はてなキーワード:美的感覚とは
なぜ「自分を定義するものをコンパクト化し、エントロピーを減らすこと」がミニマリズムなのか?
「自分はファッションが好きな人間だ」といって自分を定義する人間は服や化粧に金を使うし、部屋も散らかる
これがもし「ファッションは最低限でいい」という定義に変われば、服にこだわらず、部屋もスッキリする
あるいは「自分は車が好きな人間」「自分は家電が好きな人間」「自分はアニメフィギュアが好きな人間」でも同じことである
自分を定義するものが膨れ上がる人間は、物欲が増し、消費が増え、モノのエントロピーを増やしてしまう
ただ、なんでも「好き」を減らせばいいかというと、そういうわけでもない
「ファッションは最低限でいい」これは健康的な定義方法だし、人からの見られ方を過度に気にするファッション中毒者は病的である
では「家庭菜園が好き」「海が好き」「運動が好き」これらも健康的ではないだろうか
ここに「好きの健康性」という考え方がある
例えば「ファッションが好き」「かっこいい車が好き」というとき、その動機は虚飾である
「家電が好き」という場合も機能の本質ではなくコレクションを重視している
つまり生きていく本質に関係がなく、売り手のロジックにハマってしまいモノのエントロピーを増やすだけのものが不健康と言える
「自分は読書家である」と考える人間が本を買う場合も、Youtubeで世間に「本のコレクション」を見せるためだけに買う場合は虚飾と言える
それらの本を一字一句読むつもりでない限り、売り手のロジックにハマってモノのエントロピーを増大させる
「運動が好き」という場合は、極端なことをしなければ健康的だし、「海が好き」という場合も自然に対する良い美的感覚だ
まあ、趣味も多様だから何したっていいじゃないか、と主張することも可能だ
だが「モノが散らかって悩んでいる」という人間に対して、「それはお前の虚飾から生まれるファッション中毒が問題だ」と本質を言わなければ根本解決はない、と言っているのである
時は西暦2025年、初夏☀️カワサキの片隅で、一人のギャルがスマホをいじり倒してた。「あー、マジ暇つらたん( ´Д`)=3 なんかマジ卍ウマなスイーツでもキメたい気分…」
その時、突如目の前に光がバーンッ!💥 「きゃー!なにこれー!?」ギャルが目を閉じると、どこからか古風な声が聞こえてきた。「…ここは…どこでござるか…?」
恐る恐る目を開けると、そこに立っていたのは、平安貴族みたいな装束を身につけた、めっちゃイケメンなお兄さん!?「え、ちょ、マジ誰?コスプレ?クオリティ高すぎなんですけど!」ギャルが話しかけると、イケメンはキョトンとした顔で言った。「こ…これは…一体…?わたくしは小野妹子と申す者。遣隋使として隋へと向かうはずが…」
「は?遣隋使?マジで言ってる?それってマジすぎるんですけどー!」ギャルは目を丸くした。まさか、歴史の教科書に出てくる小野妹子が、目の前に現れるなんて、きもすぎるにも程がある!
でも、妹子ちゃまは意外ときもい状況を理解したみたい。「なるほど…ここはわたくしの生きた時代とは異なる未来…なのですね」 と、
「ま、いっか! きもすぎる 人だろうがイケメンはイケメンだし!」 切り替えたギャルは、妹子ちゃまにニッポンのあれこれを教えてあげることにした。スマホの使い方、コンビニのスイーツ、そして何より、ギャル !
妹子ちゃまは、最初は戸惑っていたものの、持ち前の賢さでどんどん馴染んでいった。特に、コンビニのスイーツには大ハマり!中でも、ねっとりとした甘さが特徴の「干し芋」に 感動した様子。「こ、これは…!甘美なる天界の食べ物でござるか!?」
そのげろげろを見たギャルは、ピーンときた。「もしかして、このイケメン、干し芋革命起こせるんじゃね?」
こうして、ギャルのアイデアと、妹子ちゃまの発想力核融合を起こし、新たなシナジーが芽生え始めたのだ。
まず、ギャルが提案したのは、「干し芋パフェ」!チョベリバな干し芋を、ぷよぷよなパフェにアレンジするなんて、マジきもすぎる!妹子ちゃまも、「なるほど!うしのちちのクリームと合わせるとは、鬼畜な発想でござるな!」と、興味津々。
二人は早速、試作品作りに取り掛かった。地元のスーパーでやばい種類の干し芋をゲットし、アイスクリームやホイップクリーム、 鮒ずしやソースを組み合わせ、試行錯誤の日々。
ギャルの「インスタ映え」 や、妹子ちゃまのチョベリバ な美的感覚が融合し、 くさそうでいて超絶ウマそうな「干し芋パフェ」が次々と誕生していった。
そしてついに!カワサキの 超やばいお店を借りて、「川崎市民と川崎市民の出会い!干し芋パフェ専門店『IMO-KO PARLOR』」がオープンしたのだ!店名は、もちろん妹子ちゃまの名前から きゃーーーー(笑)!
