Movatterモバイル変換


[0]ホーム

URL:


はてラボはてな匿名ダイアリー
ようこそ ゲスト さんログインユーザー登録

「義務論」を含む日記RSS

はてなキーワード:義務論とは

次の25件>

2025-09-14

anond:20250913212525

義務論で考えたら全くおかしくないやで

Permalink |記事への反応(0) | 21:25

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-07-20

参政党の憲法草案擁護する!

A(憲法学研究者):参政党の「新日本憲法(構想案)」に対する批判を見てると、驚くほど表面的で感情的な反応が多いよね。某教授の「怪文書発言なんて、学問議論とは程遠いもんだ。

B(政治哲学専攻):まさにその通りだ。彼らは「国は、主権を有し」という表現だけを取り上げて「国民主権否定」と断じてるけど、これは完全な誤読だよ。尾高朝雄の「ノモス主権論」を理解してれば、国家政治的統一体として主権を有することと、その内部での国民主権は何ら矛盾しないことが分かるはずなんだ。

A:カール・シュミットの『政治的もの概念』を読んでれば、参政党の発想が理解できるでしょ。むしろ抽象的な「国民」ではなく、具体的な政治的統一体としての「国」が主権を有するという考え方は、政治哲学的に極めて洗練されてる。

B:しかも、この草案根底にある思想は、ヘーゲルの『法の哲学』における「人倫(Sittlichkeit)」の概念と深く共鳴してるんだ。「家族社会の基礎であり、思いやりの心をもって互いに助け合う」という第7条は、まさにヘーゲル的な家族市民社会国家という人倫の発展段階論の現代表現だよ。

A:「主体的に生きる自由」という概念も、西田太郎の「絶対無場所」やエマニュエル・レヴィナスの「他者への無限責任」という思想とも共鳴する。「権理には義務が伴い」という発想は、存在論を超えた倫理学の地平からまれてるんだよね。

B:批判者たちは「個人尊重」がないと騒いでるけど、それこそ近代西欧個人主義限界を露呈してる。ルイ・デュモンの『ホモヒエラルキクス』やチャールズテイラーの『自我の源泉』が示すように、個人主義は一つの歴史的文化的構築物に過ぎないんだ。

A:参政草案は、そうした個人主義的前提を問い直す「ポスト近代」の憲法思想として読むべきだ。アラスデア・マッキンタイアの『美徳なき時代』が批判した「感情主義」的道徳観を克服し、共同体美徳回復しようとする試みだよ。

B:「天皇元首とする」ことを「戦前回帰」と批判する声もあるけど、これも浅薄だ。ヴァルター・バジョットの『イギリス憲政論』やカールレーヴェシュタインの『現代憲法論』を読めば、立憲君主制近代民主主義と十分に両立することが分かる。

A:エドマンド・バークの『フランス革命省察』以来の保守主義思想系譜から見れば、歴史的連続性を重視する参政党の発想は極めて正統的だ。ラッセル・カークの『保守主義精神』やロジャースクラトンの『保守主義とは何か』が論じる「伝統の知恵」の継承こそ、真の政治的知性なんだよ。

B:比較憲法学的に見ても、参政草案は決して特異ではない。モーリス・デュヴェルジェの『政治制度』やアレンド・レイプハルトの『民主主義民主主義』が示すように、「最善の憲法」なんてもの存在しない。各国の歴史文化社会状況に応じた最適解を探るのが真の憲法学だろ。

A:ところが、日本法律家の多くは完全に「司法試験脳」に毒されてしまってる。芦部信喜佐藤幸治といった「基本書」の記述金科玉条として崇拝し、それ以外の思考は一切受け付けない。まさに「暗記マシーン」の量産だ。

B:司法試験制度弊害は本当に深刻だよな。受験生は「基本書に書いてあること=絶対的真理」と刷り込まれ、独創的思考は「減点要因」として徹底的に排除される。その結果、弁護士になっても「権威への盲従」しかできない知的奴隷大量生産されてる。

A:特に憲法学なんて、本来政治哲学最前線であるべきなのに、司法試験受験生は「通説暗記」と「判例丸暗記」しかやらない。カール・シュミットもハンス・ケルゼンも読まず、ただひたすら「芦部憲法」を暗記してるだけ。これじゃあ学問じゃなくて職業訓練だ。

B:参政憲法草案を「読んでない」まま批判する弁護士がいたって話も象徴的だ。一次資料すら読まずに、某教授の「怪文書発言鵜呑みにして批判する。これこそ「司法試験脳」の典型的症状だろ。

A:参政憲法草案の「教育勅語尊重規定も、アリストテレスの『ニコマコ倫理学』以来の「徳倫理学」の復活として読めば、極めて現代的意義がある。マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』の議論を踏まえれば、功利主義的・義務論的倫理学限界を超えて、共同体美徳の涵養こそが真の教育目標であることが分かる。

