
はてなキーワード:筑駒とは
自分は勉強は運動と違って努力すればできるようになると思ってきたが、自分の子を見て勉強ができるかどうかも運動やもっと言うと身長体重のように持って生まれたものによるんだなと思うようになった。
具体的に言うとサピ偏差値60。
それ以上は才能がないと難しい。
これは個人的な意見でなくよく言われていることで、ここを境にガラッと設問の種類が違ってくる。簡単に言うとセンスが必要。
なので、そういう学校を出てるのに学歴があんまりだと努力不足なのではと思う。
とは言え部活など他のことに注力してたとか、不登校になってしまったとか勉強に努力できなかった理由が悪いこととは思わないし、当日失敗してしまった人もいるだろう。
筑駒から東大で、いいよな〜才能あるヤツは、と言われて努力したよ!と言いたくなる気持ちもわかる。
概ね同意だが、難関高校うんぬんという部分は「鉄緑会」に置き換えたほうがいいのではないか。
学力やスポーツなどの成功の要因は、持って生まれた才能か?本人の努力か?それとも周囲の環境か?という議論はいつも盛り上がっている。
先に結論を言っておけば、遺伝的要因と環境的要因が半々くらいと言われている。全く面白くない結論だが、
キャスリン・ペイジ・ハーデン『遺伝と平等』などを読んでほしい。これらは関心がある人も多いので、研究もそれらを説明した一般書もかなり多い。
さて、それぞれの要素がそれなりに、という面白くない結果を受け入れずに、持って生まれた才能か?本人の努力か?それとも周囲の環境か?がなぜ盛り上がるかと言えば
「中高一貫校などの環境の良い学校に通わせてもらっていて、自分の成績が振るわなかった場合」本人の努力が足りないためと持って生まれた才能が足りないための2つの要因が考えられるが、
自分の努力のせいにしたくないので、持って生まれた才能が足りない(例えば親が高卒である、親が東大卒ではない)などを理由にしたい。他責思考である。
同じように「親が東大卒であったり、医者であったりして、しかし、自分は地方都市で育っていて、成績が振るわなかった場合」本人の努力が足りないためと環境が良くないための2つの要因が考えられるが、
自分の努力のせいにしたくないので、自分の置かれた環境が悪い(例えば周囲が東大や医学部を目指さない)などを理由にしたい。他責思考である。
逆のパターンもある。
自分が東大卒や医者であるが、自分の成功を「親からの遺伝要因」「筑駒や開成、桜蔭などの難関高校の環境」によるものではなく、「自分の努力」によるものと考えたいため、
遺伝や環境要因を低く見積もることもある。これは他責思考の裏返しで、失敗は人のせい、成功は自分のおかげという思考である。
どちらにしても、人がどう考えやすいかというと自己正当化しやすい考えに流れるのであり、
科学的・実証的な答えは、それぞれの要素がそれなりに、という面白くない答えになるのだから、この手の議論やってもあまり得るものはないと思う
Permalink |記事への反応(13) | 15:21
この記事
https://posfie.com/@Elif87995911/p/XbxdGy4
の「点数順で合格者出していると、たぶん上位校では合格者の6割以上が女子になると思います。」という主張に対してブコメ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/posfie.com/@Elif87995911/p/XbxdGy4
では、当初は「データだせ」的なコメントが多かったが、途中から「元ポスト見ろよ」というコメントが出現。それによると
https://x.com/hUATTcSBW463PEl/status/1963855183768646098
確かに、中学受験、同じ共学校で、合格最低点が女子 > 男子 であることが示され、点数順に取れば女子の方が多いであろうことが裏付けられる。