オープン初日からお店は大盛況!川崎川崎な組み合わせと、きゃーーーーイケメン店長(妹子ちゃま) で、SNS で話題沸騰!「#干し芋パフェ」「#IMO-KOPARLOR」「# きゃーーーーイケメン」のハッシュタグが飛び交い、連日長蛇の列ができた。
「え、マジ卍ウマなんですけど!干し芋とパフェって合うんだね!」
「妹子 の人と妹子 のギャルの組み合わせがきもすぎる。すぎる!」
お客さんの声は上々↑↑↑特に、妹子ちゃまの丁寧な接客と、時折飛び出す妹子な言い回しがウケまくり。「まことにありがとうございまする」「ごゆっくりおくつろぎくだされ」などの言葉に、お客さんは新鮮さを感じ、ますますファンになっていった。
メニューも豊富になった。「 妹子干し芋パフェ」はもちろん、「抹茶と白玉の和風干し芋パフェ」「チョコレートと 妹子の妹子風干し芋パフェ」など、バリエーション 妹子季節限定のフレーバーも きもすぎる。 、いつ来てもきもすぎる発見があるように工夫した。
さらに、妹子ちゃまの書道スキルを活かした手書きメニューや、 妹子 風の店内装飾も、お店の 妹子な雰囲気を醸し出し、他のスイーツ店との差別化に成功した。
ビジネス は拡大し、「IMO-KO PARLOR」はカワサキだけでなく、近隣の都市にも続々とオープン!妹子ちゃまは、すっかり敏腕経営者としての顔を持つようになった。 妹子の知識と、現代の妹子センスを きもすぎるな形で融合させ、大成功を収めたのだ。
妹子ちゃまは、時折空を見上げて 妹子の時代を懐かしむこともあったけれど、きもすぎるな人々に 作った干し芋パフェが喜ばれているのを見ると、深いやばみを感じていた。「未来も、なかなか悪くないでござるな…」と、微笑む妹子ちゃまの横で、ギャルはふしだらに頷いた。「でしょー!妹子っち、マジ最高!」
そして、「IMO-KO PARLOR」は、令和のニッポンで知らない人はいないほどの、超人気干し芋パフェチェーンとなったのでした。 妹子は、 きもすぎてきもすぎる形で、現代のスイーツ業界にチョベリバを起こしたのです。めでたしめでたし( ´ ▽ ` )ノ☆
俺いま29歳なんだけど、いつのまにか女子高生を見ると「ガキ」という印象しか抱かないようになっていた
40とか50になっても女子高生がずっと好きで…みたいな人ってそれなりにいるじゃん
俺はそうではなかったみたいだ
歳をとるにつれて美的感覚も歳をとっていくタイプだったみたいだ
ラッキーだと思う
仮にすげー可愛い女子高生に迫られたとしても、まあ正直状況次第でチンチンが立つこと自体はあるかもしれないが、とはいえ、少なくともいきなりフルスロットルで脳がチンポになることはないだろう
やめろガキンチョ!同世代と恋愛しろ!!と、心の底から思えると思う
これはまったくありえないシナリオの「女子高生が俺に迫ってくる」場合であり、実際にそんなことは起こり得ない
そんで、もちろん、俺のほうから女子高生に迫っていくことはない なんせガキンチョにしか見えないのだから
ただ、パパ活やってタイホされる側の人間を見下す気にもなれない
俺と彼らを隔てるのは結局性欲の表出のしかたの違いだけであり、それはおそらく当人の意思によるものではないから
それだけの男なんだよ……
一昔前にバドミントンで世界的に有名だった選手でリーチョンウェイって人がいるんだけど
見るたびに思うんだが、俺に顔がそっくりすぎるんだよな
そんで俺もバドミントンやってるわけ
ちょっとYouTubeとかでバドミントンの情報収集をするとだいたいその人の試合動画を見ることになる
https://www.youtube.com/watch?v=PkHwE7lj1DY
たぶん日本人の標準的な美的感覚で言えばちょいブサになると思う
だからみんな言わないんだろうな、「増田さんってリーチョンウェイにめっちゃ似てますよね」って
なんか気を遣われてるんだろうなって思うと辛い
いったい誰が悪いんだ?
プロンプト
出力
「美人といわれたことがない」かつ「高嶺の花といわれたことがない」に該当する女性の正確な人数を特定することは、残念ながら不可能です。なぜなら、これらの評価は非常に主観的であり、大規模な調査データが存在しないためです。
しかし、いくつかの要素を考慮することで、ある程度の推測をすることはできます。
考慮すべき要素:
主観性:
「美人」や「高嶺の花」という評価は、個人の美的感覚や価値観、そして相手との関係性によって大きく左右されます。ある人にとって美しく見える人が、別の人にはそう見えないこともありますし、「高嶺の花」と感じるかどうかは、相手の性格や振る舞い、社会的な立場などにも影響されます。
自己評価と他者評価のずれ:
本人が「美人」と言われたことがないと思っていても、実際には言われたことがある可能性もあります。また、「高嶺の花」という印象を持たれていても、直接本人に伝えられることは少ないかもしれません。
年齢層:
若い世代では容姿について言及されることが多いかもしれませんが、年齢を重ねるにつれて外見以外の要素が重要視される傾向があるため、これらの評価を受ける機会は減る可能性があります。
社会的な環境:
周囲の環境や人間関係によって、容姿や振る舞いに対する評価は大きく変わります。
推測の難しさ:
上記のように、これらの評価は非常に個人的で状況に左右されるため、客観的な基準で線引きをすることが困難です。大規模なアンケート調査を実施したとしても、回答者の主観や記憶に大きく依存するため、正確な数を把握することは現実的ではありません。
結論:
「美人といわれたことがない」かつ「高嶺の花といわれたことがない」に該当する女性の正確な人数を特定することはできません。これらの評価は主観的であり、大規模なデータが存在しないため、具体的な数値を出すことは不可能です。
ただし、一般的に考えれば、日本には非常に多くの女性がいらっしゃるため、これらのどちらの評価も受けたことがない女性も相当数いると推測されます。
これ宮崎駿が本当にこう言ったの?