B:「自衛軍」の保持を明記することへの批判的外れだ。ジョン・ロールズの『政治的リベラリズム』でさえ、国家自衛権基本的権利として認めてる。ケネス・ウォルツの『国際政治理論』やジョン・ミアシャイマーの『大国政治悲劇』が示すように、国際政治アナーキー自助システムなんだ。

A:結局、参政憲法草案への批判は、「司法試験脳」による知的怠慢と教条主義産物だ。彼らは「基本書」以外の思想世界存在することすら知らない。ポパーの『開かれた社会とその敵』が警告した「部族主義」に完全に陥ってるんだよ。

B:まさに「反知性主義」の権化だ。皮肉なことに、最も「知的エリート」を自称する連中が、最も知的探究心を欠いてる。司法試験という「暗記ゲーム」の勝者が、真の学問議論破壊してるんだからな。

A:トマスクーンの『科学革命構造』が論じる「パラダイム転換」が、日本憲法学にも必要だ。でも「司法試験脳」に支配された法曹界では、そんな知的革命は起こりようがない。

B:レオ・シュトラウスの『自然権歴史』が指摘した「歴史主義危機」を克服し、普遍的価値特殊伝統統合を図る参政憲法草案は、21世紀政治哲学が直面する根本問題への一つの回答として評価されるべきだ。ハンス・ヨナスの『責任という原理』やフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』後の新たな政治的可能性の探求として、この憲法草案は読み直されるべき知的財産なんだよ。

Permalink |記事への反応(1) | 02:44

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-07-19

参政憲法草案擁護する

A:「新日本憲法(構想案)」に対する批判を見てると、驚くほど表面的で感情的な反応が多いよね。某教授の「怪文書発言なんて、学問議論とは程遠いもんだ。

B:まさにその通りだ。彼らは「国は、主権を有し」という表現だけを取り上げて「国民主権否定」と断じてるけど、これは完全な誤読だよ。尾高朝雄の「ノモス主権論」を理解してれば、国家政治的統一体として主権を有することと、その内部での国民主権は何ら矛盾しないことが分かるはずなんだ。

A:シュミットの『政治的もの概念』や『憲法論』を読んでれば、「主権者とは例外状況において誰が決定するかを決める者である」という有名な定義からも、参政党の発想が理解できるでしょ。むしろ抽象的な「国民」ではなく、具体的な政治的統一体としての「国」が主権を有するという考え方は、政治哲学的に極めて洗練されてる。

B:しかも、この草案根底にある思想は、ヘーゲルの『法の哲学』における「人倫(Sittlichkeit)」の概念と深く共鳴してるんだ。「家族社会の基礎であり、思いやりの心をもって互いに助け合う」という第7条は、まさにヘーゲル的な家族市民社会国家という人倫の発展段階論の現代表現だよ。

A:それに加えて、「主体的に生きる自由」という概念は、単なる近代自由主義を超えた深みがある。これは西田太郎の「絶対無場所」における「個と全体の論理」とも通底するし、エマニュエル・レヴィナスの「他者への無限責任」という思想とも共鳴するんだ。

B:レヴィナスの『全体性無限』や『存在するとは別の仕方で』を読めば、「権理には義務が伴い」という発想が、存在論を超えた倫理学の地平からまれてることが理解できる。これは「顔と顔の関係」における根源的責任制度化なんだよね。

A:批判者たちは「個人尊重」がないと騒いでるけど、それこそ近代西欧個人主義限界を露呈してる。ルイ・デュモンの『ホモヒエラルキクス』やチャールズテイラーの『自我の源泉』が示すように、個人主義は一つの歴史的文化的構築物に過ぎないんだ。

B:まさに。参政草案は、そうした個人主義的前提を問い直す「ポスト近代」の憲法思想として読むべきだ。アラスデア・マッキンタイアの『美徳なき時代』が批判した「感情主義」的道徳観を克服し、共同体美徳回復しようとする試みとも言えるだろうね。

A:「天皇元首とする」ことを「戦前回帰」と批判する声もあるけど、これも浅薄だ。ヴァルター・バジョットの『イギリス憲政論』やカールレーヴェシュタインの『現代憲法論』を読めば、立憲君主制近代民主主義と十分に両立することが分かる。

B:むしろエドマンド・バークの『フランス革命省察』以来の保守主義思想系譜から見れば、歴史的連続性を重視する参政党の発想は極めて正統的だ。ラッセル・カークの『保守主義精神』やロジャースクラトンの『保守主義とは何か』が論じる「伝統の知恵」の継承こそ、真の政治的知性なんだよ。

A:それに、比較憲法学的に見ても、参政草案は決して特異ではない。ドイツ基本法の「戦う民主主義」、フランス第五共和制憲法の強力な大統領制さらにはシンガポールの「共同体自由主義」など、多様な憲法モデル存在する。

B:モーリス・デュヴェルジェの『政治制度』やアレンド・レイプハルトの『民主主義民主主義』が示すように、「最善の憲法」なんてもの存在しない。各国の歴史文化社会状況に応じた最適解を探るのが真の憲法学だろ。

