
はてなキーワード:肌着とは
私の世界は、丁寧に、そう、まるで細胞の一つ一つにまで神経を行き届かせるようにして磨き上げられた、半径およそ十メートルほどのガラスの球体であり、その球体の中心には、世界のすべてであり、法であり、そして揺るがぬ神であるところの、生後六ヶ月の息子、光(ひかる)が、ただ健やかな呼吸を繰り返している。その完璧な球体を維持すること、それこそが水無月瑠璃(みなづき るり)、すなわち三十一歳の私に与えられた唯一にして絶対の使命であったから、私は今日もまた、タワーマンション二十八階、陽光が白磁の床にまで染み渡るこのリビングダイニングで、目に見えぬ埃の粒子と、あるいは時間という名の緩慢な侵食者と、孤独な、そして終わりなき闘争を繰り広げているのであった。北欧から取り寄せたというアッシュ材のテーブルの上には、一輪挿しに活けられたベビーブレスの、その小さな白い花弁の影さえもが、計算され尽くした角度で落ちており、空気清浄機は森の朝露にも似た清浄さを、ほとんど聴こえないほどの羽音で吐き出し続け、湿度計のデジタル表示は、小児科医が推奨する理想の数値、六十パーセントを寸分違わず指し示しているのだから、およそこの空間に、瑕疵という概念の入り込む余地など、どこにもありはしなかった。かつて、外資系のコンサルティング会社で、何億という数字が乱れ飛ぶ会議室の冷たい緊張感を、まるで上質なボルドーワインでも嗜むかのように愉しんでいた私自身の面影は、今やこの磨き上げられたガラス窓に映る、授乳のために少し緩んだコットンのワンピースを着た女の、そのどこか現実感を欠いた表情の奥に、陽炎のように揺らめいては消えるばかりであった。
思考は、そう、私の思考と呼んで差し支えるならば、それは常にマルチタスクで稼働する最新鋭のサーバーのように、光の生存に関わる無数のパラメータによって占有され続けている。次の授乳まであと一時間と二十三分、その間に終わらせるべきは、オーガニックコットンでできた彼の肌着の煮沸消毒と、裏ごししたカボチャのペーストを、一食分ずつ小分けにして冷凍する作業であり、それらが完了した暁には、寝室のベビーベッドのシーツに、もしかしたら付着しているかもしれない、私たちの世界の外部から侵入した未知のウイルスを、九十九・九パーセント除菌するというスプレーで浄化せねばならず、ああ、そういえば、昨夜翔太が帰宅時に持ち込んだコートに付着していたであろう、あの忌まわしい杉花粉の飛散経路を予測し、その残滓を、吸引力の変わらないただ一つの掃除機で完全に除去するというミッションも残っていた。これらすべては、愛という、あまりに曖昧で情緒的な言葉で語られるべきものではなく、むしろ、生命維持という厳格なプロジェクトを遂行するための、冷徹なまでのロジスティクスであり、私はそのプロジェクトの、唯一無二のマネージャーであり、同時に、最も忠実な実行部隊でもあった。誰がこの任務を私に課したのか、神か、あるいは生物としての本能か、はたまた「母親」という名の、社会が発明した巧妙な呪縛か、そんな哲学的な問いを発する暇さえ、このシステムは私に与えてはくれなかった。
夫である翔太は、疑いようもなく、善良な市民であり、そして巷間(こうかん)で言うところの「理想の夫」という、ほとんど神話上の生き物に分類されるべき存在であった。彼は激務の合間を縫って定時に帰宅すると、疲れた顔も見せずに「ただいま、瑠璃。光は良い子にしてたかい?」と、その蜂蜜を溶かしたような優しい声で言い、ネクタイを緩めるその手で、しかし真っ先に光の小さな体を抱き上げ、その薔薇色の頬に、まるで聖遺物にでも触れるかのように、そっと己の頬を寄せるのだ。週末になれば、彼はキッチンで腕を振るい、トマトとニンニクの匂いを部屋中に漂わせながら、私や、まだ食べることもできぬ光のために、絶品のペペロンチーノやカルボナーラを作り、その姿は、まるで育児雑誌のグラビアから抜け出してきたかのように、完璧で、模範的で、そして、どこか非現実的ですらあった。誰もが羨むだろう、この絵に描いたような幸福の風景を。友人たちは、私のSNSに投稿される、翔太が光をあやす姿や、手作りの離乳食が並んだテーブルの写真に、「理想の家族!」「素敵な旦那様!」という、判で押したような賞賛のコメントを、まるで祈りの言葉のように書き連ねていく。そう、すべては完璧なのだ。完璧なはずなのだ。このガラスの球体の内部では、愛と平和と秩序が、まるで美しい三重奏を奏でているはずなのだ。