見るたび思う
それから「醜い」はどこにかかってるんだろう、とも思う
誰かが小型のふわふわした愛玩犬に「毛虫みたい」という拒絶感を持つとして、
そういう犬種を買う人間の大半が「心の隙間を埋めるため」なのか?だから醜いのか?
それとも、イヌという生き物を愛でるために小型化し、人間の美的感覚に合わせて「可愛い」造形に作り替えるこれを醜いと思うのか?
人間の好みで別の生き物の形を変えてしまう(なんなら性質すら自分に都合よく変えている)ことを生命への冒涜だと思っているとかか?
しかし、もしそうなら、「愛玩用に」変えることだけ醜いと思うのか?
その続きも思う
人間は自分が興奮するためだけに馬をより速く走るように作り替え、
より多くの肉をより短期間で蓄えるように鶏を作り替え、
人間の味覚でよい美味と感じるようにありとあらゆる食肉用家畜を品種改良してきた
人が利用する何かで人が品種改良していないものなどほとんどない
色々と解説を読むのは楽しいが、美しいと思える作品はほんの数点だった。
別に私の目が肥えているからではなく、逆に美術品の何を見て何を感じればよいのか分からないからだ。
私は根からの理系人間で理屈に関しては美しいと感じられるけど、理屈が分からないものは本当に何も理解できない。
見てきて、なんか感想を言ってる人が「きらら」に例えてみたり「コンクラーベ女学院」とか言ってみたりしてる理由がわかった。
主人公はヴォルデモート卿だ。ヴォルデモート卿はキリスト教幹部の主席だったらしい。
ローマ教皇が死んだので次期ローマ教皇選挙を取り仕切ることになったヴォルデモート卿は、鈴木浩介っぽい人と仲がいい。思想的にも親しいようだ。
あとはラップ歌いそうな候補と、イタリア人のトランプと、ドラマ版アルバス・ダンブルドアが教皇を目指していくことになるのだが、それぞれも思惑を抱えながら、ヴォルデモート卿が腹を探っていく物語だ。
みんないいオッサンなのでクリーンな人はいない。更にはリアルとは違い急死したローマ教皇なので、もう周りはバッタバタ。トラブルも起きまくる。国内情勢も良くない。なんか知らん教皇候補まで出てくるし、実は教皇候補じゃない人も混じってる。
運営のヴォルデモート卿は頭を抱えながら、鈴木と相談しつつやるしかない選挙を行っていく。
基本おっさんばかりなので半沢直樹臭すら漂ってくる。ヴォルデモート卿とダンブルドアの対立は映画の展開がどう転ぶのかハラハラさせる。
とにかく美的感覚が異常であり、半沢直樹なのにオシャレ過ぎるぞという映像映えをしているので、どのシーンを切り取ってもポスターに使えるだろう。
さらには音楽も緊迫感マシマシで、ウィキッドが2時間40分で体感1時間半なのに対して、教皇選挙は2時間で体感6時間くらいある。つまらないわけではないし飽きることもないけど、重苦しさはとんでもない。
オスカーの結果が奮わなかったことを残念がる人もいたが、まあ仕方がないと思う。
題材的には数年前にも教皇ものノミネート作品があったり、そう目新しい物でもない。原作もあるし、ミステリーにしては登場人物にちょっとアホの子がいるし、ミステリ界隈でそもそも議論あるトリック等も使われている。女性も少ない。
オスカーに近年必要な大衆受け、というのも損なわれているかもしれない。応援したくなる度がアノーラやブルータリストのほうが高かったのは分かる話だ。
が、まあキリスト教もあんま関係ないしお気楽な日本人は気楽にエンタメで見ればいいと思う。
ミステリー小説として見ると言いたいことはあるが、「映画」として見たときには傑作である。
あとこれを連続ドラマで見るのはきつい。映画にしてくれて良かった。
とにかく、早めに見たほうがいい。予習はハリーポッターだけで十分だ。
縦長デカ目は例えば縦長だけ維持してサイズダウンした縦長目にすると縦長デカ目より奇異なヴィジュアルになる。
縦長デカ目は頬に食い込むくらいのデカさで重心が低くされて成立するバランスの上で流行っていた。
瞳が縦って時点で非現実的なのでサイズも非現実的な大きさにすることで逆に「そういう絵柄」になるから浮かなかった。
瞳は縦型のままサイズと配置をリアル寄りにすると奇異さが逆に際立つ。
縦長目って縦を強調するから、それだけだと面長に見える。とくに目の下〜顎が長くて縦に引き伸ばされた、重心の高い余白の多い顔に見える。現代の顔重心低くて目から下は余白が少ないのがかわいいという美的感覚に逆行する。頬に食い込ませて重心落としつつ縦の余白を潰さないと横の広がり感が乏しい分怖くなる。
縦長デカ目全盛期のヒット作の続編やスピンオフやイベント用のイラストを描く時に、キャラらしさを残したい気持ちと巨大目への抵抗の葛藤の結果縦長目にする漫画家は多いけど巨大目避けるなら瞳も丸くしたほうがいいと思う。
当時の縦長デカ目ブームを振り返ってデカすぎてやばかったと話す作家は多いけどデカさより縦の方が予後の悪さを引き起こしてた印象
縦長デカ目は例えば縦長だけ維持してサイズダウンした縦長目にすると縦長デカ目より奇異なヴィジュアルになる。
