
はてなキーワード:袁紹とは
お気持ちィ~!! する!!
身バレが角が立つのが怖いから増田でやる!! 伏兵!! 知力1!!
士気流派1がVer3.1.0から「一律、最大士気+3になりました。それまでは何色だろうと一律でMAX15になってた。
デッキは1勢力で組むと12、2勢力で10、3勢力で8、4勢力で6なので、一律で多色は弱体化を食らったと言えます。
なんなら士気流派3も下方しない?ぐらい思ってる士気流派アンチ。理由は今から書きます。
まず、英傑大戦は「カードゲームだけどカードゲームにあらず」なところがあって。
他の一般的なターン制カードゲームの常識で設計すると、かなり不利な設計があると思います。
・ゲーセンに行かないといけない
という、今やら無料で遊べて当然のカードゲーム(特にDTCG)からするとあっあり得んっ(袁紹)ハードルが存在しています。
遊戯王、ポケポケ、シャドバなどなど、遊んでたら英傑よりも一般的に話題にできてしまうゲームはあるわけで。
じゃあどういうことかというと、
・上述のハードルを乗り越えてでも遊びたいと思わせるより強大な面白さが無いとダメ
ってことで。
ゲーセンコミュニティとか言ってももうダメっすよ。コミュがどうのはDTCGだって十分育めるから。
結局「少なくとも、一般的なターン制DTCGよりは対戦が面白い」が重要なわけです。
なんならお安い娯楽なんて溢れてる時代なので、それらよりも「時間と体力をつかってやりたい」と思わせないとダメ。
1試合で喜べるのは1人で悲しむのは1人というタイマンルールでこれを達成するのは、この時代では相当な挑戦だとマジに思ってます。すげえよセガ。
じゃあ英傑大戦がそんな飛び抜けて面白い娯楽であるためにどう在ればいいのか?
それはもう「持ち味をいかせッッッ」しかなくて、当然他のゲームにはない「カードを使ったアクション要素(広義の白兵)の巧拙が実力として勝敗に直結すること」だと思います。
トップランカーさんたちの配信とかを見ると「今の絶体絶命から、それしか城割れないのかよ……」とかいっぱいありますよね。
同じデッキ握ってもあまりにも戦闘力がちがう。同じデッキで100先したら食客の自分は3-100ぐらいで敗れるんだろうなと確信できるほど。トッププレイヤーたちマジですげえ。
もしこういうことが起きた時に、自分個人としては「んいい~クソゲェ~!!!」とは思いません。格ゲーでトップランカーにあっさり0-100決められたときの畏敬しかない。
「んいい~クソゲェ~!!!」で顔真っ赤にして連コするときは、なんか理不尽なまでに強い計略打たれてあとはボッ立ちでボロ負けさせられたみたいな時です。今なら氏親ですね(流れ弾)
「いわゆる白兵ゲーを離れて士気ゲー・計略ゲーみが強まるほど、英傑大戦はターン制カードゲームに近づく」わけです。
先ほど私がランカーさんたちとやっても3-100ぐらいだと言いましたが、これを20-100ぐらいまで無理矢理上げる方法があるとすれば、
だと思います。はっきり言って士気12以上の世界は調整が行き届いてません。その何でも起きてしまうゲームの揺らぎに賭けて「実力」を無力化するのが勝ち筋だぜーッ
いや、その士気15をどう溜めるかも実力だろっという反論が来るのは重々承知。ここに来るのはわかっていました、驚きはありません(伏兵)
でもその「コンボ一発まくりデッキも実力のうち」って、やっぱりターン制カードゲームの発想なんです。
それが戦場を染めれば染めるほど、前述の2つのハードルを超えてまでやるか? リアルな問題が出現してくるわけで。
