はてなキーワード:終戦とは
いよいよ夏本番となってきた
……がそれは間違いである
というのも当時中学2年生くらいだった私は部屋の暑さに我慢できなく、
当時まだ出始めだったのかどうか分からないが窓エアコンを導入してもらったのである
「北海道はお盆が過ぎれば涼しくなる」という謎の言い伝えにより冷房を入れる家庭が少なかったのだ
なので基本的に扇風機のみで過ごす家庭が多く私のところでもそうであった
当時同じような状況下で過ごしていた子や家庭はあっただろうか
当時中学生だった私と同級生の子たちはあの暑さで勉強していたのか
そんなことを考えつつここ数年私の環境は冷房エアコンなしであった
なぜそんな行為に及んだのか
それは当時の子達と同じ状況を味わうためであった
この暑さのなか勉強など出来るわけもないという認識を改めたかった
結果としてはできた
この年齢でやることといったら何もないが少なくとも体験はできたのだ
しかし当時の若かりし頃の年齢と今では訳が違う
近所を見渡してみると室外機や窓用エアコンを見ることが多くなった
それだけ需要があるのだろう
今後この試練の大地がどうなっていくのか
親が政治家したことによって、子や孫に統治能力が発生する、といった現象はありえない。
政治的・経済的弱者への無理解の存在が、「政治能力は遺伝する」という根強い実態の原因になっている。
終戦から80年が経つ。いい加減、二世政治家・三世政治家という実態は止めるべきだ。
初代ガンダム
ガルマ謀殺からのザビ家の内輪もめを誘発し最終的にキシリアを殺してザビ家の排除達成
地球連邦とジオン共和国との終戦協定で終わるので、一応の独立達成エンド
悪いのはナチス!と同じく悪いのはザビ家!と責任を押し付けられたので、国民へのダメージは最小限で終わった
Zガンダムへと続く
ジークアクス
サイド6のスペースノイドのデモは煽られているだけだと一蹴される
5年後の0085にキシリアによるギレン公王暗殺からの大規模内乱が発生
連邦のエースパイロットとしてドズル・ザビを打ち取ったアルテイシア・ダイクンが女王に即位して新政権発足
連邦との和平の象徴だったイオマグヌッソは大量破壊兵器で連邦との関係は再び悪化
連邦にはバスク・オムをはじめとするスペースノイド過激派が温存
アルテイシアの兄キャスバルはアルテイシア派からの暗殺を逃れて地球に降りる
前に「ぼくのかんがえたさいきょうの政党」って記事書いたけど、
反応ゼロでまあまあ寂しかったです。叩きでも批判でもいいので、反応が欲しいとです。
https://rodoto.org/policy/war-ready/
という順番で、って制度を考えてみました。
「ポツダム宣言は“べし”が多くて判断に困る」?それ、あなたの読解力の問題です。
そもそも“べし”って言葉が多義的だって、ちょっと文法かじってたら誰でも知ってますよね?でも、文脈見れば分かるんですよ。だから、文脈から意味を判断できないって、それもう“べし”のせいじゃなくて、あなたの国語力の問題。
それに「今は使われない用法」とか言ってますけど、1945年当時は普通に使われてたんで。
「当時の標準」が「今と違う」からって、「おかしい」って言うの、ちょっと歴史的視点が足りなすぎません?言語は時代によって変わるんですよ。だから今の基準で文句言っても、筋違い。はい、論破。
で、AIの話してますけど、「AI君に聞いたら〜」って、それあなたが理解できてないことの言い訳をAIに押しつけてるだけですよね?
あなたの脳内AIでマウント取ってる暇があったら、少しは文法書でも読みましょう。
そして最後の「当時の人でも分かってなかったんじゃね?」ってやつ。これ歴史リテラシーなさすぎてビビります。
当時の外交官も知識人も、それで意思決定して動いてるんですよ?
理解してなかったら終戦できてないし、今ごろあなた、日本語使ってない可能性あるんですよ?