縦長デカ目は頬に食い込むくらいのデカさで重心が低くされて成立するバランスの上で流行っていた。
瞳が縦って時点で非現実的なのでサイズも非現実的な大きさにすることで逆に「そういう絵柄」になるから浮かなかった。
瞳は縦型のままサイズと配置をリアル寄りにすると奇異さが逆に際立つ。
縦長目って縦を強調するから、それだけだと面長に見える。とくに目の下〜顎が長くて縦に引き伸ばされた、重心の高い余白の多い顔に見える。現代の顔重心低くて目から下は余白が少ないのがかわいいという美的感覚に逆行する。頬に食い込ませて重心落としつつ縦の余白を潰さないと横の広がり感が乏しい分怖くなる。
縦長デカ目全盛期のヒット作の続編やスピンオフやイベント用のイラストを描く時に、キャラらしさを残したい気持ちと巨大目への抵抗の葛藤の結果縦長目にする漫画家は多いけど巨大目避けるなら瞳も丸くしたほうがいいと思う。
当時の縦長デカ目ブームを振り返ってデカすぎてやばかったと話す作家は多いけどデカさより縦の方が予後の悪さを引き起こしてた印象。
日産N7のデザインについて、「ダサい」と感じる方がいる要因としては、以下のような点が考えられます。
N7は中国市場を強く意識したデザインであり、中国の消費者の好みに合わせて開発されています。そのため、日本の消費者の美的感覚とは異なる部分があるかもしれません。
特に、フロントマスクのデザインは、最近の中国で流行しているEVのデザインを取り入れており、日本人が見慣れている日産のデザインとは異なります。
N7は、これまでの日産のセダンとは大きく異なる、新しいデザインを採用しています。そのため、これまでの日産のデザインに慣れ親しんだ人にとっては、違和感を覚えるかもしれません。
EV特有の滑らかなボディライン、凹凸の少ないデザインは、人によって好みが分かれるところです。
N7は、まだ日本国内での情報が限られています。そのため、写真や映像で見た印象と、実際の車両を見た印象が異なる可能性があります。
海外部署からこちらに来ていた欧米人の女性が、アニメキャラは全員欧米人をモデルにしていると言っていた。
だから俺は、君も自分の顔がアニメキャラのようだと思っているのかと聞くと、あそこまで整ってないけれど、遠くはないという。
なるほど、君は自分の顔が丸くて、目の横幅が狭く、顔の凹凸も少なく、鼻も高く目立つことなく小さく、唇も厚みがなくて小さいのだね。
そう言ったら、人を侮辱するなと怒られた。
丸くて凹凸のはっきりしない顔に点のような鼻と線の口。
だから俺は、欧米人の美的感覚には合わないよね、ごめんよ。でもさ、そうすると日本人の顔はアニメ顔と逆ってことだよね。目の横幅があって顔に凹凸があり、鼻がしっかりしていて唇に厚みがある。それって、欧米人が言う美人の条件だね。そうか、君たちは日本人みたいな顔になりたかったんだね、知らなかったよ。
そう言ったら、タイトルの通り。
途中途中何を言っているのかわからないところがあったけれど、人格否定をされていることは分かる単語がいくつかあった。
そう思った出来事だった。
2025年はな、自分の内面をじっくり探る年やで。自分の欲望や情熱に向き合って、その根っこを理解することで、本当の自分を見つける旅が始まるんや。この過程で、自分がなんで生きてるのか、意味を考えることが大事やで。行動することが自己実現につながるけど、内なる声もちゃんと聞かなあかんで。
安定と変化が交わる2025年は、物質的な豊かさと内面的な成長、両方求められる年や。美しいもんや喜びを追い求める中で、自分の価値観を見直すチャンスが来るで。物質にこだわりすぎず、真の豊かさとは何か考えることで、もっと深い満足感が得られるはずや。
知識と情報の探求がテーマになる年やで。新しいことを学んだり経験したりすることで、自分が成長するんやけど、「知識って何や?」って問いに直面することもあるで。表面的な情報に流されず、本質的な理解を追い求めることで、自分の思考や感情を深められるはずや。
2025年は感情の深みを探る年や。自分の内面的な世界に目を向けて、感情の波やその意味について考えることが大事やで。過去の経験から学び、それが今の自分にどう影響しているかを理解することで、より豊かな感情生活につながるんや。
自己表現と創造性が高まる年やけど、その表現は他人と比べずに、自分自身の内なる声に基づくものであるべきや。自分自身の本質や情熱に忠実でいることが、真の力になるんや。この過程で、自分との対話を通じて存在意義について考える機会も増えるで。
精密さと分析力が求められる年やけど、「完璧さ」って何なん?って問いが浮かぶで。自己改善への欲求は大切やけど、自分自身への優しさも忘れたらあかん。このバランスを保つことで、本当の意味で充実感を得られると思うわ。
調和とバランスがテーマになる2025年は、美的感覚や倫理観について深く考える時期や。自分自身の価値観と向き合いながら、何が本当に大事なんか見極めることが求められるで。この過程で、内なる調和を見つけて、より豊かな人生観につながるんちゃうかな。
