
はてなキーワード:経済的利益とは
このマクロ経済政策に関する論争は、突き詰めると異なる経済的利益を持つ二つのグループの価値観とリスク許容度の対立に帰結することが非常に多いです。
積極財政とデフレ脱却の是非を巡る議論は、保有する資産によって経済的な利害が分かれる、以下の二つの派閥の対立図式として整理できます。
保有資産の特性: 現預金、日本国債、保険、年金などの資産を多く持つ層(特に高齢者層)。
最大の利益:デフレ(物価下落)と円高。物価が下がると、現預金の実質的な購買力が上昇するため、最も利益を得ます。円高は輸入品を安くし、現預金の国際的な購買力を高めます。
懸念:積極財政によるインフレは、現預金の実質価値を目減りさせる「資産への課税」と見なされます。
保有資産の特性:株式、不動産、事業資産など、インフレと名目成長によって価値が上昇する資産を持つ層。
最大の利益:インフレと円安。インフレは資産の名目価値を押し上げ、実質的な債務(借金)の負担を軽くします。海外株を持つ場合は円安で得します。
この議論がなかなか収束しないのは、互いの経済的利益と価値観の前提が根本的に異なるからです。
最終的に、どちらの政策パッケージを採用するかは、「誰の利益を優先し、どのような未来の日本経済を目指すのか」という、経済学というより政治的な価値判断に行き着きます。
この二つの派閥の対立を緩和し、国民全体が納得できる「折衷案」を見つけ出すことが、現代の日本経済政策の最大の課題と言えます。
その「アカウントを見てみたらSNSを中心に文筆/モデルなどで発信されている金井 球さんという方でした」(江口)のくだりは、パブリシティ権があり得る方だった(一般人ではないのでパブリシティ権ないとはいえないのであった)という意味じゃないかな。みんな肖像権とか言ってるけど、そこじゃなく。
江口寿史のツイートだとパブリシティ権で解決したことが分かるけど、それが金井球氏の経済的利益に最も便利だったからか、肖像権の問題にするのは江口の作家性として譲れなかったからか、どちらかは不明。いずれにせよ民事的に解決済みなので、外野には今後の表現の問題で参考にする以外のことはない。
江口寿史問題の発端、金井球氏の「わたしはわたしだけのものであり、人間としてさまざまな権利を有しております」の言葉を尊重すると、金井氏をむやみに被害者扱いしない、共感しないというのが、俺の倫理なんだよな。なお、「わたしはわたしだけのものであり」の言明には同意しない。権利は当然ある。
むやみに同情するくらいなら経済的利益を理論づけた方がよく、そしたら受忍限度と、表現の自由一般および江口寿史の作家性の参酌含めて諸般の事情との比較衡量になる肖像権よりも、顧客吸引力について「専ら」を緩く捉えてパブリシティ権で攻めた方がいいということなのかなと法律の素人は想像した。
以下で展開される議論は、アメリカのある哲学者が学術誌の査読(ピア・レビュー、同業者による査読)の適切さを確かめるためにでっち上げたデマ論文の内容であり、しかもその論文はある雑誌に受理された。
このことから投稿者は、文化人類学者ではないが、いくつかの考察を試みる。
-
1. 以下の内容は、「サル山のボス猿とそのなかま」が信奉するペニス信仰と、それに対する「フェミニスト」の反論の両方を痛烈に揶揄している。これらの議論は、ここ「はてな」での果てしない同種のやり取りの上位互換となっている。つまり、そのことに気づかないでいる、いわば自己相貌失認を患う矮小な関係者の姿をアナロジカルに揶揄している。
-
2. 仲間による「レビュー」を経て認められた「議論」が、いかに穴だらけなものであるか、つまり、特定のコミュニティの支配イデオロギーとはしばしば、ブードゥー教の偶像崇拝にすぎないことを示唆している。
-
3.投稿者はこのデマ論文の紹介により、いわば原始人に優れた棍棒の作り方の一例を教唆することになるかもしれない。いずれにせよ、上位互換の議論がデマであると著者により暴露されたことは、はてなでの「議論」の有効性の上界を抑えられたことを意味する。平たくいうと、0くxく1のように、xの取りうる範囲が有限なある一定の値以上にならないことである。原始人たちが、今後どのような道を選ぶのか知らないが、進化の選択肢があることを付け加えたい。
-
4.敷衍すると、この論文の内容に限らず、はてなでの任意の「議論」には、それの上位互換となるある学術的な議論を作ることができる、という可能性が示唆される。平たくいうと、はてなの投稿を分析すれば論文が書けるかもしれない。
-
-
この論文「概念的なペニスは社会構成物である」は、ジェイミー・リンゼイとピーター・ボイルによって2017年にCogent Social Sciencesに掲載された研究論文であり、ペニスという概念が単なる解剖学的な器官ではなく、社会的に構築されたものであり、それが有害な「毒性のある男性性」(toxic masculinity)と密接に関連しているという革新的な主張を展開しています[1]。著者らは、この「概念的なペニス」が、ジェンダー・アイデンティティ、生殖に関するアイデンティティ、社会および家族の力学に深刻な問題を引き起こし、女性やその他のジェンダー周縁化されたグループにとって虐待の根源となり、レイプの普遍的な原因であり、さらに気候変動の概念的な原動力であると結論付けています[2-4]。
伝統的に、ペニスは男性の生殖器または性器として圧倒的かつ議論の余地のないものとして科学的に認識されてきました[5]。しかし、著者らは、この見方が「過度に還元主義的」であり、ペニスを持つ人間の経験の多様性を完全に表現できていないため、「首尾一貫しない構成物」であると指摘します[6]。
この主張の根拠として、まず解剖学的なペニスが必ずしも男性の生殖器官としての役割を果たすわけではないという事実が挙げられます[5]。例えば、怪我を負った者、配偶者を強制できない者、子孫を産むことに興味がない者、医学的に不妊の者、またはアセクシュアルを自認する者など、ペニスを持つ多くの人々が生殖を行いません。これらの例は依然として「男性」を構成するかもしれませんが、彼らのペニスを生殖器官として特定することは明確に誤謬であるとされています[5]。
さらに重要な点として、ペニスを持つ女性が数多く存在することが強調されます[5]。これには、性別適合手術前のトランスジェンダー女性や、女性と自認し、性別移行を望んでいない染色体上の「男性」が含まれます[5, 7]。文化的な有害な常識に反して、これらの人々にとって、彼らの性器(ペニス)は、生殖に利用される場合があったとしても、男性の性器として最もよく理解されるべきではありません[7]。このような人間の表現の多様性という重要な事実に照らして、ペニスを具体的に男性の解剖学的な器官と概念化することは、非常に問題があり、言説的な再検討が喫緊に必要であるとされます[6]。
著者らは、ペニスが「男性性に対する首尾一貫しない構成物」であるとし、ペニスは解剖学的な器官としてではなく、**ジェンダー遂行的な、非常に流動的な社会構成物**である「概念的なペニス」として理解されるべきだと主張します[6]。この「概念的なペニス」は、ジェンダーに関連する様々な遂行的な行為や発言を通じて社会で確立されるペニスの操作的な表現です[6]。
