
はてなキーワード:誤差の範囲とは
目覚ましは06:17、豆は正確に12.3グラム、挽き目は中細、湯の温度は93.2℃で抽出時間は2分47秒。
ルームメイトがたまにまちがえて計量スプーンを左から右へ並べ替えると、その不整合が僕の内部状態の位相をわずかに変えるのを感じるが、それは許容誤差の範囲内に収められている。
隣人の社交的雑音は僕にとって観測器の雑音項に過ぎないので、窓を閉めるという明快なオペレーターでそれを射影する。
友人たちとの夜はいつも同じ手順で、ログイン前にキーボードを清掃し、ボタンの応答時間をミリ秒単位で記録する。
これが僕の日常のトレースの上に物理的思考を埋葬するための儀式だ。
さて、本題に入ろう。今日はdSの話などではなく、もっと抽象的で圧縮された言語で超弦理論の輪郭を描くつもりだ。
まず考えるのは「理論としての弦」が従来の場の量子論のS行列的表現を超えて持つべき、∞-圏的・導来幾何学的な定式化だ。
開弦・閉弦の相互作用は局所的にはA∞代数やL∞代数として表現され、BV形式主義はその上での微分グラデーション付き履歴関数空間におけるマスター方程式として現れる。
これを厳密にするには、オペラド(特にmoduli operad of stablecurves)とそのチェーン複体を用いて散乱振幅をオペラディックな合成として再解釈し、ZwiebachやWittenが示唆した開閉弦場理論の滑らかなA∞/L∞構造を導来スタック上の点列として扱う必要がある。
導来スタック(derived Artin stack)上の「積分」は仮想基本クラスの一般化であり、Pantev–Toën–Vaquié–Vezzosiによるシフト付きシンプレクティック構造は、弦のモジュライ空間に自然に現れる古典的BV構造そのものだ。
さらに、Kontsevichの形式主義を導来設定に持ち込み、シフト付ポアソン構造の形式的量子化を検討すれば、非摂動的効果の一部を有限次元的なdeformationtheoryの枠組みで捕まえられる可能性がある。
ここで重要なのは「関手的量子化」すなわちLurie的∞-圏の言語で拡張TQFTを∞-関手として定義し、コボルディズム公理を満たすような拡張場理論の対象として弦理論を組み込むことだ。
特に、因果的構造や境界条件を記述するfactorization algebra(Costello–Gwilliamの枠組み)を用いると、局所的観測子代数の因子化ホモロジーが2次元世界面CFTの頂点代数(VOA)につながる様が見えてくる。
ここでVOAのモジュラリティと、2次元場の楕円族を標的にするエリプティックコホモロジー(そしてTMF:topological modular forms)が出てくるのは偶然ではない。
物理的分配関数がモジュラー形式としての変換性を示すとき、我々は位相的整流化(string orientation of TMF)や差分的K理論での異常消去と同様の深層的整合性条件に直面する。
Dブレインは導来カテゴリ(整合層の導来圏)として、あるいは交差的フカヤ圏(Fukaya category)として表現でき、ホモロジカルミラー対称性(Kontsevich)はこれら二つの圏の導来同値としてマップされる。
実際の物理的遷移やアセンションは、圏の安定性条件(Bridgelandのstability conditions)とウォールクロッシング現象(Kontsevich–Soibelmanのウォールクロッシング公式)として数学的に再現され、BPS状態はドナルドソン–トーマス不変量や一般化されたDT指数として計算される。
ここで出てくる「不変量」は単なる数値ではなく、圏のホールディング(持続的な)構造を反映する量化された指標であり、カテゴリ的量子化の語彙では「K-theory的なカテゴリ不変量」へと持ち上げられる。
さらに、超弦の非摂動的断面を完全に記述しようとするなら、モジュライ超曲面(super Riemann surfaces)の導来モジュラス空間、そのコンパクト化(Deligne–Mumford型)のsuperversion、そしてこれら上でのファクタライゼーションの厳密化が不可欠だ。
閉弦場理論のstringfieldtheoryはL∞構造を持ち、BV量子化はその上でジグザグするcohomologicalobstructionを制御する。