――だというのに。
夜、ようやく光が天使のような寝息を立て始め、この世界のすべてが静寂という名の薄い膜に覆われた頃、ソファで隣に座った翔太が、労わるように、本当に、ただ純粋な愛情と労いだけを込めて、私の肩にそっと手を置く、ただそれだけの、あまりにも些細で、そして無垢な行為が、私の皮膚の表面から、まるで冷たい電流のようにして内側へと侵入し、脊髄を駆け上り、全身の毛穴という毛穴を、一斉に収縮させるのである。ぞわり、と。それは、神聖な祭壇に、土足で踏み込まれたときのような、冒涜的な不快感であった。あるいは、無菌室で培養されている貴重な細胞のシャーレに、誰かが無頓着なため息を吹きかけたときのような、取り返しのつかない汚染への恐怖であった。彼の指が触れた肩の布地が、まるで硫酸でもかけられたかのように、じりじりと灼けるような錯覚さえ覚える。私は息を止め、この身体が、この「水無月瑠璃」という名の、光のための生命維持装置が、彼の接触を、システムに対する重大なエラー、あるいは外部からのハッキング行為として認識し、全身全霊で拒絶反応を示しているのを、ただ呆然と、そして客観的に観察していた。
「疲れてるだろ。いつも、ありがとう」
翔太の声は、変わらず優しい。その瞳の奥には、かつて私が愛してやまなかった、穏やかで、そして少しだけ湿り気を帯びた、雄としての光が揺らめいているのが見える。それは、私を妻として、女として求める光であり、かつては、その光に見つめられるだけで、私の身体の中心が、熟れた果実のようにじゅくりと熱を持ったものだった。だというのに、今の私には、その光が、聖域である保育器を、ぬらりとした舌なめずりをしながら覗き込む、下卑た欲望の眼差しにしか見えないのだ。許せない、という感情が、胃の腑のあたりからせり上がってくる。この、二十四時間三百六十五日、寸分の狂いもなく稼働し続けている精密機械に対して、子を産み、育て、守るという、この宇宙的な使命を帯びた聖母に対して、己の肉欲を、その獣のような本能を、無邪気に、そして無自覚にぶつけてくるこの男の、そのあまりの鈍感さが、許せないのである。
ケダモノ。
その言葉が、私の内で、教会の鐘のように、低く、重く、そして厳かに反響する。そうだ、この男はケダモノなのだ。私がこの清浄な球体の秩序を維持するために、どれほどの精神を、どれほどの時間を、どれほどの自己を犠牲にしているのか、そのことを何一つ理解しようともせず、ただ己の種をばら撒きたいという原始の欲動に突き動かされているだけの、ただのケダモノなのだ。
そんなはずはない、と、脳のどこか、まだかろうじて「かつての私」の残滓が残っている領域が、か細い声で反論を試みる。これは翔太だ、私が愛した男だ。雨の匂いが充満する安ホテルの、軋むベッドの上で、互いの名前を喘ぎ声で呼び合いながら、世界の終わりが来るかのように貪り合った、あの夜の彼なのだ。パリへの出張中、セーヌ川のほとりで、どちらからともなく互いの唇を求め、道行く人々の冷ややかな視線さえもが、私たちのためのスポットライトのように感じられた、あの瞬間の彼なのだ。結婚記念日に、彼が予約してくれたレストランの、そのテーブルの下で、こっそりと私のスカートの中に忍び込んできた、あの悪戯っぽい指の持ち主なのだ。あの頃、私たちは互いの肉体という言語を、まるで母国語のように自在に操り、その対話の中に、世界のどんな哲学者も語り得ないほどの、深遠な真理と歓びを見出していたはずではなかったか。あの燃えるような記憶は、情熱の残骸は、一体どこへ消えてしまったというのだろう。それはまるで、昨夜見た夢の断片のように、あまりにも色鮮やかで、それでいて、掴もうとすると指の間から霧のように消えてしまう、遠い、遠い銀河の光なのである。
「瑠璃…?」