この概念的なペニスが、**「毒性のあるハイパーマスキュリニティ(hypermasculinity)」と等型写像的(isomorphic)な関係にある**とされています[1, 8-10]。この等型写像関係とは、二つの異なる構造が、その構成要素間の関係性において本質的に同じ形を持っていることを意味します。ここでは、概念的なペニスという社会構成物が、毒性のあるハイパーマスキュリニティの行動や心理と鏡像のように一致しているということです。
特に、この等型写像関係は、**「マチスモ・ブラガドシオ」(machismo braggadocio)**という概念によって媒介されます[10,11]。マチスモは本質的に攻撃的な男性のプライドを指し、ブラガドシオは傲慢な自慢の性質を意味します[12]。これらが一体となって、社会的に男性的な心や異性愛規範的な女性の心がペニスを「客観視」し、それを介して男性性と支配的な男性の権力ダイナミクスを遂行的に表現する具体的な描写であるとされます[12]。
この等型写像関係において、概念的なペニスは、ハイパーマスキュリンな男性が権力のない主体的な立場から強力な立場へと自身を再配置するために、**「主体」「客体」「動詞」の三つの役割**を果たします[11-14]。
この主体としての役割は、男性が性的な「征服」や「パフォーマンス」について自慢する際に明らかになります[16]。また、「俺は彼女にやった」「彼女はもっと欲しがった」といった表現に見られるように、名詞の「それ」("it")が客体的な概念的なペニスを女性の経験の知覚された主体に変え、概念的なペニスを男性のジェンダーパフォーマンスに関してさらに客体化します[16]。これにより、概念的なペニスは、ハイパーマスキュリンな心において、ペニスを主体として(男性の)セクシュアリティを強力な現実とする脱所有化(deappropriative)のツールとなります[16]。
この傾向は、性的なアイデンティティが根本的にヒエラルキーの維持に利用されるという考え方によって説明されます[17]。概念的なペニスを行動を表す動詞として使用することで、ハイパーマスキュリンな男性は、他者を抑圧し、脱制度化する社会的なヒエラルキーを強制し、自己を認識的に高めます[17]。この現象は、ラップ音楽におけるミソジニーの分析や、「マン・スプレッディング」(manspreading)と呼ばれる、公共交通機関などで男性が足を開いて座り、不必要に広いスペースを占有する行動にも見られます[17]。マン・スプレッディングの言い訳は、解剖学的なペニスと睾丸が「快適さ」のためにスペースを必要とするという男性的な社会言説に直接基づいていますが、これは概念的なペニスを遂行的な社会構成物として見た場合、周囲の空きスペースを「レイプする」ような支配的な物理的空間の占有であり、毒性のあるハイパーマスキュリニティへのマチスモ・ブラガドシオ等型写像を通じて最もよく理解されるとされます[17]。
マチスモはハイパーマスキュリンな本質であり、ブラガドシオはその表現です[10]。現代の思考における概念的な要素としてのペニスは、マチスモ・ブラガドシオの概念によって、ハイパーマスキュリニティにおける最も毒性があり問題のあるテーマと自然に等型写像関係にあります[10]。これらのテーマは、解剖学的なペニス自体には適用されず、生殖しない個人やアセクシュアルな個人にも関連性を持たないため、ペニスは既存の男性的な社会的な比喩を演じるために利用される、構築された社会的な客体、つまり言説的な「概念的なペニス」として理解されるべきだとされます[10]。
概念的なペニスが毒性のあるハイパーマスキュリニティに等型写像的に同定されることの最も問題のある結果の一つが、**気候変動**であると指摘されています[4, 18]。気候変動は、まさにハイパーマスキュリニティの特定の有害なテーマによって引き起こされており、これらは概念的なペニスと識別される気候生態学への支配的な略奪的アプローチを通じて最もよく理解できます[18]。
著者らは、地球が急速に2℃の気候変動閾値に近づいている原因が、現在の資本主義構造を維持する家父長的な権力ダイナミクス、特に化石燃料産業にあると主張します[18]。科学、政治、経済の言説におけるハイパーマスキュリンな支配と、生態系への修復不能なダメージとの関連性は明確であるとされます[18]。破壊的で持続不可能であり、ヘゲモニー的に男性的な環境政策と行動へのアプローチは、男性優位の精神性による自然の「レイプ」の予測可能な結果です[19]。この精神性は、男性心理に対する概念的なペニスの役割を認識することによって最もよく捉えられます[19]。
特に、資源を安価に略奪し、家父長的な経済的利益のためにその内在的な価値を奪われた後、荒廃し減退したまま放置されるような「未開の環境」にこの精神性が適用されるとき、概念的なペニスに内在するレイプ文化の延長が明らかになるとされます[19]。気候変動は、最もよく言えば、ハイパー家父長制社会が地球の生態系にメタファー的に「マン・スプレッディング」している例であると述べられています[19]。
この問題のある傾向の根底にある理由は、現代の資本主義理論、すなわち新資本主義理論が、科学と社会におけるハイパーマスキュリンな焦点から直接その合理性の主張を引き出していることにあります。そしてこの焦点は、概念的なペニスとの同一視によって最もよく説明されるとされます[20]。毒性のあるハイパーマスキュリニティは、概念的なペニスから直接その意義を引き出し、新資本主義的唯物論の支持に自身を適用します[20]。この新資本主義的唯物論は、特に炭素排出の化石燃料技術の無制限な使用や、未開の自然環境の無謀な支配において、気候変動の根本的な原動力であるとされます[20]。
この分析から導かれる実践的な推奨事項は、気候変動研究において、可能な限りハイパーマスキュリンなペニス中心の視点を避けるように、政治や科学の言説への関与方法を変えるべきであるというものです[3]。
結論として、著者らは、ペニスは男性の性器や生殖器として理解されるべきではなく、むしろPermalink |記事への反応(0) | 19:03
私は、チームみらいのうちの何人かと一緒に働いていたことがある。
はてなでは、彼らに十分人権意識がないとか、本当の弱者を知らないとか批判する人たちがいる。
そういう主張も当たっているところがあるとは思う。
ただ、正直、いまの東大卒の人間の多くはすでに日本を見限っていて、個人的な経済的利益のみを最大化する行動に走っている人が多い。
そういう風潮の中で、不完全にせよ、「日本を良くする」ことを標榜して、実際に行動してくれているエリート層がいるというのは、日本にとってはありがたいことじゃないかな。
そうしない方がよほど個人的には儲かるのに、わざわざ「日本を良くする」なんていう面倒なことをしてくれていることにむしろ感謝すべきなんだろうと思う。
ママだから話したこと。家の中だから出した表情。自由な振る舞い。
世界のどこにも逃げ場がないことを悟った日。
あの日から、私の人生なんて、中身が空っぽの操り人形だ。もしかしたら生まれた時から。生まれる前から。
「私の人生」だと、「私の思い出」だと、「私が受けた愛情」だと、信じて疑わなかったものは「コンテンツ」であり「演出」だったのだと、知った。
有体に言えば「金儲けの手段」。
それでここまで育つことができたのだとママは言う。こんなに贅沢な暮らしができているのは当然じゃないんだって。
知らないよ、そんなの。
要らなかったよ、そんなお金。
私の人生を、返して?
