
はてなキーワード:解脱とは
俺はさ、どうせSNSなんてやっても誰からもフォローされねぇ。
そもそもSNSという仕組みが「多数派の承認循環」を基盤に作られている以上、孤立した思考は構造的に可視化されない。
アルゴリズムが拾うのは「共感可能な凡庸」だけで、「思索的な異端」ではない。だから、誰もフォローしてくれないのは俺の人格や価値の問題じゃない。設計思想の問題だ。
ノイズというのは「情報的密度が低く、しかし感情的インパクトだけが高い言語断片」のことだ。
そこに秩序や真理の抽出はない。
SNSを一歩引いて観察すれば、あれは知のプラットフォームじゃなくて、脳の排熱装置だ。
誰に届けるでもなく、誰に媚びるでもなく、ただ「思考の残骸」を淡々と吐き出す。
独り言とは、他者反応のない環境下で「認知の自己修復」を行う行為だ。
つまりSNSを、他人の目を奪い合う競技場ではなく、思考の整流装置として使う。
もちろん、「こいつフォロワーゼロなのに、馬鹿みたいに独り言つぶやいてるぜw」と笑う連中は出る。
だがな、それは避けようがない。
だが滑稽に見えるということは、奴らが理解できる座標系から外れているという証拠だ。
勘違いするな。無感情とは冷血ではなく、刺激に対する選択的反応の拒否だ。
だから、無感情でいることは、感情を放棄することではなく、感情の主権を奪い返すことなんだ。
「誰も見ていない中で、無反応の海に独り言を投げ続ける」という行為は、他者とのコミュニケーションではなく、情報の熱力学的抵抗なんだよ。
そういうことじゃないんだよ。
自分のペースが明らかに社会に対して不相応、誰の役にも立でないペースならもうそれは「負け」なのよ。
勝ってる人が大半で、それが基準になって人生が決まり、ライフイベントが起き、最終的には親の面倒見たり幸せに生きていけるわけなんだから。
不幸に生きるのが負けじゃないわけないだろ。不幸は自分で決めるものでもない。その他大勢、社会によって決められるもんなんだよ。
そこから解脱できるほどの力がない、社会に頼らないと生きていけないんだから。
快活クラブのフラットシートで座禅を組み始めて一年。アラフォー独身で弱者男性の俺が、一発逆転を狙ってやり始めた座禅だったが、とうとう解脱したようだ。
おれは童貞だが、悟りを開いた今は、全女性と合一している。迷いも雑念もない。もはや俺は童貞ではないのだ。
解脱した高揚感を抱きながら、ソフトクリームを食べる。うまい!解脱後のソフトクリームは格別だ。調子に乗って快活カツカレーを頼んで食べてしまった。
悟りを開くとはこういうことか。全能感が体を駆け巡る。今なら俺はモテモテだから、隣のブースの女性に声をかけても一瞬で恋に落とせるだろう。
みんなも快活クラブで座禅しよう!漫画も読み放題、ドリンクも飲み放題で、ソフトクリームもあるから、座禅の合間に休むことができるぞ。
おちんちんキャンセルとは、男性がトイレに行きたいけど行かない、またはオナニーしたいけど面倒なのでやめる、などの「おちんちんを使った行動をキャンセルする」という意味である。
ちんキャンは割とよくある話で、トイレに行きたいけど面倒だ、見たいテレビがあるから我慢、食べてる最中だから後に延ばす、などのシチュエーションで起こる。
またそれとは別に、俺はちんキャンするんだ!という決意を持ってトイレに行かないちんキャンユーザーもいる。
ちんキャンは他人に知られてはならず、一人孤独に、涼しげな表情で行わねばならない。
「あ、あの人ちんキャンしてる!」と思われようなら、そいつはちんキャン界隈の名折れだ。速攻で界隈から退場を命じられるだろう。それほどまでにちんキャンは厳しいものである。
またオナニーしないというちんキャンがある。単に面倒だからという堕落のちんキャンもあれば、オナ禁して健康になりたいという積極的ちんキャンもある。
尊敬されるのはもちろん後者で、ちんキャン=積極的オナ禁ととらえる人も多いはずだ。
