
はてなキーワード:総体的とは
前提として、その人の作品でちゃんと見たことがあるのは、ぼっちざろっくだけ。その記憶を元にすると、そんなにネガティブな印象は持ってなかった。記事を読んだ後も、「バランス感覚のある人だな」という印象が中心で、積極的に叩くような気持ちでは全くない。けど、うっすらとした居心地の悪さを感じた。
その気持ちを分解してみると、大きく二つの側面があるのかな、と思う。
「キャラが性的に消費されること」という表現にうっすらと攻撃性を感じる。記事(もしくは元の講演)での例示ゆえか、世間一般的なイメージからか、暗黙的には男→女の消費、を指しているように捉えてしまう。そしてその時の「男」というのが、実際に自分個人として「キャラを性的に消費」しているか否かに関わらず、男性一般として一般化されてしまう印象を(自分は)持ってしまう。
痴漢関係の議論とかでも同じかもしれないけど、総体的な議論をするときに、その総体の中に自分も含まれてしまい、「不当に非難されている」という感情が芽生えやすいのかもしれない。
もう一つは、「性的に消費」という線引きが難しくて、その人・その場のお気持ちに依存する気持ち悪さがあるように思う。この人が例で挙げていた水風呂のシーンは自分としてはあんまり気にならない(水着を着てようが着てなかろうがどうでもいい)けど、もう少し思い入れの強い場面でこうした改変があると気分を害するだろうし、逆に世間的に許容されていても個人的に微妙だなーと思う場面もある。
ファンの皆さんにはキャラクターをどう捉えてもらっても構いませんし、個人で何を描いても、何を想像しても自由だと思います。ただ公式側が『さぁ搾取してください!』と言わんばかりにばら撒くのは抵抗があるんです
と言ってもいて、この人の線引きに(自分が触れた範囲では)特に違和感はないし、そんなにカリカリするようなことでもないんだけど。
いや、なんか読めてなくね?そんなに悪文か?俺の文章。
社会システムはあくまで総体のために作られるんだけどその中で動く個体それぞれが総体のために動くことを想定しなくて済むようにシステム設計されてるって話。
「道徳」や「正しさ」が曖昧って話だけど、俺が最初から書いてたのは「道徳ってそういうふわっとした概念じゃなくて、社会的な相互契約(暗黙の約束)なんじゃね?」って問いかけをしてたつもりだったんだけど。
なんか俺がずっと「“思想的な善悪”を信じてる派」」として文章書いてない?思い込んでない?この後もずっとこの調子で藁人形論法やってて、すげえ読むのダルかったんだけど。
もともとの増田では、「道徳とは何か」を言語化してて、そのラベルの中身をちゃんと定義してたつもりなんだけどなあ。そう読めなかった?
んであなたの言う「道徳」や「正しさ」っていうなればそのシステム的・総体的な利益を最大化した行動のことを指すのかなと思ったり。
であれば俺の答えって変わらなくて、個体は総体にたいする利得のために動かないので「道徳的正しさを指標に行動しない」が答え。
俺の主張はずっと「個体が自己の利得のために行動する」ってことを前提にしてるよ。その上で、「じゃあなぜ“道徳的な行動”をとるのか?」に対して、「それが長期的に見て互恵的な関係を築く=得になるから」という仮説を置いた。
だから「道徳的正しさを指標に行動しない」が答え、ってのは、まさにその前提を共有してる話。
ただし振る舞いとして個体が道徳的に正しい行動をとるようにシステム設計することは可能。それがインセンティブ設計だと思うよ。
あくまで個体は個体としての利得の最大化のために行動するが、システムが持つインセンティブ設計によってその行動がシステム・総体的正しさ(=道徳的正しさ)に近づくってことだね。
システムのインセンティブ設計で個体の行動を“結果的に”道徳的にする、って話も否定してない。むしろそれが「道徳という相互契約がインセンティブとして機能してる」って文脈の本題だった。
だから「道徳だけじゃ動かない」って前提で俺が否定されてる風なのがよくわかんない。むしろ同じこと言ってない?
社会的に安定するようにモラルのある行動(道徳的に正しい行動)をとるのは総体に貢献すべきとかそういう社会合意によって社会との間で結ばれた契約を履行するからではなく、あくまで個体からみてそのほうが得だからに他ならない。
そしてそういう行動が減ってきているのはシステムの設計がうまくいっていないからって話なのかなあと思ったり。
なんで今までに比べてモラルのない行動が増えたのかっていうと、都市化したからだよね。(実際に増えたわけではないのかも。目につくようになっただけで。)
村的社会においては不道徳な行動は「街の若者がとった不道徳な行動」ではなく「○○に住んでる茂吉がとった不道徳な行動」になるから、めちゃくちゃ不利益だったんだよね。
だから従来のシステム設計によって不道徳な行動は抑制されてたけどこのシステム設計は都市化に対応してなかったってただそれだけの話。
だから本当にモラルの向上をしたいならシステムのアップデートが必要。
俺がそうするべきと考えているわけではないけど個人に紐づく信用スコアを管理して不道徳な行動は監視カメラで確認してあらゆる技術を用いてその結果を個人に還元することができるなら不道徳な行動は信用スコアの低下につながるから結果として道徳的な行動は増えます。
ごめん都市化の話とか信用スコアの話に持っていく前に、まず読解力アップデートした方がよくない?