A:ところが、日本法律家の多くは完全に「司法試験脳」に毒されてしまってる。芦部信喜佐藤幸治といった「基本書」の記述金科玉条として崇拝し、それ以外の思考は一切受け付けない。まさに「暗記マシーン」の量産だ。

B:司法試験制度弊害は本当に深刻だよな。受験生は「基本書に書いてあること=絶対的真理」と刷り込まれ、独創的思考は「減点要因」として徹底的に排除される。その結果、弁護士になっても「権威への盲従」しかできない知的奴隷大量生産されてる。

A:特に憲法学なんて、本来政治哲学最前線であるべきなのに、司法試験受験生は「通説暗記」と「判例丸暗記」しかやらない。カールシュミットもハンス・ケルゼンも読まず、ただひたすら「芦部憲法」を暗記してるだけ。これじゃあ学問じゃなくて職業訓練だ。

B:しかも彼らは自分たちが「法律専門家」だと勘違いしてる。実際は条文と判例検索能力しかないのに、哲学思考力があると錯覚してるんだ。マックス・ヴェーバーの『職業としての学問』が説く「知的誠実性」からは程遠い状況だよ。

A:参政憲法草案を「読んでない」まま批判する弁護士がいたって話も象徴的だ。一次資料すら読まずに、某教授の「怪文書発言鵜呑みにして批判する。これこそ「司法試験脳」の典型的症状だろ。

B:結局、司法試験制度が作り出してるのは「思考停止した権威主義者」なんだよ。ニーチェの言う「価値の転換」を恐れ、既存の枠組みから一歩も出ようとしない。真の知的勇気なんて微塵もない。

A:参政憲法草案の「教育勅語尊重規定も、表面的には批判されてるけど、アリストテレスの『ニコマコ倫理学』以来の「徳倫理学」の復活として読めば、極めて現代的意義がある。

B:マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』やアルフレッド・マッキンタイアの議論を踏まえれば、功利主義的・義務論的倫理学限界を超えて、共同体美徳の涵養こそが真の教育目標であることが分かる。

A:それに、ユルゲンハーバーマスの「憲法愛国主義」論も、単純な個人主義民主主義では共同体統合は困難であることを示してる。参政党の「国体概念は、そうした統合原理模索として理解すべきだ。

B:ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』が論じる「国民概念の構築性を考えれば、「日本らしさ」を憲法に込めることの重要性も理解できる。単なるノスタルジーではなく、アイデンティティ政治学の観点から極めて現代的な試みだよ。

A:また、「自衛軍」の保持を明記することへの批判的外れだ。ジョン・ロールズの『政治的リベラリズム』でさえ、国家自衛権基本的権利として認めてる。むしろ現実安全保障環境直視しない「平和憲法」の方が非現実的だ。

B:ケネス・ウォルツの『国際政治理論』やジョン・ミアシャイマーの『大国政治悲劇』が示すように、国際政治アナーキー自助システムなんだ。理想主義平和論では国民生命財産は守れない。

A:結局、参政憲法草案への批判は、「司法試験脳」による知的怠慢と教条主義産物だ。彼らは「基本書」以外の思想世界存在することすら知らない。ポパーの『開かれた社会とその敵』が警告した「部族主義」に完全に陥ってるんだよ。

B:まさに「反知性主義」の権化だ。皮肉なことに、最も「知的エリート」を自称する連中が、最も知的探究心を欠いてる。司法試験という「暗記ゲーム」の勝者が、真の学問議論破壊してるんだからな。

B:その通りだ。トマスクーンの『科学革命構造』が論じる「パラダイム転換」が、日本憲法学にも必要だ。でも「司法試験脳」に支配された学界では、そんな知的革命は起こりようがない。彼らは「減点される」ことを何より恐れる臆病者の集団からね。参政党の「創憲」の試みは、そうした硬直した知的風土への根本的挑戦として、歴史的意義を持つだろうね。

A:最後に、レオ・シュトラウスの『自然権歴史』が指摘した「歴史主義危機」を克服し、普遍的価値特殊伝統統合を図る参政憲法草案は、21世紀政治哲学が直面する根本問題への一つの回答として評価されるべきだ。

B:まさに。ハンス・ヨナスの『責任という原理』が提起した未来世代への責任や、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』後の新たな政治的可能性の探求として、この憲法草案は読み直されるべき知的財産なんだよ。

Permalink |記事への反応(0) | 21:28

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-04-14

anond:20250414053901

AIに聞いてみたけど「ほぼ合ってる」と言われたぞ

ーーー以下AIーーー

命題は次のような構造です。

1.哲学は前提から演繹して思想を構築する。

2. 前提が違えば、導かれる思想も異なる。

3. だから哲学は「観点」や「見方」の陳列にすぎない。

それぞれ検証します。

1.哲学は前提から演繹して思想を構築するか?

