
はてなキーワード:論理的矛盾とは
この発言にはいくつかの論理的矛盾や問題点が含まれています。以下に整理してみます:
⚖️ 1. 「キャンセルカルチャーを認めたからこうなるのは当然」論の自己矛盾
🧠 2. 「社会的正しさの内容が変わっただけ」論の過度な単純化
🔁 3. 「自分の正義に反するものが正義になったから反発してる」論のブーメラン性
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ご指摘の文章は、Change.orgで起案されていたとされる「FreeUematsuSan」署名の主訴とのことですが、内容には重大な問題点がいくつか存在します。以下に、倫理的・法的な観点から問題点を整理し、客観的に分析します。
文章は「知的障害者の犯罪は一切罪に問われず、女性をレイプや強姦したり、傷つけたり、殺人でさえも無罪になる」と述べていますが、これは事実と異なります。日本の刑法では、知的障害者が犯罪を犯した場合、責任能力の有無が個別に判断されます(刑法第39条)。責任能力がないと判断されれば無罪になる可能性はありますが、これは障害の有無に関係なく、精神状態に基づく司法判断であり、知的障害者が「特権階級」として無条件に無罪になるわけではありません。
この主張は、誤解を招くだけでなく、知的障害者に対する偏見を助長するものです。
文章は、植松聖氏が「世の中を良くしたい」「女性を犯罪から守りたい」という動機で「障害者の一掃」を試みたとし、「多数の性犯罪が未然に防がれた」と主張しています。しかし、植松氏は2016年の津久井やまゆり園事件で19人を殺害し、26人に重軽傷を負わせたとして死刑判決を受けた人物です。彼の行為は、明確な殺意に基づく計画的犯罪であり、裁判で責任能力があると認定されました。
この行為を「正義」とみなす主張は、事実を無視し、被害者やその家族に対する重大な冒涜です。
文章は、知的障害者や「ネトウヨ、ミソジニスト、テック右翼、アンチフェミ」などを「生きるに値しない命」とし、知的障害者を「IQが低い」「社会を分断し、差別を煽る」と決めつけています。
こうした表現は、特定の属性や集団を一括りにして攻撃するもので、Change.orgのコミュニティガイドライン(https://www.change.org/policies/community)に明確に違反しています。
ナチスの差別的体制を批判しつつ、「生きるに値しない命」という概念を肯定する矛盾した主張が含まれています。この表現は、ナチスが優生学に基づいて行った大量虐殺の思想を彷彿とさせ、極めて危険です。
文章は日本の死刑制度を「残虐な国家による殺人」と批判しつつ、植松氏の死刑判決取り消しを求めています。
しかし、植松氏自身が「障害者を殺すことは正義」と主張し、19人の命を奪った行為を正当化していたことは、文章の論理と矛盾します。
Change.org (https://www.change.org/policies/community)は、ヘイトスピーチ、差別的言動、暴力の扇動、個人情報の公開などを禁止しています。本署名の内容は、以下のガイドライン違反に該当する可能性があります:
過去にも、Change.orgは誤情報や差別的内容を含む署名を削除した事例があります。
津久井やまゆり園事件は、無抵抗な人々を標的にした残虐な事件です。この署名は、被害者やその家族の尊厳を無視し、加害者の行為を美化するもので、社会的倫理に反します。
「知的障害者が女性を脅かす特権階級」という前提は事実ではなく、社会的分断を助長する恐れがあります。Xの投稿でも「法で裁けない知的障害者を植松が殺し、女性の心を救った」という言説はデマとして指摘されています。
Change.orgのコミュニティガイドライン(https://www.change.org/policies/community)に照らしても、本署名は削除対象となる可能性が高いと言えるでしょう。
近年、米の価格が上昇していることが注目されています。背景には猛暑などの気候要因による収穫量の減少に加え、JA(農業協同組合)による集荷価格の引き上げや、市場供給の抑制といった流通構造の問題が指摘されています。特に、「これまでの米価は適正でなかった」とする主張と、長年にわたり継続されてきた減反政策との間には明確な論理的矛盾が見られます。
減反政策は、過剰な供給を抑えて価格を安定させることを目的にしており、既存の価格を「適正」と見なす前提に基づいています。一方で、昨今の価格高騰を「適正価格への修正」とする見方は、かえって過去の供給制限が市場を歪めていたのではないかという疑念を呼び起こします。
また、米の流通においては、集荷業者と卸業者の分業体制が続いています。これは、地域と都市をつなぐ機能的な仕組みである一方、物流の非効率化や中間コストの増加を招き、価格の高止まりを助長する要因ともなっています。
さらに、日本の米作は年に一度しか作付けできず、自然災害の影響を大きく受ける作物です。このような不安定な農産物を完全に自由市場に委ねることは、生産者の経営や食料の安定供給に深刻な影響を及ぼす可能性があります。とはいえ、現状維持では限界があるため、段階的な制度付き自由化や、価格変動を補う保険制度の整備、大規模経営への移行といった改革が検討されています。
