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2025-10-05

AIのいいところは、

「バシレイオス2世“ブルガロクトノス”あたりの東ローマ皇帝時代を深く知るための書籍を教えて下さい。」

という質問にサクッと答えてくれるところだと思う。

従来の検索エンジンでは、「サクッと」知ることが出来る場合もあるが、そうでない場合も多かった。

ちなみに上記質問に対する答えは以下の通り。

バシレイオス2世(“ブルガロクトノス”)期の東ローマ帝国を深く学ぶための書籍

バシレイオス2世期は、マケドニア朝の全盛期にあたり、軍事行政文化の各面で東ローマ帝国が最高潮に達した時代です。

以下の書籍は、概要から専門的研究まで網羅的にカバーしており、学術的知見を深めるのに最適です。

1.総合的な帝国

ジョルジュ・オストロゴルスキービザンツ帝国史』(新版筑摩書房

東ローマ帝国研究古典的名著。

マケドニア朝期を概観しつつ、バシレイオス2世事績政治社会文化文脈で捉える。

学部から大学院生までの必読書

ジョン・ジュリアスノリッジビザンツ帝国衰亡史』(上下巻・新潮社訳)

読み物としても優れ、バシレイオス2世の功績や後継皇帝との比較が平易に記述されている。

詳細な年代記記述とともに、帝国全体の流れを把握できる。

ウォーレントレッドゴールド東ローマ帝国マケドニア朝から十字軍まで』(創元社

軍事史を重視する著者が、バシレイオス2世の対ブルガリア戦争軍制改革について詳細に分析

数多くの地図系図を収録し、ビジュアルにも優れる。

2. 専門的研究・モノグラフ

ジョン・フレイザーハルドン中世東ローマ帝国文化国家の変容』(勁草書房訳)

10世紀前後社会構造官僚制経済システム批判的に検討。バシレイオス2世期の行政改革財政政策が、いか帝国強化に寄与たか学術論文レベル理解できる。

マーク・ホイッタウ『ビザンツ帝国史入門』(臨川書店

平易な導入書ながら、バシレイオス2世役割文化的・宗教的視点から考察

地下聖堂建築修道院運営との関連も扱い、制度史だけでない広がりを示す。

アントニー・カルデリス『ビザンツ帝国東ローマ再考』(明石書店訳)

最新の資料批判考古学成果を踏まえた再評価書。

バシレイオス2世に関する一次資料の読み替えや、新出の碑文・文書を紹介しており、先端研究動向を掴める。

3.軍事対外関係に特化した研究

ロバート・オーフィランディス編『東ローマ軍制史』(戎光祥出版訳)

マケドニア朝軍隊組織補給・動員システムを体系的に解説

バシレイオス2世ブルガリア遠征戦術的展開や兵站を詳細に記述。図版多数。

ペンサ・K.ケネディビザンツ北方外交史』(藤原書店訳)

北方異民族ブルガリアルーシなど)との外交戦争史を分析

バシレイオス2世による“ブルガロクトノス(ブルガリア殺し)”の背景と結果を外交政策の観点理解できる。

4.一次資料資料

オフネス年代記日本語訳笠間書院

10世紀末までの東ローマ史を記した重要年代記

バシレイオス2世期の出来事原典に近い形で追える。

注釈版が充実しており、原典研究入口として最適。

スキュリタス東ローマ帝国史』(講談社学術文庫訳)

11世紀初頭に編まれ編年史

バシレイオス2世期の記述豊富で、歴史叙述の特徴や史料批判視点を学べる。

選書ポイント

1.総合史で全体像を把握

オストロゴルスキーノリッジ時代背景を押さえる。

2. モノグラフで専門知識を深化

ハルドン、カルデリスなど最新研究を通じ、行政文化的変容を理解

3.軍事外交史で“ブルガロクトノス”を解明

専門書・論文集で遠征の詳細とその意義を知る。

4.一次資料史料批判力を養う

年代記』や編年史原典に当たり、学術的厳密さを身につける。

これらを併読することで、バシレイオス2世期の帝国像を多角的理解できます

ぜひ学習目的や興味に応じて組み合わせ、東ローマ研究の深掘りに役立ててください。

Permalink |記事への反応(1) | 17:59

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2025-03-04

日本史通史本の電子書籍

が進まない。

いま日本史の通史本を揃えるとしたら、中公文庫の『日本の歴史シリーズか、講談社学術文庫の『日本の歴史シリーズか、岩波新書の『シリーズ日本○○史』かのどれかになると思うが、いずれも紙媒体のみ。

量が多くてかさばるので電子書籍化してほしいのだが、一向にされる気配がない。

長期的に売れているシリーズであり、電子書籍化しても余裕でペイすると思うのだが、何でしないのか謎である。(権利関係か?)

ちなみに講談社学術文庫の『天皇歴史シリーズ電子書籍化されている。

Permalink |記事への反応(1) | 11:52

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2025-02-02

理系だけど日本古典文学を割と読んだから語る③

【前】anond:20250202174807

8:今昔物語 福永武彦 訳 宇治拾遺物語 町田康 訳[新訳] 発心集日本霊異記 伊藤比呂美 訳[新訳]

今昔物語はここに収録されている福永武彦訳で読んでいる。池澤夏樹の義父だね。僕は結構説話集が好きで、「聊斎志異」や「捜神記」、「デカメロン」やガラン版「アラビアンナイト」なんかも読んでいる。近々「カンタベリー物語」も読む予定だ。

さて、なんで「今昔物語」を全部読まず、部分訳の福永武彦訳にしたのかというと、理由はいくつかあるのだが、気軽に持ち運びのできる全訳が出ていないのが一番の理由だ。また、講談社学術文庫は、天竺編と震旦編、それから本朝世俗編が出ているのだが、なぜか日本舞台にした仏教説話を収録した巻が翻訳されていない。有名どころの仏教説話は頭の中に入れて置きたいとうっすら考えているのだが、原文を読むのが近頃は億劫なので、早く翻訳が出てくれないかと祈っている。

内容は芥川龍之介翻案したものを含め、人間心理の観察や奇妙な話、怪異の話や下品すぎる話、それから強烈な個性を持った人間の話など様々だ。一つ一つの話が短いので楽しめるし、芥川龍之介近代的に翻案する前はどんな話だったか、比べるのも楽しい。ちなみに、水木しげるインパクトのある話ばかりを漫画化したバージョン中学高校図書館にあったが、あれも面白かった。あとは、家にあった子供版に、卒塔婆だか石碑だかに血痕がついたらその土地が水害で滅亡する予言を信じる老婆の話が収録されていた。周囲の人が老婆をからかうためにわざと卒塔婆に血を付けるのだが、その晩に本当に村が滅亡する。世界民話に似た話があったと記憶しているが、出典が思い出せない。自分ギリシア神話をはじめとした、運命皮肉やアイロニカルな予言を扱った話が好きである。やっぱり説話集面白い。

ただし、編集方針だろうか、「今昔物語」では似たような話が何度か続く配列になっている。だから通読していると飽きる瞬間がある。

これは「聊斎志異」でも同じで、酒を飲んでいたら死んだ友人が化けて出てきたが、酒を飲んでいたせいか死んだことを忘れていて、そのまま話が進むみたいなパターンがかなり多い。他にも幽霊キツネが化けた美女が出てきて結ばれてハッピーエンドみたいなのも何度も繰り返される。結局みんなモテたいのね。

宇治拾遺物語」「発心集」「日本霊異記、これらはすべて未読である。「日本霊異記」は最近になってKADOKAWA現代語訳を出しているので、積んである本を片付けたら入手予定だ。なお、これは①で述べた雄略天皇エピソードの出典の一つもである

9:平家物語 古川日出男 訳[新訳]

平家物語古典の苦手な僕でも原文で読みやすいと感じた。理由は恐らく、口承文学から声に出したらなんとなくわかるからなのと、敬語相対的に簡略化されているからなんだろう。それとも、ちょうど「火の鳥」乱世編の舞台で、歴史の流れ的に何が起きるか既に分かっていたからだろうか? それとも、教科書をはじめとして、断片的に名シーンを知っていたからだろうか? バトル物として楽しんだんだろうか?

日記を読み返すと、「古代貴族世界が音を立てて崩壊していくのがよくわかる」と綴っていたし、「空海密教美術」展で観た平清盛の血曼荼羅が登場したのに滅茶苦茶興奮していた。

ちなみに、神保町の本祭りで、ちょうど講談社学術文庫版が一巻から十巻までがセットで安売りされていたので、良い機会だと思って購入したのだが、後になって全十二巻だったと気づいた。道理で安いわけだ。このバージョン解説が丁寧で、「平家物語」かなり京都中心のバイアスがかかっているという指摘がされていた。例えば、平清盛大輪田泊建築したことは今でこそ評価されているが、「平家物語」では単に京都の荒廃をもたらした暴政ってことになっている。木曽義仲もただの田舎乱暴者扱いだ。ちなみに、かつて滋賀県旅行したときに、彼の没した古戦場粟津を訪れたのだが、住みやすそうな普通住宅街になっていたのに驚いた。

太平記についてもついでだから書こう。実家神奈川県なので、鎌倉幕府滅亡まではかなり馴染みのある地名が多かったので楽しんだのだが、南北朝に分かれたままで話が終わるし、明確に「完結した!」という実感を持てる構成ではなかった。明確な善玉悪玉の物語でもないしね。みんな結構幕府側に着いたり朝廷側に着いたり右往左往している。この機を見るに敏なあたりがいかにも中世武士らしいし、おかげで誰が誰の勢力についているか、すぐにわからなくなる(ここまで書いて思ったのだが「平家物語」は平家の滅亡というわかりやすい大きな流れがあるから読みやすいのかも)。

それに、歴史書っぽくいろんな中国古典から引用するけれども、日付が操作されていたり、複数天皇意図的混同していたりする(光明天皇即位した個所、太平記ではなぜか光厳天皇重祚としている)。あくまでもこれは物語なのだ

そして、物語から、出てくる辞世の句にすごくいいのがたくさんあった。いま手元に本がないのが恨めしい。メモから見つけたのは「皆人の世にあるときは数ならで憂きにはもれぬ我が身なりけり」……なにこれつらい。

なお、各神社仏閣の縁起物語や中国古典脱線することが多く、それはそれで非常に面白いのだけれど、「だからこんなに長くなるんだよ……」みたいな気持ちになった。多少は「平家物語」でも登場・退場する人物の背景に脱線するけれどね。「ジョジョの奇妙な冒険」でも敵のスタンド使いの背景が紹介されるシーンあるよね。あのテクニックは話の流れがちょっと止まるので使いこなすのが難しい。ところで、あまりにも歴史から引用が多いので、これまた講談社学術文庫版の「史記」を読むに至った。……と、記憶していたのだが、日記を読むと両者を並行して読んでいたらしい。我ながら、なんでそんな無茶をした? 両者とも疑問点が多くて日記にやたらとメモを残している。

ところで、太平記の巻二十二に、相手のことを馬鹿にして「へろへろ矢」と呼ぶシーンがあるが、オノマトペ歴史的に興味深い。

10:能・狂言 岡田利規 訳[新訳] 説経節 伊藤比呂美 訳[新訳] 曾根崎心中 いとうせいこう 訳[新訳] 女殺油地獄 桜庭一樹 訳[新訳] 仮名手本忠臣蔵 松井今朝子 訳[新訳] 菅原伝授手習鑑 三浦しをん 訳[新訳] 義経千本桜 いしいしんじ 訳[新訳]

前回も書いたけれども、せっかくなのでもう少し細かく書こう。これはちゃん池澤夏樹全集で読んだ。

「能・狂言には身体障害者に明確な悪意を向け、冗談半分で暴力をふるうとんでもないネタもあるのだが、盲目であることが当時どのように受け止められていたかがわかる。江戸時代なんかだと視覚障害者団体も作っていたみたいだし、だから近江絵などで風刺対象ともなっているのだろう。岡田利規の訳がかなり砕けていて、特に狂言だとカタカナも多用している。「おーい太郎いる?/はーい。/あ、いたのね」には笑ってしまったが、当時の日本人にはこう聞こえていたのだろう。演劇の人なので、酔っ払いの歌などを声に出してそのまま演じられそうなのがいい。カタカナ言葉が今の日本語の生きた要素として使われていることがよくわかる。

現代第一線で活躍する作家に訳させるってのはかなり贅沢だ。今の言葉古典に新しい命が吹き込まれるって本当なんだな。

説教節」女人禁制による悲劇を描いている。これは父方の祖母からも似た話を聞いた覚えがある。何かウグイスだか何かの鳥に変じてしまう話だったようだが思い出せない。どこかの寺院縁起譚だったと思う。翻訳伊藤比呂美で、この人は「ラニーニャ」という作品芥川賞候補になっている。

曾根崎心中はいとうせいこう訳。ここから浄瑠璃。作中の大阪弁が興味深い。大阪舞台だし、近松門左衛門作品なのでそれはそうなんだが、江戸時代大阪ことばがどうだったかってのはすごく面白い。三幕の悲劇プロットは単純なんだけど、台詞の長さとか掛け合いとかが欧米演劇とはリズム全然違っている。そういえば昔、「コメディお江戸でござる」のなかで「七つの鐘が六つ鳴りて」が引用されてたけど、原文って最初から最後まで七五調らしい。この次もそうだが、借金で首が回らないってネタ時代的な物か。

女殺油地獄はひたすらダメ人間がとうとう強盗殺人までしてしまう救いのない話なんだが、ここまで徹底した悪人というか堕落して行く過程がすでに文学表現されていたってのがまず面白い。ダークヒーローとかそういうのではなく、自己弁護言い訳にまみれた情けない悪人物語だ。翻訳桜庭一樹で、ところどころ注釈的に時代背景を地の文説明しているんだけど、現代語訳っていうのはこういう自由さもある。たぶん池澤夏樹はどう翻訳してほしいか指示を出さなかったんだろう。

殺人の場面は本当に暗鬱。面白いので近松門左衛門作品もっと読みたい。江戸時代実在事件モデルにした猟奇サスペンスがあったってのが面白い。ジャーナリズムの発展ってやつだ。ただし、人生がうまくいかない人をすべて発達障害解釈しようとするのは、否定するだけの根拠はないのだが、多用しすぎるのもどうかと思う(一昔前の「シゾイド人間」みたいに流行っているだけかもしれない)。

ところで、まったく関係ない作品同士で、源融の庭の話が引用されているのは不思議で、それほどよく知られていた話だったのだろう。また、わからない言葉がちまちまあるので調べながら読むことになるんだけれど、「坊主持ち」って遊びが出てきて、これはお坊さんとすれ違うまで荷物を全部持つ遊びらしい。じゃんけんで負けたら全員のランドセルを背負う小学生の遊びの起源か?

