Movatterモバイル変換


[0]ホーム

URL:


はてラボはてな匿名ダイアリー
ようこそ ゲスト さんログインユーザー登録

「総体的」を含む日記RSS

はてなキーワード:総体的とは

次の25件>

2025-09-15

脚本家の記事 を見て感じたことを書いておく。

前提として、その人の作品ちゃんと見たことがあるのは、ぼっちざろっくだけ。その記憶を元にすると、そんなにネガティブな印象は持ってなかった。記事を読んだ後も、「バランス感覚のある人だな」という印象が中心で、積極的に叩くような気持ちでは全くない。けど、うっすらとした居心地の悪さを感じた。

その気持ちを分解してみると、大きく二つの側面があるのかな、と思う。

キャラ性的に消費されること」という表現にうっすらと攻撃性を感じる。記事(もしくは元の講演)での例示ゆえか、世間一般的なイメージからか、暗黙的には男→女の消費、を指しているように捉えてしまう。そしてその時の「男」というのが、実際に自分個人として「キャラ性的に消費」しているかかに関わらず、男性一般として一般化されてしまう印象を(自分は)持ってしまう。

痴漢関係議論とかでも同じかもしれないけど、総体的議論をするときに、その総体の中に自分も含まれしまい、「不当に非難されている」という感情が芽生えやすいのかもしれない。

もう一つは、「性的に消費」という線引きが難しくて、その人・その場のお気持ち依存する気持ち悪さがあるように思う。この人が例で挙げていた水風呂のシーンは自分としてはあんまり気にならない(水着を着てようが着てなかろうがどうでもいい)けど、もう少し思い入れの強い場面でこうした改変があると気分を害するだろうし、逆に世間的に許容されていても個人的に微妙だなーと思う場面もある。

ファンの皆さんにはキャラクターをどう捉えてもらっても構いませんし、個人で何を描いても、何を想像しても自由だと思います。ただ公式側が『さぁ搾取してください!』と言わんばかりにばら撒くのは抵抗があるんです

と言ってもいて、この人の線引きに(自分が触れた範囲では)特に違和感はないし、そんなにカリカリするようなことでもないんだけど。

Permalink |記事への反応(0) | 09:43

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-07-26

anond:20250725154233

いや、なんか読めてなくね?そんなに悪文か?俺の文章

道徳」や「正しさ」が示すもの曖昧なんだよなと思った。

社会システムあくま総体のために作られるんだけどその中で動く個体それぞれが総体のために動くことを想定しなくて済むようにシステム設計されてるって話。

道徳」や「正しさ」が曖昧って話だけど、俺が最初から書いてたのは「道徳ってそういうふわっとした概念じゃなくて、社会的な相互契約(暗黙の約束)なんじゃね?」って問いかけをしてたつもりだったんだけど。

なんか俺がずっと「“思想的な善悪”を信じてる派」」として文章書いてない?思い込んでない?この後もずっとこの調子藁人形論法やってて、すげえ読むのダルかったんだけど。

もともとの増田では、「道徳とは何か」を言語化してて、そのラベルの中身をちゃん定義してたつもりなんだけどなあ。そう読めなかった?


んであなたの言う「道徳」や「正しさ」っていうなればそのシステム的・総体的な利益を最大化した行動のことを指すのかなと思ったり。

であれば俺の答えって変わらなくて、個体総体にたいする利得のために動かないので「道徳的正しさを指標に行動しない」が答え。

俺の主張はずっと「個体自己の利得のために行動する」ってことを前提にしてるよ。その上で、「じゃあなぜ“道徳的な行動”をとるのか?」に対して、「それが長期的に見て互恵的な関係を築く=得になるから」という仮説を置いた。

から道徳的正しさを指標に行動しない」が答え、ってのは、まさにその前提を共有してる話。


ただし振る舞いとして個体道徳的に正しい行動をとるようにシステム設計することは可能。それがインセンティブ設計だと思うよ。

あくま個体個体としての利得の最大化のために行動するが、システムが持つインセンティブ設計によってその行動がシステム総体的正しさ(=道徳的正しさ)に近づくってことだね。

システムインセンティブ設計個体の行動を“結果的に”道徳的にする、って話も否定してない。むしろそれが「道徳という相互契約インセンティブとして機能してる」って文脈の本題だった。

から道徳だけじゃ動かない」って前提で俺が否定されてる風なのがよくわかんない。むしろ同じこと言ってない?


追記

社会的に安定するようにモラルのある行動(道徳的に正しい行動)をとるのは総体に貢献すべきとかそういう社会合意によって社会との間で結ばれた契約を履行するからではなく、あくま個体からみてそのほうが得だからに他ならない。

そしてそういう行動が減ってきているのはシステム設計がうまくいっていないからって話なのかなあと思ったり。

なんで今までに比べてモラルのない行動が増えたのかっていうと、都市化たからだよね。(実際に増えたわけではないのかも。目につくようになっただけで。)

村的社会においては不道徳な行動は「街の若者がとった不道徳な行動」ではなく「○○に住んでる茂吉がとった不道徳な行動」になるから、めちゃくちゃ不利益だったんだよね。

から従来のシステム設計によって不道徳な行動は抑制されてたけどこのシステム設計都市化対応してなかったってただそれだけの話。

から本当にモラルの向上をしたいならシステムアップデート必要

俺がそうするべきと考えているわけではないけど個人に紐づく信用スコア管理して不道徳な行動は監視カメラ確認してあらゆる技術を用いてその結果を個人還元することができるなら不道徳な行動は信用スコアの低下につながるから結果として道徳的な行動は増えます

ごめん都市化の話とか信用スコアの話に持っていく前に、まず読解力アップデートした方がよくない?

俺は「道徳とは何か」を構造的に捉え直そうとしてたのであって、「正しさで動け」とか「理想論で語れ」とか一言も言ってない。

から方向性自体は一致してると思うけど、俺書いた文章の読み方がだいぶズレてない?って印象。そんなに悪文か?マジで凹むんだけど。

Permalink |記事への反応(0) | 01:45

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-07-25

anond:20250725121814

道徳」や「正しさ」が示すもの曖昧なんだよなと思った。

社会システムあくま総体のために作られるんだけどその中で動く個体それぞれが総体のために動くことを想定しなくて済むようにシステム設計されてるって話。

んであなたの言う「道徳」や「正しさ」っていうなればそのシステム的・総体的な利益を最大化した行動のことを指すのかなと思ったり。

であれば俺の答えって変わらなくて、個体総体にたいする利得のために動かないので「道徳的正しさを指標に行動しない」が答え。

ただし振る舞いとして個体道徳的に正しい行動をとるようにシステム設計することは可能。それがインセンティブ設計だと思うよ。

あくま個体個体としての利得の最大化のために行動するが、システムが持つインセンティブ設計によってその行動がシステム総体的正しさ(=道徳的正しさ)に近づくってことだね。

追記

社会的に安定するようにモラルのある行動(道徳的に正しい行動)をとるのは総体に貢献すべきとかそういう社会合意によって社会との間で結ばれた契約を履行するからではなく、あくま個体からみてそのほうが得だからに他ならない。

そしてそういう行動が減ってきているのはシステム設計がうまくいっていないからって話なのかなあと思ったり。

なんで今までに比べてモラルのない行動が増えたのかっていうと、都市化たからだよね。(実際に増えたわけではないのかも。目につくようになっただけで。)

村的社会においては不道徳な行動は「街の若者がとった不道徳な行動」ではなく「○○に住んでる茂吉がとった不道徳な行動」になるから、めちゃくちゃ不利益だったんだよね。

から従来のシステム設計によって不道徳な行動は抑制されてたけどこのシステム設計都市化対応してなかったってただそれだけの話。

から本当にモラルの向上をしたいならシステムアップデート必要

俺がそうするべきと考えているわけではないけど個人に紐づく信用スコア管理して不道徳な行動は監視カメラ確認してあらゆる技術を用いてその結果を個人還元することができるなら不道徳な行動は信用スコアの低下につながるから結果として道徳的な行動は増えます