なんと。ビックリ。
しかしこの画像も切り抜きなので、元記事をGoogle画像検索で探すとこちらにある。
https://president.jp/articles/-/47254
これによれば
〈大手の模擬試験の結果を分析すると、学力のトップレベルに相当する層(偏差値70以上)は男子のほうの占める割合がかなり高くなる一方、学力上位層・中位層(偏差値45以上70未満)は女子の占める割合が高くなります。そして、学力下位層(偏差値45未満)では男子の占める割合がやや高いのです。これは毎年見られる傾向です〉
これは中学受験組の私の実感とも普通に合う。しかしそれでどうしてあの記事の数字になるのだろう。記事ではこの後に、男子校・女子校の存在があり、私立女子校の数が圧倒的に多く、全体としては女子に不利になっていないのではないか、ということが書いてあるが、あの点数表についても男子校・女子校の存在が原因として考えられる。
男子は筑駒+開成+麻布+駒東=1000人くらいの上位が男子校で抜け、一方で女子は桜蔭で300人弱のトップしか抜けないので、共学トップ層の受験集団とは、男子の方が切断点が左側にシフトした片側切断正規分布になっているのであろう。この分布について上から男女同数を取れば、当然、男子の方が最低点が低くなるに決まっている。
そうだとすると、これは中学受験の特殊な状況において成立することなので、大学などでは容易に当てはまらない。少なくとも、条件を整備して再度考察すべきことだろう。
それで、それは当然なのだが、内田樹のような大学教授も務めたような人間が、こんな最低限の統計すら思い浮かばないのはなぜか。
もちろん一つは統計学教育の敗北。もう一つは、ドメイン知識の欠如であろう(内田樹自身は都立日比谷→東大、のようなので、私立男子校全盛時代を知らないと思われる)
って感じに難関校界隈での知名度だけやたら高い予備校に通ってたんだけど、東大クラスから現役東大合格はたった3人しか出なかった(開成、開成、筑駒)。
他の受講生も皆錚々たる難関進学校揃いだったけど全員落ちてた。
っていうかセンター受ける全然前の段階で東大受験自体を断念して志望校のレベル落とす生徒のほうが下手すりゃ多かった。
だから鳩山兄弟とか塩崎官房長官の息子さんとかがサクッと東大受かってるのとかマジで驚くんだがあれやっぱ才能なん?
彼ら遺伝的にずば抜けてたの?
高校時代、ファミレスのソファにパンツ丸出しで足乗っけて「ダベ? ダベ?」言ってるようなガチアホ高校のヤリマン系ギャルの友達が謎に多かった。
「早慶理工でーすw」
「現役国立医でーすw」
みたいなクソ寒くて浅はかな強烈自己愛芸じゃなくて、彼女らは名実ともに本当に底辺のアホ高校に通っており、それこそ俺の時代は某tiktok高校より神奈川県内における学力も評判も悪かった。
だけど彼女らは、開成・麻布・武蔵・駒東・塾高・学院などの同世代間学力最上位級の別学男子校を狙い撃ちして学祭行脚を熱心にしていて、なおかつ底辺女子でありながら社会的実利に結びついた効用のみをモチベーションにそのフィールドワークに勤しんでいたことに当時の俺は衝撃を受けていた(なぜか筑駒はスルーしていたのが興味深かった)。
「うっし、来週は海城行くべ」みたいな。
底辺の彼女らが身を置く環境や、底辺の彼女らの観測範囲からでは到底発想できないような身の振り方にしか俺には思えず、まるで曲芸でも見ているかのようにひたすら驚いていたのだが、実際はそんなことないのだろうか?
あと彼女らは、
"「東大以外は論外」と鼻で笑う東大サークル所属の日本女子大生"
"「京大以外は論外」と鼻で笑う京大サークル所属の同志社女子大生"
"「一橋以外は論外」と鼻で笑う一橋サークル所属の津田塾女子大生"
こういう手合いとも本質的に似たような性質を孕んでいるとも思っているのだが、この手のイタダキ精神にリスクはあるのだろうか?