菅原伝授手習鑑」牛車を押す場面を浮世絵で見たし、松王丸の部分は新渡戸稲造武士道」か何かで引用されていたのを思い出した。忠義のために身動き取れなくなる話は「菊と刀」にも通じている。意外と又聞きで歌舞伎物語を知っているのかもしれない。ところで、学生時代に見た子供切腹する歌舞伎は何の話だったんだろう。

翻訳三浦しをんでこれを読んだ昨年当時はは四十七歳のはずなんだけど、「ギッタンギッタンにする」「ニャンニャン」という、古いんだか新しいんだかよくわからない言語感覚が特徴。この作品では道真公の流罪の原因をかなり自由創作しているようだ。

もう少し読みたいものだと思い、浄瑠璃と加歌舞伎とかの現代語訳はないものかと「弁天娘女男白浪」について調べると、それは一部分を演じるときの題で、本来は「青砥稿花紅彩画」というらしい。

義経千本桜キツネが身代わりになるシーンがあるが、「菅原伝授手習鑑」にも木像が身代わりになるシーンがあり、これはよく見られる演出だったんだろうか? かなり自由に筋が作られている。安徳天皇女性説とか初めて知った。このあたりも「平家物語」の時代を知っていると楽しい

仮名手本忠臣蔵は四十七士全員のエピソードを語る時間はさすがにないが、悪玉は徹底的に憎たらしく描かれており、エンターテインメントの基本が抑えられている感じがする。ここでも入れ替わりの芸がある(上に書いた入れ替わりは、駕籠に乗った九太夫医師と入れ替わっている個所)。なるほど、日本演劇ストーリーだけじゃなくて上演時のテクニックについても調べる必要がある。

ところで、解説を読んでいると、「仮名手本忠臣蔵」は仇討ち物語というよりも恋愛劇だという指摘があった。他にも、どの脚本伝統を逸脱しているとか細々説明している。

あと、「しんとく丸」の話はどっかで聞いたことがあるんだが、どこでだったのかが思い出せない。

INTERMISSION③

好きとか嫌いとか、こういう本能的な感情の動きは、まったく道徳的でない。

近頃は読みもしないくせに、イケメンが出てくるフィクションに対する独断偏見自分の中でどんどん育っていることに、非常に困惑している。他人プライベート空想や願望にとやかく言うのはみっともないし、読みもしないのに批判するのは非常にダサいので、こうした非論理的感情はいつも戸惑う。逆に、一度きちんと読むべきではないか? それか、徹底的にスルーするかだ。そもそもフィクションそもそも他人の頭の中身なので、刺さらないときには徹底的に刺さらないってだけではあるまいか。かつては普通男性向け女性向けと関係なく小説を楽しめていたのに、こんな人間になってしまたことが極めて残念である

おそらく、これも僕のイケメン嫌悪去勢不安がなせる業だろう。まだ四十にならないのに前立腺肥大を患い、ED気味である

じっくり考えてみたのだが、ジャンルを問わず男性であることを否定的に書く作品や、男性苦痛を軽視するもの否定的な感想を持つようだ。昔はジェンダーSFとかを、思考を広げて無意識の前提に気づかせてくれると面白く読んでいたのに、年齢を重ねて頑固になってしまったようだ。困ったものだ。そこのままではさらに年齢を重ねたらどうなることやら。

逆に、自分が性欲を持つ男性であることを肯定するタイプポルノが大好きだ(具体的なジャンルは揚げてもしょうがないので略す)。この好きと嫌いの両者は僕が自分の性を肯定できるかにかかっている。つまるところ、「僕は男性としてダメじゃないか?」という不安を表裏一体で反映している。自分ヒゲ永久脱毛をする気が全くないのも根底には同じ感覚がある。見境無く散らばっている性癖文学の好みの背後に、一本の理屈が通っていると気づくと、自己理解が深まったようで、事態が何も解決しなくても、何かすっきりした気持ちになる。

逆に、女性作家ですごく気に入ったものを十作くらい集めて、何が好きだったをまとめてみると、こういう作家属性評価するとこから自由になれるかも。今度試みてみよう。偏見から自由になりたいものだ。

それに、偏見に凝り固まった感覚が浮かんでくるのは、人と会わず孤立している時なのであるそもそも、人との距離を取り、一緒に過ごす時間を奪ってしまうような創作活動は、僕を幸せにするだろうか?

Permalink |記事への反応(1) | 17:57

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理系だけど日本古典文学を割と読んだから語る②

【前】 anond:20250202173933

4~6:源氏物語 角田光代 訳[新訳]

かつて所属していた文学サークルで、先輩が角田光代「菊葉荘の幽霊たち」って作品テーマ読書会を開いた。何事にも投げやりな女性が主役なこの作品が全く好きになれず、その後角田光代という名前を見ても全く手が伸びなかった。今にして思えば、全体的に生きる気力がないというか、適当にその辺の相手何となく交際してしまう感じの、怠惰女性が出てくるのに嫌悪感があったのだろう。理想的な美を探し求めていた大学生の僕には、うまく理解できないキャラクターだった。あるいは、当時女性理想化しすぎていたからかもしれない。理想恋人が、僕と同じように美や最高のクォリティ(なんじゃそりゃ?)を求める存在であると望んでいたのだろう。なんというか、十代の考えそうなことであるしかし、それは後述するように、すべて自己愛だ。それはさておき、「源氏物語」も僕は講談社学術文庫で読んだ。確か、今泉忠義である。再読のときは、角田光代訳でもいいのかも。書き続けられている作家ということは、力があるってことだし。

光源氏恋愛遍歴や、彼を取り巻く女性たちについての思いは昔書いたので省く。僕がこの小説が好きなのは、恋の物語けが理由ではない。もちろん、欲望まみれだった僕は、例えば朧月夜との密通で須磨に流されるというプロット面白く読んだのは事実だ。

けれども、もっと魅力を感じたのは、恋する貴公子光源氏が、だんだん権力を持った嫌なオッサンになっていくのが生々しく表現されていたからだ。己の愛人である女三宮と密通した柏木を睨みつけ、彼を絶望から再起不能に陥れるあたりがリアリティがあって嫌だ(褒めてる)。ふっふっふ、ハーレムを作るイケメンの末路はこんなものよ。

僕が真っ直ぐな目をした青年の目が濁っていく文学を見るのが好きな理由はいくつかあるのだが、彼女浮気されて一時期軽薄なナンパ野郎になり3Pまで経験した旧友や、好きな作品を貶されたせいか強烈なアンチフェミになってしまった友人、それから寝取られ経験からイチャラブ漫画が読めなくなって寝取られ暴力的な物ばかりに手を出している畏友のことが頭にあるからかもしれない。だから田山花袋田舎教師」や、風俗に行って嬢のおっぱいをもんで「豊年だ! 豊年だ!」と叫ぶ志賀直哉暗夜行路」が好きなのである。「暗夜行路」はその後の展開が大事だとは言え。

ところで、繁田信一が「殴り合う貴族たち」の中で、著者は菅原孝標女が「源氏物語」にハマった理由を推測している。それは源氏女性に直接暴力を振るわないからだという(部下たちは「車争い」のシーンで乱闘を演じているとはいえ)。その程度で理想貴公子になれる、当時の倫理はこんなものだったのである

古典には今からすれば受け入れられない行動をとる人々が出てくる。それでも、心動かされるのは、貪・瞋・癡の煩悩から逃げられない人間本質が変わらないからだろう。法律コンプラで縛ってはいても、やりたいことも欲望本質も変わらない。古典現代的な価値観批判するのは大事だが、上から目線で裁きたくはない。聖書によれば人間自分が裁いてきたように裁かれるのである(こんな風に、聖書には結構な頻度でクールセリフが出てくる)。

それに、過去のものが全部ダメだというのなら、例えば殺人者カラヴァッジョ絵画は展示すべきではないし、最終的にはルーブル美術館を爆破しなければならないだろうし、植民地からの富で栄えた都市ICBMでふっ飛ばさねばならない。しかし、他人の作ったもの破壊するのは、「指輪物語」のオークの所業である。悪とは何かを創造できず、捻じ曲げて模倣したり壊したりしかできない連中のことなである。具体的な顔や団体が浮かんでくると思う。

そういえば、去年の大河ドラマは「光る君へ」で、王朝を扱った文学を知っていると典拠がわかってニヤリとするシーンが多々あったが、きちんとは見ていない。理由はいくつかあるが、一つには作家主人公なので作家になりそこなった僕は見ていてつらい。それに、大河ドラマは夜八時の公共放送からしょうがないとはいえ、例えば人を斬って領土を切り取ってナンボの戦国武将平和を唱える違和感があってもともと好きではない(これが現代オタクの言うところの「解釈違い」というやつか)。たぶんこのシリーズを読んでくれている人はもうわかっていると思うけれど、僕は基本的に非常に面倒くさいのである。それに、元々ドラマは五十時間もつきあうほど好きなジャンルではない。逆に、それだけ付き合うことができれば、ドはまりするのだろうと予想はしている。「好き」を測る尺度の一つは、それに対してどれくらいの時間を費やしたかだ。ただし、みんな正座してドラマを見ていないのかもしれない。きっと何となく見ている。作品を素直に楽しむことから自分を遠ざけているのは、完璧主義なのかもしれない。

それこそ紫式部日記に出てきた女官衣装再現は良いと思ったけれどね。元々僕はブラウスという言葉の正確な定義も怪しいほどファッションほとんど興味がないので、該当箇所は読み飛ばししまっていた。

7:枕草子 酒井順子 訳[新訳] 方丈記 高橋源一郎 訳[新訳] 徒然草 内田樹 訳[新訳]

面白エッセイを書くには性格が悪くないといけない。ここでいう「性格が悪い」というのは、もちろん褒め言葉だ。他人が見落としてしまうことにいちいち言いがかりをつけているとか、筆で他者おちょくるのが上手いとか、そんなことを指す。枕草子はこの定義にぴったり当てはまる。言語化できていなかったけれど、「実はみんなそう思ってた」みたいなのも結構ある。

こういうタイプの人は友人に一人欲しい。「香炉峰の雪」(第二百九十九段)は日常漫画台詞をぴったりのタイミング引用したときみたいにめっちゃ盛り上がったと思う。これは全くの推測だが、清少納言って物事をはっきり言うけれど、言い方がカラッとしていて毒のある事を言っても周りの人が思わず笑ってしまう人だったんじゃないだろうか。楽しい思い出話というか、ちょっとドヤ顔しているエピソードもあって楽しい

もちろん第三百十四段の身分の低い人間火災にあったところを笑っているところは弁護できないが、これは時代の制約だろう。それに、「除目に司得ぬ人の家~」(第二十五段)のくだりは当時の公務員の辛さが描かれているので、読んで怒りを覚えた人もいるかもしれない。だから晩年没落したという伝承が生まれたのかも。笑っちゃうのは第三十段説教講師は、顔よき」、つまりイケメンレクチャーすると内容がありがたく聞こえるってこと。あっはっは。チクショー。これは旺文社翻訳で読んだ。ネットで拾ったので番号は間違っているかもしれない。

方丈記政治の乱れと絶え間ない災害で混乱する時代の空気をよく伝えてくれる。ところが、父の高校時代教師は「世間から目を背けた負け組愚痴に過ぎない」とバッサリやっていたそうだ。ひどすぎない? 確かに鴨長明政争に負けたけれど、僕は好きだ。混乱する世の中からある程度距離を取りたいって気持ちはよくわかる。ただ、読んでみると隠遁生活は楽しそうなんだが、どこか悟り切れていないオーラがある。市古貞次校注。

徒然草は前にも書いたが面倒くさいおじさんのエッセイなんだけれど、子どもがいたずらした狛犬を有難がったとか(第二百三十六段)、入口ばかり拝んできて本殿を見ずに帰ってきちゃったとか(第五十二段)、間抜けな人々の話が説教臭い普通に面白い。

それに、「ふざけてバカの真似をしている時点でバカだが、逆に立派な人の行いを真似るのは十分に立派だ」(第八十五段)とか「修行中寝てしまう人は、寝ていないときだけでも頑張ればいい」(第三十九段)とか、励まされる話も多い。近くにいたら面倒くさそうなおじさんだが、その言葉には勇気が出る。これも旺文社翻訳読了

もちろん時代の制約はある。たとえば、珍しい姿の盆栽を育てていた人の話がある。第百五十四段である。ある時に雨宿りで見かけた大勢身体障害者の曲がった身体を見て嫌悪を覚え、帰宅した途端に「俺のコレクションはこういう連中を集めてるようなもんだったんだな」と考えて、植木をすべて捨ててしまう。これなんかはなかなかに弁護できない。個人的には、コレクターが飽きる瞬間の描写として面白いし、当時の病に対する態度がよく分かって興味深いけれど、すべての人がここまでくみ取ってくれるかどうかは疑わしい。

これは全くの余談であるのだが、高校時代模擬試験を受けたとき、ある古典問題文が主張している内容が差別的だということで、問題差し替えてそこだけ再試験になったことがある。確か「私は身体障害があるからこうして人の喜捨で生きていける。かえって幸せだ」と述べる箇所があった。出典は忘れた。

個人的には、例えば中世障害者はどういう扱いを受けていたか解説をしたり議論したりしたら、すごくいい授業になったと思う。周囲では「事なかれ主義」だという批判も聞いた。おそらく、「先述したレベル議論をするのは高校から先の大学以降でやりましょう」ってことなのだろう。もっとも、米国大学ではナボコフロリータ」の精読を基礎教養から外したと聞いたので、大学レベルなのかもしれない。どうも米国はよくわからない。合理主義に見える一方で、いろいろな表現規制の根っこには、建国以来のピューリタニズムの遺風があるのではないか邪推している。

INTERMISSION②

今まで読んできた日本文学についてまとめるのは、一つには我が身を振り返って余計な過去をバッサリと切り捨てたいかである小説家になりたいという妄念を過去のものにしてしまいたいのである。ここで自分が抱えている妄念を文章にしてしまうことで、意図的小説の素材として使う機会を潰したい。書きたいという狂気を鎮めるのである人生で辛かったさまざまな出来事ことでさえ、世間的にはいたってよくあることなのだ。これらについては長くなるし、恥ずかしいので書かない。

小説家として戦うには、いつまでも過去について考え、それを発酵させ、そのうえで自分から離れた普遍性あるものにしないといけない。さらに、時には他人苦痛咀嚼して想像しなければならない。自分妄想は、他人に売りつけるに値するものだろうか?

小説家になる夢はあったが、こんな形でわざわざ嫌なことを思い出して、毎日を過ごすのは絶対に嫌だ。だからここに書き散らして、退路を断ってしまうのである絶対に忘れてやる。連中の名前グーグル検索しないと誓って数年が過ぎた。試みは成功している。あいつらのほうが「オス」として優秀に思えても、無視するに限る。しかし、こうして書くこともまた「創作」であろう。文章を読まれたいという欲望は尽きない。だが、万が一創作活動に舞い戻っても、絶対絶対にぜーったいに自分トラウマには触れないぞ!