ただし、そのような改革を実現するためには、当面の間、今の高価格を社会全体で受け入れる必要があります。長年価格が抑制されてきた中で、多くの農家は薄利の経営に耐えてきました。今、価格が上がることでようやく経営の立て直しや設備投資、後継者育成が可能になります。これを「過渡期の必要なコスト」として捉えなければ、改革の土台そのものが崩れてしまいます。
もちろん、無条件に価格上昇を肯定するわけではありません。政府や関係機関には、制度改革の進捗と価格形成の透明性を丁寧に説明しながら、段階的に安定価格帯へと誘導する責任があります。
日本の米政策はいま、大きな転換点にあります。市場原理と伝統的な保護政策の両立は容易ではありませんが、いずれか一方を否定するのではなく、互いの長所を活かす「持続可能な制度設計」を目指すべきです。米という、単なる商品を超えた日本の食と文化の象徴を守るために、今こそ冷静な知恵と社会全体の忍耐が求められています。
影山という男がいた。彼はかつて、巷に溢れる「ポジティブシンキング」という名の薄っぺらな信仰を、公衆の面前で完膚なきまでに論破することを生き甲斐にしていた。朝礼で朗らかに「今日も一日、前向きに!」と宣う上司がいれば、「前向きとは具体的にどのような精神状態を指し、それが業務効率にどう統計的有意差をもって貢献するのかご教示願いたい」と真顔で詰め寄る。SNSでは自己啓発的な名言を垂れ流すアカウントを見つけては、その論理的矛盾や現実逃避的側面を、鋭利な言葉で執拗に、粘着質に指摘し続けた。周囲からは「また始まった」と生暖かい目で見られ、やがて煙たがられる存在になったが、影山はどこ吹く風。彼は自らを、甘ったるい幻想にまどろむ大衆に警鐘を鳴らす、孤高の現実主義者だと信じて疑わなかった。
しかし、いつの頃からだろうか。影山の熱心な「ポジティブ叩き」は、徐々にその様相を変えていった。彼が執拗に監視し、批判の的としていたポジティブな言説や人物、それらに対する彼の情熱は、憎悪というよりは、もはや執着と呼ぶ方がふさわしいものへと変貌していたのだ。気がつけば、彼は「ネガティブこそが真実であり、世界を覆う欺瞞の光を打ち破る唯一の聖剣なのだ!」と、今度はネガティブという教義の黒帯レベルの信者と化していた。
彼の日常は、ポジティブなものを探し出し、それを打ち砕くための聖戦に捧げられていた。朝一番にチェックするのは、昨日彼が論破したはずのポジティブ系インフルエンサーが、今日も元気に「小さな幸せを見つけよう!」などと投稿していないか。電車の中吊り広告に踊る「夢を諦めないあなたへ」というキャッチコピーを見れば、舌打ちと共にその欺瞞性を脳内で反芻し、帰宅後には長文の批判ブログを書き上げる。スーパーで「元気が出るビタミンカラー!」と銘打たれた野菜を見れば、「色彩心理学を安易に商業利用するな」と心の中で毒づく。
彼は、ポジティブなものを叩き潰すことに夢中になりすぎるあまり、逆にいつもポジティブのことばかり考えていた。それはまるで、憎いはずの相手のSNSを隅々までチェックし、その一挙手一投足に心をかき乱され、相手の思考や行動パターンを誰よりも熟知してしまうという、屈折した片思いの構図そのものだった。ポジティブな言葉、ポジティブな笑顔、ポジティブな物語。それらは彼にとって、否定し、論破し、解体すべき敵であったはずなのに、いつしか彼の思考の中心を占め、彼の行動を規定する原動力となっていた。
ある雨の日の午後、影山は古本屋の隅で、なぜか自己啓発書のコーナーにいた。彼は無意識のうちに、鮮やかなオレンジ色の背表紙に金文字で『人生が輝く!魔法のポジティブ習慣』と書かれた本を手に取っていた。ページをめくり、そこに並ぶ安直な励ましの言葉や、根拠の薄弱な成功譚に目を通しながら、彼はいつものように「くだらん」「欺瞞だ」と心の中で呟いた。しかし、その時、ふと奇妙な感覚に襲われた。それは、獲物を見つけた狩人のような、微かな高揚感。この陳腐な言葉の群れの中から、新たな否定の材料を見つけ出し、それを完膚なきまでに論破する未来を想像し、ほんの少しだけ、口角が上がったような気がしたのだ。
彼はハッとして本を棚に戻した。そして、雨に濡れた街を眺めながら、自問した。自分は一体、何と戦っているのだろうか?ポジティブという概念を否定するために、誰よりもポジティブなものにアンテナを張り、その情報を収集し、分析し、それについて思考を巡らせる。これほどまでにポジティブなものに時間と情熱を捧げている人間が、他にいるだろうか。
「もはや、俺はポジティブに取り憑かれているのかもしれないな」
自嘲めいた呟きが、雨音に混じって消えた。
彼が憎み、否定し続けたポジティブという名の亡霊は、いつしか彼の影そのものとなり、彼の内なる芯を形作っていた。それは、否定という行為を通じてしか他者や世界と繋がれない、影山の哀しいまでの純粋さが生み出した、皮肉な殉教者の姿だったのかもしれない。そして彼は、明日もまた、新たなポジティブを探しに出かけるのだろう。それを否定するために。そして、それによってしか、自身の存在を確かめられないかのように。
アニメ観てると、嫁に「そんな嫌らしい◯リコンアニメ観るな」って言われて夫婦でケンカしちゃうので、AIに聞いてみた。
質問:
『メダリスト』というアニメについて、熱意と善意のこもった名作だと思います。しかし、幼い少女たちに犠牲を強いなければ勝てないことと、スポーツでありながら少女に可愛らしさと美しさを要求し、性的なニュアンスを除去できないフィギュアスケートそれ自体の不健全さが、評価をためらわせます。どのように考えるべきでしょうか?