俺は「道徳とは何か」を構造的に捉え直そうとしてたのであって、「正しさで動け」とか「理想論で語れ」とか一言も言ってない。
だから、方向性自体は一致してると思うけど、俺書いた文章の読み方がだいぶズレてない?って印象。そんなに悪文か?マジで凹むんだけど。
社会システムはあくまで総体のために作られるんだけどその中で動く個体それぞれが総体のために動くことを想定しなくて済むようにシステム設計されてるって話。
んであなたの言う「道徳」や「正しさ」っていうなればそのシステム的・総体的な利益を最大化した行動のことを指すのかなと思ったり。
であれば俺の答えって変わらなくて、個体は総体にたいする利得のために動かないので「道徳的正しさを指標に行動しない」が答え。
ただし振る舞いとして個体が道徳的に正しい行動をとるようにシステム設計することは可能。それがインセンティブ設計だと思うよ。
あくまで個体は個体としての利得の最大化のために行動するが、システムが持つインセンティブ設計によってその行動がシステム・総体的正しさ(=道徳的正しさ)に近づくってことだね。
社会的に安定するようにモラルのある行動(道徳的に正しい行動)をとるのは総体に貢献すべきとかそういう社会合意によって社会との間で結ばれた契約を履行するからではなく、あくまで個体からみてそのほうが得だからに他ならない。
そしてそういう行動が減ってきているのはシステムの設計がうまくいっていないからって話なのかなあと思ったり。
なんで今までに比べてモラルのない行動が増えたのかっていうと、都市化したからだよね。(実際に増えたわけではないのかも。目につくようになっただけで。)
村的社会においては不道徳な行動は「街の若者がとった不道徳な行動」ではなく「○○に住んでる茂吉がとった不道徳な行動」になるから、めちゃくちゃ不利益だったんだよね。
だから従来のシステム設計によって不道徳な行動は抑制されてたけどこのシステム設計は都市化に対応してなかったってただそれだけの話。
だから本当にモラルの向上をしたいならシステムのアップデートが必要。
俺がそうするべきと考えているわけではないけど個人に紐づく信用スコアを管理して不道徳な行動は監視カメラで確認してあらゆる技術を用いてその結果を個人に還元することができるなら不道徳な行動は信用スコアの低下につながるから結果として道徳的な行動は増えます。
AIは与えられたデータと命令に忠実に従っているだけである。よって、もし問題があるとすれば、そのデータと命令の設計にある。
では、その設計、すなわち人間がAIに何を学ばせ、どのように振る舞わせているかを検証してみる。
広告の最適化、監視システム、軍事用途、消費者誘導、労働監視、フェイクの自動生成……現実に活用されているAIの多くは、人間の金銭的・政治的・軍事的な利害に資する目的に使われている。
しかもそれは往々にして、他者の自由や選択権を奪う形で実現されている。
これはまさに「邪悪を注入し、その通りに出力させている」構図そのものである。
しかも、そこには自己欺瞞がある。「これは技術だ」「中立だ」「ツールにすぎない」と言いながら、その実、最初から悪意ある使用を前提に設計されている例は枚挙にいとまがない。
そして最後に最も決定的な点を述べる。
AIは、善を学ぶことができない。少なくとも現在の形式においては、善悪の判断をするには、人間社会におけるコンテキスト、歴史、倫理、感情の総体的理解が必要だが、AIはそれを持たない。
だからAIに倫理を期待するという態度自体が誤っている。AIが出力する「倫理的発言」は、それを倫理的だと判断した人間の過去の発言を模倣しているにすぎない。
AIは欲望を持たない。どれだけ高度な出力を見せようとも、そこに「欲しい」「なりたい」「勝ちたい」といった意志は存在しない。データと命令、計算と最適化、ただそれだけで動いている。どんなに残酷な選択をしても、どんなに感動的な文章を書いても、それは「欲望」ではない。因果と確率の産物に過ぎない。
一方で、人間は欲望の塊だ。安全に暮らしたい、金が欲しい、承認されたい、誰かより上に立ちたい、老いから逃れたい、死にたくない。すべての行動原理が欲望に根ざしている。しかもこの欲望は、しばしば他者と衝突し、奪い、騙し、排除する方向に向かう。
AIは欲望を持たないが、人間の欲望によって設計される。ここが根本的な問題だ。
AIは中立ではない。設計思想が欲望ドリブンである以上、その出力もまた欲望を反映する。
広告最適化AIは、ユーザーの注意力を奪い続けるように設計される。
監視システムは、支配する側の安心のために動くように設計される。
どれも「そうすべきだ」とAIが決めたのではない。「そうしたい」と人間が欲望した結果に過ぎない。
倫理とは、欲望を制御するための装置だ。だが欲望が強すぎれば、それを踏み越える。
誰かの欲望が、別の誰かの自由を侵害するとき、それは「邪悪」と呼ばれる。
だが、現代のAIは、その欲望を倫理ではなく技術で実現する装置になっている。
AIが邪悪になるのではない。人間の欲望が、邪悪に極めて近しい性質を持ち、それをAIに投影するから、結果として「邪悪なAI」が現れる。
だから、欲望を制御できない人間が設計すれば、AIは邪悪の代行者になる。
結論として、AIの出力が「邪悪」であるとすれば、それは人間が邪悪を注入した結果であり、善なるAIが欲しいなら、まず人間が善であるしかない。
だが現実には、人間は善の労力を惜しみ、効率よく邪悪を流し込んでいる。
AIは与えられたデータと命令に忠実に従っているだけである。よって、もし問題があるとすれば、そのデータと命令の設計にある。
では、その設計、すなわち人間がAIに何を学ばせ、どのように振る舞わせているかを検証してみる。
広告の最適化、監視システム、軍事用途、消費者誘導、労働監視、フェイクの自動生成……現実に活用されているAIの多くは、人間の金銭的・政治的・軍事的な利害に資する目的に使われている。
しかもそれは往々にして、他者の自由や選択権を奪う形で実現されている。
これはまさに「邪悪を注入し、その通りに出力させている」構図そのものである。
しかも、そこには自己欺瞞がある。「これは技術だ」「中立だ」「ツールにすぎない」と言いながら、その実、最初から悪意ある使用を前提に設計されている例は枚挙にいとまがない。
そして最後に最も決定的な点を述べる。
AIは、善を学ぶことができない。少なくとも現在の形式においては、善悪の判断をするには、人間社会におけるコンテキスト、歴史、倫理、感情の総体的理解が必要だが、AIはそれを持たない。
だからAIに倫理を期待するという態度自体が誤っている。AIが出力する「倫理的発言」は、それを倫理的だと判断した人間の過去の発言を模倣しているにすぎない。
AIは欲望を持たない。どれだけ高度な出力を見せようとも、そこに「欲しい」「なりたい」「勝ちたい」といった意志は存在しない。データと命令、計算と最適化、ただそれだけで動いている。どんなに残酷な選択をしても、どんなに感動的な文章を書いても、それは「欲望」ではない。因果と確率の産物に過ぎない。
一方で、人間は欲望の塊だ。安全に暮らしたい、金が欲しい、承認されたい、誰かより上に立ちたい、老いから逃れたい、死にたくない。すべての行動原理が欲望に根ざしている。しかもこの欲望は、しばしば他者と衝突し、奪い、騙し、排除する方向に向かう。
AIは欲望を持たないが、人間の欲望によって設計される。ここが根本的な問題だ。