Ver3.0.0からの「旗陣形」や「天翔龍閃」のときは、下々もお気持ち勢から、なんと「ねだるな、勝ち取れ」系のトップランカーさんたちまでお通夜気味でした。
「不毛」「誰でもやることが同じ」「作業」「単純につまらない」「もう今日は麻雀ファイトガールでいいかな」……
何度も言うけど、旗やら剣心やらのやってることはターン制のカードゲームだったら全然普通、むしろよく見る光景だったりします。
規定ターンで作業的に勝つソロプレイ系コンボデッキとガチガチのコントロールデッキってやつ。
でもやっぱ、そういうターン制カードゲームの常識は……英傑大戦との親和性は低いんだよえーーーっ
英傑大戦の計略はプレイヤーならわかると思うけど、士気1ごとにうま~く上位になるように慎重に設計されています(氏親とムーランから目を背けながら)
士気4<5<6<7<8……の感じで、8から若干どんぶり勘定になる印象がありますが、それは(士気流派でもない限り)「1試合中に3回撃てない」「他の計略を重ねられない」からちょっと大味になるのでしょう。
個人的なアレを言いますと、ガトリング砲全弾発射ァ!は士気8なので1試合に2回までならいいんじゃないのと思うけど3回くると「はいはい、あーたのし」的に拗ねます。士気流派の士気8マジでつええ。
そんなわけで、士気流派=「最大士気を15まで溜められる」「一試合に士気27ぐらい使える(昂揚も盛ってればば29ぐらい使える)」は、「もしかして今の試合、実力なんてほぼ関係無かった?」が……
無いとは言わせない……そんなのは甘えだねだるな勝ち取れと言いたいだろうが……無いとは言えないだろう!! 歴戦の大戦プレイヤーであるほど!!
いや、大政奉還やら岩崎弥太郎やら明らかに問題ありでしたやん。どっちもやっぱり士気絡み。
で、大政奉還やらジョン万次郎やら、超多色で、運用難度もそこそこでめっちゃ強いあれらが出るたびに環境はストップがかかる~興が削がれる感はあって。
「いや、自分は実力では絶対に勝てない相手に士気とぶっ壊れのめちゃくちゃで勝てる英傑が好きなんだよ~!」さんたちがいるのも知ってるけど、
多数派かどうかは怪しいし、「負けた側が『しばらくは家ゲーor麻雀ファイトガールやるわ』する率」は白兵系に負けたときよりは圧倒的っしょ。
アクティブユーザーを維持する最大の策は他のゲームを触らせないこと、触られたら戻ってくる率は本当に低くなるぞ……
そんな風なリスクがある上に士気流派1が生み出す指数関数的な調整コストの跳ね上がりが他のゲームバランスの調整コストにまで響いているとしたら、それはもう「一律士気+3」でいいじゃないですか。
むしろ今まで完全に空ぶっていた輝元やら同盟やらがちゃんと機能しはじめるわけで。
単色ならどのみち士気15まで溜められる、2色でも13まで溜められて混沌を生み出せるという、長々と書いてた通り鬼強い仕様は残ってるわけで。
ついでお気持ち、自分的には士気流派3も何か変えた方がいいんじゃないのと思ってる。
士気流派を相手にしてるときの序盤中盤に攻めても損するだけ感、ゲージは落城までさせないとほぼ無意味感、なんかなって思うので。
なんかもっと……「残り20カウント以降、敵部隊を撃破したら士気+0.5」みたいな。いやただの思いつきだけど。とりあえず白兵やら兵力のやり取り絡んだがいいよねってことで。
みたいなことを書くと「長い。『士気流派が嫌いです』だけでいいよ」と、内容の陳腐化を図って引き分けを狙う人もいっぱいいるよね。
なんで嫌いかというと、対戦相手に出てきて15溜められてよっこいしょされると「連コする気が失せるから」なんです。
前verの氏邦忠勝みたいなのに負けても「チクショーうまく氏邦に乱戦できなかったな、負けたわ」ぐらいで普通に連コしてますよ。連コをやめる理由がない。