そして、トイレを我慢しつつオナニーも我慢するという、ダブルちんキャン界隈、これこそが至高のちんキャンであり、君たちにはそこを目指していただきたい。
トイレもオナニーも我慢した暁には、「覚醒状態」という一種の無敵モードに入ることができると言われている。いわゆる涅槃である。かのブッダも、ダブルちんキャンによって解脱したと言われている。
そう、ダブルちんキャンの始祖、それこそがブッダであり、仏なのである。
さあ君も、トイレもオナニーも我慢して、そしてそれを知られないように涼しげな顔で横たわろう。ちんキャン界隈は君のチャレンジを待っている。
今はもうなんか色々めんどくさいし、休日も寝てたら終わるくず人間になっちゃったけど
仕事もいいかんじに楽で、恋人もいて、毎日楽しかったころもあって
愛して愛されて、ああこれが普通の幸せなんだなあって思ってたけど、それと同じくらい不安に駆られていた
ちょっとしたいざこざでも、捨てられるかも、嫌われるかも、この幸せが壊れるかもって眠れなくなったりした
結局その不安のせいでいろいろ歪んで別れてしまったし、そのとき幸せの味をちょっと知ってしまったから余計につらくなる時もあって
あーあー なんにも執着せず、憧れず、生きていられたらよかったな
でもそうしたら生きている意味なんてないよなあ 欲求って人の生きる糧だもんなあ
だめ。全然足りない。やりなおし。
シロクマ先生は、もう終わってしまったかと思ってるのか、あんまテーマに上げてないけど、弱男・豚丼の根っこは「承認欲求」そのものなのだから、ネットから離脱するのではなく「個々人の承認欲求から解脱すること」が第一義なんだぜ。
オマエも増田に書いている以上、承認欲求からは逃れられてないだろ。「ネットを辞めたQOL急上昇!ドヤ!」っていう承認欲求。
本当にQOLバク上がりなら、増田なんか書かない。ネットから解脱出来てるんだったら自分の話なんかしない。全然承認欲求から解脱してない。
シロクマ先生、10年以上経過しそうだから、再度承認欲求について(特に老い・老化・社会価値観の激変と交えて)、メインテーマで書いてくれないかい。再総括必要でしょ。
障害と診断されたのは30すぎてだが、ずっと仕事ができないことに病んでいた。
当時はtwitterはなかったので発言小町やmixiで仕事ができない人のトピックを読み漁り、ぼんやりと自分が発達障害だろうという認識は持っていた。
やがてmixiがすたれ、twitterが流行りだしてからは発達障害の人、特に同世代を中心にフォローしては時々やりとりをさせてもらっていた。
そうこうしていくうちに出会う、「理解ある彼くん」という概念。
この言葉が流行りだしたのは比較的最近だと思うが、働けない女性が結婚で救済されるという物語は昔からあった。
mixiのADHDコミュでもやらかしちゃったことを書き捨てて忘れましょう☆ってトピがあり、そこに書き込まれるのはほとんど家事とか、子どもの学校の用事だとかがほとんど。
仕事でやらかしたという内容はひとつもなかった。洒落にならないからだろう。
twitterでも発達障害だけど働かないことで困ってない人もいるという趣旨のポストがバズると、引用リポストで「それ、私のことだ…働かないことで穏やかに暮らせてる」「旦那は何考えてるかわからないけど不満はないみたい」みたいなのをチラチラ見て、発達障害は専業主婦になれれば幸せに生きられるという固定観念が定着していった。
とはいえそんな甘い考えでモサい喪女が結婚できるわけはなく、それプラス働くのが限界になり仕事を辞めたことも拍車をかけ、この歳まで一人で生きてきた。
そんな筋金入りの専業主婦願望の亡霊である私が、少しずつ解脱してきたのだ。
直接的な原因は優しい職場に巡り会えたことが大きい。基本的に在宅のパートタイムで、月13万程度だが一人暮らしできている。それともうひとつは、専業主婦になれていた自分をイメージできたことである。