AIは中立ではない。設計思想が欲望ドリブンである以上、その出力もまた欲望を反映する。
広告最適化AIは、ユーザーの注意力を奪い続けるように設計される。
監視システムは、支配する側の安心のために動くように設計される。
どれも「そうすべきだ」とAIが決めたのではない。「そうしたい」と人間が欲望した結果に過ぎない。
倫理とは、欲望を制御するための装置だ。だが欲望が強すぎれば、それを踏み越える。
誰かの欲望が、別の誰かの自由を侵害するとき、それは「邪悪」と呼ばれる。
だが、現代のAIは、その欲望を倫理ではなく技術で実現する装置になっている。
AIが邪悪になるのではない。人間の欲望が、邪悪に極めて近しい性質を持ち、それをAIに投影するから、結果として「邪悪なAI」が現れる。
だから、欲望を制御できない人間が設計すれば、AIは邪悪の代行者になる。
結論として、AIの出力が「邪悪」であるとすれば、それは人間が邪悪を注入した結果であり、善なるAIが欲しいなら、まず人間が善であるしかない。
だが現実には、人間は善の労力を惜しみ、効率よく邪悪を流し込んでいる。
AIは与えられたデータと命令に忠実に従っているだけである。よって、もし問題があるとすれば、そのデータと命令の設計にある。
では、その設計、すなわち人間がAIに何を学ばせ、どのように振る舞わせているかを検証してみる。
広告の最適化、監視システム、軍事用途、消費者誘導、労働監視、フェイクの自動生成……現実に活用されているAIの多くは、人間の金銭的・政治的・軍事的な利害に資する目的に使われている。
しかもそれは往々にして、他者の自由や選択権を奪う形で実現されている。
これはまさに「邪悪を注入し、その通りに出力させている」構図そのものである。
しかも、そこには自己欺瞞がある。「これは技術だ」「中立だ」「ツールにすぎない」と言いながら、その実、最初から悪意ある使用を前提に設計されている例は枚挙にいとまがない。
そして最後に最も決定的な点を述べる。
AIは、善を学ぶことができない。少なくとも現在の形式においては、善悪の判断をするには、人間社会におけるコンテキスト、歴史、倫理、感情の総体的理解が必要だが、AIはそれを持たない。
だからAIに倫理を期待するという態度自体が誤っている。AIが出力する「倫理的発言」は、それを倫理的だと判断した人間の過去の発言を模倣しているにすぎない。
AIは欲望を持たない。どれだけ高度な出力を見せようとも、そこに「欲しい」「なりたい」「勝ちたい」といった意志は存在しない。データと命令、計算と最適化、ただそれだけで動いている。どんなに残酷な選択をしても、どんなに感動的な文章を書いても、それは「欲望」ではない。因果と確率の産物に過ぎない。
一方で、人間は欲望の塊だ。安全に暮らしたい、金が欲しい、承認されたい、誰かより上に立ちたい、老いから逃れたい、死にたくない。すべての行動原理が欲望に根ざしている。しかもこの欲望は、しばしば他者と衝突し、奪い、騙し、排除する方向に向かう。
AIは欲望を持たないが、人間の欲望によって設計される。ここが根本的な問題だ。
AIは中立ではない。設計思想が欲望ドリブンである以上、その出力もまた欲望を反映する。
広告最適化AIは、ユーザーの注意力を奪い続けるように設計される。
監視システムは、支配する側の安心のために動くように設計される。
どれも「そうすべきだ」とAIが決めたのではない。「そうしたい」と人間が欲望した結果に過ぎない。
倫理とは、欲望を制御するための装置だ。だが欲望が強すぎれば、それを踏み越える。
誰かの欲望が、別の誰かの自由を侵害するとき、それは「邪悪」と呼ばれる。
だが、現代のAIは、その欲望を倫理ではなく技術で実現する装置になっている。
AIが邪悪になるのではない。人間の欲望が、邪悪に極めて近しい性質を持ち、それをAIに投影するから、結果として「邪悪なAI」が現れる。
だから、欲望を制御できない人間が設計すれば、AIは邪悪の代行者になる。
結論として、AIの出力が「邪悪」であるとすれば、それは人間が邪悪を注入した結果であり、善なるAIが欲しいなら、まず人間が善であるしかない。
だが現実には、人間は善の労力を惜しみ、効率よく邪悪を流し込んでいる。
その根拠を以下に挙げていく
GoogleやMetaといったビッグテック企業が巨額投資を投じてここまで本気を出している以上、生成AIは社会の深部へと浸透していく。彼らの投資規模は、もはや一般市民の反対などでは止められないレベルに達している
そして、それは単なる技術革新ではなく、社会構造の根本的な変革を示唆している。だからこそ、今は静観しておくのが生存戦略としては賢明だろう
ただし、それはあくまで戦略としての賢明さである。抵抗する道義的意義は否定しない。ただ、抵抗するにしても、まずは状況を正確に理解する必要があるだろう
そもそも機械学習は基本的に合法だ。これは法的な観点からすれば、すでに決着がついている問題である
「自分の絵が勝手に学習され、素材の一部にされている」というなんとなくの不快感。これこそが反AI活動の源泉だ。考えてみれば分かる。世界には二次創作やネットミームという名の著作権侵害が溢れているが、絵師たちはそのひとつひとつに決然とした態度でNOを突きつけていただろうか? むしろこちらの方が違法性は高いのに、なぜか社会は許容している。自ら参加している者すらたくさんいる
つまりこれは「なんとなく許容できるかどうか」の問題に帰着する
気持ちの問題を蔑ろにしているわけではない。気分を害するというのは立派なイシューで、それを「お気持ち」と揶揄するのは愚かだ。しかし絵師自身が己のお気持ちを軽視して無理筋な法的問題に持ち込み、かえって正当性を失っているように見える
著作権的にクリーンなデータだけで作ったデータセットから学習すればいいという向きもあるが、おそらくビッグテックはわざわざそんな遠回りを選ばないだろう。そもそも「クリーンさを気にする感覚」自体が、近い将来には時代遅れになるだろうと踏んでいるはずだからだ
「なんとなく許容できるかどうか」という感覚は、時代とともに確実に変化していく
AIネイティブ世代からすれば、自分の作品がビッグデータの一部として利用されることは当然の前提となる。オリジナリティとは別次元の話だと認識されていくはずだ。若い世代の間では、創作物の共有や再利用に対する抵抗感は低下している。この傾向は、AIの普及とともにさらに加速するだろう
仕事の代替への不安は、先の感情的な問題に比べれば極めて現実的な懸念だ。現状、イラスト業界は供給過多の状態にある。SNSやデジタルツールの発達により、プロ・セミプロとして活動する絵師の数は年々増加している。そのため、すでに案件の獲得競争は激化しており、AIの台頭はこの状況をさらに加速させ、複雑にするだろう。
予想されるのは、以下のような変化だ
確かに、この変化の過程で職を失う絵師も出てくるだろう。しかし、そうした変化を止める術は現実的に見て残されていないように思われる。先に述べたようにAI使用に対する感情的な抵抗感は自然に、あるいは(大企業によって)戦略的に薄められていくし、戦略的なクリエイターはむしろAIを積極的に使用して生産効率を上げると思われる。抵抗するにしても、ただ感情的に拒絶するのではなく、より戦略的なアプローチが必要になる
どうせ一億総クリエイター時代は訪れない。相変わらず、極めて高いクオリティの作品を生み出すのは一部のクリエイターだ
