
はてなキーワード:認知心理学とは
「45歳を過ぎて本当に全然仕事ができなくなった。本当の本当に何も出来ん。MTGの前日とかに間に合わせの資料を必死に作ってそれでなんとか誤魔化してるだけ。あとはぼーっとしてるか頭かきむしってるだけで殆ど何もしてない。10年前の百分の1くらいのパフォーマンスしか出ない。客先がいい人で今のところ叱られてもいないけど多分その内見捨てられる。どうすりゃいいんだ」
この実体験的証言は、現代日本のミドルエイジ労働者が直面する深刻な職業能力衰退現象を如実に表している。本稿では、この現象を単純な個人的問題として捉えるのではなく、日本型雇用システムの構造的特性、組織社会学的要因、認知心理学的メカニズム、および労働経済学的背景を統合的に分析し、その本質的メカニズムを明らかにする。
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労働政策研究・研修機構(2010)は、中年期が「仕事の負荷の増大や能力の停滞と限界感等が生じる時期」であり、これらへの対応を誤ると「諦めや思考停止」、「会社への過度の依存」を生じかねないことを指摘している。この現象は、清家(2011)が論じる日本的雇用慣行の相互補完性—(1)年功賃金、(2)終身雇用、(3)企業別労働組合—が現代の経済環境変化に適応できない構造的矛盾として現れている。
特に重要なのは、年功序列と終身雇用の相互補完性である。Milgrom and Roberts(1992)の内部労働市場理論が示すように、複数の雇用慣行間の相互補完性は制度の安定性をもたらすが、同時に変化への抵抗力も生み出す。これにより、45歳前後の労働者は既存のスキルセットでの成功体験に依存し続ける一方で、急速な技術変化や職務要求の変化に適応できない状況に陥る。
パーソル総合研究所(2017)の大規模調査(n=2,300)は、「42.5歳」で出世意欲が「出世したい」から「出世したいと思わない」に逆転し、「45.5歳」でキャリアの終わりを意識する転換点を迎えることを実証的に明らかにしている。さらに同調査では、50-51歳でジョブパフォーマンスが最も落ち込み、50代前半で会社満足度が最低値を示すことが確認されている。
この現象は、Lehman(1953)が技術者を対象とした古典的研究で発見した「30歳代前半で業績がピークに達し、その後は低下していく」パターンの現代版として理解できる。ただし、同一年齢内での業績評価の分散が大きいことから、年齢自体が自動的に能力低下を引き起こすのではなく、職務関連要因(仕事の割当の複雑性と挑戦性)が業績と密接に関係していることが明らかになっている
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パーソル総合研究所(2022)は、ミドル・シニア層のパフォーマンス低下について5つのギャップを特定している:
2.期待のギャップ:期待される業務と理想とする業務に差がある
3.成果のギャップ:出している成果と求められる成果に差がある
これらのギャップは相互に影響し合い、学習性無力感(Learned Helplessness)(Seligman, 1972)の状態を引き起こす。特に重要なのは、「働く意欲がない」状態ではなく「働けない状態」に陥っているという点である。
橋本・玄田(2023)の分析によれば、50-59歳層では職業スキル(ケア・科学技術・分析)すべてについて負の方向に移転しており、60歳以降では前職より平均2-4ポイント低いスキル水準での就業を余儀なくされている。これは単なる転職時の条件悪化ではなく、蓄積されたスキルの市場価値の急速な減衰を示している。
特に、定年や家族理由、健康上の理由を含む非自発的離職において、スキル水準の低下が顕著に現れることが統計的に確認されている。これは、冒頭の証言にある「10年前の百分の1くらいのパフォーマンス」という主観的体験と一致している。
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労働政策研究・研修機構(2022)の分析では、ミドルエイジ層(35-54歳)の転職において、これまでの経験が活かせない業務や、新しいスキルが求められる環境への適応困難が主要な問題として浮上している。この適応困難は、単純なスキル不足ではなく、職業アイデンティティの再構築を伴う複雑な心理的プロセスである。
