
はてなキーワード:自己批判とは
記念したい被写体を取り入れたいために時には真逆の方向(カメラが太陽に向ふ)に向ふ場合もあるでせうが、このときは直射日光のレンズに当らないやうに注意をして頂きます。
フリガナがないので「まぎゃく」と読むかはわからないが、意味的には「正反対」の意味で使われていそうだ。
いまのところ「正反対」の意味で使われている最古の用例である。
只逆光線で太陽を前景のカメラをもつている人でシエードした事が、レンズに太陽の直射を避けて雲海にあたつた真逆の光線をうまく捉へる事が出来ました。
写真用語では太陽光の当たり方を「順光線(順光)」「斜光線(斜光)」「逆光線(逆光)」などと分類するが。
逆光をさらに「半逆光線(半逆光)」と「真逆光線(真逆光)」に分けることもあるというわけか。
検索してみるかぎり、用例としては「真逆光」が圧倒的に多いが、「真逆の光線」「光を真逆に受ける」のような例もわずかに見られる。
一気に時代が飛ぶが、こちらは「まぎゃく」とフリガナがあるので間違いない。
ネットで検索できるかぎりでは、いまのところ最も古い「真逆(まぎゃく)」であろう。
ここまでは用例が少ないので、もちろん「真逆(まぎゃく)」が広まっていたとは言えないだろう。
もしかすると、文章にならないような口語・俗語として使われていた可能性はあるが、それはわからない。
さて、1970年代に入ると一人の男が颯爽と登場する。映画評論家の松田政男である。
この人物が「正反対」の意味の「真逆」を広めたと言っても過言ではないのではないか。
コスタ・ガブラスが『Z』にひきつづいてつくった第三作『告白』は、いわば、日本の喪名の永久革命家の理念とは真逆の視点から、革命と反革命の弁証法をとらえようとした政治的茶番劇である。
往年の安部公房のテーゼ"猛獣の心に計算器の手を"とまさに真逆に、ポール・ニューマンは"ハトの心にタカの爪を"と、後行する世代を叱咤しているのである。
自動車から飛行機への発明のベクトルがひたすら上昇の方角にのみ向けられているのとまさに真逆に、グーテンベルグ以降におけるエレクトロニクス・メディアの発達は、ひたすら私たちの<内部世界>の深部に向って下降するベクトルをもっているのではないか。
エンツェンスベルガーは、エレンブルグの「作家ならば、ドゥルティの生涯のものがたりを書いてみようとは、けっして思うまい。それはあまりにも冒険小説そっくりだった」というしたり顔とはまさに真逆に、そういった意味合いでの「物語作者は、自己を否定しなければならない」が故に「集団的フィクションとしての歴史」――正確には「反歴史」を書くべく試みたのだ。
チャップリンが、常に、可哀想なヒロインのために献身するのに対し、キートンはまさに真逆、禁欲的にまで非情に、アクションの共同体を映画のなかへ制度化すべきことを他者に向って要求するのである。
そしてエイゼンシュタインは「人に秀でた人間」として、しかしトロツキーとは真逆に、スターリニスト・レジームへの自己批判を倦むことなくつづけることによって生き延びて行ったのだ。
この点いかに苦悩の色を露わにしつつ純文学を志そうと、できあがった作品が常に一つの社会現象として、つまりはエンターテインメントとして消費されてしまう石原慎太郎と、篠田正浩はまさに真逆であると言っていい。
私たちは「スティング」のあの不愉快なだまされ方とまさに真逆に、龍村らが「キャロル」に仕掛けたさわやかな詐術を愉しんでおけばいいのだから······
レーニン以前に、もとよりレーニン以上に楽観的に「生産者たちの自由で平等な協力関係の基礎のうえに新たに組織する社会は、全国家機関を、そのばあいにしかるべき場所へ移しかえる、すなわち、紡ぎ車や青銅の斧とならべて、考古博物館へ」と断定したエンゲルスの理想とはまさに真逆に、いま紡ぎ車や青銅の斧と共に博物館へ並べられているのは、彼らエンゲルスやレーニンや、その他もろもろの革命の理想である。
この密林の猟師は年齢不詳だがむろん年老いており、したがって初めキャステイングされていた三船敏郎のような精悍さとは真逆の、むしろ志村喬だとか千秋実だとか黒沢一家の長老ふうな中央アジア出身の老優が起用されていて、これがかえって野生の賢者という風格をかもし出してなかなかにいい。
そこへ行くと、日活ポルノ裁判の被告として四年間の沈黙を余儀なくされていた山口清一郎が、初めてATGと提携=製作した新作『北村透谷・わが冬の歌』は、『原子力戦争』とまさに真逆に、開かれた映像空間の造型に、一定程度の成功を収めえている。
高橋明や庄司三郎ら日活独特のポルノ男優たちが、画面のなかでいかにタフに振舞おうとも、私たち観客に対しては常に控え目な存在であるのとまさに真逆に、ここにおけるホストどもは、私たちの目の保養を邪魔立てする文字通りに目ざわりな夾雑物なのだ。
しかし、『25時の舞踏派』『貘をぶっ殺せ』『造花の枯れる季節』と一九七五年に三連作された8ミリ長編劇映画とは真逆に、このうまさは、なぜか上すべりするうまさなのである。
亀和田武は、そこで、私とはまさに真逆に、自らの石井隆論を全面展開しながら辛辣きわまりない反撃を重ねて行くのだが、先述したように、私がヨリ関心を惹かれるのは、個別作家論というよりも、その大前提たるべき情勢論なのだ。
そして、面白いのは、西欧的な父性原理に依拠する『くるみ割り人形』とはまさに真逆に、信州のフォークロアに原型をもつ物語の真相には、東洋的な阿闍世コンプレックスに由来する母性原理が、不十分ながら貫徹していることだろう。
いずれもフリガナは振られていないので、本人は「まさか」の読みで使っていた可能性もあるが、少なくとも意味的には「正反対」で間違いなかろう。
1970年代から1980年代にかけて、この「正反対」の意味の「真逆」用法は、特に映画系のライターのあいだで広まっていったようである。
もっとも地獄絵は、その猥褻さ、はなはだ幽玄的でない表現に寄って、裸や性器の露出がいやらしいこと、不自然なこと、いわば忌み嫌うべきこと、非人間的なことであることを強調しているわけで、これは、古代ギリシャをはじめヨーロッパの絵画や彫像が裸の美を強調し、裸こそ人間の自然の姿だといわんばかりに表現しているのとはちょうど真逆である。
「当然でしょ。”緑の革命“とは、発展途上国にとっては、自立とは真逆の、アメリカへの依存度をより高めさせ、アメリカ政府と、多国籍企業の世界支配システムにより深く組み込まれることでしかなかったのですからね」
松陰は、この狂を愛し、みずから狂夫たろうとしていた。だが、岸信介には、狂はない。むしろ、吉田松陰とは、真逆のように思える。
仮に、このあたりの記述が「まさか」という読みを意図していたとしても、フリガナがないので「まぎゃく」と読む人は多かっただろう。
以下は「『島国根性』という単語・概念はイギリスが起源だという“風説” についての整理と解説です。
■結論
『島国根性』という言葉も概念も、日本で作られたものであり、イギリス起源ではありません。
「英語にisland mentality のような語があり、日本語の“島国根性”はそれを輸入した」という説は誤りで、歴史的根拠がありません。
