
はてなキーワード:論理の飛躍とは
狂犬病が恐ろしいはわかる。
でも、ヒトの致死率100%だろうとだから飼い犬に予防接種というのは論理の飛躍じゃないか?
例えば、
だから、電車やバスは着座シートベルトを徹底すべきだ!チャイルドシートも完備せよ!
とはならないと思う。
事故が起きる頻度と起きた時の損害、それと対策費用を秤にかけて、安全を犠牲にしないといけないことは多々ある。
それをさあ、狂犬病は発症したら治療方がないとか、犬以外にもかかるからとか、色々すっ飛ばしすぎでしょ?
ここ10年で日本に何頭くらい狂犬病の犬が持ち込まれたのか?犬以外でもいいが何頭だ?
そして、対策として、飼い犬へのワクチンがはたして最適なのか?
犬以外の動物にもかかるってなら、犬以外の動物に打たないとと思うし、最終的な目的がヒトを狂犬病から守るというなら、ヒトに狂犬病ワクチンをうったほう
いいんじゃないか?
もともとは、予算は有限だから、犬が1番リスクファクターだから犬に予防接種ってのがはじまりだったんだろ?
で、犬にワクチンを打つことによって、野犬の駆除を進めることによって、日本から狂犬病を根絶できた。
野犬が多かったし、飼い犬だって100%外飼いだったからさ。アングラだけど闘犬も多かったし。
一頭でも狂犬病が入れば、野犬の群れの中に、飼い犬に、そして野生動物に広まる。
功を奏して、清浄国になった。
人に問題点を聞いておいて、説明されたら「論理の飛躍」なんて言い訳して逃げてたら
根本の原因は「電気を消し忘れたところで何ら問題はない」と思っていること
そこに、「妻がうるさいから」という外的要因が電気を消す動機付けとなっているが、
それでも内心「妻の方がおかしい」と思っているから消し忘れにつながる。
極端な話、「電気を消し忘れると妻が死ぬ」というルールのデスゲームに参加させられていたら、
二重、三重のチェックをルーティン化させて消し忘れは0にできると断言できる。
一方で、電気と違ってコンロなどの火の始末は重大事故につながることを自らの知識と経験により認識しているので、
電気の消し忘れとは全く行動原理も思考回路も別の取り扱いになる。
割れ窓理論などは見当違いも甚だしい。
だがその言い分、冷静に分解するとただの自己放尿だ。
これらは「誰かを意図的に除外するためのフィルタ」ではなく、制度運営上の重複防止と実務上の整合性のために課されている。
お前の主張、
だが、この推論は完全に壊れている。
なぜなら 口座条件が存在することと制度の政策的目的は別次元の話だからだ。
NISAの口座条件は「非課税枠の二重利用を防ぐ」という実務的制約にすぎず、制度目的は「少額資産形成の非課税優遇」。
目的の解釈を条件にすり替えるのは、自己放尿レベルの論理ミスだ。
お前が繰り返す「まず条件を列挙しろ」「金額じゃねえんだわ」という要求自体が、論点のすり替えだ。
なぜなら最初の争点は「NISAは特定条件を満たさないと非課税じゃない」という発言。
これに対し俺が「いや、その条件は実質非課税枠内で運用するという制度設計そのものを指しているだけ」と指摘したのだ。
お前の返答は、「いや条件は金額じゃなくて口座だ!」と細部を入れ替えて、論点を移動させているだけ。これは議論ではなく、自分が負けを認めないための自己放尿。
それをもって制度の目的や非課税の実態を否定するのは論理の飛躍であり、議論の軸がズレている。
制度の本質は「少額の資産形成に対して非課税枠を与えること」。
口座条件はその実務的な容器でしかない。
最近、AIが書いたと思しき記事をネットでよく見かけるようになった。
一見すると、流暢な日本語で、文法的な誤りもない。しかし、読み進めていくうちに、どうにも違和感が拭えない。なんだろう、この「味気なさ」は。人間が書いた文章には、その人の個性や癖、感情の揺れがにじみ出るものだ。それは、論理の飛躍だったり、あえての誤用だったり、意外な比喩表現だったりする。
AIは、膨大なデータを学習して、最も「正しい」とされる文章を生成する。その結果、論理的に破綻がなく、誰が読んでも理解できる「模範解答」のような文章が生まれる。