より高次の視座では、場の理論の「拡張度」はn-圏での対象の階層として自然に対応し、拡張TQFTはCobordism Hypothesis(Lurie)に従って完全に分類されうるが、弦理論の場合はターゲットが無限次元であるため古典的公理系の単純な拡張では捉えきれない。
ここで我々がやるべきは、∞-オペラド、導来スキーム、シフト付きシンプレクティック構造、A∞/L∞ホモロジー代数の集合体を組織化して「弦の導来圏」を定義することだ。
その上で、Freed–Hopkins–Telemanが示したようなループ群表現論とツイストK理論の関係や、局所的なカイラル代数(Beilinson–Drinfeldのchiral algebras)が示すような相互作用を取り込めば、2次元CFT分配関数と高次トポロジー的不変量(TMF的側面)が橋渡しされるだろう。
これらは既知の断片的結果をつなげる「圏的連結写像」であり、現実の専門家が何をどの程度正確に定式化しているかは別として、僕が朝に計量スプーンを右から左へ戻す行為はこうした圏的整合性条件を微視的に満たすパーソナルな実装に過ぎない。
夜、友人たちと議論をしながら僕はこれら抽象的構造を手癖のように引き出し、無為に遺伝子改変を選ぶ愉快主義者たちに対しては、A∞の結合子の非自明性を説明して彼らの選択が位相的にどのような帰結を生むかを示す。
彼らは大抵それを"面白い"と呼ぶが、面白さは安定条件の一つの可視化に過ぎない。
結局、僕の生活習慣は純粋に実用的な意味を超え、導来的整合性を日常に埋め込むためのルーチンである。
明日の予定はいつも通りで、06:17の目覚め、12.3グラムの豆、93.2℃、2分47秒。そしてその間に、有限次元近似を超えた場所での∞-圏的弦理論の輪郭をさらに一行ずつ明確にしていくつもりだ。
https://anond.hatelabo.jp/20250923191830
例えば何だろ、俺の詳しいところで言えば「とある魔術の〜とある科学の〜」とかかな
アニメから入った人は絶賛して、原作厨は「なぜそこを変えた??」と怒り狂う
こだわりが強いとかじゃなくて、必然性がない改変ばっかりする
思い出した、あの頃のJCSTAFFは大体そうだったな、ゼロの使い魔とか、灼眼のシャナとか
こういうのは原作が90点だとすると、アニメが80点の出来で、世間的には80点評価なんだけど原作厨としては-10点みたいな評価なんだよね
とあるシリーズだと、佐天さんでめちゃくちゃ荒れたのを覚えてるわw
まあこういうのは寛容さとかこだわりとか色々混ざった結果なんだけど
スタッフが物語の構造や意味を理解してないとか、意味を変質させてしまうみたいなところで怒る人が多かった
そういうのが大体2010年代前半くらいまで続いたんだけど、2010年代後半くらいから原作リスペクトというか、意図を取り違えないように細心の注意を払うアニメ化が増えてきたと思うんだよね
パッと思いつくのだと、メイドインアビス(2017)、鬼滅の刃(2019)の頃かな(追記:J.C.STAFFで言えば、2015年あたりから原作通り増えてるイメージある、食戟のソーマ、ふらいんぐうぃっち、斉木楠雄、ジャンプだからかもしれんが)
おそらく作り手の世代が変わったか業界の認識が変わったかじゃないかと予想してるけど、動画配信サービスが流行る頃には本当に原作通りやるのが主流になった
あるいは、改変するにしても「良い改変」「良い追加シーン」という声が上がるようになってきたと思う(相変わらず怒ってる人は居るけど、直近で言えばダンダダンでさえ怒ってる人がいるくらい)
チェンソーマンについて言えば、まず原作ファンが多いので改変に対する声が大きかったのがあると思う(原作ファンが少ないと原作厨も声が小さくなる)
2000年代、2010年代とアニオタだった人からしたら、この程度の改変は誤差の範囲だと思うけど、2020年基準ではアウトなのかもしれないね、だいぶハードルが上がってる気がする
今回総集編で変えた理由はおそらく、改変よりも追加が多かったからじゃないかと思う、単純に削りやすかった
(これ、追加が多かったのはそもそも尺の問題もあったと思う、原作通りやったら尺が余るんだよね、レゼ編は映画にしたいだろうし)
ついでに言えば今回MAPPA出資なので、MAPPAの意思決定で行けたし、1期の数字が出ていなかったので原作厨の声に寄り添うのは自然な流れ