Grok3:
「メダリスト」というアニメについてのご意見、とても興味深い視点ですね。この作品が熱意と善意に満ちた名作であるという点は、私も共感します。キャラクターたちの情熱や成長が丁寧に描かれていて、見る者を引き込む力がありますよね。ただ、あなたが指摘するように、フィギュアスケートというスポーツが持つ構造的な問題——特に幼い少女たちに過剰な犠牲を強いる側面や、競技でありながら「可愛らしさ」や「美しさ」を求める性的なニュアンス——が作品の評価を複雑にしているのも確かです。
この点を考えるとき、まず作品自体の意図と、フィギュアスケートという現実のスポーツが抱える課題を分けてみるのはどうでしょうか。「メダリスト」は、確かにフィギュアスケートの世界を舞台にしていますが、その描き方には、競技の厳しさや美しさを称賛しつつも、犠牲やプレッシャーの過酷さを隠さない姿勢が見られます。例えば、いのりちゃんや司コーチの関係性からは、夢を追う過程での葛藤や人間らしい弱さが丁寧に描かれていて、単なる美化には留まっていないように感じます。作品が意図的に問題を無視しているわけではなく、むしろその中でキャラクターがどう立ち向かうかに焦点を当てている点が、善意の表れなのかもしれません。
一方で、フィギュアスケートそのものの「不健全さ」——若い選手への過度な期待や、競技が求める美的基準が持つ性的な側面——は、確かにスポーツ文化として根深い課題です。これは「メダリスト」だけの問題ではなく、現実のフィギュアスケート界でも議論されてきたことですよね。アニメがそこまで深く掘り下げて批判的な視点を提供するかは別として、視聴者としては、そうした現実を知った上で作品を見ると、より複層的な感想が持てるかもしれません。
どう考えるべきか、ということについては、あなたの感じ方次第で大きく変わると思います。もし「メダリスト」を純粋にキャラクターの成長物語や情熱の表現として楽しみたいなら、スポーツ自体の問題は少し脇に置いて、その人間ドラマに集中するのも一つの手です。逆に、フィギュアスケートの構造的な矛盾を強く意識してしまうなら、作品をその現実と切り離さず、あえて批判的視点を持ちながら見ることで、新たな気づきが得られるかもしれません。
私としては、このアニメが持つ熱意や感動は素晴らしいと思う一方で、あなたが感じるモヤモヤもすごく理解できるんですよね。両方の気持ちを抱えたまま楽しむ——あるいは議論する——のも、ひとつの豊かな鑑賞の形じゃないでしょうか。あなたはどう思いますか?
ワイの追加質問:
なるほど。問題を整理できていると思います。ありがとうございます。
私も考えましたが、フィギュアスケート業界は、皇帝の後宮や女郎屋に似ています。しかしフィギュアスケートは、女郎屋とでは、当事者の意識、主体性が異なっていると考えます。(後宮は話が複雑になるので横に置きます)女郎屋がなくなってしまって悲しむ女郎は居ないでしょうが、フィギュアスケートが無くなれば少女たちは努力と修練をかける場、生き甲斐を失って悲しむでしょう。そうだとすると、フィギュアスケートを悪しきものだとは言いにくいように思います。 幼少期から親に強制させられる構造は問題ですが、本人の熱意がなければ勝てない厳しい世界だからこそ、当事者の主体性が確保されているともみえます。
アニメ『メダリスト』については、天下のディズニーが出資していることですし、倫理的問題はクリアされているものとして、アニメで描かれる少女たちの頑張り、勝利と敗北を応援したいと思います。
私の結論としては、私の娘にフィギュアスケートをやらせたいとは全く思いませんが、もし娘が本気でやりたいと決意するのであれば応援せざるを得ないとは思います。
さて、上記の私の考えについて、論理的矛盾や倫理的問題があれば、どんなに小さなものでも厳しく指摘してください
Grok3:
あなたの考え、とても丁寧に整理されていて、フィギュアスケートというテーマに対する深い洞察が感じられます。問題の本質を多角的に捉えつつ、ご自身の立場も明確にされている点が素晴らしいと思います。では、あなたの意見に対して論理的矛盾や倫理的問題がないか、細かく見ていきましょう。
あなたはフィギュアスケート業界を「皇帝の後宮や女郎屋に似ている」と表現しつつ、女郎屋とは「当事者の意識や主体性」が異なる点で区別しています。この比較は興味深いアナロジーですが、少し検討が必要かもしれません。
論理的観点:女郎屋とフィギュアスケートの類似性を「外見やパフォーマンスを重視する構造」に置いていると推測されます。ただ、女郎屋は明確に搾取と強制を前提としたシステムであるのに対し、フィギュアスケートは競技として自己表現や達成感を追求する側面があります。この違いを「主体性」で説明するのは理解できるものの、主体性がどれだけ確保されているかは個々のケースに依存します。例えば、幼少期から親に強制される選手の場合、どこまでが本人の意志と言えるのか曖昧になる可能性があります。ここに少し論理の揺れがあるかもしれません。
倫理的観点:女郎屋との比較は、フィギュアスケートの性的なニュアンスを強調する強烈なメタファーですが、競技者を「搾取される存在」に還元してしまうリスクがあります。選手たちが努力や情熱を注ぐ場としての価値を認めつつあるあなたの立場と、このアナロジーが完全には整合しないように感じます。