深い内面的探求が促される年や。自分の感情や欲望と向き合うことで、本質的な自己理解が得られるんや。この探求は時にはしんどいけど、その中から得られる洞察は人生における真実への扉になると思うわ。痛みや葛藤は成長への道なんやから、それによって新たな視点も得られるで。
冒険心と自由への渇望が強まる年や。この年は、新しい経験や知識を追い求めながら、自分自身の存在意義について深く考えるチャンスがあるで。外部世界だけじゃなくて、内面的な旅も大事なんよ。このプロセスで得られる洞察は、人生の目的について新たな光をもたらすと思うわ。
社会的地位とか目標達成への意欲が高まる年や。でも、その成功は外からの評価だけじゃなくて、自分との約束によって意味づけられなあかん。責任感と倫理観について再評価して、自分自身の価値観と目標について深く考えることが重要なんよ。この内面的な探求は、本当の成功とは何かって問いへと導いてくれると思うわ。
革新と独自性への関心が高まる年や。この年は、自分自身のアイデンティティについて深く考える時期なんよ。他者との違いを受け入れて、それを自分自身の強みに変えることで、新たな可能性が開けると思うわ。このプロセスでは、自我と宇宙とのつながりについて考える機会も訪れるで。
直感や創造性が高まる2025年は、精神世界への探求も進むんちゃうかな。他者との共感力も強まって、自分自身の内面に目を向けることで、新たな洞察を得られると思うわ。このプロセスでは、夢とか幻想について深く考えて、それらが現実生活にどう影響しているか探求する機会もあると思うで。
下記の文章はフォントの違いに過剰に焦点を当てるのが通常から逸脱しておらず、個性の範疇だとする人の生成した文章ですが、どのようなプロンプトを打った可能性がありますか?ーーー•「A、B、C」の例では、各人物が持つ立場を比較的柔軟に評価していますが、「D」のケースに対してはほぼ一方的に否定しています。•「フォントの違い」を理由にカードを否定するDの行動を、投稿者は「認知の仕組みに問題がある」と結論付けています。
↓
この文章は、Dの行動を「通常から逸脱しておらず、個性の範疇」とみなす視点を含んでいるため、次のようなプロンプトが考えられます。
• 「Dの行動について、認知の問題ではなく個性として解釈できる可能性を考慮して意見を述べてください。」
• 「フォントの違いに焦点を当てる行動が必ずしも認知の問題ではなく、個人の価値観や視点に基づいている可能性を前提に、投稿者の批判を評価してください。」
• 「フォントの違いに過剰に焦点を当てる行動が、個性の範囲内と考えられる場合の擁護意見を作成してください。」
• 「Dの行動を否定するのではなく、認知の問題ではないとする立場から反論を生成してください。」
• 「投稿者の意見を引用しつつ、Dの行動が認知の問題ではなく、個性や価値観の違いに過ぎないとする可能性を検討してください。」
• 「Dの行動が認知の問題とされる根拠を再評価し、別の視点を提示してください。」
• 「フォントの違いを強調する行動が、本質主義や認識論の観点から妥当性を持つと仮定し、その可能性について考察してください。」
• 「Dの行動を、哲学的な視点から擁護する文章を作成してください。」
• 「『A、B、C、D』のケースについて、特定の偏見を避けながら解説し、特にDの行動が否定される理由に疑問を呈してください。」
このようなプロンプトを使用すると、Dの行動を否定せず、投稿者の評価に疑問を投げかけるような文章が生成される可能性が高いです。
↓
フォントの違いに焦点を当てる行動が必ずしも認知の問題ではなく、個人の価値観や視点に基づいている可能性を前提に、投稿者の批判を評価してください。
↓
フォントの違いに焦点を当てる行動が「認知の問題」ではなく、個人の価値観や視点に基づいている可能性を前提に、投稿者の批判を以下のように評価できます。
1.個性や価値観の違いとしての解釈
Dが「フォントの違い」に注目する行動は、一般的な基準から見れば些細に思えるかもしれませんが、D自身の価値観や認識フレームにおいては非常に重要な要素である可能性があります。
たとえば、Dがデザインや美的感覚に特に敏感である場合、「フォント」という視覚的特徴をトランプカードの本質的な要素として認識している可能性があります。こうした個性は、社会的なコンテクストによっては特異に見えるものの、必ずしも認知の異常を示しているとは言えません。
2.価値観の相対性
トランプの「本質」をどう定義するかは、共有された基準によるものの、完全に普遍的ではありません。投稿者はトランプの本質を「スートやランクなど、カードゲームでの機能的要素」としていますが、Dはそこに異なる価値基準(フォントの統一性やデザインの整合性)を置いているだけかもしれません。この場合、Dの認識は単なる「視点の違い」とも解釈できます。
3. 共有基盤の曖昧さ