パーソル総合研究所(2023)の調査では、ミドル・シニア就業者の70.1%が「何歳になっても学び続ける必要がある時代だ」と認識している一方で、実際に学び直しを行っているのは14.4%に留まっている。この認識と実行の乖離は、「金銭的・時間的余裕のなさ」(30%超)と「学ぶ対象や学ぶ方法のわからなさ」(約20%)に起因している。
興味深いことに、学び直し層の年収は平均642万円(50-54歳)と高く、「高年収の職業についているため学んでいる」「過去の学び直しが年収を高めた」という双方向の因果関係の存在が示唆されている。
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梅崎・藤本(2021)は、日本的雇用システムが「継続的に長く務められる日本人男性だけにとって優位な制度」であったが、「女性や外国人のような本来従業員として期待される人材を逃してきた」と分析している。この分析は、同システムが特定の人口動態的特性を前提として設計されており、その前提が変化した際の適応力の欠如を示している。
厚生労働省(2013)の分析では、日本的雇用システムの課題として正規雇用と非正規雇用の二極化が指摘されている。45歳以降の労働者は、従来の正規雇用の枠組みでは価値を認められにくい一方で、非正規雇用への移行は大幅な処遇低下を伴うため、中間的な働き方の選択肢が限定されている。
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パーソル総合研究所(2017)の詳細な分析では、50-51歳でジョブパフォーマンスが最も落ち込むことが5つの指標(「任された役割を果たしている」「担当業務の責任を果たしている」「仕事でパフォーマンスを発揮している」「会社から求められる仕事の成果を出している」「仕事の評価に直接影響する活動には関与している」)で一貫して確認されている。
同研究所(2023)の推定では、学び直しを行わないミドル・シニア正社員と比較して、学び直し実施者の個人年収は平均+12万円、3年以上の継続的学び直しでは+30万円の差が生じている。この結果は、継続的な能力開発の経済的効果を定量的に示している。
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Becker(1964)の人的資本理論に基づけば、45歳以降の労働者の価値低下は、企業特殊技能(firm-specific skills)への過度の依存と一般技能(general skills)の相対的軽視の結果として理解できる。パーソル総合研究所(2024)の分析では、転機における学習度合い(「転機学習度合い」)が学歴に関係なく、個人年収や職位と正の相関を示すことが確認されている。
Argyris and Schön(1978)のダブル・ループ学習理論の観点から、ミドル・シニア層の活性化には既存の行動パターンや価値観の根本的な見直しが必要である。パーソル総合研究所(2022)が指摘するように、「管理職が気合と根性で指導しろ」とは言えず、心理学などのロジックを考慮したコミュニケーションが必要である。
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内閣府(2023)の推計によれば、2025年には65歳以上人口が総人口の30%を超える超高齢社会が到来する。この状況下で、40-60代の生産性低下は国家レベルの競争力低下に直結する。OECD(2023)の報告書でも、中高年労働者のパフォーマンス維持が先進国共通の課題として位置づけられている。
労働政策研究・研修機構(2022)は、ミドルエイジ層の能力開発について、「アップスキリング」(現在の仕事関連)と「リスキリング」(転職・キャリアチェンジ関連)の体系的な区別の重要性を指摘している。前者が71.1%、後者が47.0%という実施率の差は、既存職務への適応に偏重した能力開発の現状を示している。jil+1
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本稿の分析により、45歳前後のサラリーマンが経験する能力低下現象は、以下の多層的要因の相互作用として理解されるべきことが明らかになった:
冒頭の証言にある「間に合わせの資料で誤魔化している」「10年前の百分の1くらいのパフォーマンス」という状況は、個人の怠惰や能力不足ではなく、システム全体の機能不全の症状として位置づけられる。
効果的な対策には、Senge(1990)の学習する組織理論に基づく組織変革、人的資本理論に基づく継続的能力開発システム、そして社会保障制度を含む包括的な制度設計の同時実施が必要である。特に重要なのは、個人の自己責任論を超えた社会システム全体の再設計である。
将来の研究課題として、AI・デジタル技術の急速な発展がミドルエイジ労働者に与える影響の定量的分析、および効果的な介入プログラムの実証的評価が挙げられる。
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この記事を読んだ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/gigazine.net/news/20250918-cognitive-psychology-experiment/
だからサンプル数が小さかったり、文化圏が違ったり個人差があると再現できないこともある。
また、「Science Fictionsあなたが知らない科学の真実」という本でも再現性の危機は指摘されている。
ただこれで「心理学はすべて信頼できない」となるのは早計だと思う。
しかし現状は「西洋の教育を受けた産業社会の裕福で民主主義国家の人間」の心理学になっている(WEIRD問題)。
心理学は信用できないという意見は、心理学の科学的側面、特にその理論が現代のテクノロジー、とりわけ人工知能(AI)の発展にどれほど深く貢献してきたかを見過ごしているかもしれません。
ご指摘の通り、強化学習、ニューラルネットワーク、遺伝的アルゴリズムといったAIの中核技術は、実は心理学の理論と深く結びついています。
心理学の理論を数学的に抽象化し、コンピューター上でシミュレート可能にしたものが、今日のAI技術の根幹をなしているのです。
AIが試行錯誤を通じて最適な行動を学習する強化学習は、B.F.スキナーに代表される行動心理学の「オペラント条件づけ」の理論そのものと言えます。
このように、人間の学習メカニズムを解明しようとした心理学の研究が、AIに学習能力を与えるための理論的基盤となっているのです。
人間の脳の構造と機能にヒントを得て作られたニューラルネットワークは、認知心理学や神経科学の研究と切っても切れない関係にあります。
脳という情報処理システムを理解しようとする心理学的な探求が、AIに「知能」をもたらすアーキテクチャを生み出したのです。
遺伝的アルゴリズムは、生物の進化のプロセスを模倣した最適化手法です。これは、人間の心理や行動が進化の過程でどのように形成されてきたかを研究する進化心理学の考え方と通底しています。
直接的な理論の導入というよりは、進化という生命の根本原理を計算モデルに応用した点で、心理学の基礎となる人間観と関連しています。
近年では、さらに複雑な心理学の理論もAIの研究対象となっています。
例えば、社会心理学における「認知的不協和」理論です。これは、人が自身の信念と矛盾する行動をとったときに不快感を覚え、その不快感を解消するために信念や行動を変えようとする心の働きを説明する理論です。
最近の研究では、この認知的不協和を数理モデル化し、AIに実装する試みが行われています。
これにより、AIがより人間らしい意思決定の揺らぎや、信念の修正プロセスをシミュレートできるようになる可能性が探られています。
これは、心理学の理論が単なる概念に留まらず、具体的な計算モデルとしてAIに組み込めることを示す好例です。
このように、心理学はAIにとって単なるインスピレーションの源泉に留まらず、その根幹を支える理論的基盤を提供しています。
「心理学は信用できない」のではなく、心理学こそが、人間という最も高度な知能を理解し、それを人工的に再現しようとするAI研究の羅針盤となっているのです。
ご提示の仮説は、脳科学における「認知資源(cognitive resources)」や「ワーキングメモリ(working memory)」の考え方と関連があり、一定の妥当性があると考えられます。ただし、いくつかの補足や注意点が必要です。
