの表紙だったはず。父の家に戻ってから読んだけれど、分厚い上に当時の私には内容が難しくて、とても難儀した。話が全く分からなくなってからは飛ばし飛ばし読んで、なんだか図書館での嫌な気持ちがフラッシュバックするような描写を目にして、結局ギブアップした。主人公が高級娼婦らしいので、確かに当時の私には早すぎたし「猥雑と戦慄がからみあう、嗜虐と倒錯の近未来バイオサスペンス(引用元:BookLive)」はあんなことの後では取り合わせが最悪だった。今までの人生で読み始めたのにギブアップした本はこれと『ドグラ・マグラ』だけなので、すごく印象に残っている。
この体験は一般的にも痴漢に入るのではないかと私は思うけれど、そのときの私には分からなかった。知らない人に舐められて驚いたし怖かったのに、誰にも言えなかった。一緒にいたのが母だったら、もしかしたら言えたかもしれない。正直、相手と同じ性別である父には言いづらいと感じた。自宅に戻ってからは、今度は今更だと思って母にも結局は言えなかった。
4度目は小学校高学年。
さすがに生きているだけでも変な目に遭うことはあるのだと理解していた。それに、そういう場面では声も出ないしパニックになって機敏に動くのは難しいことも。
私は護身術として極真空手に通うようになっていた。ビビって声が出ないし動けないなら、度胸をつければよいと思ったからだ。流派だの何だのはよく分からないままだけれど、男子に混じって毎週通った。練習は体育館で行われていて、フローリングの上で拳で腕立て伏せをするのが大嫌いだった。骨が痛すぎるし、未だにフローリングでやることではないと思っている。
それから、通学路も勝手に変えた。2回目のときに使っていたのは車1台でいっぱいの道幅だったが、片側1車線ずつの道だ。さらに少し行くと複数車線の道もあるけれど、遠回りになるのでこちらばかりを通っていた。徒歩通学だしショートカットしたかった。車通りはやはり少ない。
この時も学校からの帰り道だった。一人で帰っていて、道路の向かい側に停まった白い車から声をかけられた。運転席の窓を開けて、男性が小学校へはどっちに行けばいいかと尋ねてくる。あっちです、と指をさすと、地図で教えてほしいと大きな紙を広げた。道路を挟んだままだと見えないので、道路を渡って運転席の窓から紙を覗きこむ。それは確かに地図だったけれど、地図と腹との隙間から陰茎が見えていた。数センチの隙間から、手で擦って見えたり隠れたりする陰部。
相変わらずショックではあったけれど、またか、という諦観もあったように思う。私はやはり気付いていないふりをした。努めて地図だけを見て、現在地も分からなくて、「地図読めないけどとにかくあっちです。ずーっとまっすぐ道なりで左側にあります。私はそこから来たんだから間違いないです」というふうな回答をした。
習い事があるからとその場を駈け出して、ないと思ったけど一応追ってきていないのを確認して、座り込んだ。心臓は毎度のようにばくばく言っていたけど、走ったから当たり前だなと思った。前よりも怖くなくなったし、毅然と振る舞えた気がするからたぶん空手の効果はあった、と思いながら自宅へ帰った。今回もこのことは誰にも言えなかった。
そういうわけで、私が小学生のときに遭った痴漢やそれに類するものは覚えている限り4回だ。多いのか少ないのかは分からない。
もちろん、中学生でも高校生でも大学でも大人になっても何かしらは遭った。それでも一番覚えているのがこの小学生時代。今やすれた30代だけれど、私も子供の頃はさすがに無垢だったのでショックが大きかったのだと思う。