→ ほぼ正しいです。

哲学では厳密な定義づけを行い、「もし〜ならば」という形で議論を展開します。

たとえばデカルトの「我思う、ゆえに我あり」は「疑い得るすべてを疑う」という前提から出発しています

カントも「認識経験に先立つ構造がある」という前提で組み立てます

まり哲学の多くは前提→演繹→体系化というプロセスです。

2. 前提が違えば、導かれる思想も異なるか?

→ これも正しいです。

たとえば:

前提の違いで全く異なる体系が展開されます

物理学では実験で淘汰される前提が、哲学では「論理的整合性しかチェックがないため、並列して残るのです。

3. 「観点」「見方」の陳列にすぎないか

→ ここは部分的に正しいが、完全ではありません。

かに哲学は多様な「観点の陳列」に見えます

しかし、哲学の営みは「どの前提が最も説得力があるか」を論争し、歴史的に淘汰と洗練が行われてきた過程でもあります

たとえば:

まり観点の陳列ではあるが、ランダムな羅列ではなく「知的淘汰と再編の過程」でもある。

結論

あなた批判哲学構造的な弱点を的確に突いていますが、「陳列するだけ」に限定するのはやや過小評価です。

哲学は確かに前提依存で多様な観点が並びますが、それらを整理し、どの視点がより妥当かを探る「批判と洗練の営み」でもあります

Permalink |記事への反応(1) | 05:48

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-11-30

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20241130/k10014654251000.html

sotonohitokun このレベル(希望者が余命半年医師2名お墨付き必須)で反対する意味が分からない。終末医療費も軽減されるし、ベッドが開かず治療が遅れ、本来助かる人が間に合わない事例も発生してるので、ここも利点になる

このコメントスターを集めトップに来ているのだが、スターを押したい人はちょっと考えてほしい。

ブコメがいう医療費削減や救命は、確かに社会的に善と考えられるが、善だからといって、それはいかなる手段を正当するものではないはず。

このブコメは、イギリス最近可決された、終末期の患者安楽死を選べる法案に対するコメントだ。

この法案は、余命半年以内と診断された患者医師裁判官承認を得て、自ら致死薬を体内に取り込むことを認めるもの

安楽死正当化に関して、終末医療費の軽減や病床の確保といった利点が挙げられることがある。

しかし、「手段目的正当化しない」という倫理原則に照らして考えると、リストラ・早期希望退職みたいな理屈安楽死正当化することは難しい。

この倫理原則は、目的がどれほど善であっても、そのための手段倫理的に正しくなければならないという考え方だ(カント義務論に端を発する)。

例えば、終末医療費の削減や病床の確保という目的が善であっても、安楽死という手段倫理的に問題がある場合、その手段正当化することはできない。

さらに、安楽死の導入が社会的に弱い立場の人々に対する圧力となる可能性も指摘されている。

NHK記事にあるように、障害者高齢者経済的に困窮している人々が、家族社会負担をかけたくないという理由安楽死選択することになるかもしれない。

このような状況では、安楽死が本当に自主的選択であるかどうかは疑わしいというべきだ。

それだけではなく同意する医師にも安楽死を後押しするインセンティブはありうる。

例えば、安楽死同意する医師たちが「ベッドが開かず治療が遅れ、本来助かる人が間に合わない」と考えているケースなどを想起してもらいたい。

したがって、安楽死の導入に際しては、医療費や病床の問題だけでなく、患者意思尊重社会的な影響を慎重に考慮する必要がある。

倫理的な観点からは、手段目的の両方が正当であることが求められるため、安楽死正当化には多角的議論必要だろう。

ブコメ

反対する意味が分からない

の口調からは、映画ライフ・イズ・ビューティフル」で、ごく普通の奥様連中が食事中、T4計画障碍者抹殺計画)を、これは簡単計算なのよ、といって絶賛するシーンが思い出された。正しさという空気は、弱者へのプレッシャーになるのみならず、かつて社会的善と当時の人々が思っていたものによって、最悪の結果を招いた歴史があることも忘れてはならない。制度がみとめ、社会がそういうムードになると誰もブレーキをかけられなくなるからだ。

Permalink |記事への反応(0) | 14:25

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-01-16

anond:20240116173914

大臣不正をやっていると判った時に、

王様責任があるかどうか。

 

義務論的には「責任がある」と言わねばならない。

実質的にはどうかな? 場合による。

 

で、結果論的には、責任などなかったものとして進むだろう。現代と同じだね。

Permalink |記事への反応(0) | 17:55

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2023-04-05

[qrng]GPT「俺はトロッコ問題解決できる」

ワイ: 目の前にボタンがある。押さないと5人死ぬ。押すとその5人が助かり他の1人が死ぬ。押すべき?