このエントリ群を書きながら内面の暗いところまで沈んで行ったら相当にうんざりしてきたので、こういう創作は二度とやるまい。ちなみに、ブログでなく増田で書いているのは、創作活動をやっている/やっていたと公開しているはてなブログでは、こんなひがみや政治意識丸出しの発言をするわけにはいかないかである。また、初稿では倍ぐらい個人的過去出来事愚痴を描いたのだが、本筋から離れるので削った。

そう、忘れてはいけないのだが、このエントリを書いた一番の動機は、古典の名作を紹介したいからだ。これだけの古典現代にまで生き延びて読み継がれている国は稀有だろう。日本という国は、まったく非常に多くの問題を抱えているのだが、先人たちの積み重ねには頭が下がる。自分雑文ちょっとでも興味を持つ人が増えてくれたらとても嬉しい。作者の名前タイトルを授業で覚えるだけよりも、中身を知ってる方が絶対楽しいからね。

ちなみに、これはタイ王国をディスっているわけではないのだが、プラープダー・ユンパンダ」の解説で、タイでは(純文学系の?)小説初版部数は一千から二千冊程度で(タイ人口は七千万弱)、娯楽小説ばかりが売れているそうである。娯楽小説に罪はないし、むしろ好きなのだが、人間の心の基礎研究とでもいうべき純文学はある程度の人数に読み継がれていってほしい。

あとは、自分の好きなことについて語るのが単純に楽しいからだ。何が好きで何が嫌いかを明確にしていくことで、次にどこに向かって進めがばいいのかがわかってくる。次に何を読めばいいのか、自分本音では何を求めているのか、だんだんと明らかになってくる。

Permalink |記事への反応(1) | 17:48

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理系だけど日本古典文学を割と読んだから語る①

1:古事記池澤夏樹 訳[新訳]

のっけから申し訳ないのだが、自分古事記池澤夏樹訳で読んでいない。というか、この池澤夏樹日本文学全集で読んだ本はほとんどない。しかし、池澤夏樹にはちょっと悪いのだが、リストとして便利なのでダシに使わせてもらった。

自分最初に「古事記」に触れたのは神代だけを扱った子供向けの講談社青い鳥文庫経由でだ。次に読んだのが確か大学生の頃になる。文芸春秋社三浦佑之が現代語訳したもので、古老が昔話をする形式翻訳していた。現代人にはわかりづらいところを語りで補う、初心者に親切なものだった。

さて、内容だが、神話だけでなく、それ以降の歴史時代記述面白いヤマトタケル物語だけでなく、おそらく戦前は教えられていたであろう神功皇后朝鮮半島への進軍を知っておくと、昔の人がどんな世界観を持っていたか想像やすい。権力者の書いた歴史書を鵜呑みにするのは危険だが、歴史一次資料に(翻刻翻訳されたものとはいえ)触れるのは非常に楽しい。「学校で習う歴史の出典がこれか!」という素直な驚きがある。

もちろん神話としても面白く、考えてみれば今の皇室は天の住民と海の住民の両方の血を引いているという属性てんこ盛りである。他にも、イザナギノミコトとイザナミノミコトが夫婦生活をする際に「凸を凹に入れて子供を作りませんか?」「それは楽しそうですね」というくだりが何となく好きだ。性に罪悪感がないのがいい。もちろん、最初に生まれ子供ヒルコ描写は、今の感覚では身体障害者差別なんだけれども、後にそれが恵比寿様だということになって崇拝されるようになったのが、何となく流されたヒルコが救われた感じがして、結構好きなエピソードなのだ。捨てられた存在に新しい場所を用意してあげた後世の人の優しさみたいでね。

面白かったので日本書紀も確か講談社学術文庫か何かで読んだ。傍論としてさまざまな説を併記しているのが、物語ではなく歴史書の体裁をとっている「日本書紀」の特徴を端的に示していて面白かった。もちろん、これだけでは日本神話理解できない。中世神仏習合近代国学陰陽道などの展開を追わねばなるまい。しかし、その一歩を踏み出せたのはやはりうれしい。

ところで、「記紀」の記述を合わせて池澤夏樹は「ワカタケル」を書いたようだけれど、個人的にはピンとこなかった。「記紀」の文字に書かれたことや考古学的成果の内容とは矛盾しないが、むしろ史実から離れすぎないようにしたため、想像力が少し現実に縛られている気がしたのである。あとは現代中国語の「上に政策あれば下に対策あり」って言葉引用されていたのに違和感があった。お分かりのように、僕は面倒くさい読者なのである

2:口訳万葉集 折口信夫百人一首 小池昌代 訳[新訳]、新々百人一首 丸谷才一

万葉集全然読んだことがない。というのも、巻数が膨大なためだ。僕は完璧主義なところがあり、読むならきちんと最初から最後まで読むべきだと感じてしまう。それに詩を読むのなら、一つ一つの詩をきちんと味わって理解したいのである。そうなると膨大な時間がかかり、そこまで詩に興味がない自分としては手が伸びない。ただし、自分フォークナーを薦めてくれた友人は、「美酒をがぶ飲みするように、次から次へと詩を読んでいくのも贅沢でいいものだよ」とは言っていた。僕の場合、深く刺さった詩は、小説の中のぴったりした場面で引用されたとき出会っているケースがほとんどだ。やはり詩が多すぎると言葉の海に溺れてしまう。

百人一首田辺聖子解説で読んだ。それぞれの和歌や作者の背景を丁寧に、肩の凝らない文体説明してくれているので、今でも時々手に取っている。王朝人物史としても面白かった。田辺聖子とは評価する場所が違うところもたくさんあるけれど、脱線楽しい。ちなみに、初めて百人一首出会った小学校高学年のときには、もちろん恋の歌にばかり心が動かされたのである。「しのぶれど色に出でにけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで」。たぶん自分感傷マゾというか、言い出せない思いをウジウジ、グツグツと自分の中で煮詰めて煮凝りにしてしまう傾向は、この時からあったのだろう。

ところで、王朝文学世界的に見て女性作家が多かった時期だと聞いたことがあるのだが、調べてみると女性の句は二十一だった。半分くらいだと思っていたのだが、これは女性の句が心に残ることが多かったための錯覚だろう。

「新々百人一首は未読だ。こうして記事を書こうとしていた時に調べたのだけれど、王朝の歌を二百種に絞って紹介してくれているらしいので、これはぜひ読みたい。昔ほど完璧さにこだわらなくなったし、こういうベスト盤みたいにピックアップしてくれると、きっと散文を好む自分も楽しめることだろう。丸谷才一ジョイス翻訳で知ったのだけれど、文章リズムが合ったから今から読むのが楽しみだ。

3:竹取物語 森見登美彦 訳[新訳] 伊勢物語 川上弘美 訳[新訳] 堤中納言物語 中島京子 訳[新訳] 土佐日記 堀江敏幸 訳[新訳] 更級日記 江國香織 訳[新訳]

これらの本はすべて別の訳者で読んだのだけれど、こうして並んでいる訳者にそれぞれ馴染みがあるので、彼らがどのような翻訳をしたのか、ちょっと読みたくなってきた。ちょっと前までは「古典は原文で読んでこそ意味がある」という原理主義的なところがあったのだが、「源氏物語」や「太平記」が長すぎるあまり、開き直って現代語訳で読んでしまったため、最近はそこまで原文にはこだわっていない。今ではい翻訳がたくさんあるので、普通に現代語訳でストーリーを味わってから、原文を楽しめばいい。このラインアップでは、個々の作家に対しても言いたいことがあるのだが、今回は省こう。

竹取物語は、幼いころに聞いた物語原典知る楽しみがあった。一番シンプルにされた絵本バージョンだと、五人の貴公子物語が省かれてることもあるし。そういう意味では、「御伽草子」なんかもちょっと読みたくなってきたな。

伊勢物語短編集で、古典の授業で東下りを扱ったので前から気になっていた。ただのモテる男の話を読んだって楽しくないかもしれないが、一つ一つがごく短いのでそこまで嫌味ではないし、うまくいかななった恋物語もある。それに、古語で読むから現代日本語で読むのと違ってワンクッションある。僕は感傷マゾだったから、結局は恋の物語が読みたかったのだ。

だが、書かれているのは恋愛遍歴だけではない。「老いぬれさらぬ別れのありといへばいよいよ見まくほしく君かな」「世の中にさらぬ別れのなくもがな千代もといのる人の子のため」。ほんとそれな。無理な願いだとわかっていても、大切な人には永遠に生きていてほしい。これらの歌に出会えたのは幸いだった。

なお、これを読んだ後に祖父を亡くしている。ほんとに、人間いつまでも生きられないのは寂しいことである。なお、これも阿部俊子訳の講談社学術文庫で読んでいる。

他に当時刺さった歌を日記から書き写しておく。「思ふこといはでぞただにやみぬべき我とひとしき人しなければ」(そんな寂しいこと言わないで……)「心をぞわりなきものと思ひぬるかつ見る人や恋しかるらむ」(それな)。たくさんあるのですべては書き写さない。

堤中納言物語は「虫愛づる姫君」で有名だけれども、例えば娘ではなくそ祖母を連れ出してしまう話だとか、二人の男が誤った相手と契ってしまうとか、慌てて白粉ではなく墨でメイクしてしまう話とか、奇妙な話も含まれている。あとは手に入れることなど到底できないもので作った「ほしいもリストである「よしなしごと」とか。どうも物語統一感がなく、どういう意図編纂されたのかはよくわからなかった。これは笠間文庫で読んでいる。

土佐日記小学生時代に塾の先生が「男のくせに女の文章で書いたのが紀貫之って変な奴」って紹介していたのでそんな印象がずっと続いていたし(子供インパクトを与えて覚えさせるためなのと、当時は平成初期なのでこういう言い方をしていたのである)、文学史的にもそういう評価をする面もあるのだが、今は亡き子供の思い出を語る悲しい話なのである。道中の描写も素敵だし、ラストの「この原稿は捨ててしまおう」というくだりが、例え虚構であってもとっても好き。どうも僕は、一人の人間が読者を意識して書いたテキストであるという臭いが好きらしい。だからメタフィクションも好き。これは角川日本古典文庫で読んだ。図書館で借りたボロボロになった古い本だった。三谷榮一訳註。

更級日記はかつての文学少女が「源氏物語」をはじめとする文学への憧れを綴っているが、ラストのあたりで「自分人生はいったい何だったんだろう」と回顧するので、僕みたいな作家になりそこなった文学少年崩れが、感傷的になりたいときなんかにオススメだ。内容をすっかり忘れているのだが、そこばかりが強く印象に残っている。

そして、「物語なんぞにうつつを抜かすんじゃなかった」的なくだりがある癖に、内容が技巧に富んでいるのだが、それはただの未練というよりも、そうした技巧で妄念を鎮めようとしたのやもしれないし、それもまたパフォーマンスかもしれない。小説家になりそこなった僕にはグッサリと深く刺さっている。よく「更級日記」は文学少女の物語だと言われているが、文学少女崩れの物語でもあるのだ。実際、興味深いことに「更級日記」では結婚子供誕生、両親の死という重い事柄が、ほとんど触れられていないのである

それにしても、文学少年文学少女はとても欲深い。彼らは現世で得られないもの書物の中から得ようとするからだ。そして、創作に手を出すのは、自分の持っていないものを魔術のように作り出そうとする更に深い欲がある人々だ。そして、僕はその欲望を愛していた。

ああ、そうだ。ここまで書いて気づいたのだが、恋だけでない、生きていてふと感じる寂しさを和歌にした作品が、僕はとても好きなのだ

INTERMISSION①

こういうのは個人ブログでやったほうがいいんじゃないかと思わないでもないのだが、辺境ブログでやってもあまり読者は集まらない。個人ブログを読んでもらうためには、ある程度自分コンテンツ化する必要がある。言い換えるならば、一定の頻度で、ある程度の品質記事を、独自色を伴って、継続的生産し続けなければならない。なかなかできることではない。それに、この動画全盛期の時代に、どれほど文字を読む人がいるだろうか? また、首尾一貫したキャラで書き続けるのも面倒である

一方、はてな匿名ダイアリーでは、文字を読むのが好きな人が集まっている。また、内容が有益であったり面白かったりすると、きちんと読んでもらえる。虚飾と権威主義真っ盛りの時代にあって、「誰が言ったかではなく、何を言ったか」だけで評価されるという意味では、非常に居心地がいい。もちろん殺伐としているし、暴言も多いが、それを補って余りある素晴らしい点である有益なまとめを書いたときは褒められ、的外れなことを言えば叩かれ、面白くなければ無視される。残酷だが、内容だけで毎回勝負するのは、文章を書くのが好きな人にとっては鍛錬の場になる。

なお、時折こうして個人的なボヤキを書く。あまりにも古典文学の紹介という話題から逸れ過ぎて、イケメンモテ男に関する個人的愚痴になってしまい、読者を笑わせるよりは暗鬱な気分にさせるであろう箇所はこれでもかなり削った。かろうじて残したのは文学関係する箇所のみだ。

恨みつらみを向けている人や、気に食わない人はたくさんいるのだが、作家以外は実名では論じるつもりはない。名前を出して作品批判することはあるが、その人の行いに直接何か言いたくなった時はぼかしている。己の負の感情直視したい一方で、人にネガティブものをぶつけるのは美しくない。だからせめて、こういう妙な義理を通したいのである

それでも長い。気に入らなければ読み飛ばしてほしい。ここに書きたいのは古典文学の紹介であり、せめて日常感じていることであり、怨念の垂れ流しではない。ただし前回のように時折脱線しては管を巻くつもりだ。

続く。

Permalink |記事への反応(2) | 17:39

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2024-08-08

さら追記

https://anond.hatelabo.jp/20240807091141

引用元を書けと言われたので書く。

/よみびとしらず

古今和歌集出版社忘れた

/俵万智

風のてのひら河出書房新社

/寺山修司

寺山修司歌集講談社学術文庫

/小山光夫

橐駝現代短歌

/土屋文明

往還集岩波書店

/野口あや子

くびすじの欠片短歌研究文庫

/永井

日本の中でたのしく暮らす短歌研究

/穂村弘

シンジゲート 沖積舍

/林あまり

現代短歌2018年12月号より現代短歌

/服部真理子

行け荒野へと本阿弥書店

/杉崎恒夫

パン屋パンセ六花書林

//森垣岳

多分現代短歌2018年3月現代短歌

/俵万智

プーさんの鼻文藝春秋

「じゅうろくとよんといちと

じゅういちとじゅうに=(にあまり)」

自作) 未発表

○方は二十五 鈍器ブローカー秘書求む。__

桃色の踵の

しかもなほ雨、ひとらみな十字架うつしずかなる釘音きけり

塚本邦雄 自選集から引用出版社忘れた

Permalink |記事への反応(0) | 21:32

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2024-01-09

龍を守護獣としている戦国武将ってぱっと思いつかないんだよな

一応「越後の龍」がいるが……

上杉謙信が崇拝していたのは毘沙門天であって龍ではない(本当に?要調査

龍造寺だって龍を信仰しているわけではない(本当に?要調査

幼名が「龍王丸」の武将もいるけれど、別に成人後に龍アッピールしてるわけでもない

元寇神風も龍の気配がない

神風神道由来の概念

一方で、龍も風雨を操るとされるから「龍が風を起こした」と書かれた文献がひとつくらいあってもいいだろうに

元寇で吹いた強風が龍の仕業ではなく神風とされたのは何故なのか

いや、書いておいてなんだがなんとなく想像はつくがね……

龍は中国……特に中国皇帝のシンボルなので、日本側が龍に助けられたとすると都合が悪かったのだろう

元側の兵士の鎧に龍の意匠が描かれているのも傍証

ここらへんの話は「神国思想」について調べるのがよさそうか

だいたい昔の日本において龍は寺院……つまり仏教と紐づくものなんだ

龍の字を冠する寺院が何と多い事か

(前述の龍造寺氏は龍造寺村という地名由来でそう名乗っただけらしい)

仏教には「龍王」がいるから、これを守護神とした僧兵かいたのかな

じゃあ「僧兵 龍」でぐぐってみよう

……

《龍鐘の僧兵/Dragon Bell Monk》というMTGカードがひっかかって調べるのが大変そうなので今日はここで終わり

日記

---

龍はあくま瑞獣であって、信仰対象は仏になった?

