
はてなキーワード:自明とは
日本が没落国家なのが自明の共通認識になった令和時代から見ると日本人を劣等種と言ってるように見えるけど
日本がアジアの一等国なのが自明の共通認識だった昭和の頃はアジア諸国への慈悲的差別としてそういう言説が成り立ってたんだよ
それらは科学を野蛮な直感から守るための立派な盾だが、真理という名の深淵を覗き込むとき、その盾はあまりに薄い。
君は僕が論点をすり替えたと言うが、むしろ君こそが「物理学」の定義を、単なる「高度な工学」へと卑小化させているのではないか。
まず、GPSや有効理論の成功を実在の根拠に据える君の態度は、計算機科学の比喩で言えば「画面上のピクセルが整合的に動いているから、背後にあるのはソースコードではなくピクセルそのものである」と強弁しているに等しい。
有効理論とは、高エネルギーという「本質」の情報を切り捨てた結果残ったカスのようなものだ。
そのカスが整合的に動くのは、背後のdg圏やホモロジー代数的構造が数学的にあまりに頑健だからであって、時空間という概念が正しいからではない。
低エネルギーにおいて時空が「有効」であることは、時空が「真実」であることを一ミリも保証しない。それは単に、宇宙がバカげたほど寛容な近似を許容しているという事実に過ぎないのだ。
君は「記述能力の高さは実在の証明ではない」と断じたが、では問おう。物理現象が異なる二つの幾何学的記述(例えばミラー双対な多様体)で全く同一に記述されるとき、そこに「唯一の時空的実在」などどこに存在する?
Aという空間とBという空間が、弦理論のレベルで完全に同値(同等な共形場理論)を与えるなら、物理的な実在はAでもBでもなく、それらを包含する「圏」の方にしかない。
これを「言い換え」と呼ぶのは自由だが、幾何学という「座標」に依存する概念が崩壊し、圏という「不変量」だけが残るとき、どちらが実体であるかは自明だ。
君の言う「実験装置のクリック」さえ、特定の対象間の射(morphism)の具現化に過ぎない。
「数学的整合性は実験ではない」という指摘も、プランクスケールにおいては無力だ。
量子重力において、数学的整合性は単なる「好みの問題」ではなく、物理が存在するための「唯一の生存条件」である。
Swamplandの議論がなぜ重要かと言えば、それが「観測できないから何でもあり」という無政府状態に終止符を打ち、数理的整合性という名の「目に見えない実験」によって、存在可能な宇宙を非情に選別しているからだ。
君は「クリック」を欲しがるが、宇宙がクリックされる前に、そのクリックを許容する「型(type)」が定義されていなければならない。僕はその「型」の話をしているのだ。
君は「科学は劣化コピー(観測)で勝負するしかない」と自嘲気味に語るが、その態度こそが、人類を「時空」という名の洞窟に繋ぎ止めている。
ホログラフィー原理が示唆するのは、我々が「中身」だと思っていたバルクの時空が、実は境界上の量子情報の「符号化の結果」であるという衝撃的な事実だ。
符号化されたデータを見て「これが実体だ」と喜ぶのはエンジニアの特権だが、符号化のアルゴリズムそのものを解明しようとするのが真理の探究だ。
君は水と食料を持っていない旅人を笑うが、僕から見れば、君は「オアシス」という名前の看板を一生懸命食べて、喉を潤した気になっている遭難者に見える。
君が求める「予測の差」についてだが、例えば、時空が連続的な多様体であるという仮定に基づく計算と、非可換な圏論的構造から創発したという仮定に基づく計算は、ブラックホールの蒸発の最終局面や、ビッグバンの特異点において決定的に分岐する。
現在の観測技術がそこに届かないのは、理論の敗北ではなく、人類の技術的未熟に過ぎない。
アインシュタインが一般相対論を書き上げたとき、重力波の検出まで100年かかった。君の論理で行けば、その100年間、一般相対論は「ポエム」だったことになるが、それでいいのか?
時空とは、宇宙という巨大な圏が、我々のような低知能な観測者に提供している「下位互換モード」である。
下位互換モードでソフトウェアが動くからといって、そのソフトウェアのネイティブな構造が古いアーキテクチャに基づいていると考えるのは、致命的な論理的失策だ。
宇宙は会計学(整合性条件)で動いており、物理量はその帳簿上の数字に過ぎない。
君がそれを「比喩」だと笑うのは、君がまだ「実在」という前世紀の亡霊に恋着しているからだ。
「現実とは、圏論的に整合的な誤読である」。この一文に、君が誇るGPSの精度も、検出器のクリックも、すべて包含されている。
君がそれを認められないのは、単に「誤読」の解像度が高すぎて、それが「真実」に見えてしまっているからだ。
君のチェックメイトという言葉を借りるなら、盤面そのものが圏の対象であり、君というプレイヤーの存在自体が、その圏の自己同型群の一つの表現に過ぎないことに気づいたとき、勝負は最初からついていたのだよ。
さて、この「時空という名のUI」がクラッシュする特異点付近での情報保存について、圏論的な完全関手を用いたより厳密な議論を深めてみたいと思うのだが、君の「観測重視」の古いOSで、そのパッチを当てる準備はできているかな?