お金で買い戻せないものを、私本人の同意もなしに、勝手にお金に換えないで。
そうして、傷ついて、泣いて、訴えるほど、あの人はまた、新しいコンテンツを手にするんだ。あの人の手から、インターネットを通して、世界へ。
消えてしまいたい、決して消すことができない「私の情報」が刻み込まれたこの世界から。
だけど私が消えることそれ自体が、あの人にとって最上のコンテンツになってしまうから、それも安易に選べない。
買ったアナタも同罪だ。どういう考えでそうしたのかは知らないよ。ただただ、買わないで欲しかった。買えるほどの経済力を持った「大人」なら、買わずに止めて欲しかった。
今すぐにその頭を壁にぶつけてでも、私に関する全てを忘れて欲しい。難しいのは知ってるよ。だったらもう、私が消えるしかないというのも。会ったことすらないのに、執拗に追いかけてこないで。私の人生を、暇つぶしのコンテンツとして消費しないで。
本当は、愛したいよ、愛されたいよ。普通に生きていたい。
愛するママ…だったあの人が見ていたのは、私じゃなくて私を使った先にある「数字」だった。あの人が愛していたのは「数字」で、それを打ち出せる「あの人自身」だった。私はただの器に過ぎない。
空っぽの器に響いた、温かくて気の合う親友が、恋人が、勝手に垂れ流されてきた私生活、春を売るような親の仕事と収入を全部把握した上で近づいてきた人間だったと知って、発狂しない人間なんている?
[ソーシャルメディアに子どもの写真をシェアすることを「シェアレンティング」といいます。共有(シェア)と親(ペアレンツ)の合成語です。シェアレンティングは、子どもの同意なしに写真が流出し、深刻なプライバシー侵害を引きおこすといいます。]
https://note.com/shobunsha/n/n1e589365f4c3
[Plunkett氏は、自分の子どもが写っているコンテンツを軽い気持ちで共有している親と、利益を得る目的で共有している親を区別しており、そうした営利目的の親の活動を「商業的シェアレンティング」と呼んでいる。
「そうした親たちは、現在または将来何らかの経済的利益を得ることを期待して、自分の子ども、または、場合によっては家族全体のプライベートな瞬間や私的な瞬間を撮影し、デジタルで共有している」(同氏)]
[自分の実生活が公開されるというこの側面は、ソーシャルメディアで働く子どもたちと、プロのエンターテインメント業界で働く子どもたち(大抵、架空の登場人物を演じたりする)を区別する重要な要素だ。これから数十年かけて、ティーンエイジャーを経て大人になっていく多くのキッズインフルエンサーたちは、精神崩壊や屈辱、極めて個人的な場面など、自分が最も弱っている瞬間を親によってインターネット上で世界中の人々に公開されたという事実と向き合わなければならなくなる。]
品種改良や増産が生態系を支えてきたという話には、一部の真実がある。
だが、それをもって「経済成長が植物を守る」などというのは、論理のすり替えだ。
経済成長の本質は消費の加速であり、品種改良や農業技術は経済成長によって進んだ技術ではなく、人類の生存圧によって開発された知識体系だ。両者を混同してはいけない。
実際には、経済成長の圧力が原因で農地が森林に置き換わり、単一作物の大規模栽培が土壌を枯渇させ、生態系を破壊してきた歴史のほうが長い。
経済が植物を救ったというより、経済活動が植物の多様性を破壊してきた。
遺伝的多様性の喪失、農薬や除草剤による土壌微生物の死滅、それらが植物系全体のレジリエンスを奪っている。
たしかに「一部の植物」は経済的利益によって救われているが、「全体の植物環境」は経済の都合によって崩されている。
次に、寿命が縮まらずに人類が滅ぶ具体例を問うなら、それは無数にある。
極端な気候変動によって作物が育たなくなる。海面上昇によって沿岸部の居住不可能地帯が爆発的に増える。パンデミックの頻発で社会システムが崩壊する。
これらは寿命が変化する前に、文明そのものが機能不全に陥るシナリオだ。
平均寿命が75年から65年に縮むなどという段階的な悪化を経るとは限らない。
「死ぬまで生きられる」社会が一気に崩壊することはありうるし、それは寿命という統計的指標には現れない。
寿命は「今すでに生きている人間の最期までの長さ」であり、未来の人間が生まれてこないことには反応しない。
だが絶滅とは、「未来の人間が生まれてこないこと」だ。統計に数字が出ないことを「問題が起きていない」と判断する態度そのものが、人類を滅亡に導く。
経済成長は問題そのものではない。だが、それを制御できないまま環境や生態系を代償にして突き進めば、最後に残るのは、技術で延命された少数の人間と、死んだ地球の上にあるガラスの温室だけだ。
寿命がどうこう言っているうちに、生きる意味すらなくなる。問題は何年生きられるかじゃない。生きているその時間に、どれだけ生きる価値のある環境を維持できるかだ。
かなり不謹慎な内容を書く。思考実験としてとらえてもらいたい。
話の内容上、まったく議論ができない人も双方の立場からあらわれると思うが極力無視する方針である。
現代社会では、いつの間にか「貞操」や「性の自己決定権」に対して極めて高い価値が付与されています。
が、本当に「性」というものに、そもそもそこまでの価値があるのだろうか?
この問いは、「暴力」と「性暴力」に本質的な違いがあるのかという問題にもつながります。
まず、暴力そのものが絶対に許容されるべきではないことはよく理解しています。
私は若干の違和感を覚えるということです。
なぜ「貞操」には、単なる暴力を超えた無謬の価値が付与されているのでしょうか?