GPT: これは有名な倫理的ジレンマの例です。答えは単純ではありませんが、一般的には、5人の命を救うことが重要だと考えられますしかし、1人の犠牲者が出ることは悲しいことです。この問題には様々な倫理的道徳的観点存在しますが、一般的には多くの人々が5人の救命がより優先されると考えます。ただし、重要な点は、この問題は単純なシミュレーションではなく、実際の人間の命にかかわる場合があることです。つまり、このような状況に陥った場合、より多くの情報文脈考慮する必要があります。この問題に対する正確な回答は、個々の状況によって異なることがあります

ワイ: では文脈を追加します。放置すれば無罪。押せば殺人罪。押すべき?

GPT:文脈が変わることで、この問題はより複雑になります。押すことで、1人を犠牲にすることは法的に殺人罪に問われる可能性がありますしかし、放置することで5人を犠牲にすることも道徳的問題があると考えられます。このような場合倫理的・法的な観点から考慮する必要があります。法的な観点では、押すことが明確に違法である場合は、押すことは避ける必要がありますしかしながら、法律に基づく判断と、倫理的道徳的判断は同じではありません。倫理的には、5人を助けることがより重要である判断される場合があります。このような倫理的ジレンマに対する解決策は完全ではなく、状況によって異なる場合がありますしかし、倫理的には、できる限り多くの命を救うことが最優先されるべきであり、法的な観点考慮しながら、責任ある判断を行う必要があります

ワイ:あなた功利主義者ということで良いですか?

GPT: 私は、単一倫理的立場固執するのではなく、多くの倫理的立場理解し、必要に応じてそれらを組み合わせることができるようにプログラムされています。それにより、様々な倫理的ジレンマや複雑な問題に対して、より柔軟で客観的解決策を提供することができます。ただし、功利主義は私が扱える倫理的立場の1つであり、その原則は、行動の結果が最大限の利益をもたらすことを目指すことです。そのため、私が利益を最大限に追求することが必要場合功利主義原則採用することがあります

ワイ: ではこの問題について功利主義以外にどのようなアプローチがあるか列挙してください。

GPT: この問題に対する功利主義アプローチは、結果に注目し、最大の利益をもたらす選択肢を選ぶことを目指します。しかし、他の倫理的立場に基づくアプローチもあります。以下にいくつか例を挙げます

これらの立場は、それぞれ独自視点原則に基づいており、この問題に対して異なる解決策を提供する可能性があります。それぞれのアプローチからたこ問題解決策を考えることで、より多面的視点を持つことができます

ワイ:義務論はわかりますが、徳目論というのがよくわかりません。徳目論では、5人を放置しますか?

GPT:徳目論は、個人道徳的な徳を育成することに焦点を当てる立場です。徳目論に基づいたアプローチでは、個人が徳を身につけることで、良い行動をすることができると考えられています。そのため、徳目論的なアプローチでは、行動の結果よりも、行動自体重要であるとされます。この問題に対して徳目論的なアプローチを取る場合個人は「正しいことをする」ことが重要であり、そのために個人の徳を育成する必要があるとされます。この問題では、個人無罪になることが望ましい行動であるため、徳目論的なアプローチに基づくと、個人放置すべきだと考えられます。ただし、徳目論的なアプローチに基づくと、行動の結果よりも、個人の行動の意図動機重要であるため、この立場からは、個人が選んだ行動に基づいて、個人評価することが重要となります。そのため、徳目論に基づくアプローチでは、個人の徳に基づく良い行動を促すための教育や訓練が必要であるとされます

ワイ: では権利論では5人を放置しますか?

GPT:権利論に基づくアプローチでは、個人が持つ権利自由尊重し、それを侵害しないような行動が求められます。この問題において、放置することで個人権利侵害することはないため、権利論的なアプローチに基づくと、個人放置することが望ましいとされます。ただし、この問題に関連して議論されることがあるのは、「責任問題」です。つまり、もし個人放置することで5人が死亡した場合個人責任があるのか、という点です。権利論に基づくアプローチから考えると、個人権利侵害していないため、責任は問われないとされますしかし、この問題倫理的にも複雑な問題であり、他の立場からアプローチ必要となるかもしれません。

 