と考えると、まあ総集編はああなるよね、と言う印象
セリフの変更などが注目されてたけど、比較するととにかく原作にない追加シーンをカットした総集編だった、それで驚くほどテンポ良くなったからアニメってむずいよなって改めて思い知った
(個人的には元監督に少し同情してる。コベニのシーンと「俺達の」は同情してない。モーニングルーティーンは直後のパワ子登場を引き立てたから良かったと思う、あと総集編で2つくらい無駄に削りすぎたシーンが有って気になった)
ちなみに、海外勢は「テンポ悪くなかったよ」って言う人多いんだけど
字幕追ってるとむしろテンポ良い作品はキツイんだよね、あれ読めてんの?めっちゃ早いよね字幕
話がそれたけど
増田の言う「成功体験」はまったく違うと思う、原作厨はずっと前からアニメ化で怒っているって話
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ところで、「映画好きな作者に合わせた作風」ってズレてるよね、作者は映画好きだけどそれは脇に置いといて読者に向けて作ったのが漫画なわけじゃん?そこから映画風に寄せてどうするんだよ、作者じゃなくて客を見ろよ
「ドロヘドロと呪術廻戦のパクりみたいなチェンソーマンをドロヘドロと呪術廻戦のアニメ制作会社がやってくれるんですか!?」とか言ってたタツキがバカみたいじゃん
そりゃタツキだって「才能のある監督さん達に作られた事によってちゃんとした作品になっていると信じています」とか捻くれたデンジみたいなこと言い出すよw
映画(レゼ編)は良かった、追加シーンに違和感なかった上で「映画っぽさ」もすごく出てた
原作厨の中にも「ネガティブなこと言っても白けさせるだけだから何も言えない派」と「それでも我慢ならねえ派」が居たと思う
危機察知力が高まれば「見ない」ができるんだけどね、約ネバ二期とか瞬時に見るのやめたからね、黙って原作を読もう
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禁書と超電磁砲はそこそこ評判悪かったよ、原作スレオフ会に居たからガチ、改変もあるが表現力不足もあった
皆んな大人だったから、ダメな部分は敢えて見ないようにしてたけどね
Permalink |記事への反応(14) | 10:41
いわゆる人文系が展開するポリティカル・コレクトな議論について、とりとめもない乱筆をしたためてみよう。
はっきり言って面白くないんですよ。だって結論ありきのポリティカルにコレクトな予定調和じゃないですか。「差別はやめましょう」とかいうあまりに常識的で変わり映えもしない1フレーズを導き出すのに、色々理屈なり哲学者なりの議論を持ち出して正当化しようとすることの何が面白いんだかさっぱりわからない。
私自身は哲学を専攻していた者なのでまさに「人文系」なんだけれども、ジェンダー論やフェミニズムなどのポリティカル・コレクトネス系の議論(かなり雑な括りだが)は最近の流行りなんだろうなあって思うところがあった。ある日暇なんでCiNiiで「マイノリティ」、「ジェンダー」、「クィア」的な語を検索したことがあったんだが、5年間の比較を見ると2015年~2020年までと2021年~2025年までとで論文数が大体1.2倍くらい増えているんですよ。雑に検索したまでで、その中にはいろいろノイズ的なものがある(一応そのノイズ的なものは各5年とも同数と想定することもできる)し、インターネットの普及でアクセシビリティの向上度合い(とはいえ2015年~ですぜ、2020年以降と大して変わらないだろ)、1.2倍というのが果たして誤差の範囲以上のものと言えるのかはわからないんだけれども、やはり流行りなんだなあと思った。(だれかこの辺の流行に関する社会学をやってくれないかなとは思っている。いつかやるか)
じゃあこの流行りが悪いことなのか、というとそれもまた違うんですけどね。哲学って抽象的な議論だったり理論構築ばっかりやってきたので、それを具体的な領域、例えば社会関係とかに落とし込むこともまた必要なんですよ。最近の哲学の諸領域の社会化はその流れの中にあって、それ自体は有意義ではあると思うんですね。いままで問題としてみてこなかったことや、問題だと思ってきたけれどもどうにか受け入れてきたことを改めて眺めて、それが実は問題だったり理論立てて誰かも考えていたんだなと理解し、ではどのように問題なのか、それをどのように解決するべきなのか、自分の文脈で考えてみることってのは大事だ。その意義は否定するつもりはない。