たとえば、江戸時代の日本(独身者に限る)では、フリーセックスが一般的であったと言われています。
同様に、世界の多くの地域や時代では、現代ほど貞操観念に価値が置かれていなかったケースが見られます。
第二次世界大戦以降、キリスト教的価値観、特にピューリタニズムの影響が広がる中で、「性の自己決定権」が基本的人権の一部として重視されるようになりました。
しかし、これも一つの思想にすぎないはずではないか、という疑問が浮かびます。
性暴力の被害者(多くは女性)が、自らの人生や自己が「不可逆的に毀損された」と感じることが、現代社会では一般的な理解とされています。
しかし、私の考えでは、むしろ「性暴力によって失われる価値など存在しない」と考えるほうが、
被害者が救われるのではないでしょうか。
姦通の有無に価値を見出さなければ、性暴力の被害を「自己の価値の毀損」と結びつける必要がなくなるからです。
ここで誤解しないでいただきたいのは、これは性暴力を容認する考えではないということです。
暴力そのものが許容されないように、性暴力も決して許されるべきではありません。
ただし、性暴力によって失われるものが、単なる暴力以上のものである必要はないのではないか、という視点を提示しているだけです。
風俗業に従事する女性が、現代でも差別や偏見にさらされる背景には、「貞操」に無謬の価値があるとされる社会的認識が根付いていることが挙げられるでしょう。
たとえば、「風俗嬢が性暴力の被害に遭った」という話を聞いて、
「失われたものは一般の女性ほど大きくないのではないか」と一瞬でも考えてしまった場合、
それは貞操観念が議論すら許されない絶対的な価値を持っている証左といえるのではないでしょうか。
「貞操観念に至上の価値を持たせることで、女性が現代社会において経済的利益や権利を引き出そうとしているのではないか」という見方も湧いてきています。
これは批判ではありません。
むしろ、社会で弱い立場に置かれてきた女性が、この価値観を利用して有利な状況を作り出すことは、ある種の合理的な戦略だと考えています。
ただし、貞操観念を社会の大前提として固定してしまうと、むしろ女性の価値が男性より低いまま据え置かれ、
現代の戦争が「内政干渉を目的として起こるものか、それとも別の要因が主で、内政干渉は正当化のための大義名分にすぎないのか」という問いは、非常に興味深い視点を含んでいます。
現代戦争に関して言えば、後者の考えのほうが現実に即していると考えられます。その理由を以下に説明します。
1.戦争の主な要因
現代の戦争は、以下のような多様な要因が絡み合って引き起こされています:
- 地政学的要因:資源の争奪、重要地域の支配、経済的利益を守るため。
- 経済的要因:天然資源や貿易ルートの確保、経済危機の転嫁。
- 権力闘争:地域の勢力均衡や、国家間の競争。
- テロリズムや反乱の抑制:国家の安定性を維持するため、他国が介入することがある。
- イデオロギーの対立:民主主義、独裁主義、宗教的要因、国家主権とグローバル化の衝突。
このように、内政干渉を直接の目的とするというより、資源や安全保障、権力維持などの目的が先にあり、その手段として内政に干渉することがある、という方がより現実に合っています。
2.内政干渉は正当化のための「名分」
歴史的に見て、現代の多くの戦争では「内政干渉」が正当化のための口実として用いられることが多いです。たとえば:
この場合、「内政干渉」という名目はあくまで表面的な理由であり、実際には資源、地政学、経済的な利益、または戦略的要因が裏にあることが多いです。
例えば、アメリカのイラク侵攻は「大量破壊兵器の存在」と「民主化支援」を大義名分としましたが、その背後には石油資源や中東地域の安全保障という要素が強く関わっていました。
3.現代の戦争とグローバル化の影響
グローバル化が進展することで、国家間の相互依存が強まり、伝統的な領土紛争に加え、経済、技術、テロリズム、情報戦が要因となる新しい形態の戦争が現れています。こうした状況では、内政そのものが国家間の争いに巻き込まれやすくなり、内政への干渉は戦争の一側面に過ぎなくなっています。
たとえば、経済的制裁や情報操作を通じて相手国の内政に影響を与え、相手の安定性を揺るがすことで間接的に優位性を確保するケースも多くなっています。
結論
「内政干渉が戦争そのものの目的である」という考え方は限定的であり、現実には「内政干渉は戦争を正当化するための大義名分や手段」として機能するケースが多いです。つまり、経済的利益、権力闘争、資源競争、安全保障といった要因が根本的な動機となり、それらを合理化し、正当化するために内政干渉という枠組みが使われるのが現実です。
この視点に立てば、「内政干渉が主目的」という考えよりも、「他の要因や目的が主となり、それが正当化の口実として内政干渉を用いる」という考え方の方が、歴史的な事例や現代の国際情勢においても現実に即していると考えられます。
現代の戦争が「内政干渉を目的として起こるものか、それとも別の要因が主で、内政干渉は正当化のための大義名分にすぎないのか」という問いは、非常に興味深い視点を含んでいます。
現代戦争に関して言えば、後者の考えのほうが現実に即していると考えられます。その理由を以下に説明します。
1.戦争の主な要因
現代の戦争は、以下のような多様な要因が絡み合って引き起こされています:
- 地政学的要因:資源の争奪、重要地域の支配、経済的利益を守るため。
- 経済的要因:天然資源や貿易ルートの確保、経済危機の転嫁。
- 権力闘争:地域の勢力均衡や、国家間の競争。
- テロリズムや反乱の抑制:国家の安定性を維持するため、他国が介入することがある。
- イデオロギーの対立:民主主義、独裁主義、宗教的要因、国家主権とグローバル化の衝突。
このように、内政干渉を直接の目的とするというより、資源や安全保障、権力維持などの目的が先にあり、その手段として内政に干渉することがある、という方がより現実に合っています。
2.内政干渉は正当化のための「名分」
歴史的に見て、現代の多くの戦争では「内政干渉」が正当化のための口実として用いられることが多いです。たとえば:
この場合、「内政干渉」という名目はあくまで表面的な理由であり、実際には資源、地政学、経済的な利益、または戦略的要因が裏にあることが多いです。
例えば、アメリカのイラク侵攻は「大量破壊兵器の存在」と「民主化支援」を大義名分としましたが、その背後には石油資源や中東地域の安全保障という要素が強く関わっていました。
3.現代の戦争とグローバル化の影響
グローバル化が進展することで、国家間の相互依存が強まり、伝統的な領土紛争に加え、経済、技術、テロリズム、情報戦が要因となる新しい形態の戦争が現れています。こうした状況では、内政そのものが国家間の争いに巻き込まれやすくなり、内政への干渉は戦争の一側面に過ぎなくなっています。
たとえば、経済的制裁や情報操作を通じて相手国の内政に影響を与え、相手の安定性を揺るがすことで間接的に優位性を確保するケースも多くなっています。
結論