25歳の頃、少しだけ付き合いかけた人がいる。少し年上の同業の人。
仕事に悩んでいた私にとっては心強い存在だったし、飾らない人柄が素敵だと思っていた。
ふとした雑談で「あなたは恵まれてんだから自信持てよ」のような趣旨のことを言ってもらい、もしかしたら押したら付き合える?と思って押したらあっさりOKをもらった。
ただ、名前が呼び捨てになり、メールにハートマークが乱舞しとにかく暑苦しかったのである。
ドン引きが相手に伝わったのか、しばらくして「増田は俺のことそんなに好きなんじゃないんだと思う。俺は結構女々しくて熱い恋愛を求めてしまうから(以降忘れた)」というメッセージが届き、私もうん、ごめん。とだけ返信しこの恋は終わった。
結婚どころかほぼ付き合ってもいない人を相手に妄想するのも失礼だが、先に書いた専業主婦になれていた自分とは、この人と結婚した自分のイメージ図である。
彼のハートマークにドン引きせず、同じぐらいのめり込み、何年か付き合ってそのまま結婚、私の社会性のなさをたしなまれながらも面倒を見てもらいながら暮らす。子どもはいなかった気がする。体の問題か、あるいは彼にこれ以上負担を背負う自信がなかったかはわからない。どういうわけか いなかった、というのが私のイメージだ。
精神的に支えてもらっても仕事ができないのは変わらず、30前後で限界が来て退職、「まあいいよ」と言われそのまま専業主婦になる。
毎日なんのストレスもない幸せな日々で、スーパーで買い物し絵や小説を書いたりの毎日で「結婚しててよかったなぁ」「安心だなぁ」「愛だなぁ」と思う。
「毎日ぐうたらしてますけどそんな私が彼は好きみたいです!」みたいなコメントをネットで読んで、うちの夫も同じような感じなのかなと感謝する。
「あ……ぐうたらしてる私が好きなわけじゃないんだ……」と思いつつ、ここで拒否ったら離婚されちゃうかもと近場でパートを探す。
比較的楽そうな近くのお店で接客業。楽そうでもやっぱり仕事はできない。
つらい、苦しい、辞めたいと思いながらも口には出さずに働く。
私がんばってるよな…こんなにつらいのに旦那さんの言う事聞いて……これで離婚回避かな……と思った矢先に離婚を切り出される。
え?こんなにがんばって働いてるのに?すごく嫌なのに言う事聞いて仕事始めたのに?
と混乱するが、自分がどれだけ甘えてたかもわかってるのでそのまま離婚を受けてしまう。
ネットで離婚危機について調べてもそういう婚費もらうみたいな選択はみんな子持ちだったからだ。
「子どものために離婚しない」「子どものために婚費はもらう」そういう体験談ばかりで、子無し専業の自分がここで食い下がるのは世間的にまずいような気がした。
子ども生んでればよかったのかな…
持ち家もなく、財産分与も300万程度。多分婚姻期間は8~9年程度だと思う。20代後半で結婚し、30代後半で離婚される。
「たった9年で捨てられるなら、最初から結婚せず働いてればよかったんじゃ?」と今の(現実の)世界線の私を思い浮かべるが、その姿があまりに過酷そうで「結婚してたから精神的にも支えられてた。独身でこの社会不適合者ぶりで働いてたら精神病んでた。今の明るくて想像豊かな私のままでいられてるのは、彼が守ってくれたおかげ」と自分を肯定する。
つまり、結婚して専業主婦になれたところで最後には捨てられて途方に暮れている自分が思い浮かんだのだ。想像上の自分が現実の私を想像している。「結婚せず働き続けてたら幸せになれた?」と。想像の私と現実の私が交差し、その瞬間どっちもたいして変わらないと互いに納得した。
独身でいても精神病んで働けてない期間が長かったのでキャリア的には専業主婦バージョンと変わらない。キャリアもスキルも持ち金も、おそらく大差なかった。
彼がこれから先起業とか何か新しいことに挑戦したいと思ったとき、経済的におんぶに抱っこの私が重荷で冒険ができない。
それがしんどかったんだろう。