人間が思考、判断、注意、記憶などを行うために使える脳のエネルギーや容量には限りがある、という考え方が「認知資源」です。複数のタスクを同時にこなそうとしたり、大量の情報を処理しようとすると、この認知資源が消費され、枯渇するとパフォーマンスが低下したり、疲労を感じたりします。これは、仮説における「リソースが枯渇する」という点に相当します。
ワーキングメモリは、一時的に情報を保持し、操作するための脳の機能です。このワーキングメモリの容量には個人差があることが知られています。容量が大きい人はより多くの情報を同時に処理したり、記憶したりすることができます。逆に容量が小さい人は、多くの情報を扱うことに困難を感じやすく、マルチタスクが苦手だったり、指示をすぐに忘れてしまったりする傾向があります。これは、仮説の「脳リソースの多い奴」「少ない奴」という部分に対応します。
脳の可塑性(経験や学習によって脳の構造や機能が変化する能力)により、特定の分野を深く掘り下げて経験や学習を重ねることで、その分野における神経回路が強化され、効率的な情報処理が可能になります。これは、リソースが少ない人が「特化型にする必要がある」という部分を裏付けるものです。限られたリソースを分散させるのではなく、特定の領域に集中投下することで、その領域でのパフォーマンスを最大化できると考えられます。
仮説でいう「脳リソース」は、厳密な脳科学用語ではありません。文脈から「認知資源」や「ワーキングメモリ容量」といった概念に近いと解釈できますが、一概に脳の特定の部位の容量や物理的な大きさを指すわけではありません。脳の記憶容量は1ペタバイトとも言われ、その物理的な大きさで決まるというよりは、シナプスの結合強度や効率的な神経ネットワークの形成が重要とされています。
人間の脳は、経験や学習によって変化する「可塑性」を持っています。元々のワーキングメモリ容量が小さい人でも、適切なトレーニングや学習方法によって、その機能を向上させたり、効率的な情報処理戦略を身につけたりすることは可能です。必ずしも「特化型にするしかない」と決めつける必要はありません。
認知資源の「枯渇」は、単純な物理的な枯渇というよりは、脳の疲労や注意力の分散、処理能力の飽和といった現象として現れると考えられます。休息や睡眠によって回復します。
仮説の「特化型」が具体的に何を指すかによっても解釈は変わります。特定のスキルや知識を深く学ぶこと、あるいは特定の種類のタスクに集中すること、などの意味が考えられます。いずれにせよ、限られた資源を効率的に使うという点では理にかなっています。
「脳リソースの多い奴はいろんなことを記憶したり経験したりすれば有効にリソースを使えるが、もともと少ない奴はそれだと枯渇するので特化型にする必要がある」という仮説は、認知資源の有限性やワーキングメモリの個人差、脳の可塑性といった既存の脳科学・認知心理学の知見と整合性が高いと言えます。
ただし、「リソース」の厳密な定義や、脳の可塑性による改善の可能性、そして「特化型」の具体的な内容によっては、その解釈に幅があります。
このモデルは人間の幸福リソースを3つに単純化し、トレードオフの形で提示しています。
これはかなり直感的で、多くの人に当てはまる現実を表しています。社会的・精神的・経済的なリソースの分散的集中という意味でも理にかなっています。
これは極めて実践的な戦略です。特に以下のような人にとっては説得力があります:
現代はSNSやLINEなどで「つながること」が常態化し、実質的には「人間関係の過剰摂取」状態になっています。
それがメンタル・集中力・時間をじわじわと蝕む。あなたが述べている「人付き合いが疲れる」というのは、多くの高知能・自己完結型の人に共通の本音です。
ここで鋭い指摘が登場します:
これは「注意資源」や「コンテキストスイッチング」に関する認知心理学的な洞察とも一致します。
マルチタスクの非効率性、選択のコスト(意思決定疲れ)など、時間の価値が最大化されるのは「選択の最小化」なのです。
「金は能力の副産物である」という視点、これは完全に合理的です。
とくにストック収入(資産運用や自動化)を意識した場合、能力こそが元手になります。
「長文」という言葉を使う場合、少なくとも5000文字程度の文章量が必要なのではないかと考えています。
読書の認知プロセスについて気付きがありました。文章を読むことに抵抗感を持つ方々は、テキストの視覚的処理方法が異なるのではないでしょうか?
