
はてなキーワード:論理的思考とは
やっと本性を出したようだな。
お前みたいに、論理と煽りを区別できねぇ奴が、ネットを腐らせてんだよ。
「尿と言いたいだけの変態」? 笑わせるな。
俺が言ってるのは「放尿」じゃねぇ、「自己放尿」だ。
つまり、己の未熟な感情と妄想を垂れ流して悦に浸る、知性の退行現象のことだ。
お前の反論はまさにその典型例で、論理の欠如と羞恥心の欠如のダブル放尿だよ。
俺が論理の講釈をしてるように見えるのは、お前が論理的思考という概念を理解できてねぇからだ。
暗闇の中で光を見た猿が「火だ!魔法だ!」と叫ぶのと同じ構図だ。
そもそもな、「尿」という単語に反応して話の本筋を忘れる時点で、お前の知性は議論のテーブルにすら着いてねぇ。
俺はそれを冷徹に観察して、拭く気もねぇ。
「包丁で人が殺されたからと言って、それは包丁の使い方が不味かっただけであり、包丁自体に殺傷力があったことは問題ではない」
「銃で人が殺されたからと言って、それは中の使い方がまずかっただけであり、銃自体に殺傷力があったことは問題ではない」
うむ、何が違うんだろうね?
包丁規制反対かつ銃規制賛同という異常者の主張はおおむねこうだろう。
「包丁は料理に使うものだ。でも銃は殺人に使うものだ。目的が違う」
うん?
もしも身近に銃があったら、たとえばベランダに巣を作ろうとする害鳥や家に突然現れたクマを殺すのにだって使えるだろう。
「ほら、結局銃は殺しの道具じゃないか?」
そんな声が聞こえてきたね。
でもそれなら殺虫剤や殺鼠剤なんてまっさきに規制されなきゃおかしい。
「殺すのに使う道具である」ということは、規制さえる理由になんてならないんだよ。
銃規制派は自分が様々な矛盾を抱えていることに気づいていない。
同僚の中国人を影で批判しながら、BLMのニュースを聞けば未だに黒人差別がまかり通ることに怒り狂ったりする人種だ。
自己の矛盾に気づくためには最低限の論理的思考力が必要で、考えてるふりしか出来ない人間は永遠と思い込みの檻の中で過ごすのである。
マジな話、「ひらめき」みたいなものだけで生きている人は多い。どういうことかというと「考える」という習慣がないんだ。とにかく直感的で、物事をパッと見たときに得られる直感だけを頼りにして判断している。そんな人はマジにいる。そして恐ろしいことに、そういう生き方でもある程度は普通に生きることが出来るんだ。
まず、彼らは資料を読まない。企画書だろうが仕様書だろうが、最初の数行を見ただけで「あー、わかったわかった」とか言って勝手に解釈する。で、後から全然違う話をしてきて、「え、そんなこと書いてありました?」って平気で言う。頭の中では自分の直感が正解だと確信してるから、文字なんてどうでもいいんだ。
次に、議論ができない。論理的に積み上げて結論を導くってことが理解できない。「なんとなくこっちがいい」「直感的にこれは違う」「雰囲気でわかる」。こういう言葉しか出てこない。根拠を求めると「感覚でしょ?」って逆ギレしてくる。
直感で相手の感情を読むのは得意だから、上司に気に入られるのが上手い。会議でも的確な場面で「そうですよね!」って相槌を打って、味方についてくれそうな人を嗅ぎ分ける。論理的思考はできないが、政治的思考は天才的だ。
さらに、失敗しても責任を取らない技術も身につけてる。「直感だったから」「なんとなくそう思っただけ」って言い訳すれば、周りも「仕方ないか」って思ってしまう。論理的に組み立てた提案が失敗した時より、責任が軽く見られるんだ。
恐ろしいのは、こういう人間が管理職になることだ。部下が論理的に説明しても「で、結論は?」「要するに何?」って直感レベルまで話を単純化させる。複雑な問題も「やってみればわかる」で片付ける。
でもな、もっと恐ろしいことを教えてやる。
こういう直感人間の方が、実は成功してることも多いんだ。論理的に考えすぎて動けなくなってる俺たちを尻目に、彼らは「なんとなくいけそう」でどんどん前に進む。分析に時間をかけてる間に、直感で動いて結果を出してしまう。
結局、世の中の大部分は論理じゃなくて感情で動いてる。顧客だって、商品の機能より「なんとなくいい感じ」で買い物してる。そういう世界では、直感人間の方が圧倒的に有利なんだ。
俺たちみたいに考えすぎる人間は、彼らを馬鹿にしがちだが、実際は負けてることの方が多い。論理的思考が必要な場面なんて、仕事全体の2割もない。残りの8割は直感とコミュニケーションで決まる。
だからこそ腹が立つ。頭使って考えてることが、結局は無駄だったりする。直感だけで生きてる奴らが、のうのうと成功してる現実を見ると、自分が馬鹿みたいに思えてくる。
でも諦めるな。論理的思考ができる奴は、最終的には直感人間より深いところで価値を生み出せる。ただし、それを相手に伝える技術も身につけろ。直感レベルまで落とし込んで説明する技術をな。
論理的思考が身についてる。
バブルや氷河期って「偉い人がこう考えてるらしいですよ」で終わってるんだよね。
自分の頭で考えてない。