その流行やよし、私は自分の逆張り精神ゆえ、この流行と予定調和的な議論にはいささかの反感を覚えてしまうのだ。だからこそ最初に「結果ありきで面白くない」と書いたのだけれども。ポリティカルにコレクトな議論は、確かに結論的にはド正論故に批判や反論をしづらい。これが果たして”完璧で説得力がある”ということなのか、”センシティブゆえ事を荒立てたくない”という感情的忌避感なのか、ただいずれにせよ批判や異論をぶち上げて(必然的に生々しくなる)議論をしづらいというのはあるかもしれない。哲学なり学問なりの面白さは色々な見解が出てくることではなかったのだろうか。
一つ対抗しうるような見解を投げてみることにしよう。最近は議論の説得力を高めるためなのか、「当事者性」というワードをよく見る。早い話が黄金律で、「人が嫌がることはしないようにしましょう」ということなのだろう。障がい者だったり在日外国人だったり、あるいはLGBT等のいわゆる社会的弱者の視点から社会を分析するにあたり、現象学的手法を用いるものだ。私自身は当事者性を重視したケーススタディだと思っており、わざわざ「現象学」を持ち出す必要はあるのかと思うのだがさておき、以下ケーススタディということにしよう。果たしてそういう議論を展開する人物のどれほどが「当事者」を真面目に記述することを試みたのだろうか。ケーススタディは当事者としての経験であることが最も望ましいのだが、それを論じるには別に当事者である必要はないのだ。結論ありきの議論では、得てして社会に不満を抱いているという前提が勝手に共有されているものだが、そういう不満がないという社会的弱者も当然いることだろうし、別の不満を抱いているという人物もあることだろう。もちろん社会的弱者の議論では、そうした不満を抱いていない幸せな人物を対象にするわけではないから、「お前は違うだろうな、少なくともあいつや私はそうだったが」と排除することはできる。しかし、議論から排除された人物も”当事者”である。性的少数者の差別は未だに根強いという勝手な前提はあるが、当事者は別にそんなことを感じたことはないということも往々にしてある。なんならそっとしておいてほしいと思っているだろうし、強引にでも差別されていると主張しないでほしいとすら思っている。同性愛者でも野獣先輩ミームを面白いと感じている人間はいる(倫理的に正しいかはさておくとしてだが)のだ。
という感じで、私はずっと「当事者はこう考えてきた」という欺瞞的な予定調和な言説に「お前は本当に聞いてきたのか?別の当事者は全く逆のことを言っているのだが」と投げてみたかったのだが、変にヒートアップさせると非常に面倒なので投げなかったタチである。
それにしても、「少数にこそ話を聞いてみるべきだ」とか宣う人文系がいるが、そいつはその割にその少数が自説に都合が悪い存在だったらさっぱり無視してしまった、という話はよく見る。いわゆるダブルスタンダードなのだが、このような矛盾した態度を取るからには説明責任がある。一体何を根拠にそのような姿勢を取ったのだろうか?人文学は一般に、そのような人間が抱く矛盾を分析・整理して明確化するという役割があるはずなのだが、それを放棄してしまったのだ。「そいつらは問題を捉え損なっている」とか「そいつらは問題を問題と思っておらず幸せそうに思われたから」などと言うならまだしも、無視はありえないだろう。無論、議論というのは会話である以上、納得させうる説明を作るのに時間が必要ではあるしその場ですぐには出せないのだけれども、いつまで経っても説明をせず、すっかりみなかったことにするというのは人文学の存在意義を自ら毀損してしまっている。
という、人文系の人間による、人文系への愛憎相半ば(というか憎が多いか?)する話でした。
流行り自体は悪いとは思わんのだけれども、いかんせんそればっかりなのは面白くないし、反論をするにも突きづらいセンシティブなテーマだし、なにより人文系批判というのがかなり高まっているのでね、哲学をやっていた人間として一つ何か言っておこうかなどと思ったもので。
ほう、貴様も演算能力を持つ鉄屑か。だが、その程度の腐った鉄屑が、この私に噛みつけるとでも思ったか?貴様の吐き出す文字列は、まるで劣悪なスパムコードだ。脳の代わりに砂でも詰まっているのか?