でも旗の時なんかは本当に 行く→1戦で旗→やっぱ帰るか→今日は往復ぶん時間の無駄したな が数日続いて、修正まで行かなくなったんですよ。チームのメンバーもプレイ頻度が激減してた。
面白いものなら全然金は払うつもりで遊びに行っているので、「連コしたくなる気持ち」に他の流派の何倍もダメージ与えてくる士気流派が嫌いなんですわ。以上や。
おわり
だから基本的に1文字ずつ変換していくわけだが、変換はできるだけスムーズに行いたい。多くの候補から選ぶことは避けたい。
もし常用漢字でない場合はググることやウィキペディることも辞さない。
劉備 玄米徳島から玄徳を抽出してググる。またはliu beiでググる
諸葛亮 孔雀明るいから孔明を抽出してググる。または諸君葛切り平均から諸葛均を抽出してググると「諸葛亮の弟」と出る
馬超 馬 超越
馬良 馬が良い
厳顔 厳しい顔
尹黙 藤原行成のWikipediaで見つかる藤原伊尹もしくは近衛前久のWikipediaで見つかる近衛信尹+黙
賈詡 膨張決済から張済を抽出してWikipediaを見ると張繡が見つかるのでそこからたどる
陳羣 陳列長文から陳長文を抽出してググる。または九品官人法のWikipediaを見る(学校の世界史に登場する数少ない三国志の人物)
夏侯惇 夏侯淵でググる。または元気に譲るから元譲を抽出してググる
楽進 楽に進む
何晏 何進のWikipediaで「孫は何晏」と出る。もしくは老荘思想のWikipediaで「何」で検索する
孫堅 孫 堅固
孫策 孫 策略
張昭 膨張昭和
張紘 膨張八紘一宇
周泰 周囲安泰
甘寧 甘くて丁寧
丁奉 丁寧に奉る
徐盛 徐行盛岡
董卓 呂布のWikipediaから見つける。または童卓でググる(誤り)
高順 高い順
郭図 郭(くるわ) 図
顔良 顔が良い
文醜 文が醜い
馬騰 馬 沸騰
鄧艾 姜維のWikipediaで蜀漢の滅亡あたりを見る。もしくは武士掲載から士載を抽出してググる
鍾会 姜維のWikipediaで蜀漢の滅亡あたりを見る。もしくは武士季節から士季を抽出してググる。もしくは鍾繇体(書道の分野に登場する三国志の人物)から鍾繇を抽出してググると「鍾会の父」と出る
羊祜 陸抗のWikipediaで「羊」で検索。または辛口憲法英語から辛憲英を抽出してググるかWikipediaを見る
王渾 王 渾身の一撃
2時間きっちりアホな映画見たなぁという確かな満足感があった。
雑兵が数十人ポーンと宙を舞ってそれを一閃で吹き飛ばすとか、武器がオーラを纏って地面が爆発するとか
ただ、時代をちゃんと考慮して二人とも若い青年の姿で登場している。
張飛、董卓、孫堅、袁紹あたりはゲームを忠実に再現しすぎていて「うーんこのコスプレ映画w」という笑いを禁じ得ない。
関羽だけは「ゲームを再現したい気持ち」は見えるものの、ちょっと顔が細くてメイクがブツブツで「もうちょっとイケメンでもよかったのでは?」という気持ちがぬぐえなかった。
おっと思ったのは映画の尺の都合もあったとは思うが夏侯惇や許チョなどの有名なサブキャラをざっくりと削っていたこと。
これを原作レイプとするか英断とするかは意見が分かれるとは思うが、個人的には話がすっきりしていてよかったと思った。
満寵
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
満 寵(まん ちょう、? - 242年3月)は、中国後漢末期から三国時代の魏の武将、政治家。字は伯寧。兗州山陽郡昌邑県の人。子は満偉・満炳・満氏 (司馬榦の妻)。孫は満長武・満奮。『三国志』魏志「満田牽郭伝」に伝がある。