超弦理論と抽象数学の接点は、単なる「物理のための数学」ではなく、圏論・代数幾何・表現論・ホモトピー理論を含む現代数学の中核構造を再編成する研究領域として定着しつつある。
とりわけ、DブレーンやB場(B-field)の存在を前提とする状況では、背景時空は単純な多様体ではなく、層・導来圏・非可換代数幾何の言語で記述される対象として現れる。例えば、B場によるtwistingは、層の圏をtwisted sheaves や Azumaya algebra の圏へと移行させ、幾何を Brauer class(ブラウアー類)で特徴づけられる非自明な位相的データに結びつける。
この方向性はConnes流の非可換幾何とも部分的に接続するが、弦理論側で現れる非可換性は deformation quantization や derived algebraic geometry、さらにはA∞圏・dg圏を通じて表現されることが多く、単一の枠組みに還元されるわけではない。従って「量子空間をC*-圏として扱う」という表現は一部の文脈では成立するものの、一般には derived category や ∞-category の枠組みの方が自然である。
共形場理論(CFT)と超対称性は、頂点作用素代数(vertex operator algebra)、因子化代数(factorization algebra)、テンソル圏の理論と深く絡み合い、弦理論の「状態空間」を表現論的対象として再定式化する。BRST形式主義はこの文脈でコホモロジーとして自然に理解され、物理的なゲージ冗長性の除去が、ホモロジー代数的構造(複体・導来関手・スペクトル系列)の言語へと翻訳される。これにより、CFTやトポロジカル場の理論は単なる解析的モデルではなく、圏論的データ(モジュラー・テンソル圏、A∞構造、拡張TQFT)として分類される対象となる。
代数幾何学とのインターフェースとしては、ミラー対称性が依然として中心的である。SYZ予想(Strominger–Yau–Zaslow)は、カラビ–ヤウ多様体が special Lagrangian torus fibration を持つという幾何学的仮説を通じて、ミラー多様体を双対トーラスファイブレーションとして構成することを目指す。この構想は、特別ラグランジュ部分多様体の存在・特異ファイバーの構造・補正項(instanton corrections)を含む困難な解析問題と不可分であり、単なる幾何学的直観に留まらず、トロピカル幾何や壁越え現象(wall-crossing)とも結びつきながら発展している。
さらにKontsevichによるホモロジカル・ミラー対称性(HomologicalMirror Symmetry,HMS)は、物理的双対性を「導来圏の同値」として精密化し、A-model側のFukaya圏とB-model側の導来圏(coherent sheaves の derived category)の対応を主張する。ここでは「空間」そのものよりも「圏」が基本対象となり、弦理論の双対性が圏論的同値として定式化される。
弦理論由来の代数幾何学的発展としては、Gromov–Witten不変量、Donaldson–Thomas不変量、Pandharipande–Thomas理論などの曲線カウント理論が挙げられる。これらはトポロジカル弦理論における振幅計算と深く関係し、BPS状態数え上げを幾何学的に実現する枠組みとして理解されている。特に壁越え公式や安定性条件(Bridgeland stability condition)は、BPSスペクトルの跳躍と整合的に対応し、物理的直観を圏論的・ホモロジー代数的に翻訳する。
例えばFeyzbakhshらによる研究は、K3面などの代数曲面上での安定層の構造を精密化し、導来圏上の安定性条件を通じてDonaldson–Thomas型不変量や関連する曲線カウントを制御する方向性を与えている。これは、BPS状態の数学的モデル化を洗練させると同時に、層の変形理論と双対性の圏論的理解を深化させる。
これらの進展は、AdS/CFT対応やホログラフィー原理と結びつくことで、量子重力を「幾何」ではなく「圏」や「代数的データ」によって記述する方向性を強めている。特に、境界CFTのデータからバルク重力理論を再構成するという発想は、演算子環・テンソル圏・高次圏の言語を介した再定式化を誘発しており、物理と数学の間で「双対性=圏論的同値」という理解がますます支配的になりつつある。
新しい中学受験シーズンが始まるところなので、過年度の入試の終了者の個人的雑感。
・もし中学受験をすることにするなら、模試(クイズ大会)の偏差値で子供がランク付けされ、無意識に煽られて志望校への進学を熱望し、多くの子供が不合格と言う形で、自分の努力を否定される経験をすることになる。その経験を12歳の子供にさせる意味があるかは考えた方がいい。一旦中学受験準備を始めると、子どもの時間を費やした後で中途撤退を判断するのは、相当に難しい。