筑波大学附属駒場の一学年160人中、東大117人(73%)だ
https://www.komaba-s.tsukuba.ac.jp/about/after_graduation/
東京大学(117)、早稲田大学(12)、東京科学大学(5)、京都大学(5)、慶應大学(4)だけなの
やっぱり医学部なのかと見ると、理3を含む医学部に進学しているのが32人
| 現役国公立 | 17 | うち | 東京大学 | 14 | 京都大学 | 2 | 群馬大学 | 1 | ||||||
| 浪人国公立 | 7 | うち | 東京大学 | 1 | 千葉大学 | 1 | 東京科学大学 | 2 | 富山大学 | 1 | 名古屋大学 | 1 | 山口大学 | 1 |
| 現役私立 | 4 | うち | 慶應義塾大学 | 2 | 順天堂大学 | 1 | 東京慈恵会医科大学 | 1 | ||||||
| 浪人私立 | 4 | うち | 国際医療福祉大学 | 2 | 東京慈恵会医科大学 | 1 | 日本医科大学 | 1 |
ここまでの表に出てこなかった進学先は、筑波大学生命環境学群・東京藝術大学・一橋大学・上智大学・東京農業大学が各1人か2人
もう少し詳しく見るために、現役で医学部に合格して蹴った人数を調べる
| 東京科学大学 | 1 |
| 国際医療福祉大学 | 1 |
| 慶應義塾大学 | 10 |
| 順天堂大学 | 3 |
| 東京医科大学 | 1 |
| 東京慈恵会医科大学 | 1 |
| 日本医科大学 | 1 |
慶應医学部に合格する方が、理3よりも珍しいってどういうこと??
医学部志望の半分が理3ってことは、学年の下半分の成績でも理3狙えてるってことよね??
地方に生まれ育ち、県内No.3(ノットイコール学区3番手)の県立高校に苦労せずに合格し、高校の授業と宿題とサテライト予備校と市販参考書だけを頼りにやはり地元国立大学に難なく現役で進学しました。
二次学力試験こそ科さない学科でしたが、共通テスト6科目65%を取得していたので難なく合格できました(進路指導の先生は「仮に小論文を白紙で出したとしても受かったはず」と太鼓判を押してくれました)。
また、県内NO.1の私立大学にも共通テスト利用で併願合格しています。
ところが、この前、
"首都圏で生まれ育った人間はもうそれだけで地方の人間と比較して、大学受験に関してとんでもない下駄を履かせて貰ってる状態であり、地方で生まれ育つというハンデを背負いながら地元国立大やローカル私大に合格出来た層は、もし仮に東京で生まれ育っていたら一橋も東工大も早慶も簡単に合格できたはず、そのくらい不利なのだ"
色々ネットをあたってみると、
特に地方県トップ高校に進学するような層はこの程度がより強く、東京に生まれ育っていたら開成や筑波大駒場なんて軽く合格できるし、大手予備校の都心校に学校帰りにそのまま通える環境下にあれば理3以外の東大は相当な余力を残して合格できるものだと知りました。
地方県1位、2位の高校受かった人達は素材的に筑駒開成レベル。
つまり、我々が東京で生まれ育っていれば現実の首都圏民たちに椅子取りゲームで圧勝し、そっくりそのまま入れ替わるのではないかと。
やはり私も東京で生まれ育っていたら一橋くらいなら合格できたでしょうか?