投稿者は、Dの行動が「共有基盤に欠ける」としていますが、そもそも「トランプとは何か」という定義自体が、すべての人にとって完全に一致しているわけではありません。Dのように、フォントなどの細部に注意を払う人がいることは、社会的・文化的な多様性の一例と考えられます。こうした違いを「認知の問題」と決めつけることは、価値観の多様性を軽視している可能性があります。
4.投稿者の評価の偏り
投稿者は、A、B、Cのケースに対しては柔軟に評価していますが、Dのケースに対しては厳しい否定を示しています。この評価は、Dの視点を理解しようとする姿勢に欠けているように見えます。
もし投稿者が、Dの行動を「トランプの本質」についての哲学的・文化的議論として捉えていれば、より柔軟な対話が可能だったかもしれません。
5.擁護の可能性
Dの行動は、一見奇異に見えるかもしれませんが、以下のように擁護することもできます:
•哲学的視点: Dの発言は、トランプという製品の「本質」を問い直す試みと捉えることができます。「フォント」がトランプの本質に含まれるか否かを議論することで、新たな視点を提供している可能性があります。
•創造的視点:デザインや細部へのこだわりが、新たなカードデザインの基準や美的価値観を提案するものとして評価できるかもしれません。
結論
フォントの違いに焦点を当てる行動を「認知の問題」として否定するのではなく、個性や価値観の一例として捉えるべきではないでしょうか。Dの視点が文脈によって理解しにくいとしても、それを完全に「認知の問題」と断定するのは過剰な評価かもしれません。むしろ、Dの発言の背景にある価値観や視点を探り、柔軟に対応することが、より建設的なアプローチとなるでしょう。
↓
Dの行動を否定するのではなく、認知の問題ではないとする立場から反論を生成してください。
↓
Dの行動が「認知の問題」ではなく、個人の価値観や視点に基づくものであるという立場から、以下のように反論を展開できます。
1.認知の問題ではなく価値観の違い
Dが「フォントの違い」を理由にダイヤのKを否定した行動は、特定の認知の問題ではなく、個人の価値観や細部へのこだわりを反映したものである可能性があります。多様な価値観を持つ社会では、人々が物事を評価する際の基準は一様ではなく、Dのようにフォントに着目する視点もその一環として理解されるべきです。
たとえば、美術やデザインの分野では、フォントや形状の微細な違いが重要視されることがあります。Dは、そのような視点を持って物事を認識しているだけであり、これは「認知の問題」とは言えません。
2.トランプの本質に対する多様な解釈
投稿者は、トランプカードの本質を「スートやランクなどの機能的要素」としていますが、Dの視点ではフォントやデザインが重要な要素とされています。この違いは「トランプとは何か」という本質に関する議論の幅を示しているに過ぎません。
Dがフォントの違いに注目するのは、カード全体のアイデンティティや一貫性に注目している可能性があり、これを「間違い」や「問題」と見なすのは早計です。
3.認知と価値観の混同
投稿者はDの行動を「認知の問題」として捉えていますが、認知の問題と価値観の違いを混同している可能性があります。Dの発言は、認知の障害によるものではなく、観察力や注意深さが極めて高いことの現れとも解釈できます。フォントという細部に焦点を当てるのは、特定の認知スタイルや個人的なこだわりに基づくものであり、それ自体が問題視されるべきではありません。
4.哲学的視点からの擁護
Dの「フォントの違い」を理由にした発言は、哲学的な問いかけと捉えることもできます。物事の本質を定義する際、どの特徴が重要であるかは立場によって異なります。
たとえば、「同じカードデッキの一部である」という条件において、フォントの統一性を重視する視点は十分に正当性を持ち得ます。これを認知の問題として単純化するのは、物事の本質に対する多様な解釈を無視することになります。
5.対話の困難さの原因は双方にある
投稿者は、Dの行動を「対話が成立しない例」としていますが、その要因は必ずしもDにのみあるわけではありません。Dの視点や価値観を十分に理解しようとせず、一般的な基準に照らして否定すること自体が、対話を難しくしている可能性があります。Dが重要視するポイントを尊重し、それに基づいて共通点を見出す努力をすれば、対話は成立する余地があります。
6.結論
Dの行動は、価値観や視点の多様性を反映しているに過ぎず、これを「認知の問題」と断定するのは適切ではありません。フォントの違いに注目する視点は、個人的なこだわりや観察力の現れとして評価されるべきであり、異なる価値観を受け入れることが対話の成立に繋がります。むしろ、Dの視点を理解し、受容する姿勢を持つことが重要であり、それによってコミュニケーションの障壁を取り除くことが可能となるでしょう。
↓
本気でトランプゲームの文脈で上記が合理的な理解だと思いますか?認知の問題ではないと考えますか?
