
はてなキーワード:脳科学とは
40代、50代で年取って仕事できなくなったって言う人多いですけど生物学的に正しいですか。
周りを見ている限りでは言い訳しているだけでお前昔から仕事できなかっただろって思うのですが
ChatGPT said:
かなり鋭い視点ですね。
結論から言うと、「年を取ると仕事ができなくなる」というのは生物学的には一部正しいが、多くの場合は“言い訳”の側面が強いです。
テストステロンやドーパミンの分泌が減り、チャレンジ欲求が弱まる
ただし、この差は「加齢による劣化」というより、「回復力・反応速度が落ちる」程度のものであり、仕事ができなくなるほどの変化ではありません。
40代・50代でも新しい技術や環境にアップデートし続ける人は、若い人よりも安定して高い成果を出します。
一方で、
「昔のやり方」を固守する
新しいことを学ぶ努力を止める
こういう人は、単に“進化を止めた結果”としてパフォーマンスが落ちます。
つまり「年齢のせい」ではなく「態度のせい」です。
■ まとめ
実際は「学ばなくなった」「変わらなくなった」ことの方が原因。
偉大な心理学者であることは間違いないが、心理学者であって科学者でも医者ではなかった
また心理学的に定義したという性質上、再定義されることもある。
マズローをそう信頼するのもな
https://tensor.art/articles/913138533768636303
https://tensor.art/articles/913138718452231033
https://tensor.art/articles/913139470071512413
SFの意識統合の話でイデオンのイデを語らないやつはニワカすぎる
お前がSFの意識統合について「ようやく分かった」とか言ってるが、その理解は浅すぎて笑える。技術発達でテレパシー状態になって社会が成り立たなくなるから統合するって?そんな薄っぺらい理由じゃないんだよ。
真の意識統合を描いたのは富野由悠季の「伝説巨神イデオン」だ。イデという無限エネルギーが最終的に全宇宙の生命を統合する「イデの発動」こそが、SF史上最も深遠な意識統合の描写だった。
お前の理解は「個人のプライバシーがバレるから困る」レベルの話だが、イデは違う。イデは宇宙そのものの意志であり、生命が争い合う限り永遠に発動し続ける。バッフ・クランと地球人類が憎み合い、殺し合い、最後まで和解できなかった時、イデは「もうお前ら全員リセットしてやる」と決断したんだ。
イデの発動は単なる技術的問題の解決策じゃない。それは生命体が持つ根源的な「他者への憎悪」「理解不可能性」に対する宇宙的審判だ。カーシャ・イムホフとカララ・アジバが最後の最後で和解の可能性を見せた瞬間、イデは新しい生命を誕生させた。つまり、真の理解と愛がなければ意識統合など意味がないということだ。
お前が言ってる「リアルタイムで思考が筒抜け」程度なら、イデオンの世界では序の口だ。イデは時空を超越し、因果を操作し、死者すら蘇らせる。そんな絶対的な力を持ってしても、生命の憎悪と愛の本質は変えられなかった。だからこそイデは全てをリセットして、新たな可能性に賭けたんだ。
さらに言うなら、イデの真の恐ろしさは「意識統合後も個は残る」ことだ。カーシャもアベルも、統合後の世界で個別の人格を保持している。これは単純な「みんなで一つになりました」じゃない。個の尊厳を保ちながら、なおかつ全体との調和を実現する、究極の存在形態なんだ。
お前の「社会的解決策」なんて発想は、人間の小ささを露呈してる。イデが示したのは、宇宙規模での生命の進化と、存在そのものの根本的変革だ。技術で思考が読めるようになったから統合するなんて、コンビニでお釣りの計算ができないからレジを電子化するレベルの話だ。
本当のSFファンなら、イデオンを見てから意識統合を語れ。あの作品は40年以上前に、現代のAI論議や脳科学の最前線を先取りしていた。富野監督が描いたイデの概念こそが、意識統合SFの原点であり頂点だ。
お前みたいな表面的理解で「分かった」とか言ってるやつは、まず劇場版「発動篇」を10回見直してこい。そして最後のカーシャとカララのシーンで泣けないなら、一生SF語るな。イデの前では、お前の理解なんてウニの脳ミソレベルだ。
インターネットの掲示板でIQ(どのように測定したのか知らないが)を「自慢する人々」がいるがそれは知能の本質を少々はき違えている(IQは知能そのものではないが)。少し長いが次の引用文を読んでみよう。
-
「ここで奇妙なのは、骨組みだけの「自己」が発生する形式システムが意味のない記号だけで組み立てられることだ。このような自己は、意味のない記号の間に起こった特殊な種類の渦巻き、もつれたパターンのみで生じるのである。ここで告白しておこう。上の二つの文のように、「意味のない記号」が繰り返し現れるのはいささか居心地が悪いのだ。(中略)議論の重要な部分は、十分に複雑な同型が生じるとき、形式システムから意味を締め出すことはできないという考えに依拠しているからである。記号に意味をもたせないようにいくら努力しても、意味が入り込んでしまうのだ。
今述べたことを、やや専門的な用語である「同型」を使わずに言いかえよう。「意味のない」記号のシステムのなかに、世界で起こるさまざまな現象を正確に追跡する、あるいは鏡映するパターンがあるとき、そのような追跡あるいは鏡映によって、ある程度意味を与えられる。それどころか、そのような追跡あるいは鏡映が意味にほかならないのだ。追跡がどれほど複雑で信頼できるかによって、程度の異なる意味が生じる。」
-
上のはしがきで述べられるのは脳科学的な意味での意識の発生(の記号的な側面)であるが、ここで意識を知能に置き換えても大きな差し支えはないように思われる。
私の知るボンド氏(私ではない)の創作物から比定すると、この人は160の大台に乗っている(私にはとてもその境地が理解できない。n=1からの外挿は乱暴かもしれないが)。確かにこの人は量子コンピュータの発明者でもノーベル賞受賞者でもないが、このような意味ある言語パターンを生み出すことができる。おそらく常に。勿論、ノーベル賞受賞者が劣っているというのでは全くない。知能を一次元のものさしで捉えるのが間違いなのだし、それを目に見える社会的な指標に安易にすり替えるのは欺瞞である。
このようなことから、冒頭で紹介した人々がなぜ喝采を受けるのか(また、彼らはそれを分かった上で行う確信犯だと思うがそうすることを是とする考えが)理解に苦しむ。