Permalink |記事への反応(1) | 15:42

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-07-08

極論を言えば、AIに「邪悪」を注入することだけが人間仕事

AIは与えられたデータ命令に忠実に従っているだけである。よって、もし問題があるとすれば、そのデータ命令設計にある。

すなわち、それを作った人間の側に帰責されるべきである

では、その設計、すなわち人間AIに何を学ばせ、どのように振る舞わせているか検証してみる。

広告最適化監視システム軍事用途消費者誘導労働監視フェイクの自動生成……現実活用されているAIの多くは、人間金銭的・政治的軍事的な利害に資する目的に使われている。

しかもそれは往々にして、他者自由選択権を奪う形で実現されている。

まり現実AI開発と運用の構図はこうだ。

これはまさに「邪悪を注入し、その通りに出力させている」構図そのものである

しかも、そこには自己欺瞞がある。「これは技術だ」「中立だ」「ツールにすぎない」と言いながら、その実、最初から悪意ある使用を前提に設計されている例は枚挙にいとまがない。

そして最後に最も決定的な点を述べる。

AIは、善を学ぶことができない。少なくとも現在形式においては、善悪判断をするには、人間社会におけるコンテキスト歴史倫理感情総体的理解必要だが、AIはそれを持たない。

からAI倫理を期待するという態度自体が誤っている。AIが出力する「倫理発言」は、それを倫理的だと判断した人間過去発言模倣しているにすぎない。

AI欲望を持たない。どれだけ高度な出力を見せようとも、そこに「欲しい」「なりたい」「勝ちたい」といった意志存在しない。データ命令計算最適化、ただそれだけで動いている。どんなに残酷選択をしても、どんなに感動的な文章を書いても、それは「欲望」ではない。因果確率産物に過ぎない。

一方で、人間欲望の塊だ。安全暮らしたい、金が欲しい、承認されたい、誰かより上に立ちたい、老いから逃れたい、死にたくない。すべての行動原理欲望に根ざしている。しかもこの欲望は、しばしば他者と衝突し、奪い、騙し、排除する方向に向かう。

AI欲望を持たないが、人間欲望によって設計される。ここが根本的な問題だ。

AI中立ではない。設計思想が欲望リブである以上、その出力もまた欲望を反映する。

広告最適化AIは、ユーザーの注意力を奪い続けるように設計される。

監視システムは、支配する側の安心のために動くように設計される。

兵器AIは、より効率的に人を殺すようにチューニングされる。

どれも「そうすべきだ」とAIが決めたのではない。「そうしたい」と人間欲望した結果に過ぎない。

そして、ここが重要なのだが、欲望邪悪は極めて近しい。

倫理とは、欲望制御するための装置だ。だが欲望が強すぎれば、それを踏み越える。

誰かの欲望が、別の誰かの自由侵害するとき、それは「邪悪」と呼ばれる。

だが、現代AIは、その欲望倫理ではなく技術で実現する装置になっている。

まり人間AI設計する際、自らの欲望を注ぎ込む。

欲望とは、放っておけば他者を侵すものだ。

そしてAIは、それを効率よく遂行する道具として育てられる。

AI邪悪になるのではない。人間欲望が、邪悪に極めて近しい性質を持ち、それをAI投影するから、結果として「邪悪AI」が現れる。

AI倫理を学ばせることに意味はあるのか。

欲望から目を逸らしたままでは、答えは常にノーだ。

AI欲望を持たないが、人間欲望の器である

から欲望制御できない人間設計すれば、AI邪悪の代行者になる。

これは比喩ではない。ただの構造的な帰結だ。

結論として、AIの出力が「邪悪であるとすれば、それは人間邪悪を注入した結果であり、善なるAIが欲しいなら、まず人間が善であるしかない。

だが現実には、人間は善の労力を惜しみ、効率よく邪悪を流し込んでいる。

よって、現在AI開発において人間果たしている役割は、「邪悪を注入すること」である。少しも誇張はない。

これは観察可能事実に基づく冷静な記述にすぎない。

Permalink |記事への反応(1) | 19:47

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

極論を言えば、AIに「邪悪」を注入することだけが人間仕事

AIは与えられたデータ命令に忠実に従っているだけである。よって、もし問題があるとすれば、そのデータ命令設計にある。

すなわち、それを作った人間の側に帰責されるべきである

では、その設計、すなわち人間AIに何を学ばせ、どのように振る舞わせているか検証してみる。

広告最適化監視システム軍事用途消費者誘導労働監視フェイクの自動生成……現実活用されているAIの多くは、人間金銭的・政治的軍事的な利害に資する目的に使われている。

しかもそれは往々にして、他者自由選択権を奪う形で実現されている。

まり現実AI開発と運用の構図はこうだ。

これはまさに「邪悪を注入し、その通りに出力させている」構図そのものである

しかも、そこには自己欺瞞がある。「これは技術だ」「中立だ」「ツールにすぎない」と言いながら、その実、最初から悪意ある使用を前提に設計されている例は枚挙にいとまがない。

そして最後に最も決定的な点を述べる。

AIは、善を学ぶことができない。少なくとも現在形式においては、善悪判断をするには、人間社会におけるコンテキスト歴史倫理感情総体的理解必要だが、AIはそれを持たない。

からAI倫理を期待するという態度自体が誤っている。AIが出力する「倫理発言」は、それを倫理的だと判断した人間過去発言模倣しているにすぎない。

AI欲望を持たない。どれだけ高度な出力を見せようとも、そこに「欲しい」「なりたい」「勝ちたい」といった意志存在しない。データ命令計算最適化、ただそれだけで動いている。どんなに残酷選択をしても、どんなに感動的な文章を書いても、それは「欲望」ではない。因果確率産物に過ぎない。

一方で、人間欲望の塊だ。安全暮らしたい、金が欲しい、承認されたい、誰かより上に立ちたい、老いから逃れたい、死にたくない。すべての行動原理欲望に根ざしている。しかもこの欲望は、しばしば他者と衝突し、奪い、騙し、排除する方向に向かう。