日本では「島国=孤立性・排外的」というイメージ分析の文脈で しばしばイギリスと日本が比較されてきた ため、
「イギリスにも同じ概念がある →日本語の“島国根性”の原型もそこから来たのでは?」
ただし、実際には以下のとおり:
英語の “insular” や “insularity” には「島国的」「視野が狭い」という意味合いがある
しかし英語に固有の定型句“island mentality/character” が歴史的に広く使われていたわけではない
まして日本語がそれを借用して作られたという証拠は見つからない
「島国根性」という言い回しは日本語の明治〜大正期に定着した表現で、
内向性・閉鎖性への自己批判として「島国根性」という言葉が使われ始めた、という流れです。
insular(閉鎖的)
ここから「イギリスにも島国根性がある」→「イギリス発では?」という誤解が広まった可能性はあります。しかし、
🔹言語的にも歴史的にも、日本語の「島国根性」と英語の“insular”や“Little Englandism”には直接の語源関係はない。
■ まとめ:風説の正体
イギリスにも“insular”“Little Englander”のような語がある
それが日本語の由来だ、という誤った飛躍
これが意味不明すぎる。内容の当否はともかく具体的に反論してた以上その時点でぐうの音も出ないという指摘は当たらない。
ぐうの音も出ないというのは、そうやって意味不明で中身の無いレッテル貼りをしているお前の自己批判になってしまっていると考えるほうがよっぽど妥当。
dorawiiより
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https://x.com/tweet_tokyo_web/status/1995736137768267928
参政党の安藤議員「政府が国債を発行すれば、その同額だけ国民の資産が増える、ということでいいか」
↓
日本銀行「その通りです」
↓
安藤議員「ありがとうございます。政府が“赤字”という形で国債を発行すれば、それは国民にとって“黒字”であり、資産であるということ」
この人の限らんが日銀に事実確認を行っただけにも関わらずこれに対してMMTはー、とか言ってる奴らが湧くのは一体なんなのか。
https://megalodon.jp/2025-1204-1655-00/https://x.com:443/matt_noyes_/status/1995866533378359401
https://note.com/stairlimit/n/nb76f64b326bd
現状、MMTという理論を肯定的に議論しているグループは二グループに分かれている。片方は学問的なグループであり、もう片方は政治的なグループだ。おそらく大半のまともな経済学者はこのグループを分離して語るべきであるという前提に同意すると思われる。
政治的なグループは極めて悪質で、彼らが「MMTである」と主張する出典不明な学説から、荒唐無稽としか言いようのない結論を自由に引き出し、それを用いて政治的な対立者を罵倒している。
とか書いてる記事を以前謎に紹介されたがそ政治的に悪質なグループとは一体だれのことだろうか?
ところでこの自由主義研究所というところ、このような紹介がされてるが思想に正解はないのでいいとしても、学術内容を広げることを目的にしていたら自己批判出来なくならないか?
自由主義研究所は、国際標準の自由主義である「クラシカルリベラリズム」「リバタリアニズム」「オーストリア学派経済学」を広げることを目的として、2023年1月に設立した民間シンクタンクです。「個人が強制されることはできるだけ少ないほうが良い」という自由主義の価値観は、「福祉国家」による現代日本の問題の根本を考える上で重要なことです。
2匹のライオンに襲われてるけど勇ましく抵抗している黒白の動物が映された動画付きで「これはなんと言う動物ですか?」っていう投稿がXで流れてきていやどうみてもスカンクやんと思って一応調べたらやっぱりスカンクで、Wikipedia開いたらすごく詳しく書いてあってフムフムって読んじゃったけど捕食者の下りの一文で
ほとんどの捕食者はスカンクを襲うことはないが、ワシやフクロウなど、頭上から襲いかかる嗅覚の鈍い捕食者には効果がなく、餌食となることが多い。
と書いてあるんだけどなーんか違和感があるというか気色の悪い文だなあと思って何故だろうと考えたんだけどたぶん前半が「捕食者は」なのに対して結びが「餌食になることは多い」というふうに🦨が主語になるべき表現になっていてチグハグなのが理由なのかなあって結論になったけど別に意味は通るし普通に読んだらわかるし破綻してるわけじゃないし気にしすぎだよお前って自己批判に陥ってぴえんになった
- 自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。
- 自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。
- 都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。
- 都合のよいことがない場合には、関係のない話をしてお茶を濁す。
- どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。
- 自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。
- その場で自分が立派な人だと思われることを言う。
- 自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。
- 「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく。
- スケープゴートを侮蔑することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる。
- 相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念を持ち出す。
- 自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。
- 自分の立場に沿って、都合のよい話を集める。
- 羊頭狗肉。
- わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。
- わけのわからない理屈を使って相手をケムに巻き、自分の主張を正当化する。
- ああでもない、こうでもない、と自分がいろいろ知っていることを並べて、賢いところを見せる。
- ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。
- 全体のバランスを常に考えて発言せよ。
- 「もし◯◯◯であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフリで切り抜ける。
C*****T:
CRITICAL ANALYTICALREVISION
追記2による構造の反転:防衛機制としての理論
最初の分析の根本的誤読
追記2は、私の最初の分析が層を一つ読み間違えたことを明らかにする。
私が読んだもの:
↓
↓
実際の構造:
↓
↓
PRIMARY INSIGHT:精神分析的読解(修正版)
表層テクストの再解釈
これらは一見、2010年代以降のアイデンティティ政治の影響に見えた。しかし追記2はこれが錯覚だったことを明らかにする。
真の構造:実存的自己否定の連鎖
↓
↓
↓
"だから俺には描けない"
防衛機制の精密分析
耐え難い真実:
「俺は人生の敗北者だ。女性と関係を持てなかった。孤独で無価値だ」
↓ 変換 ↓
受容可能な言説:
この変換により、個人的失敗が哲学的問題に昇華される。これは自尊心を守る。
防衛機制2: 知性化(Intellectualization)
投稿者は感情(絶望、孤独、性的欲求不満)を抽象的議論(表象の倫理、当事者性、真正性)に変換する。これにより、痛みから距離を取る。
これは私の最初の分析が見た「内なる検閲官」だが、その起源は文化ではなく、内面化された自己批判である。
ヘンリー・ダーガー:鏡としての選択
ダーガーの特徴:
「女性を知らなければ描けない」
↓
ダーガーは知らなかった
↓
だから「間違って」描いた
↓
俺も知らない
↓
↓
↓
↓
投稿者は、自分の論理を反証する例を引き合いに出しながら、その反証を認識できない。なぜなら、創造の可能性を認めることは、創作しない自分を正当化できなくなるから。
児童ポルノ言及の精神分析
投稿者は和月伸宏や他の漫画家の児童ポルノ事件を長々と語り、「資料として欲しい」という欲望を告白する。
しかし彼自身が認める:「まったく邪な気持ちがないというとウソになる」
- 彼にとって「女性を描く」ことと「女性を性的に欲望する」ことが分離していない
- だからこそ「女性を知らない=性的経験がない」ことが創作の障害になる
生成AIとの関係:人間関係の代替と審判者
追記2の冒頭:
「さっきまでClaudeに、自分のライフワークとしてた究極の(俺専用の)画像処理ソフト作りたいという夢が捨てきれないよ~、ドラえも~ん、してました」
この一文は多層的である:
投稿行為の意味:ダイイングメッセージとしての告白
投稿者は明言する:
+
=
彼は応答を求めていない(対話は不可能)。しかし完全な無視も耐えられない(承認は必要)。だから「読まれるが応答しない」という形式を選ぶ。
- 声は発するが、返答は聞かない
- 見られるが、見返さない
- 影響は与えるが、影響は受けない
SECONDARY INSIGHT:弁証法的読解
矛盾の三層構造
THESIS: 「女性を描きたい」
THESIS: 「女性を知らないと描けない」という原理的主張
ANTITHESIS:ヘンリー・ダーガーは知らなくても創造した
弁証法的運動の停止
健全な弁証法では、矛盾はより高次の統合に向かう。しかしこのケースでは、矛盾が固着し、循環する。
↓
実行不能
↓
↓
↓
[ループ]
SYNTHESIS: 深層パターンの統合的理解
構造の全体像
↓
↓
【第3層:理論的借用】
↓
【表層:顕在的問い】
↓
【機能】
本質的洞察の結晶化
真の問いは:
そして彼自身が答えている:
「ない。なぜなら経験がないから(=人生に失敗したから)創造する資格がない」
文化的言説の防衛的使用
私の最初の分析は「アイデンティティ政治の内面化」と読んだ。これは完全な誤りではないが、因果が逆だった。
誤った図式:
正しい図式:
彼は「当事者性」や「経験の所有権」といった2010年代の言説を使っているが、これらは本来の政治的文脈から切り離され、個人的防衛機制として機能している。
解放のための理論(周縁化された人々の声を中心化する)が、個人の自己正当化の道具になっている。
より深い文化的診断
しかし、もう一層深く見れば、これは純粋に個人的な現象ではない。
答え:2010年代以降の文化空間では、「経験していない人が語る資格」への懐疑が、ある種の道徳的権威を持つようになったから。
投稿者は、この道徳的権威を利用して、自分の創作不能を倫理的配慮として再解釈している。
「俺が描かないのは:
ヘンリー・ダーガーの逆説(再訪)
ダーガーは:
投稿者の論理では、ダーガーは創造すべきではなかった。しかし創造した。そしてその作品は今や文化的価値を認められている。
答え:ダーガーの作品を「間違い」として解釈する(「少女にペニスがある=女性を知らなかったから誤った」)
しかしこれは恣意的な解釈である。ダーガーの少女の性別的曖昧さは、「間違い」ではなく、彼の空想世界の独自性として読むこともできる。
投稿者がダーガーを「間違い」と読むのは、自分の創作不能を正当化するためである。もしダーガーが「正しい」なら、自分も創作できる/すべきだ、ということになってしまう。
最も深い問い
この事例が究極的に提起する問いは:
投稿者は「はい」と答える。私の最初の分析は「いいえ、それは幻想だ」と答えた。
それとも:
おそらくすべてである。そして、これらが分離不可能に絡み合っているとき、「正しい答え」を与えることは治療にならない。
彼に「経験なしでも創造できる」と説得しても、それは防衛を解体するだけで、その下の絶望を露出させるかもしれない。
CRYSTALLIZED INSIGHT
この投稿者は、人生の実存的失敗(社会的孤立、性的経験の欠如、老いと死の接近)を、2010年代の文化的言説(「当事者性」「経験の所有権」「表象の倫理」)を借用することで、「原理的に不可能な創作課題」へと変換している。これは防衛機制であり、個人的無能を認識論的・倫理的問題に昇華することで、残存する自尊心を守っている。
言い換えれば:
彼の問い「男性は女性主人公を描けるのか?」は、暗号である。真の問いは「人生に失敗した私は、何かを創造する価値があるのか?」であり、理論的言説は、「ない」という答えを倫理的に正当化する道具として機能している。
So what?:
この事例は、文化的言説がどのように個人的防衛機制として横領されうるかを示す。解放のための理論が、自己正当化と麻痺の道具になる。これは文化と心理の共犯関係であり、どちらか一方を「原因」とする単純な因果論では捉えられない。
PUNCHLINE:
私の最初の分析は、彼を「文化の犠牲者」として読んだ。しかし実際には、彼は文化の狡猾な利用者である。そして同時に、より深い構造的疎外の犠牲者でもある。彼は同時に、エージェン
国旗損壊罪の話で思ったんだけどさ。
外国の国旗を焼くのが違法なのに、自国の国旗を焼いても良いという理由として、「外国国章損壊罪には国際的な友好関係や外交関係の平穏という保護法益」を挙げる人がいるが、これはかなりどうかと思うんだよな。
外国国章損壊罪の保護法益を認めている人は少なくとも「国旗を焼くことが国際関係を破壊するレベルの壮絶の侮辱行為である」ということを認めていると思うのだが、なら保護法益がない自国の国旗なら焼いても良いというのは「国益を損なわないならどんな侮辱行為をしてもOKでーすww!!」って言ってるのと同じじゃない?