それを本人たちは「決裁権者の意向を反映している」と綺麗な言葉で着飾ってるけど、実際には「日頃からハンコ押す人に判断投げてるから、ハンコ押す側も自分の納得最優先するようになってる」というだけ。
つまる所、分業の仕方が歪んでるんだよね。
下の連中には事務作業と情報収集以外やらせなず、判断・決裁・組み立てを全て上がやっていくという仕組みになってる。
でも年功序列で下と上が切り替わるから、業務内容にある大きな断絶をまともに乗り越えられずに多くの人が「雰囲気で判断」という状態になり、下も「上は雰囲気で判断している!それが正しいんだ!」で突き進む。
歪なんだよね。
バブル・氷河期の連中はそれを上意下達の健全な封建社会だと思ってるけど、Zの連中はそれが単なる「分業に失敗した雰囲気社会」でしかないことを見抜いてる。
俺みたいにフリーランスで全部自分でやってる人間からすると、Zみたいな考えの方が結局は健全なんだってことがよく分かるよ。
若さゆえの過ちみたいのはチラホラ起こすけど、論理的に考えられるから「いや、それはAがBしてCがカッパでデルタだから」ってツラツラ説明すればすぐに理解してくれる。
これが氷河期より上の連中だと「そんなことはない!俺の考えは正しい!なぜなら1+1=100だからだ!俺の計算は正しいんだ!」みたいな感じで話を聞かないからな。
※ゆとり世代は中間世代なので氷河期よりとZよりがランダムに存在してるのでこの話題から除外しました。本当に半々ぐらいでいるから「コイツ・・・どっちのタイプだ?」って雌雄判別から始めることになるのがダルいなって感じる
甘利先生のインタビューで「言語モデルで論理的思考できると思う?」って聞かれて、先生が「推論の循環で、もしかしたらできるかもね。すでにそれっぽいのあるよね。すごいよね」って直感を語ってたんだよね。
それ聞いて改めて思ったわけですよ、「いやいや、はてブのパソコンの大先生たちが無理ってドヤ顔で言い切ってるの、何なん?」って。
どんなトンデモ主張でも、それっぽい理屈は簡単に作れてしまう。
最近のSNSを眺めていると、そのことを痛感する。集合知が発展しすぎて、とんでもない方向に暴走しているのを日常的に見かけるからだ。
大勢の人が見ていれば、必ず一人くらいは「それっぽい詭弁」を思いつく。だから、ただの感情論でもSNSを少し探せば、自身の幼稚な感情を正当化してくれる理屈や反論が簡単に見つかってしまう。
けれど、それを詭弁だと見抜いたり、納得できる反論を組み立てるためには、正しい知識、論理的思考、アカデミックな議論の経験、深い思慮とリテラシーが必要になる。そうしたものを本当に身につけている人は、一握りにも満たないだろう。現に、自分自身も振り返ると、自分の感情論を補強する理屈を信奉している時がある。
そう考えると、感情論が優位になるのは当然のことだと思う。やっぱり、民主主義とSNSって本当に相性が悪いなぁ、、、、、。
リングに上がってるという認識はあるだろあんだけ相手をアスペだのダブスタだの言って論理的部分に突っかかってるんだから
それでも認識がないなら私みたいにはっきりそう言えばいい。
そうでなきゃ暫定的にリングに上がってるとみなされて勝ち負け判定されてもそこに文句を言うのは筋違いだと思う
→自分の方が正しいと思ってることに対して第三者からも同意が得られれば溜飲が下がる
否定されることも覚悟の上だしその場合もそれが意見として参考になって自分の論理的思考力にフィードバックされるんでデメリットばかりじゃないと思ってるから。
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レッテル張りとかしてきたのは、論理では言い負かせないからそうしたという根拠(裏付け)になると思ってるから、論理で言い負かせなくなった=負けたのかなと疑問を投げかけた。
わざわざ疑問を投げるまでもないのではないかと思うのかもしれないが、私は私で自分の論理的思考にそこまで自身がない(からこそなんらかのメタ的な要素を根拠に相手が負けたと認定したがる節がある)ので、第三者に議論そのものを見てどっちが論理的に正しいことを言ってるか判定を仰いだ。
まるで痛い所突いたみたいに言ってるけど別に思うところはないよ
だって人間常に「勝ち」続けられるわけじゃない、そんなの当たり前のことじゃん。
こっちは少なくとも5chでの当該議論についての勝敗についてしか関心がない。全てにおいて勝とうと関心持ってたらそれこそ疲れるだけで不毛だよねって話。
だから増田での「発言」が負け犬だろうがはあそうですかって話だよ。別にいいんじゃない。勝とうと思ってないし。
自分は自分が勝とうと思ってるところで負けてるかもしれないという不安があるのが嫌なんだよ。それを払しょくしたくて第三者に聞くことがあるわけだな。
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Twitterで「エレベーターで女1男1の所にもう一人男が乗ってきたら、客観的な安全性はむしろ上がる」っていうポストが流れてきたんだよ。
ロジックとしては当然じゃん?