どう気をつければいいのかというと、正直私は分からない。嫌な言い方だけれどもはや事故みたいなものだから。防ぎようがないという意味で。ただただ、こういうことをする人がいなくなってくれればいいのだけど。
一つだけ。もしもこんなことがあったと言われたら、ちゃんと聞いてあげてほしいとは思う。
中学にあがってから、路上で知らない人に突然キスされたことがある。グレてイキって気は強く成長した私は、黙り込んでいた小学生時代とは違ってすぐに学校に報告した。とにかく腹立たしかったからだ。分かることはすべて話した。場所とか、相手の風貌とか、原チャだったとか。それらは全校放送で流れた。
おそらく親にも連絡が入ったのだと思う。その日の夜、養父(母は再婚した)にリビングへ呼びだされた。本当なのかと聞かれたので、本当だと答えると、場所を地図で描けと言われた。不審に思いながら自宅から中学校への道順を描き、ここ、と丸をつけると、嘘だと言われた。こういう場合、被害に遭った場所から描き始めるのが心理学的に普通だそうだ。私としては通学中に起きたのだから理にかなって描きやすい順番だったのだけど、そう言われた。心理学なんて分からないので反論もできなかった。原チャの車種はなんだとかも聞かれたけれど、私が知っている中での形や大きさで最も近い名称が「原チャ」だっただけで、詳しくは知らなかった。グレ友達に2ケツで乗せてもらったやつくらいにしか認識していなかったから。養父の趣味にハーレーがあったので、バイクを中途半端に出したのもよくなかったのかもしれない。
そうして私の虚言であったとされ、おそらく学校へも連絡したのだと思う。保健室登校しても、教師がどこかよそよそしかった。あくまで私の感覚なので、実際のところは分からない。
ショックだった。折り合いの悪い養父であっても、もはや養父側の人間で信用していないと自分では思っていた母であっても、なぜだか報告すれば信じてくれると思い込んでいた。
初めて報告したらこうして狼少女にされてしまったので、前述のとおりその後も何度も変な人に遭ったけれど、誰にも話していない。
今でも覚えているので、やはり他の家庭、いわゆる子供(年齢は問わない)をもつ家庭では子供を信じてあげてほしいと思う。様々な要因で恒常的に嘘をつく子供がいたりするらしいのは知っているけれど、嘘でなかった場合に取り返しがつかないからだ。私のようになってしまう。独身の私が言うのもおかしいけど、子供は健やかに育つべきだ。大人になったら嫌でもすれてしまうのに。
この文章は、職場の男性から小学生にあがった娘の親バカノロケを聞かされてぶわっと思い出したまま書き殴った。
電車通学が珍しい地方の小学生だった私でも、4回。0回の方がいいに決まっているので、こんなことがどこでもありうるから気をつけてあげてほしい、と言おうと思ったけれど、職場の人に実体験を話すのは憚られたので。初めて表に出して少しすっきりしたかもしれない。
誰からも相手にされないしょーもない低知能中高年が延々と誰かの悪口言ってるだけの空間になってしまった。
これから伸びていく可能性の満ちた空間から、終わってしまった可能性が吹き溜まった空間へ。
ゴールドラッシュが終わった後の廃鉱山もこんな空気だったんだろうか。
出遅れたツルハシ売りは詐欺を繰り返し、店じまいする寸前の洗濯屋は情弱に店一式を高値で売りつけようとしている。
新しい時代の風を読める人間がもういなくなった町並み、何よりの違いはいる人間の顔つきから漂う知性の低さ。
正直、俺が今のインターネットで一番クソだと思っているのがインターネット老人会なる連中がのさばっていることだ。
奴らはことあるごとに「俺達こそがインターネットを大きくしていったのだ」と偉そうに語る。
本当にそうか?