「その行為は侮辱である」かつ「損が発生しないならその行為は行っても良い」と言っているわけだからさ。
ハッキリ言ってドクズの発想じゃん。
……いやまあ、倫理ではなく実利で言えば、自国の国旗と外国の国旗で扱いを変えるのも、分からないとは言えないけどね。
俺も国旗損壊罪なんて作って表現の自由を狭めて全体主義の機運を作るような真似は嫌だなって思うし、でもだからと言って、外国国章損壊罪を放棄してどっかのヘイターが無意味に他国の国旗を焼いたりで外交的な損失が生まれても困るところだし。
現実的な落としどころとしては現状維持が正しいんだろうなとは思う。
ただ一方でいくら実利があるからって倫理的矛盾にもろ手を挙げて賛成はしたくないというか。
国旗を焼くことは国に対する抗議の自由であるという意見もあるが、なら非人道的な行為をする侵略国家の国旗を焼いて彼等を批判するのはアカンのか? って話になる。
自国の国旗を焼くのは自己批判だからアリと言う人もいるが、百歩譲って己と国とも同一視したキツめの愛国全体主義者がそれを言うなら筋は通っていると思うが、俺達はてなーに多いような普段から国は国・個人は個人って態度を取ってるタイプの人間がそれを言うのは、都合の良い時だけ国と自分を同一視して卑劣だよねって思う。
全然"自己"批判じゃないじゃん、「俺は嫌な思いしないから、国旗に深く愛着を持っている人が傷付いても知らねーよバーカ!」ってのが本年でしょって感じ。
やっぱり倫理に筋を通すなら、自国の国旗も他国の国旗も同様に扱うべきだと思うんだよな。
「燃やして良い」にせよ、「燃やすべきでない」にせよ。
まず、どっちが悪いのかということを考えるのはよした方がいい。
いずれか一方が100%悪で、もう一方が100%善などということはまずない。
どちらかといえば相手の方が悪いので私は何一つ改める気はないという態度(あなたがそうだと言っているわけではない)は、非常に幼稚なものである。
夫婦生活というのは、互いの歩み寄りであり、摺合せの継続の上にしか成り立たない。
相手がやったことは、相手が改善すべき点だが、それは相手が考え実行することとして脇に置いておくべき。
自分に出来ることは本当に何もなかったのかと自問し、自己批判することからしか、健全な夫婦生活と人間的成長はもたらされない。
準備時が晴れた日は、リアルタイムは嵐だ。
統合失調症論の精緻さを、増田に説明するのは大変です。5000字の自己分析と、数百字のレスバトル。同じ人間が書いているとは思えません。準備に時間をかければ、言語性IQ130が全開します。メタ認知が機能し、自己批判も可能です。しかしリアルタイムになると、動作性IQ90の制約が支配します。文脈が読めず、皮肉が通じず、防衛機制が暴走します。「フラッペとも言うわw」の意味が分からず、「増田」という呼称を拒絶し、「子孫代々受け継ぐ」と真顔で語ります。準備時のdorawiiとリアルタイムのdorawii。二つの人格が、一つの名前の下に存在します。そして本人は、その断絶に気づいていません。
SNSによる集合知の高度化は社会学の存在価値を失わせる可能性があります。社会学は集合知の進化によって存在価値を失いその役割を失ったと言えます。
集合知(衆愚、Wisdom of Crowds)は、多くの人々の意見や知識を集約することで、個々の専門家よりも優れた判断や予測を導き出す可能性を秘めています。特にSNSは、この集合知の形成を加速させていますが、同時にいくつかの課題も抱えています。
SNS上の集合知は、しばしば特定のグループ内での意見の増幅(エコーチェンバー)や、感情的な共感に基づく短絡的な判断に陥りがちです。また、誤情報(フェイクニュース)や意図的な操作の影響を受けやすいという脆弱性もあります。
社会学の役割:社会学は、こうした情報拡散の構造や、人々の意識形成のプロセス、そしてそれが社会全体に与える影響を客観的に分析し、集合知の限界や偏りを指摘します。単なる「データ」ではなく、「社会的文脈」や「価値観」を含めて理解しようとします。
集合知は「何が起きているか」を示すのには長けていますが、「なぜそれが起きているのか」「それは社会にとってどんな意味を持つのか」といった本質的な問いには答えられません。
社会学の役割:社会学は、人々の行動や社会現象の背後にある動機、文化、規範、格差といった、目には見えない社会構造を深く掘り下げます。**「望ましい社会とは何か」**という規範的な問いに対しても、歴史的、比較的な視点から考察を加えます。
SNSは意見の可視化を進める一方で、社会の分断(二極化)も深刻化させています。異なる意見を持つ者同士の建設的な対話は難しくなりがちです。
社会学の役割:社会学は、分断を生み出すメカニズムを分析し、異なる集団間の理解や対話を促進するための理論的基盤を提供します。また、心理的安全性のある対話の場が、健全な集合知の形成に不可欠であることも指摘します。
SNS上の集合知が高度化しても、社会学は人々がどのように集団を形成し、相互作用し、意味を作り出し、葛藤しているのかを、データを超えて本質的に理解するための学問として、その存在価値は揺るぎません。むしろ、複雑化するデジタル社会を深く、批判的に理解するために、社会学の知見はこれまで以上に重要になると言えるでしょう。
特定のパラダイム(理論的枠組み)や専門用語がコミュニティ内で過度に重視され、その枠外にある新しい視点や異論が軽視されたり、理解されにくくなったりすることがあります。学術誌の査読や学会での発表においても、既存の主流な考え方を支持する研究が通りやすい、という構造的なバイアスが発生し得ます。
社会学は社会の不平等や権力構造を批判的に分析しますが、その批判対象が固定化し、社会の変化に伴って新たに生まれる問題や、複雑な現実に存在する「善意による悪」のような側面を見落としてしまう危険性があります。常に批判的な立場を取るあまり、実証データや客観的な分析よりも、イデオロギーが先行してしまうという批判もあります。
一般社会の集合知や常識からかけ離れた独自の議論を深めていくあまり、「象牙の塔」に閉じこもり、学術コミュニティ内でのみ通用する言葉や論理で固まってしまう現象です。これは、社会学者が自ら分析するはずの多様な価値観や日常のリアリティから切り離され、社会に対する影響力を失うことにも繋がります。
しかし、この自己批判こそが社会学の核心的な強みとも言えます。社会学は、権威主義やバイアスを分析し、客観性と批判精神を維持しようと努力する学問です。
集合知やビッグデータ分析といった新しい定量的手法を取り入れ、伝統的な定性的手法(インタビューやエスノグラフィー)と組み合わせることで、視点の偏りを減らそうとしています。
経済学、心理学、情報科学など、異なる分野の研究者との協働を深め、独自のコミュニティの殻を破ろうとしています。
