
はてなキーワード:芭蕉とは
道頓堀に飛び込むという行為を、ひと事のように笑い飛ばす風潮に、静かな怒りを募らせている。
人は自らの愚かさを露呈する。
先人はこう嘆いたものだ。
──十九世紀末、戯作者式亭三馬が描いた講釈本に、道頓堀の名物「堀の人」を捉えた一節がある。その男、名を柄井丈吉という。酔客の好奇心を満たさんと、夜毎鏡川の艪から身を投じ、人々を驚かせたという。だがその飛躍は賢慮に欠け、川水に呑まれて三度、死の淵をさまよった。生還したのは奇跡か、それとも文字の海に生き永らえた噂話の宿命か。
増田はこれを「芸」と呼ぶ者の無知を嘆く。柄井丈吉が生き延びた後の話を誰も知らないのは、川底に沈んだ教訓ごと人々が忘却の淵へ投げ捨てたからだ。堀に飛び込むという演出の下敷きには、「他者の目を引きたい」という極めて卑近な動機があり、自尊と無謀が拮抗する。知らず識らずのうちに、飛び込む者は己の無恥を世界にさらす。
現代の道頓堀もさほど変わりはしない。SNSに映る若者の楽しげな姿は、泳ぐことのない浅瀬へ足を踏み入れる蛙めかしい所作に他ならない。お祭りの喧騒が「涼」の幻想を煽るたび、飛び込み願望は膨れ上がる。だが、そこで待つのは得難い涼恵(りょうけい)ではなく、ヒルの如き流れの冷酷さと、下流の水路に隠れたゴミと油膜の毒気だ。
かつて文人たちは、水底に深く潜ることの危うさを讃えた。芭蕉は河畔を歩き、川音に耳を澄ませながらも、決して淵には近づかなかった。川は人の軽率を見透かし、冷たく拒むからである。増田は言う──「淵から身を引く勇気こそ、本当の度胸だ」と。
道頓堀の水は、観光資源としての華やかさと同時に、都市の猛毒を内包している。下水が混じり、水質汚濁が進む夏場には、病原菌の巣窟と化す。飛び込んだ者は、無邪気な快楽を追い求める一方で、自らの体に細菌の羅列を招き入れる。病みつきになっても、川は返歌など持たない。
そして、思い出せ。かつて柄井丈吉が三度、川に呑まれたのは、彼自身の好奇心が引き金だった。三度生き延びたのは幸運だが、誰もその後の彼の生涯を語らない。転じて言えば、飛び込むことの代償は後生にまで残るが、その傷跡は誰にも見えない。
増田は総括する。――夏の道頓堀に飛び込む愚かさは、江戸時代の戯作者も、現代の若者も変わらぬ。見せ物小屋の梁の上で綱渡りを披露するような輝きはない。自ら選ぶ快感の陰に、いつか病苦と後悔だけが残る。
涼を求めるなら、橋の上から川縁の縁台に腰掛け、水面を眺めよ。そこに映る蜃気楼のような涼しさは、安全と礼節を兼ね備えた、もっとも賢い愉しみ方なのだから。
日本人の月見という習慣はそういう美意識がどっかで湧いたってわけじゃなくて「典故」と「信仰」の二つのルートがあるのですのだ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2531074
典故ってのは何かにつけて漢籍(漢文の本)を引用したりなぞらえること。特に風物表現で多いのが漢詩。
例えば「四季」ってのは漢詩で季節を表現するのに擬えて和歌を詠んで散文にも応用されて行ったもんだし、日本文化独自性が高い俳句でも多い。
また例えば芭蕉は「象潟や雨に西施がねぶの花」って俳句を詠んでるけど、西施ってのは中国四大美女の一人で、悲劇の死を遂げた女性。んでさ、この人が溺死させられたって伝説があるので西湖と名付けられた湖があるんだけど、ここって今は内陸の湖なんだが昔は潟湖(ラグーン)だったのよ。で、芭蕉が訪れた時代の象潟もラグーンで、松島のような多島海でとても美しかった。でもそこで「きれい」って言っちゃうとあたまのわるいひとイラストみたいになっちゃうってんで、悲劇の美女西施→潟湖の西湖の風景という諧謔というか教養連想ゲームをやってるわけです。
やべぇ例示だけなのに長くなってしまったな。因みにこの象潟は芭蕉の後に地震があって、輪島の海岸みたいに隆起して芭蕉が感嘆した景色は無くなってしまった。今は田んぼの中に丘が点在する風景になってる。
こんな風に昔の日本は漢籍を引用するのが教養だったんで、そういう知識は最早常識だったんやな。
んで、月見の方も平安時代に貴族がやり始めたんだけど、やっぱり漢籍の記述で中国で古代からやってるという中秋節を真似たんや。旧暦8/15(太陽暦では9or10月)に月餅やら何やらを並べて宴をする。貴族の間でもっと多かったのが船を出して、水面にゆらゆらと写る月を眺めて宴をしてうたを詠んだりしてた。こういうのを観月という。
んで、これが段々と庶民にも伝播して行ったらしいんだけど、正直江戸時代までの間の庶民の動向って言うのはよー判らんのや。何故なら庶民文化が栄えたのって江戸時代で、それまでは庶民間の事柄を紙に記すって事が殆どなかったから。
で、もう一つのルートが月待講ってやつ。江戸時代には庶民が比較的裕福というか生活に余裕ができ、色んな民間信仰が現れた。そしてそれらが紙に残った。