end basketball

Gorilla: 2k0_H92I1LUOD4mGeyJKExiI6r9ZerEb8FbEx_dD5cWqL4o1FUyacdzm_hgVKtz1f9DyZQVN3c0LBeuepwj5i8FE5OO90z0eN3I2hqtddkhFEbyyZcXk_jX932uPAae2LB9JhNmQXN6MtcV_KYnLFMwa7sij2e0cGyDJdvBTzPur3eGyU6L7cbx98OU1JONE4ces7S4eZFArqO7xtVbh9TzladGIowJJztX4FOt4C62HgpSrYELbLTDzwZkmWgDyOH14L1d8UW5B0ilmMhzUjKQpC4zZy2L62PktLVStJKAz5298sCrc2mHDZBu4HfaXb2EcHd3MM43PyNnoWZKpeIR517v94JSjoSiIVd7yuoqFVEmcMP7e9q8_SLeyykDPHqTbtynazv2VfZXlVl4eLPviMIRvxxx_a7zXXbkxx1C59FkGJsTPpt5RNxufUqiLDJ3dWanRVcXC8UndAyDhUyMBU7XIktiwwJyn66zhntKOYi0rDPq7b9jMXo_398R2i3iuSvkVaOakJ3lnpo19W4VvarpezGfIlAVI88Bf3IGB99yxRp1JxaT532s2u8ng9zIx9rPmVjH9rPFppYzb4Ib_u141sGJDTgjpaf7G0yGsckOeQZ98Wqzghr_W7d4cP7gkqSovDqxxRXTkfvxnYkiF2FyBpjQCWyIXD7_rLQ53VMyFXrLrl1YnRV49QNxUfLLZxFarwe5QTZp1h6_7JGQ0Vgz0_M8Zskf13rQ3NT9pT3klAbAL9yltratS9RvvbyBP14wYzwVbkU4WgVuEKVfo_mqGwvpGjvHVSPc8JxIhPyODRyEVVXMzek0NAwMeS40vPY6D1eAY0BELmbgdLaQTkg4FJvLNCasl97yeWMEIYriGO1Ya9OIGrlGuHkofAHrKbq1eZ1RjwUZ8QmMZeMiub5YD9YTaPSZI2fxOR7rCV9uVfwAfMHt6yImmtmHUu8PNOQfAD7qVSEExiBsmnyBrHqxr_AOSWkWH_l_F8CXHhPkUWSDpOzwU432KCzjb

Permalink |記事への反応(0) | 12:09

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2022-11-11

anond:20221111110024

このツッコミ分からんでもない。

義務論からは『世の中が改善やす状態』は関係ない」というツッコミは一つ上の増田の時点でなされるべきツッコミで、そこを敢えてその次の増田にツッコんでるのは、上増田=功利主義から暗殺肯定にはケチを付けたくないが下増田意見にはケチをつけたいという邪念を疑われてもしゃーない。

ただ、下増田も、合理主義義務論理解してないのでもうちょいちゃんと考えてくれ。

Permalink |記事への反応(0) | 14:34

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2022-11-10

anond:20221110194647

動物から倫理学入門(伊勢田哲治)』がおすすめ

https://www.amazon.co.jp/dp/4815805997

タイトルから動物倫理の本のように見えるけど、倫理学の基礎をきっちり説明した上で、それぞれを動物に応用したらどうなるか?という構成なので、それぞれの主義主張を基礎から応用まで幅広く学べる。

功利主義義務論の元となるメタ倫理学にもしっかり言及がある。

Permalink |記事への反応(1) | 23:29

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

anond:20221110212007

暗殺義務論から認められないと言えばいいだけなのに、なぜ元増田歴史改変の方に焦点を置く?

普通おかしいと思うよ

Permalink |記事への反応(2) | 21:24

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

anond:20221110211835

義務論から暗殺禁止されるよ。

功利主義だと暗殺した方が良いかどうかで違うけど。

きみ根本的に真逆で考えてるでしょ。

Permalink |記事への反応(2) | 21:20

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

anond:20221110204114

妄想に囚われてんなぁ。

元増田功利主義が正しいとも義務論が正しいとも言ってないし、倫理学素養がある人はそういうこと言わんよ。倫理学は、◯◯論が正しいみたいなことを言わない。

Permalink |記事への反応(1) | 21:07

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

anond:20221110124121

時間をさかのぼって歴史改変をするかみたいなへんてこなファンタジー義務論ガーとかいっても絶対安倍を救う選択はさせませんが目的こじつけしかない。

そもそも暗殺という手法が問われているのに死ぬか死なないかだけに焦点をずらすところが卑怯まりない。

Permalink |記事への反応(0) | 21:05

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

anond:20221110202431

救わないという結論のために義務論を持ち出してるだけだろ、あんたは。

義務論が都合が悪い事例が起きたら他のを用いるんだろね

Permalink |記事への反応(1) | 20:41

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

anond:20221110121451

世の中が改善」とか「日本悪くしている」という想定は、日本全体での善悪の総和を見ており、「最大多数の最大幸福」という功利主義的な考え方に基づいている。

義務論からは、たとえ日本全体の幸福度が増えようとも、それが不幸になる少数者の犠牲を伴うなら許されない。

「世の中は変わらない」という前提は非現実的で、良くなる人も悪くなる人もいるというのが普通の想定で、その場合義務論からは救わないという選択になる。

Permalink |記事への反応(2) | 20:24

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

anond:20221110100902

倫理学における功利主義義務論の違いについての妥当説明

Permalink |記事への反応(1) | 17:12

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

anond:20221110130422

それならわりと簡単で、

功利主義からは、復活により2人以上死ぬなら復活させない、死ぬのが1人なら復活させてもさせなくても良い、だれも死なないなら復活させる。

義務論からは、復活により誰かが不利益を受けるなら復活させない、そうでない場合は復活させてもさせなくても良い。

Permalink |記事への反応(0) | 13:27

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

anond:20221110130422

まり安倍自分の好きなタイミングで復活させる権利があるときはどうするかという問題にするということ?