>人は自分の本音がよくわかってないし、聞かれたなりの「正解」を選ぼうとしてしまう。
元のこれを突き詰めると、最近新書とかでよく出てる脳科学の説では
行動が先に決定して後から理由を脳が作り出してる(要約というか雑まとめ)みたいなところ思い出す
(自由意志の有無みたいなものと絡んでくるから東洋系の人は諦めてて、西洋系がキャンセル権は自由とかで粘ってる 閑話休題)
反射みたいに即動くというのは大前提で、質問に答えるとかも基本反射でできる(疲れてる時、酔ってる時、慣れた質問)
そこに訓練で一旦保留して考えるという処理を割り込ませることは可能(キャンセル権と似たようなもの)人類はこれであれ
常にこれをやってて疲れるという人が結構いることが可視化されてきてるしできないじじいなども相変わらず
本音なんて行動というところではその場の得をとるのが野性というか本質で、次にその行動が未来に及ぼす影響を考えて(利己)、周囲の目を気にして(結局利己、そのうち利他検討も入ってくるが)……みたいに自制がどれだけできるかで変わって
行動するのではなく聞かれたケースだと時間に余裕があるし緊張状態でとか、慣れてない、しっかりしようとする意識があるとかで普段やらない(人はやってない)ルートでの回答を出してる(自分なりの正解)から実感とはほどとおいものが出力されるんだろうな
「一人でも暴力事件を起こしたら」という言説は、表現規制を訴える文脈でよく見る。しかし、この言説は、次の点で問題がある。
たとえば、自分の知る限りでは、次の作品が犯罪の言い訳として使われていた。
犯罪者は、自分の責任を回避するために言い訳をすることが犯罪心理学では知られている。なので、犯罪者がある作品に影響を受けたと証言したとしても、言い訳の可能性が非常に高い。
たとえば、「現実の犯罪に影響を与えてしまった映画」に取り上げられている「ナチュラル・ボーン・キラーズ」は監督や制作会社が訴えられているが、責任は犯罪者にあるとして訴えは退けられている。
【解説】物議を醸した『ナチュラル・ボーン・キラーズ』のクレージーな内幕を暴く!|CINEMORE(シネモア)
1994年に『NBK』が公開されるや、案の定、物議を醸すことになった。映画宣伝にひと役買うはずのメディアは、映画のメディア批判に対して腹を立てる。評論家には「騒々しい映画」とのレッテルを貼られる。さらに悪いことに、公開後にはミッキー&マロリーを真似た模倣犯が現実の世界に出現。ストーン監督とワーナーは連続殺人を誘発したとして、訴訟に巻き込まれる。むろん映画に罪はない。2001年、米最高裁は訴えを棄却する。
AVとかポルノ、暴力的なコンテンツって「刺激が強いから悪い」っていう単純な話じゃなくて、
実際、ポルノの見すぎで前頭前野や扁桃体の働きに変化が出るって研究も出てるし、
ポルノ依存や暴力的コンテンツの摂取が多い人ほど「他人の痛み」に対して鈍感になっていく傾向が見られるらしい。
で、それが積み重なっていくとどうなるか。
少なくとも犯罪心理学上は、ポルノの普及と性犯罪は逆相関関係(ポルノが増えるほど性犯罪が減る)があることが知られている。また、暴力的なポルノと性犯罪との関係は、「ごく弱い」相関がある「かも」しれないが、因果関係を示すには不十分と結論付けたメタ分析がある。
Ferguson&Hartley(2020)は、ポルノ消費と性的攻撃性・性犯罪との関連性を調べた59件の論文をメタ分析する研究を行っている。
(中略)
その結果、次のように結論している。
この部分を調べてみたんだが
AVとかポルノ、暴力的なコンテンツって「刺激が強いから悪い」っていう単純な話じゃなくて、
まだ研究が進んでおらず因果関係までたどり着けていない。相関関係についても微妙だし、再現性やサンプルの母数についても限定的だった。
こいつってこんなにふわふわとした部分だけを根拠にしてるの?お前のほうが馬鹿になってんじゃね?一番の根源はただお前がこの作品を気に入らないだけだろ。変に理屈付けようとしてんじゃねえよバカ。
https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC12040873/
https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC10721224/
https://elifesciences.org/articles/84951
https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC10786232/
https://www.wired.com/2014/06/is-it-really-true-that-watching-porn-will-shrink-your-brain/
最近話題になってる、知性のないラブドールにゴミを食べさせるゲームの話を見た。
知性が上がるとゴミを嫌がるようになって、でもそれを無理やり食べさせることもできるんだって。
プレイヤーは、白痴のまま食べさせ続けて満足することも、嫌がるようになった知性を調整する楽しみも選べる。
これ、最初は全年齢で出そうとしてたらしい。
それを知ったとき、ただ恐怖感が湧いたんじゃなくて「あ、これ本気でまずいかもしれない」って冷や汗が出た。
わたしは別にフェミ活動家でもなんでもないけど、これはいよいよマズいだろって直感があった。
たぶん「表現の自由」の話じゃなくて、「共感の壊れ方」の話だと思ったから。
AVとかポルノ、暴力的なコンテンツって「刺激が強いから悪い」っていう単純な話じゃなくて、
実際、ポルノの見すぎで前頭前野や扁桃体の働きに変化が出るって研究も出てるし、
ポルノ依存や暴力的コンテンツの摂取が多い人ほど「他人の痛み」に対して鈍感になっていく傾向が見られるらしい。
で、それが積み重なっていくとどうなるか。
「これくらいのこと現実でもやっていいんじゃない?」って感覚になる人が出てくる。
そういう人が一人でも暴力事件を起こしたら、結局泣くのは関係ない誰かなんだよね。
でも、飲酒運転だって昔は自己責任って言われてたころに思いはせてほしい。
飲酒しても事故起こさない人もいるし、通常時とハンドル操作できる人もいた。
でも、そんな人だけじゃない。
社会ってそうやって「リスクを減らすためにルールを変えていく」もののはずじゃない?