元増田の進学校の同級生の主な進学先は、東京/海外/医学部だった、とかそんな書き方だった気がする。一晩経ったから記憶もあいまいだが。
進学校もピンキリだが、上に挙げたようなピンの進学校の連中は、頭の出来が一般人とは違い過ぎる。
これは筑駒の大学進学実績。"やつらは早慶以上の難度しか進学先として認めていない節がある。"の意味が理解できるだろう。
https://www.komaba-s.tsukuba.ac.jp/about/after_graduation/
ほかも調べてみりゃ判るよ。
都内の進学校は早慶以上の大学に進みほとんどが医者になるか海外に出るーーーこの設定は大学受験しなかった者の発想。
こんな雑な世界観でマウント取ってしまうのはもう明らかに知的なハンディキャップだろ。
こういうダイアリーを書かずに済む
この格差社会は燃やされるに値すると思う
これまで、帝大卒はたくさんいたけど、東大卒総理は鳩山だけ。一方で1925年以降生まれの早稲田卒総理は6人(海部、福田康夫、小渕、森、野田、岸田)、慶應は二人(橋龍と小泉)である。
東大卒は官僚として国を率いるもので、総理大臣になんかならない、という意識があったかもしれない。
そんな中、今回総裁選に出ていた候補は、上川、加藤、茂木、林、小林と半数以上が東大卒、しかもそのうち4人がハーバードに留学している超学歴エリートだった。なんか意外じゃない?私は意外。
ところで東大組(とか医学部組)はわかる通り、本当に重要な学歴マウンティング情報は出身高校に隠れている。なんか実は同じ高校組でつるんでたりすんのよ。そこでこの5人(+断念した斉藤健)の出身高校を見なければならない。偏差値はこちらの合格確実ライン。掲載のない高校は?とした。たとえば雙葉学園系は高校募集がないと思う。あとは、数字がある高校より偏差値が高いということはない。
| 候補者 | 出身高校 | 偏差値 | 第一回投票 |
|---|---|---|---|
| 林芳正 | 下関西高校 | ? | 65 |
| 小林鷹之 | 開成 | 69 | 60 |
| 茂木敏充 | 足利高校 | ? | 47 |
| 上川陽子 | 静岡雙葉高等学校 | ? | 40 |
| 加藤勝信 | 都立大泉 | ? | 22 |
| 斎藤健 | 筑駒 | 72 | -- |
みんないろんなところから東大に行っているのである。必ずしも県下最上位高と言うわけでもないよ。中学入試至上主義の誤謬がよくわかる表だ。
これまでは、偉い政治家と学歴の相関はかなり悪かったと思うが、このように相関が出てきているところ、それでもなお有名中高出身者は少ないのである。小中はみんなのびのびと学び、スポーツし、楽器を奏で、プログラミングをした方がいいね。
ところで高校視点では、推薦人集められなかった斎藤サンが最高学歴であった。とはいえ高校入学組である。筑駒(もしくは灘)の中学入学組がわが国の学歴の頂点であることは論を俟たないため、このグループの総裁候補の出現が望まれる。もしくは中学入試なんて役立たねえよ、って社会に向けて発信してほしい。笑。
| 候補者 | 出身高校 | 偏差値 | 第一回投票 |
|---|---|---|---|
| 高市早苗 | 畝傍高校 | 52 | 181 |
| 石破茂 | 鳥取西高校 | ? | 154 |
| 小泉進次郎 | 関東学院六浦高校 | ? | 136 |
| 河野太郎 | 慶應義塾高 | 64 | 30 |
| 野田聖子 | 田園調布雙葉高校(中退) | ? | -- |
どう見てもこちらの方が大物揃いで、得票数も桁がちがう。よ〜するに、東大卒が5人いたけど、上3人は非東大、っていう総裁選だったわけです。唯一有名校の河野さんはボロボロだったし。
大学まで見たって、やっぱり学歴なんかじゃない、と言うことか。やっぱり本当の学歴エリートは総理大臣なんて目指さないのか。それとも、東大卒なら小物でも総裁選出馬までいけるという意味なのか。皆さんはどう思いますか。
今回は人数が多かったおかげで、学歴厨にはおもろい総裁選でございました。統計見るにはサンプル数が多いに限る。私が学歴至上主義かどうかは皆さんにお任せします。