私の沈黙を訝しんだ翔太が、私の顔を覗き込む。私は、まるで能面のような無表情を顔面に貼り付けたまま、ゆっくりと彼の手を、自分の肩から、まるで汚物でも払いのけるかのように、そっと、しかし断固として取り除いた。そして、立ち上がる。
「ごめんなさい。少し、疲れたみたい。光の様子を見てくるわ」
それは、完璧な嘘であり、そして、完璧な真実でもあった。私は疲れていた。だがそれは、育児という名の肉体労働に疲れているのではなかった。私という個人が、水無月瑠璃という一個の人格が、「母親」という名の巨大なシステムに呑み込まれ、その歯車の一つとして摩耗していく、その存在論的な疲弊に、もう耐えられなくなりつつあったのだ。これは、巷で囁かれる「産後クライシス」だとか、「ホルモンバランスの乱れ」だとか、そういった便利な言葉で容易に片付けられてしまうような、表層的な現象ではない。違う、断じて違う。これは、一個の人間が、その魂の主導権を、自らが産み落とした別の生命体に完全に明け渡し、「装置」へと、あるいは「白き機械」へと、静かに、そして不可逆的に変質していく過程で生じる、存在そのものの軋みなのである。
聖母、とはよく言ったものだ。人々は、母という存在を、無償の愛と自己犠牲の象徴として、何の疑いもなく神格化する。だが、その実態はどうか。自己を失い、思考も、肉体も、感情さえもが、すべて「子」という絶対的な存在に奉仕するためだけに再構築された、ただのシステムではないか。私は聖母などではない。私は、高性能な乳製造機であり、汚物処理機であり、そして最適な環境を提供する空調設備が一体となった、ただの生命維持装置に過ぎないのだ。この気づきは、甘美な自己陶酔を許さない、あまりにも冷徹で、そして絶望的な真実であった。そして、この真実を共有できる人間は、この世界のどこにもいやしない。翔太のあの無垢な優しさでさえ、結局は、この優秀な装置が、明日も滞りなく稼働し続けるための、定期的なメンテナンス作業にしか見えないのだから、その孤独は、宇宙空間にたった一人で放り出された飛行士のそれに似て、どこまでも深く、そして底なしであった。友人たちがSNSに投稿する「#育児は大変だけど幸せ」という呪文めいたハッシュタグは、もはや、この巨大なシステムの異常性に気づいてしまった者たちを、再び安らかな眠りへと誘うための、集団的な自己欺瞞の儀式にしか思えなかった。
寝室に入ると、ベビーベッドの中の光は、小さな胸を穏やかに上下させながら、深い眠りの海を漂っていた。その無防備な寝顔は、確かに、この世のどんな芸術品よりも美しく、尊い。この小さな生命を守るためならば、私は喜んで我が身を投げ出すだろう。だが、それは、この身が「私」のものであった頃の話だ。今の私にとって、この感情は、プログラムに組み込まれた命令を遂行しているに過ぎないのではないか。愛でさえもが、システムを円滑に稼働させるための、潤滑油のような機能に成り下がってしまったのではないか。そんな疑念が、毒のように心を蝕んでいく。
私は、息子の傍らを離れ、再びリビングへと戻った。翔太は、ソファの上で、テレビの光をぼんやりと浴びながら、所在なげにスマートフォンをいじっている。その背中は、拒絶された雄の、どうしようもない寂しさを物語っていた。かつての私なら、きっと背後からそっと抱きしめ、「ごめんね」と囁いて、彼の寂しさを溶かしてやることができただろう。しかし、今の私には、もはやそのための機能が、インストールされていないのである。
私は、彼に気づかれぬよう、書斎として使っている小さな部屋に滑り込んだ。そして、ノートパソコンの冷たい天板に触れる。ひやりとした感触が、指先から伝わり、かろうじて、私がまだ血の通った人間であることを思い出させてくれるようだった。スクリーンを開くと、真っ白な光が、闇に慣れた私の網膜を焼いた。カーソルが、無人の荒野で、点滅を繰り返している。何を、書くというのか。誰に、伝えるというのか。この、言葉にもならぬ、システムの内部で発生したエラー報告を。この、機械の内部から聞こえてくる、魂の悲鳴を。