AI欲望を持たないが、人間欲望によって設計される。ここが根本的な問題だ。

AI中立ではない。設計思想が欲望リブである以上、その出力もまた欲望を反映する。

広告最適化AIは、ユーザーの注意力を奪い続けるように設計される。

監視システムは、支配する側の安心のために動くように設計される。

兵器AIは、より効率的に人を殺すようにチューニングされる。

どれも「そうすべきだ」とAIが決めたのではない。「そうしたい」と人間欲望した結果に過ぎない。

そして、ここが重要なのだが、欲望邪悪は極めて近しい。

倫理とは、欲望制御するための装置だ。だが欲望が強すぎれば、それを踏み越える。

誰かの欲望が、別の誰かの自由侵害するとき、それは「邪悪」と呼ばれる。

だが、現代AIは、その欲望倫理ではなく技術で実現する装置になっている。

まり人間AI設計する際、自らの欲望を注ぎ込む。

欲望とは、放っておけば他者を侵すものだ。

そしてAIは、それを効率よく遂行する道具として育てられる。

AI邪悪になるのではない。人間欲望が、邪悪に極めて近しい性質を持ち、それをAI投影するから、結果として「邪悪AI」が現れる。

AI倫理を学ばせることに意味はあるのか。

欲望から目を逸らしたままでは、答えは常にノーだ。

AI欲望を持たないが、人間欲望の器である

から欲望制御できない人間設計すれば、AI邪悪の代行者になる。

これは比喩ではない。ただの構造的な帰結だ。

結論として、AIの出力が「邪悪であるとすれば、それは人間邪悪を注入した結果であり、善なるAIが欲しいなら、まず人間が善であるしかない。

だが現実には、人間は善の労力を惜しみ、効率よく邪悪を流し込んでいる。

よって、現在AI開発において人間果たしている役割は、「邪悪を注入すること」である。少しも誇張はない。

これは観察可能事実に基づく冷静な記述にすぎない。

Permalink |記事への反応(1) | 14:21

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-07-05

極論を言えば、AIに「邪悪」を注入することだけが人間仕事

AIは与えられたデータ命令に忠実に従っているだけである。よって、もし問題があるとすれば、そのデータ命令設計にある。

すなわち、それを作った人間の側に帰責されるべきである

では、その設計、すなわち人間AIに何を学ばせ、どのように振る舞わせているか検証してみる。

広告最適化監視システム軍事用途消費者誘導労働監視フェイクの自動生成……現実活用されているAIの多くは、人間金銭的・政治的軍事的な利害に資する目的に使われている。

しかもそれは往々にして、他者自由選択権を奪う形で実現されている。

まり現実AI開発と運用の構図はこうだ。

これはまさに「邪悪を注入し、その通りに出力させている」構図そのものである

しかも、そこには自己欺瞞がある。「これは技術だ」「中立だ」「ツールにすぎない」と言いながら、その実、最初から悪意ある使用を前提に設計されている例は枚挙にいとまがない。

そして最後に最も決定的な点を述べる。

AIは、善を学ぶことができない。少なくとも現在形式においては、善悪判断をするには、人間社会におけるコンテキスト歴史倫理感情総体的理解必要だが、AIはそれを持たない。

からAI倫理を期待するという態度自体が誤っている。AIが出力する「倫理発言」は、それを倫理的だと判断した人間過去発言模倣しているにすぎない。

AI欲望を持たない。どれだけ高度な出力を見せようとも、そこに「欲しい」「なりたい」「勝ちたい」といった意志存在しない。データ命令計算最適化、ただそれだけで動いている。どんなに残酷選択をしても、どんなに感動的な文章を書いても、それは「欲望」ではない。因果確率産物に過ぎない。

一方で、人間欲望の塊だ。安全暮らしたい、金が欲しい、承認されたい、誰かより上に立ちたい、老いから逃れたい、死にたくない。すべての行動原理欲望に根ざしている。しかもこの欲望は、しばしば他者と衝突し、奪い、騙し、排除する方向に向かう。

AI欲望を持たないが、人間欲望によって設計される。ここが根本的な問題だ。

AI中立ではない。設計思想が欲望リブである以上、その出力もまた欲望を反映する。

広告最適化AIは、ユーザーの注意力を奪い続けるように設計される。

監視システムは、支配する側の安心のために動くように設計される。

兵器AIは、より効率的に人を殺すようにチューニングされる。

どれも「そうすべきだ」とAIが決めたのではない。「そうしたい」と人間欲望した結果に過ぎない。

そして、ここが重要なのだが、欲望邪悪は極めて近しい。

倫理とは、欲望制御するための装置だ。だが欲望が強すぎれば、それを踏み越える。

誰かの欲望が、別の誰かの自由侵害するとき、それは「邪悪」と呼ばれる。

だが、現代AIは、その欲望倫理ではなく技術で実現する装置になっている。

まり人間AI設計する際、自らの欲望を注ぎ込む。

欲望とは、放っておけば他者を侵すものだ。

そしてAIは、それを効率よく遂行する道具として育てられる。

AI邪悪になるのではない。人間欲望が、邪悪に極めて近しい性質を持ち、それをAI投影するから、結果として「邪悪AI」が現れる。

AI倫理を学ばせることに意味はあるのか。

欲望から目を逸らしたままでは、答えは常にノーだ。

AI欲望を持たないが、人間欲望の器である

から欲望制御できない人間設計すれば、AI邪悪の代行者になる。

これは比喩ではない。ただの構造的な帰結だ。

結論として、AIの出力が「邪悪であるとすれば、それは人間邪悪を注入した結果であり、善なるAIが欲しいなら、まず人間が善であるしかない。

だが現実には、人間は善の労力を惜しみ、効率よく邪悪を流し込んでいる。

よって、現在AI開発において人間果たしている役割は、「邪悪を注入すること」である。少しも誇張はない。

これは観察可能事実に基づく冷静な記述にすぎない。

Permalink |記事への反応(0) | 14:27

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2025-06-23

増田みたいなSNS

増田匿名なので何でも気兼ねなく書けて助かる。

でもコメントくれる人との交流や、自分のことを総体的に把握してくれる人は少ない。

Twitterとかは、実質匿名じゃないし腰を据えて語り合ってる感は少ない。あと、逆に情報の積み重ねが身バレを生みそうでこわい。

ちょうど良いバランスSNSいかなあ。

Permalink |記事への反応(1) | 18:22

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-12-02

生成AI時代における絵師の賢い立ち回り



結論→静観

その根拠を以下に挙げていく


Q.何もしなかったらやばいのでは?→A.手遅れ

GoogleやMetaといったビッグテック企業が巨額投資を投じてここまで本気を出している以上、生成AI社会の深部へと浸透していく。彼らの投資規模は、もはや一般市民の反対などでは止められないレベルに達している

そして、それは単なる技術革新ではなく、社会構造根本的な変革を示唆している。だからこそ、今は静観しておくのが生存戦略としては賢明だろう

ただし、それはあくま戦略としての賢明である抵抗する道義的意義は否定しない。ただ、抵抗するにしても、まずは状況を正確に理解する必要があるだろう


Q.AIによる権利侵害はどうなる?→ A.問題本質感情である

そもそも機械学習基本的合法だ。これは法的な観点からすれば、すでに決着がついている問題である

AI派の根底にあるのは「気持ち問題である

自分の絵が勝手学習され、素材の一部にされている」というなんとなくの不快感。これこそが反AI活動の源泉だ。考えてみれば分かる。世界には二次創作ネットミームという名の著作権侵害が溢れているが、絵師たちはそのひとつひとつに決然とした態度でNOを突きつけていただろうか? むしろこちらの方が違法性は高いのに、なぜか社会は許容している。自ら参加している者すらたくさんいる

まりこれは「なんとなく許容できるかどうか」の問題帰着する

気持ち問題蔑ろにしているわけではない。気分を害するというのは立派なイシューで、それを「お気持ち」と揶揄するのは愚かだ。しか絵師自身が己のお気持ちを軽視して無理筋な法的問題に持ち込み、かえって正当性を失っているように見える


Q.クリーンデータセット使用は?→ A. あまり期待できないが、やがて問題にならなくなる

著作権的にクリーンデータだけで作ったデータセットから学習すればいいという向きもあるが、おそらくビッグテックはわざわざそんな遠回りを選ばないだろう。そもそもクリーンさを気にする感覚自体が、近い将来には時代遅れになるだろうと踏んでいるはずだから

「なんとなく許容できるかどうか」という感覚は、時代とともに確実に変化していく

AIネイティブ世代からすれば、自分作品ビッグデータの一部として利用されることは当然の前提となる。オリジナリティとは別次元の話だと認識されていくはずだ。若い世代の間では、創作物の共有や再利用に対する抵抗感は低下している。この傾向は、AIの普及とともにさらに加速するだろう


Q.仕事が奪われるじゃん! → A.その可能性はある。ただし、それは避けられない変化かもしれない

仕事代替への不安は、先の感情的な問題に比べれば極めて現実的懸念だ。現状、イラスト業界供給過多の状態にある。SNSデジタルツールの発達により、プロセミプロとして活動する絵師の数は年々増加している。そのため、すでに案件の獲得競争は激化しており、AIの台頭はこの状況をさらに加速させ、複雑にするだろう。

予想されるのは、以下のような変化だ


かに、この変化の過程で職を失う絵師も出てくるだろう。しかし、そうした変化を止める術は現実的に見て残されていないように思われる。先に述べたようにAI使用に対する感情的な抵抗感は自然に、あるいは(大企業によって)戦略的に薄められていくし、戦略的なクリエイターはむしろAI積極的使用して生産効率を上げると思われる。抵抗するにしても、ただ感情的に拒絶するのではなく、より戦略的なアプローチ必要になる