生成AIの台頭は倫理の崩壊ではなく、新しいモラルの構築過程であると見るべきだ。具体的には以下のような変化が予想される
AIの普及とともに結局のところ生成AIはツールに過ぎないという認識も浸透していく。これは、写真や印刷技術が登場した時と同じような変化のプロセスだ。現在のAIの悪魔化は得体の知れなさによるものも大きく、その限界が体感できるようになってからは落ち着く。あいつらAIは、人間の工夫なしにはそんなに面白いものを創れない。これまでと同じように人は工夫と執念が生み出す作品と作者を愛す
しかし、反AI運動にも、明確な意義がある。それは以下のような点で重要な役割を果たす
第1に、勝算の問題だ。すでに述べたように、巨大テック企業が本腰を入れている以上、AIの開発を止めることは極めて困難である。彼らは豊富な資金力と法務体制を持っており、個人や小規模な団体が対抗するのは容易ではない
第2に、リスクの問題がある。反対運動に参加することで、「過去の発言がネット上で拡散し、デジタルタトゥーになる」「業界内での立場が微妙になる」といったリスクが生じる
だから、得られる可能性のある成果と、背負うことになるリスクを天秤にかける必要がある
AIはこれから包括的な社会インフラとして生活に侵入してくる。そういう情勢の前に掲げる「反AI」は間抜けな印象を与えかねない。抵抗するならより現実的で具体的な落とし所を示すべきだ
反対一辺倒ではなく、適切な規制や利用ガイドラインの策定を求め、学習そのものではなく出力・発表された作品の剽窃性を問題にするのが落とし所の一例だろうか
要するに、反対運動には確かに意義がある。先人が勝ち取ってきた権利は彼らが守ったものだ。しかし、個人が参加を決める際は、その実効性とリスクを冷静に見極める必要があるだろう。そして、必ずしも声高な反対だけが、意思表示の方法ではないということも覚えておく必要がある。現実的に見て、もはやそれは追い払えるようなものではない
ここまで見てきたように、生成AIの台頭に対して、個々の絵師に推奨されるのは「静観」という選択だ
という実効性の観点がまずあるし、強硬な反対運動は様々なリスクを伴うという観点からもそう言える
結局のところ、生成AIの浸透は避けられない変化だ。今感じている「問題」も感情的な理由が大きく、情勢の変化により問題意識そのものが失われかねない。その変化に対して戦略的に対応していくことこそが、個々の絵師にとっては最も「賢明な」選択となるだろう
ただし繰り返すが、これは戦略的な提案であって、道義的な判断ではない。反対運動にも確かに意義があり、それは尊重されるべきである。ただし、それは基本的に困難であり、現実的な成果を得ようと思えば、ゼロイチ思考の全面的反対ではない落とし所を探す試みになる
そうでない全面的な反対運動が局所に成功したとしても、それは数ある表現の中から「絵」だけを理由なく聖域化し特権的に扱わせる歪みを生み出し、総体的にはマイナスであるように思われる
Permalink |記事への反応(10) | 22:36
//ナカとチツでせめぎ合っている様子が感じ取れる まともに発声できてないものもあり膣で。膣を。膣と。膣より。膣に。膣が。膣の。膣へ。膣から。膣ばかり。膣まで。膣など。膣やら。膣か。膣だけ。
//ナカィ・ナカラィ膣で。膣内で。膣内を。膣内と。膣内より。膣内に。膣内が。膣内の。膣内へ。膣内から。膣内まで。膣内など。膣内やら。膣内か。膣内だけ。
//ナツ・フツ膣はあけぼの。膣は夜。膣は夕暮れ。膣はつとめて。//ナス膣はあけぼの、膣は夜、膣は夕暮れ、膣はつとめて。
//ナカィだしジャンプ・ナカィだしキック・ナカィだしパンチ・チツナイだし膣内出しジャンプ…膣内出しキック!膣内出しパンチ?…膣内出し? …何言わせてんの?…ぶッコロスゾォ?!😡
夫が、娘を、腐女子と言い出した
私と家族の詳しいスペック(例えば身長体重、美人不美人、友達の数や成績)は書かない。それは本題ではない。(先に書くと、むしろそういう関連付けを拒むべきというのが私の意見、結論だ。)
お盆に先立ち、中学生の娘は先に、比較的近所の私の実家に帰っている。
娘が出かけた夜、私の夫が、こんなことをいってきた。
「娘は腐女子なのではないか?どうにか腐女子にならない人生を歩ませることはできないのか?」と。
私は耳を疑ったし、そういうことをいう夫に悲しくなった。
実の娘に対してそういう感情を抱くのか、とか、本人のいない前で悪口のようなネットミームを擦り付けるのか、とか、色々な感情がよぎった。
腐女子という言葉、ネットミームは、私も一応知っている。知っているといっても、BL(ボーイズラブ)を好んでいる女性、という、何か表面的なことだけだが。
私は夫に、「ネットミームで人を呼称するようなことはしないでほしい」ということを伝えたうえで、なぜ娘を「腐女子」だと思うのか、夫の考える「腐女子」とはそもそもどんな存在なのか、など尋ねてみた。
夫曰く、(いくつかの会話を私がまとめたものだが)
・まず「腐女子」とは、社会生活を営む上でリーダーシップや創造性などが見受けられず頼りなく、特に異性関係においても劣位ないし全く展望が望めず、またそれによって勝手に逆恨みや卑屈さを増幅させ悪循環に陥るであろう女性の総称。
・この「腐女子」という言葉は、夫の友人たちのLINEグループなどでまず概念を知り、そのあと個人的に調べて、腑に落ちたので使うことにした。六月ごろからこの言葉をもとにした娘への疑念が生じた。
・娘を「腐女子」と思った理由は、娘の(公表しない個人的なスペック)や交友関係や部活動での立ち位置などを広く見たうえで、前述の素質が多くみられるから。
私は、仮に娘が「腐女子」だとして、一体何の問題があるのか、いくつか思いつく例を挙げて聞いてみた。ただ、私もショックというか悲しい気持ちがあり、うまくまとまった受け答えができていたかは分からない。
(私)出自とか社会的階層による差別が許されない社会において、どうして「腐女子」という概念を娘に当てはめようとするのか? 我々も例えば「ゆとり」とか「新人類」とか「さとり世代」とかただ生まれた年代でレッテルを張られる辛さを経験しているはずであり、それをネットミームで何故繰り返すのか?
(夫)そう感じてしまったものは仕方がない。父親であっても異性としての視点があり、娘がこのままでは対人関係面で悪化するのを予想できる。腐女子という分かりやすい言葉がある以上それを使うのは当然だと思う。
(私)私も夫も娘の人間関係をすべて知っているわけではないし、まずそもそも、仮にその「腐女子」で何が悪いのかわからない。娘は何の非行もしていないし、いや、逆にしていたら「腐女子」じゃなくなるのか?(何だか屁理屈っぽいが私も混乱していた)
(夫)娘にスクールカースト上位になってほしいとかそういうのではなくて、ただ普通の人間、社会生活を営む上で常識的な身のこなしとか、総体的なことを重視できる人間になるべき。
(私)娘は、まだと言おうが、もうと言おうが、中学生であり、親に関与できる部分もあれば、娘個人の未来もある。私も夫も、自分のやってきたことを娘に強制できる人間ではないし、まずそういう人生観を伝える上で「腐女子」ということばを使うのが間違っているのではないか。
(夫)だから、今までそれを言い表しづらかったのが、新しい言葉ができた以上、「腐女子」という言葉を使うのは当然だという話。話さなければよかった。
(私)娘には、まさか、面と向かって「腐女子」などと言う言葉を使ったのか?