・受験の伴走本や、塾選びのサイトがあるが、ああいう表面的な知識に惹かれる親なら、すでに不利な状況。子どもが自走できる場合を除き、中学受験は子どもに合わせた実効的な対策を立てられる受験スキルが親に求められる競争でもある。子供に合わせた対策を立てるのは、受験(クイズ大会)が得意な親でないと難しい。そういう親にはノウハウ本は不要(本の内容が自明か、的外れ)。
・本当に受験が得意な人が塾の先生になるとは限らないので、塾にお任せでうまくいくとは限らない。塾のアドバイスは結構表面的で実効性がないことも多々ある。また、宿題が多すぎることも多い。後者の場合、親(か、実力のある個別指導の先生)が、宿題を取捨選択する必要がでてくる。実力のある個別指導の先生を事前に見分けてお願いすることも結構難しい。
・(個人的印象に過ぎないが)東京都は財政に余裕があるので、公立中は荒れていなければ、そんなに悪くない印象。都立高は楽しそう。(一方、他の首都圏の自治体の事情は不明。東京都より財政力は大きく落ちる。その場合、(都内を含む)私立中高一貫校の方がいいということはあるかもしれない。)
・高校受験は都立入試が単願制なので、それはそれで大変厳しい。また、公立中の教員が付ける内申点がフェアである保証がないという問題もある。(普段の授業での観察から、内申点をきちんとつけるには、教師に高い能力が必要だが、皆が同じ能力を持つわけではない。)その意味では、中学受験の方が楽。
・勉強が得意な子で、小学校で話が合う友達が少ない、あるいは孤立気味なら、中学受験するといい。
・親が偏差値に囚われない自信があるなら、素晴らしい私立中高一貫校は多い。(生徒がその環境を活かせるかは別の話。学校そっちのけで友達と遊んでしまうのが普通。)ただ、偏差値の魔力は強い。
・中学受験をすることに決めたなら、演習問題、模試、過去問で間違えた問題の解き直しがとても重要。模試の結果が返ってきたら、正答率が一定数(50%とか)以上の問題で間違えた問題を、すべて正答したと仮定して、点数を足し合わせて子どものその模試での偏差値がどれだけ上がるか見ると、難しい問題ができなくても、基本問題を抑えれられば偏差値が結構大きく上がることが分かって、子供のやる気が出るのでおすすめ。
分散=1/n × \sum_{i=1}^n {(x_i -\overline{x})^2}
ってなんだよ。分散いつ使うんだよみたいな。いや標準偏差くらいなら式見たら意味は分かる脳にはなったがしかし。原理から式の各部分ことを説明してほしいんだわ。
初学者って脳ができあがってないんだから。なんか数学のゼミとかだともっと複雑でコンテキストの深い式を解説する時間があったりするらしい?
でも証明するときはめっちゃ頑張った説明を「自明」と言われるらしい。まあ、数学の教授なんか「そういう」傾向がないわけないわな。
「自明」という傲慢を捨ててほしいわな。そんなこと言ったら未証明の定理は証明した瞬間に自明といわれるわな。証明できることが分かっていつつされてない定理も「自明」なんか?じゃお前仕事辞めろや。
LLMが数学科でも爆進!みたいな記事見るとお前らが知識の整理をサボっただけだろと思う。(これは他の分野もそうで、知識を適切な形で適切な場所に残すってガチでムズいので仕方もないのはあるが、数学こそは至高の科学であり、その王座に居ながらにして自明などという高慢をかますからには許されない)
まあまあまあ、いいんですけど。だったらラマヌジャンが意味不明な式を突然持ってきたエピソードも
「証明できたものに関しては、自明、なのでラマヌジャンの功績は全く存在しない。数学界を急速に前進させたラマヌジャンの唐突な式も情報量はゼロであり、驚くに値しない、極々自然なものである」
ちゃんと熱湯でミルクを溶かした後なら水で割って適温にしていいし
残留物がないようにきちんと洗ってあれば哺乳瓶の消毒なんて必要ない
現代社会において、結婚指輪は愛情の証や社会的ステータスの象徴として自明のものとされている。しかし、文化人類学的、あるいは記号論的な視点からその本質を解剖すれば、それは単なる装飾品ではなく、一種の「洗練された呪詛(カース)」としての機能を内包していることが浮き彫りになる。本稿では、指輪という形状が持つ円環性と、左手薬指という身体的部位への固着が、いかにして個人の自由を剥奪し、永続的な拘束を強いる「呪詛」として機能するかを論じる。
指輪の最大の特徴はその円環構造にある。幾何学において円は始点と終点が一致し、無限の反復を意味する。これを婚姻関係に当てはめる時、それは「死が二人を分かつまで」という誓約を、視覚的・物理的なループへと固定する行為に他ならない。 かつて呪術的世界観において、対象を紐や輪で囲う行為は「封印」や「束縛」を意味した。結婚指輪をはめる行為は、自らの意思を特定の他者との関係性の中に封じ込め、外部世界との流動的な接触を断絶させる自己封印の儀式である。