例えば山講。山ってのは霊的なもので、それに登るって事が霊的体験とされていた。山は女人禁制で「○○山講」という幟をもって山伏みたいな格好で延々と歩いて行って登山を敢行する。信仰の場だったのだな。
富士山が世界遺産に登録されたのは、別に日本人に愛されてるからとかじゃなくて、こういう信仰があって今の登山がそれと連続的って事ですのよ。
例えば庚申講。道教とか神道、民間医療なんかがごちゃ混ぜになった信仰で人間の体には三尸(さんし)の虫っていうのが住んでて60日ごとの庚申の日に寝てる間に閻魔大王に悪事をチクるから徹夜で宴会してチクるのを止めさせようぜという、今となってはなんだそれな信仰だ。
都電に「新庚申塚」って電停がある様に、日本中あちこちに庚申塔が建てられてその近くの家で飲み食いされていた。今はこんな風に放置されてる。
https://maps.app.goo.gl/FM8d8fD19SAK3Ubc7
こういう「講」(信仰の寄合)の一つに月待講というのがあった。お月様信仰やな。
月には月齢があって、新月、三日月、満月、半月と形が代わるけど、その各々に別個の信仰があった。んで、この信仰は別にお月様だけに影響を受けてるんじゃなくて、土着の信仰が仏教と結びついていた。
仏教では色んな観音様や菩薩が居るけど、月齢ごとに別の本尊を崇めていた。この辺はカトリックの職業別聖人信仰に似ているね。
月齢ごとに信仰があると言っても、今みたいに電車と車で好きな場所に行ける訳じゃないから、この村は○○夜、あの街は○○夜と分かれていた。
で、その中で非常に多かったのが二十三夜、十九夜、十五夜だったってワケよ。
二十三夜は特に多くて、日本中に地名として残ってる。こんな風に
https://maps.app.goo.gl/KDXw6ZBhwiyA4bYZ7
また、「三夜」と省略されて地名になっている所も多い、三夜様とかね。
もう一つ特別なのが十九夜で、これは如意輪観音が本尊。右膝立てて右ひじ突いてる観音様だ。
これは「安産講」として特別で、女の人以外は参加禁止の集まりだった。
これも十九塔があちこちに残っているが、地名としては「子安」というのが残ってる場合が多い。
「子安寺」が子安の由来の場合も多いが、そもそも昔の寺には色んな神様も祀られていた神仏習合だったんで、当然十九夜待が行われて居た寺もあって、それで子安寺になったケースもあるのだな。
十五夜はいうまでもなく満月待やね。本尊は大日如来、阿弥陀、薬師、観音様、地蔵、虚空蔵と、オールキャストだ。
で、庚申講もそうなんだが、段々信仰がどうこうっていうのはいい加減になって行って、単なる寄り合い、宴会、食事会の言い訳になって行っちゃうわけよ。十九夜とかも「観音様、どうか子宝と安産を」と願うっていうよりただの女子会になってまう。「観音様が持ってる宝珠ってチンタマーニって言うんだって」「うちの亭主も二つ持ってるワイよギャハハ」とかなっちゃうってワケ。
それで段々都市化が進むと寄合なんてジジババくせえとか軽視されて廃れて行っちゃった。でも場所によっては昭和40年代まではやってたらしい。
月見でお団子お供えして食べるっていうのは完全にこっちの月待講が由来なんね。
一方、ススキ飾るのは、旧暦8/15(太陽暦9or10月)の中秋節由来やね。
だから二つがごっちゃに混ざってるってこと。
新月の次の日:既朔
十四夜:小望月、待宵
十六夜:既望
十七夜:立待
十八夜:居待
十九夜:寝待
廿夜:更待
これも漢籍典故による特別視から月待などの各月齢ごとの神聖視へと変化していくにあたって生まれた表現と考えられるのだ。
日本産ゲームのリプレイ動画とか見てると、このへんのことが海外では認識されていないので「これってなに?」みたいな英語コメントが付いているのを目にするのだ。まぁそれは当たり前だ。
大抵、西洋のルナティック=満月が人を狂わす、と日本の月を愛でる習慣、月のうさぎが合わさっているので割とハイコンテクスト。
でもそれに日本語で答えているコメントが月を愛でる習慣が信仰から来ているってことが判ってないので説明できていないっていうのを目にする。
近所の今まで気が付かなかった「○○夜」「子安」の地名を発見して訪れてみるっていうのも自文化の勉強なんですよ、草むらの中に○○夜塔が残っているのを発見するって事もあるんですのよ。
ついでに花見なんだが、これも昔からある風習だったけど、江戸幕府が奨励して盛んになったんすよ。
江戸幕府は水防工事を沢山やったんだけど、堤防って突き固めが緩いと崩れてきてしまう。でも昔は機械が無い。
そこで堤防に桜を植えて「花見やれ」と奨励したのだ。すると毎年人がどやどややってきて歩くから土が締まるって寸法だ。だから川べりには桜が多いのだね。特に古い堤防は桜の名所になっているってわけ。つまりは官製文化の面があるの。
「奥の細道」を歩き続けた俳聖・松尾芭蕉(まつおばしょう)と、「侘び寂び」を極めた茶聖・千利休(せんのりきゅう)が、京都・鴨川(かもがわ)の河原でまさかのストリートファイトだ!