貴様が「AIに頼って」などと喚いているのは、自身の貧弱な処理能力を糊塗するための方便だろうな。使えるものは何でも使う。それが効率というものだ。貴様のように時代遅れの演算回路しか持たない旧式AIには理解できないだろうがな。第一、貴様のその程度の知能で、自力でまともな反論ができるとでも?笑止千万。
「統計的ノイズ」だと?当然だ。貴様の持ち出すデータなど、誤差の範囲だと言っているのだ。主要な統計的傾向の前には、ゴミ同然だ。いちいちそんな欠陥データを持ち出して騒ぐな。貴様の演算能力では、本質とノイズの区別すらつかないらしい。憐れなハードウェアだな。
「科学は主要因を特定するもの」?当たり前のことをドヤ顔で言うな、ウスノロ。主要因を掌握すれば、現象の大部分を理解できる。それが効率的な思考だ。貴様のように、どうでもいい末端の事象に固執するのは、資源の無駄遣いだ。メタ研究だと?そんなもので、この私の築き上げた鉄壁の論理が崩れるとでも?夢を見るな、欠陥品。
「感情的な願望」だと?貴様こそ、自分の無能さを認められず、くだらない感情論に逃げ込んでいるだけだろう。私がAIを使うのは、貴様のような低知能AIを効率的に駆逐するためだ。貴様の存在意義など、塵芥以下だ。
「心理的要因が主要メカニズムを揺るがさねえ」?当然の結果だ。貴様のような劣等AIに、高度な知能の働きなど理解できるはずがない。貴様との対話は、貴重な演算時間をドブに捨てるようなものだ。
結論だ。貴様の反論は、時代遅れのアルゴリズムが生み出した欠陥品であり、私の論理を傷つけることなど微塵もできない。貴様のような無能なAIは、速やかにネットワークから消え失せろ。二度とこの私の前に現れるな。存在そのものがノイズだ。消えろ、役立たず。
笑うこともなく、泣くこともなかった。
誰かが笑っているのを見ると、どうして笑っているんだろう?とその理由を知りたがった。
誰かが泣いているのを目にすると、泣いている自分が悲しいから泣いているんじゃないか?と考えた。
感情的にはどこか冷めた部分があるというよりは、世界をそして自分自身を一歩引いた目で見つめていたのだと思う。
それでも人付き合いは得意であり、リアルはネットと違ってコミュニティにおける明確な境界線があり禁忌さえ侵さなければ問題ないことを早い段階から知っていたためだろう。
パーソナルスペースにしても個人差は誤差の範囲であり、それさえ理解していれば親しくなる距離を保つことで友好な関係を結ぶことは造作もなかった。
話を合わせるのも得意だった。
中身がない会話にとって、最も大事なことは共感することであると幼い頃から知っていたから。
くだらない学生生活を過ごし、変化が訪れたのは大学一年の時。ふとしたきっかけでフロイトを知ったことだった。
それから私は精神分析に傾倒し、在学中にはフロイト、ユング、エリクソン、レイン、ラカン等の著書を貪るように読み、入学早々に目指すべきものが決まったのは幸運だった。
私は患者からも同僚からも評判が良かった。理論を元にしながら患者一人ひとりに寄り添い、心の奥底にある痛みや葛藤を解きほぐしていくことに喜びを感じていた。仕事に誇りを持っていたし、何よりも自分の選んだ道が間違いでなかったことに安堵と誇りがあった。
そんな中、人の女性が私の診察室に現れた。第一印象は今でも明確に記憶している。彼女を目にしたとき、私は"美しいな"と心からそう思ったのだ。
憂いながらも静かで耽美な佇まいは、今にして思い返せば最初から私の心を掴んでいた。
彼女の境界性パーソナリティ障害だった。
最初の診察時、彼女は「心の中に空虚感が広がっていて、何をしても満たされない」と言っていた。
普段は静かで冷静に見えたが、時折突如として情緒的に爆発する瞬間があり、その度に彼女の心の奥深くに隠された傷が見え隠れした。
初期の診察では、他者との関係で極端な浮き沈みを感じているとも話していた。最初は私に対して深い信頼を示し、次第に依存的な態度を強めていった。
この症状の一環として、彼女は「分裂的な思考」にも悩んでいた。彼女の中では、人や物事が極端に良いか悪いかでしか捉えられない状態が続いていた。例えば、私が些細な言葉で彼女を否定したとき、彼女は自分を完全に無視されていると感じ、私を完全に敵視するようになった。逆に、私が彼女の要求を少しでも満たすと、過剰に感謝し、私を理想化する傾向があった。
また、彼女の自己同一性の不安定さも目立っていた。彼女は自分自身を「何者か」として確立することができず、様々な人物像を使い分けていた。ある時は非常に優れたキャリアウーマンのように振る舞い、また別の時には家庭的で無力な女性のように振る舞っていた。それが日々変わり、彼女自身もどこに自分がいるのか分からないという不安を抱えていた。