ポルノや暴力的な表現についても「今はOK」でも「今後もOKとは限らない」よね。
とくに共感性に関わる脳の領域に明らかな変化が出る可能性が出てきてる今、
わたしたちはもう「無害だと思ってたものがじわじわと自分の脳や誰かを壊す」って現象を見過ごせない段階に来てるんじゃないかな。
あと、海外の話を少しすると、
欧米や一部の国ではこういう人格や尊厳を破壊する系の作品って、販売すら許されない場合もある。
子どもに与える影響を重視してる国だと「全年齢」なんて絶対通らないし、
「作るな」とまでは言わなくても
「どこで出すか」「誰に届けるか」は、
でも、「知性のない存在にゴミを食べさせて、それを嫌がらないのも嫌がる姿も好き」って構造が全年齢だと何の違和感も覚えないなら、
それはもう、ただの性癖とかフェティッシュの話じゃなくて、誰かの尊厳を踏みにじっても気にならない感性に傾いてないか、
それこそ一度立ち止まって見たほうがいいと思う。
「自分が不快だからやめろってのはわがままだ」と言ってる人を見たこともあるけど、
わたしはこの問題の提起は「新しい加害者を生まないように願うための話」として考えてる。
かつて、飲酒運転で新しい加害者も被害者もうまないように願う、だれかが提起し続けた声のように。
じわじわと共感力が削られ、暴力性が高まってしまう人間がうまれてしまうこと。
その怖さはまだ多くの人が気づいてないだけなんじゃないかって思う。
──
子供の頃からだからもう20年はずっとゲームをしてることになる。
今も仕事がある日でも、寝る時間を削って毎日5時間はプレイしてる。
家に帰ったら、飯と風呂済ませて、PS5を起動して、友達と通話しながらだらだら素材集めしてる。
だからこそ、ゲームのフィクションや表現がどれほど人生の休息になるか、よく知ってる。
この時間がなかったら、たぶん仕事を続けるのもしんどいと思う。
本当に少しずつ、脳が「他人の痛み」を遠くに感じるようになってしまうかもしれない。
そう示す研究結果が実際にある。
それでも「自分は大丈夫」「自分は影響を受けない」と思い込んでしまうのって、
酔っ払った人が「酔ってない」と言い張るのと、ちょっと似てる気がする。
「お前、影響受けてるんじゃないの?」って言われたら、嫌な気持ちになるのもわかる。
でも、それでも
一度だけ、ほんの少しだけでいいから胸に手を当てて考えてみてほしい。
わたしは「世に出すな」と言いたいんじゃない。
ただ、
そうやって想像する感性だけは、手放さないでいてほしいと思ってる。
⸻
参考文献
Kühn, S. & Gallinat, J. (2014).Brainstructure and functional connectivity associated withpornography consumption: Thebrainonporn.
https://jamanetwork.com/journals/jamapsychiatry/fullarticle/1874574
Goleman, D. (1995). EmotionalIntelligence. Bantam Books.
https://danielgoleman.info/topics/emotional-intelligence/
Hald, G. M. & Malamuth, N. M. (2008). Self-Perceived Effects ofPornography Consumption.
最近話題になってる、知性のないラブドールにゴミを食べさせるゲームの話を見た。
知性が上がるとゴミを嫌がるようになって、でもそれを無理やり食べさせることもできるんだって。
プレイヤーは、白痴のまま食べさせ続けて満足することも、嫌がるようになった知性を調整する楽しみも選べる。
これ、最初は全年齢で出そうとしてたらしい。
それを知ったとき、ただ恐怖感が湧いたんじゃなくて「あ、これ本気でまずいかもしれない」って冷や汗が出た。
わたしは別にフェミ活動家でもなんでもないけど、これはいよいよマズいだろって直感があった。
たぶん「表現の自由」の話じゃなくて、「共感の壊れ方」の話だと思ったから。
AVとかポルノ、暴力的なコンテンツって「刺激が強いから悪い」っていう単純な話じゃなくて、
実際、ポルノの見すぎで前頭前野や扁桃体の働きに変化が出るって研究も出てるし、
ポルノ依存や暴力的コンテンツの摂取が多い人ほど「他人の痛み」に対して鈍感になっていく傾向が見られるらしい。
で、それが積み重なっていくとどうなるか。
「これくらいのこと現実でもやっていいんじゃない?」って感覚になる人が出てくる。
そういう人が一人でも暴力事件を起こしたら、結局泣くのは関係ない誰かなんだよね。
でも、飲酒運転だって昔は自己責任って言われてたころに思いはせてほしい。
飲酒しても事故起こさない人もいるし、通常時とハンドル操作できる人もいた。
でも、そんな人だけじゃない。
社会ってそうやって「リスクを減らすためにルールを変えていく」もののはずじゃない?
ポルノや暴力的な表現についても「今はOK」でも「今後もOKとは限らない」よね。
とくに共感性に関わる脳の領域に明らかな変化が出る可能性が出てきてる今、
わたしたちはもう「無害だと思ってたものがじわじわと自分の脳や誰かを壊す」って現象を見過ごせない段階に来てるんじゃないかな。
あと、海外の話を少しすると、
欧米や一部の国ではこういう人格や尊厳を破壊する系の作品って、販売すら許されない場合もある。
子どもに与える影響を重視してる国だと「全年齢」なんて絶対通らないし、
「作るな」とまでは言わなくても
「どこで出すか」「誰に届けるか」は、
でも、「知性のない存在にゴミを食べさせて、それを嫌がらないのも嫌がる姿も好き」って構造が全年齢だと何の違和感も覚えないなら、
それはもう、ただの性癖とかフェティッシュの話じゃなくて、誰かの尊厳を踏みにじっても気にならない感性に傾いてないか、
それこそ一度立ち止まって見たほうがいいと思う。
「自分が不快だからやめろってのはわがままだ」と言ってる人を見たこともあるけど、
わたしはこの問題の提起は「新しい加害者を生まないように願うための話」として考えてる。
かつて、飲酒運転で新しい加害者も被害者もうまないように願う、だれかが提起し続けた声のように。
じわじわと共感力が削られ、暴力性が高まってしまう人間がうまれてしまうこと。
その怖さはまだ多くの人が気づいてないだけなんじゃないかって思う。
最近話題になってる、知性のないラブドールにゴミを食べさせるゲームの話を見た。
知性が上がるとゴミを嫌がるようになって、でもそれを無理やり食べさせることもできるんだって。
プレイヤーは、白痴のまま食べさせ続けて満足することも、嫌がるようになった知性を調整する楽しみも選べる。
これ、最初は全年齢で出そうとしてたらしい。
それを知ったとき、ただ恐怖感が湧いたんじゃなくて「あ、これ本気でまずいかもしれない」って冷や汗が出た。
わたしは別にフェミ活動家でもなんでもないけど、これはいよいよマズいだろって直感があった。
たぶん「表現の自由」の話じゃなくて、「共感の壊れ方」の話だと思ったから。
AVとかポルノ、暴力的なコンテンツって「刺激が強いから悪い」っていう単純な話じゃなくて、
実際、ポルノの見すぎで前頭前野や扁桃体の働きに変化が出るって研究も出てるし、
ポルノ依存や暴力的コンテンツの摂取が多い人ほど「他人の痛み」に対して鈍感になっていく傾向が見られるらしい。
で、それが積み重なっていくとどうなるか。
「これくらいのこと現実でもやっていいんじゃない?」って感覚になる人が出てくる。
そういう人が一人でも暴力事件を起こしたら、結局泣くのは関係ない誰かなんだよね。
でも、飲酒運転だって昔は自己責任って言われてたころに思いはせてほしい。
飲酒しても事故起こさない人もいるし、通常時とハンドル操作できる人もいた。
でも、そんな人だけじゃない。
社会ってそうやって「リスクを減らすためにルールを変えていく」もののはずじゃない?