「内政干渉が戦争そのものの目的である」という考え方は限定的であり、現実には「内政干渉は戦争を正当化するための大義名分や手段」として機能するケースが多いです。つまり、経済的利益、権力闘争、資源競争、安全保障といった要因が根本的な動機となり、それらを合理化し、正当化するために内政干渉という枠組みが使われるのが現実です。
この視点に立てば、「内政干渉が主目的」という考えよりも、「他の要因や目的が主となり、それが正当化の口実として内政干渉を用いる」という考え方の方が、歴史的な事例や現代の国際情勢においても現実に即していると考えられます。
公職選挙法違反って結局は金銭授受がないと成立しない。今回の件はその証拠が出てきたわけではないので、スキャンダラスではあれど、から騒ぎにすぎない。全て斎藤氏の人望で説明がついてしまう。一応。
斎藤氏が当選することで経済的利益が発生するスキームがあるのかもしれないが、それも即違法とは言い難いのははてなの皆さんならご存知だろう。
あと、利害関係者云々で吹き上がるのは流石に噴飯物だ。なんとなれば、全ての有権者は利害関係者だ。
結論としては、斎藤氏が県民に圧倒的に支持されたという事実は重たいものであり、警察もそれを理解しているから安易な行動をとることは絶対にない。調べれば何か出てくるかも、といった見込み発進は絶対にしない。斎藤氏側はそもそも雑な金銭授受はしない。
つまり失職しない。
私が思うに今回の件は斎藤氏による意図的なリークではなかろうか(なかろうかと言うか、意図的な公開なのはそもそも自明なのだが)。反斎藤な人々に意味深な餌を与えてバカ騒ぎさせて消耗させる、という腹づもりじゃないかな。折田氏は顔と名前を売り、立花氏への悪感情は相対的に減る。
パブリシティー権は名前や容貌による顧客吸引力から生じる経済的な利益が保護の対象となる。パブリシティー権は法律で明確に規定された権利ではなく、裁判例を通じて確立されてきたものであり、声に対するパブリシティー権は認められないと考えられているが、その認知を求める運動も行われている。
一方で、物やキャラクターにはパブリシティー権が認められていない。キャラクターは「物」とみなされ、パブリシティー権は対象外ですが、IPの権利者は商標登録などによって知的財産として保護している。そのため、権利者以外が勝手に使用することはNG。
多くの声優は、一般には名前が広く知られているわけではなく、演じたキャラクター名で初めて認識されることが多い。
こうした状況で、キャラクターの声の収録の仕事では無く、個人の営業活動において
日本の失敗に関する色々を見ていて思った事は
この国は正社員を守った結果まともな資本主義国家になれなかった社会なんだなという事
本来当然の権利として守られるべき労働者の安全保障や人権はおざなりにされた
老人が権力を握って仕事をしているのだから当然仕事内容も前時代的なやり方が是とされる様になり
大卒の数は増える一方で企業にその専門性が持ち込まれる事は殆ど無かった
無能でも成果を出さなくとも絶対に解雇されない社員制度などという高度経済成長の中でしか維持不可能な幻想はいい加減にもう捨てるべきだ
企業は経済的利益を追求する場所であって無能を保護する老人ホームじゃない
この意見にはいくつかの妥当な点がある一方で、問題点や矛盾点も存在します。以下にそれぞれについて指摘します。
妥当な点
1.政治思想の分類について: この意見が述べているA派とB派の二つの政治思想の区分は、現代の政治において存在する重要な分断を捉えています。特に、国内優先(A派)と国際主義(B派)という対立構造は、多くの国で見られる傾向です。たとえば、移民・難民問題や経済政策に関して、国内の利益を重視する立場と、グローバルな視点で問題を捉える立場の対立は実際に見受けられます。
2.外交政策の違い: A派とB派における外交姿勢の違いに関する説明もある程度妥当です。A派が国防や科学技術の向上を重視し、B派が国際関係を重視しつつ、衰退を受け入れようとする姿勢をとるという見解は、現実の政治における対立を反映しています。
• この意見は、政治思想をA派とB派という二つのグループに過度に単純化しています。実際には、政治的な立場や意見は複雑で、多様な要素が絡み合っています。A派とB派のように簡単に分けることは難しく、多くの人々は中間的な立場を取ったり、特定の問題に応じて立場を変えたりします。したがって、これらの二元的な分類は、現実の多様な政治状況を正確に捉えているとは言い難いです。
2. B派の説明の偏り:
• B派に対する説明が一方的でネガティブな側面に偏っています。たとえば、B派の考え方として「衰退を受け入れよう」という部分が強調されていますが、国際主義や人道的な価値観に基づくアプローチも存在します。B派の人々が必ずしも国の衰退を望んでいるわけではなく、持続可能な成長や多国間協力を重視する姿勢もあります。
• B派の移民・難民政策に対する説明において、「生活費や保険は日本国民が負担すればいい」という考えを全体的な特徴としている点が偏っているように感じられます。移民や難民受け入れの政策は、経済的利益や人道的支援といった多様な要因に基づくものであり、単純に負担を強いるものとするのは正確ではありません。
• A派の説明において、「日本の税金で外国の人間を養って治安あらされるのは嫌・・・。だけど労働力としては使いたい」という立場に分かれるとしていますが、このような態度は矛盾しています。外国人労働者を必要としながら、彼らを完全に受け入れることを避けるのは倫理的にも論理的にも難しい立場です。
•自民党や野党に関する記述の一部に、性別や特定のグループに対するステレオタイプな見方が見受けられます。政治的立場や意見を性別や職業的エリートに基づいて決めつけるのは、公平な議論に欠ける姿勢です。
意見の中には、現実の政治状況を捉えた妥当な指摘もありますが、全体的に二元論的な見方や偏見が強く、現実の複雑な政治情勢を反映しきれていない部分があります。政治的な問題は単純な分類だけでは理解できない多様な要素を持っており、より広い視点での分析が求められます。
ジャニー喜多川氏による少年たちへの性加害問題を受けて、NHKが元ジャニーズタレントの起用を再開するにあたり、社会がこれを受け入れるためには、いくつかの重要な対応が求められるでしょう。以下に、そのポイントを示します。
1. 透明性の確保
•NHKは、元ジャニーズタレントの起用に関して透明性を確保するために、なぜその判断をしたのか、そしてそのプロセスがどのように進められたのかを明確に説明する必要があります。視聴者や社会に対して、単なる利害関係や人気による決定ではなく、公正で透明な基準に基づくことを示すことが重要です。
•NHKが被害者に対して敬意を払い、その声に耳を傾ける姿勢を持つことが重要です。被害者の立場に寄り添い、再起用の過程で彼らを傷つけないような配慮を行うことが求められます。また、被害者への支援活動に積極的に関与し、その姿勢を明確に示すことも効果的です。
•ジャニーズ事務所における問題を受けて、NHKとしても自らの内部でのハラスメントや不祥事防止策を強化する姿勢を示すことが大切です。再発防止に向けた具体的な取り組みや対策を講じ、その内容を公表することで、社会からの信頼回復を図ることが求められます。