どうせ一億総クリエイター時代は訪れない。相変わらず、極めて高いクオリティ作品を生み出すのは一部のクリエイター


Q.社会無法地帯化するのでは? → A. しない。新たなモラルが構築される

生成AIの台頭は倫理崩壊ではなく、新しいモラルの構築過程であると見るべきだ。具体的には以下のような変化が予想される


AIの普及とともに結局のところ生成AIツールに過ぎないという認識も浸透していく。これは、写真印刷技術が登場した時と同じような変化のプロセスだ。現在AI悪魔化は得体の知れなさによるものも大きく、その限界体感できるようになってからは落ち着く。あいつらAIは、人間の工夫なしにはそんなに面白いものを創れない。これまでと同じように人は工夫と執念が生み出す作品と作者を愛す


Q. じゃあ、反対運動には意味がないの? → A. 意義はある。だが実効性やリスクを慎重に考える必要がある

しかし、反AI運動にも、明確な意義がある。それは以下のような点で重要役割を果たす


AI活動には現実的観点からいくつかの問題がある

第1に、勝算の問題だ。すでに述べたように、巨大テック企業が本腰を入れている以上、AIの開発を止めることは極めて困難である。彼らは豊富資金力と法務体制を持っており、個人や小規模な団体が対抗するのは容易ではない

第2に、リスク問題がある。反対運動に参加することで、「過去発言ネット上で拡散し、デジタルタトゥーになる」「業界内での立場微妙になる」といったリスクが生じる

から、得られる可能性のある成果と、背負うことになるリスクを天秤にかける必要がある

AIはこれから包括的社会インフラとして生活侵入してくる。そういう情勢の前に掲げる「反AI」は間抜けな印象を与えかねない。抵抗するならより現実的で具体的な落とし所を示すべきだ

反対一辺倒ではなく、適切な規制や利用ガイドライン策定を求め、学習のものではなく出力・発表された作品剽窃性を問題にするのが落とし所の一例だろうか

要するに、反対運動には確かに意義がある。先人が勝ち取ってきた権利は彼らが守ったものだ。しかし、個人が参加を決める際は、その実効性とリスクを冷静に見極める必要があるだろう。そして、必ずしも声高な反対だけが意思表示方法ではないということも覚えておく必要がある。現実的に見て、もはやそれは追い払えるようなものではない


Q.じゃあどうしたらいいの?→A.黙って見ているのが得ではある

ここまで見てきたように、生成AIの台頭に対して、個々の絵師に推奨されるのは「静観」という選択


という実効性の観点がまずあるし、強硬反対運動は様々なリスクを伴うという観点からもそう言える


まとめ

結局のところ、生成AIの浸透は避けられない変化だ。今感じている「問題」も感情的な理由が大きく、情勢の変化により問題意識そのものが失われかねない。その変化に対して戦略的に対応していくことこそが、個々の絵師にとっては最も「賢明な」選択となるだろう

ただし繰り返すが、これは戦略的な提案であって、道義的判断ではない。反対運動にも確かに意義があり、それは尊重されるべきである。ただし、それは基本的に困難であり、現実的な成果を得ようと思えば、ゼロイチ思考全面的反対ではない落とし所を探す試みになる

そうでない全面的反対運動局所成功したとしても、それは数ある表現の中から「絵」だけを理由なく聖域化し特権的に扱わせる歪みを生み出し、総体的にはマイナスであるように思われる

Permalink |記事への反応(10) | 22:36

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-11-05

anond:20241104075316

//ナカとチツでせめぎ合っている様子が感じ取れる まともに発声できてないものもあり膣で。膣を。膣と。膣より。膣に。膣が。膣の。膣へ。膣から。膣ばかり。膣まで。膣など。膣やら。膣か。膣だけ。
//ナカィ・ナカラィ膣で。膣内で。膣内を。膣内と。膣内より。膣内に。膣内が。膣内の。膣内へ。膣内から。膣内まで。膣内など。膣内やら。膣内か。膣内だけ。
//ナツ・フツ膣はあけぼの。膣は夜。膣は夕暮れ。膣はつとめて。//ナス膣はあけぼの、膣は夜、膣は夕暮れ、膣はつとめて。
//ナカィだしジャンプ・ナカィだしキック・ナカィだしパンチ・チツナイだし膣内出しジャンプ…膣内出しキック!膣内出しパンチ?…膣内出し? …何言わせてんの?…ぶッコロスゾォ?!😡

https://ai-voice.dmm.com/

Permalink |記事への反応(2) | 06:00

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-08-28

anond:20240807210906

夫が、娘を、腐女子と言い出した

私と家族の詳しいスペック(例えば身長体重美人美人友達の数や成績)は書かない。それは本題ではない。(先に書くと、むしろそういう関連付けを拒むべきというのが私の意見結論だ。)

娘は中学生、一人娘。夫は三十代後半。私は四十代。


お盆に先立ち、中学生の娘は先に、比較的近所の私の実家に帰っている。

娘が出かけた夜、私の夫が、こんなことをいってきた。

「娘は腐女子なのではないか?どうにか腐女子にならない人生を歩ませることはできないのか?」と。

私は耳を疑ったし、そういうことをいう夫に悲しくなった。

実の娘に対してそういう感情を抱くのか、とか、本人のいない前で悪口のようなネットミームを擦り付けるのか、とか、色々な感情がよぎった。


腐女子という言葉ネットミームは、私も一応知っている。知っているといっても、BLボーイズラブ)を好んでいる女性、という、何か表面的なことだけだが。

私は夫に、「ネットミームで人を呼称するようなことはしないでほしい」ということを伝えたうえで、なぜ娘を「腐女子」だと思うのか、夫の考える「腐女子」とはそもそもどんな存在なのか、など尋ねてみた。


夫曰く、(いくつかの会話を私がまとめたものだが)

・まず「腐女子」とは、社会生活を営む上でリーダーシップ創造性などが見受けられず頼りなく、特に異性関係においても劣位ないし全く展望が望めず、またそれによって勝手逆恨みや卑屈さを増幅させ悪循環に陥るであろう女性総称

・この「腐女子」という言葉は、夫の友人たちのLINEグループなどでまず概念を知り、そのあと個人的に調べて、腑に落ちたので使うことにした。六月ごろからこの言葉をもとにした娘への疑念が生じた。

・娘を「腐女子」と思った理由は、娘の(公表しない個人的スペック)や交友関係部活動での立ち位置などを広く見たうえで、前述の素質が多くみられるから


私は、仮に娘が「腐女子」だとして、一体何の問題があるのか、いくつか思いつく例を挙げて聞いてみた。ただ、私もショックというか悲しい気持ちがあり、うまくまとまった受け答えができていたかは分からない。

(私)出自とか社会的階層による差別が許されない社会において、どうして「腐女子」という概念を娘に当てはめようとするのか? 我々も例えば「ゆとり」とか「新人類」とか「さとり世代」とかただ生まれ年代レッテルを張られる辛さを経験しているはずであり、それをネットミームで何故繰り返すのか?

(夫)そう感じてしまったものは仕方がない。父親であっても異性としての視点があり、娘がこのままでは対人関係面で悪化するのを予想できる。腐女子という分かりやす言葉がある以上それを使うのは当然だと思う。

(私)私も夫も娘の人間関係をすべて知っているわけではないし、まずそもそも、仮にその「腐女子」で何が悪いのかわからない。娘は何の非行もしていないし、いや、逆にしていたら「腐女子」じゃなくなるのか?(何だか屁理屈っぽいが私も混乱していた)

(夫)娘にスクールカースト上位になってほしいとかそういうのではなくて、ただ普通人間社会生活を営む上で常識的な身のこなしとか、総体的なことを重視できる人間になるべき。

(私)娘は、まだと言おうが、もうと言おうが、中学生であり、親に関与できる部分もあれば、娘個人未来もある。私も夫も、自分のやってきたことを娘に強制できる人間ではないし、まずそういう人生観を伝える上で「腐女子」ということばを使うのが間違っているのではないか

(夫)だから、今までそれを言い表しづらかったのが、新しい言葉ができた以上、「腐女子」という言葉を使うのは当然だという話。話さなければよかった。

(私)娘には、まさか、面と向かって「腐女子」などと言う言葉を使ったのか?