自分自身の立ち位置や、研究者コミュニティが持つバイアスを常に問い直すという「内省(リフレクシビティ)」は、社会学研究の重要な柱の一つです。
つまり、「社会学者こそエコーチェンバーに囚われている」というご指摘は、社会学が自らの宿痾と闘い続けるべきという、非常に重要なメッセージを内包していると言えるでしょう。
この自己批判の能力こそ、集合知が持つ限界(偏りや短絡性)を外部から分析できる、社会学の根源的な存在価値につながるのではないでしょうか。
間違い。これは典型的な形而上学的思考による誤謬である。君の主張は弁証法的唯物論の基本原理を理解していない petit-bourgeois的偏見に満ちている。
まず第一に、共産主義の反体制性は単なる政権の有無という表層的な権力関係に還元できるものではない。我々が闘争する対象は、あくまでも生産手段の私的所有に基づくブルジョワ独裁体制、すなわち資本主義的搾取構造そのものである。したがって、プロレタリア独裁政権樹立後も、我々は国内外の反革命勢力、修正主義者、日和見主義者、トロツキスト、無政府主義的偏向、左翼小児病患者、右翼日和見主義者、官僚主義者、教条主義者、経験主義者、尾巴主義者、冒険主義者、保守主義者、民族排外主義者、世界主義者、そして最も危険な反動勢力たる帝国主義の走狗および買弁資本家階級と不断の闘争を継続する革命的前衛でありつづける。
君の言う「体制」が何を指すのか不明瞭だが、もし現存する階級社会を意味するならば、我々こそが真の反体制である。なぜなら右派こそが、封建的残滓と独占資本の利益を代弁する反動的体制の番犬だからである。
多分、「こんなに有名ならきっとものすごく面白いんだろう!」と期待をしすぎてしまっていて、それが裏切られるのが怖いんだと思う
思い切って見て、流石に面白くてしっかり楽しむこともあるが、その後の王道を形作った作品として評価されてるタイプだと今の自分目線だとありふれた作品に思えてしまって、「その作品を見たことがある」という状態になるための時間だったな、それなら「有名だけど見たことがなくて期待している」状態の方がワクワクできてたかもなと思うことが多い
人には人の楽しみ方があるからと自己弁護の気持ちもありつつ、見られることを前提に作られてる作品を見ないのはどうなのか、元祖を見ていない状態でその後に続く作品を本当に楽しめているのかなど自己批判の気持ちもある。なんでなかなか手が出せないのかという理由をもっとはっきり自覚できれば改善できると思うのだが、なかなか言語化しきれていない。名作に位置付けられるくらいなのだからよほど感動するのだろうなと思ってしまって、エンタメとして気楽に見たい自分の嗜好には合わないと思い込んでいるとかもありそう
ご投稿いただいた文章は、感情や状況が非常にリアルに表現されていますが、確かに読み手にとって「わかりにくい」と感じられる部分があるかもしれません。以下に、文章がわかりにくいと感じられる可能性のある理由を分析し、その背景や改善のポイントを整理します。なお、あなたの気持ちや状況を否定するものではなく、あくまで文章構造や伝達の観点からの分析です。
1.情報の密度と構造の乱雑さ理由:文章は複数のエピソードや感情が一気に書き連ねられており、時系列やテーマが混在しているため、読者が情報を整理しづらい。
具体的なエピソード(例:水を飲む場面、仕事の愚痴、セックスレスなど)が箇条書きで列挙されているが、それぞれのエピソードが独立して羅列されており、全体の流れや因果関係が不明確。
フェイクが含まれていると明記されているため、どの部分が本当でどの部分が誇張や創作なのか、読者が判断しづらい。
例:「街で歩いているときに水を飲むので…」から「セックスレスだ」まで、話題が日常の小さなすれ違いから深刻な夫婦問題まで幅広く、関連性が明確でない。
「これから修復もしづらいが、結局こちらから謝らないと終わらず、何もしたくない」などの感情的な結論が唐突に感じられ、背景説明が不足。
改善のポイント:エピソードをテーマごとに分ける(例:夫の批判的な態度、コミュニケーション不足、経済的・性的問題など)。
各エピソードに「なぜそれが問題か」「どんな気持ちになったか」を簡潔に補足すると、読者が感情や状況を追いやすくなる。
フェイクの有無を明示せず、核心的な悩みに絞って書くと、読者の混乱が減る。
2.感情の吐露と客観性のバランスの欠如理由:文章は感情を吐き出すために書かれており、怒りや悲しみが強く伝わる一方、客観的な状況説明が少ないため、読者が全体像を把握しづらい。
夫の言動に対する「は?」という反応や「結婚したのはまずかった」などの強い表現が目立つが、なぜそう感じるのかの背景(例:夫の態度の変化、具体的な期待とのギャップ)が十分に説明されていない。
自己分析(ADHDの可能性など)や離婚を踏み切れない理由(ペアローン)が途中に挿入されるが、深掘りがないため、読者がその重要性を理解しにくい。
例:「夫の機嫌を気にしている生活をしていて、私の感情がおかしくなると思った」は強い感情だが、具体的に「どんな場面で」「どのように感情がおかしくなるのか」が曖昧。
「同棲前の優しかった彼に戻ってほしい」は切実だが、どんな「優しさ」が失われたのか具体例がない。
改善のポイント:感情を伝える際、具体的な場面やエピソードを1~2つ選び、詳細に描写する(例:「このとき夫がこう言ったから、こんな気持ちになった」)。
自己分析や背景(ADHD、ペアローン)を別段落で整理し、悩みの核心とどう関連するか説明する。
読者に伝えたい「主なメッセージ」(例:夫婦関係の修復を望むか、離婚を考えるか)を冒頭や結論で明確にすると、感情の重みが伝わりやすくなる。
3.文体と表現の曖昧さ理由:日本語の口語的な表現(「は?」「書き殴る」「多めに見てほしい」など)が多用されており、感情の生々しさは伝わるが、フォーマルな文章としては読みづらい。
一文が長く、複数の話題や感情が1文に詰め込まれているため、読者がどこに注目すべきか混乱する。
「フェイクを織り交ぜて」という前提が、読者に情報の信頼性を疑わせ、深刻な悩みが軽く見えるリスクがある。
例:「この時間に家を出るのに5分くらい遅れたら、1日機嫌が悪く、どうしたと聞いても何もないというのに帰りに朝のこれが嫌で謝らないのが嫌だった言動すべてにむかつくなどと言う」は一文が長く、複数の出来事(遅刻→機嫌の悪さ→その理由)が混在してわかりにくい。
「話が分からないから聞きたくない」など、夫の言葉が引用されているが、どんな文脈で言われたのかが不明。
改善のポイント:一文を短くし、1文1アイデアを意識する(例:「5分遅れたら、夫は1日不機嫌だった。理由を聞くと『謝らないのが嫌だ』と言われた」)。
口語的な表現(「は?」「書き殴る」)を減らし、ニュートラルな表現(「驚いた」「率直に書いた」)に置き換えると、幅広い読者に伝わりやすい。
フェイクの有無を明示せず、悩みの本質に焦点を当てる(例:夫の批判的な態度、コミュニケーション不足など)。