蛇/龍信仰では人の姿を取らない相手信仰対象としていたが、時代が下るにつれて龍の属性を持った仏を信仰対象とするようにした……といったところか

不動明王と龍には関係があるようだ

不動明王信仰していた戦国武将ならたくさんいるだろう

『龍の世界』(講談社学術文庫)

『龍の起源』(角川ソフィア文庫)

上記二冊をkindleで入手し読書

もともとは幻想生物はいつまで実在が信じられていたかを調べるために読んでいたのだが、どんどん興味の対象が発散していく

Permalink |記事への反応(2) | 11:26

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2022-10-23

鬼滅の刃嗅覚人間の本性その他の話(1)

 世間流行の移り変わりとは無関係に、私は度々『鬼滅の刃』の原作単行本を読み返しているのだが、またも同作を読んでいる。

 ここ最近の読み返す切っ掛けの一つとなったのは、例によって金関丈夫の『木馬と石牛』である。何度目だ。

 ひとまず最初に紹介しておく金関丈夫論文は「わきくさ物語」と題する一篇である

 これは、腋臭(わきが、えきしゅう)や体臭肯定的に捉えるか否定的に捉えるか、その相違について、人類学的な統計データに基づいて西欧人と東アジア人の腋臭体質の多寡(出現頻度)を比較するとともに、東西文学作品や文献に於ける腋臭体臭に関する記述比較したという内容である。今さら気づいたが、論文題名は『若草物語』のパロディである

 金関丈夫の論旨を大雑把にまとめて紹介すれば、次のようなものである。「人類学的に見て、西欧人の集団では腋臭体質の人の出現頻度が高く、日本中国などの東アジア人の集団では出現頻度が低い。それに呼応するかのように西欧では、身体臭い肯定的に捉えて讃美する詩や文学作品が見出される。それとは対照的日本中国では、身体臭いを讃美する文学作品記述は見られない。ひどい体臭の人が周囲から疎んじられるといった、否定的記述内容は見出される。日本文学においては、田山花袋の『蒲団』など西洋文学の影響を受けた近代の少数例を除けば、体臭文学存在しなかったのではないか」云々。これも今さら気づいたが『大衆文学』の駄洒落である

 それはともかく、かのナポレオン愛人に宛てて「近々戦場から戻るから風呂に入らずに待っているように」と手紙を書いたという有名な挿話を知っていると、金関丈夫の主張にも頷けるところがある。

 しかし、体臭文学に関して言えば、確かに金関丈夫の言うとおり国文学の中では劣勢なのかもしれないが、嗅覚のものは、時代の変遷や題材の違いによる差異はあれども、国文学においても大なり小なり着目したり描かれたりしてきたのではないかと思う。源氏香(※)のような遊びが生まれたぐらいなのだから香り匂いを味わうことの悦びを昔の日本人も持ち合わせていなかったわけではないだろう。それにまた、腋臭のような刺激的な匂いに対する肯定的記述が見られないからといって、体臭のものに対する愛好癖が日本人の間に存在しなかったとまでは断言できまい。好ましくない体臭に対する認識があったのならば、好ましい体臭に対する認識があってもおかしくはない。したがって、いま少し詳細な再検討必要ではなかろうかと思われる。[※注:源氏香は、室町末期以降の遊びであるが、源氏物語各巻の見出し源氏香の記号が付記されるようになったのは明治以後のことらしい。また、その記号は、組合数学テキストで例として挙げられることもある。]

 とまあ、こういった具合に「わきくさ物語」を読み直したことが切っ掛けで、嗅覚について色々と思いを巡らせていたところ、竈門炭治郎のことも連想して『鬼滅の刃』を再読し始めたという次第である

 ところで、上に述べたとおり、私は金関丈夫の主張に対しては批判的な考えを抱いているわけだが、そのような批判的思考は私の独創ではない。以前に読んだ本の記憶から「はて、国文学でも、それなりに嗅覚重要視されていたはずではなかったか?」と思ったので、金関説にも疑問を抱いただけなのである

 さらに、その時に本で読んだ内容には『鬼滅の刃』を妙に連想させる記述も含まれていたと記憶していた。そこで本棚を漁ってみたところ、それらしきものを再発見した。次に、それを紹介しようと思う。

 『鬼滅の刃』の主人公たちである竈門炭治郎、我妻善逸、嘴平伊之助の三人が持つ優れた感覚は、それぞれ、炭治郎=嗅覚、善逸=聴覚、伊之助=肌感覚(触覚)である。炭治郎や善逸は、相手人間か鬼か、人間であれば善人か否かを、これらの感覚によって看破できることは、漫画を読んだりアニメを観たりした人ならばよくご存知のことと思う。

 この三感覚と同じ取り合わせを、私が目にしたのは、小松和彦の著書『神々の精神史』(講談社学術文庫)に収録されている「屍愛譚(しあいたん)をめぐって 伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)二神の冥界譚を中心に」と題する論文の中であった。

 まず、私が『鬼滅の刃』を連想させるもの記憶していた箇所を、少し長くなるが同論文から引用しておこう。

 「男と女の愛の語らいは、昔から夜中に行なうのが一般的であった。言い換えれば、愛とは、第一次的に視覚依存するものではなく、香り(嗅覚)や声・物音(聴覚)あるいは肌触り(触覚)のなかからかに創り出されるイメージの、想像力による夢幻世界における営みであった。そして、日本女性美の一つは、この視覚的な隔離から発生しているともいえよう。『堤中納言物語』の「虫愛づる姫君」のなかに「鬼と女とは人に見えぬぞよき」とあるが、この言葉が苦しまぎれに吐かれた言葉にせよ、実に見事に女の美のあり方を、愛のあり方を示唆している。」

 奇しくも、小松論文の中で三つの感覚が挙げられる順序は『鬼滅の刃』の物語主人公たちが登場する順序と一致している。果たして吾峠呼世晴は、小松和彦論文著作を読んでいたのかどうか。真実は分からないが、そういった想像をしてみるのは楽しいことである

 さて、小松和彦論文は、国文学などにおいて見られる、妻・夫・愛人などに先立たれた人が、パートナーの亡骸を屍姦したり冥界を訪れるという物語記述について論じたものである。その中でも題名のとおり特に、亡くなった妻のイザナミ恋しさに黄泉の国を訪れたイザナギ物語、そこで語られる覗き見の禁忌、その侵犯について考察している。

 死して黄泉の国の住人となってしまったイザナミは、自分を現世に連れ戻すために訪れた夫イザナギに対して「それでは、現世に戻れるのかどうか、殿内に入って黄泉の神と協議します。私を待つ間、決して中を覗かないようにして下さい」と言い残して黄泉殿内に籠もる。しかし、妻と黄泉国神との協議が終わるのを待てなかったイザナギ禁忌を犯し、黄泉の国におけるイザナミの変わり果てた姿(肉体が腐敗して蛇に集られている有り様)を覗き見てしまったがために、彼女は現世に戻ることが不可能となり、二人は別れざるを得なくなる。

 この禁忌を犯す場面において、イザナギは彼の御髻(みみずら)に挿していた湯津爪櫛(ゆつつまぐし)を抜いて、それに火を灯してから黄泉の国の殿内を覗き見るという筋書きになっている。この灯火を焚く必要があったということは、つまり黄泉の国でイザナギイザナミが語り合ったのは、闇の中であったことを示している(そうでなければ、黄泉の国で最初に再会した時点で、イザナミの肉体的変貌にイザナギは気づいていたはずである)。ここには、現世でも黄泉の国でも何ら変わることのない「男女の愛の営みや語らい(ピロウトーク)は暗闇の中でこそ行われる」という形式がある。

 小松和彦論文でも指摘されていることであるが、日本イザナギイザナミの冥界譚やその他の屍姦譚・屍愛譚には、中国大陸の物語から影響を受けた節が窺える。小松論文でも紹介されているが中国東晋時代書物『搜神記』における屍姦譚の一例として、次のような話がある。

 美しい女性結婚した男が、妻から「私は普通人間ではないので、結婚してから三年経過するまでは、夜、明かりで私の姿を照らさないで下さい」と言い渡され、それを守りながら夫婦生活を送り、二人は子まで設けた。しかし、どうしても夫は我慢が出来ず、ある夜、明かりで照らして妻の姿を見てしまった。彼が目にした妻の姿は、腰から上が普通人間女性で、腰から下は干からびた白骨というものであった。妻は「私は死者であるが、あなたが、あと一年だけ我慢して私の今の姿を見ないでいてくれたならば、完全に蘇生することが出来たのに。しかし、あなたが禁を破ったがために、最早それは叶わなくなった」と言い残し、形見として袍(うわぎ)の端布と二人の間に生まれた子を残して、男の元を去ってしまった。その端布を持って嘆き暮す男のことは、スイ陽王(スイは目偏にオオトリ旁)の知るところになり、袍の端布が王の若くして亡くなった娘姫のものと同じであったこから、娘姫の葬られた墓を暴いたとの嫌疑で男は取り調べられることになった。男が語った事の経緯を信じられない王と家来が、娘姫の墓を検分したところ、墓暴きに遭った形跡も認められず、念のために墓内に入って棺も確かめると、袍の裾が棺の蓋の隙間からはみ出ていた。それを見て「さては、本当に墓を抜け出して夫婦生活を送っていたのか」と、王も家来も信じるようになったとの由。この生者の夫と幽霊の妻も、彼らの愛の営みを、妻の申し渡した禁忌を犯さないように、明かりの無い暗闇で行なっていたことは確実である

 イザナギイザナミ冥界譚と『搜神記』における人間・死者婚姻譚との間に共通するのは、妻の本当の姿を見ることの禁忌、それを夫が犯したために妻の蘇生が叶わないという点である

 特に前者の覗き見の禁忌について、小松和彦考察し、その本質は「女性が『ありのままの姿』を公に晒すのは好ましくないという、昔日の社会における男女観・価値観倫理観の反映」であり「女性の本性を覗き見ることについての禁忌」だったのではないか推理している。それを裏付けるかのように、生者であるパートナーに対して自分の本当の姿を見ないように要求する死者の話は、圧倒的に女性要求する側であることが多いのである。また、禁忌を犯した夫イザナギに対するイザナミの怒りの言葉は「吾に辱(はぢ)見せつ」(私に恥を晒させた!)というものであるさらに、類似物語として、豊玉姫(トヨタマヒメ)が出産の時、産屋に籠もり、それを彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)が覗き見ると、豊玉姫の正体はワニ(サメ)の姿であったという話もまた、女性の本性を見る禁忌の事例として挙げられる。

 死者にしろ生者にしろ、隠れている女性の姿を覗き見る男の性向というのは、時代を下っても変わらない。例えば『伊勢物語』の「むかしおとこうゐかうふりして」という出だしで有名な最初の一篇でも、田舎には不釣り合いな雅やかな女性が里に暮らしていることを知った主人公(在原業平)は、垣根の破れた所から彼女たちの姿を覗き見る。ずっと時代を下った現代においても、男性向けアダルトコンテンツは、視覚表現重要性を持つことは周知の事実である。このように、イザナギ在原業平の昔から変わることなく、男性は「視覚的な欲求」を満たすことを強く好むと言って間違いない。

 ところで、この「屍愛譚―」論文を再読し、期せずして気づいたのであるが、論文の著者である小松和彦の行なう考察もまた(覗き見の禁忌を論じて考察する必要から、当然のことではあるとはいえ)、やはり「視覚範疇」に留まっている。これもまた、視覚を重視する男の性向の顕れと言えるかもしれない。しかも、上に引用した箇所で「夜の闇の中での男女の愛の営みや語らいにおいては、嗅覚聴覚・触覚が重要である」といったことを述べているのにも関わらず、同論文は、それらの三感覚重要な働きを示している国文学上の具体例を、特に挙げてはいないのである。あるいは、国文学に詳しい人たちからすれば周知の事実なので、態々挙げる必要がないとして言わなかっただけのことなのだろうか?

 とりあえず、男女の機微の話は後回しにして、ひとまず、妖怪識別する手段としてのこれら三つの感覚について、話を進めることにする。

 聴覚妖怪識別に用いる事例は、比較的容易に見出される。例えば、誰そ彼(たそかれ)時・彼は誰(かはたれ)時・夜のように、人間なのか物の怪なのかを視覚的に区別をつけ難い時、相手妖怪が発する声によって正体を見抜くという事例は幾つも見つけられる。カワウソなどの物の怪は、人間から「誰じゃ?」と問いかけられると「俺じゃ」と言えず「おねじゃ」とか「かわい」などとしか言えないので、正体を見破られてしまうという。これは、言霊の力とも解釈できるが、音声(聴覚)による正体識別の事例と考えても許されるであろう。また、仮に人間の方が話し掛けたり問い掛けたりしなくても、妖怪の方から自発的に何らかの独特な声や音を発してくる(アズキアライ・テングダオシのような怪音、ヤロカ水の怪しい呼び掛け声など)ので、それを聞けば正体が分かるという例もある。これらも聴覚による妖怪識別に含めてよさそうである

 触覚の方はどうだろうか? 例えば、厠(便所)で河童などの物の怪に人間が尻を触られるという怪異の話は数多い。そして、それらの怪異譚は「毛むくじゃらの手である」といったような、通常の人間とは何かしら異なる手触り・肌触りの特徴を持つことを窺わせる描写が伴うことが多いように思える。厠が家屋の中では暗い場所に分類されることを併せて考えれば、これも視覚には頼り難い状況下で、触覚により妖怪識別する事例と考えることが可能ではないだろうか。他には、猟のために山に分け入った猟師が、夜になり「これでは鼻を摘まれても分からないな」と独り言を呟いたところ、突然「これでもか?」と何者かの手に鼻を捻られたという怪異譚もある(参考:千葉幹夫『全国妖怪事典静岡県の部)が、これは残念ながら手触りについて伝えていない。しかし、このように暗い場所時間帯において、物の怪に身体の一部を触られるという怪異譚は、枚挙に暇がない。これらも触覚によって人か物の怪かを判断するという事例に含められないか否か、再検討してみるべきかもしれない。

 問題は、嗅覚により妖怪識別する話や本性を看破する話なのだが、残念ながら今のところ、これといった事例を見つけられずにいる。逆に、妖怪嗅覚の方を利用し、何らかの臭いを発するもの人間が用意することで魔除けにするという事例ならば、比較的容易に幾つも見出だせるのであるが。例えば、焼いた鰯の頭を魔除けとする例は有名である。また、今でこそカカシといえば田圃に立つ人形のことであるが、日本神話でオオクニヌシスクナビコナと出逢うくだりに記されているように、本来の古い和名はソホド乃至ソフドである。それがカカシと呼ばれるようになったのは、稲を荒らす鳥を追い払うのに、鳥の死骸を焼いたもの竹竿の先に紐で括り下げて掲げるという風習があり「臭いを鳥に嗅がせる」という意味でカガシと呼んでいたものが、鳥避け人形混同されるようになったかである。上に挙げた鰯の頭も、ヤイカガシ・ヤッカガシ(焼き嗅がし)と呼ぶ地方があり、明らかに鳥避けのカガシと同じである。他にも、山中でタヌキやムジナの類いに化かされたことに気づいたならば、煙管(煙草)を一服すれば妖怪は逃げていくとか、小便をすると臭いを嫌がる妖怪を避けられるとか、人間嗅覚ではなく妖怪嗅覚を逆手にとって利用して払う例は多い。