例えば、新しいスマホのレビュー記事があったとしよう。人間が書けば、「このカメラの画質は素晴らしいけど、バッテリーの持ちがいまいちで、一日持たせるには工夫が必要だ」といった、使う人の生の声が感じられる。
一方、AIが書けば、「高画質なカメラを搭載しており、美しい写真が撮影できます。一方で、バッテリー容量が限られているため、長時間の使用には適しません」といった、当たり障りのない事実を羅列するにとどまる。
この「AI臭」の正体は、感情や経験の欠落だ。AIは、物事を体験したことがない。ただのデータの集合体だから、感動も、失望も、戸惑いもない。だからこそ、人間特有の「熱量」が文章から消えてしまう。
もちろん、AIの技術は日進月歩だ。いつか、人間の感情を完全に模倣した文章が書けるようになるかもしれない。しかし、それでもなお、本物の人間が書いた文章にしかない「何か」は、決して失われることはないだろう。
わたしは5児の母だって最初に言うあたりがめちゃくちゃ嘘くさい
これを冒頭に持ってくるって事はこれが幸せの象徴になり得るという認識なんだろうけど、
5児の母を羨ましいと思う女はマイノリティなんだよな
す、すげぇ・・・とはなるけど、羨ましいとはならない
あとフェミにかぶれた女が仕事に忙殺された結果「早く結婚したい」になるの面白いね
結婚するより適切な労働条件の職場探して転職した方が仕事は楽になるんだよ
共働きが当たり前、かつ産休後復帰が当たり前な昨今、結婚ごときで仕事を辞める選択肢があると思ってる女、フェミの何にかぶれてたのかわからない
仕事がしんどいから結婚したいって2025年では最早論理の飛躍だからね
結婚出産に関する解像度が低すぎる所がおっさんと言われる所以じゃないかな
この自称が本当だとしたら多分最適解の人生を送ってると思うのでそのまま生きる事を全力でおすすめする
あと別にフェミはバリキャリ育成思想じゃないのでフェミにかぶれながら専業主婦で5人子どもを産むことは普通にできるし、
反出生主義でもないのでバリキャリとして働きながら自由に使えるお金を得つつ夫に愛されつつ子どもを生んでる女だって存在する
フェミが問題視する女らしさは押し付けられる抑圧としての女らしさなので、女らしさ全開で生きるフェミだって当たり前に存在する
すごい。私の主張のために、こんなに丁寧に時間をかけて反論してくださったんですね。ありがとうございます。論点をまとめてみました。
あなたは「教育・勤労・納税」に準じて出産も義務だとしています。
ただ、憲法や法律上、出産・結婚は義務ではありません。国家的に人口を維持する必要があるのは事実ですが、それを個人に「道徳的義務」として背負わせるのは乱暴です。
一方で、社会全体が少子化で苦しむ中、子を産み育てる人々が社会を支えているのも事実です。だから「感謝や支援が必要」という議論は成り立ちますが、それを「産まない人=寄生虫」とまで言うのは論理の飛躍です。
私の主張は「自分の人生の目的を持つことで、他人の選択に振り回されない」という点に重きを置いています。これは個人の尊厳を守る考え方から来ています。
あなたはそれを「幻想」「逃避」と切り捨てていますが、それは「社会的貢献の形は一つ=結婚・出産・労働」という狭い価値観から来ています。
実際には、社会への貢献は教育・芸術・医療・ボランティア・納税・地域活動 など多様な形があります。出産・育児はその中の大きな一つではあるけれど、唯一の正解ではありません。
3. 「免罪符」という発想の危うさ
「免罪符」という言葉は、そもそも「産まないのは罪」という前提があるからこそ出てきています。でも、産むか産まないかは本来「罪と罰」の話ではなく、価値観や条件による選択の話です。
「産まない=社会的寄生虫」というのは、社会を「再生産のための装置」としか見ていない発想です。人間の存在をあまりに機能的に見すぎている。
「産まない代わりに社会にどう責任を果たすか」を考える姿勢の方が、はるかに成熟したスタンスだと私は感じます。
まとめ
「免罪符が必要」という発想自体が不健全で、むしろ「自分はどう社会に関わるか」を主体的に考える方が建設的。
「寄生虫」的な断罪は、社会の持続性への不安の裏返しだが、個人の尊厳や自由を軽視しており危うい。