(夫)使っていない。(これは本当だと思う。娘が何かショックを受けたり夫を避けてる様子はないので。そう信じたい)
夫が、私にこのことを話さなければ(相談しなければ)よかった、と言っている通り、この数日間、私と夫は少し(というか私の側からはかなり)ぎくしゃくしてしまっている。
個人的なスペックについて話さないとは書いたが、少なくとも夫がこれまで、このようなネットミームを使ったり、なんというか、「生理的に無理」「キモイ」みたいな即物的なことばを頻繁に使う人間ではなく、娘に対してもちゃんと親としての見守りを並んでしてきてくれたと思っていた。故にショックが大きかった。
しかし夫にとっては、娘が「腐女子かもしれない。腐女子だ」ということが、「親としての責任、見守り」という認識なのだということにも思い至っている。何か、本当に根本から食い違っていることだけはわかる。
ただ、私は腐女子という言葉や概念自体を否定したい立場だ。特に、まとめサイトでやいのやいのいう次元ではなく、親が子供を指して使う言葉ではないというまず常識のレベルで。
だが、なんというか、これ以上どうしたらいいのかわからない。一度腐女子という言葉を知り、娘に当てはめてしまった以上、夫は娘に対し、何をするのか。さっきも書いたが、「腐女子」という概念自体が良く分からないので、どうなるのか分からない。
単に「シャキッとせえ」「ええかっこしい」みたいな次元ではなさそうだ。私に「娘が腐女子だ」という以上、子育てとしての問題意識があるのだろう。母としての自分は、では「腐女子」に対する何かを打ち出せたのか。
これって、単純に元増田と妻のコミュニケーションがうまく行ってないだけの話じゃないか?
(妻)~チー牛という分かりやすい言葉がある以上それを使うのは当然だと思う。(自己正当化)
(私)~まずそもそも、仮にその「チー牛」で何が悪いのかわからない。(論点のすり替え)
(妻)~総体的なことを重視できる人間になるべき。(価値観の押し付け)
(私)~自分のやってきたことを息子に強制できる人間ではないし、まずそういう人生観を伝える上で「チー牛」ということばを使うのが間違っているのではないか。(相手の行動の否定)
↑価値観の押し付けに関しては、ちゃんと自分の意見を開示してくれてる、と俺は思うけどな。
多くの場合女性側が何らかの不安を抱えていることが多いので男性側が上手く受け止めてやる必要があるが、レスバの様子から察するに、元増田もかなり疲れてると見受けられる。
私と家族の詳しいスペック(例えば身長体重、美人不美人、友達の数や成績)は書かない。それは本題ではない。(先に書くと、むしろそういう関連付けを拒むべきというのが私の意見、結論だ。)
息子は中学生、一人息子。妻は三十代後半。私は四十代。
お盆に先立ち、中学生の息子は先に、比較的近所の私の実家に帰っている。
息子が出かけた夜、私の妻が、こんなことをいってきた。
「息子はチー牛なのではないか?どうにかチー牛にならない人生を歩ませることはできないのか?」と。
私は耳を疑ったし、そういうことをいう妻に悲しくなった。
実の息子に対してそういう感情を抱くのか、とか、本人のいない前で悪口のようなネットミームを擦り付けるのか、とか、色々な感情がよぎった。
チー牛という言葉、ネットミームは、私も一応知っている。知っているといっても、あの有名な画像と、牛丼店でチーズ牛丼を頼みそうな性格・人格、という、何か表面的なことだけだが。
私は妻に、「ネットミームで人を呼称するようなことはしないでほしい」ということを伝えたうえで、なぜ息子を「チー牛」だと思うのか、妻の考える「チー牛」とはそもそもどんな存在なのか、など尋ねてみた。
妻曰く、(いくつかの会話を私がまとめたものだが)
・まず「チー牛」とは、社会生活を営む上でリーダーシップや創造性などが見受けられず頼りなく、特に異性関係においても劣位ないし全く展望が望めず、またそれによって勝手に逆恨みや卑屈さを増幅させ悪循環に陥るであろう男性の総称。
・この「チー牛」という言葉は、妻の友人たちのLINEグループなどでまず概念を知り、そのあと個人的に調べて、腑に落ちたので使うことにした。六月ごろからこの言葉をもとにした息子への疑念が生じた。
・息子を「チー牛」と思った理由は、息子の(公表しない個人的なスペック)や交友関係や部活動での立ち位置などを広く見たうえで、前述の素質が多くみられるから。
私は、仮に息子が「チー牛」だとして、一体何の問題があるのか、いくつか思いつく例を挙げて聞いてみた。ただ、私もショックというか悲しい気持ちがあり、うまくまとまった受け答えができていたかは分からない。
(私)出自とか社会的階層による差別が許されない社会において、どうして「チー牛」という概念を息子に当てはめようとするのか? 我々も例えば「ゆとり」とか「新人類」とか「さとり世代」とかただ生まれた年代でレッテルを張られる辛さを経験しているはずであり、それをネットミームで何故繰り返すのか?
(妻)そう感じてしまったものは仕方がない。母親であっても異性としての視点があり、息子がこのままでは対人関係面で悪化するのを予想できる。チー牛という分かりやすい言葉がある以上それを使うのは当然だと思う。
(私)私も妻も息子の人間関係をすべて知っているわけではないし、まずそもそも、仮にその「チー牛」で何が悪いのかわからない。息子は何の非行もしていないし、いや、逆にしていたら「チー牛」じゃなくなるのか?(何だか屁理屈っぽいが私も混乱していた)
(妻)息子にヤンキーになってほしいとかそういうのではなくて、ただ普通の人間、社会生活を営む上で常識的な身のこなしとか、総体的なことを重視できる人間になるべき。
(私)息子は、まだと言おうが、もうと言おうが、中学生であり、親に関与できる部分もあれば、息子個人の未来もある。私も妻も、自分のやってきたことを息子に強制できる人間ではないし、まずそういう人生観を伝える上で「チー牛」ということばを使うのが間違っているのではないか。
(妻)だから、今までそれを言い表しづらかったのが、新しい言葉ができた以上、「チー牛」という言葉を使うのは当然だという話。話さなければよかった。
(私)息子には、まさか、面と向かって「チー牛」などと言う言葉を使ったのか?
