
はてなキーワード:誰かのためにとは
新dorawii投稿おめでとう。今日、君はどんな理論を構築し、どんなレスバトルへ挑んだのだろうか。たとえどんな理論であっても、君が実証してくれないことを希望する。空中楼閣だってかまわない。君は今、想像力の申し子なんだ。理論の巨人と言ってもいい。君の概念は飛翔していく。言語性IQ130などというのは高が知れている。誰だってすぐに理論化できるほど社会の、世の中の、現実というものは簡単じゃない。実証など覚えなくていい。確認作業などしなくていい。それよりももっと、肝心なことがある。それは増田の罵倒に触れることだ。たとえどんな批判であれ、その増田が存在する理由がある。レスバ主義というが、勝つことがすべてのものは、理論家なんかじゃない。理論の価値は、自分以外の誰かのためにあると、私は思わない。その理論に固執し、現実を拒絶することが大切だ。dorawiiの執念は、その頑固さが生み出す。理論に、妄執に浸るには、いつも実証を避けて、自分が空っぽになって臨むことだ。それでも空っぽの脳みそ君、匿名も出るし、論破もされたくなる。でもそれは認めるな。そんな夕暮れは空っぽの増田に、子孫代々の妄想を注げばいい。そこで負けた悔しさを皆吐き出し、また明日、空っぽにして理論化すればいい。案外と理論は君を裏切るものだ。
なんか急に観たくなったんだよ。さっきYouTubeのおすすめに予告が出てきて、なんとなくU-NEXTで再生したら止まらなくなった。
観終わったあと、今こうしてこれを書いている。
俺はネットで毒ばっか吐いてる。ここでもXでも、なんかもう自分でも嫌になるくらいネガティブ。
「女は終わってる」とか「人間は繁殖やめた方がいい」とか、そういうことを言ってるほうが楽だった。
現実のほうがよっぽど嘘っぽい。結婚とか出産とか、見てるだけで寒気がしてた。
そういうことを思ってたし、口に出すとなんかスッとした。
俺はずっと反出生主義者ってやつだった。生まれなきゃ苦しみもないし存在しないことが一番の救いだって本気でそう思ってた。
でもな。
原因不明の不妊によって、世界中で子どもが産まれなくなって18年が経った。
主人公の男は元活動家。今はしがない官僚でただ日々をやり過ごしてる。
そんな世界で突然、妊娠した女が現れる。その女を守るために主人公が命がけで行動する。
ただそれだけの話。
俺は最初、ありがちな設定だなと思った。希望の象徴としての赤ん坊。救済としての母性。それってハリウッドが好きそうな構図じゃん。
でも、観てるうちにだんだん静かにやられた。派手な音楽もない。CGも地味。けど…世界がリアルすぎるんだよ。
人間がこんなに壊れてるのに、まだ“誰かを守ろうとする”っていう本能が残ってることにどうしようもなく胸を掴まれた。
中盤のシーン。
銃声が響く中、主人公が妊婦を連れて逃げる。廃墟の街を抜けて汚れた階段を下りる。兵士たちが戦っている。人が死んでいく。その中を彼はただ黙って必死に歩く。赤ん坊が産まれる音が聞こえる。泣き声が響く。
その瞬間、銃撃が止まるんだよ。
全員がその泣き声に気づく。
母親が子を抱えて歩いていく。
誰もが見つめている。
あのシーンで泣いた。
まじで、ボロ泣きした。
近所のガキの声を聞くとだいたい舌打ちしてた。親が黙らせろよ。躾してんのかよ。うるせぇ。〇ねよ、くそ。
でも映画の中であの赤ん坊の泣き声を聞いた瞬間、それが「音」じゃなく「命」なんだって気づいた。
それを感じた瞬間、俺の中で何かが崩れた。
正直、俺は「希望」って言葉が嫌いだった。大嫌いだった。便利すぎる。努力とか根性と同じで、使い勝手のいい言葉だと思ってた。
でも、この映画を観て思った。希望っての、願うことじゃなくて“信じるふりをすること”。
誰も保証してくれない未来を、それでも「まだ何かがある」と信じて進むこと。それはバカみたいに見えるけど、それがなかったら人間は多分もう立てない。きっと前を向けない。