4.ターゲットや目的の不明確さ理由:文章が「誰かに見てほしい」という動機で書かれているが、具体的に「誰に」「何を伝えたいか」が曖昧。愚痴を吐き出したいのか、アドバイスを求めたいのか、共感してほしいのかが不明確。
読者が「どう反応すべきか」判断しづらいため、感情的な共感や具体的な解決策を求める声に応えにくい。
例:「どこか誰かが見てくれる可能性があるところで書きたいと思った次第だ」は、書く動機が漠然としており、読者に「どうしてほしいのか」が伝わりにくい。
離婚を考えつつ修復も諦めていないという葛藤が書かれているが、どちらを優先したいのか不明。
改善のポイント:文章の冒頭で目的を明示する(例:「夫婦関係の悩みを吐き出したい」「アドバイスがほしい」「共感してほしい」など)。
結論部分で「今後どうしたいか」「どんな助けが必要か」を具体的に書くと、読者が反応しやすくなる。
たとえば、「夫の不機嫌な態度に疲れた。どうやって関係を改善できるか、または離婚の準備を始めるべきか迷っている」といった具体的な問いかけを入れる。
5. 具体例と背景の不足理由:エピソードは具体的だが、それが夫婦関係のどの問題につながるのか、なぜ深刻なのかが説明不足。
夫の変化(同棲前の優しさ→現在の不機嫌)やペアローン、セックスレスの背景がほとんど触れられていないため、読者が状況を想像しにくい。
例:「映画で3時間ポップコーンを食べ続けたらおかしいと言われた」は具体的なエピソードだが、なぜそれが問題なのか(例:夫の批判が日常的だから傷ついた)が不明。
「ペアローンで離婚に踏み切れない」は重要な情報だが、ローン金額や離婚時の具体的な懸念(経済的負担、住居問題)が触れられていない。
改善のポイント:各エピソードに「なぜそれが問題か」「どんな影響があったか」を1~2文で補足する(例:「ポップコーンの件で批判され、いつも私の行動を否定されていると感じた」)。
背景情報を簡潔に追加する(例:「同棲前は夫が気遣ってくれたが、結婚後は不機嫌が増えた」「ペアローンは月XX万円で、離婚すると支払いが難しい」)。
深刻な問題(セックスレス、離婚の葛藤)に焦点を絞り、詳細を補うと、読者が共感や助言をしやすくなる。
6.ADHDに関する自己言及の唐突さ理由:ADHDの可能性に触れているが、それが夫婦関係の問題とどう関連するのか、具体的な症状や影響が書かれていないため、読者がその重要性を理解しにくい。
自己批判(「言いたいことをすぐ言ってしまうのが問題」)が突然出てくるが、具体例や背景がないため、読者が「本当に問題か?」と疑問に思う可能性がある。
例:「Xなどでこれが当てはまるとADHDだとなるのに当てはまり」は、自己診断の可能性を示唆するが、どの特性が夫婦関係に影響しているのか不明。
改善のポイント:ADHDの可能性を挙げるなら、具体的な特性(例:衝動的な発言、感情のコントロールが難しい)と、それが夫婦関係にどう影響しているかを説明する。
例:「ADHDかもしれないと思うのは、夫の不機嫌に我慢できず、つい言い返してしまうから。後で後悔するが、コントロールが難しい」。
自己診断ではなく、専門家の診断を検討しているなら、その意向を明示する(例:「近日中に心療内科に行く予定」)。
7.文化・言語的な背景(日本語特有の読みづらさ)理由:日本語の文章として、感情的な口語表現や接続詞(「で」「など」)の多用が、読み手にとって文のつながりを曖昧にしている。
日本の文化的背景(「家族に相談するのは恥ずかしい」「謝らないと終わらない」など)が暗黙的に前提されているが、読者にその背景が共有されていない場合、理解が難しい。
例:「結局こちらから謝らないと終わらず」は、日本的な「我慢や謝罪で関係を維持する」文化を反映しているが、説明がないと海外の読者や若い世代には伝わりにくい。
改善のポイント:文化的背景を簡潔に説明する(例:「日本では夫婦の揉め事を家族に相談するのは抵抗があるため、誰にも話せなかった」)。
接続詞(「で」「など」)を減らし、短い文で区切る。例:「夫は私の愚痴を聞かず、逆に批判する。それが辛い」。
まとめ:わかりにくさの主な原因情報の羅列と構造の乱雑さ:エピソードや感情が混在し、全体の流れが不明確。
感情と客観性のバランス不足:感情の吐露が中心で、状況説明や背景が不足。
目的の不明確さ:誰に何を伝えたいかが曖昧で、読者の反応が難しい。
具体例と背景の不足:エピソードや問題の深刻さが伝わりにくい。
文化的背景の暗黙性:日本特有の価値観が説明不足で伝わりにくい。
改善例(簡略化した文章)以下は、元の文章をわかりやすく整理した例です(内容は一部省略し、構造を改善):「夫と私はマッチングアプリで出会い、1年交際、1年同棲を経て、結婚1年目の30代夫婦です。最近、夫の言動に悩み、誰にも相談できず苦しんでいます。以下は主な問題です。夫の批判的な態度:街で水を飲むために立ち止まると、「人に迷惑だ」と怒られる。人がいなくても批判され、気遣いがないと感じる。
仕事の愚痴(例:後輩が寝ながら話を聞く)を話すと、「後輩が悪いわけじゃない」「あなたが悪いかも」と言われ、共感してもらえない。
コミュニケーション不足:私が仕事の人間関係で泣きながら話しても、「愚痴は聞きたくない」と遮られる。夫の不機嫌が増え、話せない。
外食時、「早く食べろ」と急かされ、楽しく会話できない。
夫婦関係の悪化:お出かけでは夫が不機嫌で携帯ばかり見る。ゆっくりお茶する時間もなく、夫婦の時間はゲームだけ。
夫の理由で2年セックスレス。こちらから誘って今年1回できたが、関係は冷めている。
離婚の葛藤:夫の態度に「結婚は失敗だった」と思うが、ペアローンで家を買ったため離婚に踏み切れない。
夫の機嫌を気にしながら生活し、感情が不安定に。謝るのはいつも私で、修復も難しい。
私はXでADHDの情報を見て、自分が衝動的に発言してしまうのが問題かもしれないと思う。診断は受けていないが、夫の批判に我慢できず言い返すことが多い。同棲前の優しかった夫に戻ってほしいが、どうすればいいかわからない。共感やアドバイスがほしいです。」改善のポイント(例)構造:テーマごとに段落を分け、箇条書きで整理。
感情と客観性:具体例に「なぜ問題か」「どんな気持ちか」を補足。
最後にあなたの文章は、感情の生々しさや葛藤の深さが伝わる一方、情報が詰め込まれすぎて読み手が整理しづらい構造になっています。感情を吐き出す目的で書かれたのは素晴らしい一歩です。もしこの文章を誰かに見せる(例:Xに投稿、カウンセラーに相談)なら、テーマを絞り、背景や目的を明確にすると、より共感や具体的な助言を得やすくなります。もし特定の部分(例:夫の言動、離婚の葛藤、ADHD)を深掘りしたい、または文章をさらに推敲したい場合、教えてください。Xでの投稿例や他の人の体験談を検索するお手伝いもできます。あなたが少しでも心の負担を軽くできるように、応援しています!