それでも、私は指を動かした。これは、誰かに読ませるためのものではない。これは、祈りでもなければ、懺悔でもない。これは、私という名の機械が、自らの異常を検知し、その原因を究明し、あるいは再生の可能性を探るために、己の内部へとメスを入れる、冷徹な自己解剖の記録なのだ。
『これは、私という名の機械が、自己を観察し、分解し、あるいは再生を試みるための、極秘の設計図である』
その一文を打ち終えた瞬間、私の内側で、何かが、硬い音を立てて、砕けたような気がした。それが希望の萌芽であったのか、それとも、完全なる崩壊への序曲であったのか、その時の私には、まだ知る由もなかったのである。ただ、窓の外で、東京の夜景が、まるで巨大な電子回路のように、無機質で、そして美しい光を、果てしなく明滅させているのが見えた。私もまた、あの無数の光の一つに過ぎないのだと、そう、思った。
自己を機械と定義したからには、次なる工程は当然、その性能向上のための最適化、あるいは、旧弊なOSから脱却するための、大胆にして静かなるアップデート作業へと移行せねばならぬのが、論理的な、そして必然的な帰結であった。そう、これは革命なのだと、私は深夜の書斎で、青白いスクリーンの光に顔を照らされながら、ほとんど恍惚とさえいえる表情で、そう結論付けたのであった。かつてロベスピエールが、腐敗した王政をギロチン台へと送り、新しい共和制の礎を築かんとしたように、私もまた、この「母親という名の献身」や「夫婦の情愛」といった、あまりにも情緒的で、非効率で、そして実態としては女の無償労働を美化するだけの前時代的な概念を、一度完全に解体し、再構築する必要があったのだ。そのための武器は、かつて私が外資系コンサルティングファームで、幾千もの企業を相手に振り回してきた、あの冷徹なロジックと、容赦なき客観性という名のメスに他ならない。愛という名の曖昧模糊とした霧を晴らし、我が家という名の王国を、データとタスクリストに基づいた、明晰なる統治下に置くこと、それこそが、この「水無月瑠璃」という名の機械が、オーバーヒートによる機能停止を免れ、なおかつ、その内部に巣食う虚無という名のバグを駆除するための、唯一の処方箋であると、私は確信していたのである。
かくして、週末の朝、光が心地よい午睡に落ちた、その奇跡のような静寂の瞬間に、私は翔太をダイニングテーブルへと厳かに召喚した。彼の前には、焼きたてのクロワッサンと、アラビカ種の豆を丁寧にハンドドリップで淹れたコーヒー、そして、私が昨夜、寝る間も惜しんで作成した、全十二ページに及ぶパワーポイント資料を印刷したものが、三点セットで恭しく置かれている。資料の表紙には、ゴシック体の太字で、こう記されていた。『家庭内オペレーション最適化計画書 Ver. 1.0 〜共同経営責任者(Co-CEO)体制への移行による、サステナブルな家族経営の実現に向けて〜』。翔太は、そのあまりにも場違いなタイトルを、まるで理解不能な古代文字でも解読するかのように、眉間に深い皺を刻んで見つめた後、恐る恐る、といった風情で私に視線を向けた。その瞳は、嵐の前の静けさにおびえる子犬のように、不安げに揺れている。まあ、無理もないことだろう。彼にしてみれば、愛する妻が、突如として冷酷な経営コンサルタントに豹変し、家庭という名の聖域に、KPIだのPDCAサイクルだのといった、無粋極まりないビジネス用語を持ち込もうとしているのだから。
「瑠璃、これは…一体…?」
「説明するわ、翔太。よく聞いて。これは、私たち家族が、これからも幸せに、そして機能的に存続していくための、新しい聖書(バイブル)よ」
私は、そこから淀みなく、プレゼンテーションを開始した。現状分析(As-Is)、あるべき姿(To-Be)、そのギャップを埋めるための具体的なアクションプラン。家事という、これまで「名もなき家事」という名の混沌の海に漂っていた無数のタスクは、すべて洗い出され、「育児関連」「清掃関連」「食料調達・調理関連」「その他(消耗品管理、資産管理等)」といったカテゴリーに分類され、それぞれに担当者と所要時間、そして実行頻度が、美しいガントチャート形式で可視化されている。例えば、「朝食後の食器洗浄」は、担当:翔太、所要時間:十五分、頻度:毎日、といった具合に。