はい、というわけで。文脈読めない、歴史わからない、AIで代弁させる。そんな状態で「べしが〜」って文句言うの、やめましょう。
まず最初に確認しておきたいのは、「原爆が落とされたから戦争が終わった」という主張ですね。はい、それ自体は一部事実として言われていることです。しかし、それ“だけ”で全てを語ろうとするその単純化は、極めて危険です。
冷静に見てください。ソ連の参戦、ポツダム宣言、そして国内の物資枯渇、あらゆる要素が複合的に絡んで終戦に至ったわけです。原爆“だけ”が決定打だというなら、あなたはその瞬間しか見ていない。まるでコップの水が溢れた瞬間だけを見て「この一滴がすべてだった」と叫んでいるようなものです。
次に、「原爆を落とされるくらいしないと日本は止まらなかった」とのことですが、それは非常に乱暴な歴史観です。では問います。ではなぜドイツには原爆を落とさなかったのでしょう?日本が“アジアの加害者”だから正当化されると?その論理が通るなら、世界中で数多の大義名分を掲げた虐殺がすべて“必要だった”ということになります。あなたはそれに同意されるのですか?
「日本人は加害者である」という認識は大前提として必要です。私もそれを否定する気はありません。しかし、「加害者である」ことが「無差別大量殺戮を受け入れよ」という理由にはなりません。加害と被害は天秤にかけるものではないのです。そこを混同して“被害者ヅラするな”と煽る姿勢、極めて非知的です。
最後に、オバマ大統領の訪問を“被害者意識の加速”とする点。そこにも感情論が先行しています。事実、あの訪問は加害も被害も超えた「核なき世界」へのメッセージであり、国際的には非常に評価されました。あなたがそれを“パフォーマンス”と見るのは自由ですが、それをもって日本人全体を十把ひとからげに論じるのは、思考停止です。
ですので、あなたの投稿は「歴史を断片で見て感情で結論を出す」典型的な誤ったロジックであると言わざるを得ません。私はそう考えます。
この記事はけっこう刺さってしまったなあ。このおじいさん2010年当時95歳か。この世代の戦争体験を生の声で聞ける時代は、もう終ってしまったのだなあ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/2b0b23e248c99cadd393ab67a11a0a5ce4a6662d
「許してくれ、許してくれ」とガマで泣き崩れた 沖縄戦で母子を撃った90代の元日本兵が謝罪
6/19(木) 6:04配信
元兵士の照屋さん(仮名)が住民をあやめてしまったと告白した時に巡った壕。入り口に生える草は光がさす方に背を伸ばしていた=3月6日、沖縄本島(竹花徹朗撮影)
「私は銃の引き金を引いてしまった。今でも何度も夢に見る。苦しくて、苦しくて。このにおいは間違いなくあの親子のいた場所です」
2010年のある日、沖縄本島内のガマで、照屋さん(仮名)は泣き崩れた。90代半ばの元日本兵。言葉にならないような震えた声で「許してくれ、許してくれ」と何度も謝った。
臨床心理士の吉川麻衣子さん(49)=那覇市=が沖縄戦体験者でつくるグループ「語り合いの場」を立ち上げて5年目だった。
参加の意思があるか、ないか。体験者に繰り返し確認するのが吉川さんの手法だ。
事前面談が21回に及んだ照屋さんは、吉川さんにだけ、自身の過去を打ち明けていた。「みんなの前では語らないけれど、場には参加したい」との相談に、吉川さんは「無理しないで、自分のペースとタイミングを大切にしましょう」と伝えた。
体験者は照屋さんを含め9人。グループは月1回、それぞれの戦争体験で関わりのある場所を巡ったり、公民館で集ったりした。
「私は兵士でした」。照屋さんはそう自己紹介した以外、ほとんど口を開かず、表情も変えずに部屋の隅でじっと座っていた。記憶が残る戦地をどう巡るか意見を出し合った時も、「私にはそういった所はないので、みんなに任せます」と仏頂面だった。