ポルノや暴力的な表現についても「今はOK」でも「今後もOKとは限らない」よね。
とくに共感性に関わる脳の領域に明らかな変化が出る可能性が出てきてる今、
わたしたちはもう「無害だと思ってたものがじわじわと自分の脳や誰かを壊す」って現象を見過ごせない段階に来てるんじゃないかな。
あと、海外の話を少しすると、
欧米や一部の国ではこういう人格や尊厳を破壊する系の作品って、販売すら許されない場合もある。
子どもに与える影響を重視してる国だと「全年齢」なんて絶対通らないし、
「作るな」とまでは言わなくても
「どこで出すか」「誰に届けるか」は、
でも、「知性のない存在にゴミを食べさせて、それを嫌がらないのも嫌がる姿も好き」って構造が全年齢だと何の違和感も覚えないなら、
それはもう、ただの性癖とかフェティッシュの話じゃなくて、誰かの尊厳を踏みにじっても気にならない感性に傾いてないか、
それこそ一度立ち止まって見たほうがいいと思う。
「自分が不快だからやめろってのはわがままだ」と言ってる人を見たこともあるけど、
わたしはこの問題の提起は「新しい加害者を生まないように願うための話」として考えてる。
かつて、飲酒運転で新しい加害者も被害者もうまないように願う、だれかが提起し続けた声のように。
じわじわと共感力が削られ、暴力性が高まってしまう人間がうまれてしまうこと。
その怖さはまだ多くの人が気づいてないだけなんじゃないかって思う。
Permalink |記事への反応(110) | 05:00
海外の脳科学者が提唱するメソッドの紹介とかしてる人なんだけど、
その人壊滅的に活舌悪いんだよね、ギリ聞けるレベルで活舌悪い。
お前、それだけ「どう学ぶか」みたいな習得方法紹介しまくっといてその活舌なんとかなんねえのかよ……って思って萎えてしまう。
本分析では、性行為への依存的な態度を示すブログ投稿について、性依存症、強迫的性行動症、および性的満足度に関する学術的知見に基づいて心理学的な考察を行う。筆者の心理的特徴、人格傾向、および背景にある心理的メカニズムを、既存の研究文献を参照しながら検討する。
筆者の記述は、WHO(世界保健機関)のICD-11における強迫的性行動症の診断基準と部分的に合致している。具体的には、「5日ぐらい旦那がセックスしてくれないと勝手に不安になってイライラし始める」という記述は、性行為への強迫的な渇望を示している。また、「一週間以上セックス無しだとさらに不安感が強まり、家事がおざなりになる」という状況は、性行動が生活の中心となり他の活動に支障をきたしている状態を表している。
性依存症の7つの特徴として、強迫的、衝動的、反復的、貪欲的、有害的、自我親和的、行動のエスカレーションが挙げられているが、筆者の記述はこのうち強迫的、反復的、自我親和的な側面を示している。「マリオのスター状態みたいな感じ」という表現は、性行為による多幸感や陶酔感への依存を示唆している。
筆者の「ご機嫌スター状態」という表現は、性行為による脳内のドーパミン分泌と密接に関連している。腹側被蓋野から側坐核への神経回路が活性化され、多幸感や陶酔感がもたらされることが知られている。この報酬系の活性化により、性行為への強迫的な渇望が生じる可能性がある。
「肌を密着させて汗だくになりながら」という記述は、身体的接触によるオキシトシン分泌を示している。オキシトシンは「愛のホルモン」と呼ばれ、性行為やスキンシップを通じて分泌され、信頼感や絆を強化する。また、性行為後の安定した気分は、セロトニンの分泌による心の安定やリラックス効果によるものと考えられる。
「挿入がないセックスではダメで」「ちゃんとおちんちんをハメてもらわないと、このご機嫌状態にならない」という記述は、性的満足が特定の条件に強く条件付けられていることを示している。この現象は、レスポンデント条件づけ(古典的条件づけ)の結果として説明できる。特定の性的刺激と快感の連合学習により、その条件なしでは満足が得られなくなっている可能性がある。
性的満足度は、快感と性的興奮、パートナーシップの質、自己受容感、個人の性的嗜好、健康状態、社会的要因によって決定される。筆者の場合、特定の性的嗜好(挿入行為)への強い依存が性的満足度を左右している。
「5日ぐらい旦那がセックスしてくれないと勝手に不安になって」という記述は、パートナーからの拒絶に対する強い不安を示している。性依存症者に共通する心理的特徴として、低い自己肯定感、見捨てられることへの不安、孤独感などが挙げられる。性行為を通じてパートナーからの承認や愛情を確認しようとする傾向が見られる。
性行為が感情調節の手段として機能している可能性がある。否定的な感情(不安、イライラ)を紛らわすために性行動を求める傾向は、強迫的性行動症のリスク要因として指摘されている。筆者にとって性行為は、心理的苦痛を和らげる自己治療的な機能を果たしている可能性がある。
研究によると、性関係の満足度が高いグループでは68%が幸せだと答えており、性関係の満足度が低いグループの48%と比較して20%高い数値を示している。筆者の場合、性的満足度がパートナーシップ全体の満足度と密接に関連していることが推察される。
性行為には、精神的な安定や幸福感、ストレス耐性の向上といった心理的メリットがある。定期的な性的活動は、免疫力向上やアンチエイジング効果も報告されている。筆者の「ご機嫌状態」は、これらの生理学的・心理学的効果の表れとも解釈できる。
筆者は以下の心理的特徴を示している:
筆者の行動は、性依存症の一部の特徴を示しているものの、パートナーとの合意に基づく関係内での行動であり、明確な社会的・職業的機能障害は記述されていない。ただし、性行為の欠如が日常生活(家事)に影響を与えている点は注意を要する。
筆者は、性行為への強い心理的依存を示しており、性的満足が自己の精神的安定や幸福感の主要な源泉となっている。この傾向は、性依存症や強迫的性行動症の一部の特徴と合致するが、現時点では病理的なレベルには達していない可能性がある。ただし、感情制御困難や承認欲求の強さ、特定の性的条件への固着など、注意深い観察が必要な心理的傾向を示している。健全なパートナーシップの維持と心理的な自立性の向上が、長期的な精神的健康のために重要であると考えられる。