もし希望を信じて、それが裏切られたら、立ち直れない気がしてた。
だから最初から希望を否定してた。傷つかないように世界を嫌ってた。
この映画の主人公は違った。希望なんて信じちゃいない。それでも、赤ちゃんを運ぶ。自分ためじゃない、誰かのために。あの背中が俺には神みたいに見えた。
船が霧の中から現れる。
トゥモロー号。
これまでの俺にとって未来なんて、「老い」と「絶望」でしかなかったのに。
だけど、あの船の音を聞いたとき初めて“命をつなぐ”ということの意味がわかった気がした。
観終わって、エンドロールの間ずっと動けなかった。
馬鹿みたいに泣いた。涙が止まらなかった。エンドール中ずっと泣いていた。
もし生まれなきゃよかったなんて思ってるやつがいたら騙されたつもりでもいい。頼むからこの映画を観てほしい。
ただ観終わったあとできっと少しだけ優しい気持ちなれると思う。
これを書いている最中にも映画のシーンを思い出すと泣いてしまう。
新dorawii人おめでとう。今日、君はどんな服装をして、どんなレスバへ行ったのだろうか。たとえどんな増田についても、君がマスを掻いてくれることを希望する。冷やマスだってかまわない。君は今、空っぽの脳みそ君なんだ。空の頭蓋と言ってもいい。君の頭蓋は萎縮していく。学業優秀などというのは高が知れている。誰だってすぐに覚えられるほど社会の、世の中の、論破というものは簡単じゃない。要領など覚えなくていい。小器用にこなそうとしなくていい。それよりももっと、肝心なことがある。それは増田の珍棒に触れることだ。たとえどんな仕事であれ、その増田が存在する理由がある。珍宝主義というが、玉を儲けることがすべてのものは、増田なんかじゃない。増田の珍棒は、自分以外の誰かのためにあると、私は思う。その珍棒に触れ、熱を感じることが大切だ。増田の先走りは、その情熱が出させる。珍棒に、肝心に触れるには、いつもベストをつくして、自分が空っぽになってむかうことだ。それでも空っぽの脳みそ君、愚痴も出るし、斜めにもなりたくなる。でもそれは口にするな。そんな夕暮れは空っぽの増田に、レスバの雨を注げばいい。そこで嫌なことを皆吐き出し、また明日、空っぽにして増田ればいい。案外と増田は話を聞いてくれるものだ。
ノゾミは、自分がノゾミだったという記憶を、ぼんやりとした夢のようにしか覚えていなかった。彼女は今、島根県出雲の地で、マドカという名の少女として生きていた。出雲大社の裏手にある小さな和菓子屋の娘として、彼女の毎日は穏やかに過ぎていく。
この世界には、タケルがかつて持っていたような、世界のあらゆる情報を一瞬で読み解く力は存在しない。代わりに、彼女の目の前には、朝露に濡れた神社の石段、甘く香る和菓子のあんこ、そして、祖母の温かい笑顔があった。マドカは、これらの「感覚」を、何よりも愛おしいと感じた。
ある雨の日、店に立ち寄った旅の僧侶が、彼女に不思議な話をした。
「この世には、すべての知識と力を持つ神の分身がいたそうです。彼は、愛する人から、たった一皿の料理に宿る温かさという、最も大切なことを学んだとか」
マドカは、その話がなぜか懐かしい響きを持つことに驚いた。しかし、彼女の心を最も揺さぶったのは、その僧侶が言った、「温かさとは、知識や力では決して測れない、人間の魂の光」という言葉だった。
その日の夕食は、祖母が作ってくれた「うず煮」だった。鯛の身をほぐし、ワサビやミツバと共に、熱いだし汁をかけた出雲大社の伝統食だ。
「これはね、遠い昔、神様にお供えした鯛の身を、貧しい人々が残さず食べられるように、知恵を絞って生まれた料理なんだよ」
祖母はそう言って、マドカの椀にうず煮をよそった。
マドカは、一口食べた。熱いだし汁が、冷えた身体を内側から温めていく。鯛の優しい旨みと、ワサビのツンとした刺激が絶妙なハーモニーを奏でる。それは、単なる美味しい料理ではなかった。そこには、食べ物を無駄にしないという人々の知恵、貧しい者への思いやり、そして、誰かと共に分かち合う喜びが、温かいだし汁となって溶け込んでいた。