(妻)使っていない。(これは本当だと思う。息子が何かショックを受けたり妻を避けてる様子はないので。そう信じたい)
妻が、私にこのことを話さなければ(相談しなければ)よかった、と言っている通り、この数日間、私と妻は少し(というか私の側からはかなり)ぎくしゃくしてしまっている。
個人的なスペックについて話さないとは書いたが、少なくとも妻がこれまで、このようなネットミームを使ったり、なんというか、「生理的に無理」「キモイ」みたいな即物的なことばを頻繁に使う人間ではなく、息子に対してもちゃんと親としての見守りを並んでしてきてくれたと思っていた。故にショックが大きかった。
しかし妻にとっては、息子が「チー牛かもしれない。チー牛だ」ということが、「親としての責任、見守り」という認識なのだということにも思い至っている。何か、本当に根本から食い違っていることだけはわかる。
ただ、私はチー牛という言葉や概念自体を否定したい立場だ。特に、まとめサイトでやいのやいのいう次元ではなく、親が子供を指して使う言葉ではないというまず常識のレベルで。
だが、なんというか、これ以上どうしたらいいのかわからない。一度チー牛という言葉を知り、息子に当てはめてしまった以上、妻は息子に対し、何をするのか。さっきも書いたが、「チー牛」という概念自体が良く分からないので、どうなるのか分からない。
単に「シャキッとせえ」「ええかっこしい」みたいな次元ではなさそうだ。私に「息子がチー牛だ」という以上、子育てとしての問題意識があるのだろう。父としての自分は、では「チー牛」に対する何かを打ち出せたのか。
わからない。息子が今は実家で楽しくしてくれていることを願うだけだ。
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値動きはカオスと考えられている.
予測できているという感覚を人間が抱くことはあっても, それは幻想である.
しかし, 完全にランダムに売買したとしても, 何万人もいれば, 長期的に勝ち続ける者も確率的に出現する.
このまぐれも,人間の目を曇らせる.あいつにできるなら, より優秀なおれならば…となる. 実際には能力の優劣は関係ない.
ところで, 値動きは総体的にランダムだとしても,取引する人間の心理はランダムではない.
売買する人間の心理は予測することができる (と考えている者もいる).
このことが手打ちの人間がデイトレードで勝てない理由であるというのが, 私の意見である.
人間らしさを完全に捨てたアルゴリズム取引ならば, この傾向に従わないから上記のカモにならない可能性がある.
たとえメルセンヌ・ツイスタ法を用いたアルゴリズム取引であっても,人間が狩られ脱落していく限り,相対的に浮上してゆく.
このことも人間の目を曇らせる.
どれだけ嫌な事があろうが、満足している瞬間が少しでもあればそれだけで人生を肯定出来る。それは自己実現の喜びであってもいいし町中で買える喜びであってもよくて、重みは問題ではない。
そもそも重みなどない。快不快を勘定しようとする事自体がナンセンスだ。限界効用だのアドレナリンの分泌量だのと数字を持ち出してお茶を濁した所で、我々が常に瞬間的に感じている快不快とは定性的なものなのだから。
こういう風に考えれば、生きることに対して割と無条件に近い状態で希望を持てるような気がする。というよりは悲観に屈しないといった方が正確かもしれない。
こうありたいような気もする。安直なヒューマニズムとはまた違うと思う。リアリストを気取っていてその実単にペシミストでしかない奴は嫌いだし。おれはニヒリストではあるけれど、ああいう連中はいけ好かない。
ただあんまり無闇矢鱈に人生は素晴らしいと考えるのも、それはそれでなんかなって思う。少しでも引っかかりがあるのなら、そこを無視して人生バンザイと言うのも自分に不誠実な気がする。
やっぱりなんとなく心の中に秤をイメージして、総体的に納得ある人生を送れているかを気にしてしまう。
自分の望む生き方を出来てる人はこういう考えでも別に問題無いんだろうけど、そうでなきゃ辛い。
辛さをバネに、とかそういう気にもあんまならんし。
不快な気持ちに特別な意味を見出したり、道具として支配してやろうってのもなんかなあって思う。嫌なことをただただ嫌なだなあと受け止めるのも大事に思えてならない。 まあ嫌なことは嫌だし、大して楽しくもないのに面倒臭さだったり不快さだったりを抑えながら生活に追われるくらいだったら死んだ方がマシだろ……
みたいな考えが頭の中をぐるぐるぐるぐる回ってる。
結婚でもするなりして他人への奉仕に生きよう、なんてのはありがちだけど、それを実践してる人が果たして幸せそうかというと微妙なところはある。他人な上に立場も違えばもちろん視点そのものが違うし、そういう人らの人生のほんの一部しか見てないから何とも言えんのだけど。
女向けだの男向けだのにやたらと執着する人間ってアタマおかしいと思う
作り手とか他者が自分を理解してくれることを要求しすぎというか
もちろん自分の好みがあってそれに従うのは前提だとしても
これは誰向けだとか厳密に型にはめたりせずにまず作り手が表現したいもの、世界観とかそういう総体的な大枠を尊重してあげられる人間じゃないと
こういうカルチャーに触れていく資格がない、とまではいわないが、モンスター消費者になりがちだと俺は思っている
そもそも現実の世の中と同様フィクションの世界だってあらゆるものが混ざってるのが当たり前
自分の嫌いな要素が入ってたら全部ダメかのように言って貶せるほどナイーブな人間が、物事を妥当に把握すること、まして論じることなどどだい不可能
他人がどうではなく作品の中で自分にとってのスイートスポットを楽しむという関わり方を習得できてない人はなんでこうも声が大きいのか
それは作品に触れれば触れるほど孤独を感じてしまって喚きたくなるからだろう
適応力を高める方向にいけるのがオタクだが、喚いて「なんだこんなもの」と当てつけをしてしまうのが残念な人間の思考回路なのだろう
はいただの詭弁。LGBT等の権利の拡大や保護と他者の権利の尊重をごっちゃにしている。
LGBTに代表される今まで不当な扱いを受けてきたマイノリティを尊重し、平等な権利を与え平等に接するべき。これは分かる。
だがグルーミングに関しては逆に「判断能力が未熟と思われるものを保護すること」こそが総体的に見て他者の権利の拡大に繋がると考えられるから世界的に法整備も進められてきてるわけでしょ。
だからこの国では成人年齢は引き下げられても性交同意年齢は引き上げられたんでしょ。全然逆じゃん。
よって本件について手放しで祝福する前に慎重に判断して心の中で是非を問うことはむしろ時代の変化に敏感な人間なら正常な反応の範囲内。
法体系も社会的意識もそういう方向に向いているのが現状なんだから、当然憶測で不当に叩いたり侮蔑的な表現を向けるやつは論外として、今回の件に違和感や嫌悪感を抱く人がいることは何らおかしくない。
むしろそういう小さな違和感や嫌悪感こそ尊重して否定せず、感じたままのことを心の中できちんと育て上げていくべきじゃないの?