それでも、会を重ねるごとに表情は和らいでいった。吉川さんと出会って6年が過ぎた頃、「話がある」と切り出した。「いまさらで申し訳ない。皆さんがいい、って言ってくれたら、あのガマで手を合わせたい」。吉川さんは「ようやく照屋さんのタイミングが来たのだな」と受け止めた。
慰霊の日を終えた後の夏の日だった。照屋さんは仲間たちとあのガマを訪れた。
意を決したように入り口に近寄るが、すぐに立ち止まる。しばらくして再び歩を進めると、また止まった。
そんな動作を何度か繰り返すと、仲間の男性が照屋さんの手を取り、中へ入った。
「間違いない」。照屋さんはそうつぶやくと、ごつごつとした岩場に膝をつき、嗚咽(おえつ)を漏らした。
90代半ばの元日本兵、照屋さん(仮名)は一通り泣いた後、語り出した。
所属部隊のガマが米軍に見つかったこと。住民が避難していたガマを部隊が使うと決めたこと。ガマには住民がぎゅうぎゅう詰めで、上官が「ここは今から我々が使うから、一人残らず出て行け」と命じたこと。痩せ細って泣く赤ん坊を抱いた母親が照屋さんの足にすがり「お願いです。この子だけは生かして」と叫んだこと。そして照屋さんがその親子を銃で撃ったこと-。
告白の後、参加者全員で線香をたいて手を合わせた。メンバーの一人に「話してくれてありがとう」と声をかけられると、今度は声を上げ、子どものように涙を流した。
帰り際「一人では二度とあの場所に近づけないと思っていたが、みんなが背中を押してくれた」と頭を下げた。「戦争の時にしてしまったことは消えないけれど、供養になれば…」と言葉を継いだ。
照屋さんは1915年、沖縄本島中部で生まれた。厳しい父と優しい母に育てられ、かけっこが得意だった。25歳の時、五つ年下の女性と結婚。生まれた娘には豊かな子に育ってほしいという願いを込め、「トミ」と名付けた。
太平洋戦争で東南アジアの戦地に出兵。「家族を守るため自分の命をささげる」との決意だった。戦争が激しくなった44年、沖縄に配属された。日本軍と県は住民の県外疎開を促していた。照屋さんと入れ替わるように妻と子は船に乗った。
45年8月15日、日本の敗戦を伝える玉音放送を収容所で聞いてうなだれた。ようやく戦争が終わったと実感したが、県外に渡った妻子とは連絡が取れなかった。行き先は聞いていなかった。
2人が長崎に疎開し、原爆で命を落としたことを知ったのは数年後のこと。自分が殺してしまった親子への罪悪感と、心の拠(よ)り所だった家族を失い「生きている価値がない」との絶望感から沖縄を離れたが、仕事の関係で間もなく戻らざるを得なくなった。
それでも故郷の集落には足が向かなかった。手元に1枚だけ残った妻と子の写真は肌身離さず持ち歩き、なるべく人と接しないよう、ひっそり暮らした。
戦時の体験を明かすまで65年。照屋さんと対話を重ねてきた臨床心理士の吉川麻衣子さん(49)は「話したからといって、罪悪感を払拭したいという思いがあったわけでも、自分の行為を正当化したかったわけでもないと思う」と胸の内を推察する。
「照屋さんにとってこの場なら大丈夫と安心して、自分で話せるようになるのに、それだけの時間が必要だった。私はただ待って、機が熟したと本人が感じた時にそっと背中を押すという距離感を保ってきた」と振り返った。(戦後80年取材班・吉田伸)
この記事、読んでいて本当につらかった。
なにより衝撃だったのは、泣き叫ぶ子どもだけでなく、その母親まで撃ったということ。あまりに酷すぎて、もし自分が家族だったら、このおじいさんを絶対に許せないと思った。久米島守備隊の住民虐殺事件など、日本軍の行動を思い出しても、本当にひどい。
きっと、当時の兵士にとって、住民は守るべき存在ではなく、戦闘の妨げになる「障害」と見なされていたのだろう。でも、もしそうだとしたら、一体何のために戦っていたのか?普通に考えれば疑問に思うはずだ。だが、その「普通に考える」という倫理観は、命の危機にさらされた極限状態では働かなくなってしまうものなのだろう。