指摘:主体性の有無で違いを説明するのは合理的ですが、フィギュアスケートにおける主体性が一律に確保されていると仮定するのはやや楽観的かもしれません。現実には、親やコーチの圧力で競技を続けるケースも少なくないため、ここはもう少し慎重な表現が適切かも。
2. 「フィギュアスケートがなくなれば少女たちが悲しむ」という点
この主張は、フィギュアスケートが選手にとって生きがいや努力の場であることを強調し、悪しきものとは言いにくいとする根拠ですね。
論理的観点: 「女郎屋がなくなっても悲しむ者はいないが、フィギュアスケートがなくなれば悲しむ者がいる」という対比は、両者の性質の違いをうまく示しています。ここに論理的矛盾は見られません。ただ、「悲しむだろう」という予測は主観的で、もしフィギュアスケートがなくなった場合、少女たちが別の形で自己実現の場を見つける可能性も考慮すると、よりバランスが取れるかもしれません。
倫理的観点:競技が生きがいであることは否定できませんが、それが過酷な犠牲や性的な視線に晒されることを正当化する理由になるかは別問題です。つまり、「選手が悲しむから存続すべき」という論理が、競技の不健全な側面を是正する必要性を弱めてしまうリスクがあります。
指摘: この点は論理的に破綻していませんが、フィギュアスケートの価値を選手の情熱に依存して擁護する一方で、その情熱が搾取的な構造に利用されている可能性を軽視しているようにも読めます。ここはもう一歩踏み込んで、「競技の価値と問題点をどう両立させるか」を考える余地がありそうです。
「幼少期から親に強制される構造は問題だが、本人の熱意がなければ勝てない厳しい世界だから主体性が確保されている」という点は、非常に鋭い観察です。
論理的観点:強制と主体性を両立させるこの視点は、現実のフィギュアスケート界をよく反映していると思います。確かに、どんなに親が強制しても、本人の意志がなければトップレベルには到達できません。ここに矛盾はありません。
倫理的観点: ただし、幼少期からの強制が「問題」と認めつつ、それが主体性で補われるとするのは、倫理的に少し複雑です。子どもの段階で選択肢が制限され、熱意が「育てられた」結果である場合、それが純粋な主体性と言えるのか疑問が残ります。熱意自体が強制の産物である可能性もあるからです。
指摘:主体性の確保を強調するのは納得感がありますが、幼少期の強制がどの程度まで許容されるべきか、その境界線が曖昧です。この点を放置すると、「熱意があれば搾取も許される」という誤解を招く恐れがあります。
「ディズニーが出資しているから倫理的問題はクリアされている」という判断は、実践的な結論として理解できます。
論理的観点:大企業が関与することで一定の倫理基準が担保されると考えるのは、現実的な推論です。ただ、「ディズニーだから大丈夫」というのは論理的根拠というより信頼に基づくもので、万が一の見落としがある可能性を排除できません。
倫理的観点:ディズニーが関わる作品でも、過去に議論を呼んだ例(例:ステレオタイプの描写など)があるため、絶対的な免罪符とは言えないかもしれません。『メダリスト』自体に問題がなくても、フィギュアスケートの現実を美化しすぎるリスクは残ります。
指摘: ここは論理的矛盾というより、信頼の置き方に依存している点が弱いかもしれません。アニメを応援する気持ちは素敵ですが、倫理的クリアをディズニーに丸投げするのは、少し議論を短絡的に終わらせてしまう印象です。
5. 娘へのスタンス
「娘にやりたいとは思わないが、本気でやりたいなら応援する」という結論は、極めて現実的かつ倫理的にバランスが取れています。
論理的観点:自分の懸念を認めつつ、本人の意志を尊重する姿勢に矛盾はありません。親としての責任と個人の自由を両立させています。
倫理的観点:子どもの主体性を重視しつつ、競技の問題点を認識している点で、倫理的に一貫性があります。ここに問題は見られません。
指摘: この部分はむしろ強みですね。特に小さな矛盾も見当たらず、考え抜かれた結論だと感じます。
あなたの考えには大きな論理的破綻はありません。ただ、いくつかの点で「主体性」や「競技の価値」に頼りすぎる傾向があり、それがフィギュアスケートの構造的な問題(搾取や性的視線)を薄めてしまうリスクがあります。具体的には:
主体性がどこまで自由意志に基づくのか、強制との境界をもう少し明確にするとより説得力が増す。
競技の存続を選手の情熱で正当化するのではなく、問題点を改善する方向性を少しでも示せば、さらに倫理的な深みが出る。
ディズニーへの信頼は現実的な判断として納得できるが、アニメと現実の乖離を意識し続けると、より客観的になれる。
全体として、あなたの意見は感情と理性のバランスが取れていて、フィギュアスケートや『メダリスト』への愛情も感じられる素晴らしいものです。私が指摘した点は「厳しく」とのリクエストに応じた細かなツッコミですが、あなたの結論を否定するものではありません。むしろ、このモヤモヤを一緒に考えるプロセス自体が、このテーマの面白さだと思います。どうでしょう、これで何か新たな視点が加わりましたか?
