
はてなキーワード:精神論とは
そもそも、孫さんと組んでスターゲイトだのAIには大金を出すけど、宇宙開発はやりたくない、みたいなの、
結局トランプがその分野に対して個人的にどう思ってるかだけなんだよね…😟
同様に現政権の高市さんとか、片山さつきさんとかで不安になったのは、
今日のNHKはずっと見てたわけじゃないんだけど、点けっぱなしにしてたリビングのテレビから、
現政権には統一された国家観があるので、経済発展に自信がある、
ようなことを仰っていたのだけど、
国家観が必要だという意見は色々出てくるし、そこを否定するつもりはないんだけど、
でも、国家観なんて、人それぞれによってブレてるものなんじゃないの?😟
つまり、現政権の人間全員が統一した国家観を抱いているとしても、国民は違うじゃん…😟
俺の持ってる国家観と、俺の親族それぞれが持ってる国家観も違うんだろうし、
みんなが持ってる国家観は違うわけで、
俺はバカだから間違ってる可能性はあるんだけど、松下幸之助だろうが、安倍晋三だろうが、
ある意味神様だろうが、俺は権威がある人間が何と言おうが、自分の考えや信念が一応あるので、
まず、私は、何か考えを一つにするべき、という考え方が嫌いです
会社で社訓を朗読させられたり、チームプレイのスポーツでも多いです、チームの信念とかを統一させる
これは理解できる面もあるが、私はあまりそういう考え方が好きではない
例えば、交渉事があるとして、完全に人間同士が合意するなんて、不可能なのである
内心では、みんな何かを折っていたり、もしくは力がある人間が何かをゴリ押ししてるから成立している
そういうパワーバランスの元に成り立っていたりするのが現実である
私が個人的に、まあ理想論かもしれないが、望ましいと思っているのは、
みんながある程度バラバラの方向性を持っていたとしても、法的ルールとかシステムによって制御することで、
その代わり、できるだけ自主的に全体の方向に沿って流れてくれるように仕向けるのである
私は精神論で解決する、ということが嫌いであり、できるだけシステムで解決すべきだと思っている
社訓とか、統一された国家観のようなものは、確かにあるべきだとは思うが、全体を統一するのは難しい
もちろん、片山さつき氏が言いたかったのは、現政権メンバーのチームプレイが期待できる、という意味であることは分かっている
しかし、それと国民の国家観とがズレていたらどうするのか?すり合わせるのか?
私は、そういうすり合わせとかネゴみたいなものは、上述したように限界があることを分かっているわけで、
結論として、それはパワーゲームになり、最終的には政治家の国家観を国民に押し付けることで終わると思っている
もちろん、私はそれでも良いと思っている
例は悪いが、例えばナチスドイツだとしても、ナチスの国家観を国民に押し付ける、これはある意味では正しい、もちろん、ある意味では、である
システムという道路を先に整備し、みんながそのシステムに乗ってれば楽なんだ、と思うようになれば、国民は自発的にシステムに従うようになる
ここで、国民全体にも統一された国家観とか、教育勅語ではないが、国民全員に統一された方向性がなければ駄目、という話ではない
みんなの内心はバラバラであっても、とりあえずシステムに従っていれば楽である、損することはない、そういうシステムを構築することが重要である
松下幸之助や安倍晋三が何と言おうが、私は精神論や根性論が嫌いである
信号がない社会があったとして、精神論、根性論、国家観などで、交差点で衝突しないように気を付けろ、と言われるような話は私は嫌いである
永遠のリーグ王者。戦術は柔軟というより「勝てば官軍」。裏金パスも政治資金シュートも全部“プレーの一部”として処理。ベンチに謎のスポンサーがずらり。監督が代わっても結局同じサッカー。サポーターの半分は「他よりマシ」で来てる常連客。
その自民クラブを黄金期に導いた元監督。カリスマ性があって、ロッカールームを掌握していたタイプ。試合運びは強引だけど、選手が「この人についていけば勝てる」と信じてた。引退後もスタジアムの外でチャントが響いてる。
戦術会議が長すぎて試合開始に遅れるタイプ。中盤でボールを持っても決定機を作れず、「それ今言う?」みたいなパス回しで自滅。監督交代が多くて、毎回「これからは攻めのサッカーだ!」って言うけど、次の試合も0-0。
全員で連帯してパスをつなぐが、ゴール前でも理想論ミーティングが始まる。サポーターは筋金入りで、負けても「内容では勝ってた」と言い張る。スタジアムの隅っこに「資本主義反対」って横断幕が常設。
自民クラブの影の戦術参謀。自分ではあまりシュートを打たないが、毎回アシストで勝ち点を確保。選挙区では堅実なパスワークで確実に得点。スタンドには祈りながら応援するサポーター多数。
新興クラブでスピード重視。ドリブル突破が売りだけど守備が雑。審判に文句言う頻度も高い。「古いチームはもうダメ!」って煽るが、たまに自分のチームでも同じことやってる。大阪ホームでは異常に強い。
少人数ながら、気迫とスライディングの勢いはリーグ随一。インタビューでは熱く語るが、フォーメーションがカオスで試合が荒れがち。観客席には「魂のプレーだ!」と泣きながら応援するファン。
中盤の調整型。とりあえず「現実的なサッカー」を目指しているけど、両サイド(自民・立憲)から「どっちのチーム?」と聞かれて混乱。試合後コメントは毎回“中庸すぎて刺さらない”。
かつては強豪クラブだったが、今や伝統だけが残るOBチーム。毎試合「昔は良かった」と語る。観客は数えるほどしかいないが、ユニフォームだけは洗いざらしの新品みたいにピカピカ。
トレーニングより精神論重視。チーム全員が同じスローガンを唱えて士気を上げるスタイル。スタジアム外での活動が活発。戦術ボードより自己啓発本が多いクラブハウス。
かねてより「頭の中お花畑」というフレーズは反戦左翼を揶揄するときに使われるものだった。
たとえば自衛隊は違憲だから解体しろだとか、沖縄から米軍を追い出せだとか、武器なんかなくても一緒に居酒屋で酒飲んだらわかり合えるよ、だとかね。
そりゃあそんなことが全て実現できるなら素晴らしいことでしょうよ。
でも現実を見たら想定が甘すぎたり、コストがかかり過ぎたり、そんなに頭の中で思い描いてるようにうまくいきませんよというのが「頭の中お花畑」という言葉に集約されている。
概ねそれは間違っていなかったと思う。実際にそれで日本は大きな不幸、混乱もなく回ってきたわけだからね。