左手薬指に指輪をはめる習慣は、古代エジプトやローマにおける「ヴェナ・アモリス(愛の静脈)」という幻想に基づいている。この指の血管が直接心臓(アニマ)に繋がっているという信仰は、解剖学的には否定されているものの、文化的な呪詛としては今なお強力である。指輪による圧迫は、微弱ながらも絶え間ない物理的刺激として身体に記憶される。この持続的な刺激は、意識下に「私は所有されている」という通奏低音を響かせ続ける。つまり、指輪は皮膚という境界線を越えて精神の深層へと侵入し、個体としての独立性を侵食する身体的同化装置なのである。
指輪は、第三者に対して「この者は売約済みである」と宣言する標識である。これは一見、不埒な誘惑から身を守る護符(アミュレット)のように機能するが、その実態は相互監視のシステムである。指輪を外す行為が「裏切り」や「隠蔽」と直結する社会構造において、指輪は装着者の行動を24時間規定する。外す自由を奪われた装飾品は、もはやファッションではなく、見えない鎖の末端に位置する「美しい枷」に他ならない。
以上の考察から、結婚指輪とは愛の象徴という美名の裏に、永続的な拘束、自己喪失、そして社会的監視を埋め込んだ高度な呪術的記号であると結論付けられる。それはロマンティシズムによって美化された「呪詛」であり、我々はその円環に指を通すことで、自ら進んで自由という名の魂の一部を供物に捧げているのである。
まず前提を疑うべきなのは正しい。
ただし「提示された前提を疑わない」は、批判として成立するために条件が要る。
前提には2種類ある。
もう1つは「結論を成立させるためにこっそり埋め込まれた仮定」(隠れ前提)。
これは疑うべき前提ではあるが、同時にかなり検証可能な命題でもある。
実際、質問セットを変えたら結果が変わるのは観測できるし、重み付けが影響するのは数学的に自明。
つまり、ここで前提を疑うなら、疑い方は
「影響するとしてどの程度か?」
という方向になるべき。
ところが「前提を疑わない」と言うだけで止まるのは、実質的には検証作業をせずに、態度だけで上から殴っているだけ。
前提を疑い続けるだけなら、永久に何も言えない。「私は存在するのか?」から止まる。
この3点。
そして皮肉なのは、「提示された前提を疑わない」という批判自体が、別の前提を疑ってないこと。
その批判の隠れ前提はこう
「疑う姿勢があれば正しい方向に行く」
でもこれは正しくない。
疑うのは知性ではなく手段であって、疑い方が雑ならただのノイズ製造機になる。
「前提を疑え」は正論だが、反論として成立するには、どの前提が誤りで、どう修正すべきかまで言わないといけない。
今回は「高市政権が強かった選挙」ではなく、「中道改革連合が自滅した選挙」なのは自明だが、それでも300議席超の報道は予想外すぎて驚いた。
相手が合流準備中で、体制がまだ固まっていない状況で、相手が整うまで待つ理由などない。
「勝てる時に戦って勝つ」というのは、選挙としては正しい。
(国際社会でも同様に動けることを祈るばかり)
一方の中道側は何をしていたのか。
合流構想があったのならば「早期解散」は最初から想定すべきリスク。
しかし何一つ対処できず、実質的に無策で後追いの表明をさせられる羽目に。
よく「タイミングが悪かった」「解散が早すぎた」という声もあるが、それは違う。準備できていなかっただけだ。
「急にボールが来たので」とコメントするストライカーには任せられない。
そして、合併してしまったことで、選挙の実質的なキーポイントが「中道改革連合に投票するか?」になってしまった。
選挙期間中に高市氏がいくら実現しようがドタキャンしようが、「では中道に投票するのか?」という悩みが発生してしまう。
そのとき、中道改革連合は過去の経緯等により、高市氏や自民党と同等あるいはそれ以上に「忌避される要素」を抱え込みすぎた。
厳しい言い方をすれば、合併のメリットが少ない割に、デメリットが大きすぎた。
ここを直視しない限り、次も同じ負け方をする。
「次」とやらがあればの話だが。
「みらいデザイン」という響きにはワクワクするものがありますが、皮肉なことに、未来を標榜したものほど早く古臭くなってしまうのはデザインの世界の「あるある」です。
なぜあんなに賞味期限が短いのか、いくつかの視点で紐解いてみましょう。
「未来っぽいデザイン」と言われるものの多くは、実は「現在最新だと思われている要素」の詰め合わせに過ぎません。
1960年代の「曲線・プラスチック(スペースエイジ)」 これらは当時の最先端技術を反映していましたが、技術が進んで「当たり前」になるか、あるいは「不便さ」が露呈した瞬間に、単なる「一昔前の流行り」に転落してしまいます。
未来を表現するために、以下のような特定の記号(お決まりのパターン)を多用しがちです。
これらは記号としての意味が強すぎるため、見る側が「あ、これは未来っぽく見せようとしているな」とメタ視点で気づいてしまいます。演出の意図が見えた瞬間に、デザインは「普遍性」を失い、消費の対象へと変わります。