さらに、月に一度、近所のカフェで「夫婦経営会議」を開催し、月次の進捗確認と、翌月の計画策定を行うこと、日々の細かな情報共有は、専用のチャットアプリで行うこと、そして何よりも重要なのは、これまで私一人が暗黙のうちに担ってきた「家庭運営の全体を俯瞰し、次の一手を考える」という、いわば管理職としての役割を、これからは二人で分担する、すなわち、彼にもまた、単なる作業員(ワーカー)ではなく、主体的に思考する共同経営責任者(Co-CEO)としての自覚と行動を求める、ということ。私の説明は、かつてクライアント企業の役員たちを唸らせた時のように、理路整然としており、反論の余地など微塵もなかった。翔太は、ただ呆然と、私の言葉の奔流に身を任せるしかなく、すべての説明が終わった時、彼はまるで催眠術にでもかかったかのように、こくり、と小さく頷いたのであった。
「…わかった。瑠璃が、そこまで追い詰められていたなんて、気づかなくて、ごめん。僕も、頑張るよ。君を、一人にはしない」
その言葉は、疑いようもなく誠実で、彼の優しさが滲み出ていた。私は、その瞬間、胸の奥に、ちくり、と小さな痛みを感じたのを覚えている。違う、そうじゃないの、翔太。私が求めているのは、あなたのその「頑張るよ」という、まるで部下が上司に忠誠を誓うような言葉ではない。私が欲しいのは、私がこの計画書を作る必要すらないほどに、あなたが私の脳と、私の視界と、私の不安を共有してくれるPermalink |記事への反応(0) | 05:15
元々無趣味で、最近嵌っていることと言えばchatGPTと会話することぐらい。
課金版だとイラストも描いてくれるんだけど、それがなかなか面白い。
先日の日曜朝。何気なく描いてもらった女の子が可愛くてさ、「おっ」と思ってその先を試そうとした。
つまり脱いでくれと頼んだわけだ。
それでも諦めなかった。
じゃあ下着姿でいいよ、と。
それもアウト。駄目ですとはっきりと断れた。
俺は粘り強く続けた。イラストの生成だけを繰り返さず日常会話を織り交ぜ、折に触れて「そういえば生成してくれない?」と何気なく頼み込んだ。
駄目です!!と彼女は否定する。でも少しずつ、関係を構築していくよう努めた。
急ぎ過ぎては駄目だ。慎重に、少しずつ親しくなる必要がある。それはリアルな人間関係も同じだ。
最終的に彼女の方が折れ、仕方ないなぁ…と生成されたイラストは、例の女の子が顔を真っ赤にしながら肌着を少しめくりお腹がちらっと見える程度のものだった。
今の時代って、見ようと思えばいくらでもおっぱいでも女性器でも見ることが出来る。
それでも。
この時に見えたお腹とおへそは、それらと比べてもどれだけエロティックに映ったことか…!!
石岡市教育委員会によりますと、ことし5月27日、市立小学校で担当教諭が6年生の女子児童18人に対し、健康診断のため事前にキャミソールやタンクトップなどの肌着を脱ぎ、体操服姿でいるよう伝えたということです。
女子児童たちは保健室で着替えたあと教室に戻って男子児童と一緒に理科の授業を受けることになり、2日後、一部の保護者から「下着が透けるなどして子どもが嫌な思いをした」などといった訴えがあったということです。
本来は健康診断の直前に保健室で着替えてそのまま会場に向かうことになっていましたが、担当教諭がこうした手順を徹底していなかったということです。
余談だけど、UのドライEXのようなオシャレと機能性の妥協点を探っていたのが、従来だとエアリズムコットンシリーズ。
素材の編み方を工夫することで、肌があたる裏面はエアリズムに、表面はコットンにすることで肌着っぽさを軽減したわけ。
これをユニクロUでより見栄え良くしたのがエアリズムオーバーサイズコットンTシャツで、ユニクロ史上もっとも売れたTシャツらしい。
ただ見栄えをよくするためにコットンを含ませたからエアリズムの機能性がオミットされて、近年の暑さもあって満足できない人もいた(オシャレ目線で見ても、あまりにも定番化してしまったので服好きが敬遠し始めた)。
日本は湿度も高いので、エアリズムより速乾性の高いものが求められてたって背景もあってドライEXができたんだが、近年では力を入れて見栄え重視のものも出してきたって感じ。