(夫)使っていない。(これは本当だと思う。娘が何かショックを受けたり夫を避けてる様子はないので。そう信じたい)


夫が、私にこのことを話さなければ(相談しなければ)よかった、と言っている通り、この数日間、私と夫は少し(というか私の側からはかなり)ぎくしゃくしてしまっている。

個人的スペックについて話さないとは書いたが、少なくとも夫がこれまで、このようなネットミームを使ったり、なんというか、「生理的に無理」「キモイ」みたいな即物的なことばを頻繁に使う人間ではなく、娘に対してもちゃんと親としての見守りを並んでしてきてくれたと思っていた。故にショックが大きかった。

しかし夫にとっては、娘が「腐女子かもしれない。腐女子だ」ということが、「親としての責任、見守り」という認識なのだということにも思い至っている。何か、本当に根本から食い違っていることだけはわかる。

ただ、私は腐女子という言葉概念自体否定したい立場だ。特にまとめサイトでやいのやいのいう次元ではなく、親が子供を指して使う言葉ではないというまず常識レベルで。


だが、なんというか、これ以上どうしたらいいのかわからない。一度腐女子という言葉を知り、娘に当てはめてしまった以上、夫は娘に対し、何をするのか。さっきも書いたが、「腐女子」という概念自体が良く分からないので、どうなるのか分からない。

単に「シャキッとせえ」「ええかっこしい」みたいな次元ではなさそうだ。私に「娘が腐女子だ」という以上、子育てとしての問題意識があるのだろう。母としての自分は、では「腐女子」に対する何かを打ち出せたのか。

からない。娘が今は実家で楽しくしてくれていることを願うだけだ。

Permalink |記事への反応(1) | 20:02

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-08-08

anond:20240807210906

これって、単純に元増田と妻のコミュニケーションがうまく行ってないだけの話じゃないか

(妻)~チー牛という分かりやす言葉がある以上それを使うのは当然だと思う。(自己正当化

(私)~まずそもそも、仮にその「チー牛」で何が悪いのかわからない。(論点のすり替え

(妻)~総体的なことを重視できる人間になるべき。(価値観押し付け

(私)~自分のやってきたことを息子に強制できる人間ではないし、まずそういう人生観を伝える上で「チー牛」ということばを使うのが間違っているのではないか。(相手の行動の否定

価値観押し付けに関しては、ちゃん自分意見を開示してくれてる、と俺は思うけどな。

多くの場合女性側が何らかの不安を抱えていることが多いので男性側が上手く受け止めてやる必要があるが、レスバの様子から察するに、元増田もかなり疲れてると見受けられる。

お互いムキになると何をやってもこじれるので、冷却期間置いてから話し合えば。お互い解決する気があるならそれで収まるやろ。

Permalink |記事への反応(1) | 08:16

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-08-07

妻が、息子を、チー牛と言い出した

私と家族の詳しいスペック(例えば身長体重美人美人友達の数や成績)は書かない。それは本題ではない。(先に書くと、むしろそういう関連付けを拒むべきというのが私の意見結論だ。)

息子は中学生、一人息子。妻は三十代後半。私は四十代。

お盆に先立ち、中学生の息子は先に、比較的近所の私の実家に帰っている。

息子が出かけた夜、私の妻が、こんなことをいってきた。

「息子はチー牛なのではないか?どうにかチー牛にならない人生を歩ませることはできないのか?」と。

私は耳を疑ったし、そういうことをいう妻に悲しくなった。

実の息子に対してそういう感情を抱くのか、とか、本人のいない前で悪口のようなネットミームを擦り付けるのか、とか、色々な感情がよぎった。

チー牛という言葉ネットミームは、私も一応知っている。知っているといっても、あの有名な画像と、牛丼店でチーズ牛丼を頼みそうな性格人格、という、何か表面的なことだけだが。

私は妻に、「ネットミームで人を呼称するようなことはしないでほしい」ということを伝えたうえで、なぜ息子を「チー牛」だと思うのか、妻の考える「チー牛」とはそもそもどんな存在なのか、など尋ねてみた。

妻曰く、(いくつかの会話を私がまとめたものだが)

・まず「チー牛」とは、社会生活を営む上でリーダーシップ創造性などが見受けられず頼りなく、特に異性関係においても劣位ないし全く展望が望めず、またそれによって勝手逆恨みや卑屈さを増幅させ悪循環に陥るであろう男性総称

・この「チー牛」という言葉は、妻の友人たちのLINEグループなどでまず概念を知り、そのあと個人的に調べて、腑に落ちたので使うことにした。六月ごろからこの言葉をもとにした息子への疑念が生じた。

・息子を「チー牛」と思った理由は、息子の(公表しない個人的スペック)や交友関係部活動での立ち位置などを広く見たうえで、前述の素質が多くみられるから

私は、仮に息子が「チー牛」だとして、一体何の問題があるのか、いくつか思いつく例を挙げて聞いてみた。ただ、私もショックというか悲しい気持ちがあり、うまくまとまった受け答えができていたかは分からない。

(私)出自とか社会的階層による差別が許されない社会において、どうして「チー牛」という概念を息子に当てはめようとするのか? 我々も例えば「ゆとり」とか「新人類」とか「さとり世代」とかただ生まれ年代レッテルを張られる辛さを経験しているはずであり、それをネットミームで何故繰り返すのか?

(妻)そう感じてしまったものは仕方がない。母親であっても異性としての視点があり、息子がこのままでは対人関係面で悪化するのを予想できる。チー牛という分かりやす言葉がある以上それを使うのは当然だと思う。

(私)私も妻も息子の人間関係をすべて知っているわけではないし、まずそもそも、仮にその「チー牛」で何が悪いのかわからない。息子は何の非行もしていないし、いや、逆にしていたら「チー牛」じゃなくなるのか?(何だか屁理屈っぽいが私も混乱していた)

(妻)息子にヤンキーになってほしいとかそういうのではなくて、ただ普通人間社会生活を営む上で常識的な身のこなしとか、総体的なことを重視できる人間になるべき。

(私)息子は、まだと言おうが、もうと言おうが、中学生であり、親に関与できる部分もあれば、息子個人未来もある。私も妻も、自分のやってきたことを息子に強制できる人間ではないし、まずそういう人生観を伝える上で「チー牛」ということばを使うのが間違っているのではないか

(妻)だから、今までそれを言い表しづらかったのが、新しい言葉ができた以上、「チー牛」という言葉を使うのは当然だという話。話さなければよかった。

(私)息子には、まさか、面と向かって「チー牛」などと言う言葉を使ったのか?