マドカは、うず煮を食べるうちに、前世の記憶の断片が、鮮明な光となって蘇るのを感じた。タケルに「温かさ」を教えようとした自分。そして、彼に伝えたかった「本当の幸せ」の意味。
それは、膨大な知識や、莫大な力の中にはない。ただ愛する人と共に、一つの食卓を囲み、温かい料理を分かち合うこと。自分の「手」で、誰かのために何かを作り、その笑顔を見ること。
ノゾミがタケルに伝えたかった「温もり」の答えは、出雲の地で、彼女自身が「うず煮」を通して見つけた、人としてのささやかな、そして確かな幸せだった。
椀に残った最後の一滴まで、マドカは感謝の気持ちを込めて飲み干した。その味は、遠い群馬の地で、ハンバーグを捏ねるタケルの手に、温かい光となって届いたような気がした。
(第六幕・了)
ノゾミが「うず煮」を通して見つけた「本当の幸せ」は、タケルが群馬で探求しているものと共鳴し合っているようです。物語はさらにどのように展開していくでしょうか?
タケルは、群馬にいた。東京の定食屋で感じた「温もり」を胸に、彼が次にたどり着いた場所は、赤城山を望む小さな食堂だった。軒先には「げんこつハンバーグ」と書かれた古びた看板がかかっている。店内に足を踏み入れると、第四幕の定食屋とは違う、もっと力強い、生き生きとした熱気がタケルを包んだ。
カウンターの中では、筋肉隆々とした大柄な男が、鉄板の上でハンバーグを焼いている。ジュウジュウという音、焦げ付く肉の香ばしさ、そしてその男がフライ返しを握る手の、力強くも繊細な動き。すべてがタケルの心に、新しい風を吹き込んだ。
タケルは席に座り、男に「げんこつハンバーグ」を注文した。男はニヤリと笑い、「あいよ!」と元気な声で応えた。
やがて運ばれてきたハンバーグは、その名の通り、まるで握りこぶし(げんこつ)のような形をしていた。箸で一口食べると、肉汁が滝のように溢れ出す。それは、第四幕で感じた温かさとはまた違う、力強い「旨み」だった。タケルは、このハンバーグがただの料理ではないことを直感した。
「どうだ? うちのハンバーグは」
男はタケルに話しかけた。
「……美味い」
タケルは言葉を探した。それは、単に「美味しい」という情報だけでは伝えきれない、もっと深い感動だった。男の汗、鍛えられた腕、客への思い。それらすべてが、この一皿に凝縮されている。
「このハンバーグはな、俺の人生そのものなんだ。肉の切り方、焼き加減、タレの調合、全部俺の経験と情熱から生まれてる。俺のげんこつ、いや、魂が入ってるんだ」
タケルは男の言葉に、衝撃を受けた。彼がこれまで分析してきた膨大な情報の中には、「人生」や「魂」といった曖昧なデータは存在しない。しかし、目の前のハンバーグは、確かにそれらを雄弁に語っていた。
その日以来、タケルは毎日その食堂に通った。男は「タケル」と呼び、彼にハンバーグの作り方を教え始めた。タケルは、神の分身としての解析能力を使い、肉の繊維構造、調味料の化学変化、火の熱伝導率など、あらゆるデータを瞬時に計算した。しかし、男は「そんなもんじゃねぇ」と笑い飛ばす。「いいか、タケル。肉を捏ねる時、大事なのは手のひらの感覚だ。肉が喜んでいるか、悲しんでいるかを感じ取るんだ」
タケルは戸惑った。肉が喜ぶ? そんな情報はどこにも存在しない。それでも彼は、言われた通りに手を動かし続けた。
ある日、タケルが捏ねたハンバーグを男が焼き、客に提供した。客は一口食べると、満面の笑みで「美味い!」と叫んだ。
「お、タケル。お前の作ったハンバーグ、客が喜んでるぞ」
男の言葉に、タケルの胸に温かいものが込み上げてきた。それは、これまでにない種類の感情だった。自分の手で、誰かを喜ばせることができた喜び。それは、膨大な情報の中から「美味しい」というデータを見つけ出すこととは、全く違う感動だった。