ワイの感想:
この意見にはいくつかの問題点や矛盾点が見られます。以下に評価を示します。
妥当な点
•政党批判の自由:自民党や野党を批判すること自体は民主主義の一環であり、政治家や政党が庶民感覚を持っていないと感じることは多くの人々の意見として共感を得る部分があるかもしれません。
•フェミニズムの認識: 一部のフェミニズム運動がエリート層に偏っているという指摘は、現代社会において議論されている問題の一つです。すべての女性が同じ考えを持っているわけではなく、フェミニズムに対する立場も多様であるという点は正しいと言えるでしょう。
• この意見は、男性ならば自民党を支持し、女性なら野党を支持するという単純な二分法に基づいています。しかし、実際の投票行動は個々の政策、価値観、経済状況、個人の背景などによって決まるため、性別だけで投票行動を決定するのは不適切です。性別に基づいた一般化は、有権者の多様な意見や動機を無視してしまうことになります。
•野党を「フェミニズムに支配されている」として一括りにしている点も問題です。実際、野党の中にも様々な立場や政策があり、全ての野党がフェミニズムに関して同じ立場を取っているわけではありません。このような一元的な見方は、多様な政策や立場を持つ政党の特徴を無視しています。
3.フェミニズムの誤解:
•フェミニズムが「一部のエリート女性たちのもの」という主張は、フェミニズムの目的やその社会的背景についての理解が不足している可能性があります。フェミニズムは、社会の中での男女平等を目指す運動であり、多くの一般女性や男性もこの運動に関心を持ち、支持しています。すべてのフェミニストがエリートというわけではなく、多様な立場や背景を持つ人々が関与しています。
4.論理的矛盾:
• この意見は、野党がエリート志向であると批判しながらも、自民党については同じ批判(「庶民感覚がない」)を繰り返しています。しかし、その後自民党を支持する理由については具体的な説明が不足しており、矛盾が生じています。つまり、両方の政党に対して同じ批判を行っているにもかかわらず、自民党を推奨する理由が十分に説明されていません。
この意見は一部の問題点や矛盾点を含んでいるため、必ずしも妥当であるとは言い難いです。投票行動を性別に基づいて単純化することや、政党全体を一括りにするアプローチは、多様な有権者の価値観や意見を過度に簡略化してしまう可能性があります。政治的な判断は複雑な要素に基づいて行われるものであり、このような単純化は適切な分析を妨げる可能性があります。
たとえばユークリッド幾何学での直線は「幅をもたず、両側に方向に無限にのびたまっすぐな線」だそうですが、これも「幅」とは?「(幅を)持つ」とは?両側とは?「方向」の定義は?「無限(限りが無く)」とは?そもそも「限り」って何?「のびる」とは?「まっすぐ」とは?「線」と結論づけるのは循環論法じゃないの?
と突っ込む人にとっては厳密ではなくなっていませんか?