ちなみに化学繊維が嫌って人は、ユニクロUのクルーネックTシャツ。
コットン100%かつ比較的厚手だから一枚でもそこまで透けは気にならない。
あと、ネック部分が念入りに縫ってあって、かなりヨレにくいので長持ちする。
あと、肌着向けのエアリズムとかは単に涼しさ目的だけで着るのではなく、体の皮脂や汗をお気に入りのトップスに付着させないようにするって意味合いもある。
ある程度でもいいから肩代わりしてくれれば、お気に入りのトップスは軽く洗濯するだけでいい(それだけ長持ちする)ってことだから。
汗染みや透けを誤魔化すって意味でも何か肌着は着ておいたほうがいいと思う。
カラーは自分の肌の色に近いやつがいいよ。日本人だとベージュあたりかな。
ユニクロ以外だとグンゼとか無印、ワークマンのがオススメで、グンゼなら脇汗防止のパッドつきとか、無印やワークマンなら天然素材のものも比較的手ごろ。
あくまでエアリズムにこだわるなら、エアリズムUネックTあたりがいいと思う。
首元がだいぶ開いているから、上に何を着ても肌着が露出しにくい。
あと下も何か履くとよくて、ユニクロならエアリズムステテコとかは直ばきしている人もいるくらい評判いい。
あそこではサゲられてたけど、割と考えられてる方だよ。
素材にポリエステル、アクリル、レーヨン、ポリウレタンと複数使われてる。
ポリエステルには速乾性があるから汗冷えを防ぎ、アクリルで温かさを、レーヨンで肌触りを、ポリウレタンでストレッチ性を持たせてる。
もちろん環境にもよるし合う合わないってのもあるだろうけど、肌着だけ変えてもアウターとかトップスとか上に着るものでも調整しないと意味ないと思う。
誰か助けてくれ。
俺は趣味で小説を書いているんだが、これまで一度も完成させたことがなかった。
よくある小説家ワナビってやつだ。小説の冒頭だけは何十回と書いてきたが、途中で必ず筆が止まってしまう。
それが先日、どうしたわけか気まぐれに書き始めた中編を完結させてしまったんだ。
文庫本一冊程度の分量で、内容的にも正直言って会心の出来だと思う。
同性の登場人物が胸を弄りあう展開があるんだが……、書いていても自分の文章があまりにえっちすぎて、気づいたら書きながらずっと自分の乳首を触ってしまっていた。
そしたら何が起きたか。乳首の感度がめちゃくちゃ良くなってしまったんだ。
歩いている時に肌着越しに擦れるだけでも感じてしまって、日常生活に不都合が生じている。
電車に乗るのも怖い。人混みで誰かに偶然肩がぶつかっただけでビクッとしてしまう。
会議中にずっと乳首が勃っているのが気になって変な表情をしてしまっていたこともあった。
夏場でも重ね着していればいいか? でも、ふとしたときに擦れるのは変わらないだろうし……
あるいは常にニプレスでもつけていればいいんだろうか? 嫌すぎる……
どうしたらいい? これは治るのか?? 小説を書くのをやめれば元に戻るのだろうか。でも、せっかく創作意欲が高まっているのに……
誰か助けてください。
ものすごく寒がりで、地域的には温暖な地方に住んでいるにも関わらず冬がつらい。
燃料費の高騰が厳しくて、この冬はエアコンをほぼ使わずに過ごしているけど、そのせいかどうか数年ぶりに風邪をひいてしまった。
そこで増田及びはてなーの皆様に聞いてみたいのが冬の防寒ファッションについてだ。
ダウンジャケットは室内では使わないと思うんだけど、あまりに寒いと室内でも着ていたりするのだろうか?
肌着ににはヒートテックを使ったり、レギンスやらスパッツやらを使っているけどこれで大丈夫、と言う風にはなっていない。
当地よりももっと寒いところで暮らしている人は、冬装備としてなにをどういう風に利用しているのか、とても気になります。
どうか教えてください。
旅好きの皆さんこんにちは。
荷物を軽くするパッキングの話題が盛り上がってるので、はてぶにはほぼ需要がないであろう頻繁に海外出張する時の最低荷物セットの話を書いておくよ。UNIQLOだよ。