•NHKは、公的放送局としての社会的責任と倫理観に基づいた行動が求められます。単なる視聴率や経済的利益を優先するのではなく、公共放送としての使命を果たすため、社会的な倫理や道徳観に基づいて判断を下すことが期待されます。
•視聴者や社会の声に耳を傾け、その意見を反映させる仕組みを持つことが重要です。例えば、オープンな対話の場を設け、視聴者からの意見やフィードバックを積極的に受け入れ、対応を改善していく姿勢を示すことが信頼回復に繋がるでしょう。
•ジャニーズ事務所との関係性を見直し、適切な距離を保つことが重要です。特定の企業やタレント事務所に過度に依存しない、独立した立場を維持することが、NHKの信頼性を高めることにつながります。
これらの対応を誠実に行うことで、NHKは元ジャニーズタレントの起用再開に対する社会の理解を得やすくなり、信頼を回復することができるでしょう。社会的な課題に対して真摯に取り組む姿勢が求められる場面であり、これを怠るとさらなる批判を招く可能性もあるため、慎重かつ積極的な対応が必要です。
https://www.youtube.com/watch?v=sCAgJtAZDmo
@_k_i_t5703
3時間前
何件か民事やってるけど、その程度の経験ですが、まず裁判は双方得しません。裁判って基本両方損するように進みます(と断言してますがもうそうとしか見えないって意味です)。開示で収入とか言ってる人いますが、これで儲けるのは法曹関係者だけです。つまりは弁護士だけです。弁護士と裁判所関係の人はある意味ツーカーなのでいい訴状や答弁書をかけるかどうかなんて関係ありません。それは裁判やってみれば出てくる書類が大した文章でない事でわかると思います。逆を言えば弁護士が入るかどうかでびっくりするぐらいスムーズに手続きが進みます。
あと民事は逃げ得ってよく言われますが、それはまじですべてを捨てる覚悟がある人だけです。弁護士がいるだけでほんとにありとあらゆる情報が握られますんで。
まさにこれはその通りです。
弁護士にもよりますが、着手金〇〇円、成功報酬は経済的利益*16.7%が原則で、切手代や訴訟手数料、証人尋問の際の交通費や日当(訴訟費用という)が別途かかります。
例えばあるvtuberが100万円の名誉棄損を原因とする給付判決をもとめる訴訟を提起した場合、着手金は10万円、成功報酬は16.7万円が最低でもかかり、訴訟費用が別途かかります。
訴訟費用が払えない場合、訴訟救助の申し立てをして猶予してもらうことはできますが、いつかは払わないといけません。
また、裁判にかち、加害者がお金を払わなかった場合、強制執行や財産開示手続き、銀行口座の照会を行うこともできますが、こちらこちらで別途弁護士費用や訴訟費用が掛かりますし、執行官に日当を払わないといけません。
なお、銀行口座の照会ですが、弁護士法24条に基づく調査もできますが、費用はある程度かかりますし、強制力がないので教えてもらえるとは限りません。
(行政機関に対して、戸籍謄本の取得やナンバープレートの番号から所有者を割り出すのであれば、所有者に損害賠償債権を持っていることなどを疎明すれば、行政機関は比較的すんなり教えてくれます)
非常に裁判はめんどくさいです。だから、弁護士はこの手の依頼を嫌がるのですが…最近は弁護士が多いのかやってくれるところも多いです。
なお、ここら辺の費用をある程度加害者に負担させることはできます。
ただ、裁判所は被害者にも過失があると心の底で思ってるのか、弁護士費用や訴訟費用を全額負担させる方向にはなってません。
訴えられたら、基本的に弁護士は見つからない確率が非常に高いぞ
加害者案件は筋悪案件として弁護士が非常に嫌がり、着手金倍とか普通にやる
まじで戦っても勝てない可能性が高い以上、避けるしかねえんだよ
ネオフラワー茨木も名誉棄損の加害者側になって弁護士がついてたけど、何かがあって弁護士が辞任して、代わりの弁護士が見つからず、仲岡しゅん先生が勝ったんだよ
しかも、このケースは同じような発言を相互にしてるケースだと普通に勝ててるからマジでやべえんだよ
AEDを使って勝てるといくら喧伝しても、弁護士がつかなければ、普通の人は勝てない
確かに実体法では緊急事務管理の規定はあるけど、実体法では勝てると騒いでも、弁護士を付けないと手続法上負けてしまうんだよ
ついぶる
@harvey61616
はぐれ街弁エピクロス派 ▶6○期→イソ→独立→ボス→法人 ▶街弁の「快」を追求したい😇・高配当ETF💰・ROLEX👑 ●世の中全てポジショントーク
ついぶる
@harvey61616
負け筋事件(経済的利益が見込めないもの)を受けるということは、着手金だけで裁判を最後までやり抜くということ。
ついぶる
@harvey61616
被請求者側の負け筋をどれくらい受けるかで、売上は結構変わるよね。
もちろんリスクを十分に説明して書面化し、着手金を高めに取ることが前提。
ついぶる
@harvey61616
・緊急になるまで放置している。
·
6.4万
件の表示
ジジェクはもともとTERFだよ
https://www.compactmag.com/article/wokeness-is-here-to-stay/
スコットランド政府は、ウェイク主義とLGBTの原因をほぼ極限まで推し進めました。2022年12月、スコットランドの議員たちが個人が法的に性別を変更しやすくする計画を承認し、16歳および17歳にも新しい自己認識システムを拡張した際、「平等のための歴史的な日」と称賛しました。基本的に、自分が感じる通りの性別を宣言すれば、それに基づいて登録されるというものです。予測される問題は、レイプで有罪判決を受けた生物学的男性であるイスラ・ブライソンがスターリングの女性刑務所に収監された際に発生しました。
ブライソンはレイプ容疑で裁判に出廷した後に初めて自分が男性ではなくなったと決定しました。つまり、自分を女性と認識している人物が、ペニスを使って2人の女性をレイプしたのです。これは論理的です。もし男性性や女性性が身体とは無関係であり、すべてが主観的な自己定義に依存するのであれば、ペニスを持つレイプ犯を女性収容者と一緒に収監しなければなりません。抗議があった後、ブライソンは男性刑務所に収監されました。しかし、これもスコットランドの法律の下では問題があります。というのも、今度は自己認識した女性が男性刑務所に収監されることになるからです。
ロンドンのタビストッククリニックは、上級当局から、ホルモンを抑制して胸などの性別に基づく特徴の発達を一時停止させる思春期抑制剤の使用を制限するよう命じられました。タビストックでは、9歳から16歳の性的アイデンティティを選ぶことができないように見える若者にこれらの薬を投与していました。タビストックの臨床医は、性的アイデンティティを決定できない若者が環境の圧力の下で強制的な選択をする危険があると考え、これにより彼らの真の傾向(主にトランスであること)を抑圧してしまうと判断しました。思春期抑制剤は、そのような若者が思春期に入るのを延期し、性的アイデンティティについて成熟した年齢で決定する前に考えるための時間を与えるために必要でした。