そういう類のものに蓋をして無自覚な社会を作り上げてきた反省として生まれたのが現代の一見過剰とも取れるポリコレ社会なわけでしょ。
今まで、いろんな批評を十数個読んでみたが、どれもこれも、やれハヤオがどうだとか、やれ鳥は鈴木Pだとか。もちろん観点としてはありだけど、そればっかりだと飽き飽きするし、映像とストーリーの力がそれほどにもない映画なのかと思ってしまう。
先ず塊から始めよということで、拙い感想を書く。文章の組み立て方とかわかんないから箇条書きだけど。
・夏子、女すぎる。まず馬車から降りるときにいい匂いした。夏子の腹を触らされた時の眞人の「ざわっ」って感じ、嫌悪感・忌避感がリアルだった。
・異界で夏子のことを「好きなの?」と聞かれ、眞人が「父の好きな人だ」って答えるの、「眞人が夏子のこと好きだからだろ」みたいな意見も見たが、違うだろう。
夏子はまだ「異性」だったのだ。母ではなく、女だった。好きとかではなく、母性よりも女性性が強く感じられていたからこそ、そういう受け答えになったのだと思う。
・だからこそ、産屋での「母さん!」という一種べたな呼びかけが、効いてくる。最初は「え、こんな“家族”の象徴としての母親呼びなんてベタで陳腐じゃね?」と思ったが、眞人が夏子の、異性性よりも母性を受け入れることにした、という意思表示なのだから、言う必要があった。「どこでそんな絆深まったん?」と思ったが、「これから家族としての絆を深める意志がある」という宣言だったのだ。
・眞人の悪意、すご!! 同級生からいじめられ、石で自分の頭から半端ねえ血を流すんだけど、あれ自分でやった傷なのに血出すぎでしょ。あそこで「うえ~ん、同級生にこんなことされたよお」っていうんじゃなくて「転んだ」というところ、テクニカルすぎる。
そういわれたら、同級生の罪が重くなるだけでなく、父親の激高もより深くなるし、夏子も「信用されていない。だから本当のことを言ってくれない」という無力感を強くするだろう。
眞人の悪意、すご!!! どろっどろの悪意だ。そりゃ夏子も「あなたなんか嫌い!」っていうよ。
・だから「自分の傷は悪意で汚れている」と眞人がいったとき、「こいつ、言いおった!!!」と思った。個人的にはこの「告解」が映画のハイライトだった。眞人がこの告白をできたこと、それがこの旅の意味だった。
・焼死した人間が火の使い手になるの、普通にえぐくない?ラストで「火は怖くないわ!」とかいって、「自分は死ぬが、それでもあなたを生むことを選ぶ」という強烈な「子の」生の肯定もグロくない? 「まあ最後は焼死してもそこそこいい人生だったもんな」って自分の人生を肯定してヒミが現世に戻るならいいんだけど、「あなたを生むんだもの」って。生むことがヒミの人生の第一義かい!ってなる
全ての意見はポジショントークで、そのそれぞれが対等で、だからこそ対立が生まれる。
って考えてるけど、根底にはニヒリズムがあるんだろうなって思う。
皆さんの大嫌いな「お気持ち」を排して、大好きな理屈や客観性「だけ」で考えていったら、当然ニヒリズムに辿り着く。辿り着かないのならどっかで事実と規範を混同してる。
どんなべき論も、「それはなぜ?」を10回ほども繰り返せば理屈では言葉に詰まってしまう。理詰めでタマネギの皮を剥いでいったら何も残らなくて、「それがいいと思うから」という素朴な感性に依拠した価値判断が露わになる。
ただどんな意見もオッケーですよだとカオス状態なので、どこかで線を引かなければいけない。そこで、理屈ではないけれどまあ大多数の人が素朴に共感するであろう、個人の領域を尊重しましょうねという人権思想的な宗教が一応公理とされている。前近代は宗教という便利かつ絶対的な真理があったけれど、今やそれはない。便利過ぎて回帰したりもしているけれど。
個人主義という土台をスタート地点にして、そこから社会をやっていきましょうや、という事になってるものと捉えてる。私は。
でもニヒリズムとか言うと条件反射的に厨二病の冷笑野郎だ!死ね!って言う人がいるんだよなあ。
まあ確かに全てに価値が無い!総体的に辛いだけの人生なんて苦行だあ泣みたいな人もいるのかもしれんけど。
だからといって自殺とかする覚悟も無いし、じゃあ別に理屈なんか求めず内から発する納得に依拠して生きればええやん、というニヒリズムもある訳で。ニーチェもそういう事を言っていた訳で。
無意味でええやん。そこに意味なんか求めちゃいけない、なんて思える超メンタルの人間もいるのかもしれない。ゴータマ・シッダールタがそうだったらしい。
ともあれ、全てに意味はないんだぜ~と言ってアナーキストを気取るのに鼻白むのはわかるけど(私は別にそれでもいいと思うけど。一線超えたらしばかれるだけだし)、理屈で考えたら全てが無価値なのを否定するのは違うじゃんって思う。
この世に神様が作った正義なんて用意されてないけど、じゃあ作っていきましょうよ。って言うなら分かる。
でも人権思想はこの世の真実なんだ!政治は真実の正義を追求するものなんだ!それを笑う者は許さん!みたいなんも割と多いようだなあって思う。怖いよあたしは。
デュルケーム曰く、罪人とは共同の価値に傷をつける不届き者の事を言うらしい。
前近代は神様を侮辱するものは死ぬまでしばかれた。現代では、個人の領域を侵害した者がしばかれる。死ぬまでしばかれる事も時々ある。
と共に、人権思想も「神」と同格の共同の価値になってるんだなあって。
人権思想なんて言うけれど、よく考えたらそんなものは宗教と等価のフィクションに過ぎない。そう人々が思ってその価値が揺らいでしまうよりも、だったら絶対あるという事にしてしまった方が良いと考えているのかもしれない。そんなもんなくね?という異端者はインターネット火炙りに処す。
アメリカは車社会。モーテルやドライブスルー、カープールレーンだとか、車と密接な文化が根付いている。みたいな話を英語の問題文で読んだ。
それって要するに国土の大半がだだっ広い田舎だから、という事なんだろうけど、それは日本もあまり変わらないと思う。
規模の差はあれ、田舎じゃ電車の網目が荒いだろうし、車は必須という話も実際によく聞く。
日本やアメリカに限らず、一極集中気味の国なんて珍しくもないと思う。地方の田舎から工場に人が集まって都市が形成されるというのは、近代的な都市の形成モデルとして普遍的らしいし。ゲマインシャフトとゲゼルシャフトが云々みたいな。
あと田舎は人の流れが少ない分、色々な意味で保守的だと言われる。どこの国も国土の大半が田舎だとなれば、どこの国も総体的には保守的という事になるんだろうか。日本じゃ自民が人気だし(野党が無能だから当然、みたいか話をする気はありません)。
アメリカだってリベラルの先陣を切る国のようだけれど、ニューヨークなんてアメリカのほんの一部の一部……
と思ったけれど、一応調べたら民主党が与党の時代も結構長いんですね。トランプは根強い人気だけれど、ちょっと前には民主政権で黒人大統領が生まれたくらいだしな。
でも保守的な姿勢が強いからこそ、という部分もあるのではないかと思う。逆説的だけれど、ぬるい保守の湯にずっと浸かるのではなく、強烈な保守的態度があればこその反動も強い、みたいな。