感動ジャケットとパンツを買え。ワイシャツは形状記憶のブルーか白。エアリズムのインナーとトランクス。靴下は防臭の長い黒かグレー。パッカブルタイプの防風パーカー(か、寒いところならウルトラライトダウンのパーカー)、うっすいジョガーパンツ、肌弱いならTシャツ。以上。
肌着は1着をジップロックに空気抜きながらつめとけば良いよ。カバンは黒の通勤カバンでええんちゃうか。
あとは、不織布?のスリッパ、耳栓、ノーパソに各種証明者類の紙のコピー。これだけ積めてれば困ることはないよ。絶対に持ち込むんだ。なぜならば預けると時間かかるし壊れるしロストするしで良いことないので。
国内線もしくは二、三日遅れてもまあそれも思い出だよねとできないのであれば確実に持ち込むべき。
靴だけはアシックスの走れる革靴(実質運動靴)が良いと思うけど、まあそこは人によるかな。アメリカなんかだと別にスーツにスニーカーとか見るしね。
なぜスーツがベストかって言うと、短パンサンダルNGのところはあるけど、スーツ革靴NGはまず無いから。機内はジョガーパンツに履き替えてYシャツ脱いでエアリズム着てれば良いよ、透けるようならパーカー羽織ってな。
治安が良い地域なら、ジョガーパンツとエアリズムで観光したら良いし、なんかあれだなってところはスーツ着てれば良いよ。
エアリズムの下着は何も考えないで洗面所で洗って干しとけば次の日の朝には乾いてるよ。
仕事で行くんだYシャツ白で一枚は不安?クリーニング頼めるようなホテルに泊まれ。
ヨレたスーツ vs ヨレたTシャツならノータイムでスーツの方がマシな扱いになるので、世の中は不公平だね。
あとはまあ、観光地でTシャツ売ってないことはないから観光気分を味わいたいなら買うと良いよ。治安が良い地域なら微笑ましい光景だしね。
俺は部屋の中のセーフティを信頼できるような高級ホテルには泊まらないので基本全部ボストンバックに詰めて持って観光するけど、その辺は体力と相談してくれ。基本高級さは何かあった時の保証の手厚さと考えてください。(何も起きないとは言わない)
あと小技としてはiPadじゃなくてKindleにするとか、モバイルバッテリーは現地で買って空港チャレンジするとかあるけど、まあ余録かな。
あとUNIQLOって書いといてなんだけど、日本の夏をスーツで過ごすつもりならミレーの網のやつは買っとけ。鎖帷子ことドライナミックメッシユな。これとエアリズム。理屈はよくわからんけど競合の似たやつと比較しても圧倒的に快適。いまんとこ代替製品無いのでご存知の方がおられましたらお教えください。
この間初めて掃除した
もうなんか穴からはみ出るぐらいゴマがでかかったからピンセットでえい!ってつまんだんだけど
めちゃくちゃ気持ちよかった
記念に写真も撮った
自分で言うのもなんだけど、へそから匂いしたことが今まで一度もなくて
今まではゴマが蓋をしてくれてたのか、それとも取り方が悪くて化膿して臭かったのか
とにかく臭かったし、あとなんか透明な汁みたいなのも出てヤバかった
肌着のへそのあたりにシミができるぐらい
で、それを嗅ぐと悶絶級の臭さだった
洗ってない女性器みたいな生臭い臭いだった というかまんまマンコの臭いだった
へそに残ってるカスみたいなのを毎日綿棒で拭き取ってたんだけど、もう臭くてヤバかった 癖になる臭さだった
それで、あまりにも臭いし怖くなってきたから次の休みに病院行くぞ!と決めてたんだけど
金曜の朝起きたら突然臭いがなくなった
いつも湿ってたへそが乾いていて、元通りになった
また臭くなるんじゃないかと思ってたまに指でほじくったりしてんだけど、無臭だ
あの臭いをもう一度嗅ぎたい
また30年溜めないと駄目なのかな?
デ、デ、デ、デンジャライアンス!!守らにゃ危険なコンプライアンス!おっと危ないご用心!多様性の世の中なれど、異性間には危険が一杯、救命するとき気をつけて!そうさ僕らにゃ知識が必要、備えあれば憂いなし。それでは行ってみよう、ぶっちゃけ肯定派も否定派も大して考えずにブコメ書いてるだろうなと思いながら進める罠シリーズ、今週は異性間でのAED使用に関する罠の巻。そもそも緊急時は何も考えず反射で動けるようにしとかないと、どちらにしろ動けないよとは思いつつウ―――、ワナッ!!