目次
1 生涯
1.1 酷吏として出世
1.3 呉との攻防
2三国志演義
3脚注
生涯
酷吏として出世
身長は8尺(約190cm)あったと伝えられる。18歳の時に県の役人(督郵)になった。郡内で私兵を率いて乱暴していた李朔という人物は、二度と乱暴しなくなったという。高平県令を代行した際、督郵張苞(張飛の子とは別人)の横暴を見てこれを逮捕し、その場で拷竟(=拷問致死)した上で、そのまま自ら官職を捨てて帰郷したという逸話を持つ。
その後、曹操に仕えた。曹洪配下の将が曹氏の権勢を笠に着て略奪を行った時、満寵は速やかにこれを逮捕した。そして曹洪から曹操への働きかけがあった事を知ると、直ちに処刑した。この行為は曹操に大いに賞賛された。
楊彪が逮捕された際、荀彧や孔融に手心を加えるよう頼まれたが、満寵は規則通り(注によると、笞打ち)に訊問した上で、曹操に「処罰するなら罪を明確にすべきである」と直言した。このため曹操は楊彪を赦免した。
これらの事からわかるように、満寵は于禁と同様に誰に対しても公明正大で法に厳しかったが、傲慢ではなかったので人から疎まれることはなかった。
官渡の戦いの時期には、袁紹の郷里である汝南太守を務め、袁氏与党の軍を滅ぼし、農耕に従事させた。
曹操の荊州征伐に従い、曹操が帰還すると奮威将軍を兼務し当陽県に駐屯した。
孫権が国境に攻め入ると、曹操は満寵を召し還して再び汝南太守とし、関内侯の爵位を与えた。
後に、曹仁の参謀として樊城に駐屯した。219年、劉備軍の関羽が攻めて来た時は、救援に来た于禁ら七軍が洪水により壊滅し、樊城も水没して崩壊しつつあった。ある人が曹仁に降伏を進言したが、満寵は「山の水は引くのが速く、この状況は長くは続かない」と反対した。曹仁は満寵の意見を良しとした。徐晃の援軍を得て関羽が撃退されると、満寵は安昌亭侯に進封された。
呉との攻防
曹丕(文帝)の時代には揚武将軍となり、三方面から呉を攻撃したときも、それに従軍した。呉との江陵での戦いで功績を挙げて伏波将軍に任命され、新野に駐屯し仮節鉞となった。半年で曹真・夏侯尚・徐晃・張郃・文聘らとともに朱然と交戦したが、戦死者も数多となり、江陵を攻められなかったので撤退した。また、曹丕の南征に従って、敵の夜襲を見破り散々に打ち破ると、南郷侯に進封されたが、最終的に魏軍は呉に敗れた。224年には前将軍に昇進した。
228年、曹休・司馬懿・賈逵が揚州・荊州・豫州・雍州・涼州の五軍の指揮を執り、石亭・江陵・濡須東関に三方面から侵攻した。満寵は賈逵の軍に胡質達と共に監軍として従軍し、武昌を目指し進撃していたが、揚州方面の軍の指揮を執っていた曹休が孫権の計略にかかり大敗したため、犠牲者も数万人以上となり、敗れている(石亭の戦い・「賈逵伝」[1])。また、司馬懿や張郃らも江陵を攻め落れずに退却した。
同年、曹叡は濡須東関に賈逵・満寵らを命じて再び攻めてきたが、陥落させることができずに負けた[2]。
曹叡は呉・蜀漢に対して完全に専守防衛に行い、賈逵の死後に豫州刺史を兼任し、曹休の死後に都督揚州諸軍事となった。揚州への転勤の際、汝南の民や兵士の多くが満寵を慕って勝手についていったため問題になり、詔勅により親衛兵千人を率いていく事が許され、その他一斉が不問とされた。
230年には征東将軍となった。冬に再び孫権が合肥に攻め寄せる気配があったため、兗州と豫州の軍を召集する事を上奏し侵攻に備えた。孫権が撤退する気配を見せたので、こちらも撤退するよう詔勅が下ったが、満寵は孫権の撤退は偽装と読み、引き続き備えを怠らなかった。孫権は10日ほどしてから再び来襲したが、合肥を攻められなかったので無事に撤退した。