本分析では、性行為への依存的な態度を示すブログ投稿について、性依存症、強迫的性行動症、および性的満足度に関する学術的知見に基づいて心理学的な考察を行う。筆者の心理的特徴、人格傾向、および背景にある心理的メカニズムを、既存の研究文献を参照しながら検討する。
筆者の記述は、WHO(世界保健機関)のICD-11における強迫的性行動症の診断基準と部分的に合致している。具体的には、「5日ぐらい旦那がセックスしてくれないと勝手に不安になってイライラし始める」という記述は、性行為への強迫的な渇望を示している。また、「一週間以上セックス無しだとさらに不安感が強まり、家事がおざなりになる」という状況は、性行動が生活の中心となり他の活動に支障をきたしている状態を表している。
性依存症の7つの特徴として、強迫的、衝動的、反復的、貪欲的、有害的、自我親和的、行動のエスカレーションが挙げられているが、筆者の記述はこのうち強迫的、反復的、自我親和的な側面を示している。「マリオのスター状態みたいな感じ」という表現は、性行為による多幸感や陶酔感への依存を示唆している。
筆者の「ご機嫌スター状態」という表現は、性行為による脳内のドーパミン分泌と密接に関連している。腹側被蓋野から側坐核への神経回路が活性化され、多幸感や陶酔感がもたらされることが知られている。この報酬系の活性化により、性行為への強迫的な渇望が生じる可能性がある。
「肌を密着させて汗だくになりながら」という記述は、身体的接触によるオキシトシン分泌を示している。オキシトシンは「愛のホルモン」と呼ばれ、性行為やスキンシップを通じて分泌され、信頼感や絆を強化する。また、性行為後の安定した気分は、セロトニンの分泌による心の安定やリラックス効果によるものと考えられる。
「挿入がないセックスではダメで」「ちゃんとおちんちんをハメてもらわないと、このご機嫌状態にならない」という記述は、性的満足が特定の条件に強く条件付けられていることを示している。この現象は、レスポンデント条件づけ(古典的条件づけ)の結果として説明できる。特定の性的刺激と快感の連合学習により、その条件なしでは満足が得られなくなっている可能性がある。
性的満足度は、快感と性的興奮、パートナーシップの質、自己受容感、個人の性的嗜好、健康状態、社会的要因によって決定される。筆者の場合、特定の性的嗜好(挿入行為)への強い依存が性的満足度を左右している。
「5日ぐらい旦那がセックスしてくれないと勝手に不安になって」という記述は、パートナーからの拒絶に対する強い不安を示している。性依存症者に共通する心理的特徴として、低い自己肯定感、見捨てられることへの不安、孤独感などが挙げられる。性行為を通じてパートナーからの承認や愛情を確認しようとする傾向が見られる。
性行為が感情調節の手段として機能している可能性がある。否定的な感情(不安、イライラ)を紛らわすために性行動を求める傾向は、強迫的性行動症のリスク要因として指摘されている。筆者にとって性行為は、心理的苦痛を和らげる自己治療的な機能を果たしている可能性がある。
研究によると、性関係の満足度が高いグループでは68%が幸せだと答えており、性関係の満足度が低いグループの48%と比較して20%高い数値を示している。筆者の場合、性的満足度がパートナーシップ全体の満足度と密接に関連していることが推察される。
性行為には、精神的な安定や幸福感、ストレス耐性の向上といった心理的メリットがある。定期的な性的活動は、免疫力向上やアンチエイジング効果も報告されている。筆者の「ご機嫌状態」は、これらの生理学的・心理学的効果の表れとも解釈できる。
筆者は以下の心理的特徴を示している:
筆者の行動は、性依存症の一部の特徴を示しているものの、パートナーとの合意に基づく関係内での行動であり、明確な社会的・職業的機能障害は記述されていない。ただし、性行為の欠如が日常生活(家事)に影響を与えている点は注意を要する。
筆者は、性行為への強い心理的依存を示しており、性的満足が自己の精神的安定や幸福感の主要な源泉となっている。この傾向は、性依存症や強迫的性行動症の一部の特徴と合致するが、現時点では病理的なレベルには達していない可能性がある。ただし、感情制御困難や承認欲求の強さ、特定の性的条件への固着など、注意深い観察が必要な心理的傾向を示している。健全なパートナーシップの維持と心理的な自立性の向上が、長期的な精神的健康のために重要であると考えられる。
ご提示の仮説は、脳科学における「認知資源(cognitive resources)」や「ワーキングメモリ(working memory)」の考え方と関連があり、一定の妥当性があると考えられます。ただし、いくつかの補足や注意点が必要です。
人間が思考、判断、注意、記憶などを行うために使える脳のエネルギーや容量には限りがある、という考え方が「認知資源」です。複数のタスクを同時にこなそうとしたり、大量の情報を処理しようとすると、この認知資源が消費され、枯渇するとパフォーマンスが低下したり、疲労を感じたりします。これは、仮説における「リソースが枯渇する」という点に相当します。
ワーキングメモリは、一時的に情報を保持し、操作するための脳の機能です。このワーキングメモリの容量には個人差があることが知られています。容量が大きい人はより多くの情報を同時に処理したり、記憶したりすることができます。逆に容量が小さい人は、多くの情報を扱うことに困難を感じやすく、マルチタスクが苦手だったり、指示をすぐに忘れてしまったりする傾向があります。これは、仮説の「脳リソースの多い奴」「少ない奴」という部分に対応します。