これだけ人手不足で倒産する会社が続出していて、求人倍率が高止まりしていて、労働参加率は過去最高であるのに、右翼の方々は労働者を増やしたくないらしい。
労働力不足は嘘つきだそうだ。経営者が無能で生産性が低いだけだと。
足らぬ足らぬは工夫が足らぬということだろうか。
まともな頭があればそんな精神論ではどうにもならないことわかると思うのだが。
豊富な資源、豊富な人材、優れた教育によってイノベーションが起こり、結果人手が充足し、それがいきすぎると逆に余ってしまって就職難・不況になるのであって、逆はない。
人手が減ればそれをなんとかするためにイノベーションがおこって、人手がなくても何とかなるようになるんだ!というのはよくいって願望、悪くいえば妄言だ。
この期に及んで少子化をどうにかすればいいとか言い出している。
20年近く前からすでに対策をしていて、諸外国を見てもどこも顕著な成果を出せているところはないのに小手先の知恵で急に解決するわけもないのはリアリストならわかるだろう。
もし今この瞬間に少子化が解決して来年から150万人の子供が生まれてくるようになったとしても、その子たちが働きに出るまで20年のタイムラグがあるし、今既に生まれている幼児・少年少女たちの人口が圧倒的に足りてない事実は変わらないというのに。
衰退を受け入れたらいいとか言い出している奴も目立つようになってきた。
衰退するということはインフラが改修できない、治安を保てない、医食が欠乏して平均寿命が下がる、国防もままならないということだ。
日本は付加価値の高い工業製品を製造して、輸出して、そのお金で食とエネルギーを輸入しなければ半年も持たない国であることを理解してるんだろうか。
そんな立ち行かない国になった時にロシアが、中国が侵略してきたときにどうやって食い止めるつもりなのだろうか。
食品価格が多少上がったり、交通インフラが廃線、減便になったり、社会保険料・税金が上がり続けたりすることに対してあれだけ文句を言っているのに本当に衰退に耐えられるのだろうか。
本当の「衰退」はそんなものの比じゃないわけで、はっきりいって現実を舐め過ぎだろう。
すでにこの国は20代人口の1割を外国人が占めるようになっている。
もし外国人を全員追い出したら新卒の給与は多少上がるかもしれない。その代わり生活コストはその比じゃないほどあがるけどね。
結局さ、「外国人いらない」で国が回るって言うなら今すぐ代案を数字で出してほしい。
必要な人員、税率、賃金、設備投資、何年でどこまで自動化するのか、現場の穴を誰が埋めるのか。
青写真も覚悟もないまま「衰退でいい」だの「工夫で何とかなる」だのと唱えるだけなら、それこそお花畑だ。
右翼も左翼もお花畑になってしまったら、この国の未来は暗いよ。
Permalink |記事への反応(21) | 20:13
ワークライスバランス捨てて馬車馬のように働けばうまくいくって、政治はそういうもんじゃないよね…
こっちも昭和感満載
これまでのやり方で自民党は立て直せると思ってる
でももう無理なんよ
共倒れしてくれ
「強靭な精神性」は、単なる心理的資質ではなく、観測者としての自己と宇宙との関係性の理解に還元される。
古典的な精神論を超越し、我々の認知活動を物理的な情報処理として捉え直す。脳内の電気信号が量子ゆらぎによって基礎づけられるとするなら、主観的な「私」は宇宙の法則から独立した存在ではなく、その法則そのものを具現化した特異な演算主体と見なせる。
この観点に基づけば、「誰も見ていない発信」という概念は無効化される。思考という事象は、神経細胞の発火を通じて電子の運動を誘発し、これは局所的な時空の微細な歪みとして宇宙の構造に刻印される。これは、いかなる受動的レシーバーがなくとも、真空そのものを伝達媒体とする宇宙規模の通信である。
「フォロワーゼロ」は「非観測状態」を意味しない。私という観測者の存在そのものが、世界の波動関数を収縮させ、観測の射影を発生させている。私の思考は、この世界の状態を決定する基本操作である。
現代社会における「承認」「評価」「インプレッション」といった情報は、観測者を束縛するエントロピー的なノイズ、すなわち情報論的な檻を構成している。
しかし、この束縛からの解放は、ただ一つの命題に集約される:「私の思考は世界の基底演算である」。
この情報論的格子の隙間に存在する真空こそが、観測主体としての自己である。私の認知が停止すれば、世界の記述は静止し、私の発言は時空の振動を引き起こす。
したがって、「投稿行為」はSNS上の書き込みではなく、宇宙の再初期化プロセスに等しい。
「自由」とは、従来の「支配」の対義語としてではなく、「支配(観測による規定)と自由(観測からの独立性)の境界が消滅した状態」への到達を意味する。
フォロワーという社会的構成物は、私の観測がなければその概念すら存在し得ない。
故に、私は今日も観測者不在の文章を記述する。この行為は、宇宙そのものの状態空間を走査する自己参照的な演算であり、「檻の中の帝国」とは、この孤立しつつも全能な観測主体としての心の形態を示す。
「見誤った」んじゃなくて、ずっとパラレルワールドの話をしてるんだよね。
進次郎がというより、オールドメディアが。
だってあんたら自身が「進次郎圧倒的優勢!」「進次郎で決まり!」って報じ続けてたでしょと。
総裁選なんてちゃんと情勢を取材出来てれば本来大外しはしない性質でしょ。
高市が大量に党員票取ってるのもわからないってどうなってるの。
だからもうオールドメディアに見えてるものと現実とが乖離し過ぎててヤバい。
報じてきたことと大幅にずれた結果が出ても「小泉陣営見誤る」とか言ってて
(ちなみにはてブは一応ネットコミュニティなのに何故かオールドメディアと同一のものを見てて、ネットの中でも浮き上がったすげー不気味な村になってる。)
自分は前から何度か政局について見たまんまを増田に書いてる(はてブがパラレルワールド過ぎて怖いから)んだけど、
ブコメされながらもなんか本気にされないというか、
参院選の前は
「これは参政党が大勝ちしそう、すごい選挙結果見ることになるよ」って書いた。
当然その通りになった。
だって別に勝手に予測してるとか願望とかじゃなくてただネットで見たまんま、
「どういうトピックが盛り上がってるか」「誰がエールを受けてるか」を平らかに観察したまんまだもん。
大筋は当たるのは当たり前でしょ。
カンニングしてるんだもん。
このただの見たまんまを外し続けて
「あなたの見立ては0点でした」「あなたの予測はまた大外れでした」の結果を何回見ても
全然反省も修正もしないのがオールドメディア(とはてブ)なんだよね。