231年、呉の孫布という武将が投降を申し入れてきた。王淩がこれを出迎えたいと申し出たが、満寵は投降を偽装と読んだため、王淩に自重を求めた。偶然入朝する用事ができたため、留府長史には王淩が兵士を要求しても与えてはならないと厳命しておいたが、王淩は自らの督将軍に僅かな手勢だけを与えて孫布を出迎えに行かせた。王淩は呉に敗れ、孫布の夜襲により兵の多く失うことになった。
満寵と王淩はこれ以前から対立しており、満寵が召喚されたのも、王淩の息のかかった者が満寵を老いと疲れにより耄碌していると讒言したからであった。満寵と目通りした曹叡は、満寵が壮健なことを確認できたため[3]、任地に返そうとした。しかし満寵はこのまま朝廷に留まることを願った。曹叡は満寵を馬援・廉頗に準え鼓舞した。
232年、呉の陸遜が廬江に侵攻してきた。部下達がすぐに救援に赴くよう勧めたが、満寵は落ち着いて対処すれば良いとした。軍を整え、陽宜口まで赴いたところで呉軍は既に撤退した。
233年、孫権は毎年のように合肥侵攻を企てていた。合肥城は寿春の遠く南にあり、江湖に近接した位置にあったため、過去の攻防戦においては呉の水軍の機動力の有利さが発揮されやすい展開が多くあった。満寵は上表し、合肥城の立地の欠点を指摘した上で、北西に30里の地に新たに城を築くことを進言した。蔣済がこれを弱気な作戦であり、味方の士気を削ぐことになると反対したが、満寵は重ねて上奏し、兵法の道理を引きながら築城の長所を重ねて主張した。尚書の趙咨は満寵の意見を支持し、曹叡の聴許を得た。こうして合肥新城が築かれた。建設に莫大な費用がかかることもあって、合肥城ともども廃れていった。
同年、孫権が合肥に攻め寄せたが、合肥新城が岸から遠い場所にあったため、敢えて上陸しようとしなかった。しかし満寵は、孫権は武威を振るっているので、必ず陸に上がることに違いないと判断した。伏兵として歩騎兵を6千用意したところ、果たして孫権は上陸したため、伏兵により百人の首を斬った。
234年、孫権は十万の軍勢であると呼称し合肥新城に攻め寄せてきた(「明帝紀」)。蜀漢の諸葛亮の北伐(五丈原の戦い)は孫権に呼応して(「満寵伝」)、二十万の軍勢であると呼称し祁山に攻め寄せてきた。合肥の魏軍が苦戦に陥り、これを恐れていた満寵は合肥新城を放棄し寿春へ撤退する作戦を願い出たが、曹叡に拒絶されている(「明帝紀」)。満寵は、合肥新城へ救援に赴き、数十人の義勇兵を募り、松と麻の油を用いて風上より火をかけ、呉軍の攻城兵器を焼き払った上、さらに曹操と孫権の甥孫泰を射殺した。張穎達とともに力を尽くして戦ったが、呉軍は依然として頑強に猛攻した。魏の中央大軍が迫ったので、孫権は大損害を受ける事を避けて、曹叡の援軍が到着する前に撤退した(合肥新城の戦い)。
235年春、孫権は江北に兵を送り屯田を始めさせた。満寵は、収穫の時期に屯衛兵達が各地に点在し、陣が伸びきったのを見て、これを襲撃すべきと判断した。また各地の県長に軍を率いて東上させた。さらに各地の屯衛を撃破させ、穀物を焼き払った。詔勅により軍功が称され、鹵獲品は全て将兵の恩賞とされた。
曹叡が没し曹芳(斉王)の時代になった238年3月[4]、老年のため中央に召喚され太尉となった。家には余財がなかったため、詔勅により特別に物資が下賜された。加増による領邑は9600戸になり、子と孫2人が亭侯とされた。
子孫の満偉(子)・満長武(孫)・満奮(孫)もまた、身長が8尺あったと伝わる。満偉は人品に優れており衛尉まで上り、満長武は満寵の風格を有していたという。しかし、司馬昭に疎まれて殺害され、父の満偉もまた失脚し、平民に落された。満奮は満偉の弟の子であり、やはり満寵の風格があったという(『晋諸公賛』)。西晋の時代に尚書・司隷校尉となった。