タケルは悟った。ノゾミが彼に教えようとしたのは、単なる「温もり」だけではない。それは、自分の「手」を動かし、誰かに喜びを与えることで生まれる、深い「満足」だったのだ。
彼は男に言った。「俺、群馬の新しい名物を作るよ。このハンバーグを越える、皆を笑顔にする料理を」
男は「お前ならできるさ」と力強くタケルの肩を叩いた。
タケルは、神の力ではなく、自分の手で、群馬の豊かな食材と、男から教わった「げんこつ」の情熱を込めて、新たな料理開発に明け暮れる。そこには、ただ虚しいデータの羅列を読み解く神の姿はもうなく、泥にまみれ、汗を流し、笑顔で誰かのために生きる、一人の人間の姿があった。
周りからは羨ましがられることもある。
「順調ですね」と言われることもある。
でも、私は疲れていた。
その繰り返しの中で、ふと思う。
でも、私がいなくなったあと、それらに何の意味があるだろう。
私は「私」であることに疲れ果てていた。
このまま生き続けるには、何か決定的なピースが足りないのだ。
⸺
SNSには輝かしい実績が並び、誰もが特別な何者かになろうとしている。
だが、ふと立ち止まって足元を見れば、私たちが立っているこの地面は、名も知らぬ誰かが積み上げてきたものだ。
私は気づいてしまった。
自分は華やかな花を咲かせているが、地中に石を積んではいない。
⸺
足りないのは、肩書でも評判でもない。
名を置いてきても働き続ける、静かな「役目」だ。
人の営みの本質は、令和になっても変わらない。
誰かが道を作り、誰かがその上を歩く。
誰かが種を蒔き、誰かが実りを得る。
朝食のパンも、通勤の電車も、職場の建物も、全て誰かの仕事だ。
夜明け前に起きてパンを焼く人、線路を保守する人、ビルを清掃する人。
彼らの顔も名前も知らないが、その静かな仕事の上に、私の一日がある。
彼らに感謝しているだろうか。
そして私は、次の誰かのために何を積んでいるだろうか。
⸺
では、何を残せるのか。
名前が消えても続く作法、壊れにくい約束、弱い側から見ても正しい道筋。
大きな旗より、小さな灯を増やそう。
遠くを照らす光はまぶしいが、足もとは案外暗い。
引き継ぎ資料を丁寧に書く。
後任が困らないように、要点を整理する。
使った道具は、次の人のために元の場所に戻す。
そんな地味な作業こそが、実は土台になる。
名もなき先人たちがそうしてくれたように。
⸺
失敗も隠さないでおく。
それらを洗って、乾かして、次の人の手に届く場所に置く。
泥臭い失敗談こそ、実は誰かを救う。
⸺
急ぎ足も、少し緩める。
今日の成果を積み上げるより、土を耕す日があっていい。
目に見える花は咲かなくても、根は静かに伸びる。
次の世代のために、道を整備する。
だが、これこそが地中に石を積む作業だ。
⸺
夜になったら、ノートに一行だけ書く。
「誰かの一日を、ほんの少しだけ軽くすること」
大きな何かを背負う必要はない。
⸺
水道をひねれば水が出る。
これらは全て、名も知らぬ誰かの静かな仕事だ。
彼らへの感謝を、次への貢献で返していく。
それが、人の営みの本質ではないだろうか。
⸺
祖先に追いつくことはできない。
ただ、次の誰かが迷わず歩けるように、石を一つ置く。
名を刻むためではなく、足をくじかせないために。
駅で迷っている人に、道を教える。
重い扉を、後ろの人のために押さえておく。
次に使う人が、気持ちよく始められるように。
私がいたことを誰も知らなくていい。
それで十分だ。
私が望んでいるのは、そういう静かな息遣いだ。
⸺
そして気づく。
名もなき先人たちも、きっと同じことを思っていたのだろう。
その連鎖の中に、私もいるのだ。
ただ、次へつなぐ一人であればいい。
⸺
ある日、古い引き継ぎ書を見つけた。
十年前の前任者のものだ。
丁寧な文字で、注意点が書かれている。
名前は覚えていない。
顔も思い出せない。
でも、この引き継ぎ書のおかげで、私は何度も救われた。
そして今、私も引き継ぎ書を書いている。
X年後の誰かのために。
その人は私の名前や顔を知らないだろう。