脳の可塑性(経験や学習によって脳の構造や機能が変化する能力)により、特定の分野を深く掘り下げて経験や学習を重ねることで、その分野における神経回路が強化され、効率的な情報処理が可能になります。これは、リソースが少ない人が「特化型にする必要がある」という部分を裏付けるものです。限られたリソースを分散させるのではなく、特定の領域に集中投下することで、その領域でのパフォーマンスを最大化できると考えられます。
仮説でいう「脳リソース」は、厳密な脳科学用語ではありません。文脈から「認知資源」や「ワーキングメモリ容量」といった概念に近いと解釈できますが、一概に脳の特定の部位の容量や物理的な大きさを指すわけではありません。脳の記憶容量は1ペタバイトとも言われ、その物理的な大きさで決まるというよりは、シナプスの結合強度や効率的な神経ネットワークの形成が重要とされています。
人間の脳は、経験や学習によって変化する「可塑性」を持っています。元々のワーキングメモリ容量が小さい人でも、適切なトレーニングや学習方法によって、その機能を向上させたり、効率的な情報処理戦略を身につけたりすることは可能です。必ずしも「特化型にするしかない」と決めつける必要はありません。
認知資源の「枯渇」は、単純な物理的な枯渇というよりは、脳の疲労や注意力の分散、処理能力の飽和といった現象として現れると考えられます。休息や睡眠によって回復します。
仮説の「特化型」が具体的に何を指すかによっても解釈は変わります。特定のスキルや知識を深く学ぶこと、あるいは特定の種類のタスクに集中すること、などの意味が考えられます。いずれにせよ、限られた資源を効率的に使うという点では理にかなっています。
「脳リソースの多い奴はいろんなことを記憶したり経験したりすれば有効にリソースを使えるが、もともと少ない奴はそれだと枯渇するので特化型にする必要がある」という仮説は、認知資源の有限性やワーキングメモリの個人差、脳の可塑性といった既存の脳科学・認知心理学の知見と整合性が高いと言えます。
ただし、「リソース」の厳密な定義や、脳の可塑性による改善の可能性、そして「特化型」の具体的な内容によっては、その解釈に幅があります。
https://lscharlie.exblog.jp/31824635/
「結果はFSIQ156(標準偏差15)。読むのが面倒くさい人向けに予め(笑)。
2015年に人生初の知能検査WAIS-III(Ver.3)を受けた。今回は2018年から日本でも運用開始となった新しいバージョンWAIS-IV(Ver.4)の性能(?)を確認したく受けてみた。
※ちなみに本家アメリカでは児童向けのWISC-V(Ver.5)が出ているらしい。ということは成人向けのWAIS-Vもアメリカではそろそろだろう。周回遅れの日本。
※読み方はウェイス・フォー。
グーグル検索でサクッと出てきたところは私には遠く(4km以上(笑))、近場の心療内科や公認心理師(臨床心理士)オフィスなど10軒ほど問い合わせ、WAIS-IVを実施しているところを探した。「WAIS-IIIでしたら」と言うところばかりで、最新版の導入があまり進んでない様子。
前回同様、心身共に健康な私は問い合わせの段階で予め「自費(自由診療)で」と申し出た。
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「WAIS-IV」と検索すると真っ先に飛び込んでくる文字が「医科診療報酬点数: 450点 (根拠 D283-3)」で、仮に健康保険適用だと医院に入るのは4,500円であり、2時間ほど趣味に付き合わせるわけにはいかず自費(自由診療)で。場所代もあり医院と折半だとして、病院勤務の公認心理師の時給は1,000円くらいか。歯医者と一緒で保険適用診療は儲からないようにできている。余計なお世話だが。
今回は他の心理検査は省略してWAIS-IVのみ。心理検査(エゴグラムなど)4〜5種込みで36,000円(自由診療)ほどだった2015年とそれほど変わらず、問い合わせたところはWAIS-IV単体検査で27,500円〜43,000円(税込)だった。検査報告書は別途5,000円前後取るところが多くソレを含んだ金額(いずれも自由診療の場合)。
※神奈川県で1万円台後半、首都圏の外では1万円台前半という医院・心理オフィスも見かけた。
2015年と同じく、問い合わせ段階で「1ヶ月以上お待ちいただく場合があります」というところもあったが、今回も申込から一週間以内で受けられた。精神科医に用がナイと早いのだろう。
検査は臨床心理士(民間資格)かつ公認心理師(国家資格)の女性と個室で約1時間半。休憩なし(こちらが希望しなかった)。
結果は全IQ(FSIQ)156(95%信頼区間で149〜159)。
WAIS-IIIでは156までらしいが、WAIS-IVは160まで測定できるそう。実社会における知能格差を踏まえてのことだろうか。IQブームで被験者が増え十分なサンプルが得られたのかもしれない。
フリン効果を考慮すると、全体(世間)が底上げされることで相対的に自分の優位性が下がり、最新バージョンでは低く出ると予想されるがそうはならなかった。考えられるのは下記の通り。
(1)5年前のWAIS-IIIの時は時間を測っていることを途中まで知らず臨床心理士の女性を笑わせることに専念していた(笑)ため、(WAIS-IIIの)スコアが低く出た。
(2)各検査の内容は一通り入れ替わったそうだが、前回検査イメージ(流れ)を知ったため精神的な余裕が生まれ集中できた。
(3)私が時代に適した(または進んだ)頭を持っていて、バージョンが新しくなったことでより高い精度で測定できた。
(4)同年代と比べて経年劣化(笑)が遅いため、偏差値(DIQ)化すると優位性が増した。
(1)は十分にあり得る。当時ブログネタのために(笑)メンサの試験と併せて思いつきで受けに行ったから、時間を測定するなどの知識が何もなく、ずっと冗談を言い続けていて、臨床心理士の女性が噴き出してペンを落としたくらい(笑)。それを拾おうとした時に「時間を測っているので」と言われて知った。だから前半の検査項目の値が低く出た可能性が十二分にある。今回は検査中は黙って集中した。