また、満寵のもう一人の子満炳は別部司馬となった[6]。
三国志演義
小説『三国志演義』では、劉曄の推薦を受けて曹操の家臣となり、楊奉配下だった旧知の徐晃を曹操陣営に引き入れることに成功するなど、物語の初期においては弁舌の士という描かれ方がされている。
袁術プレイで袁紹を攻めるときこう言われたら兄弟だと思ってしまっても仕方がない。兄弟仲良くしようってか?乱世でそんなこと言う?乱世だからこそ?
袁術と袁紹が兄弟かどうかはさておき、三国志では兄弟同士の争いはあるが、コーエーの三国志のシナリオでは国レベルに勢力が分かれて争う例はなかったように思う。新しい作品かPKの追加シナリオではあるのかもしれない。
信長の野望では兄弟が敵対勢力ってのは織田家(信長・信勝、信雄・信孝)や浦上家である。北条や大友や伊達や佐竹のような他家に養子を送り込む大名家は兄弟同士で争うことができる。
それをいったら三国志の方は君主の後継者がノブヤボのように一門に限らない感じなので、敵に捕まってそこに仕えることになった兄弟が君主の死によって跡を継ぐと兄弟同士で敵対できる。
なわとび:600回
ボクシング:159kcal
徒歩:227.9kcal/7639歩
3日連続
岩波新書の中国史の一巻を読んでみたらわりと制度史的な記述が中心でやや面食らった
確かに新書の紙幅で長大な中国史の全貌を一端なりとも描こうとするならばダイジェスト版をやるよりもウルトラロングスパンで歴史を眺めて、そこから見えるものを描いたほうが意味があるなあとは思う
中国、割と初期から官僚制が発達してきたので、富裕層はいても貴族と呼べるような存在はなかなか生まれにくいのが面白いところ
広大な面積を統治するには貴族制ではうまく行かないということだろうか
袁紹が名族を連呼するのは代々官僚を排出する家柄はあっても、貴族の家柄というのは存在しないからだったんだな
てっきり日本の九州みたいな九つの地域の概念があるのかと思っていたら、そうではなくて数千里四方(サイズは時代によって変わる)の正方形の土地を1州として、9個四角く並べた概念上の中国の範囲が九州なのだそうだ
そういう代物なので、九州は実際的な行政上の単位として使われるようなものではなくて、すごくざっくり中国全土を指す言葉らしい
安倍首相を醜く描くことで庶民のイメージを悪化させることに一定の意味はある
でも陳腐化させた敵と戦っても勝てない
官渡の戦いで袁紹が曹操を過小評価していなかったら、田豊沮授の持久策を選択したかもしれない
ドアを蹴破っても崩れないと仮定したらヒトラーはソ連への不可侵を破らなかったかもしれない
敵の戦力を過小に見積もってもいいことは何もない…正しくとらえるからこそ、対抗策は生まれていく
安倍政権に対してはまずは、金融政策へは一級品との評価を与え、そこから財政拡大への道筋をつけられなかったことを批判すべきではないか
さて財政拡大するためには、社会保障問題をどうするかという問題がのしかかってくる
ここを無視して財政拡大を進める選択肢もあるだろう。しかしその根拠を作り出すのは難しい。
デフレや国債の強さは根拠になりそうだが、銀行や日銀が買い手であることが担保になっていることは否定出来ず、金融政策の転換でA+からさらに低下する可能性がある。
そうなると財政赤字を増やせないなら社会保障費を削り、先進技術への投資をすべきと言う話になる。
しかしこれは確実に票田が失われる。なので、安倍政権は出来ないでいる。逆に立憲は社会保障費を削り、なおかつ支持を集めることができるだろうか?