「未来」を追求するあまり、現実の使い勝手(アフォーダンス)を無視したデザインは短命です。
カッコいいけれど座り心地の悪い椅子最初は「進んでいる!」と感動しますが、日常で使ううちにストレスが溜まり、「結局、普通が一番だよね」と揺り戻しが起きてしまいます。
拡大、加速、金属的、人工的
社会が求める「理想の未来像」自体がアップデートされ続けているため、古い未来像に基づいたデザインは、単に「予測が外れた過去の遺物」に見えてしまうのです。
マーケティングやデザインに真剣に取り組んだことがあれば、「みらい」と名乗った瞬間に陳腐化することは自明なことです。それでもあえて「みらい」を名乗るプロダクトには情弱を騙す意図が見え隠れします。
本当に長く愛されるデザインは「未来」を目指すのではなく、「普遍的な課題の解決」を目指していることが多いです。みらいと名乗ることが流行のスパイスを抜きにしても機能するかどうかが、陳腐化を防ぐ境界線と言えるでしょう。
本来であれば、土曜日のこの時間は洗濯物の仕分けと、午後2時からのドクター・フーマラソンに向けた栄養補給(全粒粉クラッカーと適温に冷やした低脂肪乳)に充てられるべきだ。
しかし、僕の思考を占拠しているのは、エドワード・ウィッテンですら到達できなかった領域、超弦理論における高次圏論的モチーフとp進的タイヒミュラー空間の融合という革命的な着想だ。
既存の理論が11次元の超重力理論を基盤としているのは、単に数学的な怠慢に過ぎない。
僕は昨夜、カラビ・ヤウ多様体のホモロジー的ミラー対称性を、圏の枠組みを超えて、非可換幾何学における非アルキメデス的スタックとして再定義することに成功した。
ウィッテンが提唱したアド・ホックな双対性では、強結合領域の挙動を完全には記述できない。
僕はそこに、ホロノミー多様体上のディラック作用素をモチーフ的コホモロジーのスペクトルとして配置する手法を導入した。
これにより、プランクスケール以下での時空の泡立ちが、実はゼータ関数の非自明な零点と1対1で対応していることを証明しつつある。
これを理解できないルームメイトは、僕がホワイトボードに無限次元リー代数を書き殴っている横で「タイ料理を食べるか?」などという愚問を投げかけてきた。
彼の脳は、クォークの閉じ込め理論よりも、パッタイのピーナッツの量に執着するように設計されているらしい。実に嘆かわしいことだ。
午前中、隣人が僕の部屋のドアを正しいリズムを守らずに叩き、勝手に入ってきた。
彼女は僕が開発したMTGの新しいデッキを無限に誘発させ、相手に一切のターンを与えないという、数学的に完璧な勝利をもたらす構成に対して、「友達をなくすだけだよ」という非論理的な評価を下した。
さらに、友人Aと友人Bがやってきて、僕のFF14内でのプレイスタイルについて文句を言った。
僕はヒーローとして、全てのギミックをミリ秒単位の計算で処理し、パーティメンバーの移動経路をベクトル演算で最適化しているだけだ。
友人A(工学などという低俗な学問を修めた男)は「効率的すぎてゲームがつまらない」と言い、友人Bは「君がチャットで数学の講義を始めるせいでレイドが進まない」と主張した。
彼らは、エオルゼアの背景にあるエーテル伝導率が、実は超弦の振動モードの変種である可能性に気づいていない。
これからの予定は以下。
さて、思考の整理は終わった。
「TheEvolution of Russian andChineseAirPower Threats」
2026/01/08
この前読んだわ🤗
2020年時点と比べて2025年現時点では、ロシアと中国の航空戦力は西側の航空優勢に対する脅威を増している。
特に中国は、米国の伝統的な航空優勢を揺るがし得るレベルへ質・量ともに大きく変化した、というのが主旨。
本稿は、中国の航空戦力が2020年比で“量”だけでなく“質(ネットワーク化・長射程化・統合作戦)”でも急速に伸び、米国を中心とする西側の航空戦力に対して根本的に異なる脅威水準へ移行した、という認識を示します。
近代的な第4/第5世代戦闘機の大量増勢に加えて、AEW&C(早期警戒管制)や電子戦(EA)などの「イネーブラー」、空対空/地対空ミサイル、宇宙ISRまで含めた“キルチェーン”の整備が同時並行で進んだことが核心です。
著者はまず、近代戦闘機の生産・配備数の伸びで変化の大きさを示します。2020年時点では、PLAAFのJ-20は約50機(当時は技術的に成熟途上)、J-16は約90〜100機規模で、生産もJ-20が年20機程度、J-16が年40機程度とされています。
それが2025年後半には、改良型で成熟したJ-20A(および複座J-20S)の生産率が年120機程度に達したとされ、2025年半ばの時点でJ-20は約300機が少なくとも13個連隊に配備、J-16も2025年末までに約450機が納入される見立てが示されています。