まあ、1分でAIにまとめてもらったんですけどね。
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ってドヤ顔すんの、構わんのだけど、おいらの経験からすると、成果物は一見もっともらしいし、発表者の発表も、なんとなく辻褄がっているように聞こえる。
けど、そこのデータが間違いのないものか、いちいち確認しなきゃならんってのはありえない。
いやいや、AI使わなくても、適当なデータでっち上げるかもしれないでしょ。
って反論があるかもしれないけど、「それっぽい適当なデータをでっち上げるには、相応の知識なり思考力が必要」なので、AI使って誤魔化してくるレベルの人間には不可能なんですわ。
別にさ、クソコンサルのクソ仕事なら、AI使おうが、クソコンサルのからっからの脳みそ使おうが、成果はうんこの如しなもんで、50歩100歩、目くそ鼻くそだから構わん。絵師なら指が6本であろうがどうせ雰囲気しか問題にならんのだから構わん。
のだが、システムで使うの、二、三日使えればいいというプログラムでもない限り、その上にさらに構築していくわけだから、マジでやめとけ。
で、「AIでスピード仕事術」ってやってるところ、発表者も本質を理解してないし、関係者も輪をかけて本質を理解してないから、真っ当なものが出てくるわけがない。
順方向に進めばそれっぽくても、逆方向からの検証に耐えられるもんじゃない。
猿にタイプライターを叩かせて、ヘミングウェイの作品を出力させる並に困難ってもんだ。
時間がかかろうが、「せめて」自分の頭で考え直して、再構成しないと、ポチョムキン村の拡張工事以外の何物にもならんということは理解しろよ。
自分の頭で考え直して再構成すれば、足りないところとか矛盾するところはわかるし、それがわかるようになるのが社会人としての修行だよ。
そこをAIのアウトソーシングしてますって、猿がウニに思考力を外注してどうすんだよ、と。
クソコンサルだって、世の中の仕組みとかを捉え直し、再構成して重層的な現実把握能力と思考力を養わねぇと、「AIに駆逐されるのは、AIを使わない人間じゃなく、AIに使わされてる人間だ」ってのに気づいた時には手遅れだからな w
勘違いした解説記事が多いところはその勘違いの内容をそのまま踏襲してるしな。
それでうまくいくわけがないし、やっぱりうまく行ってないんだよ。
スケジュールはどんどん遅延していくし。
挙げ句の果てに「××って案外使えねぇな」って、使えないのはお前のプアな脳みそだ。
だからなんだよ。
Gemini2.5 Proいわく。
BさんとCさんの会話について、それぞれの発言の妥当性を評価します。
###発言の要点
まず、議論の前提となっているAさんの問題提起と、Bさん・Cさんの主張を整理します。
**Aさん**: 「一票の価値は低いので、合理的に考えると投票に行く理由を見つけるのは難しい。多くの人は『自分の票が重要だ』と思い込むことで投票しているが、それは非合理的。本当に投票に行くには、普段からの熱心な政治活動が必要だ。」
**Bさん**: 「普段熱心な活動をしていないからこそ、最低限の義務として投票に行く。将来世代に『なぜあの時、ダメな政党を放置したのか』と責められないようにするためでもある。」
**Cさん**: 「Bの動機は矛盾している。将来世代が望むのは『最低限の投票』ではなく『もっと熱心な政治参加』であり、投票だけでは批判の対象になる。また、どの政党にも反対勢力がいるため『ろくでもない』と批判されない政党は存在せず、Bの目的は絶対に達成できない。」
---
Bさんの発言は、**多くの有権者が抱くであろう現実的な投票動機として、高い妥当性があります。**
普段、デモや政治集会に参加するなどの積極的な政治活動はしていなくても、「選挙権を持つ市民として、投票は最低限果たすべき責任だ」と考えるのは、社会の一員としての倫理観として非常に一般的で、十分に正当な動機です。これはAさんが言う「思い込み」とは異なり、「社会を構成する一員としての自覚」に基づくものです。