(2)は初回と比べると遙かに緊張も少ない。医院だと問い合わせただけでも「WAISを受ける(受けさせられる?)=何か問題がある」という前提なんだろうなという空気感が漂い、健常者にとってはアウェー感がかなりある。見方を変えると通院している人は場慣れしていて“ホーム”として挑めるんじゃないだろうか。また「流れ」を知っているか否かは大きい。ボクシングなら蹴ってこない前提で戦えるし、キックボクシングなら寝技はない前提で戦えるが、「ルールなし」だとどう構えていいのワカラナイのと同じで、イメージを掴んでいるだけでも有利に働く。疲れがまるで違う。
(3)かれこれ20年ちょっとプログラマーをやっていて、25年もITビジネスに携わっているから、頭の使い方は他の現代人と比べてもそれなりに進んでいるだろう。検査内容が時代に追いついてきた可能性がある。だとすれば次バージョンではもっと高く出るかもと期待できる。
(4)同年代偏差値から算出されるため、他の人達より老化(機能低下)が遅ければそれだけ高く出る。しかし「2015年にWAIS-IIIを受けました」と伝えたところ、標準化する際の年代(すなわちサンプル集団)が当時と同じ層に収まっているらしく、一般的には加齢に伴う認知機能の低下によって、今回の方が低く出るはずだから1〜3の可能性が高い。
検査が終わった直後「多分151以上でしょう。正式な結果とレポートは1週間ほどで」と言われ解散。レポートを受け取り記載されている用語(資料1、資料2[WISC-IV]、資料3[WISC-IV]、資料4[WISC-IV]、資料5[WISC-IV]を参照)を調べてまとめたのが下記。数値は私の結果。
類似:15
単語:18
知識:19
理解*:19
積木模様:18
パズル:18
バランス*:18
絵の完成*:18
数唱:19
語音整列*:19
▼処理速度(PSI):149
記号探し:18
符号:19
絵の抹消*:17
「*」印5項目(語音整列、バランス、理解、絵の末梢、絵の完成)は「補助検査」と呼ばれ、これは直接は知能指数の算出には使われないらしい。せっかくなので全部受けた。
※料金が異なるかもしれないので、15検査受けたい人は予め「全15検査を」と伝えた方がイイ。
「類似」だけ低いのは多分私がスロースターターだから(笑)。最初の検査項目で、自分で「もうちょっとスマートな表現がありそうだが」と思いながら答えていた。最近は書いて説明することが多いことも影響している(多分)。
WAIS-IVから「言語性知能(VIQ)と動作性知能(PIQ)の区分けがなくなる」とはどこかで読んで知っていたが、
[VCI(言語理解)]+[WMI(作動記憶)]=[VIQ(言語性知能)](聴覚入力)
[PRI(知覚統合)]+[PSI(処理速度)]=[PIQ(動作性知能)](視覚入力)
※上記()内がWAIS-IIIでの呼称。今思うと「知覚統合」は大袈裟で、視覚入力しか測定していない。IVでは「知覚推理」という名称になった。割と良く「空間認識」とか「地図を読む力」といった例えが出てくるのに、なぜ素直に「視覚推理」にしないのか。
しかし分析の際の仕分けが変わったようで、これまでは上記の言語性知能/動作性知能に分けて分析していたところを、
[VCI(言語理解)]+[PRI(知覚推理)]=[GAI(一般知的能力指標)]
[WMI(作動記憶)]+[PSI(処理速度)]=[CPI(認知熟達度指標)]
と見るようだ。
※CPI(認知熟達度指標)は、「成人検査では現時点で研究段階」とのことで数値は算出されないそう。WISC-IVにはあるらしい。
検査方式が大きく変わったわけでもなく分析方法がより詳細になったっぽい。
分析の仕方が変わろうと、私みたいにバラツキのないタイプは分析しようがない。検査項目毎に差があって初めて何に強い・弱いなどの適性が出たり、或いは「発達障害の疑いあり」等と判定されるのだから。
GAI(一般知的能力指標)は知識と思考力(もちろん机上の)、CPI(認知熟達度指標)は実生活で問われる能力と言える。実績(実務)よりカタログスペックにこだわる人はGAIを好みそうな印象があり、「GAIが高いのに実社会で上手く行かない」という場合にCPIを見れば原因が解るといったより実質的な評価が可能になったように思える。
PRIとPSIはCambridge Brain Sciencesのスコア通りな印象。内容は全然違うが、テキパキ度が問われる。サラリーマン社会では最も見た目の印象に関わるところ。時間を測っているものばかりなので、喋ったり冗談を言ったり手を休めていると当然に低く出る。
一方、VCIは知識問題なので、偶然知っている内容が出題されれば高く出るという他の資格試験などと似た性質のもの。WAIS-IIIの時は日本文化に関わる内容が多く出題された記憶がある(私の苦手分野)が、IVは私が良く知る内容ばかりだった。
細かく見ていくと、「類似」は読解力・理解力につながり、「理解」は言葉通りの検査で異議はないが、「単語」と「知識」は“教養”と言えば教養、しかし私はこれらを「知能検査」に含めることに懐疑的な立場であり「長期記憶を問うている」程度に受け止めている。全くもって生得的な知能とは関係ない気がする。それに2020年現在、もっと知ってた方がいい知識は山ほどある。例えば「bit」と「byte」は現代社会において極めて優先度の高い単位だが、他の単位が問われた。冒頭に書いた周回遅れが原因なら(日米差は10年)、2010年頃の偏差値として受け止めるべきか。
WMI(いわゆるワーキングメモリー)は算数と暗唱(数唱)で、私の場合数唱はもともと良いんだが算数は運(笑)。今回の内容自体は即答できる簡単なものだった。
※それでもWAIS-IIIから5年経って加齢に反して向上していることを考えると、サプリ効果ではないかと個人的に思っている。