一方で、彼は自分の妻子を県外に避難させようとした。冷静な倫理観を失っていなかったともいえる。しかし、妻子は長崎で原爆により命を落とすという皮肉な結果を迎える。「因果応報」という言葉が浮かぶが、亡くなった家族にとってはあまりに残酷すぎる結末だ。
このおじいさんは1915年生まれ。つまり、戦中派(特攻世代)より一回り上の世代にあたる。戦後80年、この世代の体験談を聞ける機会はもはや残されていない。「普通に考えればわかるはずの倫理」が破綻した時代を生きた世代だ。象徴的な人物としては大岡昇平や奥崎謙三、俳優では池辺良。池辺のエッセイには、部下に恨まれた将校が海に放り込まれたエピソードなどがさらっと描かれており、ユーモアを交えて将校時代の下克上が語られている。奥崎は、部下の処刑をめぐって上官を追及したドキュメンタリーで知られる。
第一に、1910年代以前の生まれの「戦争を指導した大人世代」。上官や責任ある立場で戦争に関与し、戦後は沈黙を保って生き延びた人々。戦場で人間性を喪失し、それでも帰ってきた。
第二に、大正末期から昭和一桁生まれの「特攻・戦中派世代」。三島由紀夫、鶴田浩二、吉田満らが代表で、国のためひとのために尽くし、「美しく死ぬこと」に倫理を見出し、ある種過剰に倫理的だった。岡本喜八の映画作品にみられるこうした倫理へのアンチテーゼもまた戦中派の主題となった。
第三に、終戦時に少年期だった「焼け跡世代」。彼ら子供に目には、戦争から帰って沈黙した親たちの世代と国家報恩を信じて裏切られた兄たちの世代間ギャップがみえていたはずだ。
このうち、戦後に戦争体験を最も語ったのは特攻世代だった。戦前派は血塗られた過去に沈黙を貫き、焼け跡派は語れるほどの戦地体験を持たなかった。
特攻世代の特徴は「死の意味」を内面化しようとしたこと。彼らにとっては、「美しく死ぬ」ことで自分の運命を受け入れるしかなかった。その純粋さが戦後の道徳観につながり、吉田満に代表される感性は現代の保守層に理想視されてもいる。
しかしその倫理観には、自己満足や欺瞞が含まれている可能性もある。過去の自分の非を、倫理的になった「現在の自分」が糾弾するかたちには、どこか自己満足と偽善が入り込んでいる。ご都合主義というやつだ。
そして、その倫理観は被害者に対しても危うい。「恨まれて当然のことをした」という構図を強化してしまいかねない。戦場での行為は謝って済む話ではないことがほとんどだ。怨恨は抽象化され、「慰安婦」や「ホロコースト」のように象徴的な言葉として拡散され、世代を超えて敵意の燃料となっていく。
脚本家・橋田壽賀子も戦中派世代。「おしん」に出てくる夫・竜三は、隣組組長として若者たちを戦場に送り出した責任をとって自決する。そこには戦中派の「死によってけじめをつける」という倫理観が濃く反映されている。
死によって責任を取るという倫理のあり方は、戦争中は自分も戦意を煽っておきながら戦後になると民主主義的な道徳を語り始めた知識人の自己批判にも似て、実は同根なのかもしれない。終戦直後、小林秀雄は「近代の超克」を自省する知識人たちを相手に、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と言い放った。
知識人たちのある種の自己嫌悪に対する小林の態度は考えさせられる。
岸田秀は「ものぐさ精神分析」のなかで、酒を飲んでやらかしてしまった失態を例に挙げ、なぜ反省しているのに何度も同じことを繰り返すのか、そもそも「自己嫌悪」とは何かを分析した。倫理的に覚醒した自分がコントロールを失って暴れた自分を自省し、本来の自分は倫理的で、酔って暴れた自分は本来の自分ではなかったという卑怯なポジショニングのもとで成り立っているからだと喝破した。
現代のSNS社会では、こうした加害者の欺瞞的な贖罪を被害者がつけ込む形で、この構造がさらに先鋭化する。加害者には「反省し続ける姿勢」が求められ、被害者には「傷ついたままであること」が期待されてしまう。