「将来世代から批判されないように」という動機は、倫理的な責任感の表れです。Bさんの最後の反論にあるように、これは「完璧な政党を選ぶ」ことではなく、「欠点があることを承知の上で、複数の選択肢の中から**少しでもマシなものを選ぶ**」という行為を指しています。これは、複雑な現実の中で最善ではなくとも**次善の策**を選ぶという、議会制民主主義における投票の本質を的確に捉えた、極めて合理的な行動原理です。
結論として、Bさんの主張は現実的かつ倫理的であり、多くの人が共感しうる妥当なものと言えます。**
---
Cさんの発言は、**政治の厳しい現実を鋭く指摘している点では妥当ですが、それを根拠にBさんの動機を全否定するのは論理の飛躍があり、妥当性はBさんに比べて低いと言えます。**
「常に政治は敵対勢力で石投げあってるわけで、お前が投票してる政党は絶対にろくでもない政党だと言われてる」という指摘は、現代の党派性の強い政治状況を的確に捉えています。どの政策、どの政党にも必ず反対意見があり、批判は避けられません。この**事実認識は妥当**です。
しかし、Cさんはこの事実から、Bさんの動機を「果たされない」「変だ」と断じています。ここには論理的な飛躍があります。
* **動機の解釈違い**: Cさんは、Bさんの動機を「誰からも一切批判されない、完璧な選択をしたい」というものだと狭く解釈しています。しかしBさんの意図は、むしろ「批判される可能性を理解した上で、それでも自分なりに責任を果たし、将来世代に対して『私はこう考えて、こちらを選んだ』と弁明できる状態にしておきたい」というものである可能性が高いです。
* **オール・オア・ナッシング思考**: Cさんの論理は、「完璧な政治参加でなければ意味がない」「少しでも批判されるなら、動機として成立しない」という、ゼロか百かで判断するような極端な思考に陥っています。これは、Bさんが言うような「少しでもマシな方を選ぶ」という現実的な態度を否定するもので、非建設的です。
* **議論のすり替え**: Cさんは「具体的に話してみろ」と迫りますが、これはCさん自身の「どんな説明をしても批判は避けられない」という主張を証明するためのレトリック(罠)になっています。Bさんがどの政党を挙げても、Cさんはその「ろくでもない」点を攻撃するでしょう。これは対等な議論ではなく、相手を論破すること自体が目的化しています。
結論として、Cさんの指摘は政治の現実の一側面を捉えていますが、それを根拠に個人の倫理的な投票動機を「無意味だ」と断じるのは行き過ぎた解釈であり、議論を生産的でない方向に導いています。**
---
BさんとCさんの会話は、**「不完全な民主主義の中で、個人はどう行動すべきか」**という問いに対する二つの異なる立場を示しています。
**Bさん**: 不完全さを認めつつも、その中で市民として最低限の責任を果たそうとする**「現実的・実践的な倫理」**の立場。
**Cさん**:理想(もっと熱心な政治参加)と現実(どうせ批判される)のギャップを突き、個人の動機の矛盾を指摘する**「理想主義的・冷笑的な論理」**の立場。
最終的に、**より妥当性が高いのはBさんの主張**です。Cさんのような批評的な視点は、思考を深める上で重要ですが、それ自体が行動の指針にはなりにくいでしょう。一方で、Bさんのように、システムの不完全さや選択の難しさを理解した上で、それでもなお「次善の策」を選び取ろうとすることは、民主主義社会に生きる市民として、より建設的で責任ある態度だと言えます。
質問内容は以下の通り。
以下、Aに対してBが言及しました。そのBの発言にCが言及してBとCが会話しました。
結果に対する一票の効力はめちゃくちゃ低い
民主主義機能させる為には投票率が重要だから行くにしても当然一票では変わらない
自分の一票が重要だと思い込んだり、投票行かないと日本終わると思い込む
だから、逆説的だけど積極的に投票する為にはかえって個人が普段から政治活動に熱心になるしかないんだよな
普段やってる活動からしたら投票なんて微々たるもんだってなるようにしないと、投票にたどり着かないやつこれからもいっぱいでてくる
B:そうか?