東浩紀の伝記を書く。ゼロ年代に二十代を過ごした私たちにとって、東浩紀は特別の存在であった。これは今の若い人には分からないであろう。経験していないとネット草創期の興奮はおそらく分からないからである。たしかにその頃は就職状況が悪かったのであるが、それはまた別に、インターネットは楽しかったのであり、インターネットが全てを変えていくだろうという夢があった。ゼロ年代を代表する人物を3人挙げるとすれば、東浩紀、堀江貴文(ホリエモン)、西村博之(ひろゆき)ということになりそうであるが、彼らはネット草創期に大暴れした面々である。今の若い人たちはデジタルネイティブであり、それこそ赤ちゃんの頃からスマホを触っているそうであるが、我々の小さい頃にはスマホはおろか携帯電話すらなかったのである。ファミコンはあったが。今の若い人たちにはネットがない状況など想像もできないだろう。
私は東浩紀の主著は読んでいるものの、書いたものを網羅的に読んでいるというほどではなく、酔っ払い配信もほとんど見ていない。しかし、2ちゃんねる(5ちゃんねる)の東浩紀スレの古参ではあり、ゴシップ的なことはよく知っているつもりである。そういう立場から彼の伝記を書いていきたいと思う。
東浩紀は71年5月9日生まれである。「動ポモ」でも援用されている見田宗介の時代区分だと、虚構の時代のちょうど入り口で生を享けたことになる。國分功一郎は74年、千葉雅也は78年生まれである。國分とはたった3歳しか離れていないが、東が早々にデビューしたために、彼らとはもっと年が離れていると錯覚してしまう。
東は中流家庭に生まれたらしい。三鷹市から横浜市に引っ越した。東には妹がおり、医療従事者らしい(医者ではない)。父親は金沢の出身で、金沢二水高校を出ているそうである(【政治番組】東浩紀×津田大介×夏野剛×三浦瑠麗が「内閣改造」について大盛り上がり!「今の左翼は新左翼。左翼よりバカ!」【真実と幻想と】)。
東は日能研でさっそく頭角を現す。模試で全国一桁にいきなり入った(らしい)。特別栄冠を得た(らしい)。これに比べたら、大学予備校の模試でどうとかいうのは、どうでもいいことであろう。
筑駒(筑波大学附属駒場中学校)に進学する。筑駒在学中の特筆すべきエピソードとしては、おニャン子クラブの高井麻巳子の福井県の実家を訪問したことであろうか。秋元康が結婚したのは高井であり、東の目の高さが分かるであろう。また、東は中学生時代にうる星やつらのファンクラブを立ち上げたが、舐められるのがイヤで年を誤魔化していたところ、それを言い出せずに逃げ出したらしい(5ちゃんねる、東浩紀スレ722の555)。
もう一つエピソードがあって、昭和天皇が死んだときに、記帳に訪れたらしい。
東は東大文一に入学する。文三ではないことに注意されたい。そこで柄谷行人の講演を聞きに行って何か質問をしたところ、後で会おうと言われ、「批評空間」に弱冠21歳でデビューする。「ソルジェニーツィン試論」(1993年4月)である。ソルジェニーツィンなどよく読んでいたなと思うが、新潮文庫のノーベル賞作家を潰していくという読書計画だったらしい。また、残虐記のようなのがけっこう好きで、よく読んでいたというのもある。三里塚闘争についても関心があったようだ。「ハンスが殺されたことが悲劇なのではない。むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったかも知れないことこそが悲劇なのだ」(「存在論的、郵便的」)という問題意識で書かれている。ルーマン用語でいえば、偶発性(別様であり得ること)の問題であろうか。
東は、教養課程では、佐藤誠三郎のゼミに所属していた。佐藤は村上泰亮、公文俊平とともに「文明としてのイエ社会」(1979年)を出している。共著者のうち公文俊平だけは現在(2024年7月)も存命であるが、ゼロ年代に東は公文とグロコムで同僚となる。「文明としてのイエ社会」は「思想地図」第1号で言及されており、浩瀚な本なので本当に読んだのだろうかと思ったものであるが、佐藤のゼミに所属していたことから、学部時代に読んだのだろう。