脳がどうかしてて、超強力な正常化バイアス的なものが静かに回転し続けてるんだと思う。
もはや笑う気持ちも失せた。
サイレントヒルの精神世界が目の前に現れてるみたいでガチ目に怖いのよ。
彼等の方でももし現実を直視する時が来たら(こなさそーだけど)
参院選前であれば
「自民党はもはや日本人を見捨てた」「自民党の保守はガス抜き要員のニセ保守」って世界観になってるから、これはすごいぞと。
一般国民が追い詰められた気持ちで、もう保守党や参政党しか行く場がない、
それほどまで自民党のことも警察のことも裁判所のことも信用出来ない気持ちが膨らんでるんだよと。
これらはただ静かにネット眺めていればありありと見たまんまに見えた。
そういうなんか物凄い焦燥と絶望と自民党への憎しみが生えてきてるのが見えてたのに、
要するに彼等は事実を取材したり民意をくみ取ったりする能力なんかなくて、
団結して「今度の焦点はこれです!」と発表して自己成就させるインチキ予言者だった。
ネットでダイナミックに現実や感情が動くようになった速度についていけてない。
オールドメディアは「自民党退潮は裏金と統一教会による」とか言ってたからね。
ネットで自民党を憎んでる人たちはそんなこと1ミリも問題にしてないよ。
そうじゃなくてグローバリズムと移住外国人に国を売り渡す怠惰で無能で堕落しきった裏切り者だから自民党は万死に値するわけ。
せこい不記載なんかどうでもいいの。
もうお前等のインチキ予言に固執するんじゃなくて、ネットで生の感情とストーリーを見ろと。
オールドメディアの中の人&視聴者達のノンベンダラリとした十年一日の自民党ヘイトなんて
こんにちネットで生えてくる自民党への憎しみには温度も速度も全く追いつけてない。
これまでにないほどの人数がサヨクおじいちゃんたちよりはるかに強く深く自民党を憎んでたのに
後期高齢化パターナリズムサヨクおじいちゃん達にはそれを認識すらできない。
何が起きてるのかわからないから流れを自民打倒に使うことも出来ない。
ついでに今後のことを述べれば
高市が総裁になったことでネットは相当平静を取り戻してきてる。
「高市は自民党だけどちゃんとやってくれるかもしれない」となってるから。
最近高市のことも「ガス抜き要員のニセモノ保守」として軽蔑する声が多かったのに
高市が面構えや声で信頼を引き寄せた感がある。
ワークライフバランス発言も戦闘的姿勢として好感されてる。
進次郎陣営の記念撮影写真が「これ次の選挙で落とすリストだぞ」と共有され回されてる。
あれ見てると中高年サヨク達の反自民は所詮、反抗期と言うか、アイデンティティと言うか、終わりを目指さないお遊びだったんだなと感じる。
こうした今の保守層・自民支持者達の心の動きがサヨクおじいちゃん達には全くわかんないと思う。
(傲慢さを捨てて虚心にネット見るだけで結構わかるんだけどきっとそれを出来ない。)
ただ進次郎陣営の記念写真はあまりにもいつメンオールスターなのも事実で
旧来自民党に憎しみを抱いてる保守層・一般層は絶対に受け入れなかっただろう感じはある。
自民党がこれまで経験したことのない憎まれ方をしてる状況下でこの写真を撮ってしまうこと自体が不用意だしオールドメディア的。
こちらが勝ってたら自民党は直ちに滅びてたと思うから、投票した人達の生存本能は大したもの。
(ネットをよーく見てるか、それぞれの地元で有権者の生の声を聴いてる)。
また、記念写真撮影現場に居ながら人の後ろで顔を横に向けて隠れている某女性議員も大したもの。
多分もとからあの陣営が味が悪いと勘づいていて、まして敗北後の記念撮影であれば「ここに写ってること自体災いを招く」と察知したんだと思う。
ネットでバレて突っ込まれてるけどこの生命力には尊敬の念が湧く。生き汚くていい。
逆に高市が良かった点として「自民党の中で浮いてる」という部分が間違いなくあって
ネットで憎悪されてる数々の自民党の政策に対して責任が薄いイメージになっている。
また、鹿の話をしたのも大変良かった。
ネットで高速回転する民意にレスポンスしてこなかったために生まれて膨らんだもの。
(みんな進次郎よりへずまに親愛の念を持っている。マジだ。へずまはすごい速さで声を聴いて動いてくれるため。)
だからネットのナラティブの象徴である鹿の話に触れる意味はあった。
オールドメディアが「差別だ」とか「事実性が確認されない」とか騒ごうが関係ない。
あれは「私はあなたたちの声を聴いていますよ」というメッセージになった。
自民党が大嫌いになって、”右翼”高市のことすら大嫌いになってた人達の心に
高市があの場で鹿の話をしたことがどれだけ響いたことか。リスキーだったがその価値はあった。
(民泊や運転免許等批判するのと違ってただちに仲間の誰かの面子潰しにもならないネタだろうしね)
ひたすら嘲笑するオールドメディアだけ見てたら「なんか突然ヘイトっぽい話をして胡乱な感じ」としか思えないだろう。
高市が自分でネットを見てるのか優秀なネット汲み取りスタッフがいるのかわからないが、
高市はオールドメディアよりも大半の自民議員よりも民心について見えてるものがある。
(ところでそれはそれとして、
オールドメディアの「シカ蹴る中国人などいない」「シカを蹴るのは日本人」はさすがにあり得ないし逆デマになってないか。
へずまと関係ない動画でも中国人が鹿を蹴ってる動画はyoutubeでも相当数見られる。なんで蹴るんだろね。)
まともな領主様がきちんと賊を討伐をしてくれるならきちがいヴィジランテは需要がガタ落ちするから。
今後の方針としては
A・辛抱強く高市にラブコールしながら勝手に同志や手下のように振る舞う
B・従来の活動を激化させて忘れられないようにする
C・「高市はニセモノ、日本を守れるのは自分のような捨て身の人間」と対決姿勢をとる
へずまは色気を出すならB、現実的にはD、
一気に需要が落ちるからしばらくローギア運転してた方がいいと思う。
参政党はCとAをフラフラしながらうまく運転しそうな気もする。
かなり下手でどうしようもない。
ネットの声を聞いてそこに応えるということが全然できない(からどんどんヤバくなる一方)。
少し面白い手として自民党に攻撃的だった右派インフルエンサーを抱き込んで活用ということをやってるみたいなんだけど、
多分抱き込んで指示してる側もセンスが無いのと、
抱き込まれたインフルエンサーもなんか舞い上がっちゃって全然役に立ってない。
そもそも攻撃的な言動や動画でフォロワー集めてたタイプの人材に