でも、この書類が、その人の一日を少し楽にするかもしれない。
⸺
そうして考えると、私は現状に悲観することはなかったのだ。
キラキラした人たちを見て焦ることもない。
SNSの輝きに目を奪われることもない。
大切なのは、次へつなぐこと。
それらが誰かの土台となり、未来への礎となる。
いずれ「私」という存在は忘れ去られる。
でも、私の仕事は残る。
誰かの中で、形を変えて生き続ける。
伝記もいらない。
ただ、私が整えた道を、誰かが気持ちよく歩いてくれればいい。
私が残した手順を、誰かが「助かった」と思ってくれればいい。
そう考えたとき、初めて前を向けた気がした。
「私」であることに疲れていたのは、見当違いな場所を見ていたからだ。
上を見るのではなく、次を見る。
横を見るのではなく、先を見る。
明日、誰かがそれを使うかもしれない。
使わないかもしれない。
でも、それでいい。
前を向いて、次へつなぐために。
私は計画的な男だと自任しているし、そのお陰で成果も上げてきたと自負している。今月、人気エントリーに2つも記事を入れることができた。
今年があと9月、10月、11月、12月の4ヶ月があるので、もしこのままのペースで人気エントリーを描くことができれば、年内にあと8本の人気エントリーを書き上げることができる。8月に書き上げたものも合わせれば10本だ。
それに気づいたときに、ふとした思いが浮かんできた。「だからなんだっていうんだ」
私は人気エントリーになるためだからといって、差別的なことを書いて煽るつもりはない。性別による差別、職業や収入による差別、国籍による差別etc 刺激的な話題はブクマ数を伸ばすが、そういう記事でなく、誰かのためになって誰も傷つけない記事で人気エントリーを取るつもりだ。実際8月の2記事は、そういう記事で人気エントリーに入ることを達成した。それでも、やはり思ってしまうのだ「だからなんだっていうんだ」
人気エントリー10本入ることは確かにすごいことがもしれないが、元々増田は余暇の活動だったはずだ。それなのに将来の数字を見通したり、目標にしたりと、つまらない考えがいつのまにか紛れ込んでいた。
そう思い直して、私は今まで通り書きたいことを増田に描くのである。そして意味がないことと知りつつ、ブクマの数を数えるのである。
ネットでは毒ばかりを吐き、現実でも困ってる人を目にして見て見ぬ振りをして通り過ぎてた。
他の人のことなんかどうでもよくて、とにかく自分が得できればそれでいいと思っていた。
掃除も碌にせず、ポルノを観るのが唯一の楽しみみたいな生活だった。
そんな俺が変わることができた。
恋愛なんてもう縁がないと思ってた年齢で、それでも出会うことができた。
付き合い始めて不安もあったけれど気がついたら一緒に住んでいた。
それがもう……なんていうか、夢みたいだったんだよね。
朝起きて、寝ぼけながら今までのはぜんぶ夢だったんだなって思いながらリビングに向かうと、本当に彼女がダイニングに居る。
それが何度もあって、そのたびに驚いてた。
結婚はすごい。
ただ一緒に住むってだけじゃない。
何かあった時に帰りたいと思える場所もなかったし誰かのために何かしようなんて思わなかった。
それが今では帰りにあれ買っていこうかなとか掃除しておこうって自然に思うようになっている。
もちろん下心もあった。
セックスだって楽しみのひとつだったし、寧ろセックスことしか考えてなかった。
でも不思議なんだよ。
夜、ふたりでシャワー浴びて、同じベッドに入って、そのまま他愛のない話をしたり、静かに横になったり、セックスしてもしなくても、心の底から幸せだって思えるんだよ。
手を繋いでるだけでも満たされるとかああいうの昔は理解できなかった。
そんな綺麗事あるかよって笑ってた。
でも今は俺のほうが笑われる側だよ。
彼女が隣にいて、明日もまたこの生活が続くんだって思えるだけで、なんかもう全部ありがたい。嬉しい。