ときに「病みアピ」とも呼ばれる行動は、関心を集めるための戦略になりがちだ。弱ったときは周囲が心配してくれ、攻撃されれば誰かが擁護してくれる──そんな「おいしい被害者」のポジションに依存してしまい、自分でも気づかぬうちに抜け出せなくなってしまう。
でも本当に必要なのは、「赦し」なのだと思う。贖罪は再生のきっかけにすぎない。
この記事に描かれた世代は、「死を美化する」戦中派とは違い、倫理的な生き方などできなかった。理不尽で泥臭い体験を抱え、時にはそれを笑いに変えてでも、ぶざまに生きてきた人たちだ。過去の行為を忘れたい、でも忘れられない──その葛藤とともに、不器用に、ぶざまに、しかし確かに生きてきた。
この世代の葛藤を描いだ作品に、山田洋次原作『少年寅次郎』(脚本・岡田惠和)がある。戦地から戻った父が罪悪感から娘の顔を直視できなくなる場面がある。彼は中国戦線で同じ年ごろの子どもを殺していたからだ。その罪の重みと、生きていかなければならない現実とのあいだで沈黙する姿が描かれる。魂が抜けたように無口な毎日を過ごす夫に対して、いつものちゃらんぽらんな性格にもどってほしい、とつぶやく妻のセリフは印象的だ。ひとたび戦場で倫理が破綻してしまった人間に対するまなざしとはそういうものだったのだろう。
これに対して戦中派の苦悩を描いだ作品として、山田太一のドラマ『男たちの旅路』も思い出す。特攻の記憶を引きずる鶴田浩二と、彼に恋する部下を演じた桃井かおり、上司役の池辺良の三者が見せたのは、世代間の倫理観の激突だった。上司役の池辺良が放った「筋を通すな」という一言は、戦中派の倫理観に対する戦前派からの強烈なカウンターだった。山田太一の、戦前派と戦中派の葛藤に対する繊細なまなざしがここに凝縮されている。
記事のおじいさんはまさに沈黙してきた世代だ。生きるために沖縄に戻らざるを得なかったこと、その土地で暮らしたこと、そして65年の沈黙。たった一度の涙より、その沈黙の重さにこそリアリティがある。
「贖罪でも正当化でもない」と吉川さんは言った。語らなかった時間のほうが、語られた言葉よりも重いのだと思う。
私たちは「贖罪の涙」や「被害者のトラウマ」ばかりに注目しがちだが、本当に大事なのは、「赦し」へ向かうゆっくりとしたプロセスだ。
「話してくれてありがとう」と言ってくれるグループの存在。「自分のペースとタイミング」で見守る吉川さんのような人の存在。そのほうがよほど重い。
被害者の側も、いつまでも「被害者であり続ける」ことはできない。
辺見庸の『もの食う人々』では、フィリピンの住民が「日本兵に家族をブタの丸焼きのように食べられた。でももう恨んでいない」と淡々と語った。その表情に、辺見は「悲しんでいる余裕もなく生きてきた強さ」を見たという。
人生って、つらい経験ほど上書き保存、楽しい記憶は名前をつけて保存──本来そうあるべきなのに、振り返ると逆になっていることが多い。
贖罪より、赦しの方がずっと尊く、強い。
人間、図太く生きていたいものだ。戦前派の多くはそうして沈黙を貫いてきた。自分もそうありたいし、あのおじいさんも赦されてほしい。
65年経って懺悔されても──という思いもあるが、戦争が人間性を狂わせるということは、後世の私たちが覚えておけばいい。
山田太一で思い出した「太一」つながりで、昨日は国分太一の番組降板が話題になっていた。あれがどんな問題だったかは知らないが、この記事のおじいさんのことを思えば、本当に取るに足らない騒ぎに思えてしまう。
もちろん、軽々しく比較するべきではないけれど、それでも、そう感じてしまう自分がいる。
200歳……もう人の年齢ちゃうなこれは。生きとるいうより、残っとる、って感じやな。生まれは1825年、江戸も江戸、まだ将軍がえらい顔しとった時代や。ほな、ぼちぼち振り返ってみるで。
• 1825年、江戸のはずれの農村に生まれた。土壁の家、井戸水で顔洗っとった
•子どもの頃は寺子屋に通った。筆で名前書けるようになるとちょっとえらくなった気がした
• 村に旅芸人が来たときだけが娯楽。三味線と踊りが忘れられん