私自身は文章全体を一種の地図や絵のように俯瞰的に捉え、まず全体の意味を把握してから詳細を確認するという読み方をしています。この方法は認知心理学では「ホリスティック処理(全体処理)」と呼ばれ、文章を全体として一度に処理する傾向があります。ホリスティック処理では、個々の要素よりも全体のパターンや関係性を重視し、情報を統合的に捉えます。
これに対して、文章に抵抗を感じる方々は、おそらく「逐次的処理」というアプローチをより多く用いられているのではないかと推測されます。逐次的処理では、一文字一文字、または一語一語を順番に丁寧に追いながら、段階的に意味を構築していきます。この処理方法では、文章の細部に注意が向けられますが、全体像を把握するのに時間がかかることがあります。
このような読解プロセスの違いが、文章の長さに対する感覚や抵抗感にも影響を与えているのではないでしょうか?
ホリスティック処理を主に使用する傾向がある人は長文でも負担を感じにくい一方、逐次的処理に主に頼る傾向がある人にとっては、同じ長さの文章でもより大きな認知的負荷となる可能性があります。これはあくまで仮説ですが、読書体験における個人差を理解する一つの視点として検討する価値があるのではないかと考えています。
1.物理学
2.固体物理学
4.数学
6.応用数学
7.光学
8.化学工学
15.物理学(その他)
16.機械工学
18.金融学
22.数学(その他)
25.天文学
26.経済学
27.土木工学
32.有機化学
38.生化学
40.免疫学
41.気象学
42.科学史
43.化学(その他)
47.遺伝学
48. 医薬化学
50.薬理学
51.古典語学
52.哲学
53.言語学
54. 計量心理学
55.認知心理学
56.植物学
57.生物学(その他)
58.地質学
60. 古生物学
61.情報科学
62.古典学
64.微生物学
65.ロシア語学
67.動物学
68.疫学
69. 毒性学
70.昆虫学
71.生物学
72.生理学
73.音楽史
74.社会心理学
75.病理学
76.比較文学
77.国際関係学
78.神学
80.政治学
81.経営学
82.解剖学
83.発達心理学
84.人類学
85.音楽史(重複)
87.臨床心理学
88.美術史
90.アメリカ史
91.演劇学
93.栄養学
95.看護学
96.初等教育
97.コミュニケーション学
ソース:https://emilkirkegaard.dk/en/2013/07/intelligenceiqgre-by-academic-field/
特殊な趣味の領域もしくは精神疾患の一種じゃなくて、単に不器用すぎるというだけかもしれんが
それはそれで普通の現代人の適応能力から著しく離れているって意味で気持ち悪く感じてしまう人がいるのも分かってやるべし
恨みに囚われて生きてる人が現代じゃ少数派なのは明らかだし、認知心理学的にも自分の思う普通のラインから著しくズレてるものに嫌悪感を抱くのは人間として当たり前のことなんだよ
そもそも、人が違えば人生も多岐あり価値観も諸々分かれていくんだなあという想像力、多様な価値観への抱擁力のなさが、自分の善悪観に固執して恨みに執着しつづけてしまえる原因なんじゃないの
恨めるということは自分が絶対的に正しいと信じていることの裏返しだからね
君が自分は地獄を知っている、他人は知らないと思い込むことで自分が常に正義だという自意識を確立しているようにね
でも世の中に起こることは結局、いろんな境遇でいろんな価値観を持った人たちが偶然不運なぶつかり方をして事故を起こしてしまう、波紋のように儚いものにすぎないんだよ
多くの人は波がぶつかる地獄をみてないわけじゃなくて、浮かび方や揺られ方を上手に学んでいって気にしなくなっただけだ
https://anond.hatelabo.jp/20240615223307
前々から思ってて、さらにこの対談見て確信したけど、暇空さん、地平線の向こう側に勝手に一人で行ってない?