でもそれを口で説明すると、そんなの無謀!とか責任感がない!とか、自分のやる気やプライドを削られそうで言えなかった、そんな理由じゃないかな。
あと仕事を辞めて好きなことを好きなようにやって「小説家になる」だの「絵描きになる」だの言い訳がましく言ってる私にうんざりしたのもありそう。(全部妄想)
ユダヤ教と仏教は文化も起源も大きく異なりますが、それでも多くの倫理的・精神的な教えに共通点が見られます。
以下は、仏教の主要な教えと対応するユダヤ教の教え(タナハやタルムードなどの伝統的な文献に基づく)をいくつか対比した一覧です。
| 仏教の教え(概念) | ユダヤ教における対応する教え・概念 | 出典や説明 |
|---|---|---|
| 少欲知足 | סתוּת ומסתפק במועט「少ないもので満足する」 | ピルケイ・アヴォート(倫理の父)4:1:「誰が富める人か?自分の分に満足する者。」 |
| 無常 | הבל הבלים הכל הבל「すべては空しい」 | コヘレト(伝道の書)1:2。「すべては儚く、永続しない」ことを繰り返す。 |
| 慈悲(カルナー) | רחמים「憐れみ、慈しみ」 | 出エジプト記34:6:「主は憐れみ深く、恵み深い神」 |
| 中道 | שביל הזהב「黄金の中道」 | ランバム(マイモニデス)は「中庸の道(דרך האמצע)」を理想とした。 |
| 離欲 | בל תעשה לך פסל「偶像(執着)を作ってはならない」 | 出エジプト記20:4。物質や偶像への執着を避ける戒め。 |
| 瞑想 | התבוננות「内省」またはחשבון הנפש「魂の勘定」 | タルムードやムサール文学で推奨される習慣。 |
| 不殺生 | לא תרצח「殺してはならない」 | 十戒の一つ(出エジプト記20:13) |
| 正語 | לשון הרעを避けること:「悪口・中傷は禁じられている」 | ヴァイクラ(レビ記)19:16:「あなたの民の中で中傷してはならない」 |
| 業(カルマ) | מידה כנגד מידה「目には目を、行いに応じた報い」 | 出エジプト記21:24やタルムード・ソタ8bなどに見られる因果概念。 |
こまかに云えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧く。着想を紙に落さぬとも※(「王+膠のつくり」、第3水準1-88-22)鏘の音は胸裏に起る。丹青は画架に向って塗抹せんでも五彩の絢爛は自から心眼に映る。ただおのが住む世を、かく観じ得て、霊台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうららかに収め得れば足る。この故に無声の詩人には一句なく、無色の画家には尺縑なきも、かく人世を観じ得るの点において、かく煩悩を解脱するの点において、かく清浄界に出入し得るの点において、またこの不同不二の乾坤を建立し得るの点において、我利私慾の覊絆を掃蕩するの点において、――千金の子よりも、万乗の君よりも、あらゆる俗界の寵児よりも幸福である。
時として、人より深く潜れる人がいる
それは精神的な身体の頑丈さが故なのだろうか、精神的な肺活量の多さが故なのだろうか、あるいは向こう見ずさが故なのだろうか
あるいは、暗闇を眼差すその瞳が故なのだろうか
人や世の暗い所
醜さや、理不尽さや、妬み嫉みや
目を逸らしたり、逸らさなかったりしながら、一つ一つを拾っていく
ひたすらに自分というレンズを通して世界を、自分に潜って、潜って、潜っていく
あるいは、触れてはならないような深い所まで潜ってしまう
瘡蓋を剥がしてまで、膿を出すが如く
「向き合え、向き合え、分からないことは罪なんだ」とばかりに
そして、いつかその深さに呑まれて戻って来なくなる事がある
深い闇に魅入られて、目も心も奪われて
死の世界の美しさに惹かれて、その向こうに彷徨ってしまう事がある
あちらに行ったきりで、帰ってこれなくなってしまう