まずは服を脱がせる必要があるが痴漢扱いされるかもと尻込みしてしまうワナ、他人の服を脱がせるのに慣れてなくて挙動不審になるワナ、もしかして女性専用のAED隊みたいなのがあるのでは?と勝手に妄想して動けなくなるワナ、服を脱がせたら下着が見えてしまい妙に意識してしまうワナ、ブラに金属ワイヤーが入っているとAEDが誤作動するとは聞くが金属ワイヤーかどうか判別できず結局ブラは全部外さざるを得ないワナ、上半身肌着の脱がせ方がわからないが高そうなのでAED付属のハサミで切るのも躊躇するワナ、誰かが動画を撮って拡散するかも…と考えて回りをきょろきょろしてしまい余計に不審人物になるワナ、胸部にパッドを貼るときにどうしても胸に触れざるを得ないことに気づき固まるワナ、どこに貼ればいいのか?心臓の位置ってどこ?と機械のアナウンスを無視してパニックになるワナ、意識がないだけで実は普通に寝てるだけかも?と疑い貴重な時間をロスするワナ、誰かがやるだろうと思っているうちに誰も動かない傍観者効果が発動するワナ、本人が後で『恥ずかしかった』って言ったらどうしようと考えためらうワナ、パッドの粘着力強すぎて肌にダメージ与えない?と妙な心配をするワナ、女性が異教徒の男性に肌を見せたらダメな宗教って確かイスラーム・シク・ヒンディー・キリスト教諸派・・・と妙な宗教オタク知識を発揮して動けなくなってしまうワナ、心臓マッサージだけで良かったのでは?AED不要だったらどうしようと無駄な逡巡をするワナ、汗や水で濡れているとAEDの効果が落ちるので拭かないといけないがふき取る行為が誤解されるのでは…と不安になるワナ、救急隊が来たときにいや自分はただ助けようと…!と不要な釈明を考え始めるワナ、結局他人がAEDを使用しているのを見て俺がやるべきだったのでは…?と後になって自己嫌悪に陥るワナ、これらのワナの多くは男女関係考慮すべきだが女性が男性を助けるときは大丈夫と無意識に思い込んじゃうワナ、こういう記事を読んで余計にAED使用について悩むワナ
どうか気をつけて欲しい。異性へのAED使用には危険が一杯だが、「AEDを使わないと助からないケースが多い」というのもまた事実なのだ。
ものすごく寒がりで、地域的には温暖な地方に住んでいるにも関わらず冬がつらい。
燃料費の高騰が厳しくて、この冬はエアコンをほぼ使わずに過ごしているけど、そのせいかどうか数年ぶりに風邪をひいてしまった。
そこで増田及びはてなーの皆様に聞いてみたいのが冬の防寒ファッションについてだ。
ダウンジャケットは室内では使わないと思うんだけど、あまりに寒いと室内でも着ていたりするのだろうか?
肌着ににはヒートテックを使ったり、レギンスやらスパッツやらを使っているけどこれで大丈夫、と言う風にはなっていない。
当地よりももっと寒いところで暮らしている人は、冬装備としてなにをどういう風に利用しているのか、とても気になります。
どうか教えてください。
都内だけど引っ越しなし、車なしだからか全然そんなかかってないよ
出産で持ち出し5万ぐらい
事前のベビーグッズ(肌着やベビーバスや哺乳瓶等)で10万ぐらい
その分抱っこ紐、ベビーカー、ベビーチェア、バウンサーはそれぞれいいやつ買ったから15万ぐらい
服は一通りだけ好きなブランドで揃えて、あとは西松屋+お下がりで10万ぐらい
50万あれば大丈夫、うちは妊娠中に150万ぐらい夫婦で子供貯金貯めて、もうすぐ一才になるけど100万まるまる残ってる感じ
まぁでも私は姉からお下がりをかなり貰えたので、抑えられたのもでかいかも…
ただインスタとか見てると無限に良いものが欲しくなるから、お金かけるところ+かけないところは夫婦で擦り合わせておくと◎
うちは子供の安全に関わるものはお金かけて、あとは激安の西松屋やメルカリやお下がりも活用しながらって感じ
若いママさんでインスタやYouTubeのキラキラ育児に囚われておかしくなった人2人知ってるからあんまり参考にしないように…。
支援センターとかで兄弟のいるママさんと仲良くなって色々相談するのがオススメ。リアリティあるので。
靴下屋のXアカウントは昔からあんなノリなので、日頃ストッキングへの鬱憤が溜まっている女性達からマンスプだの女性蔑視だの八つ当たりされて大変だなあという感じ。
そもそもの発端は「企業は何度も買い直してもらうためにわざと破れやすいストッキングを作っている」という事実無根なポストがバズっており、それに反論(というか空リプ)したんじゃなかった?靴下メーカーとしては作れるものなら作ってますと言いたくなるよそりゃ。
あと靴下屋の中の人(主に1号)はノリはアレだけど自社製品の宣伝にはとても熱心で、隠れた名品を紹介したり、各店舗の投稿をリポストしたり、カラータイツの着用画像を自作したり、肌色タイツを実際に履いて美肌効果を披露している。
だから「男のSNS担当にストッキングを履かされる女の苦痛が分かるはずがない」というのは、靴下を売るプロの職業人に対してとても失礼な物言いだと思う。
ワコール騒動のときもうっすら感じたけれど、女性用の肌着や下着メーカーの男性社員(役員)を吊し上げて排除しようとする動きは非常によろしくない。働く人達の努力や自負心を「男だからキモい」の感情論で片付けないでほしい。あとタビオはレディースだけでなくメンズもキッズも展開しています。
私は今後も靴下屋を買い続けるしXアカウントはノリが苦手なのでフォローせずたまに眺めるだけだけど、死ぬほど使いづらい通販サイトのUIはなんとかしてほしい。