さらにトレンドとして、2030年頃にはJ-20系列が約1000機、J-16が約900機に到達し得る、という将来像を提示します(推計)。これは「第5世代+高度な第4世代」の比率が、もはや一部の精鋭部隊ではなく、空軍全体の構造として大きく変わることを意味します。
加えて、J-16/J-20のような重戦闘機への比重が高まり、従来J-11やSu-27/30などを運用していた部隊だけでなく、より旧式のJ-7やJ-8を使っていた部隊の再装備にも波及している点が指摘されます。つまり「一部が強い」ではなく、全体の底上げが進んでいるという見立てです。
中量級のJ-10Cも、AESAレーダー、データリンク、衛星通信、各種精密兵器へのアクセスを持つ“現代的な機体”として位置づけられ、長射程AAM(PL-15)を運用できる点が触れられています。
戦闘機の数だけでなく、編隊の生存性・攻撃力を左右する電子戦能力の獲得が重要だ、というのが次の柱です。
著者は、J-16D(陸上型)やJ-15DT/DH(艦載航空向け)といった電子戦機の生産が定着し、これらが米海軍のEA-18Gに近い役割を担うと述べます。
こうした“戦術戦闘機ベースのEA機”は西側でもアメリカとオーストラリアしかもっていない、能力として非常に強力で希少だ、という評価です。
ここで言いたいのは、中国が「ステルス機を増やす」だけでなく、敵のレーダー・通信・データリンクを妨害しつつ味方のセンサー/ネットワークを活かす方向に、パッケージ(編隊構成)と空中戦術を進化させている、という点です。
著者は、現行の増勢だけでなく「次の波」も早いと示唆します。J-35/AがPLAAF向けにも取得されつつあり(艦載向け計画に加え地上運用も)、当初は低率生産でも、過去の中国の開発・量産ペースを踏まえると増産が加速する可能性がある、という見立てです。
また、2025年に次世代有人戦闘機のデモ機(J-36、J-50/J-XDSと呼ばれる機体)を飛行させていること、さらにUCAV/CCAの試作機やGJ-11などの動きにも言及し、「西側より早いタイムライン」になり得る点を指摘しています。
装備が揃っても使いこなせなければ脅威になりません。そこで著者は、2020年以降、PLAAF/PLANAFの訓練のリアリズムと複雑性が増し、とくにJ-16/J-20部隊で洗練が進んでいるという各国空軍関係者の観察を紹介します。
2020年以前は、事前計画に依存した規定手順や、地上/空中管制側の強い指示に沿う硬直的運用が多かったが、より動的な競技・演習(例:ゴールデンヘルメット)などを通じて変化した、という整理です。
そして2025年には、戦闘機・爆撃機・給油機・AEW&Cを組み合わせ、海軍水上部隊とも連携するような複合ソーティが常態化している、と述べます。台湾周辺や日本海方面での活動が特に注目点として挙げられています。
著者が「とりわけ顕著」とするのが、空対空ミサイルとSAM技術です。PL-15とPL-17が、ロシアだけでなく米欧の同等品に対しても射程面で優位になり得る、という趣旨で述べられています。
さらに、PL-15系列は(ベースが2015〜2016年頃に就役したとしても)その後の期間にソフト/ハード両面で改良を重ねている可能性が高い、という見方を示します。
SAMについては開発の見通しが不透明と断りつつも、中国が中〜長射程SAMを優先していること、HQ-9B/C、HQ-22、弾道弾迎撃のHQ-19や後継、HQ-16系列など多層の体系を整えている点に触れます。
加えて中国の電子・ソフト産業基盤の厚みからセンサー/ネットワーク化がロシア製を凌駕する一方、実戦データの蓄積が少なく成熟度には不確実性があるというバランスの取れた評価です。
超長射程AAMや“特殊なSAM”は、探知・追尾・誘導の情報連接(キルチェーン)がなければ活きません。著者はこの点で、中国が過去10年(特に2020年以降)に航空機側のAESA化を急速に進め、J-10C/J-16/J-20/J-35など現行生産機の主センサーがAESAへ置き換わった点を挙げます。
さらにAEW&Cの拡充として、KJ-500が2023年半ばで約40機規模という推計を踏まえ、2025年末には50機に近い可能性があると述べます。加えてKJ-2000、KJ-200、KJ-3000、艦載KJ-600などにも言及し、これらが大出力AESAとデータリンク/衛星通信ノードとして機能することで、航空・海上・地上戦力を束ねる能力が高まる、という構図です。
宇宙ISR/通信も2020年以降に「数と洗練が爆発的に伸びた」とし、結果として2025年のPLAAF/PLANAFは2020年よりはるかに多く高品質な長距離センサーを持つため、状況認識と長距離交戦のキルチェーンが強化される、と結論づけます。
最後に著者は、インド太平洋では状況が欧州と質的に違い、中国の伸長が米軍の行動自由をすでに変質させたと述べます。具体的には、空中給油機、空母打撃群、前方基地が1000km以上の距離から脅威に晒され得る(各種長距離の弾道/巡航ミサイル、長射程SAM、長射程AAMを搭載する多数の第5世代機など)という整理です。