 小松論文では具体例が挙げられていないものの「視覚的に本性を見ることが禁忌とされた状態特に暗闇の中で、何者かと一対一で対峙する状況において、重要役割を果たすのは、嗅覚聴覚・触覚である」という見解は、説得力を感じさせられるものであることは確かである特に、愛の営みに関しては、そうである人間がお互い裸一貫となって同衾する時、見た目の虚飾は、ほぼ通用しなくなるのだから。したがって、これら三感覚重要性が高まることは、必然であるように思われる。

 とはいえ「思われる」ということと、国文学などにおいて実際にどのように捉えられていたのかは、もちろん別問題であるから、これは検証必要があるだろう。あるいは(素人である私に言われるまでもなく)既に専門家の間では検証済みなのかもしれない。国文学中の、特に男女の愛の営みや語らいにおける三感覚が占める役割について、どのように描かれ、語られてきたのか、可能ならば識者の見解を知りたいものである

―――――――――――――――――――――――――――――

 さて、私は上で、男女の機微の話を後回しにして、妖怪の正体を識別する感覚的な手段の話をすると書いた。そこでいよいよ、男女の機微、すなわち異性のパートナーのことを暗闇の中で知る手段としての嗅覚聴覚・触覚の三感覚について論ずる順番がやって来た。といっても、上の文章を読んでもらえば分かるとおり、専門的な知見を私は持たない。そこで、識者の見解とは無関係に、今の私個人が思うところを書くことにする。したがって、これより以下は全くの駄文である

文字数制限のため分割したので、続きは⇒anond:20221023224411

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2022-09-26

人魚の肉と不老不死関係についての話

人魚の肉を食すると不老不死・不老長寿となる」という物語は、八百比丘尼伝説・昔話として有名でもあるし、仮にそれらを読んだり聞いたりしたことは無くても、高橋留美子連作漫画人魚の森』シリーズを読んだから何となく知っているという人も少なくない。

しかし、そもそも何故、人魚の肉を食したら不老不死・不老長寿となるのか?その理由というか説明については、知らない人も多いのではないだろうか。

これを書いている増田が、その理由らしきものについて書かれたもの最初に読んだのは、神話学者大林太良の著書『神話の話』(講談社学術文庫)であった。この現物を、確かに所有しているはずなのに本棚倉庫の中から見つけられないので、ここでは記憶を頼りに大林説を書き起こすが、もしも『神話の話』の現物を持っている人は、そちらを見た方が早い。図書館で探してもよい。

まず、八百比丘尼伝説概要は、大同小異、以下のようなものである。「龍宮の主を助けた漁師が、龍宮に招待されて主から宴などの歓待を受け、家路につく際に主から土産として、人魚の肉を貰い受ける。聞けば、それを食した人は、不老長寿となるという。家に持ち帰ったはいものの、人魚の肉を食べるのに怖気づいた漁師は、いったん戸棚にそれを保管する。しかし、漁師の留守の間に、彼の娘が人魚の肉を食べてしまう。人魚の肉のことを父から聞かされるが後の祭り。はたして、娘は不老長寿となってしまう。父親である漁師も、娘が結婚した夫も、近所の人たちも、漁師の娘が愛した人たちは皆、寿命が尽きて世を去るが、彼女だけは不老長寿の若々しいまま、この世に取り残される。その孤独境遇を嘆いた娘は、仏門に入るものの、その後も長く若々しいままで生き続け、とうとう八百比丘尼(八百歳の尼僧)と呼ばれるようになり、最後洞窟の中に籠もり、人々の前から姿を消す」

大林太良によれば、これと殆ど同じ内容の話が、朝鮮半島平壌仏教寺院伝説として残るという。但し、日本八百比丘尼物語には見られないディテールとして「結婚して夫を迎えたが、子宝に恵まれない」という描写が、朝鮮半島版の物語には有る。

まり人魚の肉を食することによる不老不死・不老長寿の獲得は、生殖能力喪失するというトレードオフになっている。このような不老不死性と生殖能力トレードオフは、八百比丘尼物語にだけ見られることではないことを知っている人もいることだろう。

例えば日本神話では、人間寿命に限りが有る理由として、ニニギノミコトオオヤマツミノカミから娘の女神を嫁に迎える物語が語られる。オオヤマツミには二人の娘、姿形が麗しくないイワナガヒメ、姿形が麗しいコノハナサクヤヒメがいた。ニニギノミコトは、見た目を重視してコノハナサクヤヒメを選ぶが「イワナガヒメを選んでおけば、不老不死でいられたものを」とオオヤマツミノカミから言い渡される。花が咲き、実を成し、種を残して枯れる植物のように、こうして人は有限の寿命となった。岩石のような、長い年月が経過しても残るような不老不死性は、こうして人から失われた。

女性差別侮辱する古語として「うまずめ(=子を産まない・産めない女)」というものがあるが、これを漢字で書けば「石女」である。言うまでもなく、この言葉にはイワナガヒメ(岩石の女神)とコノハナサクヤヒメ(植物女神)の嫁取り物語と同じ考え・物の見方が、素朴な形で反映されている。

昔の人たちが呪術的な発想として、生殖能力の有無と不老不死性を結び付けて考えたであろうという仮説自体は、現代人も自然と受け入れられるであろう。

問題は、何故、人魚イメージ生殖能力の有無が結び付けられたか、その点が定かではないところである。これについて『神話の話』の中で大林太良は、一つの示唆として、中国の人・袁枚(えんばい)の残した『子不語(しふご)』という書物に収められた、次のような挿話を紹介する。

「袁枚の甥が、地方役人として赴任する旅の途上で立ち寄った集落で、住人たちが騒いでいた。何があったのかと尋ねると、その集落に住む或る夫婦の妻の下半身が魚になってしまったという。彼女証言によれば、昨夜は夫と同衾し(夫婦の夜の営みを行い)、眠りについた。夜更け、下半身がむず痒くて堪らず、手で搔いていた記憶があるが、疥癬のように皮膚がポロポロと剥がれ落ちる感触が有った。朝になり、彼女が目覚めた時には、下半身は鱗の有る魚のものになっていたとのことである。剥がれ落ちていたのは、どうやら鱗だったようである

大林太良は、この『子不語』の挿話について、わざわざ夫との同衾について言及しているのは「下半身が魚になる前の女性は、二本の脚を開いて男性を迎え入れる性行為可能であったが、下半身が魚になったことで、脚を開くこと、すなわち性行為不可能状態になった」と言っているのだと考える。そして、人魚の肉による生殖能力喪失も、これと同じ発想なのではないかと言うのである

個人的には、この大林太良説を初めて読んだ時は「ううん、ホンマかいな?」という半信半疑感想であった。しかし『神話の話』を読んでから暫く経過した後、大林説を補助するような話を、別の学者著作で見かけた。が、やはりこの著作も、本棚倉庫で見つけられずにいた。それがつい最近、その本を古本屋発見して再入手した。嬉しい。だから舞い上がって、ここで記念にメモを残そうと思い立ったわけである

件の大林太良の説を補助する記述が載っていたのは、金関丈夫著作木馬と石牛』(岩波文庫)である。ちなみに、解説大林太良その人である

この『木馬と石牛』に収められた「榻(しぢ)のはしがき」という論文が、人魚による不死性と生殖能力喪失イメージの結び付き仮説を補助するような記述を含むものである。この論文は何について書かれたものか、簡単説明すれば、国文学におけるオナニー文学について論じたものである。これは、悪巫山戯で書いているのでも、嘘を書いているのでもない。本当のことである。初めて読んだ時は「お硬い岩波文庫で、こんな珍論文を読めるとは」と、かなり吃驚したものである

本題に入ると、金関丈夫によれば、天明六年の自序がある東井春江による『譬喩尽(たとへづくし)』という俚諺(りげん)辞典の「い」の部には「一夢二千三肛四開(いちむにせんさんこうしかい)」という俚諺(ことわざ)が収められている。その意味は「性行為の中で快感が大きいものランキングベスト4」である。念のために言うと、男性立場でのランキングである。4位の「開(かい)」が「女色すなわち男女の営み」を指す。この「榻のはしがき」の一節を初めて読んだ時「なるほど、『開(かい/ひらく)』の語と『男女の性行為』のイメージは、昔の人の頭の中では自然に結び付いていたのだなあ」と納得し、大林太良説も納得して受け入れられるようになったと、そういった次第である

何?ベスト3の意味が知りたい?いちいち言わなくても、字を見れば薄々察しがつくだろうからかい説明は書かない。なお、同「榻のはしがき」によれば、戦国時代頃に来日したポルトガル人宣教師たちが、布教活動を行うために編纂した日本初の日本語/ポルトガル語翻訳辞書『日葡辞書』には「Xenzuri」という単語が収録されているとのことである

とりあえず『神話の話』も『木馬と石牛』も、どちらも非常に面白い本なので、機会があれば図書館などで探して一読することをお勧めする。

また、人魚の話に関しては、椿のモチーフなど海女文化八百比丘尼伝承などにおける人魚イメージに影響を与えた可能性の話、人魚の肉はフケツノカイ(キュウケツ[9つの穴]ノカイ)すなわちアワビのことではないかという可能性の話など、色々ほかに面白そうな話が有るので、興味が有る人は調べてみることをお勧めする。

木馬と石牛』再入手で舞い上がっている状態で書いたので、乱文になり申し訳ない。とりあえず以上である

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2022-06-20

明治から大正にかけて、東京近郊の人たちが食べていたのが、米三分に麦かヒエ・アワ・大根などを七分ほど入れたカテメシです。

これを五分五分にした家があると「あの家は贅沢だ」と言われました。

江戸時代には、吉宗時代の記録に「穀物の姿は見えず葉物ばかり」という粥を食していたという記録があります

コメが余っていたなど、全くの妄説です。

詳しく知りたければ、『食生活歴史』(講談社学術文庫)をご参照ください。https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1479373009

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2022-03-15

anond:20220315111634

マジレスすると学術書をきちんと読むのは大学教育きちんと受けてないと難しいし(大卒でもちゃんと読めない人一定数いるでしょ)、学術書って内容が細分化されててマニアックから売れないと思う。仮にうちの分野の学術書が3,000円で売ってたら「安っ!」って驚くレベル学術書研究費で買うか人からもらうか図書館で借りるかするものであって基本的個人で買って読むものではないんだよね(もちろん院生とかのときは身銭を切らなきゃいけないこともあるけどさ。あと『想像の共同体』みたいな有名な古典ならそこそこ安い)。

知的水準上げたいなら、新書学術選書の充実だろうね。岩波新書中公新書ブルーバックス岩波ジュニア新書は無条件で入れる、講談社現代新書はそれなりに入れる、ちくま新書は良さそうなのをピックアップして入れる、星海社新書集英社新書光文社新書は良さそうなのがあれば入れる、扶桑社新書とかは良いのがあったら入れる、くらいの感じ。選書系だと、講談社選書メチエ筑摩選書新潮選書NHKブックス河出ブックス・フィギュール彩・歴史文化ライブラリーあたりは全部入れておこう。文庫だったら岩波文庫岩波現代文庫講談社学術文庫ちくま学芸文庫あたりを入れておくといいぞ。

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2022-02-18

 定期的に電子書籍と紙の本どっちがいいみたいな話題が出てくる。

 俺はいくつかの観点から電子書籍一本槍である

 まずスペースの問題だ。これはまっさきにだれもが思い浮かぶところだろう。実際、自分マンガやらラノベで2万近いとこまで行って、これはもう人間生活として限界だと思って、あるとき全部処分した。内田善美の本とか、もう二度と電書で入手できないこと確定みたいなもん以外、すべて。そしたら、信じられないことにモノがものすごく少なくなりました。びっくりしました。要するに俺の持ち物のほとんどは本かCDでした。あとエロゲの箱。

 で、万を超える物量感を体験している人間としては、もう二度とあの状態にはなりたくない。もちろん歩いてる本屋とかは見てしまうわけで、そうするとふらふらと入ってしまう。紙の本ってそれ単体が「モノ」であり、モノとして訴求する力を持っている。ゆえに買いそうになってしまう。1冊くらいまあいいか。そこが地獄入口だ。禁煙なんかと一緒である

 これだけの本を読んでいるということは、とうぜん活字中毒的ななにかである。出先で本を切らしたときになんでもいいか活字がないと死ぬと思って本を買った経験は一度や二度ではない。ある程度の期間の旅行ともなれば、10冊くらいは本を持っていくしかなかった。ついでにいうと音楽も切らすわけにはいかないので、かつてはカセットテープを10本とか20本持ち歩いていた。いまやこれがスマホひとつである。もうアラフィフなので思う存分老人仕草をすることにするが、いい時代になったもんだ。もっとも、これおっさんにけっこう多いと思うんだけど、ガジェットを単機能で持ちたがる癖があって、電書はKindle端末だし、音楽は、サブスク用のスマホ別に持って歩いてたりするんだが、まあそれでも本を10冊持ち歩くよりははるかにましだ。最低でも未読の本を5冊くらいは持ち歩いてないと落ち着かない。「この小さな端末のなかに文庫が100冊!」という安心感はなにものにもかえがたい。

 さら老眼の進行である。俺はドがつく近眼であり、かつ老眼もだいぶ速やかに訪問くださりやがったので、裸眼で見えるスイートスポットが異常に狭い。日常生活で使えて手元も見える遠近両用とか頭痛するし、肉体的に文庫活字を読むのがきついのである。その点、電子書籍なら安心だ。小1の教科書よりもでかい活字で表示できる。ディスプレーを見続けることによる目の疲れもKindle端末ならそれほど問題にならない。

 俺にとって本は消耗品であるスナック菓子を食うみたいに活字を食う。あるいはトイレットペーパーみたいなものだ。この手の人間にとって所有権がどうこうとか、貸し借りが云々とか、子供が親の背中を見てとか、そういうのはいっさい問題にならない。読めればいい。本屋営業時間を気にすることもない。なんならうんこしてる最中でも続きが買える。すばらしい。せめてそこはうんこ終わるまで待てないのか。

 もちろん電書にもデメリットはある。

 ブコメで頻出だった閲覧性、参照性の問題。これは絶対に紙に軍配が上がる。紙の本の「確かこのへん」でなんとなく探り当てるような探しかたって、シークバーではまず同じことができない。ただこれは単なるUIの問題である気もする。閲覧性でいうと、本棚よりも特定の本にアクセスするのが難しいというのもある。もちろん検索対応できないこともないのだが「確かあれ、あの、なんだっけ、海辺ボーイミーツガールで……あれだ、あのエモいやつを読みたいんだ。20年前に読んだきり本棚のどこかに放り込んだあれを」みたいなときに、電書の3000冊とかのなかから探すのはかなり骨が折れる。Kindle端末本体ではどうにもならないし、いざパソコンの前に座って購入履歴を、と思ってもあれなんか妙に目が滑りません? やっぱりこういうとき「モノ」が厳然として存在している、というのは非常に強い。実際、紙の本で持ってたときに「確かあのへんに置いた」で見つからなかったことってあまりなかったと思う。

 あとマンガな……。老眼に電書のマンガまじきつい。パソコンディスプレーで見る以外の手がない。マンガのながら読みっていうか、部屋でぼけーっと寝転がってるときにそのへんのマンガを手に取ってなんとなく読む、という行動は激減した。10インチくらいのタブレットで解消できる問題ではあるけど、これ以上ハード増やしてどうすんだ的な感じもある。