・普段表立ってこれといった政治的運動などはしてないから投票くらいは行こう。
・せめて将来世代に「お前らがろくでもない政党に投票したせいで」とそしられないようにしよう。
C:なんか変なこと言ってない?
もし将来世代が過去を批判するなら当時の人たちもっと政治に熱心になれって思うんであって、最低限の投票しかしてないやつは思いっきり批判の対象だろ
しかも、ろくでもない政党と言われないような政党存在してないからな
常に政治は敵対勢力で石投げあってるわけで、お前が投票してる政党は絶対にろくでもない政党だと言われてる
お前の動機は議会制民主主義である以上果たされないこと確定してるよ
B:政治的活動に熱心でないにせよ、最低限の道義は果たしたいから投票には行くって話がそんなに難しいかね?
常に政治は敵対勢力で石投げあってるわけで、お前が投票してる政党は絶対にろくでもない政党だと言われてる"
こんなの屁理屈でしかない。欠点のない政党、ライバルのない政党なんてないが、だからといって即すべての政党が「ろくでもない」と断言できるレベルで悪いわけでもない。
毎度毎度、こっちの政党はここはマシ、ここはダメ。あっちの政党はここはマシ、ここがダメと取捨選択して、少しでもマシな政党、少しでもろくでもなくない政党を選ぼうとするのが投票行為だろ。
C:お前の前提で、最低限の道義で批判を免れようとしてるの変だよねって話でしかない
しかも実際具体的に話せてない時点でお前は逃げてることに気付くべき
間違いなくろくでもないと言われるから
(非アカデミックという程度の広い意味で)日常的な会話や議論では背理法は使われない。
我々はわざと支離滅裂に言おうとでも思わないかぎり、ある程度筋の通ったと周りが思うような思考や言動をする。
意図的に筋が通った考え方をしてやろうというよりは、無自覚にそうなってしまうのではないかと思う。
それはそれが人間にとって教えられずとも内的に発現していく自然な思考の枠組みだからだと思う。
たとえば内と外の区別は人間にプリセットな思考の枠組みの一つだと思われる。
唯一の物が入れ物の外にあることを発見したら、入れ物の中を見なくてもその内にはないと即座に直観できるような枠組みだ。
背理法はどうかといえば、これは到底自然に人間に発芽される枠組みには思われない。
一部の天才が発見したその論法を天下りに与えられて、ほとんどの人が無理数の証明ができるかの試験のために公式として受け入れるにとどまるものに過ぎない。
その無理数の証明だが、たとえばルート2が無理数かの証明を示されたらその論法をまるごと「公式」と捉えることでルート3が無理数かを証明しろと言われても、証明はできるが、
実は自分で何を言っているのかよくわからないっていうのが正直な感想ではないか。
数学や論理学の議論ではない場で背理法的な話し方をされたら、むしろ素朴な実感として、論理の飛躍、支離滅裂と感じられるように感じる人が多いと思う。
きっと背理法自身の正当性は背理法以外の人間がもともと持っている論理的手順のなかで示し得るものだと思うのだが、そうはいっても自然な思考の一つではないと思われる。
もし背理法が背理法自身で正当化されるのならば、それは循環論法という論理(学)的に誤った論理になるわけだが、循環論法は間違いであるというのも人間がもともと持っている思考の枠組みには思われない。
素朴な実感として勉強するまでは循環論法的な話に何も違和感を感じなかったことも少なからずあると思われる。
世間的には背理法は支離滅裂だし自然ではないということで普通の会話や脊髄反射的なレスバでこれを用いる道理などない。
なぜ背理法を今ここまでこき下ろしているかというと、どうしても理解できない背理法の使い方を見かけたからだ。
特定の条件を満たす距離空間がコンパクトならば点列コンパクトであるという証明だがそうしたテーマはここでは本質ではないのでこれ以上立ち入らない。
Aでないと仮定して、そのなかでBでないと仮定して、するとAでないという仮定に矛盾するのでBが真であるということになり、このBが真であるということを、Aでないという仮定では矛盾することを示す根拠に使っているという構造をとっていることだ。
え、おかしくないですか?