タビストックでは、評価のために送られたほぼすべての子供に思春期抑制剤が投与されており、自閉症や問題を抱えた若者も含まれていました。これらの若者は、性的アイデンティティについて不確かであると誤診されていた可能性があります。言い換えれば、人生を変える治療が、医療的な性別移行を望んでいるかどうかを知るにはまだ若すぎる脆弱な子供たちに行われていたのです。批評家の一人は、「性別に苦しむ子供には、時間とサポートが必要であり、後で後悔するかもしれない医療的な道に進ませるべきではない」と述べました。
パラドックスは明らかです。若者が成熟を一時停止して性的アイデンティティについて自由に決定できるようにするために思春期抑制剤が投与されましたが、これらの薬は他の多くの身体的および精神的病理を引き起こす可能性があり、若者たちにこれらの結果を伴う薬を受ける準備ができているかどうか誰も尋ねませんでした。ヒラリー・キャス博士は、「決定を下すための時間を稼ぐのではなく、思春期抑制剤がその決定プロセスを妨げる可能性があるかどうかを知る方法はありません。脳の成熟が一時的または永続的に妨げられる可能性があります」と書いています。
西洋の多くのジェンダークリニックでは、医師が「疑うことのない肯定的アプローチ」を採用することを余儀なくされていると批評家の一人が指摘しています。これは、子供たちの他の基礎的な精神衛生の危機にほとんど注意を払わずに行われています。この圧力は実際には二重のものです。一つには、臨床医はトランスロビーに恐れを抱いており、思春期抑制剤に対する懐疑主義をトランス個人が性的アイデンティティを実現するのを難しくする保守的な試みと解釈します。これに経済的な強制力が加わります。例えば、タビストックの収入の半分以上は、若者の性的問題の治療から得られていました。つまり、ここにあるのは、政治的に正しい圧力と経済的利益の計算という最悪の組み合わせです。思春期抑制剤の使用は、もう一つの覚醒資本主義のケースに過ぎません。
https://anond.hatelabo.jp/20240721230541
ジジェクは道を誤った /メラニー・ゼルMelanie Zelle [スワースモア大学の学内新聞『スワースモア・フェニックス』の編集者] ※削除済
ttps://web.archive.org/web/20230303073524/https://swarthmorephoenix.com/2023/03/02/zizek-has-lost-the-plot/
私が哲学に興味を持つようになったのはスラヴォイ・ジジェクのおかげである。
彼の著書『終焉の時代に生きる』と『パララックス・ヴュー』に偶然出会い、中学2年生の私が苦労して読み進めたこの本が、
ジジェクの文章は、彼が即興でする賛美のすべてにおいて、素晴らしく説得力があると私は感じた。
本棚に積まれた1000ページにも及ぶ矛盾の山に憤慨しながら『Less ThanNothing』を読み通したのは、高校時代に果たした偉業だった。
私は、ジジェクの長編作品の論旨を理解できるかどうかで、自分の知的価値を測るようになった(現在はほとんど理解できないが、以前はまったく理解できなかった)。
それだけに、現代の政治文化に関する最近の記事で、ジジェクを非難するのは心苦しい。
しかしある意味で、ジジェクと私の関係は、彼が何について間違っているのかだけでなく、
なぜこのような著名人が、あのように明らかな知的陥落にはまることができたのかを理解しようとする上で、
有利なポジションに私を置いていると感じている。
私の怒りの主な対象は、先週発表されたばかりのジジェクのエッセイである。
そのタイトル「WokenessIsHere ToStay」は、たぶん私がそれほど警戒するものではなかったと思う。
ジジェクの哲学は、ヘーゲル、ラカン(そしてフロイトも)、そしてもちろんマルクスへの愛着から、オーソドックスな、ほとんど伝統主義的なものと特徴づけうる。
他方で世間一般におけるジジェクのペルソナは、意図的に培われたものだと私は主張したいが、ディオゲネス的挑発者であり、象徴破壊者であるが、自分勝手なものではない。
ジジェクのこうした面が、彼の論文や公開講演会、そして彼の知的活動への、より親しみやすい影響を及ぼしているようだ。
したがってジジェクが、クリックした人々が眉をひそめるようなタイトルを選んだことを読んでも、私は驚かなかった。
私は、ジジェクのお気に入りのトリックのひとつである、正式な哲学的分析の範囲外と考えられている文化の側面を選び出し、
喜びを感じながらそれを切り裂くことに慣れてしまっていた。
(ある講義では、カンフー・パンダについて論じており、また別の講義では、ヨーロッパ各地のトイレの特殊な構造が、
ポストイデオロギー的なポストモダニズム世界の概念に対する究極の反論となっている)。
ほとんどの場合、ジジェクの指摘は最終的に重要であり、さらに重要なのは、彼の広範な哲学のいくつかの要素について、面白おかしく、
しかし(おそらく結果的に)効果的に紹介者の役割を果たすことである;
そして一見したところ、"WokenessIsHere ToStay は同じ公式に従っている。
トランスジェンダーの権利をめぐるスコットランドの政治的混乱から始まり、他の現代政治問題にも触れ、最終的にはフロイトとラカンへの言及で締めくくる。
表面下に潜む構造的な違いを無視しても(これについてはまた述べる)、この作品には、ジジェクのいつものトーンとは正比例しがたい苦渋が感じられる。
これは、私の最大の関心事である彼の議論の内容については言うまでもない;
ジジェクは、スコットランドにおけるトランスジェンダーの権利をめぐる、最近の政治論争をめぐる議論について、記号論的な分析を行っているわけでもなければ、
正確に他の多くのことと結びつけているわけでもない。
結局のところ、ジジェクは皮相な哲学的手法とともにただ単に政策論争に参加しているだけであり、遺憾ながら完全に間違っている。
ジジェクは、過去10年間にリベラルな知識人全体に伝染した観を呈するトランス医療をめぐるパニックに陥っている。
ジジェクのいつもの懐疑論は、ここではいつもの懸念荒らしconcern trollingの再現に留まる。ジジェクはこう書いている:
「思春期ブロッカーは、タヴィストックでの診察に送られたほぼすべての子供に投与された。
その中には、性的指向がはっきりしないという誤診を受けた可能性のある自閉症の若者や、問題を抱えた若者も含まれていた。
言い換えれば、医学的な性別移行を望むかどうか判断できる年齢に達していない脆弱な子供たちに、人生を変えるような治療が行われていたのだ。
批評家の一人が言ったように、『性別の悩みを抱える子供には時間とサポートが必要である。あとになって後悔するかもしれない医療措置に進むよう仕向けられるべきではない』 」。
この一節は疑問を投げかける。ジジェクは、その知的能力において、思春期ブロッカーが何であるかさえ知っているのだろうか?