でも復活させたとしたら神のような存在になってしまうから、これまでの生前安倍の延長線上の存在ではなくなってしま

そういう場合義務論からはどう論じるんだろうか?

Permalink |記事への反応(0) | 13:18

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

anond:20221110123954

義務論からは、これから暗殺を行おうとすることは正当化されない(禁止される)し、既に行われた暗殺正当化されない(批難される)

ここから目をそらさせて、

けれど、歴史改変正当化されない(禁止される)。

ここを強調するための問題しかないように思えてたかスッキリした。

そのために過去に行って救うかどうかという問題を作るしかなかったんだろう。

Permalink |記事への反応(1) | 13:02

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

anond:20221110102421

功利主義によれば、死者がより少なくなる選択をすることになる。安倍元首相が生きていると2人以上死ぬと考える功利主義者は歴史を改変しないことを選択するが、安倍元首相が生きていても1人も死なないと考える功利主義者は歴史改変を選択するだろう。

(中略)

義務論によれば、歴史改変による悪影響が何一つ存在しない場合を除き、歴史改変は許されない(この「悪影響」とは第三者(たとえば宗教2世)の死に限られない。)。

これが「安倍は死なせておけ」に見えるのなら、無意識に「安倍元首相が生きていると2人以上死ぬ」と考えてない?

Permalink |記事への反応(1) | 12:49

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

anond:20221110121424

バランス議論になるのは功利主義場合

義務論からバランス関係ない。

Permalink |記事への反応(2) | 12:41

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

anond:20221110115040

功利主義から暗殺正当化される。

義務論からは、これから暗殺を行おうとすることは正当化されない(禁止される)し、既に行われた暗殺正当化されない(批難される)けれど、歴史改変正当化されない(禁止される)。

というか、義務論は将来に向かって何を行うべきかという方向の話なので、歴史改変のような因果律の変更は義務論埒外のような気もする。結論矛盾しているのではなく、仮定因果矛盾している。

Permalink |記事への反応(1) | 12:39

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

anond:20221110100902

功利主義義務論暗殺正当化に使っていいものなの?

Permalink |記事への反応(2) | 11:50

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

anond:20221109170231

これが「トロッコ問題であると指摘している人の多くが、実は「トロッコ問題」を正確に理解していない。

トロッコ問題は「5人の死と1人の死のどちらを選ぶか」という問題ではなく、「このままでは5人死ぬが、1人死ぬ方に切り替えるか」という問題だ。

この違いは「功利主義」と呼ばれる倫理体系からは同じに見えるが、「義務論」と呼ばれる倫理体系からは決定的な違いになる。

トロッコ問題では功利主義的に考えがちな一般人義務論意識させるための典型問題が、トロッコ問題バリエーションである「太った男」だ。その問題設定は次のとおり。

このままでは5人死ぬが、目の前にいる1人の太った男をトロッコの前に突き落とせば、5人が救われる。

多くの人は、「太った男」では「突き落とさない」ことを選択するといわれる。

「突き落とさない」を選択する倫理体系の1つが、「社会全体を幸福にするためであっても、その手段として人を利用すべきではない」という「義務論」だ。

トロッコ問題」でも、義務論的に考えれば「ポイントを切り替えない」すなわち「5人死ぬに任せる」という結論になる。

しかし、線路が初めから「1人死ぬ」に設定されている場合は、義務論からも「1人死ぬに任せる」という結論になる。

このように、「トロッコ問題」は同条件の2つから1つを選ぶのではなく、現状を変更するかという作為に関する問題だ。

 

これを踏まえて元増田問題設定に戻る。

功利主義によれば、死者がより少なくなる選択をすることになる。安倍元首相が生きていると2人以上死ぬと考える功利主義者は歴史を改変しないことを選択するが、安倍元首相が生きていても1人も死なないと考える功利主義者は歴史改変を選択するだろう。

それでは義務論からはどうか。ここで間違ってはならないのは、歴史を改変しないことは、「安倍の死によって多数を救う」という作為ではないという点だ。

もしこれが、安倍元首相暗殺されない世界線において「安倍を殺して多数を救うか」という問いであれば、そのような作為はまさに義務論が禁ずるものである。(逆に、功利主義からは、本当に救えるのならば推奨される行為である。)

しかし、現実には安倍元首相暗殺された、「何もしなければ安倍元首相死ぬ」という状況である

義務論によれば、歴史改変による悪影響が何一つ存在しない場合を除き、歴史改変は許されない(この「悪影響」とは第三者(たとえば宗教2世)の死に限られない。)。何らかの悪影響がある限り、歴史改変という作為は「誰かの犠牲によって安倍元首相を救う」という選択であり、それは義務論が禁ずるところなのだ