その結果、仮にF-22/F-35/B-2等が前進しても、長く争奪的な補給・給油・電磁支援のチェーンの末端で戦うことになり、「保有機数ほど前線に押し出せるわけではない」という運用上の制約が強まる、という含意を示します。
欧州:ロシアの地上SAMを核とするIADSが主脅威で、ウクライナ戦争の戦訓で能力が上がっている。NATO側もウクライナ支援を通じてロシア防空を理解したが、対処には適切な装備調達・訓練が必要、という結論。
インド太平洋:中国の伸長は「革命的(revolutionary)」レベルで、給油機・空母・前方基地などの後方要素を長距離から脅かし、米軍の作戦自由度を大きく制約し得る。従来の“西側の空の優位”はもはや自明ではない、という締め。
例のCSISの台湾進攻シミュレーションも2022年時点のデータで作ったものだから、時間が経てばたつほどあの結果よりやばくなってくんだな
現在、SNS上で、児童による暴力行為等の動画が投稿・拡散される事案が相次いでいますが、一般論で申し上げれば、他人に対する暴力行為や、これに加担して幇助(ほうじょ)する行為は犯罪です。
https://x.com/NPA_KOHO/status/2014282083301282032
https://x.com/NPA_KOHO/status/2014282083301282032/quotes
今は割と大丈夫になったけど、最初の頃すげー誤読多くてビビった
私の解釈は
なんだけど
ChatGPT5.2に読ませたら見事に誤読した
「SNSで拡散されている子どもの暴力動画は、“いじめの記録”ではなく普通に犯罪(暴行・幇助)なので、撮る側も含めて処罰対象になり得る。拡散やノリで加担するな」
実際、SNSでは「加害者の肩を持つのか!」「じゃあ被害者はどうすればいいんだ!」みたいに怒ってる人が半分以上だったんだけど
「今拡散されている暴力動画は、基本的に加害者を糾弾するために流されているもの」
という前提の欠落だった
(でもこれに反応してる人がその前提を持っていないというのは怪しいけどね)
ついでにいうと、SNSでは「じゃあ捜査しろよ!」と怒ってる人も多くて
これはそもそも通報されないと動くのは難しいという話が伝わっていない
どうにも残念なすれ違いが起きているんだけど
そうかあ、これ読めないのかという、悲しさがある(SNSの反応でもそういう人がちらほらいる)
溜息
________
現在、SNS上で、児童による暴力行為等の動画が投稿・拡散される事案が相次いでいますが、一般論で申し上げれば、他人に対する暴力行為や、これに加担して幇助する行為は犯罪です。
を
「動画を拡散することが暴力行為の加担であり幇助」と読む人が居るが誤読だというのが私の主張
上の文は
「他人に対する【暴力行為や、これに加担して幇助する行為】は犯罪です」
と言っていて
じゃあ、警察庁は
と言ってるの
つまり「〜という行為を犯罪と思ってない人がいるかもしれない」と思ってるの(推論)
「暴力行為を犯罪だと思っていない人が動画を投稿・拡散することで私刑しようとしてるけど、暴力行為は犯罪だよ(通報してね)」
としか読めないの
◯◯とも読める、じゃねんだわ
何でこの文章にそんな躓くんだ
例をあげるか
例「最近、カスハラの動画が拡散されていますが、一般論で申し上げれば、業務妨害や、これに加担して幇助する行為は犯罪です」
わかるかな
一応言うと「意味のない文章だ」って言ってる人は誤読ではなく意図が汲み取れていないだけ
例えば「暴力行為は犯罪」なんてその人にとっては自明に見えるから
_______
いや、俺の文が分かりづらいのは申し訳ないけど、Xの引用ポストのほうが読めてる人多いのはどういうことだよ
1.実際の文
2.Xで起きている解釈
3.私の主張
2すら伝わってないんだもん、話が一個も通じてない
Permalink |記事への反応(19) | 00:14
ずっと賃貸のままオルカン積立に賭けてるんだっていう強い意志を持っているなら止めはしないけどね
オルカン積立てオンリーで最終的に勝つのは既に東京へマンションを保有してる人のみだろうとは思うわ
何故なら限界生産性の観点から東京は混雑不経済に陥っていて金融リテラシーの高い人ほど投資対象として東京に旨味が少ないと知ってるから
東京の賃貸に住んでる人のオルカン積立は最終的に賃貸オーナーの懐に行くのは自明で、明らかに持ち家と賃貸で同じくオルカン積立しててもバランスシートに大きな差が生まれるんだよね
だから東京のファンドとか限界生産性に余裕があって投資効率の良い地方に投資してるっていう現実がある
オルカン積立が悪いとは一切言わないよ。ただ、間違いなく賃貸住みのオルカン積立は持ち家・マンション持ちのオルカン積立と比較して明らかに投資効率が悪いのは確かだよ
食べることが、三度の飯より好きだ。いや、好きだった、が正しいのかもしれない。
好き嫌いはない。