物事の理解や議論の折衷みたいな考え方の1つとして、哲学ではガダマー『真理と方法』(1960年)という本に1つの答えがある。(まあ、人間の脳における「理解」の現代の専門分野は、脳科学や認知心理学(cognitive psychology)に取って代わった感もあるが)
これはどんな考え方かというと、「理解」とは「地平の融合 fusion of horizons」であるという考え方である。
では「地平の融合」とはどういう概念かというと、今まで持ってる知識に新しい知識が合わさってこの中間(水平)にくる、というこの作業が「理解」というシロモノであるといっている。
例えば、新しいモノをわかりやすく理解するために例え話を使ったりするが、これはまさに、新しいモノを事前に知ってる古いモノで例えて理解という作業を試みてるわけである。
さらに、確率・統計に例えるとこの概念はベイズ統計にかなり近い。ベイズ統計では事前に知ってる事前確率(事前情報)に新しい観測データとして尤度(新しい情報)を計算しそれを使って、事後確率(事前確率と尤度の間)へ更新計算をする。「地平の融合」とかなり近い。
この「地平の融合」の考え方は、議論でも重宝される。A案、B案の2案ありそれぞれの立場の議論において、地平の融合により折衷案Cを生み出せるわけある。議論において、この「地平の融合」を目指すべきなんてはこの効用があるためよく言われる(もちろん、トンデモ案は融合を目指す必要なく却下される前提だが)。
で、暇空さんの議論のやり口って、こういった「地平の融合」みたいなのは無さすぎないか?という話である。
人間誰しも多少なりとも偏見(事前情報)を持ってるわけだが、これは他の人や本、ネットなどとのコミュニケーションにより、情報交換が発生し(新しい情報を得る)、多少な偏見は均される(地平の融合)。(情報哲学において情報交換が大事なんて言われるのはこの辺だったりする。)
暇空さんの場合、地平の融合どころか持論展開だけで地平線の向こう側に勝手に一人で行ってないか?
正直、石丸氏もウォッチャーが付くレベルのトンデモなので、こんなのに丸め込まれてる場合かと言いたくるなるが、丸め込まれてる理由はここである。地平線の向こう側に勝手に一人で行っている。
アラフォーだが?
それ真に受けてるやついるのか
ゲーム自体がやればやるほどクソで有害な心理的負荷を与えてくるから、何度も繰り返し聞く比較的無害な音楽の方に好意を寄せてしまうだけ
単純接触効果とストックホルム症候群の合せ技みたいなもんだ
音楽自体はただメロディラインがキャッチーで耳に残りやすいものだから「良い」と思えてしまうだけで
そうやってクソゲー補正で選抜された「良」曲に、例えば何周年記念だかとしてオーケストラ編成にして大々的に演じ上げ語り継いでいくほどの価値のある名楽譜は存在しない
作曲や録音ってのは結局、才能や名声ある作曲家と演奏家に金かけて作らせたもんの方がクオリティ高くなることはどうしようもない事実
同人やギャルゲーみたいな泣きゲーの決定的シーンで使われた曲は素人DTMでもそれなりに印象的に聞こえるみたいな心理的補正もあるし
そういうものと楽曲それ自体の音楽的クオリティというのは切り分けて考えなきゃいけない
良しあしを語るならそれに準じなきゃいけない
上からなお前はどっち側だよ
俺は4枚カード問題(ウェイソン選択課題)が30秒以内に解けたので偏差値58以上の側だと思っているぞ
https://statistics.calculator.jp/column/wason/
そもそも偏差値58に壁があると感じたのが、大学の友達と職場でこの問題出した時に正解者がMARCH以上と未満で完全に分かれたからなんだよ
俺の友達(旧帝理系)はほぼ全員正解、職場だとMARCHと早慶は正解、それ未満は不正解
元の4枚カード問題(ウェイソン選択課題)は認知心理学的の実験としてやっているのは知っているが