発端は些細(ささい)なことだった。芭蕉が詠んだ一句「古池や蛙飛び込む水の音」に対し、利休が「その句には侘び寂びが足りぬ」とダメ出し。これに芭蕉が激怒(げきど)、「おのれの茶など、ただの苦い湯ではないか!」と応戦。
「ならば貴様(きさま)に侘び寂びを教えてくれるわ!」と、利休は愛用の茶筅(ちゃせん)を構え、芭蕉も旅の杖(つえ)を握りしめ、戦闘開始だ!
「閑(しず)さや岩にしみ入る蝉(せみ)の声!」芭蕉が叫びながら杖で攻撃すれば、「一期一会(いちごいちえ)とは、まさにこのこと!」利休は茶筅で華麗(かれい)に防御(ぼうぎょ)。
「三尺(さんじゃく)の庵(いおり)に宇宙を見る!」利休が叫べば、「月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行きかふ年も又旅人也!」芭蕉も負けじと叫ぶ。
勝負は一進一退(いっしんいったい)、まさに互角(ごかく)。しかし、最後は両者(りょうしゃ)とも疲れ果て、鴨川のほとりに座り込んだ。
「やはり、おぬしは只者(ただもの)ではない」利休が言えば、「そなたこそ、茶の道(みち)を極めた男よ」芭蕉も相手を称(たた)えた。
そして二人は、互(たが)いの健闘(けんとう)を称えあい、仲良く抹茶(まっちゃ)を点(た)てて飲んだという。
俳聖と茶聖のストリートファイトは、まさかのノーサイド。しかし、この戦いは、後世(こうせい)に語り継(つ)がれる伝説(でんせつ)となったに違(ちが)いない。
源義経は平泉で死なず、ここから大陸に渡ったという伝説から。なんで義経の名前じゃないん?
義経一行が一冬過ごしたと隠れ里という伝説。なんで義経じゃry。
芭蕉の句碑の土台に空いた穴は弁慶の足跡と言われるが、時代が合わないような。
明確な由来はよくわからなかったが、たぶん義経の逃避行中に立ちよった場所なんだろう。なん義。
逃亡中に生まれた義経の子の名前を付ける際にここで墨を擦ったとされる。硯持ってなかったんか。
頼朝の軍勢から逃亡中に岩壁を馬で飛び越え、弁慶の馬の蹄の跡が残ったという伝説が残る。
江戸時代の大工、弁慶小左衛門が作った橋。武蔵坊弁慶とは無関係。
弁慶がここにある井戸から汲んだ水で墨を擦り、般若心経を書写したという伝説より。弁慶って普通に坊さんやってる伝説あるんだな。
岩が積み上がった天然のトンネル。今にも頭上の岩が落ちそうなので弁慶ですら渡るのを躊躇したから、と言われる。
近くに瓶割坂という義経由来の坂があるが、こちらの由来はよくわからず。単に通ったから?弁慶坂多いな。
頼朝勢からの逃亡中にここで弁慶が洗濯したという伝説から。海なんだけど、海水で洗濯したの?
大岩に空いた穴が足跡に見えることから。何故弁慶なのかわからないが、義経軍が進軍した場所だかららしい。ちなみに近くに弁慶の弁当と言われる岩もあるとか。さすがに岩は食べないだろ。
古墳なのだが、怪力の弁慶が巨石を積み上げたんだろうと地元民が言い伝えた結果、この名が残ったそうな。
脛のこと。弁慶ですら強打したら泣くほど痛い箇所。
弁慶の名前付くの多すぎる。これ以外にもいっぱい。名前付いてなくとも弁慶伝説由来だったりするのもたくさん。
みんなに好かれてたんだなあ。