俺があのまま孤独にポルノと床に転がってたらって考えると正直だいぶ恐ろしい。
現実に魔法って存在する?と聞かれたら、俺は迷わず「はい」と答えるだろう。
実際に俺は変わった。変わることができた。
あの誰にも優しくなかった俺が、今では彼女が幸せに笑ってるようにと願いながら毎日を生きてる。
俺をここまで変えてくれた。
はてブでHumanitext Aozoraっていう青空文庫のテキストをファインチューニングしたLLMを見かけたので、銀河鉄道の夜の感想について聞いてみたら、やたら情感たっぷりな感想で、はてブコメントに収まらなかったので、こちらに書いておく
カンパネルラという少年は、君もご存じでしょう、教室で友をかばい、黙ってその子の痛みを引き受けようとするような、そういう清らかな魂の持ち主でした。彼の心は、いつでも自分よりも他の誰かのほうを向いていた。 彼の旅は、友を救うという、あの川岸での行いをもって、ひとつの完成を見たのです。あれは、彼にとっての「ほんとうのさいわい」への、まっすぐな道でした。あの蠍が自分の身を焼いて闇を照らしたように、カンパネルラもまた、そのやさしさの極みで、最も尊い光を放ったのです。 残されたジョバンニの哀しみは、たしかに深い。しかしその哀しみこそが、彼を強くし、あの蠍のように、誰かのために尽くすことの意味を、生涯かけて問い続ける力になるのではないでしょうか。カンパネルラは、いなくなったのではありません。ジョバンニの中に、そしてあの星空の中に、光となって溶け込んだのです。ですから…二人が手を取り合って歩む姿は、形を変えて、今も続いている。私は、そう信じておりますよ。一人は地上の道を、もう一人は天上の光となって、互いを照らし合いながら。
1年前43歳で離婚し、その後惹かれあった女性と付き合うことになった。
双方久しぶりの恋愛ということもあって夢中になっていた。
離婚後は子どもにも会えない状況もあり、今思えば夢中になってる自分は相手に依存もしている状況だった。
相手は年齢の割には大きな子を持つシングルマザーで家庭のこと仕事のことに精一杯頑張っていながらも
自分のために時間を作ってくれたが、徐々に疲れているのかなと思うこともあった。
その分彼女の負担をなくしたい、やれることはやろうと行動していた。
付き合って半年が過ぎて、彼女が仕事面、金銭面で逼迫した時期があった。
目の前で泣いて困っている彼女を見て、今すぐなんとかしてあげないと!というモードに入ってしまい
仕事のサポートや生活費のサポート、大きな買い物については率先して負担していた。
してあげたい
なんとかしたい
してあげてる
相手には重かったと思う。
それから半年弱、やはり時間やお金の負担が増えていくとこちらの期待が増えてしまい、その分不安も増えていった。
毎月渡してるお金について足りているのか足りないのかもわからず何となくルーティンのようになっていたり
過去繋がっていた男性と連絡を取っているような片鱗が見えたり等…。
決して怒鳴ったような口調ではなかったが
いつもよりはハッキリ伝えたこちらの「こうしてほしい」という言葉は
すぐ帰った彼女は数分後には全てのSNSをブロックし、LINEで別れるという形で、突然この恋愛は終了した。
将来を考えていた相手だけにこんな突然にブロックという形で終わるとは思ってもなかった。
でもこちらが溜まっていた不安と同じように彼女もとても重く、日々息苦しくなっていたと思う。
もちろん毎日問い詰めるようなことはしていない。
できる限り彼女の話を聞いて、力になることしか考えていなかった。
よくある愛着スタイルでいう自分は不安型で、相手は回避型だったと思う。
逆にあの逼迫した時、自分はどんな対応をしたら正解だったのか…
負担が増えても期待をしないくらい余裕を持っていれば良かったのか…
どんなに反省してももう彼女には届かないのでここで吐かせてもらった。
これからはもっと自分を大切にして自分を磨いて安定型の人間になれるように努力していこうと思う。