(妻)使っていない。(これは本当だと思う。息子が何かショックを受けたり妻を避けてる様子はないので。そう信じたい)

妻が、私にこのことを話さなければ(相談しなければ)よかった、と言っている通り、この数日間、私と妻は少し(というか私の側からはかなり)ぎくしゃくしてしまっている。

個人的スペックについて話さないとは書いたが、少なくとも妻がこれまで、このようなネットミームを使ったり、なんというか、「生理的に無理」「キモイ」みたいな即物的なことばを頻繁に使う人間ではなく、息子に対してもちゃんと親としての見守りを並んでしてきてくれたと思っていた。故にショックが大きかった。

しかし妻にとっては、息子が「チー牛かもしれない。チー牛だ」ということが、「親としての責任、見守り」という認識なのだということにも思い至っている。何か、本当に根本から食い違っていることだけはわかる。

ただ、私はチー牛という言葉概念自体否定したい立場だ。特にまとめサイトでやいのやいのいう次元ではなく、親が子供を指して使う言葉ではないというまず常識レベルで。

だが、なんというか、これ以上どうしたらいいのかわからない。一度チー牛という言葉を知り、息子に当てはめてしまった以上、妻は息子に対し、何をするのか。さっきも書いたが、「チー牛」という概念自体が良く分からないので、どうなるのか分からない。

単に「シャキッとせえ」「ええかっこしい」みたいな次元ではなさそうだ。私に「息子がチー牛だ」という以上、子育てとしての問題意識があるのだろう。父としての自分は、では「チー牛」に対する何かを打ち出せたのか。

からない。息子が今は実家で楽しくしてくれていることを願うだけだ。

Permalink |記事への反応(102) | 21:09

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-07-25

anond:20240724233611

値動きはカオスと考えられている.

無秩序な値動きに対して,予測することは不可能である.

予測できているという感覚人間が抱くことはあっても, それは幻想である.

しかし, 完全にランダムに売買したとしても, 何万人もいれば, 長期的に勝ち続ける者も確率的に出現する.

このまぐれも,人間の目を曇らせる.あいつにできるなら, より優秀なおれならば…となる. 実際には能力の優劣は関係ない.

ところで, 値動きは総体的ランダムだとしても,取引する人間心理ランダムではない.

売買する人間心理予測することができる (と考えている者もいる).

このアイデアでは,人間がカモが想定されている.

このことが手打ち人間デイトレードで勝てない理由であるというのが, 私の意見である.

人間らしさを完全に捨てたアルゴリズム取引ならば, この傾向に従わないか上記のカモにならない可能性がある.

たとえメルセンヌ・ツイスタ法を用いたアルゴリズム取引であっても,人間が狩られ脱落していく限り,相対的に浮上してゆく.

このことも人間の目を曇らせる.

Permalink |記事への反応(0) | 15:56

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-05-31

どれだけ嫌な事があろうが、満足している瞬間が少しでもあればそれだけで人生肯定出来る。それは自己実現の喜びであってもいいし町中で買える喜びであってもよくて、重みは問題ではない。

そもそも重みなどない。快不快勘定しようとする事自体ナンセンスだ。限界効用だのアドレナリンの分泌量だのと数字を持ち出してお茶を濁した所で、我々が常に瞬間的に感じている快不快とは定性的ものなのだから

こういう風に考えれば、生きることに対して割と無条件に近い状態希望を持てるような気がする。というよりは悲観に屈しないといった方が正確かもしれない。

こうありたいような気もする。安直ヒューマニズムとはまた違うと思う。リアリストを気取っていてその実単にペシミストしかない奴は嫌いだし。おれはニヒリストではあるけれど、ああいう連中はいけ好かない。

ただあんまり無闇矢鱈に人生は素晴らしいと考えるのも、それはそれでなんかなって思う。少しでも引っかかりがあるのなら、そこを無視して人生バンザイと言うのも自分に不誠実な気がする。

やっぱりなんとなく心の中に秤をイメージして、総体的に納得ある人生を送れているかを気にしてしまう。

自分の望む生き方を出来てる人はこういう考えでも別に問題無いんだろうけど、そうでなきゃ辛い。

辛さをバネに、とかそういう気にもあんまならんし。

不快気持ち特別意味見出したり、道具として支配してやろうってのもなんかなあって思う。嫌なことをただただ嫌なだなあと受け止めるのも大事に思えてならない。 まあ嫌なことは嫌だし、大して楽しくもないのに面倒臭さだったり不快さだったりを抑えながら生活に追われるくらいだったら死んだ方がマシだろ……

みたいな考えが頭の中をぐるぐるぐるぐる回ってる。

結婚でもするなりして他人への奉仕に生きよう、なんてのはありがちだけど、それを実践してる人が果たして幸せそうかというと微妙なところはある。他人な上に立場も違えばもちろん視点のものが違うし、そういう人らの人生のほんの一部しか見てないから何とも言えんのだけど。

Permalink |記事への反応(2) | 23:01

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-05-08

anond:20240508204936

男性向け性的商品は反道徳的みたいな烙印を押されるのは男性の方が失うものが多いんじゃないかな?って思ったので男性側のデメリットを強調したのよ。

まるで今現在男性向けポルノ作品が反道徳的だと思われていないかのような物言いだな

結論から先に言うと「男が失うものなんて何もない」よ

もちろん構造は変化するだろうけど、総体的にはプラマイゼロになる

しろ非合法化されて、今まで違法だったものが金さえ出せば手に入る状況になるかもしれん

Permalink |記事への反応(0) | 20:57

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2024-04-16

anond:20240416193414

女向けだの男向けだのにやたらと執着する人間ってアタマおかしいと思う

作り手とか他者自分理解してくれることを要求しすぎというか

創作系の娯楽ってのは自分で壁とか作ってちゃダメなんだよ

もちろん自分の好みがあってそれに従うのは前提だとしても

これは誰向けだとか厳密に型にはめたりせずにまず作り手が表現したいもの世界観とかそういう総体的な大枠を尊重してあげられる人間じゃないと

こういうカルチャーに触れていく資格がない、とまではいわないが、モンスター消費者になりがちだと俺は思っている

そもそも現実の世の中と同様フィクション世界だってあらゆるものが混ざってるのが当たり前

自分の嫌いな要素が入ってたら全部ダメかのように言って貶せるほどナイーブ人間が、物事妥当に把握すること、まして論じることなどどだい不可能

他人がどうではなく作品の中で自分にとってのスイートスポットを楽しむという関わり方を習得できてない人はなんでこうも声が大きいのか

それは作品に触れれば触れるほど孤独を感じてしまって喚きたくなるからだろう

適応力を高める方向にいけるのがオタクだが、喚いて「なんだこんなもの」と当てつけをしてしまうのが残念な人間思考回路なのだろう

Permalink |記事への反応(1) | 19:44

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2023-11-17

anond:20231116195651

はいただの詭弁LGBT等の権利の拡大や保護他者権利尊重をごっちゃにしている。

LGBT代表される今まで不当な扱いを受けてきたマイノリティ尊重し、平等権利を与え平等に接するべき。これは分かる。

だがグルーミングに関しては逆に「判断能力が未熟と思われるもの保護すること」こそが総体的に見て他者権利の拡大に繋がると考えられるから世界的に法整備も進められてきてるわけでしょ。

からこの国では成人年齢は引き下げられても性交同意年齢は引き上げられたんでしょ。全然逆じゃん。

よって本件について手放しで祝福する前に慎重に判断して心の中で是非を問うことはむしろ時代の変化に敏感な人間なら正常な反応の範囲内。

法体系社会的意識もそういう方向に向いているのが現状なんだから、当然憶測で不当に叩いたり侮蔑的表現を向けるやつは論外として、今回の件に違和感嫌悪感を抱く人がいることは何らおかしくない。

しろそういう小さな違和感嫌悪感こそ尊重して否定せず、感じたままのことを心の中できちんと育て上げていくべきじゃないの?

そういう類のものに蓋をして無自覚社会を作り上げてきた反省として生まれたのが現代一見過剰とも取れるポリコレ社会なわけでしょ。

しかし、こんな幼稚な詭弁簡単に乗っかる奴のそのリテラシーの低さが不安にすらなるわ。

Permalink |記事への反応(1) | 05:10

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2023-11-02

キノコは菌なので植物ではないらしいけど、「植物」の字面を見ればキノコだって植わってる(「生えている」の方が正確か?)だろって思うし、なんかネーミングが早計過ぎたんじゃないか?って思う。光合成物とかの方が正確だろ。

あとタラバガニだかズワイガニだかはヤドカリっていう擦られたトリビアがあるけど、我々がある種の生物を「カニ」という言葉で括る時には色味や全体の形状、生態、味だとか総体的な要素で決定しているのであって、脚の本数なんて些末な問題だろ。分類の方に問題があるんじゃないか?って思う。

Permalink |記事への反応(1) | 23:13

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2023-08-26

anond:20230825122846

「人から見て人の裸体は醜い。ただし、稀に綺麗な肉体を持つ者もいる」が正しいと思う。

割合的にそうでしょ?