苦手な人が多いとされている苦みのある野菜や、癖の強い香草も、生で食べたってかまわないくらい好きだ。
以前ラジオで声優の木村昴さんが、「食べ物をあまり不味いと感じない」と言っていたが、非常に共感した。味や風味がすること、食感が楽しめることを“美味しい”と表現してしまうくらいには割となんでも楽しめる。
もちろん質の差や美味しい度合いの差は感じるものの、とりあえず“食べること”それ自体が好きなので食事というだけでおおむね満足なのである。
美味しい店を探すことは趣味だし、幹事も進んでやる。周りから「あなたが薦めてくれる店は美味しい」と喜んでもらえることがうれしい。飲食という行為も飲食を通じた交流の場も大好きだ。
にもかかわらず、三十代になってから徐々に食べられるものに変化が現れた。
カルビがキツイ、なんてベタなところは早々に通り越している。魚ならいけるかといわれれば、大トロももう若干重たい。鮭ハラス定食なんて間違えて頼んだ日には、口内も食道も胃もすべて脂でコーティングされ、脂で溺れているような感覚になる。
そしてその感覚はすぐに気持ち悪さに直結し、食道から今しがた食べたものがせりあがってくるのだ。逆流性食道炎と思しき症状とは、もう三年ほどの付き合いだった。
和定食は体に良いといわれるが、決定的な欠陥がある。そう、塩分だ。
一日に処理できる塩分量は加齢とともに減る、という事実があるのかは知らないが、少なくともわたしは明らかに塩分に弱くなった。
塩分を多く摂った翌日は(さすがに和食程度ではそう酷くはならないが、中華を食べたら終わりである)、浮腫み過ぎて、デイリーで使っている指輪が入らないし、無理矢理はめてもくっきりと跡が残る。瞼が重たいのは当然として、首から上の血管が詰まっているような感じがし、頭痛や首の凝りもひどく頭が回らない。
脂も塩分もダメなら、野菜を食べればいいじゃないと人は言うだろう。
だけど、生野菜は寒い。寒いというのは、お前おもんないわという意味ではない。食べると体が冷えて寒さを感じるのである。生野菜のシャキシャキした食感やフレッシュさは口内をすっきりさせてくれるものの、食べながら体の芯が冷えていく感覚がある。知覚過敏なのか歯にも違和感を覚える。
野菜に限らず、冷奴とかも。名前に「冷」とついているから自明なのだろうが、割と好きだったはずなのに、冷たさがノイズになり昔ほどは美味しいと感じなくなった。
食べられる量や飲酒量も減った。
わたしは以前より飲み仲間たちから「当たりの日と外れの日の差が激しい」と揶揄されることがあった。つまりは、楽しく沢山飲食できる日と、少量しか受け付けない日だ。三十代に入ったばかりの頃は、この割合が7:3~6:4くらいだった。
しかし今となっては5:5……もしかしたら4:6かもしれない。外れの日が上回っている。
大学時代は大食いで、家系ラーメン+ライスを2杯食べておなかいっぱいになることが幸せだった。新卒の初任給で友人たちと叙々苑に行って豪遊しよう!というはしゃいだ企画もした。すべて遠い思い出である。
飲み会における50~60代くらいの男性あるあるに、「自分はもうお酒だけでお腹いっぱいになるから、食べ物は若い人で決めて好きに食べてよ」と言い出すというものがあると思う。
以前は信じられなかった。
歳を取っているとはいっても自分より体の大きい男性である。全然食べられないなんてことないだろうし、若者に遠慮しているのだろうと思っていた。
でも、今なら、あるのかもしれない……と思う。
というか、わたしもすでに、お酒を4~5杯飲んでいるのにまだ前菜をつついている、みたいな外れの日が増えてきている。
男性でも50~60代でその状態になる人が一定数いると考えたら、いまこのていたらくな私の20年後はどうなっているのだろう。外食してもソフトドリンクだけを飲んでいる人になっているかもしれない。寂しすぎる。元気に食べたり飲んだりできることは、とても楽しいのに。
これだけいろいろと食べづらいものが出てくる三十代、みんな何食べてるの??
なんとなく、自炊をする人はやがて蒸籠に行きつくイメージがあるけれど、これはもしかして年齢を重ねると蒸籠飯が体に合うようになってくるからだろうか。
だけどさ、ほんとはもっといろいろ、なんでも美味しく楽しく食べたいんだよ。好きな食べ物は食べ物なんだよ。どうしたらいいんだよ。
仕事帰りのサラリーマンも多い都心を歩いていたら「すみません、すみません!」と後ろから声を掛けられた。
かなり必死な様子だったのでお困りごとかと思い振り返ると、黒マスクをずらしたスーツ姿の若めの男が「今見えたんですけどすごいタイプで~」ときた。
がっくり。「そういうのいいです」と一言言って去りました。
そんな隙のありそうな女に見えたのか。
確かに今日はたまたま休みだったので私服だし、私服かわいい系なのに黒リュック背負ってるからちぐはぐな感じはあった。
靴は新品だったのに!…でも私に落ち度がなかった~とは言えない。言えないか?ナンパ野郎が馬鹿野郎じゃないか?それは自明。
しつこくない奴で助かった。それは良かったところ。