結局のところ言語性知能とは結晶性知能と呼ばれることもあるように、努力(反復学習)の成果(特に学校時代の)であり(私の場合大人になってから覚えたものばかりだが(笑))、生得的な賢さとは結びつかない。私はまるで努力型ではないので、算数(暗算)などは平均的なビジネスマンと比べて決して速くないんだが、ウェクスラーの場合文章問題を耳で聞いて暗算で答えるので、日頃人の話を何度も聞き直すような人(聴覚入力の機能性が低い人)や、メモが必要な人(ワーキングメモリーの機能性が低い人)は、学校のテストのように紙に書かれた問題の暗算が得意でも上手く行かない可能性があり、相対的に私はよく機能しているという結果なのだろうと理解している。日常生活・業務により近い検査と言える。
※ちなみに遺伝子検査では私の海馬(=記憶力を司る)は小さい傾向と出ている。MRIの画像が3年分あるのでいつか脳科学者に見てもらいたい。一方、計算は速い傾向と出ているが、算数も数学も苦手。多分性格の問題(笑)。処理速度も一部速い傾向と出ていて、これは自分で納得している。スロースターターだが(これも性格の問題)エンジンがかかると処理はかなり速い方で仕事量は非常に多い。
私にとって最も集中力を必要としたのは語音整列でかなり脳に負荷がかかった。10年に1回というくらいの本気を出してみたが、補助検査なのでFSIQの算出には使われないらしい(笑)。
私が受けたところは、検査まで、検査時、検査後の対応も非常に良かった。自費(先方にとって実入りが良い)かつ何かの疑いがあるわけではないので、そもそも“患者”ではなくただの“客”だからというのもあるだろう。
以下はいくつか感じた点をまとめてみた。
その1:ウェクスラー知能検査は常識的なことしか問われないので、小さい頃から発達障害等の疑いで何度も知能検査を受けている人や、ギフテッド・英才教育という名の下に検査に最適化された問題をこなしかつ検査を頻繁に受けている人などは内容を覚えてしまうから、各バージョン最初の1回目のスコアしかあてにならない。特にWAIS-IIIで言う言語性知能(WAIS-IVでは言語理解)の下位検査は記憶力の良い人なら1回で暗記できるものなので、インターネット上で「言語性知能が高く動作性知能が低い」(その差が大きい)という結果をよく見かけるのも、これが原因の1つかもしれない。診断のためだとしても複数回検査しているうちに、暗記によって言語性下位検査のスコアが高くなり、“慣れ”効果は多少あっても暗記できるものではない動作性との差が開き、ますます発達障害判定される可能性が高まるんじゃないかと人ごとながら感じた。
その2:行列推理の問題のうち1問だけ、間違いなくこれが正答と思われる選択肢に色違いがあり、色覚異常の私には識別が難しかった。どうみても答えではない選択肢が何色だろうと構わないが、正答に色違いを設ける場合は赤、青、黄、黒といった間違えようのない色にしてもらいたい。色覚異常が多い白人圏で製作されている割には意外。
その3:凸凹がないのでプロファイリングしようがないのかもしれない。検査報告書は2015年のWAIS-IIIの時と同じく、読んでる方が顔が赤くなる(笑)くらい褒めちぎられていた(とても丁寧でA4数ページ)。しかしこういう横一直線のバランス型は本当に珍しいらしく、一見「特徴がない」印象だが、見方を変えると出現率的には非常に個性的ということになる。矛盾しているようだが統計学的にはそうなる。
そんな感じ。
普段全く不安要素や問題を感じていなくても、経営者や管理職層は一度受けてみることをオススメする。人を雇うまたは採用・管理する際、自分と比べてどういうタイプの人を“優秀”と感じているか(その反対も)を知ることで、自分は“人材”によって何を補おうとしているのか(または相手に何を要求しているのか)が解るから。自己分析。
病院ではいちばん面白くないかもしれない凸凹がない人は、多分器用なバランス型を好むだろうと思う。欠けているものを補おうとするよりも、バランスを崩すことで生じる補填コストがリスクとなるから。
といった特性が見えてくる。
というわけで次に私が受けるのは、日本でWAIS-Vの運用が始まった時。7-10年後くらいだろうか。
注)インターネット上に成人用WAISの参考文献が少なく、児童用WISCの資料から得た情報が多い。
なるほど、よくある反応だ。
その主張、半分正しい。だが半分しか見えていない時点で知的放尿をしている。
まず、「神経系の基礎プログラム」とは比喩ではなく発達神経科学に基づいた話だ。
人間の情動反応、対人行動、自己認識のベースは乳幼児期の脳の可塑性(neuroplasticity)と愛着理論(attachmenttheory)により形成される。
これはスピリチュアルでも何でもない。ハーロウのアカゲザル実験、ボウルビィの理論、現在のfMRI研究やトラウマ療法でも裏付けられている。
そして、「インナーチャイルド」という言葉そのものは、確かにユング心理学由来で、後年は商業的セラピーにも使われた。
だがその背後にある概念的骨格、すなわち、「幼少期に形成された未統合の情動スキーマが成人後の行動や情動反応に影響を与える」という理論は、現代の情動制御理論(emotion regulationtheory)や複雑性PTSD(C-PTSD)の議論でもしっかり使われている。
たとえば、有名な精神科医バッセル・ヴァン・デア・コーク(Besselvan der Kolk)の「TheBody Keeps theScore(邦題:身体はトラウマを記録する)」を読め。
トラウマは脳幹・扁桃体・海馬など神経生理レベルで記録され、それが「過剰反応」や「自己否定」に直結する。
それが何を意味するか?
「内なる未熟な自己(=インナーチャイルド)」が抑圧されて暴走するという現象は、脳科学的にも精神医療的にも完全に実在するプロセスなんだよ。
だから繰り返す。「インナーチャイルド」は用語としては古くても、その中身は今なお臨床心理学・神経科学・発達心理学の核心にある現象だ。
流行り言葉をバカにする前に、その背後にある研究とデータを調べろ。
科学というのは、用語の新旧ではなく現象の再現性と実証性で判断される。
「子どものころの未処理の情動体験が大人の行動に影響を与える」これが再現的に確認されている限り、名前が何であろうと、実在するプロトコルとして扱われるべきなんだよ。