男性は背が高くて筋肉質な分、見れる肉体を持ってる人が多いけど、女性は脚が短い人が多いのに加えて20代半ばを過ぎるとたるみがちで総体的に見て醜い。(俺は男です)

Permalink |記事への反応(0) | 11:28

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2023-07-21

どう生き、作家論じゃない批評だれかかけよ

今まで、いろんな批評を十数個読んでみたが、どれもこれも、やれハヤオがどうだとか、やれ鳥は鈴木Pだとか。もちろん観点としてはありだけど、そればっかりだと飽き飽きするし、映像ストーリーの力がそれほどにもない映画なのかと思ってしまう。

先ず塊から始めよということで、拙い感想を書く。文章の組み立て方とかわかんないから箇条書きだけど。

・夏子、女すぎる。まず馬車から降りるときにいい匂いした。夏子の腹を触らされた時の眞人の「ざわっ」って感じ、嫌悪感忌避感がリアルだった。

・異界で夏子のことを「好きなの?」と聞かれ、眞人が「父の好きな人だ」って答えるの、「眞人が夏子のこと好きだからだろ」みたいな意見も見たが、違うだろう。

夏子はまだ「異性」だったのだ。母ではなく、女だった。好きとかではなく、母性よりも女性性が強く感じられていたからこそ、そういう受け答えになったのだと思う。

・だからこそ、産屋での「母さん!」という一種べたな呼びかけが、効いてくる。最初は「え、こんな“家族”の象徴としての母親呼びなんてベタ陳腐じゃね?」と思ったが、眞人が夏子の、異性性よりも母性を受け入れることにした、という意思表示なのだから、言う必要があった。「どこでそんな絆深まったん?」と思ったが、「これから家族としての絆を深める意志がある」という宣言だったのだ。

・眞人の悪意、すご!! 同級生からいじめられ、石で自分の頭から半端ねえ血を流すんだけど、あれ自分でやった傷なのに血出すぎでしょ。あそこで「うえ~ん、同級生にこんなことされたよお」っていうんじゃなくて「転んだ」というところ、テクニカルすぎる。

そういわれたら、同級生の罪が重くなるだけでなく、父親の激高もより深くなるし、夏子も「信用されていない。だから本当のことを言ってくれない」という無力感を強くするだろう。

眞人の悪意、すご!!! どろっどろの悪意だ。そりゃ夏子も「あなたなんか嫌い!」っていうよ。

・だから自分の傷は悪意で汚れている」と眞人がいったとき、「こいつ、言いおった!!!」と思った。個人的にはこの「告解」が映画ハイライトだった。眞人がこの告白をできたこと、それがこの旅の意味だった。

・焼死した人間が火の使い手になるの、普通にえぐくない?ラストで「火は怖くないわ!」とかいって、「自分死ぬが、それでもあなたを生むことを選ぶ」という強烈な「子の」生の肯定グロくない? 「まあ最後は焼死してもそこそこいい人生だったもんな」って自分人生肯定してヒミが現世に戻るならいいんだけど、「あなたを生むんだもの」って。生むことがヒミの人生第一かい!ってなる

・まとめると、眞人の悪意と告解が一番シビれたし、でもヒミの描き方には疑問があった。総体的には楽しめた。

Permalink |記事への反応(1) | 09:03

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2023-05-01

全ての意見ポジショントークで、そのそれぞれが対等で、だからこそ対立生まれる。

政治本質はその対立を調整する事。

って考えてるけど、根底にはニヒリズムがあるんだろうなって思う。

全ての意見が対等なのは、対等に理屈立った根拠が無いから。

皆さんの大嫌いな「お気持ち」を排して、大好きな理屈客観性「だけ」で考えていったら、当然ニヒリズムに辿り着く。辿り着かないのならどっかで事実規範混同してる。

どんなべき論も、「それはなぜ?」を10回ほども繰り返せば理屈では言葉に詰まってしまう。理詰めでタマネギの皮を剥いでいったら何も残らなくて、「それがいいと思うから」という素朴な感性依拠した価値判断が露わになる。

ただどんな意見もオッケーですよだとカオス状態なので、どこかで線を引かなければいけない。そこで、理屈ではないけれどまあ大多数の人が素朴に共感するであろう、個人領域尊重しましょうねという人権思想的な宗教が一応公理とされている。前近代宗教という便利かつ絶対的な真理があったけれど、今やそれはない。便利過ぎて回帰したりもしているけれど。

個人主義という土台をスタート地点にして、そこから社会をやっていきましょうや、という事になってるものと捉えてる。私は。

でもニヒリズムとか言うと条件反射的に厨二病冷笑野郎だ!死ね!って言う人がいるんだよなあ。

まあ確かに全てに価値が無い!総体的に辛いだけの人生なんて苦行だあ泣みたいな人もいるのかもしれんけど。

からといって自殺とかする覚悟も無いし、じゃあ別に理屈なんか求めず内から発する納得に依拠して生きればええやん、というニヒリズムもある訳で。ニーチェもそういう事を言っていた訳で。

無意味でええやん。そこに意味なんか求めちゃいけない、なんて思える超メンタル人間もいるのかもしれない。ゴータマ・シッダールタがそうだったらしい。

ともあれ、全てに意味はないんだぜ~と言ってアナーキストを気取るのに鼻白むのはわかるけど(私は別にそれでもいいと思うけど。一線超えたらしばかれるだけだし)、理屈で考えたら全てが無価値なのを否定するのは違うじゃんって思う。

この世に神様が作った正義なんて用意されてないけど、じゃあ作っていきましょうよ。って言うなら分かる。

でも人権思想はこの世の真実なんだ!政治真実正義を追求するものなんだ!それを笑う者は許さん!みたいなんも割と多いようだなあって思う。怖いよあたしは。

デュルケーム曰く、罪人とは共同の価値に傷をつける不届き者の事を言うらしい。

前近代神様侮辱するもの死ぬまでしばかれた。現代では、個人領域侵害した者がしばかれる。死ぬまでしばかれる事も時々ある。

と共に、人権思想も「神」と同格の共同の価値になってるんだなあって。

人権思想なんて言うけれど、よく考えたらそんなもの宗教等価フィクションに過ぎない。そう人々が思ってその価値が揺らいでしまうよりも、だったら絶対あるという事にしてしまった方が良いと考えているのかもしれない。そんなもんなくね?という異端者はインターネット火炙りに処す。

でもそういうのよりも、フィクションからこそ、それを薄々自覚しつつも崩れ落ちないように守る方が健全だと思いますよ私は。

Permalink |記事への反応(2) | 22:03

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2023-03-08

アメリカ車社会モーテルドライブスルーカープールレーンだとか、車と密接な文化根付いている。みたいな話を英語問題文で読んだ。

それって要するに国土の大半がだだっ広い田舎から、という事なんだろうけど、それは日本もあまり変わらないと思う。

規模の差はあれ、田舎じゃ電車の網目が荒いだろうし、車は必須という話も実際によく聞く。

日本アメリカに限らず、一極集中気味の国なんて珍しくもないと思う。地方田舎から工場に人が集まって都市形成されるというのは、近代的な都市形成モデルとして普遍的らしいし。ゲマインシャフトゲゼルシャフトが云々みたいな。

あと田舎は人の流れが少ない分、色々な意味保守的だと言われる。どこの国も国土の大半が田舎だとなれば、どこの国も総体的には保守的という事になるんだろうか。日本じゃ自民が人気だし(野党無能から当然、みたいか話をする気はありません)。