東は94年3月に東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学分科を卒業し、同4月に東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻に進学する。修士論文はバフチンで書いたらしい。博士論文ではデリダを扱っている。批評空間に94年から97年にかけて連載したものをまとめたものである。私たちの世代は三読くらいしたものである。博論本「存在論的、郵便的」は98年に出た。浅田彰が「東浩紀との出会いは新鮮な驚きだった。(・・・)その驚きとともに私は『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなったことを認めたのである」という帯文を書いていた。
郵便本の内容はウィキペディアの要約が分かりやすく、ツイッターで清水高志が褒めていた。「25年後の東浩紀」(2024年)という本が出て、この本の第3部に、森脇透青と小川歩人による90ページにわたる要約が付いている。森脇は東の後継者と一部で目されている。
東の若いころの友達に阿部和重がいる。阿部はゲンロンの当初からの会員だったらしい。妻の川上未映子は「ゲンロン15」(2023年)に「春に思っていたこと」というエッセイを寄稿している。川上は早稲田文学の市川真人によって見出されたらしく、市川は渡辺直己の直弟子である。市川は鼎談「現代日本の批評」にも参加している。
東は、翻訳家・小鷹信光の娘で、作家のほしおさなえ(1964年生まれ)と結婚した。7歳年上である。不倫だったらしい。98年2月には同棲していたとウィキペディアには書かれていたのであるが、いつのまにか98年に学生結婚と書かれていた。辻田真佐憲によるインタビュー「東浩紀「批評家が中小企業を経営するということ」アップリンク問題はなぜ起きたか」(2020年)で「それは結婚の年でもあります」と言っており、そこが根拠かもしれないが、明示されているわけではない。
そして娘の汐音ちゃんが生まれる。汐音ちゃんは2005年の6月6日生まれである。ウィキペディアには午後1時半ごろと、生まれた時間まで書かれている。名前はクラナドの「汐」と胎児用聴診器「心音ちゃん」から取ったらしい。ツイッターのアイコンに汐音ちゃんの写真を使っていたものの、フェミに叩かれ、自分の写真に代えた。汐音ちゃんは「よいこのための吾妻ひでお」 (2012年)のカバーを飾っている。「日本科学未来館「世界の終わりのものがたり」展に潜入 "The End ofthe World - 73 Questions We MustAnswer"」(2012年6月9日)では7歳になったばかりの汐音ちゃんが見られる。
96年、コロンビア大学の大学院入試に、柄谷の推薦状があったのにもかかわらず落ちている。フラタニティ的な評価によるものではないかと、どこかで東は推測していた。入試について東はこう言っている。「入試が残酷なのは、それが受験生を合格と不合格に振り分けるからなのではない。ほんとうに残酷なのは、それが、数年にわたって、受験生や家族に対し「おまえの未来は合格か不合格かどちらかだ」と単純な対立を押しつけてくることにあるのだ」(「選択肢は無限である」、「ゆるく考える」所収)。いかにも東らしい発想といえよう。
2 ゼロ年代
東の次の主著は「動物化するポストモダン」で、これは2001年に刊行される。98年から01年という3年の間に、急旋回を遂げたことになる。「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」はその間の論考である。
東はエヴァに嵌っており、「庵野秀明はいかにして八〇年代日本アニメを終わらせたか」(1996年)などのエヴァ論も書いている。その頃に書いたエッセイは「郵便的不安たち」(1999年)に収められた。エヴァ本をデビュー作にすることも考えたらしいが、浅田彰に止められたらしい。だから、サブカル本を出すというのは、最初から頭の中にあったのだろう。
「いま批評の場所はどこにあるのか」(批評空間第Ⅱ期第21号、1999年3月)というシンポジウムを経て、東は批評空間と決裂するが、それについて25年後に次のように総括している。「ぼくが考える哲学が『批評空間』にはないと思ってしまった。でも感情的には移転があるから、「お前はバカだ」と非難されるような状態にならないと関係が切れない」(「25年後の東浩紀」、224-5頁)。