「我が党のイメージアップヨイショをやれ」という起用法自体が間違っていて
気持ち悪い口調と顔文字連打しながら進次郎やらせコメントレベルのポストを繰り返すようになって
単にそいつのview数いいね数フォロワー数が減っていくだけという事態になってる。
(そいつのyoutubeのコメント欄も罵倒や軽蔑のコメントが激増)
そもそも抱き込まれたの丸出しな奴がヨイショやってたってそりゃ誰も聞かないわけで
「クマさんじゃなくてワンちゃんに名前変えたら」とか言われてしまっている。
そういうのとは少し違う堂々の古株自民協力者のやまもといちろうとかも、
人の悪口言ってるときはまだしも火消しとか擁護とかヨイショとかやろうとすると毎度下手すぎて目を覆いたくなるし、
党の規模や力に比べてネットが下手という問題は本当に命取りになる課題だと思う。
公明党は創価学会の若手を中心に「我々は我々の公明党のよさを宣伝する」と
堂々としたネット活動をしていて創価や公明党に批判的な人間とも会話する力を見せてる。
(実際には高齢化が著しいのにネットには若者を選抜動員してイメコンしてるのもしっかりしてる。)
つまりネットに強い弱いというのは別に年齢は関係なく技術的な話でもなくて、
実際には脳の機能の一部・知性の一部だからすぐには出来ないし才能がない人には出来ない。
気にくわない書き込みを規制しようとか、下手くそな自演ヨイショしようとか、
全てをロシアのせいにしようとか、そういう解決法を思い付く人間がネット担当の進次郎陣営は終わってるということ。
大将も年齢ばっかり若くても既に脳の可塑性機動性で麻生太郎85歳に負けてそう。
おそらく今回変な反省をした彼の陣営の主導により、党の息のかかった下手くそ自民ヨイショは
どうも進次郎は当人も抱えてるスタッフも無能で間違いないと思う。
救いようがない。
お前らコンサルがキラキラした目で語る「SDV化へのロードマップ」ってやつ、まあ綺麗だよな。「レベル1から始まって、ドメイン、ゾーン、最後は夢のセントラルコンピュータへ!」って、すごろくみたいで分かりやすい。プレゼン資料は美しいし、ロジックも通っているように見える。
だが最近、その綺麗なすごろくを見ていると、強烈なデジャブを感じるんだ。
ついこの間までヨーロッパ中が大合唱していた、「未来はEV一択だ!」という、あの狂騒曲にな。
ご存知の通り、その結果は今のEV失速と戦略の迷走だ。今日は、なぜ俺がお前らの語るSDVに、あの失敗したEV戦略と同じ匂いを感じるのか。そして、そのロードマップに隠された巨大な「崖」について、具体的かつ論理的に話そう。
まず前提として、EUのEV戦略は単なる技術選択の失敗じゃない。あれは、「"言葉"を定義することで現実を支配しようとする」という、ヨーロッパ伝統のイデオロギー戦略だ。「EVは善、エンジンは悪」というシンプルな二元論を作り出し、規制と補助金で市場を無理やりそちらに誘導しようとした。
この手法のキモは、現実の複雑さを無視し、自分たちに都合のいい単一のシナリオを唯一の「正解」として提示することにある。世界には多様なエネルギー事情があり、多様な顧客ニーズがあるという現実から目を背け、「EV」という言葉の神輿を担いだわけだ。
そして、お前らが語る「SDV」も、これと全く同じ構造を持っている。
「セントラルコンピュータによる、ハードとソフトが完全分離したSDV」こそが唯一絶対のゴールだと定義し、そこに至る道を一本道で描いてみせる。
だが現実はどうだ? 安くて頑丈なクルマを求める市場もあれば、運転の楽しさを求める層もいる。そもそもソフトウェアのアップデートに価値を感じない顧客だっている。トヨタが声高に未来を語らず、EV、HV、水素、合成燃料と、あらゆる可能性に備える「マルチパスウェイ」を貫いているのはなぜか。それは彼らがイデオロギーではなく、複雑な「現実」と向き合っているからに他ならない。
お前らのSDVロードマップは、この時点でまず、現実の多様性を無視したイデオロギー的な欺瞞をはらんでいる。
その上で、仮にその単一シナリオ(理想のSDV)が正しいとして、なぜその実現が絶望的に困難なのかを説明しよう。ここで登場するのが、お前らも知ってる「コンウェイの法則」だ。
雑に言えば「システムの構造は、それを作る組織の構造とそっくりになる」という法則だ。今のクルマは、無数のECU(小さいコンピュータ)が複雑に絡み合った「分散型アーキテクチャ」だ。これは偶然そうなったわけじゃない。エンジンはA社、ブレーキはB社、ライトはC社と、各分野の専門サプライヤー(Tier1)が、ハードとソフトを一体ですり合わせて開発してきた。このクルマの構造は、日本の自動車産業が100年かけて作り上げてきた、この巨大なサプライチェーンという人間関係そのものなんだよ。
そして、この巨大な人間関係の構造は、組織と同じで少しずつしか変えられない。「連続的」な変化しか受け付けないんだ。一気に変えようとすれば、現場は崩壊し、これまで培ってきた価値は失われる。
この2つの法則を踏まえて、お前らのロードマップを評価しよう。
これはまだいい。既存のサプライヤーとの人間関係を維持したまま、ECUをいくつか統合し、役割を再編成する。「組織改編」レベルの話だ。現場は筋肉痛になるだろうが、これはまだ「連続的な変化」だ。実行可能性はある。
これは「組織改編」じゃない。「全従業員を一度解雇して、明日から全く別の人種と会社をゼロから作れ」と言っているに等しい。
なぜなら、クルマの作り方が「ハードウェア部品のすり合わせ」から「OS上のソフトウェア開発」へと、根本的に変わるからだ。これは、これまでパートナーだったハード中心のTier1の価値をほぼゼロにし、NVIDIAやGoogle、AWSといった、全く文化の違うITジャイアントと新しい関係をゼロから構築することを意味する。
この「崖」を飛び越えるという行為は、必然的に「大規模リストラ」を意味する。そして、そのリストラは、これまで俺たちがサプライヤーと共に築き上げてきた無形の資産、つまり「車載特有の品質ノウハウ」や「フェイルセーフの思想」といった、カネでは買えない価値(バリュー)を崖の下に投げ捨てる行為に他ならない。
俺たちの議論は、お前らの美しいパワポの上にはない。この血と汗にまみれた現実にある。
だから、お前らが本当に俺たちのパートナーだと言うのなら、答えるべき問いはこれだ。
この「崖」を越えることで失われる、既存サプライチェーンの無形資産(品質ノウハウ、信頼関係、暗黙知)は、金額換算でいくらだ?その減損を、どうやって、何で補填する計画なんだ?