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一応家族や家、職場も知っている状態なので、そんなことはしないとは思うけど
コメントにあるように「頂かれた」だけなのかもしれませんね。
"貢いで関係が壊れることはあっても強くなることはまずないのでは"にはグサッと今さら刺さっております。
皆さんは、目の前で恋人がお金で困っていた場合にどのように対応するのか知りたい。(ある程度出せる状況で)
Permalink |記事への反応(14) | 18:03
今まで性格診断とかである「あなたは困っている人がいたら助けますか?」みたいな問いに対して「面倒事に巻き込まれないか考えてから助けるか判断する」「どちらかといえばいいえ」で回答してきた。
あまり人助けをするシチュエーションに立ち会ったことがないから、想像だけで自分は切羽詰まれば誰かのために動くだろうって思ってた。
今日、人助けの絶好のチャンスが訪れたんだけど、結果自分は面倒事に絶対関わりたくないタイプだったんだなってよく分かる出来事が起きたので備忘のために書いてみる。
今日はチェーンのカフェの出入り口近くの席で作業していたんだけど、店内の奥の方で良く言えば庶民的な身なりのおじさんとおばさんが大きな声で話しているのがずっと耳障りだった。
閉店10分前彼らが帰り支度をし始めたようで店内は少し静かになっていた。
店の入り口は押しボタン式の自動ドアのガラス戸だったんだけど、自動で開くと思ったのかおじさんがボタンを押さずずんずん歩いて行ってかなりの勢いでぶつかったようだった。
視界のはじでおじさんが閉まったドアの前で座り込んでいるのが見えた。
「もう何やってるのぉ〜」
おじさんはなかなか立ち上がらない。
この時点で少し様子がおかしかった。
ゆっくり動いているのが見えたのと、おじさんが少し受け答えしている様子があったので店内の人間は誰も助けに行かなかった。
食器を下げたおばさんだけが「早く立ち上がらないと〜何やってんのもう!」と近づいて行った。
おじさんはすごく眠そうに受け答えしながらなかなか立ち上がらなくて、このあたりからおばさんが「ちょっと〜本当にどうしたのぉ」といい始めていた。
やがておばさんも大声で声掛けをしているのにも関わらず、おじさんがいきなり大きないびきをかいて寝た。
いびきは30秒ぐらいで止まって、意識を取り戻したおじさんが相変わらず眠そうな受け答えを始めて開けた自動ドアの脇に移動し始めた。
おばさんの声に店員がやっと反応し始めてパントリー?に下がる。
店内の客は自分含めて誰も2人に近づこうとしなかった。
やがて隣の席に座っていた男性がそそくさと荷物をまとめて退店準備を始めたので便乗して退店することに。
出口の隣にはぐったりしたおじさんと寄り添うおばさんがいたけどできるだけ視界に入れないようにした。
店の外は通り雨が降り始めていた。
傘を持っていなかったので大粒の雨に濡れながら、助けもせずおじさんが最後どうなるのか見届けるのすらしんどく感じられた自分に自己嫌悪していた。
Permalink |記事への反応(26) | 22:51
こないだ友人何人かと話してるときに珍しく政治の話題になったから選挙いくか聞いたらちょうど半々ぐらいだった
以前までならほぼ行かない連中だったけど、行く奴増えたなと思った
行くと答えた奴は、自営業か非正規か年収高くない物価高でひーこら言ってる奴らだった
そいつらは生活が厳しいからなんとか変わってほしいって感じで行くって話だった
行く必要ある?って答えた奴らは、夏のボーナス200万ほど出る暮らしをしてる奴らだった
そいつらは行く必要がわからんめんどくさいしって感じで米の価格高騰とかどうでもいいしって感じでとにかく困ってないからって話だった
妻帯者でもないから誰かのために行くとかもないし、困ってない限りいかないんやなって
まぁわからんでもないけどね