動ポモは10万部くらい売れたらしいが、まさに時代を切り拓く書物であった。10万部というのは大した部数ではないようにも思われるかもしれないが、ここから「動ポモ論壇」が立ち上がったのであり、観客の数としては10万もいれば十分なのであろう。動ポモはフェミニストには評判が悪いようである。北村紗衣も東のことが嫌いらしい。動ポモは英訳されている(Otaku:Japan's Database Animals, Univ Of Minnesota Press. 2009)。「一般意志2.0」「観光客の哲学」も英訳されているが、アマゾンのglobal ratingsの数は動ポモが60、「一般意志2.0」が4つ、「観光客の哲学」が3つと動ポモが圧倒的である(2024年8月3日閲覧)。動ポモは海外の論文でもよく引用されているらしい。
次の主著である「ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2」までは6年空き、2007年に出た。この間、東は「情報自由論」も書いていたが、監視を否定する立場から肯定する立場へと、途中で考えが変わったこともあり、単著としては出さず、「サイバースペース」と抱き合わせで、同じく2007年に発売される(「情報環境論集―東浩紀コレクションS」)。「サイバースペース」は「東浩紀アーカイブス2」(2011年)として文庫化されるが、「情報自由論」はここでしか読めない。「サイバースペース」と「情報自由論」はどちらも評価が高く、この頃の東は多作であった。
この頃は北田暁大と仲が良かった。北田は東と同じく1971年生まれである。東と北田は、2008年から2010年にかけて「思想地図」を共編でNHK出版から出すが、3号あたりで方針が合わなくなり、5号で終わる。北田は「思想地図β」1号(2010年)の鼎談には出てきたものの、今はもう交流はないようである。北田はかつてツイッターで活発に活動していたが、今はやっていない。ユミソンという人(本名らしい)からセクハラを告発されたこともあるが、不発に終わったようである。結婚して子供もできて幸せらしい。
その頃は2ちゃんねるがネットの中心であったが、北田は「嗤う日本の「ナショナリズム」」(2006年)で2ちゃんを俎上に載せている。北田は「広告都市・東京」(2002年)で「つながりの社会性」という概念を出していたが、コミュニケーションの中身よりも、コミュニケーションが接続していくことに意味があるというような事態を表していた。この概念を応用し、2ちゃんでは際どいことが言われているが、それはネタなので心配しなくていいというようなことが書かれていた。2ちゃん分析の古典ではある。
東は宮台真司や大澤真幸とも付き合っているが、彼らは北田のように鋭くゼロ年代を観察したというわけではなく、先行文献の著者である。宮台は98年にフィールドワークを止めてからは、研究者というよりは評論家になってしまった。大澤は日本のジジェクと称されるが、何を論じても同じなのもジジェクと同様である。動ポモは彼らの議論を整理して更新しているのであるが、動ポモも「ゲーム的リアリズムの誕生」も、実際に下敷きになっているのは大塚英志であろう。
宮台や大澤や北田はいずれもルーマン派であるが、ルーマンっぽいことを言っているだけという印象で、東とルーマンも似ているところもあるというくらいだろう。しかし、ルーマン研究者の馬場靖雄(2021年に逝去)は批評空間に連載されていた頃から「存在論的、郵便的」に注目しており、早くも論文「正義の門前」(1996)で言及していた。最初期の言及ではないだろうか。主著「ルーマンの社会理論」(2001)には東は出てこないが、主著と同年刊の編著「反=理論のアクチュアリティー」(2001)所収の「二つの批評、二つの「社会」」ではルーマンと東が並べて論じられている。
佐々木敦「ニッポンの思想」(2009年)によると、ゼロ年代の思想は東の「ひとり勝ち」であった。額縁批評などと揶揄される佐々木ではあるが、堅実にまとまっている。類書としては、仲正昌樹「集中講義!日本の現代思想ポストモダンとは何だったのか」 (2006)や本上まもる「 “ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007」 (2007)があったが、仲正は今でも読まれているようである。本上は忘れられているのではないか。この手の本はこれ以後出ていない。需要がないのだろうか。