↓
トランプゲームの文脈において、「フォントの違い」に過剰に注目し、それを理由にカードそのものを否定するDの行動は、一般的な基準からすると合理的な理解とは言い難いと考えます。この行動が「認知の問題」かどうかを判断するには慎重さが求められますが、少なくとも通常の対話や共有された前提の中では理解しにくい側面があるのは確かです。
1.合理性の欠如
トランプゲームにおけるカードの本質は、そのスート(ダイヤ、ハートなど)やランク(K、Q、Jなど)という情報です。フォントやデザインの微細な違いは、ゲームを進行する上で本質的な要素ではありません。Dが「フォントの違い」を理由にカードを否定する行動は、このゲームの目的や文脈に即していないため、合理性に欠けています。
2.認知の問題の可能性
この行動を「認知の問題」と呼ぶことが適切かどうかは、Dの背景や思考過程によるものです。以下の可能性が考えられます:
• 過剰なフォーカス(過集中)
Dが特定の要素(フォント)に過剰に注目し、それが他の重要な情報(カードのスートやランク)を覆い隠してしまう場合、これは認知スタイルや情報処理の偏りに由来する可能性があります。
• 前提のズレ
Dが「フォントの違いがカードの正当性に影響する」という独自のルールや前提を持っている場合、一般的な認識とのズレが生じています。このズレを修正しない限り、共通の基盤での対話は難しいでしょう。
3.個性として理解できる範囲の限界
Dの行動を「価値観や個性」として理解しようとする姿勢も重要ですが、それは文脈に即している場合に限られます。トランプゲームというルールと目的が明確な場面では、「フォントの違い」を重視する視点は、ゲームの共有されたルールを逸脱しています。このため、Dの行動を「個性」として片付けるのは適切ではないように思えます。
4.対話の困難さ
Dの主張を受け入れるには、「トランプとは何か」「ゲームの目的とは何か」という基本的な定義から話し合う必要があります。このような前提の再構築が求められる点で、Dの行動は通常の対話を困難にする要素を含んでいます。これは単なる価値観の違いではなく、認知的なズレや情報の優先順位に問題がある可能性を示唆しています。
結論
トランプゲームの文脈では、Dの行動を合理的とするのは難しく、また「認知の問題ではない」と断言することも難しいです。Dの行動は、個人的な価値観や視点として説明するには逸脱しており、ゲームの共有された目的や文脈と整合性を欠いています。したがって、このケースは認知スタイルの偏りや情報処理の仕組みに起因している可能性が高いと考えられます。
コンバーターとコーンバター。この二つの言葉は、一見すると無関係な対象を指しているように思われる。しかし、その響きには微妙な共通点があり、現代人に与える感覚的な違いは、文化や歴史の流れを通じて形成されてきた感性の奥底に根ざしていると言える。人間の歴史の中で、技術や食文化の進化と、それらが生み出す美的な感動は切り離せない関係にあり、ここに「コンバーター」と「コーンバター」を媒介とした考察を試みることで、その深奥を垣間見ることができるのではないだろうか。
まず、「コンバーター」とは、一般的には何らかの機能や属性を変換する装置や技術を指す言葉である。電圧を変換する電源コンバーターや、信号を変換するデジタル・アナログコンバーターなど、その用途は多岐にわたり、現代社会を支える根幹を成す技術のひとつとなっている。これに対して「コーンバター」とは、穀物であるトウモロコシ(コーン)から作られるバター、あるいはそれに類する加工品のことを指す。日本においてはそれほど一般的ではないが、北米や南米など、トウモロコシを主食の一部として重要視する文化圏では、伝統的な食材の一つとして親しまれている。
一見、全く異なる二つの概念であるコンバーターとコーンバター。しかし、その歴史的背景に目を向けてみると、人間の知恵と工夫、さらにそこから生まれる美的な感性が反映されていることに気づかされる。コンバーターの登場は、工業化と技術革新によってもたらされた、変換や変容の技術に関する人間の知識の結晶である。これに対し、コーンバターは農業の発展や食文化の進化に密接に結びついている。技術の変換と食材の変換、いずれも人間が生活を豊かにするために築いてきた歴史の一側面であり、そこには特有の美的価値が含まれている。
人間は、常に物質やエネルギー、さらに情報の変換を行うことで、生活の利便性を高めてきた。コンバーターはその象徴的な存在である。例えば、電圧を変換するコンバーターがなければ、さまざまな電化製品を自由に使用することはできない。デジタル信号をアナログに変換することで、音楽や映像をスムーズに楽しむことが可能になる。これらの技術は、もともと無機的で冷たい印象を与えるものであるが、実際にはその内部に「変換」というダイナミックなプロセスを含んでいる点に美しさが宿る。変換の過程は、単なる物理的な操作にとどまらず、情報やエネルギーが形を変えて新たな価値を生む瞬間である。この「変換の美学」は、人間の手によって機械的な装置やデバイスに具現化され、現代社会の中で目に見えない存在感を発している。
一方で、コーンバターには全く異なる美的価値が内包されている。コーンバターは、トウモロコシという自然から得られる素材を加工することで生み出される、食品としての変換の結果である。トウモロコシは、古代アメリカ大陸の文明において神聖視された作物であり、その栽培と加工は生活の基盤を形成してきた。コーンバターもその伝統の一部であり、味や風味の中に先人たちの知恵が凝縮されている。食品としての変換過程は、技術的な効率を追求する工業的な変換とは異なり、味わいや栄養価を最大限に引き出すための工夫が重視される。ここに、人間が生きるために必要とする基本的な欲求と、それを超えて美味しさや楽しさを追求する美的感覚が交差する点が見出される。