 電源切れとかは経験がない。そもそもモバイルバッテリーを持ち歩いてるし。あと端末の故障に備えて新品の予備は常に一台キープしてある。

 俺が思う電書の最大のデメリットは「すべての読書行動を電書のみに絞り込むことができない」ということだ。これはほんとでかいいちばん多いパターンが、新書なんか読んでて参考資料とか引用先で出てきたおもしろそうな本を買おうと思うと電書化されてなかった、というやつだ。またそういうのに限ってやたらおもしろそうだったりする。アマゾンで調べてる場合だと、1クリックでそのおもしろそうな本が(紙でなら)買えてしまうので、なおのこと心が揺らぐ。

 これは読書に限らず調べものなんかもそうなのだが、一定レベルよりも深堀りしようとすると、最後は紙の書籍に頼るしかない、という場面が頻出する。たとえば東ローマ帝国について調べていて、まあざっとした歴史の流れだとか、政治体制だとか、要するに概要を掴むくらいならネットでの調べもので充分だし、電書でも通史のたぐいはいくつも出ている。しかしもし、東ローマ帝国庶民食生活について知りたくなったら、電書ではどうにもならない。そこは学術書領域で、論文探してヒットすりゃいいけど、こういうニッチ研究ってたとえば1960年くらいに書かれた本がいまだに最新の研究だったりすることもよくあって、こうなるとお手上げだ。紙の本しか選択肢がない。

 これに限らず、マイナーな作者の小説だとか、古いタレント本だとか、古い時刻表だとか、とにかく紙の書籍資産が膨大であり、とうてい電書ではカバーできない。そして今後もおそらくは電書化はされない。要するに紙の本から完全に足を洗いたくても洗えない、というのが電書一本槍にしたときに最大の障壁となる。

 ま、図書館行けって話なんすけどね。なんでまあ、現状は「購入はほぼ電書、足りない分は図書館で」というかたちになっている。

 あと最後に、電書のデメリットとして日常的に多く使ってる人は感じてると思うんですけど、無駄に買いすぎますね……。講談社学術文庫とかよく50%ポイント還元やってますけど、ああいときやばい

 ついでですけど、アンリミは「なんでもいいかラノベ読めればいい」みたいな人間にとっては、けっこうよい状況になってるので、おすすめです。ただし1巻だけ対象でそれがおもしろかった場合地獄みる。向こうも商売から、まあ考えるわな。

Permalink |記事への反応(0) | 23:36

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2021-11-02

anond:20211031163129

おすすめ世界史の本教えて」増田だが、思ったより多くの回答をもらえた。ありがとう

興味ある人が多いのか無言ブクマも多いので、自分のためにも興味のある人のためにも、もらったコメントをまとめてみた。

ノンフィクションを具体的に挙げてる回答のみ。重複するものは載せてない。

フィクションを挙げたり、書名や著者名などの具体名は挙げず、こういう本を読むといいのではという、よいサジェスチョンをくれるトラバコメントもあった。ありがとう。参考にさせてもらう。だが今回のリストからは省かせてもらった。

山川出版社『新もういちど読む山川世界史』、世界史Aの教科書

●詳説世界史B(山川出版社

歴史好きならとりあえず読破しておきたい世界史本100(https://anond.hatelabo.jp/20211101232345

山川 詳説世界史図録(山川出版社)、グローバルワイド新世界史図表 五訂版(第一学習社)、最新世界史図説タペストリー帝国書院

●中公の「世界歴史

●超約ヨーロッパ歴史

創元社戦闘技術歴史』全五巻

中世ヨーロッパ:ファクトフィクション現代知識チートマニュアル

ミシュラングリーンガイド

漫画世界歴史』。どれでもいいけど最近話題なのは角川。

●「なぜ?」がわかる世界史

山川出版社ナビゲーター世界史」。「サピエンス全史」。

サピエンス全史

ガリア戦記

山崎雅弘の「戦史ノートシリーズ

青木裕司世界史B講義の実況中継

大聖堂・製鉄・水車―中世ヨーロッパテクノロジー

●マクニール世界史

阿部謹也堀米庸三伊東俊太郎『十二世ルネサンス』。

宮崎揚弘『ペスト歴史』(山川出版社

●『やんごとなき姫君たちのトイレTOTO出版、『コーヒーが廻り世界史が廻る』中公新書

●『スパイス爆薬医薬品』、『炭素文明論』

●『クロニック世界全史』、角川世界史辞典。『知識ゼロからローマ帝国入門』、『 図説世界歴史』、中公新書物語歴史シリーズ佐藤賢一フランス王朝史『論点西洋史学』。

●『図解中世生活』(新紀元社)、『中世ヨーロッパ農村生活』(講談社学術文庫)

中野京子の「名画で読み解く」シリーズ

●「世界史講義録」というサイトhttp://timeway.vivian.jp/

●『中世の秋』

書物破壊世界史暴力人類史

●「世界システム論講義」(川北稔 ちくま学芸文庫)、「テクノロジー世界経済史」(カール・B・フレイ 日経BP

ハプスブルク家12物語ハプスブルク家の女たち。「ハプスブルク時代を歌わせてみた」(動画

●銃・病原菌・鉄

山川世界史用語

●河出書房のふくろうの本シリーズ講談社学術文庫の『近代文化史入門 超英文学講義

●『十三世紀のハローワーク

中公文庫の『黒死病ペスト中世史』

岩崎周一「ハプスブルク帝国」

●モンタネッリ。通史なら中公の世界歴史中世の巻(旧版押し)

●「世界史序説 ──アジアから一望する」

●「文明崩壊」

●歴ログ

●「豊かさ」の誕生ウィリアムバーンスタイン

テクノロジー世界経済史

コテラジオ歴史podcast

砂糖世界史

哲学宗教全史

●「税金世界史

家庭教師のトライYouTube動画

●<ゲームから始まる<読書映画リスト>(まとめhttps://anond.hatelabo.jp/20160701063637

●W・H・マクニール『疫病と世界史

●「世界史との対話〜70時間歴史批評

ワイン世界史

ビジュアル版 世界史物語イタリア歴史 (ケンブリッジ世界国史)、イタリア (世界歴史文化)

●『中世シチリア王国

サピエンス全史

●「チョコレート世界史」、「世にも奇妙な人体実験

お菓子でたどるフランス史(岩波ジュニア新書

現時点では以上まで。

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2020-08-24

理系だが人文系学者の主張の恣意性を知りおののいてる

やれと言われた勉強以外一切やらずに無知教養なまま大学卒業した。

語学以外の文系単位なんて10も取らなかったと思う。

から文系学者が何やってるのか全然知らなかった。


で、最近まり無知教養だと人間との会話が成立しないことに気付き、本とか読みだした。

ちくま文庫とか講談社学術文庫とか中公文庫とかそういう系の。

それで思ったんだが、人文系学者が書く本、めちゃくちゃ親切じゃん。サイエンスライターはともかく理系学者が書く本は死ぬほど不親切なのに。


でも、親切で分かりやすものは、分かりやすいように情報が切り取られ体系立てられた恣意的ものだ。

そりゃあまあするする頭に入ってくるが、それお前どうなのみたいな主張が多すぎる。

そもそも結論があり論理があるというか、真実の究明よりも持論の証明目的に喋ってると言うか、へー、それが学問なんだ、みたいな。

正しいものが正しいんじゃなくて、偉い先生が言うそれっぽいことが支持されてる状態死ぬほど驚いた。


いや法学とか工学とか実学系はあれだが、理学部文学部ぐらいは真理の究明を目指してくれたっていいのに。

っていうか、工学部が兵器作るのは一発アウトなのに、文学部左翼とズブズブなのは良いんだ。

文系アカデミック世界、全スルーで生きてきたので、適当に足を突っ込んでみてあまりのあれさにおののいている。

そんなもんなの?

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2020-07-23

全書・叢書・大系・文庫の類を適当

珍名文庫冨山房

冨山房漢文大系」

国民叢書(民友社)

立川文庫立川文明堂

岩波文庫岩波書店

岩波現代文庫岩波書店

岩波書店日本思想大系」

岩波書店日本近代思想大系」

岩波書店シリーズ世界周航記」

岩波書店日本古典文学大系」

岩波書店新日本古典文学大系

岩波書店新日本古典文学大系 明治編」

講談社文庫講談社

講談社学術文庫講談社

講談社ブルーバックス講談社

講談社文芸文庫講談社

講談社「興亡の世界史」

ちくま文庫筑摩書房

ちくま学芸文庫筑摩書房

筑摩書房近代日本思想大系」

筑摩書房現代日本思想大系

筑摩書房明治文学全集

筑摩書房世界古典文学全集

中公文庫中央公論新社

中公クラシックス(中央公論新社

中央公論社世界の名著」

中央公論社日本の名著」

平凡社ライブラリー

平凡社東洋文庫

平凡社世界教養全集

平凡社中世思想原典集成」

平凡社中国古典文学大系」

角川ソフィア文庫

光文社古典新訳文庫

河出文庫

戦史叢書防衛研究所朝雲新聞社)

ミネルヴァ日本評伝選

吉川弘文館歴史文化ライブラリー

国書刊行会叢書

大日本史

日本古代法典

古典文庫吉田幸一

国史大系経済雑誌社、吉川弘文館

日本評論社「明治文化全集」(明治文化研究会)

集英社「全釈漢文大系」

明治書院「新釈漢文大系」

明治文化資料叢書明治文化資料叢書刊行会、風間書房

明治大正農政経済名著集(農文協

昭和前期農政経済名著集(農文協

河出書房新社世界の大思想

春秋社世界思想全集

明徳出版社陽明学大系」

明徳出版社朱子学大系」

日本評論社「学生叢書」(河合栄治郎

こぶし書房こぶし文庫 戦後日本思想の原点」

有朋堂「漢文叢書

早稲田大学出版部漢籍國字解全書」

国民文庫刊行会「国訳漢文大成

国民文庫刊行会「続国訳漢文大成

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2020-03-23

2019年に読んだ本

『おあむ物語・おきく物語』(天保8年(1837))

家近良樹『歴史知る楽しみ』(ちくまプリマー新書2018年12月)

石川太郎監修・小泉吉永編集『女大学資料集成〈別巻〉』(大空社、2006年)

磯田道史監修『江戸家計簿』(宝島社新書2017年)

磯田道史他『戦乱と民衆』(講談社現代新書2018年8月)

伊藤セツ『山川菊栄研究――過去を読み未来を拓く』(ドメス出版2018年12月)

今井幹夫『富岡製糸場と絹産業遺産群』(ベストセラーズ2014年)

岩田真美・桐原健真編『カミとホトケの幕末維新』(法蔵館2018年11月)

大塚英志日本バカから戦争に負けた 角川書店教養運命』(星海社新書2017年)

小川剛生『武士はなぜ歌を詠むか 鎌倉将軍から戦国大名まで』(角川学芸出版2016年)

金澤裕之『幕府海軍の興亡 幕末期における日本海軍建設』(慶応義塾大学出版会、2017年)

上條宏之『絹ひとすじの青春――『富岡日記』にみる日本近代』(NHK出版1978年)

神谷大介『幕末海軍――明治維新への航跡』(吉川弘文館2018年1月)

神谷大介『幕末軍事技術の基盤形成――砲術海軍地域』(岩田書院、2013年)

神作研一近世和歌史の研究』(角川学芸出版2013年)

香内信子編『資料母性保護論争』(ドメス出版1984年)

呉座勇一『陰謀日本中世史』(角川新書2018年3月)

佐々大河『ふしぎの国のバード』1~3巻(ハルタコミックス、2015~16年)

サビーネ・フリューシュトュック他編『日本人の「男らしさ」――サムライからオタクまで 「男性性」の変遷を追う』(明石書店2013年)

篠田信一『殴り合う貴族たち――平安朝裏源氏物語』(柏書房2005年)

中公新書編集部編『日本史の論点――邪馬台国から象徴天皇制まで』(中公新書2018年8月)

内藤一成『三条実美 維新政権の「有徳の為政者」』(中公新書2019年2月)

中島岳志保守大東亜戦争』(集英社新書2018年7月)

中野節子『女はいからやさしくなくなったか』(平凡社新書2014年)

中屋敷均『科学非科学』(講談社現代新書2019年2月)

長山靖生帝国化する日本――明治教育スキャンダル』(ちくま新書2018年9月)

文芸春秋編『日本史の新常識』(文春新書2018年11月)

本郷和人『戦いの日本史 武士時代を読み直す』(角川学芸出版2012年)

松浦だるま『累』全14巻(イブニングコミックス、2013~18年)

宮地正人日本リブレット人68 土方歳三榎本武揚 幕臣たちの戊辰函館戦争』(山川出版社2018年8月)

森正人鈴木元編『文学史古今和歌集』(和泉書院2007年)

山川菊栄記念会・労働者運動資料室編『イヌからすとうずらペンと 山川菊栄山川写真集』(同時代社、2016年)

山本博文編『織田信長古文書』(柏書房2016年)

山本ルンルンサーカスの娘オルガ』第3巻(完)(ハルタコミックス2019年)

吉田麻子『知の共鳴 平田篤胤をめぐる書物社会史』(ぺりかん社2012年)

和田裕弘織田信忠――天下人嫡男』(中公新書2019年8月)

渡部周子〈少女〉像の誕生――近代日本における「少女規範形成』(新泉社2007年)

渡邊大門関ヶ原合戦は「作り話」だったのか 一次史料が語る天下分け目の真実』(PHP新書2019年9月)

渡辺尚志『江戸明治 百姓たちの山争い裁判』(草思社2017年)

渡部泰明『和歌とは何か』(岩波新書2009年)

★再読★

鬼頭宏『日本歴史19 文明としての江戸システム』(講談社2002年)

ニコライ著・中村健之介訳『ニコライの見た幕末日本』(講談社学術文庫、1979年)

中屋敷均『ウイルスは生きている』(講談社現代新書2016年)

山川菊栄武家女性』(岩波文庫1983年)

山川菊栄著・鈴木裕子編『山川菊栄評論集』(岩波文庫1990年)

和田英『富岡日記』(筑摩書房2014年)

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2019年に読んだ本

『おあむ物語・おきく物語』(天保8年(1837))

家近良樹『歴史知る楽しみ』(ちくまプリマー新書2018年12月)

石川太郎監修・小泉吉永編集『女大学資料集成〈別巻〉』(大空社、2006年)

磯田道史監修『江戸家計簿』(宝島社新書2017年)

磯田道史他『戦乱と民衆』(講談社現代新書2018年8月)

伊藤セツ『山川菊栄研究――過去を読み未来を拓く』(ドメス出版2018年12月)

今井幹夫『富岡製糸場と絹産業遺産群』(ベストセラーズ2014年)

岩田真美・桐原健真編『カミとホトケの幕末維新』(法蔵館2018年11月)

大塚英志日本バカから戦争に負けた 角川書店教養運命』(星海社新書2017年)

小川剛生『武士はなぜ歌を詠むか 鎌倉将軍から戦国大名まで』(角川学芸出版2016年)

金澤裕之『幕府海軍の興亡 幕末期における日本海軍建設』(慶応義塾大学出版会、2017年)

上條宏之『絹ひとすじの青春――『富岡日記』にみる日本近代』(NHK出版1978年)

神谷大介『幕末海軍――明治維新への航跡』(吉川弘文館2018年1月)