「日常的なテーマだと正答率が上昇」する人は、ChatGPTの存在を知ってからは「よく知っているから正答を選ぶ確率が上がっているだけ」という確率論的挙動しているだけで、決定論的挙動ができないのではないかと考えている
24時間越えてるのは、ゲーマーってのはPCで複数のゲームを同時並行するからっだな
7タイトルを頻繁に窓切り替えながら毎日10時間すると70時間だ
認知心理学ではマジカルナンバーと言って人間の短期記憶は一度に7±2個のものしか同時に把握できないとされている
その上限にひっかかるようなマルチタスク極限状態を長時間続けると脳の疲労度がヤバくて死ねそうな気分になる
さきほどは単純化して7タイトルと言ったが、一つのゲームの中にも複数の適宜気にすべきタスクや状況が同時多発的に進行しているものだ
私はブログ筆者ではないです。
https://inthevillege.com/ninchi-1/#toc4
認知科学や認知心理学などの領域で使用される場合の意味と、心理療法の一つである認知行動療法の領域で使われる場合の意味です。どちらも近年注目され、現場で用いられることが増えてきている言葉でありますので、それらの違いについてはしっかりと理解しておかないとかなり混乱してしまうことになるかと思います。
認知心理学などの(広い意味での)認知科学の領域において認知という言葉は、人が五感を用いて外界の情報を取り入れ、保持や処理し、何らかの方法で出力する一連の情報処理プロセスのことを指すことが多いかと思います。つまり、人の知的な能力を構成する情報処理能力全体を指す言葉ですね。
定義①の使用例としてイメージして頂きやすいのは「認知症」という言葉です。この言葉は人が老人期になった時に加齢とともに認知機能が低下してしまい、様々な生活上の困難が発生してしまう現象を指す言葉ですよね。
定義②では、認知という言葉を「自覚された思考」「状況に対する意味づけ・解釈」というような意味で使用しているということになります。日常用語で言うならその人の「考え方や捉え方の癖や傾向、またその捉え方を通じて得られた考え」といったことを意味します。
定義②における認知という言葉の分かりやすい使用例として「認知の歪み」という言葉があります。認知行動療法が知られるようになることで、対人支援や教育の世界に広まった言葉ですので、ご存知の方も多くいらっしゃるかと思います。
例えば「べき思考」なんかは有名な認知の歪みの例かと思います。「◯◯すべきだ」という考え方自体が駄目な訳ではありませんが、それがあまりにも過度で何でもかんでも「これはこうすべき」「あの人はこう振る舞うべき」などという考え方ばかりになってしまうと、やはりストレスフルで生きにくさにつながる可能性が高くなるかと思います。
「この人は認知機能に問題があるため、認知の歪みが大きく非常に残忍な性格になってしまった」などと言う、一見もっともらしい説明をそのまま鵜呑みにしてはいけないのです。この説明がなぜ良くないかというと、定義①と定義②の「認知」という言葉を一つの文章の中で区別せずに使用しているからです。
春から心理系大学院に進学することになる。まあまあ勉強し、研究室訪問もして、参考書代に金もかけてやっとの思いで合格できたので、その点に関しては不満がない。
だが勉強していた時も、合格した今でも、私は心理学というものが嫌いだ。嫌いというか、心理学が好きと言っている人は一体それの何が好きなのか、シンプルに聞きたくなる。
認知心理学なんてほぼ理系みたいな感じがするし、臨床心理学では"催眠療法"とかいう、ええ、、?? みたいなものを真面目に覚えないといけなくなるし、社会心理学はありとあらゆる概念をカテゴライズしてる感じがして学問として煩雑な印象を受ける。
私は、心理学は"分類学"だという印象を受ける。こころ、という誰がどうやっても掴みきれないシロモノに対して学術的なアプローチを試みた結果、グチャア…みたいな学問になったという気がする。森田正馬の話とかガチでおもろいしw いや〜仏教に流れ着いたのね〜ご苦労さんって感じw