インターネットは勝手に大きくなっていったものだし、そこに貢献していた人間がいるとすれば、それは通信事業者と広告業界だと思う。
でもインターネットにいた住民の多くは、通信事業者に異常な負荷をかけては「契約では使い放題になっている!詐欺だ!」と迷惑をかけていた。
広告業界に対しても敵意を剥き出しにし、Adblockを使うのが正しい作法だと吹聴して回っていたが、自分たちは広告売り上げを前提にしたサービスに依存し続けた。
ネット住民たちがネチケットやウィルスからの防衛術を広めいったのも、治安の悪い世界で自分を守るための護身術でしかなく、ネットの発展を目指していたかといえば疑問だ。
ただあの時代のインターネットを好き放題に楽しむ以外なにもやってこず、そして最後はSEO最適化合戦に取り込まれて、今のインターネットが出来上がった。
そうして生まれた今のインターネットを蔑みながら「昔は本当に楽しかった」と愚痴り続けるのは鬱陶しいだろう。
昔からのインターネット空間は、こうして愚痴り合う声ばかりが響き合っていてドンヨリしている。
最新のインターネットにちゃんと染まれる人間にとっては、今のインターネットも変わらず楽しい。
それには新しいSNSサービスが出てきたら次々とアカウントを乗り換えていけるだけのエネルギーが必要だし、自分から配信して相互に情報交換していくだけの勇気も求められる。
VR空間を楽しむためにもAI生成を楽しむためにもマシンパワーは必須なのでここをケチっていては始まらない。
自分から発信し、気軽に生成し、気軽にマネタイズして、気軽にマネタイズされたものに金を払う。
最近のインターネットは有料と無料の境界線が昔とは様変わりしている。
昔は企業が作ったものは有料で、素人が作ったものは無料だった。
今はそういった形で境界線は引かれていない。
素人が作ろうがプロが作ろうが、誰にでも無料で配られている部分と、一部に有料で配られている部分がある。
その基準は昔よりもずっと曖昧になっているんだが、「昔ながらの人達」はそういうのに対して「なんでもマネタイズかよゼニゲバだな」と騒ぎ回る。
実際のところは、無料で手に入るモノの質やレベルは昔より上がっているので割り切って無料で味わえるものだけで済ませるなら昔よりいい暮らしが出来る。
何に金を出すのかを自分で選び、要らないと思ったものは買わなきゃ良いだけの話なのに昔ながらの平等を求める人達はそれについていけていない。
自分が変化を拒んでいるくせに、他人ににだけ新しい試みを求めていると矛盾で頭がおかしくなる。
昔ながらのインターネットにしがみついて延々と愚痴ってる人達がまさにそうだ。
変化し続ける世界、今まで見たこともない世界をインターネットに求めていると口ではいいながら、いざ新しいものが出てくると拒否反応を示す。
自分が若い時に生まれたものはイノベーティブで素晴らしく、歳を食ってから生まれたものは間違った存在だと。
そう感じる根拠としてあげているあらゆる言葉は単なる言い訳で、自分が変化についていける靭やかさを失ったことを認めることさえ出来ないから文句をいうだけの壊れたラジオになっているのに。
昔ながらのインターネットは壊れたラジオが延々と文句を垂れているばかりでつまらない。
最新のITがつまらなくなったと感じるひとも、きっとそういう空間に張り付いてそこに染まっているからつまらなく感じるんだろうな。
あえて言っておくが、こんなのは無数の時代で、あらゆる技術が繰り返してきたことだ。
別にインターネットが特別だから、インターネットでだけ特別に起きていることじゃない。
付き合いたてはかなり躊躇ってて、お尻叩いても遠慮がちにペちって頂いてただけだったんだわ。
最近ようやく強めに叩いていただけるようになってきたんだけど、やっぱ思い切りやるのは抵抗あるみたいなんよ。
曰く、痛そうで可哀想なんだそうだ。
それが気持ちいいのだと何度言っても嫌がるから、焦らされてると考えて乗り切ってる。
恋仲で相手から頼まれてもしっかりやるにはかなり時間かかるわけよ。
・絶対反撃してこなくて
・完全に同意の上で
・ほぼ怪我しない箇所で
・されて喜ぶ
護身術で使う相手って、信頼関係なくて反撃してきて、間違いなく怒るわけやん。
そらいけるやつは居るんだろうけど、滅多におらんだろ。
かく言う俺も彼女のおしり叩くのは、仮に頼まれてもちょっと嫌だしな。
やっぱ地道に慣らしてくのが大事だけど、人にやる機会ないから段階踏まないと無理だわ。
こういう急所叩く系の護身術を身につけて身を守るために、女性の皆様は彼氏に尻ペちを頼まれたら、思い切りいくところから練習しましょう。