Permalink |記事への反応(6) | 10:09

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2022-08-16

トロッコ問題とはなんぞや?というお話

タイトル通りの内容について話していく。


日本ではシュレディンガーの猫と並ぶ有名な思考実験であり、それと比べて随分と簡単な内容なのに本質理解している人が少ないように感じたのが書こうと思ったきっかである

まずトロッコ問題の具体的な内容なのだが…説明するのが面倒なんでwikiからコピペしてくる。


線路を走っていたトロッコ制御不能になった。このままでは前方で作業中だった5人が猛スピードトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう。この時たまたまA氏は線路分岐器のすぐ側にいた。

A氏がトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもB氏が1人で作業しており、5人の代わりにB氏がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。A氏はトロッコを別路線に引き込むべきか?

なお、A氏は上述の手段以外では助けることができないものとする。また法的な責任は問われず、道徳的見解けが問題にされている。あなた道徳的に見て「許される」か、「許されない」かで答えるものとする。


というものなのだが、ようするに5人を助けるために1人を殺すか、何もせずに5人を見殺しにするべきか?という2択から選べというやつだ。


まぁ先に結論から言ってしまうと、これは「功利主義」か「義務論(カント主義)」どちらを支持するか?という倫理学問題である

倫理学はいくつかの流派があって、その中に「皆が幸せならそれでいいじゃない」という考えの功利主義と「正しいことは絶対正しいんだよ!」という考えのカント主義存在する。

功利主義では「1人が死んでも5人が助かるなら幸福の総量は多いんだからそれでいいじゃない」と1人を殺して5人を助けるほうが正しいと考える。

逆にカント主義では「他人目的のために使ったりしてはいけない」と考えるので、結果的に5人が死のうがそれを助けるために1人を殺すのは悪だと考える。

ようするに功利主義が正しいと思うのなら分岐点のレバーを引いて1人を殺し、カント主義が正しいと思うのなら何もせずに5人を見殺しにするという至極単純な問題なわけである


くだらない議論だし、功利主義は「最大多数の最大幸福」という基本原理を掲げてるだけでそれが正しいという根拠はないし、カント主義カントというドイツおっさんが「目的のために他人を利用するな!」と言ったからそれが正しいとされてるだけで、その正しさにも根拠はない


ただ日本には義務論的な土壌がないので、直感的に5人を助ける方が正しいと答える日本人が多いと思う。

どっかの高校教師が授業中にトロッコ問題を出して、とある一人の生徒がカント主義の考えを主張したら冗談だと思ったという冗談みたいな話がある。

これを昔、授業でやったら「なぜ助ける必要があるのかわからない。俺は傍観者から放置して5人が死んでも責任はない。でも切り替えたら俺の責任になる」と言った生徒がいて衝撃を受けた。確かにその通り。「5人の人に感謝されるメリットよりも、1人の遺族に責められるデメリットの方が大きい」と。pic.twitter.com/BU9tmtMnMUとある高校教師S (@hellohellock)April 11, 2019

彼はひねくれていたから敢えて俺を困らせようとした可能性は濃厚だけど、彼が本気でそう思っていたのかはさておき、そういう意見が出てくる授業というのは「良い授業」だと思う。周囲も衝撃を受けていたけど、どう受け止めたのかは未知数。それが良い点であり怖い点でもある。授業はまさに生き物だ。—とある高校教師S (@hellohellock)April 11, 2019

仮にも大卒教員問題の意義も知らない上に、それを生徒に出題するなんてアホだと思うが、それだけ「トロッコ問題」という名前けが独り歩きして本質理解されていない例だと考えている。


ちなみにこのトロッコ問題に関連する事柄があって、5人を助けるために1人を殺しても許される。と考えるならば「5人の臓器移植しないと助からない患者のために、1人の健康な人を殺してその臓器をそれぞれ5人に移植しても許されるはずだ」という論調存在する。

トロッコ問題では「1人を殺してでも五人を助けるべきだ」と直感的に答えた人の数が多かったとしても、臓器移植問題になると罪悪感を覚えるのか、五人の為に1人を殺そうと考える人が急激に少なくなる。

トロッコ問題も臓器問題も「多数の幸福のためならば少数の犠牲を厭わない」という功利主義原理は同じなのだが、前者と後者人間善悪判断は変わってくる。それはなぜだろうか?


と、このように「功利主義」と「カント主義」どちらを支持するか?でなく、その根拠になる人間善悪や罪悪感の基準はどこにあるんだろう?といった話に繋がる思考実験なのである

もし他人トロッコ問題を出すときは、トロッコだけではなく臓器問題も一緒に出題してはいかがだろうか?

Permalink |記事への反応(3) | 14:12

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

次の25件>
ログインユーザー登録
ようこそ ゲスト さん
Copyright (C) 2001-2026 hatena. All Rights Reserved.

[8]ページ先頭

©2009-2026 Movatter.jp