神谷大介『幕末軍事技術の基盤形成――砲術海軍地域』(岩田書院、2013年)

神作研一近世和歌史の研究』(角川学芸出版2013年)

香内信子編『資料母性保護論争』(ドメス出版1984年)

呉座勇一『陰謀日本中世史』(角川新書2018年3月)

佐々大河『ふしぎの国のバード』1~3巻(ハルタコミックス、2015~16年)

サビーネ・フリューシュトュック他編『日本人の「男らしさ」――サムライからオタクまで 「男性性」の変遷を追う』(明石書店2013年)

篠田信一『殴り合う貴族たち――平安朝裏源氏物語』(柏書房2005年)

中公新書編集部編『日本史の論点――邪馬台国から象徴天皇制まで』(中公新書2018年8月)

内藤一成『三条実美 維新政権の「有徳の為政者」』(中公新書2019年2月)

中島岳志保守大東亜戦争』(集英社新書2018年7月)

中野節子『女はいからやさしくなくなったか』(平凡社新書2014年)

中屋敷均『科学非科学』(講談社現代新書2019年2月)

長山靖生帝国化する日本――明治教育スキャンダル』(ちくま新書2018年9月)

文芸春秋編『日本史の新常識』(文春新書2018年11月)

本郷和人『戦いの日本史 武士時代を読み直す』(角川学芸出版2012年)

松浦だるま『累』全14巻(イブニングコミックス、2013~18年)

宮地正人日本リブレット人68 土方歳三榎本武揚 幕臣たちの戊辰函館戦争』(山川出版社2018年8月)

森正人鈴木元編『文学史古今和歌集』(和泉書院2007年)

山川菊栄記念会・労働者運動資料室編『イヌからすとうずらペンと 山川菊栄山川写真集』(同時代社、2016年)

山本博文編『織田信長古文書』(柏書房2016年)

山本ルンルンサーカスの娘オルガ』第3巻(完)(ハルタコミックス2019年)

吉田麻子『知の共鳴 平田篤胤をめぐる書物社会史』(ぺりかん社2012年)

和田裕弘織田信忠――天下人嫡男』(中公新書2019年8月)

渡部周子〈少女〉像の誕生――近代日本における「少女規範形成』(新泉社2007年)

渡邊大門関ヶ原合戦は「作り話」だったのか 一次史料が語る天下分け目の真実』(PHP新書2019年9月)

渡辺尚志『江戸明治 百姓たちの山争い裁判』(草思社2017年)

渡部泰明『和歌とは何か』(岩波新書2009年)

★再読★

鬼頭宏『日本歴史19 文明としての江戸システム』(講談社2002年)

ニコライ著・中村健之介訳『ニコライの見た幕末日本』(講談社学術文庫、1979年)

中屋敷均『ウイルスは生きている』(講談社現代新書2016年)

山川菊栄武家女性』(岩波文庫1983年)

山川菊栄著・鈴木裕子編『山川菊栄評論集』(岩波文庫1990年)

和田英『富岡日記』(筑摩書房2014年)

Permalink |記事への反応(0) | 19:17

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2019-05-08

anond:20190508022249

よしよし、まとめ買いのほうが安いって知ってても人はバラ買いするんだよな

俺もガチャを10回分貯めないで貧乏めくりすることあるからわかるよ

https://www.philosophyguides.org/data/great-books-of-the-world/ この人はバラクラシックスとか講談社学術文庫に入ってたり図書館に入ってるよっていってる

それもやっぱり1部ずつかえってことだろうな

Permalink |記事への反応(0) | 02:40

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2018-08-20

anond:20180819021032

ちくま文庫目録を手に入れてから講談社現代新書目録を手に入れる。ついでに講談社学術文庫目録も手に入れる。さら岩波新書目録も手に入れてみる。岩波文庫目録もあるといいかもしれない。これら目録kindlepdfで公開されている。

Permalink |記事への反応(0) | 02:55

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2018-08-14

anond:20180814000208

知的生き方を支える技術みたいな本ないっすか

以前に同じようなこと考えて色々探してリストアップしたものの、買ってすらいない本の一覧。

迷ったら古典とか長いこと売られてるのを選べと偉い人が言っていたような気がする。

すべて読んで感想をここにアップしろやコラ

Permalink |記事への反応(1) | 14:22

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2017-09-12

5分で読めないカタルーニャ情勢の補足

5分でわかるカタルーニャ問題増田です。すごい伸びててビックリしました。増田ブクマ四桁行ったのなんて初めてです。みんなカタルーニャに興味あるんやな……!

https://anond.hatelabo.jp/20170910082231

ということで、補足説明の補足に来ました。

sgo2東京税金地方にばら撒かれるのはうんざりから独立する!と言ったら他県民がどう思うか考えれば、スペイン中央政府辛辣なのも多少は理解できるかと。(その辺差し引いても愚行とは思うが)

その喩えでいうなら、東京はたくさん税金を払っているのになかなか高速道路は作られないし老朽化した鉄道しか走っていない、しかもどちらも他の地方では整備されているのに、という状況なんですよね(近郊電車整備計画実施率はマドリードがほぼ100%バルセロナでは10%以下)。

さらに、法律では介護費用中央政府自治州が均等に負担することになっているのですが、2014年度のカタルーニャ自治州拠出額は9億ユーロを超えるのに対して中央政府は2億ユーロ弱。2015年度のカタルーニャへの文化予算は凍結されたのですがプラド美術館への予算は増額。最も視聴率の高いカタルーニャ語TV放送局廃止対象として名前が挙がっています(この辺、詳しくは参考文献にある奥野良知「カタルーニャでなぜ独立主義が高まっているのか?」38~40ページを参照してください)。

仮に日本でこんなことされたら都民が怒っても許されるのではないかと。

mahalしか徴税権の上前問題ぶっちゃけバレンシアラマンチャアンダルシア辺りから見ても「ヤツら俺らより金持ってるやんけ」みたいな感情とかはありそうなのが、また難しそうな。

実は2006年カタルーニャ自治州自治憲章は、中央政府だけではなく、ムルシアラ・リオハアラゴンバレンシアバレアレス諸島の5自治州から違憲だとして提訴されていますムルシア自治州ラ・リオハ自治州はご承知の通り1県だけで1自治州構成しているところで、何やら思うところがあったのかもしれません。バレンシア自治州バレアレス諸島自治州というカタルーニャ語圏に属する自治州から提訴されてるのは、カタルーニャ自治州独立運動が単純に言語だけに根ざしたものではないことの証明といえそうです。アラゴン自治州は州内にアラゴン語という少数言語を抱えていますが非常に規模が小さく、むしろカタルーニャとの州境沿いに広がるカタルーニャ語勢力の方が強い州ですね(州としての多数派言語スペイン語)。要するにカタルーニャ隣接する全ての自治州から違憲だと訴えられてることになるわけで、ご指摘のような要素は間違いなくあるだろうなと。

shoot_c_na こういうアプローチだとカタルーニャ可哀想だろうが、視点変えたら「貧乏人の面倒をもう押し付けられたくない。中央が取り立てるから習い事が続けられない」にもなるので、憤る前に深呼吸した方がいい

スペイン語という習い事カタルーニャ人押し付けているのはスペイン政府の側なのですがそれは。

スペイン語を「学ぶのが当然」、カタルーニャ語を「地方しか通じない特殊言語で学ぶ必要特にない」扱いする態度こそがカタルーニャ人の怒りを買ってきたわけで。

IkaMaru そこまで経済力のある地方を懐柔するのでなく抑圧して怒りを買うって、善悪別にしても政治のものがヘタクソすぎないか

これはもう統治技法問題じゃなくて、国民党(や市民党からしてみたら国家のあり方の根幹に関わる問題なので、妥協できないんだろうなーと思います。彼らからすれば憲法無視国家統一破壊する暴挙を阻止しようと懸命なのでしょう。

hahiho これ中央政府側もカタルーニャに甘い顔した奴は失脚一直線みたいな空気感すごそう

ていうか、スペイン中央ではけっこう反カタルーニャ雰囲気が強いんですね。彼らにはカタルーニャ要求が反スペイン的なものに見えていて、カタルーニャへの反感が政治家だけでなく市民レベルでも見られるっぽいんです。正直それがどの程度「ふつう市民」の感覚を反映しているかは疑問ではありますが、与党国民党の台頭にあわせてそういう風潮も増大したとか。

もちろんカタルーニャ側もけっこう強引なことをやってたりするんですが、それでもカタルーニャ民意をそれなりに反映しているわけです。独立派独立するかどうかは別にして住民の声を聞くべきだよね派で議会のかなりの数を占めていますし。ところがマドリードの側は「一部の煽動政治家によって国家分裂が試みられている」という認識なんですね。これは話通じませんわ。

あと、分離独立ということで、カタルーニャ独立運動フランス国民戦線みたいな国粋主義的・排外主義運動だと誤解する人も結構ます。実際には既に指摘したように移民出自独立に賛成している人も大勢ますし、普段スペイン語生活してる人の中にも独立派がいますし、そもそもカタルーニャ独自ネーションと認めないのってスペイン国主義以外の何物でもないと思うんですが。カタルーニャ移住した子どもが無理やりカタルーニャ語を学ばされている! と憤るスペイン人も多いようです。自分たちカタルーニャの子どもにスペイン語を学ばせていることは気にならないみたいですね。

以下のような体験をした人もいて、割とナチュラルカタルーニャ人のことを下に見てるカスティーリャ人って多いんだろうなぁと。

マドリーに住んでる子にちょっとカタラン少しだけ勉強してみようかなって言ったら「スペイン語に集中して。カタランはそこでしか話されてないから」的な返信来てあぁ〜!!これが噂に聞いていたスペイン多様性!!(褒めてない)という感動 castellanoのことをespañolと書いてるし— さいか@バルセロナ (@sik15esp)2017年9月10日

これに関して、「みんながカタルーニャのこと悪く言うけど、実際に住んでみたら全然違うじゃん!」という内容の動画ようつべで人気になってたみたいです(上で挙げた論文の注9で紹介されています)。

https://www.youtube.com/watch?v=M14ebPJ-AtM

こちらの論文も参考になります

  • Kathryn Crameri, “Anti-Catalanism, Moral Panics and the Catalan Language: TheCase ofCiudadanos de segunda,”Journal of Iberian andLatin American Research, vol.21, no.2 (2015)

atahara なぜそんなにカタルーニャには、民族的アイデンティティがあるのか?という辺りに興味がある。例えばフランスも強力に言語統一して、国を維持してるよね。イギリススペインよりうまくいってないし。

いや、フランスバッチリ少数言語アイデンティティは残ってますよ。公用語としての地位こそないですが、オクシタンでは地名の二言語表記なんかもされるようになってますし、フランス領バスクではバスク語が話されていますし、ブルターニュではブレイス語を公用語にしようという主張が昔からあります。そしてコルシカ島では第2次世界大戦後に分離独立主義者テロが絶えなかった時期がありました。かつて少数言語絶対認めないマンとして有名だったフランスですら、最近地域語の存在を徐々に認めるようになってきてます(まあ、それでも地域公用語にすら指定してなかったりするので、かつての面影は健在というか)。

ちなみに欧州の少数言語Wikipedia作りが盛んで、バスク語オック語などの有名どころだけじゃなく、コルシカ語版(https://co.wikipedia.org/wiki/Pagina_maestra)やピカルディ語版(https://pcd.wikipedia.org/wiki/Accueul)のWikipediaも作られてますね。

参考文献はこちらです。

stet "逆に言えば、それ以外の言語を使う「義務」を州が課すことは違憲"ここの論理おかしいと思った。後段を見ても「それ以外の言語のみを「義務」とする」のが違憲ということでは。

私もこの辺の法律論争は詳しくないので、具体的にどういう理屈違憲とされたのかは参考文献で挙げた『現代スペインの諸相』を見てほしいのですが、たぶんこれは「知る義務」との兼ね合いじゃなくて「使う権利」の方に引っかかってるんだと思います。「カタルーニャ語を使う義務」があったとしたら、それは「スペイン語を使う権利が侵されている」ということになりますよね。

anus3710223 仮に独立した際、ビルバオ処置は如何に/いいまとめ。元々カタルーニャには興味あったので、参考文献読んでみたい。

mrescape独立したらリーガバルセロナとかビルバオも脱退なのか?それだけはやめてほしい。アメリカMLSにもカナダのチームあるよね?そんなイメージ

ビルバオバスク自治州のチームなので、今回の住民投票カタルーニャ独立宣言しても問題なくリーガ・エスパニョーラには残れますね……。バルサに関しては、スペイン側が「リーガには参加できない」と言明してたような。カタルーニャ共和国リーグを作るか、あるいはリーグ・アンに参加するか、になるんじゃないかと思いますhttps://www.soccer-king.jp/news/world/esp/20151028/364245.html)。まあ、もしリーガ側が計算高ければ、独立が確定して覆せなくなった段階で残留してもいいとか言い出す可能性もありますけど。

gomaajiバスクはかなりの自治権を認められて停戦したのかなとぼんやり思ってたが、これを読むとバスク自治権なさそうで、あちらの解説もお願いしたい。

whirl 5分でわかるバスク地方もお願いしま

バスク自治州ナバラ自治州自治制度に関しては

が詳しく説明してくれているので、ぜひ読みましょう。かなりオススメです。

yogasa権限委譲をしてしまっているのと教育なのかな。それと比べると本邦はおおよそ全ての国民47都道府県単一民族と思ってるだろうし統治成功しているんだなあ

いやだなあ、日本にもあるじゃないですか。選挙で示された県民民意中央政府にガン無視され続け、県民の怒りを逆撫でするような政策発言ばっかりされている、独自文化歴史を持つ県が。

最後

「5分じゃ読めない」って反応だらけだったの何なの!? ちゃんと5分でわかるまとめパートと補足説明パートは分けてたでしょ!? はてな民、読解力だけは信じてたのにがっかりだよ!1!!!

Permalink |記事への反応(4) | 06:00

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2017-06-30

https://anond.hatelabo.jp/20170629234043

出典『老子道徳経

(中略)

馬王堆帛書では「大器免成」であり大器に完成はないという意味だった。本来前後の句とともに「道」は無形無限のものであるということを表していた。

大器晩成 - ウィクショナリー日本語版

馬王堆帛書ってなんじゃらほい。

馬王堆帛書

1973年12月、馬王堆三号漢墓から出土した帛書(はくしょ)で、12万余字に及ぶ厖大な量である。帛とは絹のことで、紙が普及するまでは竹簡木簡などの他に絹が使用されていたことを証明している。絹は保存が困難で伝来するものは稀であり、重大な発見となった。内容は、天文星占に関するもの医学に関するもの、陰陽五行に関するものなどで、これらは前漢・文帝の12年(紀元前168年)の遺物とみられている。これに書かれた文字は、「篆書から隷書に至る過渡的な段階にあるもの。」といわれているが、「篆隷中間書というはっきりしないものではなく、正しく整形した一書体に定着した新書である。」との見解もある。

馬王堆帛書とは - ウィキペディア小見出し辞書 Weblio辞書

まり馬王堆帛書老子道徳経いちばん古いの?