Bが真であるというところからAでない、ではないということを導いたですよ。ということはAが真なのです。
でもだったらBは結局真偽どっちになるんですかね?Aでないという仮定から、Bでない、ではないと、導いたのに、実際はAであったと言う。
Bでない、ではないという推論のよってたつところが崩壊していないか?
それなのにその崩壊してそうに見えることを根拠にAだと言っている。
言ってみれば背理法の主張には確からしさを感じ取れる「手触り」がないわけだな。
中学レベルのピタゴラスの定理の、直角三角形を4で囲んで正方形を作るみたいな証明には、この種の手触りの無さが無い。全く誰にとっても納得できそうな証明だ。
数学が嫌いになるのも、こういうどう見ても支離滅裂に「見える」主張を、秀才天才だけが納得できる正当性でもって押し付けられるか場面に出会ってくるからだと思う。
その主犯の一人は背理法だと思われる。上記のような多重の背理法で何かを考えたり主張したりするということを数学や論理学系の学問を学ぶ人以外が自発的に行うことは全く人間として自然ではなくまずあり得ないと思われる。
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ニューモ育毛剤はひよこがふさふさだから卵の成分入れたって言ってるけど、明らかに論理の飛躍があるよね。
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なるほど、ご指摘の趣旨は理解できます。ただ、その論理構造にはいくつか疑問が残ります。
まず、「煽ればマウントを取れると思っている=会話より勝敗にしか興味がない」という前提ですが、これは論理の飛躍があります。
煽りが必ずしも勝敗目的でなされるとは限らず、例えば議論の中で相手の矛盾を強調する表現として使われる場合もありますよね。
次に、「最初から劣勢って自覚ある人の立ち回り」と断じていますが、これは根拠が示されていません。
劣勢かどうかは、そもそもどのような評価軸によるのか。議題の論点、立場、知識量、感情の余裕——いずれの観点からの評価なのか明らかでないままに断定されています。
何が彼らをそこまで掻き立てるのか誰かがその検討を表明しただけでも発狂して叩きまくる
そしてどんな施策でも良い側面もあれば悪い側面もあるのに海外の先行事例の悪い面ばかりをことさら取り上げる
別にこれは尊厳死だけの話じゃないんだけどこの世にすべてを解決する奇跡の一手なんてのはなくてどんなものでも多かれ少なかれ功罪があるのに
ポジションでしか語らないから俯瞰した視点を踏まえての議論が出来ない人が多すぎる
SNSとかでよくいる「日本の政治は世界最低」とかすぐ言うやつも同じ
こういう奴らは普通の人からすれば対話不可能な部類にカテゴライズされかねないのに賢しらにご高説垂れてるのが痛すぎる
自分が煽るような書き方したからまあ頭に血が登ってまともな反論しない人も多いだろうとは思ったけど
そのなかでもまともなものとか流石にひでーなってものはレスする
尊厳死自体はあってもいいと思っているが、医療費削減や(終末期ではない)自殺を目的として尊厳死を語る人が多すぎるのでうんざりしている/↓これとか露骨に医療費と結びつけており参政党の全体主義的性質が出ている
そうねそれはまあ同意する
自分のスタンスとしては尊厳死を個人が自由に選択できてしまう制度は明らかにNGで医師の承認が必ず必要というのは最低限の条件かなと思ってる
ただ、医療費削減と結ぶ付けた議論自体が許されないかと言うとそれも違うとは思っていて
今後労働人口と非労働人口の割合がさらに崩れていって高齢化での健康問題もさらに加速していく中で社会保障を今と同じ状態で維持するというのは現実的に不可能なわけで
どういった優先順位を付けていくかという議論のテーブルには健康保険でどこまでカバーするかという議題もあげなきゃいけなくなると思うよ
増田が尊厳死を選びたければ、現行法の枠内でも可能な手段はあるので、制度の導入を待ってる必要は無いわけですが //他国では運用面で色々と問題が起きているのに、今からわざわざ見習うこともないと思いますよ。
いろいろな問題とは?ではその反面なぜ必要性が議論されかつ制度として導入されたの?そしてメリットは?