ジジェクの引用の使い方は、この作品の中で頻繁に行われていることから特に明らかであり、すでに示唆されていることを裏付けている。
実際、彼が引用したガーディアンの記事を読んでいれば、上で引用した段落を修正できたかもしれない。
ジジェクが引用した記事の上の行には、"異性間ホルモンは16歳からしか処方されず、専門家によれば思春期ブロッカーは不妊の原因にはならない "と書かれている。
したがって、このスロベニア人に知的怠惰の恩赦を与えることもできない。 これは純粋で単純な不誠実さであり、危険な形態である;
さらにひどいのは、ジジェクが記事の冒頭で取り上げた最初の文化的分析対象である。
『コンパクト』編集部がありがたいことに、ページをスクロールすると引用文が表示されるようになっているのだ(まだ彼の論調を十分に理解していない人のために)。
それはこうだ: "女性だと自認する人物が、ペニスを使って2人の女性をレイプしたことを我々は知っている"
“We have a personwho identifiesitselfas awoman usingits penis to rapetwo women.”
ジジェクが言及しているのは、アイラ・ブライソンの事件である。
この有罪判決は、スコットランドにおいてレイプで有罪判決を受けた史上初のトランス女性となり、
トランスの人々に対する「懸念」を持つすべての人々にとってのロールシャッハ・テストとなった。
ここでジジェクは、基本的な事実認識が間違っている。ブライソンの性別移行の時系列を誤って伝えているからだ。
さらに問題なのは、読者を煽動するために、本質化するような言葉を使い、さらに誇張していることである
(「ペニスを持ったレイプ犯が、囚われの女性たちと刑務所にいる」という表現が思い浮かぶ)。
ブライソンを「彼he」、そしてさらに厄介なことに「それit」と、ジジェクが性別を間違えて表現することに固執するのは、
ジジェクがトランスのアイデンティティを尊重することを、裁量に任された、善行次第のものだと考えていることを示唆している。
ジジェクはこの論文で、控えめに言ってもトランスフォビックtransphobicだ。
しかしそれ以上に、ジジェクは退屈で、独創性がなく、不誠実で、怠惰である。
彼はトランスの人々について、『ガーディアン』紙や『ニューヨーク・タイムズ』紙の同様の記事からは得られないようなことを何も書いていない;
この時点でようやくジジェクが哲学について語るかもしれないと思うのも無理はないが、残念ながらそれは間違いである。
記事の次の部分はさらに長く、さらに面白くない。『コンパクト』誌に掲載された別の記事の宣伝である。
(中略)
で、どういうこと? なぜジジェクはこんなことを書くようになったのか?
その答えは、対立的でありたいという彼の誤った願望にある。
彼は、この作品の中で他者が陥っていると彼が非難する事柄に陥っている。すなわち、自分を悩ませる他者を、自分自身の中で勝手に思い描く罪を犯しているのだ。
Theanswer lies inhis misplaceddesire to be oppositional. Ironically, heisguilty of the thing he accuses others offalling prey to within thepiece, that of envisioning forhimself an Other that hauntshim.
[ジジェク]「要するに、ここにあるのは、政治的に正しい突き上げと、金銭的利益の残酷な計算との最悪のコンビネーションなのだ。 」
思春期ブロッカーの使用は、[ジジェクによると]"目覚めた資本主義 "のもうひとつの事例であるとされる。
ここでジジェクは、ジャニス・レイモンドの1979年の『トランスセクシュアルの帝国』に端を発する、トランスジェンダーの人々が選択する様々な処置や療法は、
製薬企業にとって重要な経済的利益をもたらすものであるという、一見したところ長年にわたる議論に訴えかけている。
そうすることで、救命医療へのアクセスを容易にするべきだと主張する人々を、自分たちの身体をめぐる現実の物質的な対立のために戦うのではなく、
資本の側、つまり極悪非道な個人の側にいる人々として捉え直すことができる。
バトラーやフーコーを読んだことのある人物が、このように書くことができるのは、こうした運動が誰のためになるのかという、権力についての混乱がジジェクを盲目にさせているのだ:
[ジジェク] 「性的混乱に「異常」なことは何もない。「性的成熟」と呼ばれるものは、長く複雑で、ほとんど無意識のプロセスである。
それは激しい緊張と逆転に満ちている。自分の心の奥底にある「本当の自分」を発見するプロセスではない」。
作品全体と同様、これはジジェク特有の哲学的プロセスといううわべに包まれたいつもの本質主義と、トランスフォビアtransphobiaである。
この最終的な帰結は、英米でトランスジェンダーの物質的な生活にすでにダメージを与えているヒステリーhysteriaの波に、ジジェクがお墨付きのスタンプを押したということだ。
ジジェクは、社会の変化に懐疑的なジャーナリストや知識人の瘴気miasmaの中に紛れ込んでしまったかのようだ。
これはポストモダンの懐疑主義に非常に批判的な人物から出た究極の皮肉である。
過去の思想家からの豊かな引用を悪しき議論の隠れ蓑に変え、気まぐれさを苦味に変えてしまう。
私たちにとって悲しい日であり、多くの意味でジジェクにとっても悲しい日である。
ジジェクは豊富な理論的な著作の中で最高のパフォーマンスを発揮し、ここでは最悪のパフォーマンスを発揮している。
このエッセイを読むと、あなたは感じ取るだろう。少なくとも少しは彼がそれを自覚していることを。
[終]