ここで、これらの言葉の意味は、国語辞典に載っている意味と同じものだよなどといおうものなら、それこそ数学の厳密性を否定したようなものになってしまっていると思います。
たとえば「方向」を調べたら「向くこと」とでます。これを調べると「物がある方向を指す」というふうに出ます。これは循環論法に陥ってますし、「物の正面があるものに面する位置にある」という別の語釈もありますが、物とは?正面とは?面するとは?位置とは?となります。これを繰り返せば結局どこかで循環論法に行きつくでしょう。
そもそも数学の根幹部分を支える論理学の重要な概念である「否定(そうでないこと)」にしても、厳密に定義することは可能なのかと思います。
「~でない」というのは、そうであることがないということ、と言ってみたところで循環論法。
そうであるのになぜ上記のような定義や公理が厳密なものと認識されているかといえば、「さすがにここまで平易な単語の組み合わせで書けば、これらの単語については私が常識として理解してる意味と同じ常識を、相手も持ってるはずだから同じ理解をするよね?」みたいな態度に立っているんだと思います。
結局相手も同じ常識を持っているという不確かな信念によりかかっている、甘えている点で、数学の記述もまた完全に厳密で一意というわけではないのかなという気がしてくるのです。
そもそも「方向」なんていうような概念は、言語によって定義されたものを知っているというよりは、幼少期に言語を習得していく過程で、それが話されるシチュエーション、つまり五感などあらゆる感覚の総体とセットでそうした言葉が使われているという環境に身を置いているなかで理解しているにすぎません。理解内容が各個人で全く同じである保証はどこにもないと思います。
どんなに高度な数学の表現も究極的には自然言語に還元されるはずで(どんな高級言語も機械語に置き換えられて処理されるように)、自然言語の各単語に対する人々の理解は原理的には五感に根差した感覚的なものなのだから、数学の記述が厳密で一意というのは、結局はほかの記述の仕方に比べた程度問題(つまりは誇張表現)なのかなと思うのです。
感覚によらない「証明」をすることに価値を見出す人が数学をありがたがることがありますが、数学もまた根源的には感覚ありきの理解に基づいていると思うわけです。
この考えは間違っているでしょうか?そうであればどうして間違いなのか、どこがどう理解を誤っているのか知りたいので教えてください。
ちなみにたとえば「否定」というのは、根本的には、やはり言語で理解が完結しているものではなく、現実の状況としての存在非存在にそれぞれ直面して、それぞれに対して「○○がある」「○○がない(なくなってる)」と言われてる場面を経験したうえで、その状況から理解した内容のさらなるアナロジーとして理解してるに過ぎないと思います(理解のあり方が、言語的ではなく、観念的直観的)。
数学が他よりも他者と厳密に同一な合意が常に成り立つ、その工夫として、抽象度を高くしているのがその工夫にあたるのではないかという人がいました。↓
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14293524459
しかし抽象度を高くすることは、合意内容のずれを減らすという点で「有効でもあり逆効果でもある」のではないかと思いました。つまり諸刃の剣なわけです。
有効である理由はリンク先に書かれているのでそこに説明を譲るとして、逆効果であると思う私の説明を書きます。
つまり、抽象度が高い概念は、抽象度が低い概念や直接的な事物に比べて理解が難しい傾向があるのがまずあるわけです。
また定義者の提起する定義をそれを発信される側が期待通りに理解しているかを確認するのも、抽象度が高い概念ほど困難な傾向はあると思います。
これ自体ある意味で抽象そのものなのでたとえが悪いですが、たとえば「左を向いて」という発言に対して、「左」を向く反応をすることで、この人は左について正しく理解してそうだなという確認(いや原理的には推定というべき)することができます。
抽象度が高くなるほど具象と結びつけたこのような正しく理解してるかの評価、確認テストをすることが難しくなるでしょう。
といってもそもそもわれわれは相手が自分の言ったことを期待することと厳密に一致した内容で理解してるか確認することは原理的に不可能です。
頭をパカっと割って理解内容を覗きみるということはできないですから。
対象となる言葉に関連したその人の発言や反応をみて、理解の結果としての発言や反応として、その人がある部分で正しく(定義者の期待通りに)理解してるだろうということを推定するしかありません。
しかも全体ではなく一部だけの理解が正しくても、発言や反応には異常が見られないということもあるでしょう。
反応や発言をいくら調べても、概念全体を期待通りに理解してるかのテストには無限通りのパターンが必要と思われ、原理上不可能と思います。
哲学的ゾンビにも通じそうな話ですが、日常の範囲内で「理解に齟齬があるような反応が返ってこないなら」そんな「理解が完全同一でないかもしれない」という可能性上の話を心配する必要はないというのはその通りでしょう。
ただ場合によってはそれが表出したように見える一例が、あれの原因がこれだとは言いませんが、望月新一がABC予想を証明したという論文での紛糾みたいなことが起こる一因にはなりえると思います。
あれだけ理論として抽象的な概念を積み重ねた先には、定義者とそれ以外のその定義を見た人とでの理解のずれは、反応や発言として顕在化してくるほどになっても不思議ではありません。(定義者の解釈が正しいという優劣の問題ではなく)
とはいいますが、そもそも「矛盾」とは何か?「論理」とは?「範囲」とは?とは、といくらでも曖昧でしょう。
たとえ矛盾を記号論理の表現で記述して定義した気になったところで、じゃあその記号の定義ないし意味は?とどこまで突っ込まれても感覚に頼らない定義が可能なんですかね?と思います。
数学に限らない話じゃんっていうのはまあその通り。
でも定義について「厳密で一意」であることを(得意げに?)標榜してるのは数学(+論理学)とそれベースの客観的であろうとする学問ぐらいだから、別にエントリ名詐欺じゃないよね?