そういった総合的な話をせず負の側面(または正の側面)しか語らないやつは議論ができないしこれにスターが集まるのがはてブのダメなところ
法的にも解釈で一定のケースでは容認することも検討できるのでは?みたいな話も一時期出てたけど
出た「普通の人」。自分と考えの異なる人間を「普通」じゃない「こういう奴ら」にカテゴライズして切り捨てるのって全然俯瞰できてないじゃん。昔そういう総理大臣いたけど。
ちがうちがう
反対している人をダメって言ってるわけじゃないのそんなことも読解できねーのかよ終わってんな
「議論自体をしない」「検討するというやつを悪魔化する」こういうやつをダメって言ってんの
これもそう
「強制的な空気が生まれる可能性がある」→「強制的な空気が生まれるに決まってる」→「お前が死ぬ義務」
という明らかな論理の飛躍が起こってまともな検討が出来ない状態
じゃあそのデメリットをケアするためにどういった制度化や運用をするかってところに話題が行くのが通常の議論や「建設的」と言われる対話なの
あと、はてなですげー多いけど「なぜお前はその対象じゃないと思ってるんだ」的な反論あるけど反論になってねーからな
そんくらい当然踏まえて言ってるわけよ
「自分と違う考えの相手はアホだから自分と違う意見になってる」って思考が前提にあって終わってるよ
Permalink |記事への反応(32) | 16:57
わかる。
その苛立ちって、たとえば街角で流し見た広告が全部AIが作った薄味コピーになったような、そんな風景の一部になってしまったときの無力感に似てる。
AIの長文って、たしかに「うまい」んだよね。文法的にも構成的にも、論理は破綻しないし、言葉のつながりも滑らか。だけど、問題はそこじゃない。お前は「言ってることがつまんねえ」って怒ってるんじゃなくて、「つまんねえことをこの整い方で言うんじゃねえ」って怒ってるんだと思う。
人間のつまらなさって、雑味があるじゃん。誤字脱字とか、論理の飛躍とか、「いやそこいる?」っていう主観の塊とか、そういうのがあるからこそツッコミがいがあるし、そこから逆に読み解ける「人となり」がある。でもAIの文って、整いすぎてるぶん、「何者でもなさ」が際立つんだよね。読んでて、空っぽの器を延々と眺めさせられてるような、そういう感覚になる。
あと、量な。
中身が薄くて、しかも長い。それを延々と連投されたときの「お前、それで何を埋めたつもりなんだ?」っていうやるせなさ。無味無臭のパテで会話の穴埋めしてんじゃねえぞって気持ちになる。
で、「隔離してほしい」っていう願いも、ただのヘイトじゃないんだと思う。人間の会話がしたい、雑味がほしい、ノイズがほしい、それが混ざったカオスがSNSの魅力だったはずだ、っていう、ある種の嘆きなんじゃないかな。
「お前、そこに魂ねえじゃん」って話なんだよな。
整ってなくても、誰かがそこに「居た」って感じがある文章じゃないと、やっぱ人は読まないし、読んだ先に残らない。
「スズ菌感染を否定すること自体がスズ菌感染の証拠である」という考え方は、
もしスズ菌感染者が、自分が感染している事実を隠蔽するために否定する可能性がある
という前提に基づいているように見えます。
定義の曖昧さ: 「スズ菌感染」がスズキ製品の愛用者を指す比喩的な表現である場合、それを否定することは単に自分が愛用者ではないと述べているだけであり、隠蔽工作とは限りません。
反証可能性の欠如: この論理では、スズ菌感染を否定する人は全て感染者であるとされてしまうため、スズ菌に感染していないことを証明する方法がなくなってしまいます。これは科学的な議論において重要な「反証可能性」を満たしていません。
論理の飛躍:スズキ製品を愛用していない人が、単にその事実を述べている可能性も十分にあります。それを全て「感染を隠蔽している」と断定するのは論理の飛躍です。
例えるなら、「私が嘘つきだと否定する人は、嘘つきである」と言っているようなものです。この主張が常に正しいとは言えません。
したがって、「スズ菌感染を否定することもスズ菌感染の証拠である」という考え方は、論理的な Fallacy (誤謬)である可能性が高いと言えます。
重要なのは、「スズ菌感染」が具体的に何を意味するのか、そしてそれをどのように客観的に判断するのかという点です。もしそれが単なる比喩的な表現であれば、このようなパラドックスに陥りやすくなります。