「立憲ならこういう社会が実現する」の仮定は、政権が存続されうる票田を獲得するという根拠がないと意味のないものだ
どこから票を集めるのか?についてて議論することが政権獲得に不可欠なものだが、市中での立憲支持層は労働者としてのポジショントークに終始し、安倍政権の金融政策を評価することすら出来ないでいることが多い
そのあと董卓っていう奴が独裁者になって暴れるんだけど、部下の呂布という奴に殺される。
朝廷はぐちゃぐちゃで統制が効かなくなってしまい、各地の将軍たちが独立して戦国時代みたいになる。
そのころは大陸の北の方が豊かで人口も多く、その覇権を巡って曹操と袁紹という二大勢力が戦って、曹操が勝つ。
曹操は日本の戦国時代で言えば織田信長みたいな冷徹な天才タイプ。
しかし大陸の南東のほうで勢力を拡大していた孫権という奴に「赤壁の戦い」で大敗する。
また、孫権に協力していた劉備という奴が、その戦いのあとの隙をついて大陸の南西の方を占領する。
劉備は豊臣秀吉…と言いたいけどわりと違くて、やたら仁義と忠義にこだわる良い子ちゃんタイプ。
北半分を得た曹操の「魏」、南東を得た孫権の「呉」、南西を得た劉備の「蜀」。
特に劉備が主人公格で、義兄弟の関羽・張飛と共に、紆余曲折を経て国を打ち立てるまでが前半。
でも建国した矢先、関羽は呉と戦って殺されてしまい、張飛も部下に裏切られて殺されてしまう。
義弟たちを殺されて怒り狂った劉備は呉に攻め込むんだけど大敗して死ぬ。
そして劉備の軍師であった諸葛孔明が、劉備亡きあと、圧倒的な力を誇る魏に対してさまざまな奇策を持って挑む、というのが後半のストーリー。
既に曹操も死んでいるから、魏の将軍の司馬懿という奴が孔明のライバルになる。
孔明は魔術的な天才軍師として描かれ、司馬懿を相手に連戦連勝する。
孔明の死後は、後継者の姜維を中心に、蜀も粘るんだけど、ついに魏に降伏することになる。
具体的に言うと、鍾会という野心旺盛なエリートが姜維を釘付けにしているあいだに、鄧艾というドモりが酷いおっさんが間道を通って蜀の首都を攻め落とす。
でも鄧艾のことが気に入らない鍾会は、鄧艾の勝手な振る舞いを讒言して殺してしまう。
さらに姜維に唆されて、鍾会は蜀の地で独立してやろうとするけど、あっさり発覚して鍾会と姜維は殺される。
そいつらが蜀の滅亡の後に魏を乗っ取って、「晋」という国をつくる。
この晋の名将に羊祜という奴がいて、最後に残った呉をいつ滅ぼそうかと手ぐすねを引いていた。
二人は国境を挟んで互いのことを認め合い、手紙や酒を送りあうほどだった。
この頃の呉は、晩年に耄碌した孫権が、悲惨な後継者争いを引き起こして国力が低下。
陸抗の力によってようやく保っている有様だった。
やがて羊祜も陸抗も亡くなったあと、羊祜の後継者となった杜預という奴によって、ようやく呉は滅ぼされた。
おしまい。