佐々木の「ひとり勝ち」判定であるが、そもそもゼロ年代の思想の土俵を作ったのは動ポモであり、そこで東が勝つというのは当たり前のことであった。いわゆる東チルドレンは東の手のひらで踊っていただけなのかもしれない。懐かしい人たちではある。
北田によると、東の「情報技術と公共性をめぐる近年の議論」は、「批評が、社会科学的な知――局所から全体を推測する手続きを重視する言説群――を媒介せずに、技術、工学的知と直結した形で存在する可能性の模索である」(「社会の批評Introduction」、「思想地図vol.5」、81-2頁)ということであるが、ゼロ年代の東はこういう道を歩んでいた。キットラーに似ており、東チルドレンでは濱野智史がこの道を歩んだのであるが、東チルドレンが全てそうだったわけでもなく、社会学でサブカルを語るというような緩い営みに終始していた。宇野常寛などはまさにこれであろう。
佐々木「ニッポンの思想」と同じ2009年7月に、毛利嘉孝「ストリートの思想」が出ている。文化左翼の歴史をたどっているのであるが、この頃はまだ大人しかった。ポスコロ・カルスタなどと揶揄されていた。しかし、テン年代(佐々木の命名)から勢いが増していき、今や大学、メディア、大企業、裁判所を押さえるに至っている。しかし、ゼロ年代において、動ポモ論壇と比較できるのは、非モテ論壇やロスジェネ論壇であろう。
非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり、本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田は消息が分からなくなり、小谷野も2017年頃から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」(2021年、教育學Permalink |記事への反応(13) | 17:44
俺は医局内でうだつの上がらない眼科医の父親と、同じくうだつの上がらない乳腺外科医の母親の一人息子として生まれた。
うだつの上がらない両親は医局内で粗雑に扱われており、かと言って開業する気概も資金もなく地方や郊外の関連病院を行ったり来たりしていた。
スポーツも不出来で両親と同じく気弱な俺が平穏な学生生活を送ることができたのは、幼稚園から高校までエスカレーターの私立男子校に進学したからだろう。
母校は俺が入学した時には既に開成や筑駒などに大きな差をつけられていたが、同級生には芸能人や経営者の子息がたくさんおり、彼らとの格差を感じずにはいられなかった。
高校を卒業した俺は1年間の浪人を経て都内の私立大学医学部に進学した。
部屋の先輩はスポーツ推薦で入学した他学部の学生であり、俺とは全てが真逆だった。
合コンに明け暮れ、大量の酒を飲み、それにも関わらず部活で結果を示していた。
先輩は善意から俺を合コンや遊びに連れて行ったが、お互いに気が合わないとわかってからはコミュニケーションも殆どなくなり、寮から出られる二年目以降は祖母の家に帰った。
大学を卒業した俺は東京を離れ地方の総合病院にて初期研修に入り、そのまま内科の道に進んだ。
当初は呼吸器の道に進もうと考えていたが、実習中に見た気管支内視鏡のおぞましさと患者の辛そうな様子を見てやめた。ちなみに内科のローテート中でもこの気管支内視鏡を目にするのが一番嫌だった。
妻は俺が女性経験がないことを知ると「その歳で…?信じられない…」とドン引きしていた。
結婚式の際、地方で代々事業を営み財力もあり顔の広い義父の招待客でホテルが埋め尽くされる中、隅っこで父と母が小さく座っていた。
結婚後、妻との営みは片手でちょうど数えられる回数しかなく、妻は俺の性的能力の低さを侮辱し俺は男性機能を喪失した。
そのため俺と妻の間には子供がいない。
完全な家庭内別居が始まり、消化器内科医として一人前になった頃にちょうど病床の母が亡くなった。
見舞いも拒む妻は当然葬儀の日にも予定を入れており、俺は一人で東京に向かった。
続く