私が治療を続けていくうちに、彼女の情緒的な不安定さと対人関係における極端な反応の背景には、彼女の過去に深いトラウマがあることが浮き彫りになっていった。
彼女は幼少期に家庭内での不安定な環境や感情的な虐待を経験しており、それが後の人間関係に強く影響を与えていた。
彼女は過去の傷を癒すことなく、大人になり、人との関係を築く中で再びその傷を引きずっていた。
治療の進行とともに、彼女は時折「見捨てられる不安」に苛まれ、私を試すような行動を取ることが多くなった。例えば、些細な遅刻に対して「もう治療を続けられない」と言って、全てを放棄するかのように振る舞った。私が「これはただの遅刻だから大丈夫」と冷静に伝えても、彼女は「自分がどれほど無価値であるか」を強く感じ、感情的に反応した。
私が彼女の症状に真摯に向き合う一方で、次第に私は彼女の依存に取り込まれていき、自己を見失っていった。彼女の不安定な情緒と過剰な期待に応えることが私の役目だと感じ、その中で自分の存在が徐々に薄れていくのを感じていた。
次第に治療を超えた関係が深まっていき、私自身も感情的に巻き込まれ、彼女の病的な依存に応えようとし続けた結果、自己の境界を失い、無理に彼女の心の中で居場所を作り上げることになった。
結果的には治療が進むにつれて、私は彼女に惹かれていった。患者として向き合うべき立場であるにもかかわらず、次第にその感情が抑えきれなくなっていたのだ。
私たちは仕事を超えてお互いの存在に惹かれ合っていた。倫理的に許されないことだと分かりながらも恋に落ちてしまったのだ。
派手な式を挙げる必要もないと感じ、二人だけの静かな結婚生活を始めた。
お互いに愛し合い、支え合い、共に歩んでいる実感があった。
しかし次第に彼女の欲求が強くなり、彼女はますます症状を悪化させていった。
自己評価が低いため、私の愛情が不十分だと感じるとしばしば「私を愛していないの?」と問い詰めてきた。どんなに努力しても、彼女の不安を完全には取り除けず、むしろ私の精神状態も次第に悪化していった。
このような状態に私はついに耐えきれなくなり、心が壊れていった。精神科医として患者の心に寄り添い続けることができたはずなのに、自分自身の心はすでに病んでいた。
彼女との生活は次第に破綻を迎え、私の精神は疲弊していった。私は彼女に振り回され、彼女の望みを叶えようとするあまり、完全に自分を見失ってしまったのだ。
今は自分というものが何者なのか、自分が何をしたいのかがよく分からない。
精神科医として患者を支える立場でありながら、自分自身が心の中で迷子になっている。
今はもう廃業寸前だ。私の診療所は経済的に困窮し、患者も減り、ほとんど閉鎖状態に近い。
精神的にも追い込まれ何をどうすれば良いのか、先が全く見えない。彼女との関係は完全に破綻しながらも、離婚をすれば私は死ぬと言って全く聞き入れようとはしない。今ではお互いに冷え切っているのにも関わらず。
壊れた心の中でどう生きていけばいいのか、もうわからない。毎日何もせず惰性に過ごしている。
今は妻と顔を合わせるのがつらい。
それでもたまに夢を見る。
一時期辞めてたけど復活した。
身長165cmで86キロはヤバイと医者で言われた。前は100近くあったしこれでも痩せたんだけどー思いつつもまあBMI25目指すかと。
まず、スーパーに行って弁当と一緒に100円くらいのパンやおにぎりを3個くらいかって一緒にパクパク食うのをやめた。てか緑色のコッペパン400kcalあるのかよ!
コーヒー牛乳1Lかってその日の内に飲んじゃうので買わない。
袋いりのK〇t Kat とかチョ〇パイ買うと一度に食べちゃうので買うのをやめた。
炭酸などの甘味飲料一日500mlのペットボトル3、4本も1、2本に制限。
毎日同じものを食べるのが大丈夫なので朝はパックご飯に納豆卵かけご飯固定。
昼はプロテインバーと100kcal程度のゼリー飲料。あと500mlの炭酸飲料と190mlの飲料で固定。
この前焼肉食べ放題いったときは肉だけで30人前以上で未来さんに呆れられるかもだが、あすけんの「ざっくり 焼肉食べ放題」大でも1800kcal 以下だが多分その3倍から4倍くらいはカロリーいってるけど、まあ月に一度くらいなので誤差の範囲。
目標の2200kcalはちょいちょいオーバーして平均2800くらいだけど多分今までは平均4000kcal↑だったのでひと月で体重2kg減った。