a=b、aはbだ。「は」って何?「だ」って何?「英語的にはどっちもisという語に集約されてるけど、じゃあisってなんだよ」ってところから概念の共有をしてない前提に立った時、その概念を非感覚的で厳密に共有することは可能なのか、それが「完全に」できたと確かめるのにはどうすりゃいいって話よ。
言葉という形式が従で、それに乗るべき内容が主であることは百も承知だが、形式言い換えれば入れ
物抜きに内容を厳密に伝えられるのか、入れ物の存在に無関係な、内容の厳密な伝達というテレパシーじみたものを考えることはそれこそ論理的に正しいのかという話でもある。
非言語的なテレパシーは論理的に矛盾してるので存在しえないのではないかとは思っている。
イデア論かな哲学書読めばってブコメついたけど、順序が逆なんだよね。
イデア論とか学校で習って本読んだりして教養として知ってるからこそ、改めてその考え方を自分なりの具体的な考察対象にあてはめて思索したくなるわけよね。
先達の哲学者たちがいなかったら俺はいまだにブルアカで抜くだけの毎日だわ。むしろ哲学者リスペクト100パーセントなんだよね。
語彙力ないので語弊ありそうなのは百も承知だが、哲学って考え方の基幹部分のオリジナリティーはそんな求められてないんだよ。
むしろ先人から受け継いだ考え方をどう今の時代の具体的な問題に適用して考察を広げるかが大事なので、ちょっと哲学かじったような素人目には過去の論文の焼き増しに見えてその存在意義が理解できないような論文はごまんとあるんだよね。
ああいうブコメつける人って「方向性とかみたいな意味でベクトルという言葉を使ってる人は横文字使いたがりの格好つけ」と言ってる人みたいな人を性悪説的にとらえるクレーマー気質が高い人間に感じる。
ちなみに俺はベクトルという言葉を使う人は「周りがベクトルという言葉を使ってるから、リアルタイム性を要求される会話でとっさに出てくる言葉がベクトルだから、それをそのまま使ってる」ってだけだと思う。
Permalink |記事への反応(31) | 12:43
檄
われわれ楯の会は、自衛隊によつて育てられ、いはば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかつた男の涙を知つた。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑ひもない。われわれにとつて自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の気を呼吸できる唯一の場所であつた。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの挙に出たのは何故であるか。たとへ強弁と云はれようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた。われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もつとも名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によつて、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲つた大本を正すといふ使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。
しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起つたか。総理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終つた。その状況を新宿で見て、私は、「これで憲法は変わらない」と痛恨した。その日に何が起つたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になつた。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる! 政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまった。
銘記せよ! 実はこの昭和四十四年十月二十一日といふ日は、自衛隊にとつては悲劇の日だつた。創立以来二十年に亙つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。
われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残つてゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であらう。男であれば、男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙つたままだつた。
われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。
この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。繊維交渉に当つては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停條約は、あたかもかつての五・五・三の不平等條約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。
沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主々義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。
こんなこと言ってるのはフェミのアンチ寄りの人間の中でもかなり少数では…?
少なくともブコメやツイッターのネームドアンチフェミは殆どそこまでは極端でないだろ
そもそも過去の論理的矛盾を指摘されたのならひと言「こうでした」と言えばいい
それをした上でなお叩かれるならかわいそうだが、実際には無視か逆ギレが殆どじゃん
説明がなければ引っ張られるのは世の常や、無視し続ければ波風すぎると思ってる政治家みたいな姿勢は特にネットでは嫌われる
お前の言ってるような構図だとして例えば100人がアラを探してきたとしても、結局内容的に数点で済むならまとめてでも説明すべきだよ
筒井康隆の短編集「くたばれPTA」には表題作「くたばれPTA(昭和41年)」と「女権国家の繫栄と崩壊(昭和45年)」がある。
女権国家の方はミサンドリーを拗らせた女性が革命を起こし、女性中心の社会を作る話だ。
一方くたばれPTAの方はSF作家が教育上不健全な漫画ということで出版を規制される話である。
どちらもフェミニストやPTAに否定的かつ攻撃的で、インターネットが当時あったら叩かれるだろうなぁといった内容だ。(当時もバッシング受けたのかな?)