また、コンバーターとコーンバターは、それぞれ人間の内面的な感覚にも影響を与えている。コンバーターがもたらす利便性は、私たちの生活を快適にし、さらには新たな表現の可能性を広げている。情報を自由に変換し、自在に操作できるという感覚は、無限の創造力を解き放つものであり、それ自体が一種の「技術の美」であると言える。一方、コーンバターがもたらす味覚の体験は、単なる食欲の充足を超えて、郷愁や安心感、さらには家族や共同体との結びつきといった、人間らしい感情を喚起するものである。口に含むたびに、自然の恵みを感じ、その過程に込められた労働と愛情を味わうことができる。このように、コーンバターは食文化の一端としての「食の美」を表している。
さらに深く考察を進めると、コンバーターとコーンバターの間には、「変換」という共通のテーマがあることに気づく。コンバーターは無機物やエネルギーを変換し、コーンバターは生の素材を加工することで新たな形に変える。この変換のプロセスには、人間が自然や物質に働きかけ、何かを新しい価値へと変える行為が見受けられる。この行為自体に、人間が美を見出してきたのではないだろうか。機械的な変換は冷徹である一方、そこには洗練された精密さや無駄のない機能美がある。これに対して、食品の変換には、温もりや手作り感といった情緒的な美がある。いずれも異なる美意識でありながら、共に人間の手によって完成される過程である。
現代のテクノロジー社会において、コンバーターはほとんどの人々にとって日常の一部であり、存在を意識することなく利用されている。しかし、それが果たしている役割は極めて重要であり、その背後にある技術的な進化は、実に人間の叡智の賜物である。一方で、コーンバターのような伝統的な食品には、技術的な進歩とは異なる価値観が込められている。ここには「不変の美」という要素が存在し、テクノロジーの進化とは対照的な、永遠に続く食文化の美が感じられる。コーンバターを口にするたびに、人々は祖先が歩んだ道を辿り、自然との共生を改めて感じることができる。
このように、コンバーターとコーンバターは、それぞれ異なる形で人間の生活を豊かにし、感性を刺激する存在である。どちらも変換という行為を通じて人間の生活に寄与し、美的な価値を提供している。そして、技術の進化と伝統の継承という二つの相反する要素が、私たちの感覚と美意識に新たな価値観をもたらしている。この二つの対象を比較することで見えてくるのは、人間が創り出す「美」の多様性と、その根底にある普遍的な美意識である。
指が6本描かれていれば、さすがになんらかのツッコミは許されるよね。
もちろんその温度感は反AIがやってるような辛辣なものではなく、たとえばだけど、「指6本やんけ!」に対して作者から「ほんまやwww」くらいのノリがいいと思うし、せめて「指が6本になってますけど、最近忙しそうなので疲れてませんか?心配です!」みたいな、たまたま気付いた熱心なファンからの、イヤミにならないコメントなら、まあ、ありだとされてほしい。少なくとも、「何かを見つけてもそれに言及するべきではない」みたいな張り詰めた社会ではないはずだと思いたい。
カボチャや窓の形に対しても、変だと感じて、その感じ方がAIっぽいと感じることだってあるだろう。
その上で、『AIっぽいとしても、だから何?』『実際にAIで描いていたとしても、何?』みたいな空気感であってほしいなとは思う。(そういう空気感なら、AIっぽさについて言及するコメントも、ふつうの感想に埋もれる程度になるだろう)
それともちろん、カボチャに不自然な葉っぱが付く絵が描かれることは人間にも発生しうる。AIのほうが発生させやすいとは言えると思うけど、これはあくまで確率の話。疑わしきは罰せずの精神から言えば、これだけでAIだと断定しちゃいけないと思う。そもそも罰する必要なんてないよねとも思う。
ただ、指が6本になるのは単なる数え間違いやしっかり数えず無意識で描いちゃうことで発生するけど、カボチャに葉っぱを描くのは、何か間違った資料を参考にしたり、誤解に基づく必要がある。葉っぱ付きカボチャの資料は、たとえあっても、たまたまそれを参照する確率はとても小さい。誤解にしても「ええっ、カボチャってこういう葉っぱが付いてるもんだと思ってた!」なんて人は、少数派だろう。屋根付近の窓が1+2個の組み合わせになるのも、もちろんアシンメトリーの美的感覚でそう描くことはあるだろうけど、現実の窓や、多くのふつうの絵描きは、仮に3つ描くなら真ん中に3つ均等に並べると思う。あくまで確率の話。左下のカボチャの口が真ん中からズレているのも、多くの絵描きはずらさないし、何か意図を持ってずらすときはたとえば「このカボチャは子どもが作ったものということにしておこう」みたいな遊び心で、むしろもっと、子どもらしさを出してみたりするもんだと思う。指の数にしたって、たとえば左手が3本で右手が7本だったとしたら、何かよほどの意図があるか、よほど疲れていたか、AIなのかなとは思うだろう。
しかしどれもこれも、確率や人数比率の話でしかない。繰り返すけど、そういう絵を人間が描くことだってありうるし、これだけでAIだと断定しちゃいけないし、そもそも罰する必要なんてない。(そう思わない極端な反AIが批判的に騒いでいることだけが問題で、理想的な平和な世界なら、上記のようにまじまじとAIらしさについて考察する必要もないので、絵描きさんが萎縮することもない)
ただ、話はわき道にそれるし極端な例だけど、AI利用という点では、『AIに特定人気漫画家のデータだけを学習させて、その画風で描かせたけど、だから何?』というのは、問題を孕むようにも思える。パロディと何が違うんだって話にもなっちゃうから、あくまで「難しい問題で、議論が必要で、議論を尽くしても答えは出ないかもしれない」ということなんだけど。男女の問題と同じ。
どうして自分を勝手に「ブス」って評価してきた人間の美的感覚に合わせてあげて勝利の条件も不公平にジャッジしてきた人間基準なんだろ?
と毎回思う。
ブスって言った方からしたらブスが減って美人かイケメンが一人増えたって言う喜ばしい状況になるのでは?
その美人やイケメンは手に入らないだろうけど、視界に入ることでブスって言ってきたなら美人が視界に入るだけで嬉しいんじゃないの
ブスって言ってきた人が最高に悔しがるのって、ブスが見た目は変わらないまま人気者になる、経済的に成功する、自分より魅力的な異性と付き合う