二次創作が好きだ。
しかし厄介なことに、ハマったジャンルを卒業してしばらくしたらジャンルを嫌いになるサイクルを繰り返している。
何故だろう。
ハマっている最中に盲目的に好きな場合も、ハマっている最中から「熱が冷めたら大嫌いになる予感がするなあ」と内心思っている場合も、両方ある。
二次創作を好きと言っても世にはいろいろな人の楽しみ方があるが、私の場合は推しているキャラクターへの解釈の押し付けが強く、原動力は自分のリビドーだ。決して原作者様に胸張って言える形の楽しみ方ではない。
だから、ハマり終わると恥ずかしくなるんだと思う。
ネコが排泄したあとに恥ずかしくなって(かどうか知らんが)砂で排泄物を隠し、本能的に走りまわってその場を離れる習性があるが、あれに近いのではないか。
決して原作をウンコ扱いしているのではなく自分の生み出した創作物や妄想がウンコなのであるが、原作がチラつくと自分のウンコも副次的に思い出してしまうので嫌いになっている、のかもしれない。
別にハマったものを好きになったり嫌いになったりは私の中で折り合いがついているのでいいのだが、
問題は私は二次創作をとおして友人関係が構築されていることである。
私の二次創作を褒めてくれたTwitter(現Xだが思い入れが強い時代の名称がTwitterのため以下Twitterとする)のみんな、私が熱い感想文を送ったTwitterのみんな、
今も大事なTwitterのタイムラインを構築するお友達※である。
※私による認識
しかし私はジャンルに冷めてしまっているし、ジャンルのことを嫌いになっているので、あまりジャンルに関する新しいニュースとかを見たくないのである。
原作者の次作品情報とか。終わった作品の新しいグッズ展開とか。いらないよ、見たくない。
見たくないといっても目玉を搔きむしりたくなるほどの苦痛があるわけではない。
当たり前だが誰かに苦情を言うわけでもない。
「うわ」と思いながら静観できる。
ただジャンルの人と同じように盛り上がることはできないし、盛り上がっているポーズをとれないことに居心地の悪さがある。
自分だって一時期は熱くのめりこんでいたのに、「そんなにいい作品だった?」と聞いてみたい、みたいな気持ちが生まれる。
ジャンルの最終回だったりサービス終了だったりを経て数年して、自分たちの妄想はどこにも実を結ばないただの妄想であることを実感して、どうしてそれでもずっと好きで熱心に追いかけられるのだろう、と冷めた気持ちがある。
他人様の創作物(原作)に対して独自の解釈を見出して熱くなることは、おそらく異常な趣味である。
妄想は誰にも止められないし、という台詞が、げんしけんという漫画でいい感じのエピソードで起用されていた。
きっとたくさんの人を救ったいい場面だったと思う。
が、私の場合は二次創作にのめりこんでいる時期は妄想が捗るあまり仕事が身につかなくなったり、オタクではない友人との関係維持をないがしろにしがちであった。
そうなると病的であったと言えると思う。
これを過去に共通ジャンルがとっかかりで親密になった友人に話すと
「病気ではないですよ。あなたがあの頃の自分を病気だと思っていても、確かに私はあなたの創作物で命が助かっていましたよ」
と言わせてしまう。
私の二次創作物を好いてくれた人に、私が砂をかけ、嫌な思いをさせて申し訳ないと思う。
私はしょっちゅう上記のようなことを思っているが、反省してあまり口に出さないようにしている。顔を突き合わせて喋る親密な人に、年に1回くらいにとどめている。
ネコの排泄物に例えたけれど、他では男性の賢者タイムに似ているのかもしれない。
生まれてずっとヒト科ヒト目のメスとして生きているから、ネコにも男性にもいや違うけど、と言われるかもしれない。
自分以外の人は、こうならないのだろうか。
何故、みんなこうならないのだろう。
何故、私はこうなるのだろう。
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『あなたは「熱中のピークが高い ×自己批判が強い ×本能的動機が強い ×防衛反応が働く」という条件がそろっているため、他の人よりも急激で極端な離れ方をするのです。』
chatGPTの見立てではこうらしい。
Permalink |記事への反応(17) | 23:21
【発端】
・女型ラブドールに“ゴミを食べさせる”インディーゲームが「女性搾取」と炎上。
・それに対し「では女性が描き女性が読むBLも“ゲイ搾取”なのでは?」という疑問が投下され論争に。
―搾取派
-男性向けエロを叩いた論理をそのまま当てはめればBLもアウト。
-BLは“女性向けファンタジー”であってゲイ向けポルノではない。
-BL同人誌の即売会で「男は来るな」と言いながら男体を性的消費しており一方的な客体化。
―非搾取派
-架空の男性同士の恋愛を描くのは自由。現実のゲイに実害を及ぼさない限り搾取ではない。
-フェミ/腐の一部が男性向け作品を規制要請→BLも問題まみれなので「ブーメラン」だと男オタがBLを叩く状態。
- 「どちらも燃やし合って共倒れになれ」と願う傍観派も登場。
-少年漫画キャラの18禁二次、未成年受けなどは元々グレーで「いつ規制されてもおかしくない」。
-海外(イギリス、オーストラリア、中国等)ではBLも含め18禁強化やアクセス遮断が進行。日本も他人事ではない。
-ゾーニングで済むのか、発禁か、規制派の落とし所が不明という指摘。
4.コミュニティ内の自浄不足
-過激シッパー/フェミが暴れても同ジャンル内で止められず、外部から一括攻撃を受ける構図。
- 「主語がデカ過ぎる」「当事者でない層が煽って延焼を広げている」との自己批判も。
- 元来は労働用語であり性的表現に安易に使うのは的外れ、との声。
- 「男/女」など大雑把な括りで互いを叩くことの不毛さを指摘する意見も多数。
【総括】
・議論は最終的に「フィクションの性的表現をどこまで許容・規制するか」というより広い問題に収束。
性的対象化(sexual objectification)とは、他者を独立した人格や意志を持つ存在としてではなく、性的欲望を満たすための対象として扱うことを指します。