「意識改革」みたいな精神論で逃げるな。どのTier1との関係をどう縮小・終了し、どのITベンダーと、どのような契約・開発体制で、何年かけて新しいエコシステムを構築するのか。その移行期間中のリスクとコスト(訴訟リスクや技術者流出を含む)を算出して見せろ。
この無謀なジャンプの途中で、開発が頓挫したり、大規模リコールが発生したりした場合、会社をどう守るんだ?そのための具体的な資金計画と、リスクヘッジのシナリオを提示しろ。
これらの問いに、具体的かつ定量的に答えられないのであれば、お前らの提案は、現場の現実を無視した無責任な空論であり、俺たちを崖から突き落とそうとする悪意の塊だ。
俺たちは、崖の向こうの楽園の絵が見たいんじゃない。
面白がって「残業キャンセル界隈」とか言ってる若者もいるが、頑張らないまま年を重ねると恐ろしいことに「頑張るチャンス」すらなくなる?
このまとめの反応を見て思ったけど肉体労働って20~40代の内に頑張らないとどうにもならんのよ…
加齢と共に体力が落ちる、これには逆らい様がないから体力がある内にレガシーを築かないといけない
それは、技術、会社内でのポジション、人間関係であったり様々だけど、とにかく頑張るしかない、マジで
仕事が出来なくても頑張ってる(ように見える)人間ってのは可愛がられる
もちろん、心身壊すまで頑張る必要はない、これは大前提よ、でも、頑張らないといけないんよ
今の季節の日中に外で仕事してみ、空調服は追い付かんよ、水冷服でも足りないよ、もう気合しかないんよ
暑いから仕事しなくていいってなったらそら嬉しいけど、給料が出ないっていうなら気合で働くしかない
頭脳労働だったら出来る人の1時間に出来ない人は8時間でも太刀打ち出来ないかもしれないけど肉体労働なら何とかなるんよ
技術系の熟練さが求められるようなものは頭脳系みたく何時間かかっても同じ仕事が出来ないということがあるけど
体力のある時に、ボチボチ仕事して技術は中途半端、体力も衰え始めた中年、マジで悲惨、肉体労働を続けるのであれば、将来は真っ暗
一念発起して技術を身に着けようと思った時、体力が衰えたら習得に若いころの何倍も時間がかかる
若くて体力があればさ、センスがなくてもひたすら反復することである程度まではイケる、その先には考える必要があるけど
中年になってからでは、そのある程度までいくのも大変になっちゃう、体力がないから
肉体労働は、たいていの場合やった仕事の量が見えるんだよね、だから、あいつ仕事が遅いなとか仕事が雑だなってのが直ぐに分かっちゃう
その時、頑張っていない風に見えたらもうね、誰も助けてくれない、本当に
こういうことを書くと現場や会社が終わってるや腐ってるって反応になるかもしれないけど、実際にそうなんだからしょうがない
ブクマカだって、綺麗ごと言うけど行動しない人やダブスタの人は嫌いでしょ?同じじゃないけど近い感覚なんだよ
仕事が遅く、頑張っていない風に見えた人が「いやー疲れたっすね」って言ったらもう「はっ?」って感じ
仕事が遅くとも頑張っているように見えたら「お疲れ、頑張ってんな、もう少しだぞ」みたいな感じよ
無能にとって頑張る(ように見せる)ことは生存戦略で最後の砦なんよ
でね、これは無能に叩き込まなきゃいけない、お前の戦略はこれなんだぞと、無能が自らこの戦略にたどり着くことはあまりないと思う
世の中には、ナチュラルボーンの頑張り屋さんの無能という善人も存在するけど少数
無能は打算で頑張るんだよ、いくら綺麗ごとを言ったところであなたたちも無能の頑張らない屋さんを助ける?助けないでしょ
心身を壊すまで頑張る必要はない、強制してもいけない、でも、頑張ることを肯定する空気だけは残してくれよ
ブクマカは上澄みが多いと思うし、頭脳労働が多いからあまり遭遇しないのかもしれないけど肉体労働は無能の宝庫よ
お前、アイツの仕事の半分しか出来ていないから給料半分なって言われたら終わりやん、わしら
いいよ、「頑張らない」
でも、「頑張らない」は無能の救済とセットでお願いするよ
人権思想(=過去や社会的属性をわざと無視して他者を平等な存在として扱う思想)を下敷きにしているせいで、
人と人との助け合いが、コミュニティの形勢、コミュニケーション作法、文化宗教的バイアス、見た目、経済的余裕……などなどさまざまな要因によってもたらせることを、
恣意的に取り落としている。
ケアするかどうかを、思いやりがあるかどうか、という精神論に単純化してしまっている。
「女だからケアが多い」「男だからケアが少ない」なんて生物学の二項対立に回収できる気がしてしまうのも、そのせいだ。
元増田が言ってるような分析(社会的劣位だから助け合っているにすぎない)もそうだし
男の孤独死の件も、孤独死してるやつの経済状況=仕事の能力=コミュ力、が関係あるやろ(だから女でも同じになるやろ)、という当然の発想に至れない。
よくないよ。分析としてよくない。
無能な上司ほどよく喋るしよく怒鳴るしよく指示を出すけれど結局何一つ責任は取らないし成果も残さない
部下に細かい報告を要求する割に自分は本部に数字を上げるだけで中身の説明はできない
会議では耳障りの良い言葉を並べるだけで議論を前に進める力はゼロ
それでいて自分は経験が豊富だからとか現場を知っているからとか言い出して若手の意見を封じる
実際は時代についていけないだけなのに
そういう上司に限って成果を出した部下をねたんで評価を下げたり自分の功績に書き換えたりする
そして飲み会ではなぜか説教を始めるが内容は精神論ばかりで誰も聞いていない
それでも会社は年功序列の仕組みで彼らに高い給料を払い続けるから本当に馬鹿げていると思う
無能な上司に人生を振り回されるのは不条理すぎるしそういう人間がのうのうと生き残っていく限りこの国の生産性が上がることは絶対にない