見知らぬ男が犯罪者である確率は低い。日本だと0.22%らしい。
男が2人になった時、その2人ともが犯罪者である確率は0.05%弱くらいじゃん。
むしろ、後から乗ってきた男が善良な市民である確率の方が圧倒的に高いわけで、そいつは万が一の時の抑止力や目撃者になる。だから、女1男2の方が安全。
でも、Twitterじゃポストが炎上してたし、危険が倍になるって意見が賛同されてた。
これもう無理じゃん。
こっちはデータと確率っていう、客観的な指標で「安全」の話をしてるんだ。
でも、彼女たちはそれを一切理解しようとしない。できないのかもしれない。
彼女たちの思考回路は、マジで「男が1人、はい危険。男がもう1人、はい危険が2倍!」という、ただの足し算なんだ。確率という概念が存在しない。
こっちがどれだけ具体的に言及しても、向こうは感情論ですべてを塗りつぶしてくる。
で、なにか問題が起これば、無関係な男性を問題視して突っ込んでくる。
俺は成長を拒んでいる、全力を出すことを日々拒んでいるのに、
俺の下唇のちょうど食物が当たる辺りにできた口内炎は、日々成長し全力で俺を痛がらせる。
『火垂るの墓』は本当に素晴らしい映画だった。芸術作品として至上のものだと思った。
『HomeSweetHome』が節子の一人遊びに重ねて流れてくるシーンなんかはどうしようもなく素晴らしいと思った。
ただ、涙は出なかった。涙が出ること=真に感動することとは昔から信じてないし、むしろ安易に泣く奴を軽蔑すらする。ドライアイなだけかもしれない。ドライアイの奴が泣いている人を蔑んでいるのは非常に滑稽だ。口内炎を誤って噛んでしまったときに滲む涙をみて笑ってくれ。
成長だ、成長だ、と世間は囃し立てるけれども、俺は成長を拒んでいる。天邪鬼で妙なプライドがまた変なところで顔を出すのだ。
社会に身を預けて、俺も心置きなく成長したら良いのに、それを拒絶している。
心置きなく成長するには、「ポジティブな鈍感さ」が不可欠だと思う。馬鹿になれること、自分に無いものをはっきりと認め自分を適切に評価し、欠点を補強し続けること。
そこに感覚が入ると、自分に無駄な足枷を付ける。欠点はある程度判っていながら、そこから先、自分の内面を掘り進めることを止めてしまう。それは怖いからだし、臆病だからだし、自分はもうちょいマシだと思い込みたいからだ。
「自分はもうちょいマシ」で邁進すると、人当たりはまあいいかもしれないし、世渡りはある程度出来るだろうが、ずっと人を見下してしまう。
俺が人より感覚が鋭敏だ、ということを言いたいのではない。論理的思考を放棄し続けているのだ、と言いたい。感覚で日々の全ての選択を下し続けている。すると、それしか出来なくなる。社会的思考は鍛えられず、どうしてもそれが出来ない身体になってしまう。
そして、口内炎が身体をむしばんでいく。こうしている間にも下唇には痛みが走っている。この痛みを抱えながら寝るしかない。俺にはそれしかない。
鋼の錬金術師の錬金術って本物ですか?いや、漫画だっていうのはわかってるんですけど、魔法陣とか錬金術の仕組みとかよく出来ていて創作とは思えないです。もしかしたら真面目に錬金術を学べば私だって錬金術が使えるようになるんじゃないかなと思います。
特に印象的だったのは、等価交換の法則です。「何かを得るためには、それと同等の価値の何かを失わなければならない」という考え方、これって科学的にも正しいような気がしませんか?エネルギー保存の法則みたいで、とても論理的だと思います。
魔法陣のデザインも素晴らしいです。円形の基本構造に、様々な記号や文字が組み合わさって、まるで本当に何かの力が宿っているかのようです。作者の荒川弘さんは、実際に錬金術の歴史や記号を調べて描いたそうなので、もしかしたら本当の錬金術の知識が使われているのかもしれません。
錬金術の歴史を調べてみると、中世ヨーロッパでは本当に錬金術師がいたそうです。彼らは金属を変成させようとしたり、不老不死の薬を作ろうとしたりしていたとか。現代の化学の基礎になった部分もあるそうです。
もし錬金術が本当に存在するなら、学校の理科の授業で教えてほしいです。化学反応や分子の構造を学ぶよりも、魔法陣を描いて物質を変成させる方が楽しくないですか?きっとみんな真剣に勉強すると思います。
もちろん、鉛を金に変えるのは無理だと思いますが、物質の性質を理解して、新しいものを作り出すという考え方は、現代の科学技術にも通じるものがあります。錬金術の精神を学ぶことで、創造力や論理的思考力が身につくかもしれません。