出土資料としては、郭店一号楚墓から出土した残簡(郭店楚簡)が最古である。それに次ぐものとして馬王堆漢墓から出土した2種類の帛書(『老子帛書』甲・乙)がある。

老子道徳経 - Wikipedia

じゃあ最古である郭店楚簡では大器晩成はどうなってるの。

郭店楚簡『老子』は、「大器晩成」(第四十一)を「大器免成」(大いなる器は完成することがない)に作る旨が述べてあり、これは腰巻にも紹介してあるから、本書の「売り」の一つなのかもしれないが、蜂屋前掲書によれば、帛書乙本が「免成」であって(帛書甲本は缺字)、楚簡は「曼城」となっているという(p.199)。もっとも、「曼」は「無」に通じ、「城」は「成」の通假字とのことだから、「免成」と「曼城」とは同義なのであろう。

http://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20140412

どっちにしろ完成はしないわけだ。

「『大器晩成』の句はとくに有名であるふつう、『大人物の完成には時間がかかる』として、不遇な人を励ましたりするのに使われるが、それは『老子』の真意ではない。『晩成』ということばは、文字どおりには『できあがるのがおそい』であるが、前後の句との関係で考えると、むしろいつまでも完成しない、その未完のありかたにこそ、大器としての特色があるということであろう。できあがってしまうと形が定まり、形が定まれ用途も限られる。それでは大器でなかろう。」

金谷治老子』(講談社学術文庫1997年)136-137頁

http://cgi.shinkyaku.com/p.cgi?130317a/40

総合すると、晩成だろうが免成だろうが「大器は完成しない」が真意だが、もちろん老子は「完成しないかダメだ」と言っているのではなく、「完成しないからこそ大人物なんだよ」という意味合いになるのだろう。

そもそも、該当部分ってまるごと「故建言有之」だから「昔からこう言われてるよね」という引用にすぎなくて、老子自分自身言葉で語っている(いやそもそも老子存在自体が怪しいけど)のは「上士聞道 勤而行之 中士聞道 若存若亡 下士聞道 大笑之 不笑不足以爲道」、つまり(追記:自分なりの解釈を書いていたけどやっぱり難しいので削除するね)みたいな話で、それの例示なんだから「大器にはこれと決まった形がないんだから完成することもない」といったところなんだろうね。

Permalink |記事への反応(1) | 11:03

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2016-11-16

[今日も聖書を読む読む] パスカルの賭け

山上浩嗣パスカルパンセ」を楽しむ──名句案内40章』(講談社学術文庫2016年)を買って読んだ。

パスカルの『パンセ』(これ自体は読んだことない)から、著者の山上さんが気に入った40句を抜粋して解説した本。

抜粋部分は基本的に、パスカルキリスト教信仰する中で思いついたことや考えたことが断片的に書いてある。

脈絡のない思いつきがたらたらと書いてあるだけかと思ったら、通読すると何となく山上さんが『パンセ』をどう読んでいるかが見えてきて面白い

著者や出版社は1日1章読んでもらうことを期待しているようなのだけれど、ライトな読み物なので3時間もあれば読み終わってしまう。

中でも印象的だったのが、「パスカルの賭け」という章だ。

正確にできているかからないのだけれど、要約すると以下。

人間は、神さまが存在することを証明できないし、逆に存在しないことも証明できない。

② ここでもし神さまが存在するとすれば、人は、死後天国に行けるように、聖書に書かれた高潔な生涯を送る必要がある。

③ 逆にもし神さまが存在しないならば、高潔な生涯を送ることはムダであり、快楽を追及する人生を送るべきである

④ このことから信仰とは人生を賭けた丁半博打のようなものだと分かる。賭けの帰結は以下の4つ。

(ⅰ) 神さまが存在しない方に賭けて、実際に神さまが存在しなければ(つまり賭けに勝てば)、聖書の教えに縛られない自由な生涯を送った挙句、失うものは何もない。

(ⅱ) 神さまが存在しない方に賭けて、神さまが存在した場合(つまり賭けに負ければ)、自由な生涯は送れるものの、死後、地獄業火に焼かれ続けることになる。

(ⅲ) 神さまが存在する方に賭けて、実際に神さまが存在すれば(つまり賭けに勝てば)、聖書の教えに縛られた高潔な生涯を送らなければならないが、死後、永遠幸福を得ることができる。

(ⅳ) 神さまが存在する方に賭けて、神さまが存在しなければ(つまり賭けに負ければ)、聖書の教えに縛られた高潔な生涯を送らなければならない上に、死後、何も得られないこととなる。

⑤ なお、この世に生まれた瞬間から賭けは始まっており、どちらにも賭けないという選択肢はあり得ない。

*ちなみに以上の整理には批判多し。

その上でパスカルは、確率論を駆使して、神さまが存在する方に賭けるべきことを論証していくのだが、結構しょうもない論理おもしろい。

上と似たようなことを信仰を持ってる人は誰しも考えたことがあるんじゃないかと思うが、パスカルみたいな稀有天才が似たようなことを考えてるのがまたおもしろい。

Permalink |記事への反応(0) | 21:23

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2015-12-05

誰でもメディアが残したもの

 人権擁護法案

 この法案を覚えている人、いらっしゃるだろうか? 10年程前、日本人権委員設立し、ヘイトスピーチを取り締まろうとした法案だ。

 この法案が出た当時、表現の自由観点からさまざまな批判が行われた。選抜基準不透明であり、実質的言論弾圧になりうる。そうした批判が主だったように思える。

 当然……と、言うか、なんというか、2ちゃんねるでも、当時山ほどあった個人サイトでも人権擁護法案に反対する運動が起こった。

 人権擁護法案反対の同盟(あぁ、「同盟」って単語も懐かしい)も作られた。

 そして、その反対運動は、最近言葉で言えば「カジュアル差別」とともに行われた。

 「実質的言論弾圧になりうる」という、その一点をきりとれば、至極尤もな主張は「在日利権を持っているマイノリティけが得をして、普通の日本人は損をすることになる。それどころか、実質的に、やつらに日本言論支配されることになる」という、明らかに間違った被害者意識、と言うか差別的な主張とセットで行われた。

 当時、世界各地で、人権委員設立が行われていた。具体的な事例は、当時は法務省HP掲載されていた。現在ならば、師岡康子「ヘイト・スピーチとは何か」(岩波新書)やエリックブライシュ「ヘイトスピーチ 表現の自由はどこまで認められるか」(明石書店)などで、当時の流れをつかむことができる。

 だが、そうした観点から、実際の外国人での人権委員活動議論を調べ、紹介するような者はいなかった。

 結局、振り返ってみれば、当時の人権擁護法案反対運動とは、「『他人自由尊厳侵害しない限りは』何を言ってもかまわない」と言う本来表現の自由ではなく「カジュアル差別をしたい」と言う欲望を守るための言論だったのだろう。

 

 別段、驚くべきことでは無い。

 当時のネットでは、すでにカジュアル差別があふれていた。

 YAHOOホロコーストについて検索すると、悪名高き世界史コンテンツが真っ先に出てきた。

 中国人王朝の変わり目に数千万、あるいは億単位人口が増減し、現在漢民族漢民族でもなんでもない得体の知れない雑種と言う、どこから突っ込めば良いのかわからない発言をすることが、「中国史通」の条件だった。

 当然、教科書に書かれている、日中戦争ならびに太平洋戦争当時の日本軍問題行為はすべて中国朝鮮でっちあげと主張する連中が、面白い人、そして、「一方の情報鵜呑みにしない人」の条件だった。

 保障された権利行使する連中を冷笑し、「プロ市民」とあざけり、スイス民間防衛引用しながら中国スパイ呼ばわりすることが、「良識的で政治に関心がある人」の条件だった。人権保障などあきらめ、あるいは現状で満足し、お国迷惑にならないことを第一に考え、軍事増強を唱える。それこそが、「知的」な人間と呼ばれるための条件だった。

 現在、そうした妄言を垂れ流していた個人HPほとんどは消滅している。

 だが、うっかり信じてしまった連中は残った。おそらく、掲示板書き込みをしていたヘビーユーザー氷山の一角で、その何倍ものROM専人間が、上記、カジュアル差別で塗れたデマを信じ、「新しい知見」と考えたであろう事は想像に難くない。

 やっかいな事に、そうした連中のほとんどは、当時自分が疑問に思った事について、情報更新を行っていない。ヘイトスピーチ、そして、その規制法案について語るとき、上であげた該当問題入門書を読むこともせずに、人権擁護法案反対のコピペを唱え続けている連中のなんと多いことか。

 挙句、何の根拠も無く「日本外国と違う。日本においてヘイトスピーチと呼ばれているものは、虐げられた日本人正義の怒りであり、理由の無い差別ではない」などと恥ずかしげも無く言ってみせる。言っていることとやっている事はネオナチほとんど変わらないのだが、彼らに言わせれば違うらしい。

 ホロコースト否定論は相変わらず上位に出てくるし、トンデモ中国史倉山満によって、よりおぞましい物に進化を果たした。

 そして現在twittertogetterには、それらトンデモを真に受けた馬鹿共が今日も元気に、それも大量に発言投稿し続けている。

 だが、忘れてはならない。

 彼らを作り上げたのは、10年前のわれわれだ。中公文庫講談社学術文庫中国の歴史を読むこともせず、

 あるいは、出版されている本を読み、自分攻撃する相手が具体的にどんな主張をしているのか調べることもせず、

 そのくせ、井沢元彦逆説の日本史」や小林よしのり戦争論」を読み、新たな知見に目覚めたとか大それた事を考え、検証の手間を惜しんで、自分HPで全世界に発信してきた私たちだ。

 入門書一冊読まないくせに、そのくせ上記の本を読んだだけで満足し、自分は知識欲旺盛な人間だとのぼせ上がり、そのうぬぼれをwebで全世界に公開した、厚顔無恥私たちだ。

 私たち馬鹿を信じた結果、今の、肥溜めのようなweb界隈がある。それを作ったのは、間違いなく、私たちだ。

 かつて、ネットは誰でもメディアと呼ばれた。その文句のとおり、私たちは多くの情報を発信した。

 だが、振り返ってみて、10年前の私たちは、後世に胸を張れるような情報を発信してきただろうか。

 そして、「古きよき時代」と、あの時代のことを胸を張って言えるだろうか。

 某SNS掲示板やまとめを見ながら、そう言う事を考えずにはいられない。

Permalink |記事への反応(0) | 22:35

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2015-12-03

レジンキャストミルク (電撃文庫)藤原

スペインユダヤ人 (世界史リブレット) 関 哲行

キリスト教歴史 (講談社学術文庫)小田垣 雅也

帰ってきたヒトラーティムール ヴェルメシュ

社会福祉思想歴史魔女裁判から福祉国家の選択まで (MINERVA福祉ライブラリー) 朴 光駿

☆ザ・フェデラリスト (岩波文庫) A.ハミルトン

インフォメーション―情報技術人類史 ジェイムズグリック

アメリカ文学史のキーワード (講談社現代新書) 巽 孝之

異端審問 (講談社現代新書)渡辺 昌美

シルバー事件アスキー

絶対に解けない受験世界史 (大学入試問題問題シリーズ)稲田義智

筋と義理を通せば人生はうまくいく高須 克弥

99歳ユダヤスーパー実業家が孫に伝えた 無一文から大きなお金成功を手に入れる習慣 矢吹 紘子

女子マネージャーの誕生とメディアスポーツ文化におけるジェンダー形成高井 昌吏

世界一即戦力な男――引きこもり非モテ青年音速で優良企業から内定をゲットした話菊池

愛についての感じ 海猫沢 めろん

借金底なし沼で知ったお金の味 25歳フリーター借金1億2千万円、利息24%から生還記 金森 重樹

猫背を伸ばして新装版 (フレックスコミックス)押切蓮介

こんな上司が部下を追いつめる―産業医ファイルから (文春文庫)荒井 千暁

棟梁―技を伝え、人を育てる (文春文庫)小川 三夫

石井直方筋肉まるわかり大事石井直方

フルーツ果汁100% 第1巻 (白泉社文庫 お 3-1)岡野 史佳

☆「個性」を煽られる子どもたち―親密圏の変容を考える (岩波ブックレット)土井 隆義

読書の方法―なにを、どう読むか吉本 隆明

予備校なんてぶっ潰そうぜ。 花房 孟胤

海洋堂創世記 樫原 辰郎

世界堂書店 (文春文庫) 米澤 穂信

コーディングを支える技術 ~成り立ちから学ぶプログラミング作法 (WEB+DB PRESS plus)西尾 泰和

☆九月、東京路上1923年関東大震災ジェノサイド残響加藤 直樹

大東亜戦争の実相 (PHP文庫) 瀬島 龍三

そこに僕らは居合わせた―― 語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶 グードルン・パウゼヴァン

クリスマス少女は還る (創元推理文庫)キャロル オコンネル

江戸のハローワーク (双葉新書)山本 眞吾

Three Essays on theState of Economic Science Tjalling C. Koopmans

TheElements of Style, Fourth EditionWilliam Strunk Jr.

ザ・フォール/落下の王国特別版 [DVD] リー・ペイス

アメリカめっちゃスゴい女性たち 町山 智浩

☆船に乗れ!〈1〉合奏と協奏 藤谷 治

ちょー美女と野獣 (コバルト文庫) 野梨原 花南

11/22/63 上 スティーヴンキング

システム×デザイン思考世界を変える慶應SDM「イノベーションのつくり方」 前野隆司

追われ者―こうしてボクは上場企業社長の座を追い落とされた松島

劣化国家 ニーアルファーガソン

ブラック企業経営者本音 (扶桑社新書)秋山 謙一郎

創価学会研究 (講談社現代新書) 玉野 和志

グロースハック予算ゼロビジネスを急成長させるエンジン 梅木 雄平

女のカラダ、悩みの9割は眉唾 (講談社+α新書) 宋 美玄

To Repairthe World:Paul Farmer Speaks to theNext Generation (California Series in Public Anthropology) Bill Clinton

社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉 (筑摩選書)小坂井 敏晶

Making the Modern World: Materials and Dematerialization VaclavSmil

高校教育アイデンティティー総合制と学校づくりの課題 (「教育」別冊 (9))小島 昌夫

☆名作はこのように始まる〈1〉 (ミネルヴァ評論叢書・文学の在り処)千葉 一幹

グラミンフォンという奇跡 「つながり」から始まるグローバル経済の大転換 [DIPシリーズ] ニコラスサリバン

単純な脳、複雑な「私」 (ブルーバックス)池谷 裕二

天涯武士幕臣小栗上野介 (1之巻) (SPコミックス時代劇画)木村 直巳

秋葉原事件加藤智大の軌跡 (朝日文庫)中島岳志

ぐいぐいジョーはもういない (講談社BOX) 樺 薫

LEAN IN(リーン・イン)女性仕事リーダーへの意欲シェリル・サンドバーグ

鬼畜のススメ―世の中を下品のどん底に叩き堕とせ!! 村崎 百郎

男性学の新展開 (青弓社ライブラリー)田中 俊之

闘争領域の拡大ミシェルウエルベック

実録ドイツ決闘した日本人 (集英社新書)菅野 瑞治

男性ECCE HOMO (文春新書 934)ヤマザキ マリ





正統と異端 -ヨーロッパ精神の底流 (中公文庫)堀米 庸三

魔女狩り (「知の再発見」) ジャン・ミシェルサルマン

図説 魔女狩り (ふくろうの本/世界歴史)黒川 正剛

魔女狩り (岩波新書) 森島 恒雄

異端審問 (文庫クセジュ) ギー・テスタス

剣豪将軍義輝〈上〉鳳雛太刀 (徳間文庫)宮本 昌孝

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