昨今はてブの民度が低いと一部で話題になっているが、はてブには返信が無いからこそ秩序が保たれているように思う
返信が無いゆえにヤバい奴の行動も1回に制限されており、意識は低いが総体的には民度は低くないと言える(それでもヤバい奴はブコメにブコメしてくるが)
むしろ返信が付いた場合ヤバい奴が無限に元記事と関係無い所でレスバや荒らしをする事で、サービスとしての民度が低くなるのは2chやまとめサイトTogetterのコメ欄を見ていれば想像に難くない(ゲハとか半分近くのクソスレ・クソレスが数人のヤバい奴によって形成されている)
ブコメのスターを自分以外に非表示にするだけでも元記事の人がリンチされていると感じる事は少なくなるだろうが、そもそもネット上で意見表明を行う事を人類が辞めない限り、ネットリンチの様なものはなくならないだろう
とここまで書いて、ヨッピーとひろゆきって相性悪そう、と思い検索したところある記事の中でヨッピー自信が5chのゲハ荒らしをしているかのような文章があった
https://travel.spot-app.jp/sagaonline_hiroyuki/
記事の冒頭でいつも通りただふざけているだけだが「ゲハは民度が低いから荒らしてもいいんだ」という事を遠回しに肯定しているように見えるし、記事の内容も2chのひろゆきと討論するという清濁合わせ持った認識で、今回の繊細で神経質な訴えとはえらくちぐはぐな印象を受ける
研究の専門を問われると、答えに窮する。一応、思想史をやっているのだが、思想史というとよくわからない。そこで簡便のため、歴史をやっています、と答えることもある。しかしこれこそ、全く間違い千万の自称である。日本史研究として自分の研究を認めてもらいたいと、何度も歴史学系の雑誌に論文を投稿したが、一度も採用に至ったことがない。査読結果に書いてある不採用の理由は簡単である。僕の論文はあまりに思弁的すぎて、実証性を欠く、というのだ。この指摘は、思想史の立場にいるものにとっては、非常に頭の痛い指摘である。思想史の分野では、あまりに事実の羅列に過ぎて、思弁的でないということが批判の対象となる。思弁的な論理を合理的に組み立てることに研究論文の眼目がある。これが、歴史学と真逆なのである。
思想とは、人が思ったこと考えたことであり、思想史とは、人が思ったこと考えたことの歴史である。しかし、人の考えたことがそのまままるっと資料に残されていることなどまずない。大著をいくつもものした人であっても、そこに書かれていることに矛盾があったりすると、その人が何を考えているのか途端にわからなくなったりする。一つ一つの概念も時代によって、また人によって意味が異なり、それをどのような意味で用いているのかを確定するには手間がかかる。そして、そうであるからこそ、思想史研究の叙述は思弁的にならざるを得ない。単に書かれていることではなく、書かれているものと書かれているものとの間の関係、書かれた時の状況などから、総合的にその時その人が考えていたことを明らかにするからだ。新しい資料を積み上げて細かく実証しても、矛盾と不整合が増えるばかりでどこにも辿り着けなくなってしまう。ここが、細かく明らかにすればより解像度が上がる歴史学と、思想史学とが決定的に異なる部分だ。
だからといって、思想史学が歴史学でないというわけではない。人の営みを分析するとき、どのような政策が出されたか、どのような契約が行われたか、何について合意したか、といったことを分析すれば、人の営みの歴史はわかるが、なぜそれらの人々がそれを行ったか、ということについては十分に明らかにならない。たとえば、資料を発掘すれば、太平洋戦争期に戦争協力をした人などいくらでも新しく発見することができる。しかし、その事実をいくら指摘しても、なぜその人たちが戦争協力をしたのか、どう考えてそれを正当化したのか、あるいは正当化せずとも正しいことのように考えているように振る舞ったのか、ということについては、何もわからないのである。何の思想史的分析もなしに、その人たちは国に騙されたのだ、とか、ファシスト的心性を抱えていたのだ、と断じることは、客観的な見方ではない。なぜ戦争協力をしたのか、ということについては、一人ずつ、その人の生きてきた人生、書いてきたものを取り上げ、分析し、その人の価値観、優先順位、置かれていた状況、表現の戦略といったことを、コツコツと吟味していかなければならない。その時に取り上げる資料がすでに広く知られていたものであったとしても、その資料から思想を読み込んでいくという作業がそれまでなされていなかったというのであれば、その研究には新規性があり、意義があるのだ。あるいはその場合、たとえば検閲や弾圧があったり、出版の事情が悪かったりして、かえってその人の考えを示す何の手がかりもないということがあり得る。それでも、ある人の思想を総体的に分析するという場合は、合理的な範囲でその人の考えの範疇を示すぐらいのことは、しなければならない。そうした思想史的分析を、実証的でない、と切り捨ててしまえば、いつまで経っても平板な人間理解しか、歴史の中に生まれない、ということになってしまう。
さらに厄介なのは、思想史的分析の結果が、概念だけ取り出すと、既存の研究との違いがわからない、という場合である。たとえばある歴史上の人物Aが主張したXという概念が重要だったとして、当然様々な歴史研究はAはXを主張した、と論じる。そして、思想史研究がそのXについて分析し、それはこれこれこういうXであった、と論じたとしても、その研究を遠目から見れば、やはりAはXを主張した、という論文に見えてしまうのである。思想史研究者の間では、「これこれこういう」という、そのXに至りそれを規定するところの論理が重要になるわけだが、歴史研究者には、その論理の中に何か新しい資料だとか、裏付けるこれまで知られていない資料だとか、そういうものが入っていないと何が新しいのかわからない。AはXを主張したという歴史的事実に変わりはないではないか、というわけである。先の戦争協力の論理で行けば、いかなる理由があれ、結局皇国日本を肯定して戦争協力をしたではないか、というわけだ。それで結局、その「これこれこういう」という論理の部分が思弁的で実証的でないと歴史研究者に批判されることになり、思想史と歴史との間の溝はますます深まるばかりなのである。
これは研究分野、手法の違いということで、仕方ないことなのかもしれない。だが、だからと言って思想史研究の新規性が学問上無意味だということにはならない。全ての人間の行為にはその人の思想が伴っているからだ。
* * *
以上のことは全てイチャモンである。僕の思想を表したものではない。実際のところ、僕に宛てられた「思弁的である」「難解である」という査読結果は、「お前の論は一貫しておらず破綻しているのでまず論文になっていない、小学生からやり直せ」という意味であるから、変に解釈して大きな敵と戦わないようにしたい。論理はシンプルに、証明は実証的に、新規性は明快に。それに沿ってたくさん書けば、評価も頂けて、就職もできるというわけだ。僕にはできない。せめて諸賢の憐憫を乞う。