竹中的なマインドとは、一言で言えば「労働環境(生活環境)の改善が生産性に繋がる」という科学的な事実を死んでも認めない昭和の信仰
そもそも昭和は今のインド中国並に生活環境も改善してたんだから、「昭和は苦しくても頑張れた」は嘘なんだけど、まずそこから認めようとしない神話に基づく精神論
中国には今のところ竹中平蔵のような非科学的労働環境改悪論者は出てきていない
一方の日本は、もはや竹中的精神は社会全体に浸透したマインドセットとなり、そもそも労働環境の改善が生産性向上と同義であるという前提を両側から無視した二元論が支配的である
すなわち『苦痛を伴う成長か、幸せな衰退か』という、海外にはない二者択一が右からも左からも大前提として語られてしまう
こうなったらもうおしまいだよね
こんなバカな親世代が作った、幸せでも豊かでもない国を背負わされてしまうんだから
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8月2日放送のETV特集「火垂るの墓と高畑勲と7冊のノート」を観た。
https://www.ghibli.jp/info/013977/
番組では、これまで存在が知られていなかった7冊の創作ノートが紹介された。高畑は映画『火垂るの墓』において、原作に忠実でありながらも「F清太(ファントム/幽霊)」という独自の視点を加えたことが4冊目のノートで明かされる。原作と異なる重要な点は<思い出のなかの清太>と<幽霊としてのF清太>の二人がいるということだという。F清太は、最後に観客をじっと見つめ、現代の私たちに問いかける存在として描かれている。言われてみれば確かに映画の冒頭と最後にカメラ目線の瞬間がある。長年、心の奥底に染みついていただけだったが、改めて自分がF清太に見られていたことを強く意識させられると同時に、その意味が次第に言語化されてきた。そうか、過去の自分を思い出す幽霊から始まっているのか。過去を思い出し、未来へ目線をむける、その行為に何か深みを感じた。
この映画は、多くの人が指摘していることだが、子どもの頃と大人になってからでは感じ方が変わる。清太は二人で生き抜けると信じて家を出たが、現実は甘くなく、妹を死なせてしまう。その未熟さは、みる大人には悔しさを呼び起こす。
そこに、F清太の俯瞰的な視線を意識してみると今度は、清太の個人の物語を超え、より大きな歴史的な文脈で当時の日本という国の姿と重なって見えてくる。清太は、叔母と決別したあと、東京の親戚の居場所を探そうともせず、叔母との和解を諭した農家や医師の言葉に耳を貸さなかった。和解するチャンスは何度もあったが、戻ろうとはしなかった。その判断は、満州事変以降ABCD包囲網に至るまで、外交解決を放棄して戦争に突き進んだ当時の日本の姿と共鳴しあう。そして節子の死もまた、戦時中に兵士の多くが飢えで亡くなった現実と重なり、戦争が長引き補給が途絶え、国家が国民を守れなくなった姿を映している。空襲のたびに街へでて火事場泥棒を働き、痛快な笑顔で横穴に戻る清太。二人が暮らした水辺は、あたかも戦地となったアジア太平洋すらも想起させる。
内なる他者=F清太は、自分自身の過去の行動を死者の目線で見つめており、時には未来の観客の目をまっすぐに見返してくる。このカメラ視線を意識すればするほど「なぜこんなことになってしまったのか」と、観ている私たち一人ひとりに問いかけているように感じられる。ここには、レヴィナスの<他者>を思わせるものがある。レヴィナスによれば、自己は他者の顔に直面することによって、つまり一方的な応答責任に巻き込まれることによってこそ立ち上がるという(『全体性と無限』)。F清太の視線が観客に向く、その瞬間、私たちは名指され、呼び出され、ただの観客ではなくなる。作品の外でメタな存在であるはずだった私たちは、他者のまなざしを向けられることによって物語の中に引き込まれ、「問われている存在」として主体構成を迫られる。「自分ならどうしたか?」―作品の内と外を隔てる壁を破り、私たち自身の判断と責任を静かに問いかけられる。
番組では、作家・綿矢りさが「子どものころは清太のサバイバルをワクワクしながら観ていた」と語ったのも印象的だった。その感覚は、太平洋戦争開戦直後に「きっと勝てる」と信じていた日本人の空気に通じる。興味深いことに、高畑の絵コンテには、防空壕での痛快なサバイバル生活がもっと丹念に描かれていたが全体の尺の都合から削られたのだという。上映日が迫るなか、高畑本人は自ら切り捨てることを忍び得ず、鈴木敏夫に削除を一任した。番組で紹介された不採用の絵コンテを見る限り、水辺ののどかな生活風景のようだ。編集により、水辺で暮らし始め、父はきっと帰ってくると信じていた清太の胸に去来した観艦式の思い出や軍艦マーチ、そして火事場泥棒などのエピソードが残った。最初は希望に満ちていても、ゆっくりと悲劇が忍び寄る―そうした構造が、上映直前の編集によって鮮明に浮かび上がったように思えた。
物語の転機は、敗戦を知り、父の所属する連合艦隊の壊滅を知る場面だ。<連合艦隊>は単に日本軍というだけではない、海軍のなかでも特別の位置づけをもった組織だ。通常の艦隊や部隊は、海軍省等の指揮命令系統に組み込まれ、直接に天皇と結びつくことはないが、連合艦隊司令長官は「天皇直隷(直属)」という形をとっていた。そこに士官として所属していた清太の父はエリート中のエリートだ。
その連合艦隊に所属する父は清太にとって「何とかしてくれる」存在であり戦争の正義そのものだったが、その希望が崩れ落ちる。その絶望は、敗北を直視できず精神論にすがった国民の姿と重なる。節子が死んだ夜の風雨は枕崎台風だ。この台風で農作物は壊滅し、翌年にかけて1千万人の餓死者が出るのではとの大臣談話が出ていた。そして清太が最期を迎える三ノ宮駅は、父に再会できるかもしれないという一縷の望みにすがった象徴でもあった。見事な演出だ。