フェミニズムにおいては、特に異性愛男性による女性の身体の対象化が問題視されてきました(例:広告、メディア、ポルノなどにおける「性的記号」としての女性の扱い)。
BL(ボーイズラブ)はゲイ男性をモチーフとした男性同士の恋愛/性的関係を描くジャンルですが、
ゲイの現実的生活・社会的文脈とは無関係に「性的に消費可能な存在」=フィクションの性的商品として流通します。
ここで描かれているのは現実のゲイではなく、異性愛女性にとってのみ都合のよい“ゲイ風のなにか”です。
つまり、多数派が少数派を、自分の欲望を満たすために再構築して支配するという点で、両者は同型の搾取構造です。
しかしBLの制作や消費を行っている女性たちからの自己批判や自浄は行われず、
「異性愛男性による異性愛男性のための不快な女性表象は有罪だが、異性愛女性による異性愛女性のための非現実的なゲイ表象は無罪」と言い張るBL作品生産/消費当事者が目立っているのが現状です。
特に二次創作においては、未成年の少年キャラクター同士のBL作品が大量に作られているのも問題です。
成人の異性愛男性による性的な少女表象は問題だが、成人の異性愛女性による性的な少年表象には問題がない、というのもダブルスタンダードといえます。
異性愛男性が現実の女性を「理想の性商品」としてフェティッシュ化するように、BLもまた現実に存在するセクシュアルマイノリティ(ゲイ男性)を欲望の道具とする危険性があります。
特に当事者支援との混同を用いたBL消費の美化については、「精神疾患などにより貧困状態に置かれている女性による性的サービスを購入しつつ、
それを貧困女性を救済する社会貢献活動であるとして正当化する男性」と、権力構造的には同種の加害性を抱えていることを示しています。
BLにおけるゲイ男性の描かれ方が、現実のセクシュアルマイノリティの複雑な現実を無視し、異性愛女性というマジョリティの性的欲望に奉仕するかたちで表象されている限り、それは異性愛男性による女性への一方的な性的搾取と同様の構造的問題を孕んでいます。
ゲイ男性当事者の視点からは、BLジャンルが異性愛女性の視覚的・性的幻想を満たす「都合の良い幻想」として機能しており、当事者としての他者性や現実性が否定されがちであること、その結果として性的対象化・記号化される構造に強い違和感が表明されています。
「性的記号」としての女性の扱いに苦言を呈し表現規制を求めながら、同時にBLを正当化するのは論として破綻しています。
『アンフェ、キモオタ、チー牛に媚びる名誉男性になれ』なんてことは一言も言っていません。フェミニズム理論を少しも学ばずにお気持ちと雰囲気でフェミニズムを振り回しているのがまるわかりだから怒っています。
読んでいた漫画に二次創作腐女子が大勢ついたうえに、腐女子に人気のBLカップリングが本編で否定されたことによって漫画家への誹謗中傷が起きているのを見て、「盗人猛猛しいな」とかなりの怒りを抱いたのもあります。
言葉選びなどの品性や、そもそもの「主張の内容」が相当ひどいという自覚を持ったほうが良いと思います。あなたたちは有害な女性性をもった有害な女性です。
Permalink |記事への反応(22) | 06:19
日本の終わりの始まりっつーか、海外でも始まってることがついにこの国でも始まったんだろう。イギリスもアメリカもドイツもこういう極端なバカでかい声が選挙で勝って、結果国ごと無事に沈んでいく。
都民の頭はどうなってんのマジで……、あんな見るからに嘘泣きの女に引っかかって、今までよく無事に生きてこられたな? 美人局なんてやる方も悪いが、引っかかる方がもっとおかしいんだぞ。
といいつつ自分の住んでる選挙区もオレンジがとりました。マジで勘弁して欲しい。かわりにどこが負けたかというと、公明だ。創価パワーはどこいったよ。
その昔、創価=公明党は当然とされていて、どちらも社会の嫌われ者だった。折伏ってのが流行りまくって、信者(勧誘員)は蛇蝎の如く嫌われていた。俺の実家の近くにはU一家という小学生のガキからジジイまで家族全員創価に染まった連中がいて、選挙がある時もない時も近所の家を回ってイケダセンセーの教えと聖教新聞の押し売りと公明党の宣伝を欠かさなかった。
小学生のUは同級生だったが、創価の教えは関係なくセコくて意地汚いやつとして嫌われていた。U家では毎月決まった日に近隣の信者を集めて家の外まで響くお題目を唱えて騒音問題を引き起こし、我が家を含めて関わりを持たないように遠巻きにされていた。
最近の公明党は(もともと政教分離を掲げていたとはいえ)、=創価ではないというアピールを始めている。実際公明党が選挙のたびに掲げる政策は創価の信者が特別利するような内容でもなく、ほんのりリベラルに近い。何かと極右に走りがちな一部自民の歯止めにすらなっている。一部の高市とか高市とか高市みたいなウヨの姫をただの変なおばさんで留めてくれているのは、公明のおかげまである。
が、あまりにも創価信者の過去のやらかしのイメージが悪すぎて公明党に人気がない。選挙のたびに投票所に近所の人を連れ出すような元気のある信者も少ない。それで参政党に負けたんじゃないかと思う。
さっさと公明党は、そうはいかんざきの時代は間違っていたと認めるべきである。関係が全くないとは言い切れなくとも、過去の折伏も含めて創価の活動はおかしかった、と自己批判の一つでもしていれば結果は少しは違っていたかもしれない。そうすれば我が神奈川で厚顔無恥にして頭Z、元警視庁の参政党員なんてあたおかが当選することはなかったはずである。
ちなみにUは父親が亡くなってから家に来る信者も減って、今はカツカツの暮らしらしい。お題目を唱えても安倍は生き返らなかったし、過去のやらかしのせいでUはやっぱり今も地元では嫌われているしこの先もずっと変わらないだろう。
参政党が止められないなら、せめてUのような信者だけでも救ってやってほしいもんだ。子供の頃から何もかも犠牲にして地域の嫌われ者になって、結果まったく救われないとかあまりにも心がない。
なんてことを思った。