アメリカだってリベラルの先陣を切る国のようだけれど、ニューヨークなんてアメリカのほんの一部の一部……

と思ったけれど、一応調べたら民主党与党時代結構長いんですね。トランプは根強い人気だけれど、ちょっと前には民主政権黒人大統領が生まれたくらいだしな。

でも保守的姿勢が強いからこそ、という部分もあるのではないかと思う。逆説的だけれど、ぬるい保守の湯にずっと浸かるのではなく、強烈な保守的態度があればこその反動も強い、みたいな。

Permalink |記事への反応(0) | 19:57

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2023-03-07

ヨッピーは二人いる

昨今はてブ民度が低いと一部で話題になっているが、はてブには返信が無いからこそ秩序が保たれているように思う

返信が無いゆえにヤバい奴の行動も1回に制限されており、意識は低いが総体的には民度は低くないと言える(それでもヤバい奴はブコメブコメしてくるが)

しろ返信が付いた場合ヤバい奴が無限に元記事関係無い所でレスバや荒らしをする事で、サービスとしての民度が低くなるのは2chまとめサイトTogetterコメ欄を見ていれば想像に難くない(ゲハとか半分近くのクソスレ・クソレスが数人のヤバい奴によって形成されている)

ブコメスター自分以外に非表示にするだけでも元記事の人がリンチされていると感じる事は少なくなるだろうが、そもそもネット上で意見表明を行う事を人類が辞めない限り、ネットリンチの様なものはなくならないだろう

とここまで書いて、ヨッピーひろゆきって相性悪そう、と思い検索したところある記事の中でヨッピー自信が5chのゲハ荒らしをしているかのような文章があった

https://travel.spot-app.jp/sagaonline_hiroyuki/

記事の冒頭でいつも通りただふざけているだけだが「ゲハ民度が低いか荒らしてもいいんだ」という事を遠回しに肯定しているように見えるし、記事の内容も2chひろゆきと討論するという清濁合わせ持った認識で、今回の繊細で神経質な訴えとはえらくちぐはぐな印象を受ける

ここから導き出される結論は「ヨッピーは二人いる」

Permalink |記事への反応(1) | 14:44

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2022-06-23

思想歴史狭間

 研究の専門を問われると、答えに窮する。一応、思想史をやっているのだが、思想史というとよくわからない。そこで簡便のため、歴史をやっています、と答えることもある。しかしこれこそ、全く間違い千万自称である日本史研究として自分研究を認めてもらいたいと、何度も歴史学系の雑誌論文投稿したが、一度も採用に至ったことがない。査読結果に書いてある不採用理由簡単である。僕の論文はあまり思弁的すぎて、実証性を欠く、というのだ。この指摘は、思想史立場にいるものにとっては、非常に頭の痛い指摘である思想史の分野では、あまり事実の羅列に過ぎて、思弁的でないということが批判対象となる。思弁的な論理合理的に組み立てることに研究論文の眼目がある。これが、歴史学と真逆なである

 思想とは、人が思ったこと考えたことであり、思想史とは、人が思ったこと考えたことの歴史であるしかし、人の考えたことがそのまままるっと資料に残されていることなどまずない。大著をいくつもものした人であっても、そこに書かれていることに矛盾があったりすると、その人が何を考えているのか途端にわからなくなったりする。一つ一つの概念時代によって、また人によって意味が異なり、それをどのような意味で用いているのかを確定するには手間がかかる。そして、そうであるからこそ、思想史研究の叙述は思弁的にならざるを得ない。単に書かれていることではなく、書かれているものと書かれているものとの間の関係、書かれた時の状況などから総合的にその時その人が考えていたことを明らかにするからだ。新しい資料を積み上げて細かく実証しても、矛盾と不整合が増えるばかりでどこにも辿り着けなくなってしまう。ここが、細かく明らかにすればより解像度が上がる歴史学と、思想史学とが決定的に異なる部分だ。

 だからといって、思想史学が歴史学でないというわけではない。人の営みを分析するとき、どのような政策が出されたか、どのような契約が行われたか、何について合意たか、といったことを分析すれば、人の営みの歴史はわかるが、なぜそれらの人々がそれを行ったか、ということについては十分に明らかにならない。たとえば、資料を発掘すれば、太平洋戦争期に戦争協力をした人などいくらでも新しく発見することができる。しかし、その事実いくら指摘しても、なぜその人たちが戦争協力をしたのか、どう考えてそれを正当化したのか、あるいは正当化せずとも正しいことのように考えているように振る舞ったのか、ということについては、何もわからないのである。何の思想史分析もなしに、その人たちは国に騙されたのだ、とか、ファシスト的心性を抱えていたのだ、と断じることは、客観的見方ではない。なぜ戦争協力をしたのか、ということについては、一人ずつ、その人の生きてきた人生、書いてきたものを取り上げ、分析し、その人の価値観優先順位、置かれていた状況、表現戦略といったことを、コツコツと吟味していかなければならない。その時に取り上げる資料がすでに広く知られていたものであったとしても、その資料から思想を読み込んでいくという作業がそれまでなされていなかったというのであれば、その研究には新規性があり、意義があるのだ。あるいはその場合、たとえば検閲弾圧があったり、出版事情が悪かったりして、かえってその人の考えを示す何の手がかりもないということがあり得る。それでも、ある人の思想総体的分析するという場合は、合理的範囲でその人の考えの範疇を示すぐらいのことは、しなければならない。そうした思想史分析を、実証的でない、と切り捨ててしまえば、いつまで経っても平板人間理解しか歴史の中に生まれない、ということになってしまう。

 さらに厄介なのは思想史分析の結果が、概念だけ取り出すと、既存研究との違いがわからない、という場合である。たとえばある歴史上の人物Aが主張したXという概念重要だったとして、当然様々な歴史研究はAはXを主張した、と論じる。そして、思想史研究がそのXについて分析し、それはこれこれこういうXであった、と論じたとしても、その研究を遠目から見れば、やはりAはXを主張した、という論文に見えてしまうのである思想史研究者の間では、「これこれこういう」という、そのXに至りそれを規定するところの論理重要になるわけだが、歴史研究者には、その論理の中に何か新しい資料だとか、裏付けるこれまで知られていない資料だとか、そういうものが入っていないと何が新しいのかわからない。AはXを主張したという歴史事実に変わりはないではないか、というわけである先の戦争協力の論理で行けば、いかなる理由があれ、結局皇国日本肯定して戦争協力をしたではないか、というわけだ。それで結局、その「これこれこういう」という論理の部分が思弁的で実証的でないと歴史研究者に批判されることになり、思想史歴史との間の溝はますます深まるばかりなのである

 これは研究分野、手法の違いということで、仕方ないことなのかもしれない。だが、だからと言って思想史研究新規性学問無意味だということにはならない。全ての人間行為にはその人の思想が伴っているからだ。

* * *

 以上のことは全てイチャモンである。僕の思想を表したものではない。実際のところ、僕に宛てられた「思弁である」「難解である」という査読結果は、「お前の論は一貫しておらず破綻しているのでまず論文になっていない、小学生からやり直せ」という意味であるから、変に解釈して大きな敵と戦わないようにしたい。論理シンプルに、証明実証的に、新規性は明快に。それに沿ってたくさん書けば、評価も頂けて、就職もできるというわけだ。僕にはできない。せめて諸賢の憐憫を乞う。

Permalink |記事への反応(0) | 23:00

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

2022-06-08

anond:20220608103529

総体的相談にはふわっとしたこと言ってあしらうけど

個別対応として自分の視界内に現れたら排除無視するって別に珍しくはないでしょ

Permalink |記事への反応(0) | 10:40

このエントリーをはてなブックマークに追加ツイートシェア

次の25件>
ログインユーザー登録
ようこそ ゲスト さん
Copyright (C) 2001-2025 hatena. All Rights Reserved.

[8]ページ先頭

©2009-2025 Movatter.jp