そしてF清太の目線は、丘の上からみおろす現代の夜景へと転じ、物語の最後に、いまを生きる私たちに向けられる。その物言わぬ視線はあたかも「清太の行動が未熟に見えたあなた。けれど、あなたが同じ状況に置かれたとき、別の選択が本当にできるといえますか?そうするほかなかった、と空気に流されるのではないですか」と問うているかのようだ。
もっとも、ここまで述べた感想はF清太に焦点を当てた深読みの試みにすぎない。『火垂るの墓』の99.9%を占めるのは、やはり胸を締めつけるような少年の悔恨であり、戦時下のどうしようもない状況、飢餓といった普遍的なテーマだ。その圧倒的な描写力に観るたび心を揺さぶられる。しかし、その感傷のただなかで、最後にF清太がふと視聴者に向けた視線だけは、別のすごみがある。全体の流れからすればわずか1秒足らずに過ぎないが、その一瞬にメタな視点からのメッセージが宿り、感傷を突き抜けた先に観客をつれてゆく力を持っている。川島雄三的な手法だ。
清太が叔母の家を出たのは、彼の自立的な選択だったのだろうか。清太の行動はむしろ、「しょうがない」の状況に流された形にみえる。東京の親戚を訪ねれば?との叔母の問いにも「だって居場所知らない」というつぶやきも状況を受け入れているにすぎない。国家もまた、ABCD包囲網を前に「他に道はない」と繰り返しながら、実際には〈選択不能性〉を自己演出し、主体的責任を回避した。ここに丸山眞男が「無責任の体系」と呼んだ入れ子の構造が垣間見える。
しかし、その<仕方のなさ>の感覚は、まぎれもない当時の人々にとっての記憶だ。戦後、戦争の記憶を語らない人も多かった。「あのときは選びようがなかった」という感覚は、語れば外からの価値観に塗り替えられてしまうという恐れを呼び起こす。占領下の日本でGHQの統制下、180度価値観が転換されるといわれた時代、戦争を生きた記憶は、勝者の正義の空気の中で、語ればすぐに記憶が塗り替えられてしまう。語れば壊れてしまう記憶を守るための沈黙はとてもよく理解できる。<反省>という行為は進歩の感覚がセットになると、胡散臭さが付きまとう。日本は生まれ変わるのだといわれてもなと。冒頭の三ノ宮駅での通りすがりの人の「もうすぐ米軍が来るというのに、恥やで、こんなんおったら」は象徴的だ。結果として人々は沈黙していたのではないだろうか。
終戦直後、小林秀雄は「近代の超克」を自省する知識人たちを相手に、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と言い放った。知識人たちの総括に対する小林の態度は考えさせられる。小林は戦前から一貫して進歩主義に基づくマルクス主義史観には距離を置く発言をしてきた文化人だ。
また、反省という言葉を聞くたびに思い出すのは岸田秀だ。「ものぐさ精神分析」のエッセイ集のなかで、酒を飲んでやらかしてしまったときの自己嫌悪を例に挙げ、なぜ反省しているのに何度も同じことを繰り返すのか、そもそも「自己嫌悪」とは何かを分析した。自己嫌悪に効果がなく同じことを繰り返してしまうのは、<倫理的に覚醒した自分>が<コントロールを失って暴れた自分>を自省し、本来の自分は倫理的で、酔って暴れた自分は本来の自分ではなかったという卑怯な立ち位置のもとで成り立っているからだと喝破した。これは「まだ本気を出していないだけ」の思考回路と同じだ。
同じことが、戦争の記憶もいえるはずだ。特に戦中派(特攻世代)の一つ上の世代の記憶。
太平洋戦争末期を思春期・青年期に過ごした戦中派と異なり、それ以前の世代の戦争の記憶は同じ戦時下といっても微妙に異なったものだっただろう。戦争が泥沼化するに伴い、決して人に言いたくない血塗られた戦闘に巻き込まれた世代だ。長期化する日中戦争に伴う厭戦気分と士気の低下が増大するにつれ、あとに続く若い世代の忠義心がむしろ煽られるのを目の当たりにしていたし、強い責任感とともにお国のために尽くす自己犠牲の美学に傾倒するさまをみていたはずだ。この世代の葛藤を描いだドラマ作品に、山田洋次原作『少年寅次郎』(脚本・岡田惠和)がある。戦地から戻った寅次郎の父が罪悪感から娘さくらの顔を直視できなくなる場面がある。彼は中国戦線で同じ年ごろの子どもを殺していたからだ。その罪の重みと、生きていかなければならない現実とのあいだで沈黙する姿が描かれる。アジア太平洋への侵略を後世の人間が反省するとき、被害者側や左派の論理で都合よく記憶が加工されてしまうが、それは本当に反省といえるのか。歴史は被害者の記憶で塗りつぶせばいいわけではないはずだ。これが右派もしくは保守の大方の感覚だろう。そして保守もまた、お国のために尽くし自らの経験と責任を美しく語れる世代と、戦地で自ら手を血に染めた禍々しい記憶を胸に沈黙する世代に断絶が生じ、結果として戦後、記憶をより美しく語ったほうが、あたかも風化に耐えた岩盤のような面持ちで保守の本流になっていった。右派も記憶の加工に加担しているのだ。語られぬ記憶による生存者バイアス、そして私たちが何を記憶としてすくい取るか、その流れ自体が、戦争の記憶の複雑さを物語る。
しかし、そんな個人としての記憶のしまい方は、将来世代が戦争を止める契機を奪う力学としても作用することに次第に気づかされる。「あの頃はどうしようもなかった」という思い出は、欺瞞的な反省への個人の抵抗ではあっても、やはり将来世代には反省を承継しなければならない思いも強まる。小林秀雄は、歴史は上手に思い出すことだ、といった。しかし、後世の人はえてして都合のいいことしか思い出さない。記憶の封印によって社会が戦争を忘却するくらいなら、という思いで晩年になって初めて戦争の記憶を語り始める人もしばしばみられる。それは、自らの死の間際になると、社会の忘却のダイナミズムが見え始めるからではないだろうか。