•黒船来航は10代やった。村に話が回ってきて、大人たちが真っ青になっとった
•幕末の動乱、若いもんはみんな騒いどった。わしは遠くから見とるだけやったけどな
•明治維新のころはもう40近かった。刀を捨てるお侍見て、なんか時代が変わるんやなと思った
•明治の中ごろ、汽車が走り出して、町には西洋かぶれの人が増えた。背広とか、変な帽子とか
•度量衡が変わって、金の単位も変わって、わけがわからんようになった
•日清日露の戦争、息子が徴兵された。生きて帰ってきたけど目が死んどった
•明治が終わって大正になったとき、初めて写真館で家族写真撮った。あれは今でも大事な宝
•関東大震災はほんま恐ろしかった。火が追いかけてきて、必死に逃げた
•昭和になるころにはもう老いぼれてたけど、孫の顔を見るたびに元気もろうた
•太平洋戦争中は防空壕に孫と隠れたこともあった。空が真っ赤になった夜、よう覚えとる
•終戦、焼け跡、配給の列。米のありがたみはあのときが一番染みた
•高度成長期はただただ驚いた。町が光ってた。もう別世界やった
•テレビ、冷蔵庫、洗濯機が家に来て、うちも「文明人」になった気がした
•昭和が終わったとき、あぁ自分の時代はとっくに終わっとったんやなって思った
•平成は静かな時代やった。みんな忙しそうにしとったけど、なんか寂しさもあった
•スマホいうやつが出てきて、みんな下向いて歩くようになったの、不思議な光景やった
• 令和になって、もう完全に別世界。建物も空気も、人のしゃべり方も、なにか全部軽い
• 人が機械と話して、病院も全部自動。わしにはついていけんけど、若いもんは頼もしい
• 200年……ようここまで来たなぁって思うけど、今は毎日がまるで夢の中みたいや
• 歩けんけど、耳も遠いけど、心だけはまだ昔を歩いとる
あんまり偉いこともしてへん。戦も行かんかったし、金もようけ持っとらん。でも、山の匂い、畑の土、祭りの太鼓、孫の手のぬくもり……それだけで、もう十分生きた気がするわ。ほんまにな。
昭和10年代に組織された隣組は戦後も町内会として存続しています。
町内会は戦時下の隣組を母体として発展しました。戦後の社会状況に合わせて現在では地域住民の自治組織の仮面をかぶった国家社会主義的な組織として存続しています。
戦時下の隣組:第二次世界大戦中、政府は国民の戦意高揚や生活統制のために、全国の各集落に隣組を組織しました。隣組は、情報伝達、物資の配給、防空活動など、戦争遂行のための末端組織として機能しました。
戦後の解体と復活:終戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は隣組を「軍国主義的な組織」とみなし、その解体を指示しました。しかし、地域によっては、生活に必要な相互扶助の仕組みとして、名称を変えたり、活動内容を変化させたりしながら、町内会として存続する動きがありました。
自治組織としての再編: その後、町内会は、地域住民の自主的な組織として再編されました。防災、防犯、環境美化、福祉活動、地域交流など、地域社会の維持・発展に不可欠な役割を担うようになっています。
ただし、参加する住民の意識の向上は一朝一夕になしうるものではなく、国家からの減少したがゆえにかえって抑圧的なものに変容しています。
現代の町内会は、かつての隣組のような強制的な性格は薄れ、住民の自由な意思に基づいて運営されています。もちろん、地域によっては、加入率の低下や役員のなり手不足といった課題も抱えていますが、多くの町内会は、地域コミュニティの維持に重要な役割を果たしています。
町内会は、その成立の経緯において戦時下の隣組とのつながりを持つ前世紀的な組織です。戦後の社会の変化に対応できず、住民自治の組織として発展させたいという意志と裏腹にかえって腐敗したという側面も理解する必要があります。町内会が存続しているあいだは日本の帝国主義は続いていると言えるでしょう。将来の世代のためにもこれら全世代的な残滓を克服せねばなりません。