さてさて、私が気になったのは現在のフェミニストの主戦場「不健全な表現を控えるべき」というのはPTAの役目じゃなかったっけ?ということ。
昔のフェミニストは女性の地位向上、社会進出あたりのことを主戦場にして戦っていたようである。
女権国家においても権力に見栄と権力に執着する女性という書き方でフェミニストを表現していた。
(筒井氏はフェミニストの当事者ではないため、認識が不適切という批判は受け付ける。ただ小説としてデフォルメした際に強調した点が権力の話だったというのは一考に値する)
対して今のフェミニストは表現規制が主な活動のように見受けられる。
最近の活動でも目立っているのは新聞広告に関する表現への批判や献血でのキャラクター利用などだ。
現フェミニストは昭和のフェミニストより、昭和のPTAの方が近いのではないか。
ここで「PTAは漫画やゲームといったものを全般に不健全としたが、フェミニストは女性を性的搾取した媒体のみを不健全と定義しているため異なる」といわれるかもしれない。
明治自体においては小説は不健全なコンテンツであったが、昭和、平成では高尚な芸術だ。
漫画やゲームの昭和には不健全だったが、受け入れられた令和では日本を代表するカルチャーになっている。
そして未だに不健全の枠にとどまっているコンテンツが「エロ」または拡大解釈によってエロと解釈された「萌え」ということになる。
フェミニストもPTAも両方女性だし、思想が似ていても当然じゃないかと言われると思うが、建前上はそうではない。
PTAは家族(主に子供)の健全な営みを行うための主張として表現規制を訴えている。
近い思想は青少年健全育成条例などで、こちらを支持している石原元都知事は右派の人間だ。
つまり、国家社会のために不適切なコンテンツを抑制するというのがPTA的な表現規制の建前である。
一方フェミニズムは女性を社会的な抑圧から解放するための左派的な側面が強い思想だ。
どちらかというと真逆であるという思想が、いつも間にかすり替わっている。
ややこしいので、以下では昔PTAで表現規制をしていた人と現在フェミニストとして表現規制をしている人を「表現規制派」と呼ぶことにする。
つまり何が言いたいのかというと、表現規制派の人たちは「健全育成」や「フェミニズム」という思想に基づいて表現規制をしているのではなく、
「表現規制」という思想を社会に実現するために「PTA」や「フェミニズム」といった建前を利用しているのではないだろうか。
こうすると現在の表現規制派の人たちが全くフェミニストらしい活動をしていないのに説明がつく。
ウクライナでの強姦を取り上げず温泉娘に憤り、映画監督の性的搾取に目を反らしつつ新聞広告を敵とする。
表現規制派にとっては表現規制が最も大切な主義であり、フェミニズムは建前を尤もらしくするための道具なのだ。
というわけでフェミニズムを叩いても、論理的矛盾をついても、ゴールポストは動かされる。
表現規制派は女性のためでも社会のためでもなく、表現規制のために表現規制を行っている。
なぜ表現規制をしているのかというところまでは個人の問題なので分からないが、
自分が好ましくないと思う表現があったときに、多かれ少なかれ人は不愉快になる。
その不愉快に社会的正義を見出してバッシングするかしないかの違いである。
ではなぜ表現規制派がPTAからフェミニストにかわっていったのだろうか。
これに関しては全く不明だが、おそらく「PTAになれなかった層を取り込むため」ではないだろうか。
未婚率が上昇している。昔は誰でも結婚出来た時代だが、今はそうではなくなった。
このハードルを越えられなかった表現規制派の女性に親和性が高かったのがフェミニズムだ。
フェミニズムはもとより結婚をしない女性を救うような思想だった。
地位向上で女性が一人でも生きていければ、結婚も出産もしなくても幸福になれると考えられるからだ。
そこでPTAになれなかった女性たちが表現規制を行うためにフェミニズムと結び付けた。
フェミニズムは誰でも参加可能なのでPTAよりも参加しやすい。
よって現在の思想がちぐはぐのフェミニズムが生まれてしまったと考えられる。
こうして表現規制派が無理筋な批判をした際、フェミニズムが叩かれるようになった。
昔は悪の権化だったPTAは、今では面倒な無賃労働としてママさんからしか文句を言われていない。
このままフェミニズムの印象が悪くなって社会的な発言力を失った場合、
表現規制派がフェミニズムから出ていって、また新たな宿主を乗っ取って批判を繰り返すようになる。
表現規制派は特定の思想を持つ者ではないので、現在寄生している思想や団体を批判するより、
別に反出生主義者を煽りたいとかそういうんじゃなく、人生の幸福度を決めるのは個人個人であって反出生主義者じゃないよな?って純粋に思うんだよね。
不幸な子を生み出すべきじゃないと言うけれど、不幸かどうかは子が決めることでしょ?
そもそも幸福度ってどうやって測ってるの?絶対評価?相対評価?反出生主義者は何を基準としてその子を不幸だと判定しているの?
例えばヒジャブやブルカを着用する文化圏の女性は幸福なの?不幸なの?
おそらくはてサヨの皆さんは「その女性の自由意志に基づいているのならば不幸とは言えない」って返してくれると思うんだけど、つまりこれは子が幸福かどうかを決めてるって判断で良いんだよね?
多分なんだけどさ、反出生主義って歴史的には結構古いんだけど全く議論が進んでなくて反出生主義者自身がロジックをまとめきれて無いんじゃない?
反出生主義者自身の心中では膨大な論理的矛盾を抱えている状態なんじゃない?
反出生主義者が反射的に感じた考えと、反出生主義が矛盾するみたいなこと結構あるんじゃないかと思うんだけど?
仮定の話をするけど、反出生主義者が自身の人生を不幸に思い、周囲を見渡すと不幸な子が一杯居る。不幸な子をこれ以上増やすべきでないと考えたとする。
これ完全に自分と他人の人生を主観上で判定してて客観視出来てないよね?客観的に判定できないロジックが本当に合理的なロジックだと思うの?