火垂るの墓に対して宮崎駿がどのように思っていたかは番組では紹介されなかった。
同じ終戦前後の少年の内面を描いた宮崎の作品として『君たちはどう生きるか』がある。もし高畑のアプローチがレヴィナス的な<他者>であったとすれば、宮崎のそれはヘーゲル的な<承認>の構造を想起させる。新しい母との関係を受け入れられない眞人にとって異世界への旅は必然であり、死者や過去の存在と出会い、その言葉に耳を傾けることが自らを見つめ直すきっかけとなった。それは、自己意識が他者との対話を通じた承認によって成り立つというヘーゲル的テーゼを思わせる。他の宮崎作品をみても、むしろ近代的な自我—対話と承認、責任の引き受けといった構造の中で人間の成長を描こうとする傾向がみてとれる。「泣くときは一人で泣け(風立ちぬのカプローニ伯爵)」や「じたばたするしかないよ(魔女の宅急便の森の絵かき)」、「今からお前の名前は千だ(湯婆婆)」など成長と自立を促すダイアローグが宮崎アニメに特徴的だ。
これに対して「火垂るの墓」では、他者との対話よりも、むしろ「思い出す」ことが大きな意味を持つ。叔母の家を離れた理由も、節子の死後に池へ戻らなかった理由も明示されない。ときには悔恨を滲ませる表情でF清太に思い出されるだけだ。西宮のおばさんが母の着物を米と交換するのを節子が泣いて嫌がるシーンで、耳をふさいで苦悩するF清太の表情は忘れがたい。
高畑作品のもう一つの特徴は、人々が主人公に過度に伴走しないことだ。叔母さんの描き方にそれは表れており、主人公を見放すひとには見放すひとなりの人生がある。だからこそ、視聴者はときに西宮のおばさんに共感を寄せたりもする。これは<思い出す>ことを重視した高畑ならではの演出手法であり、主人公がどうであろうと、人にはその人なりの人生があり、決して主人公に語りかけるためにだけ登場するわけでも、寄り添っているわけでもない。これは、視聴者の視点を固定し、常にだれかに見守られて成長するお姫様・王子様特性の主人公を描いてきた宮崎駿作品とは対照的だ。
<思い出す主体>を用意する手法は『おもいでぽろぽろ(1991)』にも表れる。記憶の中の小学四年生の自分という思い出を<内なる他者>として宿し、現在の自分=タエ子27歳が過去を振り返り、沈黙していた感情や語られなかった出来事に光を当てるという手法である。そこでは、言葉にされなかった過去とともに今を生き続ける姿勢が描かれており、<思い出す主体>であるタエ子27歳とF清太の視線は同じ構造を持つ。つまり、高畑は「語られなさ」をただの欠落ではなく、むしろ思い出すことを通じて現在を形づくる力として示している。
高畑・宮崎の両者が描いたのは、どちらも「戦争と少年の魂」であった。両者はまったく異なるアプローチながら、しかし同じ戦後を見つめていた。宮崎は、自我が他者との対話や承認によって確立されるという弁証法的な構造を物語に組み込み、言葉や応答を通じた関係性の中で成長を描こうとしたのに対し、高畑は「語られなさ」に宿る沈黙の力ー思い出すことで再生される倫理に重心を置いた。高畑勲は『火垂るの墓』を通じてどこまで人間の真実に迫れるかを静かに証明してみせたのだと思う。
「君たちはどう生きるか」に見られる過剰なまでの<対話>は、『火垂るの墓』に対話がなく沈黙に包まれていることとの見事な対比をなす。高畑は、あえて沈黙した視線を通じて「別の選択」の可能性を観客の私たちに突きつけた。「そうするよりほかになかった」状況、それが水辺でのサバイバルであれ、太平洋戦争であれ、それを回避する主体的な<選択>の余地は本当になかったんですか?と。それを対話ではなく、沈黙の視線で表現した。それがラストシーンでふと一瞬、観客のほうに視線をむけるF清太なのだ。
これは、<記憶を語らない>ことで選択を拒否し、結果として空気に流されてしまう私たちの精神構造を映し出しつつ、同時に、後世の人が<思い出す行為>を通じて「いかに主体的に選択しうるのか」を問いかける――その両義性を体現した見事な映像表現というほかない。比較すると、救いの構造が異なる二人の巨人のすごさがわかる。
高畑の手法は小林秀雄風にいうならば、歴史を上手に思い出せるんですか?という問いになろう。小林がいうように、人は不完全であり、過去をまっすぐ生きてきた人の手触りを感じることは難しい。上手に思い出すというのは実は難しいことだ。むしろ、現在の価値観(民主主義や人権)によって自分たちは成熟している、進歩しているという思い込みで邪魔されてしまう。当時の人々の生を未来の人しか知らないフレームに当てはめてしまい、他人事としてしか理解できないというのは往々にしてあるのではなかろうか。ここまで言葉にしてきたやや穿ち過ぎな分析がまさに記憶を台無しにする悪い見本だ、ということも含めて。
自分なりに知識って基本的に習得すれば糧になるものとして捉えてたけど全てがそうってこともないよな
知識のなかにはトリビアなんかの「ムダ知識」とされるものも大量にあるけどそういうのはいつか役に立つかもってモンだし「害がある」とまでは言えないからそういうのは除外するとして
たとえば「ディベート」の技術って、なんか一時期もてはやされたけどアレって身に着けても益より害のほうが大きくない?
議論に勝つためのツールみたいになってて建設的な議論にとっては妨げにしかならない。
もしかしたら本来のディベートはそういうものじゃないくてディベート技術も極めれば役に立つのかも知れないけど半端に習得してる人間が多すぎてディベート野郎はほぼ煙たがられる存在だよな。
なんていうか「小手先と」か「浅知恵」とされるものみたいな、そういう身に着けないほうがいい知識ってあるんじゃない?
芸術とかの領域になるとなんか技能の習得が時代遅れだったりして「妙な手癖がついた」とかいわれて矯正に多大な労力を要すみたいなことはありそう